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シューベルトの謎と秘密-4

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どなたでも知っているシューベルトの「魔王」、確か中学の音楽の授業でも取り上げられたと記憶する。子供が「魔王」を見て父親に訴える場面では、恐怖すら感じたことを思い出す。
このときの「魔王のシューベルト」に抱いた感じをもち続けたなら、苦労は無かったと今思うのは贅沢であろうか。そのときの感性は長い年月の間に「いわゆるシューベルト」の概念へと変化してしまった。「シューベルトの光と影」の「陰」の部分が実感として見えてきたのは、それからかなり時を経てからのことである。

さて歌曲「魔王」で魔王が子供を3回誘惑するところの最後のメロディと上記「未完成交響曲」の1楽章第2主題」は同じものである。・・・・これは正直自分では気がつかなかったこと。外国の音楽学者だったかが触れていたのを知って確認してみたことによる。「魔王」の該当場所が特定されていなかったので、少し苦労はしたがやがて其れと分かった。歌詞がついたものと、楽器のみの音楽、しかも調性が違うし、4拍子と3拍子の違いが大きく影響したので、今まで何回も聞いてきたのに気がつかなかった。
ましてや「魔王」は4つの人格の声の質を違えて歌いこんでいるため、曲に集中してしまうと、聞き逃してしまう。

この未完成の第2主題を表して「美しく、優雅な、甘い、やさしい、穏やかな」・・・などと形容するものが多いのだが、おかげで少し異なった感性を小生はそこに見つけることが出来た。
これは「魔王」「悪魔」「悪霊」の死への甘い誘いの旋律である「未完成交響曲」は2つの主題がいずれも、デモーニッシュ、1つが直接暗黒面を表出するのであるが、2つ目は一見「甘い幸福」を装っているからもっと性質が悪い。
「未完成交響曲」第2主題として引用された「魔王」の該当箇所の歌詞を見てみよう。
"Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt,
Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt."
わしはお前が好きだ、かわいい様子が気に入った、
一緒に来無けりゃ力ずくでも連れて行くぞ

「魔王」と「未完成」の同じ旋律を使うこと・・・このことは何を示唆するのであろうか。
歌曲「魔王」では(病気の?)子供を馬に乗せてどこかに連れて行こうとする父親と、子供が途中で見る「魔王」、そしてその甘い誘惑の罠、おびえる子供を「悪魔」ではないからシッカリしろといって諭す父親、試走する馬、その情景を語る語り部の4つの人格で構成されている。北欧神話から題材をとり、ゲーテが作ったものにシューベルトが曲をつけたもの。
最後に子供が息を引き取るところで曲は終わる。

さまざまな見方があるようだが、小生はこの物語に「北欧のゲルマンの神」がキリスト教文化によって「悪魔」に変身させられて、・・・・変身させたのはキリスト教(教会など)であるのだが・・・・キリスト教の三位一体=「父と子と聖霊」に反抗してなのか、子供の生命を奪う「悪霊」として登場し、本来ならば父親=父なる神が其れを防ぐべきところを、意に反し、変身させられ「魔王」となった「古代ゲルマンの神」によって、父親の権力=キリスト教的権威・権力がもろくも崩れ去る姿を想起してしまう。

子供が見た魔物はシッポがあるというからこの「魔王」とは「サタン」のことである可能性が強い。キリスト教以前の「神」・・・つまりキリスト教支配に都合が悪い古代信仰対象の神などは、ほとんど変身させられ、「悪魔」「魔女」「サタン」となったのである。
「ゲーテ」はこの物語の原型中に潜む「古代の歴史的ロマン」を見ていたのではないか?そしてシューベルトは彼の心象の底辺にある、「反父権」「反権力」「反教会」・・・「反キリスト教」的思想にのっとり、「ゲーテ」によって覆刻されたこの物語の奥に潜むものを理解し、其れを積極的に取り上げたのではないだろうか?
「キリスト教以前の文化」・・・例えば古代ギリシャ神話、古代ゲルマン神話など・・に対する憧憬言い換えれば、「母系性社会への憧憬」はこの辺りにも現れる。

シューベルトがゲーテを通してそこに見たものは、「父親殺し」「ミサ曲のクレド」「さすらい人リズム」「ダクテュロス調」等の集大成としての、「反父権」=「反教会」=「反キリスト教」であったのではないだろうか。しかし相手は絶大な権力を持つ相手に面と向かって対抗することは出来るはずも無く、そこから出てくるものがシューベルトの場合、「放浪」「さすらい」であった。
(「シューベルティアーゼ」もそうした概念でくくることが出来るのかもしれない)

このPTSD的な症状はシューベルトが若くして持っていた心の闇であり、その原因は、この世に永らえることが不可能な自分を見たときに始まったのではないかと思われる。

「未完成交響曲」に底知れない暗黒の部分やデモーニッシュな部分を感じることがあるのは、「魔王」のモチーフが第2主題として使われていることだけではなく、このような情念がいつもシューベルトの底辺に流れていたからに他ならない。

シューベルトは、チョット見で明るく感じられる曲でさえ、よく聴くと拭い去ることは決して出来ない悲しみを絶えず覗かせる。

「未完成」の「デモーニッシュな演奏」として小生は
ムラヴィンスキー/レニングラードフィルの演奏をあげたい。
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by noanoa1970 | 2005-11-08 09:15 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)