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仮説「呪縛」

ブル8に続き、9番を聴いている。
9番は、かのベートーヴェンの9番の交響曲から多大な影響を受けたと、諸々の解説では言われている。

調性が二短調であることや、開始が弦群の細かいトレモロではじまること(最もこれはブルックナー全般に及ぶが)、2楽章がスケルツォであること。

などなど他を上げる人も多いと思うが、そのような形式的な話はさておき、何度も聞くうちに、どうもブルックナーは、ベートーヴェンから形式のみならず、その主題およびそれらの属性からのエキスをも受け継いだのではないかという直感が閃いた。

ベートーヴェンの歓喜の歌のエキスは、かなり姿こそ変えてはいるが、何度か聞くうちに、小生にはブルックナーがベートーヴェンを、そして第9交響曲・・特に歓喜の歌の主題を、限りなくオマージュしているようにしか思えなくなってきた。

残された逸話に、未完の4楽章を「テデウム」にて補完して欲しいというメッデージがあったと聞く。

この話の信憑性を、9番の残されたそれまでの楽章が、テデウムとは相いれないとして、否定的な意見もある。

たしかに交響曲の終楽章に、単独でもちろん、素晴らし過ぎる「テデウム」を安易に持ってきて、終楽章とする方法には異論をはさむのだが、小生は少し別の見方をしている。

ブルックナーは、終楽章を、ソロと合唱入りの楽章にしたかったのではないか。
小生の耳にはブルックナーは、いたる楽章の中で「歓喜の歌」のエキスを、かしこく変形させて使用していると強く思われる。

形式的にも、そして内容的にもここまで影響を受けたり、オマージュしたりするのだから、行き着くところは、終楽章を合唱そしてソロの人間の声が入った楽章にすることだったのではないか。

しかしブルックナーは、ベートーヴェンを、技術的には不自由しないのだと思うが、模倣する勇気を終に持てなかった。

そして時間は十分あったのに、初期作品の改訂作業に逃げ込んでしまい、偉大なる挑戦から自ら身を引いてしまったのである。

音楽史上よく言われる、ブルックナーの「ベートーヴェンの呪縛」そして「9の呪縛」と言うものの正体は、このことに起因しているなかろうか。

9番を聴いての仮説にしか過ぎないが、終楽章に合唱を使ったなら、どんなによかったろうかと、未完に終わったこと同様残念でならない。

by noanoa1970 | 2010-08-15 12:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by HABABI at 2010-08-16 22:33 x
sawyerさん、こんばんは
ブルックナーは第9交響曲の第4楽章のオーケストラ・スコアを優に600小節以上書いていたという報告があります。残念なことに、ブルックナーが亡くなったときに、いろんな人達が持ち去ってしまい、今もそれらを集める努力がなされているようです。第4楽章を復元して演奏した録音を4種類持っていて、それらの中で最も感動的な演奏をしているアイヒホルン指揮、リンツ・ブルックナー管弦楽団のCDの解説に、以上のことが書かれています。
第4楽章は、声楽無し、二短調、「神秘的に、急がずに」です。ちなみにテ・デウムはハ長調で始まります。音楽は力強く、あたかも全てを神に委ねるかのようなコラールが出て来たり、テ・デウムの中の音型が出て来たり、純音楽から宗教音楽へと連なる圧倒的なものとなっています。ブルックナーがテ・デウムを代わりに演奏することに言及したのも分かる気がします。実際は、ハ長調なので、多分違和感が出るので間を取るのでしょうけど。
とても残念なのは、ブルックナーがコーダの部分についての構想を語った記録があるようなのですが、楽譜の形では一切残されていないことです。
Commented by noanoa1970 at 2010-08-17 11:39
HABABI さん情報感謝です。
>ブルックナーがコーダの部分についての構想を語った記録
これは、ぜひ拝見したいものです。
聞くほどにベートーヴェンの影を感じているこのごろで、今回の収穫は聞いた感じからも、ベト/9が至る所に彷彿されたことでした。ブルックナーは、音楽の向こうに「人間」でなく「神」を見ようとしたが、人間を見たベートーヴェンには、到底かなわないと、終楽章の完成を(合唱付きが、小生の推理)断念してしまったのではないでしょうか。
どうもこの推理が脳裡を離れません。
いまだ4楽章つきを聞いたことがありませんので、お勧めのアイヒホルン盤入手しようと思います。
Commented by HABABI at 2010-08-17 23:29 x
sawyerさん
前述の解説によればブルックナーは、「第2楽章の...アレルヤをフィナーレにも力強く持ってくるのだ。そうすればこの交響曲は、愛する神様をほめたたえる賛歌で終わることになる」と語ったとされています。そして、この「アレルヤ」は、第8交響曲第2楽章トリオの中のパッセージと考えられると解説に書かれてあります。かくも、ブルックナーは自分の複数の作品からの引用を行ったり、第9交響曲の各楽章の主題を引用したりして、第4楽章で集大成を図ろうとしたようです。
ちなみに、第4楽章を聴いた後にテ・デウムを聴いても、全く違和感を覚えません。ブルックナーが第9交響曲において声楽を用いなかったのは、もし声楽を用いると、その歌詞が神を賛美する内容に溢れ、宗教曲となってしまい、もはや交響曲とは言えないものになってしまうからではないか...と言うのが私の想像です。
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2010-08-18 06:43
HABABIさん
>「第2楽章の...アレルヤをフィナーレに・・・
「アレルヤ」は、第8交響曲第2楽章トリオの中のパッセージと考えられる。
ブルックナーデジャヴと小生はネーミングしておりますが、彼は至る所で既出のフレーズをつかっています。
それで小生はその曲がなんであるかをすぐには認識出来ないことがあります。
それはさておき、曲内引用使用は、すでにベト9においても見受けられ、これは1種のソナタ形式の行きつくところなのかもしれません。ブルックナーの声楽におけるテクスト、宗教曲も含めて再考する必要がありそうですね。ガチガチのカトリック教徒と言われますが、神を賛美することや教会の限界に、ブルックナーは気づき始めていたのかもしれません。宗教的文化的時間軸の流れを無視できなかったのではないでしょうか。もう少し世俗の世界で遊ぶことが必用だったかも。