昔の味・・・先斗町「ますだ」と三条木屋町「女波」など

学生時代に、町に出て飲むというと、「コンパ」が圧倒的であったが、それとは別に、裕福な先輩に連れられて、河原町に出て「ワインナック」とか「ワインリバー」などという、女性バーテンダーの居る・・今で言うパブのようなところで、カクテルを飲むことがたまにあった。

すでにその頃、「ハイ・ボール」という、いわば古典的な名称を使うことは、なんとなく避けていて、「ウイスキー・ソーダ」という方が格好がよいと思っていたので、小生は須らく「ウイスキー・ソーダ」ということにしていた。

定番の「ジン・フィーズ」も小生はどうもいやだったので、「ジン・トニック」と、他の人とは違うものをチョイスするようにしていたのだった。

中に日本酒の好きな、仙台で造り酒屋をやっていた人が居て、その先輩とよく行ったのが三条木屋町を少し上がったところにあった「女波」であった。

この小料理屋風の店は、学生と若手のサラリーマンでいつも満員の人気の店だったが、混んでいても、「満席」といって断られたことは無く、カウンターを挟んだ隣の部屋の一角を、まるで当たり前のようにして無く詰めると、難なく座てしまう不思議さがあった。

料理はカウンターの中の女将が作る。
他にバイトが2人ほど居るだけで、ワイワイがやがやと四方から話し声が聞こえてくるのだが、なぜか落ち着く場所であった。

あるとき向かいの席に、大学の文連サークルの集る別館・・・(多分映研)でよく見かける男たちが数人で飲んでいて、演劇論に夢中になっている。

中に先輩らしき男が居て、下の学年の男に言い放った言葉が、今でも耳に残っていて、何とはなしに耳に入ってきた、小生にとっても、かなり衝撃的なものだった。

「幼稚園児が、地球は丸いというような(聞いた風の)、・・・(本質を見ないで)、生意気なことを言うな」という、その男の言葉は、小生もそれを真似して使わせてもらうほどインパクトがあった。

店が空いているあるとき、カウンターの女将と話す機会があったが、女将は少し恥ずかしそうに、そして小生たちがよく、芸術論風なことを、呑むに任せてしゃべっていたのを、聞いていたのか、「今度演劇をやっているうちの息子が、初めてTVに出ることになった」というのだった。

そのTVは時代劇で、栗塚旭が土方歳三役、島田順司が沖田総司 役をやって、多くのファンを集めた「新撰組血風録」に続く、「燃えよ剣」だという。
放映は1970年だが、女将の話を聞いたのは、前年の1969年だった)

駆け出しの、ちょい役だというが、女将はとても嬉しそうだった。
(ネットで調べたがどこにもそれらしきデータが無かった。しかし小生は、確かに見た記憶がある)

女将は、こぎれいな着物に割烹着、丸髷に結った髪をいつもきれいにまとめた、少し垢抜けしたところがある丸顔の美人で、お客のあしらいも手馴れていた。

取り分け変わったところはない料理は「おばんざい」だったが、木屋町の小料理屋にしては、学生でもいけるような、破格の値段であった。

記憶では当時、酒は「剣菱」が置いてあったように思う。

「女波」(めなみ)は、女将「川口 なみ」さんの名前から、取られたものと聞くが、この「川口」さんは「川口正臣」=「近藤正臣」さんの母親である。

われわれがお邪魔したのは、今から40年前ほどのことだから、当時女将は40半ばあたりであろうか。
お元気であれば、80半ばを超えていることになる。

女波も時代に逆らえず、今はビルの中に収容されてしまったというが、代替わりしたでろうとはいえ、まだ健在なのは嬉しいことである。

今度是非OB会の2次会にでも訪問してみようと思う。


同じ頃先斗町に、(先斗町に行くことは、大手のコンパ専門の店に行ったときぐらいしかなかったが)、1969年から白沙村荘にバイトに入ってからは、局長の橋本帰一氏に、よく祇園界隈につれられていった。

