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「ザ・グレイト」終楽章コーダdim演奏を発見

昨日UPした「シューベルトの>」関連で。
「ザ・グレイト」の終楽章をdimで終わる演奏をひき続き探そうと、手持ちのものを聴いてきたが、予想しなかったものに、それがあった。

まさか、そんなことはないだろうと、最後の方に聞いた中にそれはあったのだ。

いままでかなり聴きこんだと思っていたが、実はそうではなく、数回の試聴であったから、見逃したのだろう。

それに加え、以前はこのことにほとんど関心がなかったから、チョットしたことで見逃してしまうほど微妙なところであるがゆえ、今回のように、ある目的をハッキリ持って望むのとは理由が違っていたのだ。

イストバン・ケルテス/VPOのCDは、「未完成」と「「ザ・グレイト」のカップリングで発売されている。
LP時代ではこのような組み合わせは考えられないが、CDとなってのメリットはこういうところにも現れ、特に「ザ・グレイト」のLPでは、感覚が高まりを覚える頃に、盤をひっくり返さねばならないから、緊張感が途切れてしまう。

それが良い場合の楽曲もあるが、「ザ・グレイト」のように、長いが途中で気を抜かずに聴けるものは、途中に何かを挟まないほうが良い。

CD時代となって喜ばしいのは、カップリングに自由度が出来、「運命未完成」「メンチャイ」に象徴される、レコード収録時間によって決定される組み合わせから、たとえば作曲順に収録したベト全や、同じ作曲家の作品、関連する作品、つながりを持つ作品などなど、カップリングに思想が現れる(無いものが多いが)ようになったのが、良いところだ。

ベトーヴェン9番にシェーンベルクの「ワルソーの生残tリ」をカップリングした、ラインスドルフ盤など、奥にある思想が読み取れるようなものまで出現できるようになった。
しかしこのカップリングの自由度を生かしたCDが、まだまだ少ないように思うのが残念である。

話がそれたが、未完成と「ザ・グレイト」の」カップリングは、最近ではよくみられるようになってきた。
ヨッフム/バイエルン放送響もそうであるが、これらは、長い時間にもかかわらず、いつも一気に聴き続けることが出来てしまう。

ケルテスの演奏は後日に譲るが、1楽章はアクセント出終わるが、終楽章はdimで終わるように
となっていて、念の為に聞き直したが、そうであることを確認した。

そして未完成はというと、1楽章コーダは一般的なdimで終わるスタイルであった。

不思議なのは、ケルテスが楽譜によったのかそうでなく自分の解釈だったかという謎。
1960年初期の録音だから、仕様楽譜は年代からいっても、旧ブライトコップフ版であろう。
楽譜の指示はdimだから、それに従ってのことにしておくのが最も適切だ。

しかし旧ブライトコップフ通りだとすれば、1楽章コーダでも、未完成1楽章コーダでも、dimを採用するはずであるが、ケルテスはアクセントでやっているから、全面楽譜通りでないことは明らかだ。

ケルテスが違う版を採用したのかと、調べると、1959に出版されたユニヴァーサル版という存在を発見できた。
ケルテスが録音したときには、出来たてほやほやの版だから、ひょっとして採用したのではないかと、更に調べると、>は、ほとんどアクセントになっているという。

ケルテスの録音は、1963年10月(「未完成」)、11月(「ザ・グレート」)との表記が正しければ、旧ブライトコップフとユニヴァーサル版の両方を採用することが出来る。

未完成は旧ブライトコップフで、ザ・グレイトをユニヴァーサル版で演奏した可能性もなくはないが、果たしてどうだったのか。

版の違いが、アクセントとdimだけでないことは、ある程度想像がつくのだが、どこがどう違うのかがわからないし、音響に差が有ったとしても、版の違いに寄るのか、指揮者の解釈に寄るものか、楽譜を揃えて聴いて確認しない限り分かることではない。

