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シューベルトの「>」から

シューベルトの自筆譜には紛らわしい記号の表示があるという。
シューベルト自筆譜の、>の表記が大きくて長いために、一番古いブライトコップフの楽譜(旧版)では、デクレッシェンド(ディミヌエンド)とされているようだ。

ブライトコップフに通りに再現すれば、「未完成」1楽章コーダおよび「ザ・グレイト」4楽章のコーダを以下ディミヌエンドとする(デクレッシェンド)で終わるのが常套であろうが、未完成は除き、ザ・グレイトではdim.
とする演奏を、ほんの一部しか耳にしたことがない。(未完成は大半がdim.で終わる)

逆に言えば、ディミヌエンド表記を無視して、アクセントとして演奏したものが多いということになるが、これはシューベルトの筆記上の癖で、本当はアクセントなのだとする見解。
楽譜とは違うが、アクセントで終わるとする指揮者が多かったということになるが、事実往年のマエストロ級の指揮者は全員がアクセント採用である。

「ザ・グレイト」を例にすると、往年の名指揮者のほとんどすべてが、アクセントか、それに近いものとして演奏し、決してディミヌエンド(デクレッシェンド)にはしていない。

それとは「異なる演奏があるということは、かねてより耳が教えてくれていた」が、楽譜にディミヌエンドdim,
とされているにもかかわらず、それとは違う指揮をしたということは、つい最近知ったことだった。

そこで、気になるのは楽譜通りディミヌエンドで演奏する例があるやなしやと、あればそれはだれなのかと言うことだ

楽譜の版の問題はいつも複雑で、ブルックナーに代表されるように、作曲家自身の改訂、作曲家以外の人による改訂があるのと、今回のシューベルトのように、自筆譜表記が曖昧なので、どちらかが判然としないから、記号の大きさや長さのスタンダードモデルと比較してのことなのか、見た通りが正しいとの判断によったのが、ブライトコップフ版(ブラームス編1897年校訂完成)最初の楽譜である。

しからば旧ブライトコップフ版以外では、4楽章コーダのアクセント・ディミヌエンドかの問題を、どう対処しているかを調べてみた。(参考にしたのはyamagisi kennitiさんのサイト他)

大きく分けて版は5つ。
古い順から以下のようになる。
「ザ・グレイト」の版上のアクセントかディミヌエンドかはAとDで区記する。数字は発表年。
旧ブライトコプフ(ブラームス編)1884(D)
旧オイレンブルグ1967(D)
新オイレンブルク1983(A)全てがAではなくDの箇所もあるようだが、例のところはA
新ブライトコップフ1990(A)
ベーレンライター1996(A)
1967年の新オイレンブルグ版までは自筆譜を、見た目通りに楽譜にしたようだ。
しかしそれに反して、アクセントとしての演奏が多かったためか、80年代になって、ようやく多くの演奏に従って改定されたようだ。
未完成の楽譜も同じ傾向を示しているから、シューベルトの楽譜全般にわたり改定されたものだ。

しかし未完成では「ザ・グレイト」とは逆で、楽譜はアクセントとなったが、主流はディミヌエンドのように思うのだがいかがであろう。(これについては、今後の課題とすることにした。)

従って演奏も楽譜も「アクセント」という結論になったといううことだが、楽譜については常に一家言ありそうな「アーノンクール」は、さすがに其の結論に不服なようで、ディミヌエンドを採用している。

ガーディナーはベーレンライター版を採用したのか、アクセントで終わっている。

アーノンクール/VPO、ザ・グレイト終楽章・・・dimでやっているコーダを確認ください。


一方未完成では下のギュンターバント/NDRのように、1楽章コーダをディミヌエンドで終わるのが圧倒的だ。
音響からも、ヴァントの指揮からもそのことが見て取れる。


ディミヌエンド採用の指揮者は、ジュリーニ、テンシュテットがそうであるとの情報を得たが、小生は未聴である。
コリンン・デイビスもそうであるとの情報で、オールリピートのボストン響との演奏を聴いたが、曖昧な表現でハッキリどちらと言うまでには至らなかった。

演奏会に行ったベイさんによると、「ザ・グレイト」を上岡氏がディミヌエンドで演奏したという話だった。
同時に演奏した「未完成」ではどうだったのか、知りたいところである。

未完成の1楽章コーダをアクセント処理した演奏は、今だかって聴いたことがないので、そういう演奏ご存知ならばぜひご教示願いたい。

過去から現在に至るまで、恐らくは評論家の仕業と取れるのだが、「楽譜通りの演奏」という評価や感想を言ったり書いたりするものは後を絶たないが、シューベルトの例を出すまでもないが、楽譜通りの演奏などは無いに等しい。

