
周吉夫婦は長男宅から、美容室をやっている長女「しげ」の家にいくことになる。長女の美容院があるところは、長男の家よりは中心に近いところにあるらしい。付近を都電や都バスが走るのが見える。
どういうわけか長女「しげ」はこの物語では、一番の「悪役」として描かれる。
実際なら両親が尋ねてくれることはうれしいはず、もし家庭の主婦として「嫁」に行った身の上であれば、夫や家族に遠慮もあろうと、思うのだが彼女は子供もなく、亭主はいわゆる「髪結いの亭主」、普段から女房のほうが実験を握っている家だから、夫への遠慮などはないはず。

ところが「しげ」は、久しぶりに会えた両親にかなり冷たく振舞って見せる、それが「隠れたとこでのこと」だから始末が悪く、関西風に言えば「いけづ」の性格を見事に演じた「杉村春子」はとても見事であるとしか言いようがない。
「しげ」の夫の方が気を使ってアレコレしようとするのを、ことごとく文句をつけるとこから始まる。
夫が美味しいからといって「饅頭」を買い込んでくると、そんな高級なのは必要ない。おせんべいで十分などと平気でいい。「きのうもおやつ、おせんべいじゃないか」と夫が言うと「おせんべいが好きなのよ」と、夫が両親にかこつけておやつに「饅頭」を買ってきたのを見透かしたように言う。
忙しさにかまけて、自分は何もしないにも拘らず、見栄っ張りでもあるから、人に何でも頼もうとする。戦死した弟=老夫婦の次男の妻「紀子」にさっさと電話し、「紀子」の会社を休ませてでも、東京見物に連れて行ってほしいと頼み込む。
この辺り、いくら「しげ」が自営業だから忙しいとは言え、「いやな娘」の、かなりオーヴァーな演出である。

周吉夫婦が熱海の旅館から予定より早く帰ってきた時、その姿を見ての娘「しげ」の顔つきには凄い物がある。この表情が出来るのは「杉村春子」しかいないであろう。
しかしこの辺りに「都会の色に染まりきった、・・・・田舎の出身だから余計にそうなるのかもしれないが・・・小津はこの辺りで「自分の資質をも変えないと、生きてはいけない都会の生活の厳しさ」あるいは「似非東京人の合理化された精神構造」のようなものを表現する。
江戸っ子は決してそのようなことはない・・・生粋の下町江戸っ子である小津が、そう訴えているかのようで、「しげ」の素行に対して、小津は・・・・「品性」までなくしてしまった人間に対しての嫌悪感をあらわに表現する。
ここに、「田舎者」にたいする小津の「隠れた差別意識」のようなものが見え隠れする。
銭湯に行くのに、そこの「汚い下駄を履いていけ」、といい(考えようによっては合理的)
美容室の客には自分の「両親を知り合い」と説明する。
夫が歌舞伎をに連れて行こうとするのを(おそらく拒否したのだろう)通常であれば、喜んで夫の行為に甘えるもの。

長男の家も周吉夫婦が長いできる空間はなかったが、「しげ」のところも、それは同じで、2階は住み込みの弟子が寝泊りする状態であった。
そこで「しげ」は兄と相談して、熱海へしばらくの間行ってもらうことにする。
これには理由があって、その理由とは仕事上の寄り合いでお客が来るためだということが後に判明する。
熱海から予定より早く帰ってきた周吉夫婦は、自分たちの居場所がなくなってしまったことを改めて知ることになる。
夫婦は、「宿無しになってしまった」といって、「周吉」は古い友人を尋ね、、「とよ」は義路の娘「紀子」野世話になろうと決める。いずれも、行き当たりばったり、「当てのないいわば放浪への出発」である。
旅に出て一番心配なことは、寝るところが決まってないこと・・・・そのような経験は小生にもある。

周吉夫婦は相手を訪ねてもよい時間になるまで、東京を放浪する。
そして周吉夫婦の目的は何一つ達成されぬまま東京での日々はむなしく過ぎることになる。
ただ一つ戦死した次男の嫁「紀子」が会社を休んでまで自分たちのために、東京見物に付き合ってくれて、アパートでお酒や・・・・恐らく「カツ丼」をご馳走になったこと。
後になくなってしまう周吉の妻「とよ」は紀子のアパートを再び訪ねることになるのだが、その時にも、いままで味わったことのないほどの「精神の安らぎ」を感じることになる。
小さくて狭いアパートの一室で、アレコレ・・・・亡くなった次男の話や、もう8年もたったのだからこの先、いい人を見つけて、結婚してくれないと心苦しい・・・という「とよ」に、
好きでこの間々いるのだから・・・・と義理の母を気遣う「紀子」
肉親でもない人間と枕を並べて添い寝する人間味あふれるような扱いをしてくれることへの感謝の念が沸いてくることだけが救いであった。
紀子の扱いの思いのほかのうれしさ、肉親の冷たさ、そんなものが一気にこみ上げ、「とよ」は布団の中で忍びなく。隣ででそれを「紀子」が察する時の紀子の顔のアップシーンは、思わずジーンと来てしまう。
16時間も掛けてやってきた老夫婦。落ち着く暇もなく、アチコチと自分たちの意にかなわないことで、引っ張りまわされ、肉体的にも、精神的にも疲れ果てた状態で真夏の込み合う冷房もない夜行で、帰路に付くことになるのだから、たいていの人は参ってしまうに違いない。
両親のことを・・・両親が欲していることを理解することなく、自分たちの都合と勝手な解釈で行動してしまった結果、後に母「とよ」を亡くすことにも繋がるなるのであるが、この長男と長女はそういう自分たちにもあった「落ち度」を一切認めようとしない・・・・そういう「合理化」された精神の持ち主になってしまっていることが最後まで描かれる。
そのような長男と、長女を見て末娘の「京子」が黙っていられなくなると、「紀子」が長男、長女の立場も分かる・・・・などというところは、この物語の本質の一つだが、それについてはまた改めて述べることにする。