石黒宗麿の茶碗
先日訪問した白沙村荘で集まった人の中に、小生の直接の後輩になると思われる一人の女性がいた。
Iさんといい、彼女は白沙村荘のバイト仲間ではなく、その友人で、京都生まれの京都育ちということであった。
1970年当時のNOANOAにも来ていたというし、「ZIGZAG」というブティーク兼喫茶店のことも知っていたし、驚いたのは我々がよく連れられて飲みに行った浄土寺の「ヴェニス」というスナックのことや、「蝦夷」という北海道料理の店のこと、そして「夢二」という小料理屋のことまで知っていたのには驚いた。
当然小生の作ったピザを食べた経験があるというから嬉しくなる一方、大学の学部学科そしてなんとゼミまでが同じ先生であることがわかり、世間の狭さとそれを繋ぎ合わせてくれた白沙村荘の偉大さに恐れ入ったのだった。
話が彼女の交友録になって、興味があったのは、陶芸家「石黒宗麿」の唯一の弟子だった人物が大変な女好きであったということであった。
誤解を招くといけないが、小生の興味はそんな弟子の話ではなく、「石黒宗麿」という陶芸家のことである。
かなり前のこと、ブログ「NOANOA回想録」、「贋作」で、「小山富士夫」について書いたことがあったが、NOANOAで小生が彼のために作った「カブと牛肉のスチュー」を気に入っていただいて、お礼にと言って彼が愛飲するウイスキー「オールド・パー」と多額のチップを頂いたことがあった。
小山先生は白沙村荘と昔からの縁で、京都に来ると必ず立ち寄っていかれ、小生は数回お目にかかったことがあった。
「お菜どころ」には、小山先生のぐい飲みがお客用として使われていたのだった。
「石黒宗麿」を一番理解した人物、それが「小山富士夫」であるといわれている。
その接触の原点がいかなるところにあったのかは知る由もないが、小山略歴によると、「昭和2年 石黒宗麿と出会い親交がはじまる。」とあり、石黒略歴によると、「1927(昭和2年)34歳、京都市東山区今熊野に移住。隣家に住む、小山富士夫の裏庭に窯を築く。均窯・唐三彩・絵高麗などの中国陶磁器の研究を行う。」とある。
すなわち、この時期石黒は小山の隣宅に住まいし、小山の土地を借りて初めて自分の窯を持ち作陶をしたということになる。
その2年前、金沢で隣家の窯を借りて、作陶活動を始めたのは、石黒が故郷富山県射水から住まいを移した32歳のころだった。
石黒は1893年医者の長男として生まれ、20歳を過ぎたころから作陶をはじめ、父親の窯で楽焼を焼いたというし、轆轤技術を身につけたというから、陶芸の道に進むことを志したのは、陶芸家の中でも、かなり低年齢の時だった。
その後1936、43歳で石黒は京都左京区八瀬の地に窯を築くことになるのだが、恐らくこの石黒がまだ40代の終わりか50代はじめころ、石黒が住まいした八瀬から程近い修学院に小生の義父「無老」が住むことになった。
「無老」が30代後半の時期である。
「無老」は石黒と同県富山の福野という町の寺の次男として1906年に生まれ、日本画を志し、京都にでてきて方々流転の末修学院に住まいした。
木屋町の広東料理の名店、今は亡き「飛雲」にいわば食客として逗留、居候したのはその前のことだった。
「岡本」という好事家が修学院の鷺の森神社近くの閑静なところに、ギャラリーとして建てたものを譲り受け、住居兼アトリエとしたのだった。
「石黒」と「無老」の交友関係は直接はなかったようだが、どうも富山県人は、特に京都においては、横のつながりが強いと見え、富山出身ということで「無老」の日本画や水墨画の同郷の弟子が多く集まったから、石黒のことは耳にしていたのだろうと思われる。
「無老」から実際に聞いた話によると、石黒は自作の陶芸作品をリアカーに積んで、行商人のようにして、八瀬から京都市内に近いところ・・・すなわち修学院や一条寺、あるいは銀閣寺界隈にも足を伸ばしたのだろうか、生活のために作品を売りに歩いたことがあったそうだ。
「石黒宗麿」といえば、今では陶芸界の重鎮としてその名を知らない人はいない、人間国宝であるが、若い時はやはり相当苦労したのであろう。
そんな話とともに、小生に渡してくれたのが、この「茶碗」である。
世の愛好家のように「箱書き」などはなく、適当な箱に入れてあったのを貰い受けたのだから、鑑定価値はどうかとは思うのだが、そんなことよりも、とにかくこの茶碗、持ってみるとすぐにわかることなのだが、手になじむとはこういうことかと思うほどなのだ。
実際に使ってみて「無老」がこの作品を選んだ理由が、わかるような気がする。
「用の美」という言葉があって、石黒もやがて柳、河井寛次郎、濱田庄司 などとともに「民芸」の仲間入りをすることになった時期もあったようだが、「石黒宗麿」の作品は、小山富士夫のぐい飲みのように、実際に使ってこそ、その意味があるのだと思う。
小生の家の「茶」は流派はなく、「右千家」と小生が言っている自己流だが、この茶碗で立てるお茶は至福の味がするのである。
以前にも写真をUPしたが、デジカメの性能がよろしくなかったので、再度UPすることにした。
「宗」の刻印があるのがわかると思う。
by noanoa1970 | 2008-10-12 13:49 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)