主人に忠実な犬でさえ、時には反抗する時があるのだから、ましてや藝術領域の人間である指揮者が楽譜通りの演奏をすることなどありえないし、そもそも「楽譜通り」「楽譜に忠実」の概念自体、昔と変わっているように思うのだ。

「リピートの指定通りの演奏が楽譜に忠実と言われた時代は最早終わっているから、言葉の概念を再規定する必要があるのだが、、」れにしても「楽譜に忠実」は最早ナッシィングであろう。

検証はしてないが、比較しながら聴く限りでは、楽譜にないものを入れたり、その反対をやる指揮者は、喩えザハッリヒな指揮者に置いても、少なくないのではないか。

そこにあるものは、指揮者の感覚であり、楽譜の深読みであり、そのことはすなわち、作曲家の意図をできrるだけ汲んだ上で、演奏に反映したいという欲求からくるものであろう。
言い換えれば、作曲家の代弁者として聴衆に伝えることを、例外は何時でもあるが、使命としていると考えてよいだろう。

聴衆の側も、そういう指揮者の、現在の作曲家の意図解釈の到達点を聴くことによって、その是非を・感覚的なものであれ楽典的なものであれ、何らかのメジャメントにおいて、判断しなければならない。
音響になって表れるそのことを聴いて、推敲しながら判断することが能動的聴衆なのだと思う。

クラシック音楽の初心者を卒業しかけた頃は、音楽を聴いて、「俺だったらそこをこういうふうに演奏する」などと、小生意気なことを考えたものだが、もしも、それはなぜ、と問い直す事ガ出来きたのなら、そこに重要な何かが潜んでいて、俗に音楽が分かることに繋がるヒントを、早いうちにもらえたような気がする。

「演奏比較」や「同曲異演」を沢山収集することは、其々の演奏家の特徴を知りたいか、自分の理想とする演奏を捜すか、単に収集が好きなのか、後者は除いて、先の2つが主な理由であろう。しかし小生もそうだが、演奏家というものに肉薄するのか、作曲家かと問われれば、作曲家でありその代弁者としての演奏家であるというのが答えとなる。

勿論演奏上の諸象に収斂するのも悪いことではないが、そこには必ず演奏家を通して作曲家が存在する。

シューベルトのように自筆譜が曖昧で、どちらとも取れるようなものは、かこのそうそうたる指揮者の例を出すまでもなく、楽譜は便宜的に扱うほうが良く、それをどうするかは、つまるところは指揮者の感性、曲想、曲間のつながり、等々あらゆる材料を吟味して決定すれば、演奏自体に矛盾がなくなり、信念に基づき意欲的になるであろうことは、演奏自体が物語ることである。

by noanoa1970 | 2011-08-04 13:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

Commented by Abend at 2011-08-05 02:00 x
sawayer様
奇遇と申しますか、"グレイト"を聴いているところでした。好きな指揮者の一人であるスラットキン/セントルイスSOのものです。4楽章のコーダはアクセントです。ムーティ/VPOのも取り出して聴きましたが、こちらも同様でした。コンヴィチュニー/チェコPOもそうですね。
「未完成」第1楽章のコーダは、ムーティ/VPOとクライバー/VPOで確認しましたが、どちらもdimでした。私もこれをアクセントにした演奏は知りません。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-05 05:16
Abendさま,おはようございます。
>奇遇と申しますか、"グレイト"を聴いているところでした
こういうことってたまにあるのを、小生も経験したことがあります。
方向が違うと「怪談」に発展しそうです。
>好きな指揮者の一人であるスラットキン/セントルイスSOのものです
今まで抱いたイメージからは想像しにくい指揮者ですが、「以外性」を秘めているよう予感がします。
未完成のアクセント処理の演奏、今後見つけていきたいと思っています。
あまりにもdimに慣れてしまっている耳には、多分奇異に聞こえるのでしょうが、意外なものを発見できるかも知れません。
ピリオド系の指揮者など、ベーレンライター版を使用した指揮者やアーノンクール等其の可能性があると推測します。結果がわかれば何らかの形で方報告したいと思います。
Commented by Abend at 2011-08-05 15:38 x
sawyer様、こんにちは。
http://classic.music.coocan.jp/sym/schubert/edition.htm
上記のページを見て、灯台下暗しとわかりました。
「未完成」第1楽章のコーダを初めてアクセントにした楽譜は、フランスのウージェル社の1951年のもので、その校訂者がエドゥアルド・リンデンバーグ!!驚きでした。
リンデンバーグの「未完成」は聴いたことがないのですが、フランス
国立放送Oとのモノラル録音(1950年代後期)が、アリアCDのページにありました。レーベルはSchreiber Disc、カタログ番号はSSCD-026です。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-05 16:53
Abend さまこんにちは
小生もこのHPから「版」のことを学びました。
しかし大切な物を見逃していたようで、 Abend さんが見つけてくれなければ、スッキリすることはなかったでしょう。
ありがとうございました。
それにしても前々から名前がよく出てきたリンデンベルグの校訂とは、小生も驚きでした。
自分の演奏では当然アクセントを採用したのでしょうね。
1950年の録音ですから、版出版の前ですが、校訂にかかったのはそれ以前と考えれば、可能性は十分ですね。
最終的にはご紹介の音源に頼るるかも知れません。
ご教示感謝デス。
それにしても、アクセント、曲想が変わってしまいそうな予感がします。

