文化芸術源体験(白沙村荘)のこと-Ⅰ
1969年小生は友人の紹介で、京都銀閣寺畔の「白沙村荘」にてアルバイトをすることになった。
その少し前まで、「白沙村荘」は橋本関雪の住居として、ひっそりと、そこにあったのだが、彼の長男節哉氏の死去に伴い、その息子である故帰一氏によって一般公開された。
およそ3000坪の敷地には「池泉回遊式」の見事な庭園と、巨大な画廊の建物、持仏堂、中国大陸から運び入れた石造物の数々、鎌倉時代の石塔、五百羅漢などなどが、これも巧みに配置されている素晴らしい庭があった。
茶室は[憩寂庵]、[問魚亭]、[倚翠亭]と3つあり、関雪自らの設計の茶室で、庭を眺めての「茶」は、訪れた文人たちに至福のときを与えたに違いない。
小生が好きなのは「問魚亭」・・・中ほどの写真・・・である。
小生は、帰一氏の母君・・・・橋本関雪の長男、節哉氏の奥さん・・・・が開くことになった「お菜ところ」という京都の「お晩材料理」の店を手伝うことになった。
驚いたことに、アトリエとしての目的で建てられたその建物は、総ヒノキ作りで、天井には太い栗の梁、床はヒノキの一枚板が張り合わせてあった。建てられてかなりの時を経たにも拘らず、いま建ったばかりのような輝きとツヤを保っていた。
テーブルは庭園内に育った檜の大木を、厚い1枚板にして、出入りの大工「熊さん」が造作したもの。
小生はそこで夜のバイトを引き受けることになったのである。また庭園ではお茶の接待にと、何人かの女学生が交代でバイトに来ていた。
夜になるとお酒の席が多くなり、白沙村荘で昔から気に入って使っていたという濁り酒に「月の桂」、清酒には「藤千歳」、それを塗りのお酒を注ぐ器である「片口」・・・今風に言えばデカンタ・・・で提供することになっていて、お客さんは先ず竹篭の中から好みの酒器を選ぶようになっていた。
ある夜のこと「田鶴子」さん・・・小生たちは「おばさん」といっていた・・・が、「今夜は暇やし、いっぱい飲もうか・・・」といって「あんたも飲みよし」と、沢山あるぐい飲みを指して「好きなので飲んだらええ」といってくれた。
すでにおばさんは、手にぐい飲みを持っている、そのぐい飲みがいたく気になったので・・・いいですねそれ・・・というと、おばさんは、「小山先生が創らはったものや」と「この前くれはったった」といとも簡単に、さりげなく言った。
そして、小生が選んだぐい飲みを指して、「あ、それ魯山人や」というではないか。小山さんを知らなくても魯山人は知っていた小生、これはいけないと内心思い、他のぐい飲みに代えて飲んだことがあった。
とんでもなくすごいところにバイトに来たことを、身に凍みて感じた1コマである。
程なく、古い洋館を改装したピザとスパゲッティの店、
NOANOAをオープンすることになった。
by noanoa1970 | 2005-06-17 08:48 | 白沙村荘随想 | Comments(0)