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A River Runs Through It

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LDでオペラを見て来たついでに、映画を見ることにした。
この映画は日本で封切りとなるまで、首を長くして待ち望んでいたもの。
この映画に関する情報は「フライの雑誌」からであった。

当時・・・1980年代後半になって小生はそれまでやっていたゴルフから足を洗うべく、クラブを後輩に譲渡してしまい、自然の中に居るようで実は自然とは程遠いゴルフの世界から、もう少しワイルドな自然の中に入っていこうとした時期だった。

乗用車から四輪駆動車に変え、ゴルフクラブをフィッシングロッドに、キャンプ道具を積み込んで岐阜や長野の自然の中に入っていこうとした時だ。

フライフィッシングに目覚めたのは、理屈はいくつもつけらるが、実は他の釣りと比べて恰好よかったことだった。

フライ(水陸の昆虫に似せた毛針)を遠くに飛ばすには、かなりの訓練が必要だが、覚えてしまうと、きれいなループを作るラインとリーダー、その先のティペットに結んだ
フライが狙ったところに着水し、静かに水面を流れ、運が良ければ、渓流魚が水面下から突然水を割って現れ、フライを咥える。

フィッシャーマンは釣り場につくと水温や、周りを観察し、魚たちがいまどのような昆虫を食べているのかを予測して、そのために夜中ひっそりとタイイングした自作のフライを、予測のもとにフライボックスから取り出して、取り付けるのである。

フライフィッシャーマンはこのため水生、陸生昆虫の幼虫から成虫までの生活の特色と、色と形の知識を必要とされる。

数多くの釣りのスタイルの中では、最も釣りから遠い存在の釣りである。
釣果を求める古典的な釣りや、昨今流行りのスポーツフィッシングとも一線を隔す。

そのようなフライフィッシング情報はその頃決して多いとは言えなかったが、フライマンの中で人気があった「フライフィシングジャーナル」そして「フライの雑誌」からがほとんどだった。

最もそんな専門的な雑誌を読んで、ある程度理解できるようになったのは、シェリダン・アンダーソンと我が国のアウトドア生活の元祖的存在の田渕 義雄 によって書かれた漫画入りの解説本であった。
このようなハウツー本は面白くないものが普通だが、この本は全く違い、想像力をかきたてられるようにして、何回も繰り返して読むにいたった本である。

当時信州のログハウスでクッキングストーブを使いながら生活していた田渕 義雄、今どのような生活を送っているのだろうか。
彼も60をとっくに過ぎていることだろう。

不定期そして期間紙という出版サイクルであったが、それらの雑誌が発売されるのを楽しみに待つ日々は、かって毎月、毎期欠かさずに見ていた「レコード芸術」「ステレオサウンド」誌にかわって、小生にとってなくてはならないものとなっていった。

そんな中「フライの雑誌」の情報で、「もうすぐフライフィッシャーマンが主人公となる映画が来るらしい、フライマンは必見」などという情報を得ることとなり、しかもロバート・レッドフォード云々とあったので、期待が膨らむこととなっていった。

映画での釣りのシーンは少なくはないが、経験ではフライフィッシャーが登場するものは今まで見たこともないし、聞いたこともなかった。

「フライ」という言葉を聞くと、それがアジフライでもカキフライでもすぐに反応してしまうし、出張時に乗った電車から川が見えると、必ず川の様子を細かく観察する癖。
家族で旅行に行っても、川があれば停まって覗きこみ、いい川であればこっそりとロッドを出し、車の中で家族を待たすこともあった。

それまではものすごく嫌だった、体にまとわりついて離れない「うんか」あるいは「ゆすりか」を、渓流魚が最も捕食しやすい陸性昆虫と知り、何か愛しくなってもいった。
事実この「ゆすりか」の幼虫を模したフライでは、数多くの魚がヒットしたのだ。