Commented by ベイ at 2011-08-07 12:45 x
書き込み遅くなりました。上岡敏之の「未完成」第1楽章はディミヌエンドで通常通りでした。
>についてはいろいろな説があるようです。mixiのマイミクさんから以下のような書き込みもいただきました。
『「グレート」のエンディングについてです。これはとても興味を引きました。 おそらく譜面上の音楽記号の解釈をめぐる問題だと思います。というのはロマン派時代のヘアピン(>)の解釈のことです。この記号をディミニエンドととると矛盾することが多く、長らくその解釈が不明となっていました。フィナーレ最終小節にまさにこれが表記されている。伝統的にはそれまでの曲の流れを重視して強奏で終わることが通例となっています。 最近の研究結果では、短いヘアピン(>)「ショート・クロージング・ヘアピン」は「エクスプレッシヴォ・アクセント(感情表現のアクセント)」と呼ばれ、「ひとつ前の音よりも弱く、わずかに遅れて演奏する」べきだと解釈されています。 おそらく上岡は、そういう最新の研究成果を実地に適用したのだと思います。 このことは「ショパンの音楽記号」(セイモア・バーンスタイン著 音楽之友社)に詳しく書かれています。』
Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 15:44
ベイさん
コメントありがとうございます。上岡の未完成はdim
だから一般的なエンディングということになりますね。
紹介いただいた文面でひとつ気にになることは以下の記述カラです。これはもともとショパン演奏における、原典版楽譜の重要性を買った中でのものです。
続きます。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 15:45
『次にスケルツォ第4番ホ長調作品54の自筆譜を見てください。グラフィカルな書き方の中でも、大きな意味を持っている例です。ショパンは常に2種類のアクセントの書き方を用いていました。まずpiu prestoと書いてあるところのアクセントを見てください。次にその下の段にあるアクセントを見てください。すごく大きく、長くなっていることが分かるでしょう。[実演]和音そのものに書かれているということでディミヌエンドではないということは分かります。
Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 15:58
こういう書き分けはショパンの全作品に渡って見られます。ナショナル・エディションではこの長いアクセントと短いアクセントの違いを、そのまま残してあります。書き分けるということは弾く人から見たら大きな意味を持つことになるからです。(普通の)短いアクセントはダイナミック・レンジにおけるアクセント、強く弾くという意味です。長いアクセントというのは、表情におけるアクセントという意味です。エスプレッシーヴォであったり、テヌートであったり、勿論アクセントそのものの意味も持っています。』

Commented by noanoa1970 at 2011-08-07 16:05
上の文章によると、ショパンの場合の、短い楔は、通常のアクセントで、長く大きいのは、表情におけるアクセントとあり、エスプレッシーヴォであったり、テヌートであったり、勿論アクセントそのものの意味も持っています。としておりますので、紹介していただいた文章の内容とは逆のように思いますが、そのことよりも、>の解釈は、現在にいたるまで確定したものは無いのではないかということです。自筆譜の解釈の相違であることはabendさんとの議論で確認済みで、現在はシューベルトの>を、旧ブライトコップフ版でdimとしたのが校訂者ブラームスの「ロマン性」にあるやなしやという議論展開になっています。また始めてaccに変更したのは、フランスのウージェル社の1951年のもので、その校訂者がエドゥアルド・リンデンバーグ(指揮者でもある)ということまで分かりました。シューベルトを音楽史上、どの位置に置くかにも絡む問題のような予感です。
現在は、未完成の1楽章コーダをaccでやっている演奏を探しているところです。これを聴いて、dim、acc問題が、聴感上の説得力を克服できるか、推し量りたいと思います。