気づいていたのだが、逃がしただけさ
浅川マキの音楽は、多くのジャンルと手を結んできたこと、しかしその原点は「日本的なるもの」・・・それを小生は「演歌」という言葉で象徴したのだが、重要なことがあるので、書いておかねばならない。
1971年年末の「紀伊国屋ライブ」で、浅川マキは、ロッドスチュワートが歌った曲を取り上げていて、それは「ガソリンアレイ」、「オールドレインコート」そして1976年の「灯ともし頃」でも「それはスポットライトではない」を取り上げた。
実は小生は、浅川マキの紀伊国屋ライブが、ロッドスチュワートを聴く切っ掛けとなったのだが、以前からなぜ浅川マキはロッドスチュワートを好んで取り上げるのか、不思議に思っていた。
ロッドと言えば、もちろん素晴らしい歌い手で、小生はフェイセスやジェフベックグループ時代のロッドが浮きなのだが、近年の彼はロックスターといわれる超メジャーな存在となった。
もちろん浅川が聴いたロッドは、「An old raincoat won't ever let you down (1970) 「Gasoline Alley (1970)」、あるいは「Every picture tells a story (1971) 」であろう。
1970年の「浅川マキの世界」にも、1971年9月5日発売の「浅川マキⅡ」にもロッドの姿はない。
しかし1971年年末の「紀伊国屋ライブ」では浅川はロッドの歌を2曲取り上げている。
9月から12月・・・3か月の間に浅川はそれまでの「ゴスペル」「トラッド」に加えて、新しくロッドスチュワートが歌った歌を取り上げたことになる。
さて肝心なのはここであるが、ロッドスチュワートは「ロック歌手」といわれるのだが、こにお1970年71年のロッドを「ロックの歌手」としてだけ捉えてよいものだろうか。
小生の答えはNOである。
そして多分浅川マキ自身も、ロッドを「ロック」とし手だけ考えてなく、おそらくは「ソウル」の歌い手として捉えていたのではないか。
71年までのロッドのアバムを聴けば、そのことはわかると思うが、ロッドは、ソウル・・しかも白人のソウル、さらに言うならば、スコティッシュ・アイリッシュの魂を持つという意味でのの「スコティシュ・アイリッシュ-ソウル」の歌い手であると仮定しても外れではない。
昨夜のFM番組の中で、ゴスペラーズの「村上てつや」氏が、1996年のことだったというが、浅川マキに、新宿ピットインの楽屋であったときに、「何か歌えと言われ、オーティスレディングの「ドッグオブザベイ」を歌うと、「声はいいけど、歌はタイミングだ」と言われ、そして「日本人がソウルをやるなら、ロッドスチュワートを聞きなさい」と言われたことを語っていた。
このことから推するに、浅川は日本人がどれだけ真似をしても黒人のソウルには、絶対に勝てはしない、・・と言おうことは黒人のソウルを目指しても意味はないということを言いたかったのと同時に、「ロッド」を聴いて学べということは、「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」すなわち自分の出自の国の魂を歌えということなのだろう…そのように小生は解釈した。
このころのロッドを聴けばすぐにわかると思うが、ロックという音楽を取り入れながらも、その底辺に流れるのは、スコットランドやアイルランドに伝わる伝統音楽なのだ。
つまりロックという形式を借りてはいるが、中身はスコットランドやアイルランド・・・非アングロサクソン人の魂・・・「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」である。
しかもそれがまったく違和感がないばかりか、古いけど新鮮で時代を超えて聴く者に響く音楽となっている。
そのようなロッドを、浅川は見出したのではないだろうか。
浅川が種々のジャンルの音楽と手を結んでも、それは形式を借りるだけであって、内容は終始「日本的なるもの」・・・象徴的に「演歌」という言葉を使うが、「日本人のソウル」そのものだったのではなかろうか。
ゴスペラーズの村上が浅川から「ロッドスチュワートを聴け」と言われたのが1996年のこと、そうなると、浅川マキは、1971年から30年近くも・・・多分亡くなる直前まで、ロッドスチュワートの歌の中に「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」の姿を見続けていたということになる。
そしてそのこと・・・形式は種々の音楽ジャンルを借りる・・手を結ぶが、内容はいつだって「日本的なるもの」という浅川の音楽的姿勢の大きな要素の1つであろう。
浅川マキの出発の曲。ファースト録音より、「アーメン・ジロー」
by noanoa1970 | 2010-01-29 11:27 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)
勝手にアンダーグラウンド歌手と決めてきたが、浅川マキの多様性は、このことでもわかるようですね。