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みなさんのご意見伺いたく思います。

ベイさんからある議題が提示され、それについてのみなさんの意見を聴きたいという希望がありました。

「レコーデッドミュージックとライブ」というブjログ記事のコメントに、この問題提起がありました。
必要があれば、クリックしてリンク記事をお読みください。

話の流れがあるので、別ブログ記事にするのは恐縮ですが、コメント総数に限りがあるらしいので、いっそのこと、かつての掲示板のような感じにしたいと思い、新たにここにその話題について、コメントというよりも、お互いに意見を自由に述べ合う、意見交換の場所にしたいと思います。

どなたの意見に対する言及なのかがわかりやすいように、例えば小生に対してなら,>sawyer(noanoa1970)のように、だれに対してかがわかりやすいように表記していただけると良いと思います。

また文章を引用する場合にも、引用箇所の頭に、>を付けると、わかりやすいと思います。

ブログでの掲示板の的運用は、小生がいつかやってみたいと思っていたことでもありますので、実験を兼ねさせていただき、今回やってみようと思います。

ぜひ活発な意見で賑わうようご協力ください。
併せて今後問題提起なども考えていただけるとありがたいです。

以下にベイさんが問題提起されたことを、そのまま掲載します。

『生のクラシックは本場(ヨーロッパ)で聴くものがより本物に近い」という命題があります。
みなさんはこれに対してどう思われますか?
私はこの意見にかなり近いのですが。』

by noanoa1970 | 2011-05-23 18:54 | クラシック | Comments(9)

Commented by noanoa1970 at 2011-05-23 19:19
>べいさん
「本場物」という言葉がありますが、ドイツ音楽はドイツ人の演奏家が一番、フランス音楽はフランス人の演奏、など作曲家のと演奏家の国柄が同一の物のほうが、例えば作曲家の意図を汲みやすいとか、同じ文化同じ言語だから全てに有利である・・そのようなことを言う人がいたような記憶は、確かにあります。そしていまだのドヴォルザークはチェコの、チャイコフスキーはロシアの演奏家に限るという定説のようなものもあるようです。
サークルのOBのなかにも、ワーグナーは、絶対バイロイトで見聞きするのに限るから、いつか皆でバイロイトに行こうと、いつもいう男がいました。「本場」というものの中身がキチントあり、その中身が具体的に何かがわかりにくいことが、この問題提起の賛否がわかれるところかもしれません。論点を広く、しかし言及は的を絞りたいのですが、小生の頭の中はまだそうなっていません。入院中に考えることにします。付加価値という言葉も頭をチラつきます。
Commented by ベイ at 2011-05-23 20:17 x
sawyerさん
掲示板での議題に取り上げていただきお礼申し上げます。もとより、このテーマを掲げたのは、本場ものだからいい、日本で聴くからダメという単純な意図からではありません。また、ドイツの音楽はドイツのオーケストラ(アーティスト)でなければ、というものでもありません。わたしの描く「本場のもの」という概念は、クラシック音楽を聴く「環境」といってもいいかもしれません。「環境」とは、ホールの音響であり、ホールやオペラハウスを囲む街の雰囲気であり、また長年そこで培われた聴衆や批評家の質ということでもあります。たとえば、ウィーンのムジークフェラインやシュターツオパーで聴く(見る)音楽やオペラは、その素晴らしいロケーションと雰囲気が音楽を豊かに感じさせてくれます。片や、上野の東京文化会館を囲む環境あるいはNHKホールの貧弱な音響をみたとき、暗然とします。そういう意味での環境です。sawyerさんのいう「付加価値」はプラスアルファのような意味が感じられますが、実はそこに大切なものが含まれているのでは、というのが私のテーマの趣旨です。もちろん趣旨にとらわれることなく、自由闊達な皆様のご意見を拝聴したいと思います。
Commented by Abend at 2011-05-23 23:57 x
>ベイ様
「環境」からの視座は、極めて重要なものであると考えます。換言させていただきますと、聴き手が置かれた状況が、その意識を形成すると申せましょう。人は、ともすれば自己の内面から事象を考察しますが、その内面自体が状況(社会状況、時代状況)によって生成されたものであり、それが聴き手の多様性を現出せしめるもというのが、社会的諸関係の総体たる人間の現実でありましょう。
従来のナマレコ論争にはこの視点が欠如しており、為に好みの水掛け論に終始してしまうことが多いのです。なんびとも、自己の自我形成を為した状況の子です。


