一体何を
マルウォルドロンの「レフト・アローン」をJ・マクリーンと峰厚介それぞれのASで聞いた。
演奏比較をと思っていたのだが、ネットに以下のような記述があるのを発見。
思わず噛み付きたくなって、演奏比較については後述することにした。
こういう輩が、自らをJAZZの専門家として、JAZZを語る(のでなく、その周辺を語っているに過ぎないのだが)のを見ると、とても寂しくなってきてしまう。
「イヤーもうベートーヴェンの5番の交響曲は聞き飽きたよ」などとクラシック通ぶる人種の、底の浅さを見せ付けられたようで、とても嫌な気持ちだ。
JAZZに関しての執筆活動をし、自らのライブをやり、ブログやメルマガをもやっている「某」・・・
一瞬、ブラックユーモアなのかと思ったが、読み進むとそうでないことが良く分かった。
この人物、プロのフリをしたアマチュアディレッタントに過ぎない。
以下は抜粋だが、この3倍以上の長きに渡り、JAZZファンの、しかも自分自身でコアなファンと思い込んでいる男の、コンプレックスが滲んでいて哀れなほどである。
この人物「某」のような人種が増殖しないよう強く望むものである。
「ブラックユーモア」か、「冗句」のつもりならいいのだが・・・そうはどうしても思えないところが厄介である。
ライブ演奏の再、客に対してもこのようなスタイルを求めるかの姿勢が大であろうから、危険ですらある。
プロフェッショナルに徹しているのなら、このようなことは決して言わないということが、経験的な小生の把握だ。
≪ジャズ喫茶のたしなみ方≫
「ねぇ、『レフト・アローン』かけてよ」
とリクエストした客。
いや、リクエストするのはいいんだけどさ、
リクエストしたら黙って聴けっての。
べらべらシゴトの話をするでない。
その人にとっては、レフト・アローンを聴きたいんではなく、
「開店一日目の店で、俺、レフト・アローンをリクエストしてさぁ」
というネタ作りのための“個人的イベント”だったのかもしれないけど、
聴かされる私の身にもなりなさい(笑)。
嫌いじゃないけど(好きでもないけど)、
ワタシ、ジャズ喫茶でバイトしていた時代から、
もう数千回も聴いているんですよ、このアルバム。
数千回というのは冗談だけども、
何度聴いても不思議に飽きないチャーリー・パーカーのどこまでも抽象的で透明性の高い演奏と違って、演歌の要素の強いこの手の曲は、飽きるのも早いんです。
流行歌といっしょでさ、キャッチーだけれども、そのぶん、聴けば聴くほど懐メロ的に退色しやすいジャズの一つがレフト・アローンなのです。
しかも、レフト・アローンという曲は、聴き手にセンチメンタルな気分を強要するところがある。
だから、センチになりたい人には格好の音響小道具かもしれないが、そうでない客にとってはカンベンしてくれ、泣きたきゃ外で泣け、なのであります。
もっともリクエストしたお客さんは、泣きたいわけでもなく、聴きたいわけでもなく、
“ただリクエストしたかっただけ”
なのだから始末に悪い。
マクリーンのアルトサックスはそこそこイイんだけれども、もっといい演奏をたくさん知ってしまった身には、忍耐を強いられるリクエストでありました。
ジャズ喫茶でレフト・アローンをリクエストする行為って、
ワタシ的な美学からすると、とっても恥ずかしい行為なので、なるたけやめましょう(笑)。
少なくとも通ぶりたい人は絶対に避けるべきでしょう。
by noanoa1970 | 2007-10-14 10:03 | トピックス | Comments(0)