私ってこんな
1972年に発売されたもの。
この年小生は、それまで住んでいた岩倉のアパート下宿から、松ヶ崎のアパートに引っ越していた。
五山の火送りの「妙法」のある山の麓あたりにあり、2階建ての、当時はまだ珍しい鍵付きのアパート下宿であった。
このころ小生は、なぜかクラシック音楽から遠いところに身を置くようになり、ロック、JAZZ、そしてフォークなどを好んで聴くようになった。
其れはDRACが学園闘争の中、廃部童謡になり、その後遺症があったのと、あれやこれやでかなり無気力状態になりかけた時でもあった。
そんな折、学館コンサートで聴いた、西岡恭蔵、そして大塚まさじ&永井洋の「ディランⅡ」を、再びFM放送で聞くに及んで、夜な夜な通っていたハードロック喫茶をやめにして、関西フォークをよく聴くようになった。
その頃だったと思うが、大学正門を出て今出川通りを左に、出町柳方面へ向かう途中の道路の左側に、古い民家を改造して作ったと思しき、曰くありそうな喫茶店があるのを発見した。
入り口には、詩の朗読やミニコンサートライブの案内が多く貼られていて、何かの小集団活動家たちのたまり場のような雰囲気があり、少し入りにくかったが、コーヒーを飲みに入ったことがあった。
その時「中山ラビ」という・・・「ラビ」とはユダヤ教徒なのかしらと思わせるような名前だったので、印象があった。
しばらくして彼女が歌手であることを知り、入手したのが「私ってこんな」つまり彼女のファーストアルバムであった。
このアルバムは、数回聞いただけで、もうずいぶん長いこと聴いてなかったから、懐かしいのと同時に、彼女の歌声がどのようなものであったかを確認するために、ターンテーブルに乗せた。
1969京都フォークキャンプの復刻CDを15年ほど前に入手して、その中に彼女が歌う曲が1曲あったのが、彼女の歌を聴いた最近のことになる。
「船がやってくる(時)」When the Ship Comes Inという、ボブ・ディランの曲を取り上げて歌っていた。
このアルバムでも彼女はディランの曲を取り上げ、「私が望むものは」・・・岡林の「私たちが望むものは」のアンサーソングだと一部では言われているようだが、この曲はディランの「時代は変わる」あるいは「I shall be released」のいずれかか、またはうまくミックスしたものであるから、岡林へのアンサーソングと位置付けるには、少々無理があろう。
あの時代さまざまな歌い手はディランの影響を強く受けた。
其れはあの民謡風の平準なメロディに、やや難解な詩をつけて、しわがれ声と、ホンキートンクとでも言えるような、少々調子外れの歌い方のミスマッチが過去のだれよりも鮮烈であったからではないだろうか。
小生はディランの曲自体は好きなのだが、ディランの歌い方が好きになれなかったから、ジョーンバエズの「ディランを歌う」というアルバムをもっぱら聴いた覚えがある。
しかし今となっては、そんなディランの歌い方も、全く苦にならなくなった。
中山ラビも、ご多分にもれずディランから影響を受けた歌い手であった。
そして「ディランⅡ 」はその名が示す通り、西岡恭蔵に至ってもその初期アルバム「ディランにて」は、全編ディランであった。
中山ラビ・・・その名前は頭から消え去ることはなかったが、小生が購入したアルバムは、この1枚だけ。
噂に聞くと彼女は今も健在で、歌を歌ったりしていると聞くし、「ほんやら洞」の経営者として活躍しているらしい。
中山は、金延 幸子と声の共通点があるような気がする。
この時代は、女性の活躍が目立ち始めたころでもあり、大学闘争でへこんで、四畳半に閉じこもった学生たちを、叱咤激励鼓舞し、ある時は聖母マリアのようにやさしく包むような存在でもあった。
by noanoa1970 | 2010-02-11 17:47 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)
好きでした。「13円50銭」は 題材が重たかったです。
私は 2ND「ひらひら」の方が好きでした。「夢のドライヴ」とかで、
京都の地名が出てくるので、当時は、元から京都の人だと
誤認しておりました。存在感ありましたね。
Ⅱアルバムもお持ちでしたか。彼女の顔がイラストになったジャケットのアルバムがありましたね。K平さんの時代の彼女の位置づけはずいぶん高まったことでしょう。ほんやら洞も再び活発になったのではないでしょうか。