Commented by 田舎のハインリヒ at 2011-05-24 01:01 x
この種の議論を突きつめてゆくと、日本人であること自体がマイナス要因となりませんか?
だから、わたくしは本場うんぬんを意識せずに愉しんで聴いております。
Commented by Abend at 2011-05-24 01:37 x
>田舎のハインリヒ様
私は、例えばベートーヴェン時代の本場は既に存在しないと考えております。音楽における本場というのは、演奏に対する価値判断を行う上での基準として作られた観念であると考えます。
MOZARTをモーツァルトと書く日本人は、既にその時点で本場という観念からは自由な存在ですので、貴方様がおっしゃるように、愉しんで聴くことが一番だと思います。
Commented by ベイ at 2011-05-24 21:12 x
>田舎のハインリヒ様
「日本人であることがマイナス要因となりませんか?」という議論を突き詰めていった先のご懸念はわかります。日本におけるクラシック音楽は明治維新以降「追いつけ追い越せ」と試行錯誤しながら造りあげてきたものだと思います。そして今は本場を意識することなく愉しむことにいささかも負い目を持つことはないと思います。ただ私の主旨は海外で音楽を聴く体験をすると、その経験が自分の視野を広げ音楽の楽しみ方を豊かにしてくれるのでは、というものです。たとえばムジークフェラインの音響を実感することでウィーン・フィルのCDが楽しめたり、シュターツオパーの幕間のを知ったり、終演後近くのホテルのバーでオペラの余韻を楽しむことで日本での鑑賞が豊かになったりするのでは?。実際サントリーホールを始め日本でも環境がずいぶんよくなってきました。聴衆のマナーも成熟しています。ホール運営者や音楽マネージメントが海外の情報を吸収し、少なくない数の聴衆が海外へでかけて体験を積んできた結果、現在の豊穣を生んだともいえるのではないでしょうか。よく体験し知ることでより楽しむことができるのでは、と思うしだいです。
Commented by 田舎のハインリヒ at 2011-05-24 23:08 x
男性に生まれますと女性の気持ちがよく分からないもので、あっけにとられる経験を先日もしました。
ドイツ人の感性も、われわれ(日本人)に実際どこまで理解できることか不安がつきまとうものですから、ああいうコメントになった次第です。
議論の趣旨から外れるかも知れませんが、ブルックナーの第8交響曲を聴くとき、わたくしは自身の生い立ちを意識しつつ、その響きを味わってしまうのです。純音楽的にはなかなか聴けない。フルトヴェングラーの1949年3月15日の Live などは特にそうです。幼少時の風景が蘇り、魂の源郷をそこに見出す。そうなると客観的判断はとうてい無理ですね。こんなことではいかんと反省しつつ、過去の呪縛からの解放を目指してはいるのですが・・・・
支離滅裂な文章になってしまいました。あしからず。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-25 18:20
> 田舎のハインリヒ さま
ブル8を聴いて、自分の生い立ちとダブルものがある、という感情移入は決して悪くはありませんよ。
>幼少時の風景が蘇り、魂の源郷をそこに見出す。・・・とても素敵だと小生は思います。

単に音楽を観賞するにとどまらない、付加価値的要素が沢山あるように思います。

小生もそのような聞き方をする場合(音楽)と、本来的意味の鑑賞をする場合が有るようです。
観賞の観は、対象を見聞きして、愛するめでる、好きになるということで、鑑賞の鑑は、ある基準あるいは目的に沿って対象の価値判断をするというような意味だと思います。

同じ曲の演奏を多くの聞き、比較検討の上、それぞれに付いてその違いや、良し悪しを、自分の基準と照らして考える、俗にいう「演奏比較」もそのひとつでしょう。

これが、多分一番難しいかもしれませんが、何も考えることなく、ドップリとその音楽に浸っても、勿論良いと思います。

客観的聴き方や客観的判断等ありえません、小生はそう思います。
Commented by 田舎 at 2011-05-25 19:57 x
示唆に富む意見を賜り、しばらく音楽鑑賞に浸りそうです。ありがとうございます。
これはまた与太話になるのですが、カルロス・クライバーの良さが、わたしには分からないのです。父親エーリヒのほうがずっと素敵ではないかと思うのですが、世間の評価は違うらしい。・・・・「生き生きしたリズム」などという文章に接すると、耳につきやすいから(生理的な興奮?)そう感じてるだけじゃないかと、穿った見方をしてしまいます。
ほんとうのリズムの良さとは、コンヴィチュニーのブル8の終楽章みたいなものをいうのだぞと、腹で思っていても口には出せない(笑)、そんな田舎に住んでおります。