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中山道を美濃路から近江路へ

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以前から気になっていたことは中山道の位置だった。
関ヶ原はたびたびの通過点で、そこを経由し、長浜や彦根あるいは近江八幡に向かうことが多い。

桑名からはR365で行き,名神高速道路の関ヶ原ICを経て、R21号に合流することになる。

そのたびに中山道は一体どこを通っていたのか気になっていたのであった。

そこで昨日は中山道を発見しようと、関ヶ原からしばらくR21号を西に向かうことにした。

R365とR21号の分岐点の信号からしばらくは、旧街道の街並みの面影が今も残っているから、恐らくはこれは旧中山道と同じなのだろうと思われるが、しばらくしてJRが走る陸橋を超えると、路は急峻となり、左右に見える集落のいずれかを、旧中山道は走っていたと思うのだが、わきに入り込む道路がみつからないまま車は過ぎてしまった。

それで、後続車に邪魔にならない程度にスピードを落として注意深くしばらく進むと、右の方角に小さな木製の標識を発見。

それには「中山道」と書かれてあった。

通常の車のスピードでは絶対に見逃してしまうような質素で小さい標識だった。

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車がようやくすれ違うことができるほどの道幅の中山道の入り口は、「柏原」。

この名前は小生の記憶の中にあって、その昔まだJRが国鉄と言っていた時代、東海道線の準急に「比叡」という列車・・・当然のことながら機関車で、名古屋から京都に向かう時に岐阜、大垣を停まってから次の駅が柏原だった。

柏原は多分通過駅だったはずなのだが、一生懸命に車窓を眺めていた小生は、通過駅の標識を記憶したのだろうと思う。

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昔は柏原は戦略上の拠点だったらしく、神社仏閣が多い宿場町の中では珍しいのだろう、城跡が残されている。

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ちなみに今回通過できた中山道の宿場街には、いずれも大きな神社やお寺があった。

しかし寂しいかな何れの宿場街も、かつての栄光の痕跡は無く、人通りはほとんどなく活気がない。
少し前ならそれでも商店街として繁栄していただろうに、昔からのたたずまいだけが往時を忍ばせていた。

中山道は現在R21号やJR,名神高速道路などでところどころ分断されていて、そのたびに出ては入りをくり返しながら進まなければならない。

再びの入り口を探すのに相当苦労が必要だが、どうにか「醒井宿」(さめがい)へ。

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ここは素晴らしい。
宿場街の景観がかなり残されている町だ。

宿場を疎水が通っていてその水は今でも相当奇麗で、「ハリヨ」という魚が生息するという。
上流部には昔から有名なニジマスの養殖場がある。

祝日には相当にぎわうと思われるが、連休後のウイークデイでは、全く人の姿を見なかった。
開いていた和菓子やで草餅と最中を仕入れた。

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最中は「忠太郎最中」と銘打ってあった。よく見ると忠太郎にちなみ、三度笠の形が入れられたものだ。


中山道は名神高速道路とR21号の間を通っていて、ここから次の宿場まではほぼ寸断されずに進める。

「鳥井本」宿は見過ごしたのか、R21号と同じ場所にあったのか定かではないが、長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公忠太郎で有名な「番場」を過ぎて、「高宮宿」に到着。

米原付近を通過するあたりで平行する国道は8号へと変化する。

高宮は周辺に多賀大社を抱える多分相当大きな宿場町だったであろう風情がある。
商店街もかなり立派だが、人は少ない。
現在の中心地、城のある彦根から少し離れるが、かつてはここが商業の中心地であっただろう。

高宮からしばらく中山道が続くが、今までのそれとは全く異なり、車の行き来がかなり多いので、運転が楽ではない。
離合のために停車しなくてはならないことしばし。


芹川を超えしばらく走ると・・・・関ヶ原からかれこれもう2時間はたっている。
以前小学校移転問題で世間をにぎわせた豊郷町を過ぎ、「愛知川宿」だ。

今思うとあの時車を停め、ウォーリーズの設計による小学校を見ておけばよかった。
彦根、近江八幡などの近江の町には、ウォーリーズの手になる建築物が多く残されている。

この愛知川宿も相当大きなものであったらしく、今でもそれらしき面影が残り、街道筋は両脇にはかつて栄えたであろう焦点の痕跡がある。
建物もまだ古いものが残っていて、商店街の目印の街灯もたっていた。

本当はさらに近江八幡まで行って、美味しい「ウイロウ」を入手する予定だったのだが、あまりにも時間がかかりすぎ、時計はすでに午後3時を示そうとしていたたことと、中山道がここで途切れたこと、そして出口がR8号線とぶつかったことで、急きょ予定を変更。

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疲れをいやすため彦根まで戻り「たねや」で甘味を所望することとした。
写真は「あんみつ」。黒蜜で注文。
通常は白玉だが、タネヤでは粟餅を使っていて、これがまた美味いのだ。

「たねや」の2階に展示された幻の「湖東焼」の壺。
これだけのものが現存するのは珍しいことだろう。
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今回の中山道巡りは、ほんの一部でしかなかったがこれで終わり。

旧街道はいすれも新興勢力に押されて消えゆく運命にある。
しかし往時の面影は細々と今でも残るし、何よりも貴重な存在であろうことは他言を待つまでもない。

新しい道路ばかりを作ることばかり考えないで、旧街道と街並み保存というだけでなく宿場町の両筋の古い建物を再生して、新しい街づくりを総合的にもくろむことを考えられないものだろうか。

旧宿名町同士が連合して、さらに大がかりな全国規模の旧宿場町町おこし・・・仕掛けるものはいないのでしょうか。

ここにはそういう試みも散見される今日ですが、街道筋単位での仕掛け・・・・あってもいいのではないかと思った次第でした。

by noanoa1970 | 2009-05-13 13:40 | 歴史 | Comments(0)