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高田渡の一周忌・・・黒田三郎『夕暮れ』

「夕暮れ」   詩 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやてったかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「夕暮れ」   曲 高田渡  黒田三郎の詩による
高田渡の一周忌・・・黒田三郎『夕暮れ』_d0063263_16404135.jpg

<原詩との大まかな違いを太字で示した>

夕暮れの町で
僕は見る
自分の場所からはみ出してしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
(彼は)ひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

その目が
この世の誰とも交わらないところを
(彼は自分で)えらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

雪の降りしきる夕暮れ
ひとりパチンコ屋で
流行歌(と騒音)のなかで
遠い昔の中と

その目は
厚板ガラスの向こうの
銀の月を追いかける
そうやってたかだか三十分か一時間

黄昏が
その日の夕暮れと

折りかさなるほんのひととき
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れの町で僕は見る
自分の場所からはみ出してしまった
多くのひとびとを

高田渡の音楽はその多くがメロディは「カントリー」「ブルーグラス」「ブルース」などアメリカの音楽を借りてきて、また歌詞は古今の詩人たちのものを借りてきた・・・いわば借り物で作られた音楽である。
人によってはそれを「盗作」めいた言葉で揶揄するが、しかし小生は、彼の音楽にいわゆる「オリジナル」以上の価値を見出している。

そもそも彼が借りてきたメロディの一つ「ブルーグラス」にしてもほとんどが「伝統歌」とされているし、たとえ作曲者が明示されていてもその多くが「伝統歌」を少々アレンジし、歌詞を付け替えたりして自分の曲としているものが多い。
そのことは「カントリー」にも「ブルース」にも当てはまる。

わが国で例えるなら、「木曾節」・・・「木曾のなぁー木曾の御嶽山は・・・」という民謡である。
この民謡のメロディは様々なスタイルがあり、中には「正調木曾節」というのさえある。
しかしどれが正式の=オリジナルのメロディかは定かではない。
考えればそれは当たり前で「伝統歌」などというものは、そもそも口頭で伝えられ記憶されたもの、いずれかの時に誰かが、あまたあるものの一部をとって楽譜に起こしたものだから、それもまた「one of them」なのである。

実際カントリーとブルーグラスで、演奏スタイルと歌唱法ならびに、歌詞を変えてはいるが、全く同じメロディを使っているものがあることを経験するし、中にはそのルーツを遠く「アイルランド」に求めなくてはならないものもある。

それらのことを考えると、高田渡の音楽には「盗作」などという側面はなくなり、そればかりか彼が借用してくる・・・いわば、彼がリスペクトした「詩人 たちの詩」に借り物のメロディをほんの少し編曲することによって遭遇させることによって、全く異次元の音楽へと変身させ、時には心の琴線を強く刺激するという事実に注目し、評価すべきだと思う。

彼は詩人たちのオリジナルを少し省略したり、一部を変更したりしているが、どれもこれも音楽の理にかなっているのと同時に、(ここが彼の隠れた才能なのだろうと思うところなのだが)「限りなく言葉を少なくすることで逆に言葉の重みを増す」・・・まるで自身が「詩人」であるかのようにオリジナルを変身させるのである。

この改編を「詩人」の許可を得てのことか否かは分からないが、少なくとも、小生が挙げた3つの「詩」に関して言えば、高田渡は成功したといえると思う。

上に「詩人」のオリジナルと高田渡の改変ヴァージョン両方を上げたが、その2つは微妙にニュアンスが違うところがある。
大きいのは詩人の時代背景と高田の時代背景の違いによる「感じ方」の違い。
例えば「はみ出した」と「はみ出てしまった」・・・・今流に言えば「’自己責任」比率の多い少ないの微妙な差が感じられる。

詩人の時代には「戦争」や「不況」で生活が暗いことはあっても、まだ人間不信はまだ余り感じない。
しかし高田の時代には高度成長期の人間不信という歪み、疎外感、孤独感、挫折感・・・そのような要素が強く感じられる。

パチンコで30分か1時間気を紛らしても、外は相変わらず激しい雪が降っている、パチンコを終わればまた再び、極寒の冬の夜の中に出て行かなくてはならない。
このまま暖かい場所に居たいのだが何もしないでここに居ることも出来ない。
・・・高田はどうしようもなく行き場を失った人間のどうしようもなさを、そのまま音楽にしている。
この辺りは高田のHOBOソング「生活の柄」「歯車」「ものもらい」「石」にも現れている。

一方詩人は・・・「誰でもあるつらいときは、ほんの一時でも気分を紛らわせることが救いである。そうして気分が少し晴れたら、もうおうちに帰りなさい、そうすれば暖かくお前を迎えてくれる人たちが待っているから・・・」「決してあきらめたり、悲観することはない、つらいのはお前だけではないのだから」・・・何とかがんばろう・・・がんばれば、未来は決して暗くはない・・・

高田の音楽と詩人のオリジナルからの受け止め方の違いをそのように感じている。

by noanoa1970 | 2006-04-27 18:53 | JAZZ・ROCK・FORK | Comments(0)