残念ながらここで素人の限界を感じることになってしまった。
未完成の1楽章をアクセントで終わる演奏は、未だ発見できないでいる。

コリン・デイビス/ボストン響の「ザ・グレート」も聞き直してみたが、最後の音を短く切っているが、dimトともアクセントとも言えない、微妙な終わり方だ。
まさか中間派ということはないだろうが、それよりも、全てのリピートをやったことのほうが面白い演奏になっていて、4楽章のリピートによるウッチャリのような、大どんでん返しがとても印象に残る演奏であった。

今日は追加情報でした。

by noanoa1970 | 2011-08-05 12:20 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(15)

Commented by Abend at 2011-08-05 21:48 x
sawyer様
「未完成」第1楽章のコーダについて、興味深い記事がありましたので、ご参考までに。
http://seiko-phil.org/tag/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88/
Commented by noanoa1970 at 2011-08-06 08:37
Abend さまおはようございます。
ご教示いただいたHP楽しんで読ませていただいています。
シューベルトのコーダもそうですが、それ以外にも面白い記事がありますね。演奏する側からの発言は面白いものが多く有るようで、聴くだけ人間には刺激的です。
Commented by Abend at 2011-08-06 19:45 x
sawyer様、こんばんは。
シューベルトの交響曲の校訂にブラームスが大きく関与していたのであれば、「>」をdimとしたのは、彼のロマン主義の反映と見なすべきだと思います。リンデンベルクがシューベルトの交響曲全曲を校訂したのかどうかはわかりませんが、dimではなくaccとしたのは、シューベルトをブラームスに至るロマン主義の流れの中で見ていなかったのかも知れませんね。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 00:12
Abend さまこんばんは
中々興味深い視点ですね。
>校訂にブラームスが大きく関与していたのであれば、「>」をdimとしたのは、彼のロマン主義の反映と見なすべきだと思います。
ブラームスのロマチンシズムは、古典主義への回帰から来るところに追うものが多いのではないかと思います。(ブラームスのロマン性は未だ捉えきっていません)
シューベルトはロマン派とされますが、ソナタ形式の呪縛から離れようとした後期と、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンというウイーン古典派の作風のそれまでの時代があるように思います。(オペラ、リートは考慮していません)ただ生存期間が短いたのと、器楽曲以外のウエイトが高いため、マージした期間があるようで、ひと筋縄では語れません。ブラームスがシューベルトを後期古典派とは見ず、ロマン派とした結果がコーダのdimというのは、彼以前の先達・・つまり古典派音楽では見られない現象で、啓蒙主義的音楽の・・・外に向かう音楽が特徴でaccが特徴であれば、その反特徴としてのdimの存在は悪くはないと思います。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 00:21
続きです
ブラームスはシューベルトを非古典派の音楽家とみなしたことになりますね。(ロマン派という認識があったかは難しいですが、シューマンから何らかの示唆を受けていたと思われます)
リンデンベルグは、シューベルトをソナタ形式の終焉者としては捉えず、複雑なソナタ形式、ブルックナーの前身と捉えた可能性あるかも知れません。あるいは古典でもロマンでもない「異端」として、独立の位置を与えたかったのかも知れません。ギリシャ神話への特別な憧憬をどう見るか。小生の持論ですが、シューベルトは古代ギリシャローマの神話の影響なおか、非キリスト教的な所が見受けられます。父親との確執、教会権力からの逃避、クレドの無いミサ曲、「魔王」の話、未完成と魔王の関係などからの推測です。
魔王に出てくる父親は、父親でもありキリスト教の父でもある。
