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妄想古代史・・・八幡信仰の日本列島支配

大分県に金富(きんとみ)神社があり、八幡神、顕現の霊地
原始八幡信仰、創祈の遺跡とされる。
八幡信仰の八幡宮の総本社宇佐八幡の元宮として、知る人ぞ知る神社である。

祭伸は
品陀和気命・・・・応神天皇
足中比古命・・・・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)=仲哀天皇
:神功皇后の夫で応神天皇の父とされる
息長帯比売命・・・神功皇后
木花咲耶比売命・・神阿多都比売(カムアタツヒメ)水の神

中野幡能著『八幡信仰史』によると、その由来は以下のとおりであるという。

『3世紀のころ、現福岡県(規矩、田川、京都、中津、築城)の5郡の地域に豊の国があった。京都郡にあった辛島族は、南部の山国族と接触し融合、共同の祭神として”ヤハタノ神”を創祈した
その地は、綾幡郷(椎田町)の中央にあり、ヤバトヨ、ヤバタ、ヤハタと呼ばれた
この社が、矢幡八幡宮であり、この金富八幡宮は、その古代宮址である』


3世紀といえば、いまだにその在り処が、九州か、近畿かでもめていて、解決しないあの「邪馬台国」が存在した時代である。

中野幡能の「原始八幡信仰」の元祖が上記のようであるとすると、そこから面白いものが見えてくる。

これは小生の「古代史妄想」であるのだが、八幡信仰は農耕神、海神、そして鍛治神の3つを柱にする信仰とされるが、このことはその発祥が、海人、農耕民族である東南アジア渡来人、そして金属精錬技術を持って朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきた北方系渡来人が、現福岡県の綾幡郷を中心に混血し合い、群落・・・国を形成し、やがて九州南部の部族を統合して行った様子が伺える。

部族統合の錦の御旗とでも言うべき大義名分が、文字通り「旗」で、これが多くの部族を巻き込んだから「八」の「旗」つまり「八旗」→「八幡」に転化したのだろう。
祭り神を海神、農耕神、鍛治神としたことも、それまで支配的であった蛇信仰も、3つの神がいずれも「水神」に関係することで、合意を得たものと思われる。

小生はこれらのことから、大胆不敵にも、「邪馬台国」とは、八幡信仰部族の連合国家であるという妄想を抱いてしまう。

所謂「邪馬台国」は、「邪馬国」でも「邪馬国」でもなく、「八幡の1国」すなわち八幡信仰の部族の中の強大な国で、魏志倭人伝の作者が、ヒアリングした時に、YAW(H)ATAKOKU、あるいはYAW(H)ATAIKKOKU・・・八旗国、八幡国と発音したのを聞き間違え、漢字表記して「邪馬・・国」として書いたのであろう。

元宮の綾幡郷から発展し、宇佐に本拠を構えることになった八幡族たちは、北から南からの物資を運ぶ交易のため、海を渡り近畿地方までその勢力を強め、八幡信仰の宗教改革・・・キリスト教が非キリスト教種族を改宗して行った様に、やがて近畿地方にも八幡信仰を広め、それが「邪馬台国」→「八幡国」→「大和」へと変化しつながっていったのではないか。

当時の日本列島は、太古渡来人である縄文人と中古渡来人、そして新渡来人たちの混合種族が入り乱れる土地で、それらが混合離反を繰り返しながら、日本列島を東に進んでいった。

2から4世紀はこれらの過渡期で、朝鮮半島極南部と北九州を中心とした新渡来人系統の部族国家と、中南部九州地方の太古渡来人と、中古渡来人の混合部族国家、そしてそれら新渡来人と余りソリが会わなかった、太古渡来人たちが移動して行った中国地方の国家があり、やがて九州中部南部の八幡信仰の連合国家が、近畿地上に勢力を強め、土着の古代渡来人たちの部族を、懐柔しながら、時には戦いながらやがて大大和政権を作ることになった。

八幡信仰による日本列島支配の構造こそが、「大和国家」の根幹で、最後まで抵抗したのが、生粋の古代渡来人の部族・・・極南九州の隼人族、熊襲族、巨大な出雲と、信濃、そして北から渡来したアイヌ、蝦夷などのツングース民族部族国家であった。

八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるというとおり、日本全国いたるところにある八幡神社であるが、島根県、鳥取県には3社と2社、合計5社を数えるにとどまり、岡山で4社、長野県、滋賀でも3社を数えるにとどまる。
三重、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄では各1社しかなく、北陸の福井、石川、富山、新潟、では1社か2社どまりである。

しかし他の地方では、例外もあるが、北海道でさえ大小入れると、約50社あるし、新潟を除くと東北地方では数十社を数えるほど存在する。

勿論八幡神社といっても、直接宇佐八幡の系統だけではなく、例えば鎌倉の鶴が丘八幡系統のほかもあるから、断定は出来ないにしろ、どうやら、八幡信仰以前に強力な信仰があった土地には、八幡神社が少ないように思える。

極南九州、出雲、信濃、北陸は・・・そして奈良も含めこのあたりは古代渡来人の豪族達の部族が強力な土地であったと水されるし、逆に熊野の地和歌山に八幡神社が多いのは、九州の八幡信仰の八幡国が上陸拠点としたのが紀伊半島南部の熊野付近で、そこから近畿地方へと進出したことを思わせるようだ。

熊野に勢力を持った部族は、長脛彦に象徴されるように、激しく抵抗したのだろう。
懐柔策に失敗した八幡国は、彼らを殲滅し、彼らの信仰の跡地を八幡神社として新しい神を祭るとともに、古神の祟りを封じ込めた。

「邪馬台国」は「八幡国」のことだった
そんな妄想が大いに沸いてくるのであった。

by noanoa1970 | 2008-02-15 12:42 | 歴史 | Comments(0)