そのとき大抵決まったように行くのが、先斗町の「ますだ」という割烹「おばんざい」の店だった。

この店で少し腹ごしらえをして「安藤たか子」という元祇園の芸子で、少し前まで11PMに大橋巨泉と一緒に出演していた、お色気のある日本的な女性の経営するバーに行くのがいつものことであった。

ハイライトが70円の時代に、サントリーオールドのボトルキープが5万円という法外な店だった。


その先斗町の「ますだ」は
店先の「タヌキ」と、それに少し似たところがある、名物女将「おたかさん」が、やっている、少しお腹が空いたときに、お酒と一緒に楽しめ、その頃では、祇園の「山ふく」と行き先を二分する店だった。

「おいでやす」と大きな声と共に、行き返りにお客の背中を・・・バシっと平手で目イッパイ、背中が真っ赤になるかのように叩くのが、女将の挨拶で、肉がついていた小生は、その痛さにあきれ返ったほどだった。

叩かれることが好きそうな、中年のM親父連中は、ニコニコしながら、嬉しそうに、叩かれるのだった。

小生はこの女将よりも、カウンターに並んだ、大降りの鉢に盛られた、見事な「おばんざい」の品々に目が行って、飲むより食べることに専念するのであった。

京女らしくは、到底思えないような、上品とはいえない女将から、一体どうしてこのような上品な味の、おばんざいが出てくるのか、不思議に思ってはいたが、作り方を他人に教えるような女将ではなく、いつもはぐらかされた印象がある。

料理を盛る大鉢は、かなり古手のものを使用していたと見えて、特に染付けの大鉢類は、料理と調和していたが、残念なことに、そこから小皿に分けられて供されるれるものは、全ての量がごくごく少なくて、小生はいつも不満だった。

当時は京都では珍しく「加茂鶴」しか置いてなかったと記憶するが、日本酒の嗜好が変化してきた今は、はたしてどうであろうか。


「おから」は「お菜ところ」でもそうであったが、水分を抜くために、丁寧に処理されていて、「月心寺」譲りかと推測されるようだったが、後で分かったことだが、やはり思った通り、村瀬尼から手ほどきを受けたと聞いた。

当時は、祇園界隈には、文人、芸術家、学者、演劇、映画監督などが入れ替わり立代わり来きて、この「ますだ」や「山ふく」にはかなりの(有名)人たちが、毎晩のように来ていたらしい。(らしいというのは、名前と顔が一致する人以外が、もっともっと多かったということである)

顔と名前が一致しない時代・・・情報量が少ない時代であったが、白沙村荘のおかげで、顔と名前を知るところとなった人たちを、大勢目撃したのが祇園界隈のこれらの店。

彼らとてまさか、しょっちゅう芸者を上げるわけでなく、祇園、先斗町という雰囲気の中で、しかも、安いが雰囲気のよい、居心地のよいところで飲むという、生活の知恵が身についたのだろう。

橋本帰一氏は、橋本関雪のただ一人の直系の孫だから、関雪ゆかりの人たちとの面識がかなりあって、いろいろな場所で挨拶を交わす人たちの、顔と名前を、小生も一致させるのに不自由は無く、なにか得をしたような感が有った。

先斗町の「ますだ」には、もう何十年も足を運んだことは無かったが、祇園の「山ふく」には数年前に白沙村荘の現館長と一緒に、昔よく通った故帰一氏を偲ぶ意味も有って、行ったことがあるが、この店は祇園の真ん中にあるにもかかわらず、昔と殆ど変化してないことに、驚きと感動をを覚えた。


舞妓芸子が、灯る薄明かりの中歩く花町祇園に、このような庶民的な小料理屋があることは、とんでもなく嬉しいことである。

京の「おばんざい」と、その周辺料理は、お酒呑みには、こたええられないのであろう。

月心寺のように、タップリと有れば、もっとよいと思うのだが・・・・ 

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by noanoa1970 | 2008-05-18 15:37 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)