魔王はキリスト教に追いやられた、古代の自然神。通常ならば、キリスト教の神が子供の為に、魔王を撃退するのだが魔王のほうが力が強かった。父と子と聖隷という根本教義が崩れるような気がします。ゲーテの元ネタは、北方ゲルマン伝説です。未完成1楽章2主題は、魔王の甘い言葉のメロディです。
Commented by Abend at 2011-08-07 23:04 x
sawyer様、こんばんは。
『魔王』はリートに分類されていますが、私はジングシュピールではないのかと思っています。シューベルトの歌劇も、台詞によって展開されるジングシュピールのようです。ウェーバーの『オイリアンテ』を「これは音楽ではない」と酷評したのはシューベルトですが、
フォン・ジェジーの台本の拙さに対してではなく、ウェーバーがこの歌劇で『魔弾の射手』にあったジングジュピール的傾向を脱し、台詞を歌にしたことに対してであったと思います。
フォン・ジェジーは、シューベルトに『ロザムンデ』への付曲を依頼して、また失敗していますね。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-08 10:25
Abendさまおはようございます。
>私はジングシュピールではないのかと思っています。
魔王は通常一人4役で歌われますが、4人で歌うものがあるらしく、(小生は未聴)そうなると、余計にそう感じるかも知れませんね。
魔王はもともとゲーテのジングシュピール「漁師の娘」のなかで、娘が歌う民謡あるいは古謡であるといわれますが、「漁師の娘」は、ハイネによって作詞されたものを、白鳥の歌にシューベルトが入れています。「漁師の娘」の原型は、北欧神話によるもので、ヘルダーが採取したものをゲーテが応用したとものと言われます。シューベルトの歌劇はタイトルが面白い「4年間の歩哨兵勤務」、「双子の兄弟」、ものが多いので、以前から聴こうとは思っていましたが、未だ実現しません。
Commented by Abend at 2011-08-08 22:47 x
sawyer様、こんばんは。猛暑の立秋です。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーの15分間試聴で『4年間の歩哨兵勤務』と『双子の兄弟』を聴いてみましたが、1トラック30秒間では何とも言えません。このライブラリーには面白そうなものが多いので、入会しようかとも思ってはいるのですが、まだ決断できずにいます。シューベルトの歌劇は殆ど上演されないのでしょうか。DVDがあればいいのですが。
シューベルトが自作に使ったドイツロマン主義の詩には、ゲルマン神話や民話といった非キリスト教的な題材を扱ったものがけっこうあるのですね。シューベルトは、『未完成交響楽』以来映画化された数の多い作曲家ですが、映画によって形成されたシューベルト像にはどうも馴染めません。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-09 08:46
Abend さまおはようございます。
NAXOSの会員にかつてなっていましたが、辞めてしまいました。しかし未知の曲を確認するのに非常に都合が良いので、再度登録しようと思っています。
シューベルトの非キリスト教的な傾向は、題材や音楽そのものにも現れています。反キリスト教までは行かないのだと思いますが。
現世と他人よりも早く決別しなければならない自分が頼れるはずの教会も父親もあてにならないことの表れではないかと思っています。古代ギリシャローマ、ケルト、ゲルマンなどの古謡に共感を持つのも、シューベルトの場合は、覗き趣味的なものではないのでしょう。勿論周りの詩人や著述家の影響もあるのでしょうが、現世肯定ができないシューベルトの理想郷といった所が伺えるような気がします。現世の嫌なところ、「墓掘り人」「今や肉体を埋めた」などのほか「墓」に関する曲は5~6曲書いています。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-09 08:46
小生はかねてから、「父親殺し(Vatermorder*)D.10」に注目していて、実際の父とキリスト教の父の否定があるように思います。シューベルティアーゼの友人が国家権力によって弾圧されたという話もありますから、ここでは音楽以外、政治についても話がされたのでしょう。
シューベルトに「反」の心が宿って行ったということは、想像がつくように思います。
Commented by Abend at 2011-08-09 22:47 x
sawyer様、こんばんは。