時々街中で見ることができる「カゲロウ」が目にとまると捕まえて、それがどんな種類のカゲロウであるかを特定するのを楽しみにもしたし、魚が釣れると「ストマックポンプ」を使って、魚のお腹の中を調べて、今魚がどんな昆虫を捕食しているのかを調べるのが常となった。

そうするうちにその河川のある地方では、いつ頃どんな昆虫が飛び交うようになるのかということも大体予想がつくようになり、釣り人というよりミニ昆虫博士のようになっていくのであった。

そんなフライフィッシングマニアになりかけた時に、映画のことを知り、原作者の本が出版されるというので、出張先の神戸の地下街の書店に行くと、なぜか一番目につくところに目指す本が置かれていたので驚いてしまったが、それがノーマン・マクリーンの『マクリーンの川』で、映画が来るまでの間、その本を読むこととなった。

しかしどうも期待とは違い、あまりなじめなかったので、ザット読むだけで終わってしまったのは、その頃はあくまでもフライフイッシングに重点を置いての期待であったから、その割にはつまらないと感じたのだろう、返す返すも残念なことをしたと思っているが本はもう手元にはない。

フライフィッシングをやっていた時は、今の季節は来るべき日の水の流れをを夢に見て、一心にフライを巻いている(作成すること)ころ、渓流への思いが一番強くなるころでもあったから、それでそんなことを思い出しながら、「A River Runs Through It」を見ることにしたのだ。

映画の原題には必ず邦題がつけられているのが常であるが、不思議なことにこの映画にはそれがない。

最適な訳が見つからなかったのか、それとも原題そのままの方が、雰囲気が出ると考えたのか、よくわからないが珍しいことだ。

そもそも原作「マクリーンの川」→映画「A River Runs Through It」となっているのだから、映画の名前を「マクリーンの川」としてもよさそうなのに、そうしなかったのはなぜなのだろう。

「A River Runs Through It」という言葉の意味は、それだけですぐにわかるようだが、実は映画を見ないと本当の意味はわからないし、見たとしても、その解釈は恐らく多岐にわたることだろう。

それを狙ってのことであれば、象徴主義的手法のように思わぬこともあって、面白い試みのようにも取れる。

映画を再び見て思ったことは、以下のようなことであった。

スコティッシュ・アイリッシュ(スコットランド系アイルランド人) と呼ばれ、イングランドとカトリック双方から苦しめられた長老派は1700年頃から北米に渡っていったといわれる。
恐らくノーマン一家も、そのようなスコティッシュ・アイリッシュのカルヴァンプロテスタント長老派の移民を先祖に持つ、牧師なのだろう。

先祖は移民として大変な苦労をしたであろうが、物語のノーマン一家は、第一次大戦あたり裕福になって来た米国の田舎町モンタナではとりわけ、ワスプ(WASP)、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestant)として、エリート支配層の一員であったことも否定できないことは彼らの暮らしぶりでもうかがい知れる。

そして彼らにとって釣りとは、食べ物を得る手段であると同時に、「父親が子供に伝える精神と技術」としての先祖からの伝統の賜物であり、スコティシュとしての誇りでもあった。

物語の牧師もそうして親からフライフィッシングを習い、そして子供に教えたのだろう。

気位の高いスコットランド貴族の伝統文化の継承を見るような気がする。

彼らはむやみに魚を釣ることはなく、それはエスキモーやネイティブインデアンと同様、必要最低限の匹数、あとはリリースしているのだろう、映画では必ず一人1匹しか魚籠には入っていない。

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彼らにとってフライフィッシングは、彼らが毎日行う神への感謝の祈りにも似て、一つの「儀式」でもある。

