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帰去来兮のモーツァルト

前回では「蕎麦屋」の話に終始してしまって、「モーツァルト」と「蕎麦」のつながりが消えてしまった感があった。
モーツァルトは子供から大人まで、素人からプロまでその音楽を演奏したり、親しむことは可能である。
まして、プロのピアニストであれば誰でも大抵はそつなく弾いてみせる。
がしかし、あまたある演奏の中で「これぞモーツァルト」と呼んでもまったく問題の無い優れた演奏はというと、これが総ざらに無いのも事実である。

手打ち蕎麦も、また同じで、誰にでもできるが、諸手を上げて賞賛できる「蕎麦」にお目にかかれることは、めったに無いのである。
モーツァルト演奏も蕎麦も、ほんの些細なわずか1点の瑕疵で、全てが台無しとなる。それはそれは怖い存在であることに気がつくことが最近富に多くなってきた。

ギレリス&コンヴィチュニーのモーツァルト、ピアノ協奏曲21番を何回聞いたことだろう。カサドジュやゼルキン他も聞いたから、かなりの時間と数になる。
21番をこんなにまとめて聞いたことは、かつて無いことであった。

この曲、小生は特別好むわけではなく、若い頃には映画の影響もあって、2楽章がとっても気に入っていて、その楽章だけを聞いていたこともあった。
しかし年月とともに好みが変化したのと、全集の録音がしかも安価に出るにつれ、後期の作品はもとより、10番未満の作品や、20番未満の作品を聞くに及び、今まで聴いたことの無かった作品群にもすばらしい曲があることがわかると、21番を聞くことからは1歩距離を置いてしまうことが多かったのだ。

まして、2楽章をことさらラフマニノフのように甘ったるく、情感タップリと弾かれてしまうと、・・・ただでさえそのようなメロディラインであるから・・・・聞いていて何かしらこそばゆく、映画のシーンが必ず登場することになる。

期待した、「新即物主義的」と世間で言う「セルとカサドジュ」の組み合わせでも1と3楽章はすばらしく思えたが、この御大二人でさえ、2楽章の感情移入が鼻についてしまうのであった。(ただし、聞き及んだ他の演奏家のものよりは数段ましでは有る)
弱音器バイオリンをバックにしたピアノが、分散和音を背景に、これがモーツァルトなのかと疑うばかりの情緒的旋律を歌うのだから、意識した感情表質が帰って、この曲想を台無しにすることが多いのである。

両端楽章がまるでドイツマーチ然としているから、演奏家によっては、この2楽章を大きな変化の楽章として捉えたいと思うのは、わかる気がするのだが、小生にはこの美しい(すぎる)旋律線をことさらに・・・これでもかとばかりに弾かれると、こちらのほうが引いてしまうことになる。

そういう意味では最近のピリオドアプローチ・・・・ピリオど奏法の演奏は一目置くのだが、「フォルテピアノ」の音色を余り好まない小生には手放しで、その世界に進むことが出来ないでいる。

小生はモダン楽器使用のピリオド奏法・・・近年ロジャーノリントンがN響と演奏したモーツァルトも嫌いではないが、1950年代から60年代初頭に、ベルンハルト・パウルムガルトナーとザルツブルグ・モーツァルティウム管弦楽団が演奏したモーツァルトの後期交響曲、そしてフランツ・コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したベートーヴェン、シューマンの交響曲のような「ヴィブラートレス奏法」の演奏をかねてから好んできた。

そして21番の協奏曲の出来映えは
結論から言えば、最初に思った小生の推理とは、良い方向への逆で、このサイボーグと大魔神のような二人の組み合わせからは想像を絶するようなモーツァルトを聞くことが出来たのだった。

ダイヤモンドや黄金という比喩は避けねばならないが、
銅Cu と亜鉛Zn の合金「真鍮」、しかも六四黄銅の黄金色を示す合金の頂点に位置づけても良いと、小生は思っている。亜鉛が40%銅が60%・・・・どちらが銅でどちらが亜鉛であるかはさておき、単独でのモーツァルト演奏では恐らく、個々まで極められた演奏にはならないであろうと思われるほど、このモーツァルトは素晴らしい。

初めて聞いたときに聞こえてきたベートーヴェンの影が付きまとうようなモーツァルトは、良く聞いていくとギレリスの用いたかでんつぁによるものが大きく、その印象が強かったこと、コンヴィチュチュニーのテンポ設定が予想に反し、ピリオドアプローチであるかのようなテンポで進み、それは2楽章においても、いささかも迷うことなく推し進められる。

ビブラートレスの弦の音色は透明感さえ漂い、ギレリスの硬質だが決して硬くは無い・・・・鮮烈な、しかしそれだけでなく、銀の鈴が転がるような音色。
シッカリとしたテクニックに裏打ちされたのであろう、意味の有る音の一つ一つが、慌てずに緩急極め連なる様を見せてくれた。

一瞬だけ、前のめりになるギレリスのピアノをバックのコンヴィチュニーが制御していく様子も窺い知れて、この「真鍮」のカップリングのモーツァルトは、小生にとっては、「黄金」か「ダイアモンド」以上の価値を持つに至ったのである。
21番の協奏曲・・・・他の演奏を聞かなくなったとしても、再びこの演奏に帰ってくることだろう。


WEITBLICK:SSS0065-2
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
 エミール・ギレリス(P)
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 フランツ・コンヴィチュニー(指揮)
 1960年11月3日モノラル録音(ライヴ)

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 Op.23
 エミール・ギレリス(P)
 ライプツィヒ放送交響楽団
 ヘルベルト・ケーゲル(指揮)
 1965年3月2日モノラル録音(ライヴ)


陶淵明の帰去来の辞の一説を引用して総括としておこう。

なんとなれば,自分の質性は唯自然を好む、・・・・

時には策を扶けて流憩し,時に首を矯げて天を仰いで遊観すれば,雲は無心にして岫を

出で,鳥は飛ぶに倦んで還るを知る,既に日影が暗くなるに及んで,孤松を撫して此処

に盤桓する。それは、恰も晩年の自分が、残った節操を守っている姿に似ているので、感慨無量である。

by noanoa1970 | 2007-04-11 15:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)