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(良い天気だから)「雨の庭」でも聞いてみよう・・・

ドビュッシーのいくつかの作品に「もう森には行かない」というフランスの童歌が使われていて、その童歌のルーツが、恐らく「グレゴリオ聖歌」に有るというエントリーをした。
童謡が使われた作品中、「雨の庭」を聞いてみる。
しかし、聞き込むにつれ、何か不思議な感覚を得ることとなった。
通常この曲は、フランスの庭園の雨を想起させるものという解釈が圧倒的であり、中には「雨」からヴェルレーヌを持ち出すものもいるほどだ。

「巷に雨の降るごとくわが心にも涙ふる」
「しとしとと街にふる雨は、涙となって僕の心をつたう」

ヴェルレーヌの「雨」が心象風景の象徴のように扱われ、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの身にしみて ひたぶるに うら悲し」に通じるような感触があるのに対し、ドビュッシーの「雨の庭」は、けっしてそのようなイメージを想起させない。
何度聞き直してみても、それらとは違う次元の音楽的印象が、そこにあるように思われた。

何しろ「明るい曲想」なのだ。

そして突然のように思ったのは、この音楽は「雨」ではなく、「庭」により比重があるのではないかと言うことであった。

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小生の聞いたのは「サンソン・フランソワ」なので、彼独特の演奏解釈があってのことかもしれないと思い、他の演奏も参考にしたが、細かい違いこそあれ、大枠の印象は「フランソワ」と同様のものだったので、楽譜サービスサイトからこの曲の楽譜をDLして、見てみると最初の演奏指示に「Net et Vif」とあるのを発見した。

それが意味するものを探っていくと、思わぬことがわかったのである。
あるサイトに明快な答えが存在するのを知って、喜び勇んだ。
つまり、"net et vif" は、取り敢えずは、ドビュッシーがピアノ曲 [雨の庭] に付けた、曲想指定と云うことになる。定訳があるかもしれないが、あえてここで翻訳するとなると、「鮮明かつ素ばやく」とか「鮮明かつ快活に」ぐらいだろうか。
「net et vif」≒「鮮明かつ素ばやく」とか「鮮明かつ快活に」であるとブログ「nouse」の筆者は言っているのである。
もし、上のとおり、それが正しいことでであるならば、「サンソン・フランソワ」の演奏はまさにドビュッシーの指示通りということになる。
道理で、「雨の庭」からの音楽的印象は、「ヴェルレーヌ」の詩の印象とは全く異なるはずであり、小生が「雨」≧「庭」ではなく、「雨」≦「庭」のように感じたわけであった。

「雨」を喜ぶ「庭」・・庭の緑の樹木や草花、しおれかけていた植物が「雨」によって生き生きとしだし、葉っぱの緑も一段と艶を帯びて色鮮やかに変身する。
「もう森には行かない」の理由の刈られて萎れかけたローリエ(月桂樹)でさえ、雨の力で甦るような・・・
子供達の歌「もう森には行かない」を挿入した「諸相」を改作して、「雨の庭」としたのにはそのような理由があったのか、と思わせるようである。

またこの「雨の庭」には、もう一つ童歌が使われていて、それは下記のようなものである。ごく単純なメロディで、一度口ずさんだら忘れることが無いほど、優しい、愛らしいもの。
なるほど、「子守唄」として使われるのも至極納得である。

「移動ド」だが、わかりやすく紹介しよう。
この音型が「雨の庭」冒頭で出現し、「もう森には行かない」は、後半に登場する。
簡単な内容の歌だから、下の単語の訳で、意味がわかる。


≪berceuse≫・・子守唄
Do-do
ミド
L'enfant do
ミミド
L'enfant dormira bien vite
レミファレミソミド
Do-do
ミド
L'enfant do
ミミド
L'enfant dormira bientôt
レミファドソド
「berceuse 子守歌  
dodo ねね  
l'enfant 子供
dormir 寝る」

終曲に向かう「アルペジオ」には、「雨」の、そしてそのせいで生命を取り戻した「庭」の樹木や草花のヴィヴィッドな感性が現れているように思われてくる。


≪『雨の庭」幻想≫

雨が降ってきて、だんだん勢いを増してくる。
こんな雨では、傘も持たない私は、外出さえ出来ないでいる。
さっきまで聞こえていた、あの「Children's Corner」で遊ぶ子供達の童歌も、もう聞こえなくなってしまった。

私は黙って窓辺に立ち、下の坪庭を眺める。
どこからとも無く、お母さんが歌う「子守唄」が聞こえてくる。
晴れていれば、どこかの屋敷の大きな庭園を眺めることも出来るのだろうが、今の私には、この小さな坪庭しか見ることができない。

そういえば少し前に私は、先ほどまで聞こえていた、子供達の歌・・・「もう森には行かない」をモチーフとした曲を書いた。

こうしていても仕方が無いから、聞こえていた「子守唄」:「berceuse」を加えて、雨が降る庭から想起する音楽を・・・以前作った「諸相」を改変して作り直してみよう。

どこにもいけない、いやな雨だが、それは人間が勝手に思うだけのもので、ことに
「春の雨」は、大地にとっても、樹木や草花にとっても恵みの雨だ。
萎れかけた植物も生き生きとしだし、ほら大地の香りも漂ってくるではないか。
この土の香りは、かつて私が少年時代に体験したものと同じもの。

刈られて、萎れてしまったローリエも、雨の力で生命を取り戻し、新芽を吹くことだろう。そうすれば子供達は、また森にいけるのだ。

大地を潤す春の雨は、まるでお母さんが優しく赤ちゃんを眠りにつかせるような・・・「berceuse」:Do-doの子守唄のようだ。

そう、大地や樹木草花にとって雨は、いやなものではなく、天からの恵みそのものなのだ。

そう考えると、この音楽的表現は、思うより「快活で、明るく、ヴィヴィッド:」で無ければならないから、「net et vif」という注釈をあえて付けておこう。
この意味をわかってくれる人は、そうはいないであろうが・・・・

上記、あくまでも「雨の庭」を聞いて想起した小生の音楽的「幻想である。

by noanoa1970 | 2007-05-08 09:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)