この物語は原作者の自伝的小説で、モンタナのミズーリという町に住んでいた時の、家族の話を回想的に語ったもの。

作者の強い思いは、とりわけ若くして死んでしまった弟のことである。

何をやらせても常に自分の上を行く、自由奔放な弟、もちろんフライフィッシングは天才的才能を持つ。

敬虔な牧師の家庭において、そんな彼は異端児的存在でもあるのだが、兄と違い故郷のモンタナから外に出ない決心をしている。

その理由として物語からは、モンタナの自然が好きだということしか伝わらないが、どうもそれだけではないような気がする。

社交的で能動的、冒険心が強く、能力も高い弟だが、新聞記者をやっていたせいなのか、実は非常に社会的に開けていて、恐らく変わりゆく(映画は1910年から20年代のアメリカの田舎モンタナ州)故郷や近隣の州、そして形成されつつある大都市の問題が浮き彫りとなってくる予兆を感じていたのではないだろうか。

1850年から1919年の70年間で、移民の数は合計3000万人以上、年40万5千人にも達したという。

農村地帯では、人間の過剰と農地の減少で農業に従事できない人が増加したが、その反面都会では工業化が進み、専門性を必要としない労働者を必要とし、農村地帯と都市の格差が急激に深まっていた時代でもあった。

このような環境下で、農村から都会へ出ていく若者は多かったことだろう。
物語の主人公の弟は、そんな中、モンタナにとどまるが、昔の仲間は今ではもう少なく、両親の家からも出ての生活だから、あまり我々が感じることのない「農村での孤独」なるものを感じ始めていたのではないだろうか。

しかしモンタナの・・・かってインディアンたちが住んでいた自然の大地、そしてそれを象徴するブラックフットリヴァー。

映画の中でインディアンのガールフレンドを連れて、カフェに入り、カフェの主人からインディアンお断りを言われるが、強引に席を用意させたり、飲み屋でインディアンのガールフレンドが、差別的にからかわれるのに腹を立て、喧嘩をして留置場にぶち込まれるなどという面を見せる。

彼にとってネイティブインディアンは、尊敬すべき存在であるかのように描かれているし、人種差別の激しい田舎においては、リベラルな存在でもあった。

そのような若者を、この田舎は受け入れきれなかったのだろうか、彼の心はだんだん荒んでいく。
そんな中、唯一幼いころから父親と兄と3人そろってよく行ったフライフィッシングだけが、そんな心のよりどころであった。

弟の荒れる気持の理由がわからぬまま、何とかしたいと思う兄であったが、ある日弟からのフライフィッショングの誘いに、父親と一緒に向かう。

釣りをする弟の姿は、神々しさをも感じるほど、美しく優雅で、大物をしとめるが、それを最後に、それから間もなく賭けごとのいさかいで撲殺されてしまう。

弟が荒れ始めた理由もわからず、何もしてやれなかった自分。
小さかった良い時代のノーマン一家が、神の加護があろうはずなのにもかかわらず、バラバラになっていってしまったあの時代を、今は老フライフィッシャーマンとなった兄が、思い出深げに回想する。

川だけは、昔と変わらずに今も流れ続けているが、時代は大きく変わってしまった。

そんな感慨と昔の思い出、身近であるはずの弟を救えなかった自分の思いが入り混じる物語である。

小生はこの映画を見る事になったきっかけは、「フライフィッシング」であったが、映画では今をときめく若き日の「ブラッド・ピット」が出演したから、それを目当てで見た方もいらっしゃるだろう。

原作は冗長度が少し高かったから、原作から映画に行った人はそんなに多くはいないと想像されるから、この映画いったいどのような人たちが見るのだろう。
映画館の観客は少なく、きっとフライマンばかりではないか・・・そう思っていたが、「ブラピ」ファンと思しき若い女性がことのほか多かったのには、予想を裏切られ、少し恥ずかしい思いをしたことがあった。

by noanoa1970 | 2008-12-21 12:09 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(1)

Commented by 柴井博四郎 at 2020-06-17 22:28 x
「A river runs through it」は、モンタナの河が美しく、フライフィッシングも美しいです。最後の場面で老いた主人公が、こしかたを回想しつつ、大自然の森を流れる河に釣り糸を投げるシーンはやるせなく美しいです。その大自然のいたる所にあふれるように隠れている「it」に主人公は気がついています。