『父親殺し』がシューベルトの思春期の作品であることは興味深いですね。父性に対する依存と反発のアンビバレンツな感情が、キリスト教の父なる神にも向けられていたと思います。
4人で歌う『魔王』は、私も聴いたことがないのですが、父親と魔王を分ける必要はないと思います。北欧民話では、単に子供への教訓を目的とする寓話で、ゲーテはそれを闇に潜む超自然的な力として詩にしたのかも知れませんが、シューベルトが作品に使ったのには、やはり父性の持つ神と悪魔の二面性への思いがまずあって、それがゲーテの詩を選択させたのではないかと思います。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-10 03:14
Abend さまおはようございます。
昨日からレーヴェの「魔王」を絡めての記事を書いたのですが、不注意で今日半分以上喪失してしまいました。
チョット面白い視点だったので、呆然としたままで、再度書く気になっていません。「魔王」の出自は、デンマーク古謡で、アイリッシュ&スコティシュのバラッドとの類似性があることから、大きな勢力のもとで醸造されたものと思います。ゲーテと同世代の人物にヘルダーがいますが、彼によって収集され翻訳された古民話、神話が、ゲーテによって加工され広められたのを、シューベルト、レーヴェなどの音楽家は着目しましたが、レーヴェはヘルダーの訳詞に曲をつけました。ヘルダーが収集した民謡集にあるオールドバラッド「魔王の娘」または「妖精の王の娘」レーヴェはそれを「オルフ殿」とした。オールドバラッドの特徴の4行詩は音楽に都合が良いものだったのでしょう。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-10 03:17
ゲーテより5歳先輩のヘルダーが「民謡集」で影響を及ぼした人物は、ゲーテ、ハイネ、レーヴェ、シューベルトなど多岐に渡るようです。面白いのはシューベルトとレーヴェでは、魔王の詩の解釈が相当違っていて、そのことは音楽にも現れます。またレーヴェは5箇所で繰り返しをしていますが、シューベルトは、削除が1っ箇所有るという具合にも違います。子供が見た「灰色の柳の古木」、レーヴェでは「榛の木」であるかのように感じられます。ピアノ伴奏は、榛の木の葉末の音のようです。シューベルト=情景描写、レーヴェ=心理描写といったところでしょうか。ヘルダーが採取したデンマーク古謡とは北方ゲルマンの民謡で、それはケルトのオールドバラッドに引き継がれて行ったのだと思います。後にブラームスが曲にした父親殺しを題材とした「エドヴァルト」も同じルーツでしょう。(いずれもyoutubeで聞けます)
これらのことなどを書いていたのですが半分以上喪失してしまいましたので、気分が乗れば、再度書きたいと思っています。
Commented by ABend at 2011-08-11 00:49 x
sawyer様、こんばんは。
記事の件、残念なことです。いつか是非拝読したいと思います。
ヘルダーは、我が国でいえば柳田国男のような業績があったと思えますね。
『魔王の娘』では、この娘が婚礼前の青年を誘惑し、最後は変わり果てた姿を花嫁になるはずだった娘がみつけるというストーリーであることを勉強しました。ゲーテは、なぜこれを父ー子ー魔王のストーリーに変えたのかが興味深いですね。『民謡集』での形のままであれば、シューベルトは自作に使わなかったかも知れませんね。一方で、レーヴェは『民謡集』の「魔王の娘」によって作曲し、この娘ではなく誘惑されて死に至らされる青年オルフ殿を作品名としたのも面白いですね。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-11 08:46
ABend さまおはようございます。
「魔王の娘」(オルフ殿)は、アイルランド古謡の「ロード・ランダル」によく似ています。http://sawyer.exblog.jp/2159879/
ヨーロッパ各地に同じような民話が有るといいますから、恐らくは「ケルト」の古民話であるかも知れません。
「緑の森」=禁断の森で、魔物のすみかというのが前提にあるようです。ゲーテの魔王では、「樹木」が森の代わりをしていると考えられますが、ゲーテはヘルダーからの受け売りですから、そのようなこと・・樹木の精=魔王とは考えつかなかったのでしょう。
ヘルダーがせっかく樹木に託した魔王の正体は、ゲーテによって、違う方向にされてしまったのではないでしょうか。「柳」は少しおかしいと、」小生が思う根拠はそのことから来ています。