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「奥の細道」終焉の地

芭蕉の東北へ旅「奥の細道」の終焉の地は「大垣」である。大垣は岐阜県の西部、滋賀県との県境の城下町。ここは「水都」の別名を持つほど、「湧き水」が豊富である。「養老山系」、「伊吹山系」、などの「伏流水」が、そして揖斐・長良川、その支流の豊富な水量に支えられてのことであろう。
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町の中にはいくつもの、「水路」が作られている。
どこもかしこもがちょっとした憩いのスポットとなっていて、多くの芭蕉の句碑が建てられている。芭蕉は江戸を出発し、東北を回り、日本海側を通って、北国街道沿いに、「木之本」から「関が原」経由で、大垣に到着したのであろう。

「大垣」からは「水路」で「桑名」へ迂回、「桑名」から伊勢街道を経て、「伊賀」に戻ったという。
「大垣」に芭蕉の「奥の細道」終焉の地だけあって、芭蕉の「句碑」が数多い。
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芭蕉の北国ルート(金沢以北を割愛)で地名が分かっているのは以下のようである。
金沢→ 小松→山中→小松 → 大聖寺→松岡 →福井→敦賀→大垣
「敦賀」から「大垣」までのルートで考えられるのは、琵琶湖ルートと北国街道ルートがあるが、、琵琶湖ルートでの到着地点の「長浜」には芭蕉の句碑が余り無いから、「北国ルート」すなわち陸路で来たものと推測される。
そうであれば、「木之本」から山沿いに来て、伊吹山の裾野ルートで「関が原」そして「大垣」へと入ったのだろう。

敦賀から少し南に下がって、琵琶湖の北から船旅をしたほうが楽なのだが、芭蕉は何か理由があって陸路を来たものと思われる。「芭蕉忍者説」なども昔あったように思うので、この辺りを推理してみるのも、面白い。

名月や北国日和定めなき
(めいげつや ほっこびより さだめなき)
「十五日亭主の詞にたがはず雨降」

この句は北国=北陸敦賀を旅していたときに、詠んだ句である。
「弁当忘れても傘忘れるな」・・・というくらい北陸の天気は変わりやすい。
十五夜に月見でもと思っていたのだが、ひょっとして天気が変わるかもしれない・・・そんな亭主の言葉だった、でも内心大きな期待をしていたら、案の定期待はずれ、亭主の言うとおりになってしまった。・・・亭主の言葉どおりになってしまって、とても残念だ・・・「格言」にも有るとおり、北陸の天気は変わりやすいのを実感してしまった。
やはり地元の人の言うことは、道理にかなっている。
・・・・・・そんな風景が読み取れる。
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それにしても大垣は「水路」が多い。町の風情は、「柳川」をも思わせる雰囲気がある。
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大垣から桑名へは、水路を使ったといわれている。揖斐川で下ればかなり速く桑名の「七里の渡し」に到着する。「桑名」にも芭蕉の句碑は多い。
       

by noanoa1970 | 2006-03-17 17:46 | 季節の栞 | Comments(0)