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父親の死と三羽の石碑について分かったこと

11月30日21時に父親「好治」が永眠した。
94歳の往生だった。
戒名は禅心軒碩学顕徳居士、臨済宗妙心寺派の林昌寺の前和尚によって生前つけられたものだ。
49日と納骨は2014年1月18日の寒い中行うことにした。
木曾駒高原にある墓は雪が積もってるかもしれない。
父親の遺品を整理しつつあるが、その蔵書の中に、あるものを発見した。
それは木曽教育委員会発行の「木曽」という書籍で、中に征矢野三羽の石碑に刻まれたものが明らかにされていた。

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昭和34年に造られたその石碑は、刻まれた文字の風化で判別がしにくくなっていたので、この書籍をスキャンしたもの意を掲載することにした。
それによると、征矢野の家は代々木曽原野村の庄屋で、第一次開発を手掛けた五代目征矢野孫左衛門は慶長四年と推定され、八代目征矢野勘左衛門が宝永三年ごろと推定される。
そして征矢野三羽は文政一〇年生まれで慶応三年には征矢野新田開拓をほぼ完成したとされ推定征矢野家の一〇代か十一代。
よって小生は約十五代相当になると思われる。

元号では年代がわかりづらいので簡単に西暦で記しておく。
慶長:1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。
宝永:1704年から1710年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。
文政:1818年から1830年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。

句碑と創建の理由は以下の木曽教育委員会資料に記載されてるのでここにあげておくことにする。


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by noanoa1970 | 2013-12-21 11:09 | 先祖のこと | Comments(0)