タグ:DRAC ( 47 ) タグの人気記事

DRACのルーツ

小生も初めて知ったことで驚いたが、大大先輩がDRACのルーツを簡潔にお纏めいただいた文章を掲載する。DRACの誕生が昭和25年とは・・・・・・
昭和25年6月1日、今出川幼稚園にて30数名の参加で発足したと書かれてある。
戦後間もない混乱期、よくぞこれだけのことをやっていただいたものだと恐れ入った次第。
音楽に飢えていた学生もさぞ多かったことだろう。
音盤も高価で買うことはかなわない状態にもかかわらず、レコードコンサートのみならず、交響楽団の演奏の録音まで実施している。
すごい資料である。
d0063263_21124613.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2013-06-17 21:14 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史番外編1950年3月1日

小生も初めて知ったことで驚いたが、大先輩がDRACのルーツを簡潔にお纏めいただいた文章を掲載する。
DRACの誕生が昭和25年とは・・・・・・
昭和25年6月1日、今出川幼稚園にて30数名の参加で発足したと書かれてある。
以下のことからもわかるように、すでにこのころから「レコードコンサート」はもちろん、「交響楽団の演奏自主録音もおやりになられていたことに驚く。
伊福部 昭はやはり「ゴジラ」映画の影響なのかと思ったが。
いや交響譚詩は1947年、ゴジラは1954年だから、ゴジラとは関係無く、其れよりも早い時期に取り上げていただいたことになる。

追記
伊福部の「交響譚詩」はコープランドが演奏したいと言ってきた作品でもあったので、両者を並べてのコンサートは特別な意味を持つものでsる。
d0063263_1994262.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2013-06-16 19:13 | DRAC | Comments(0)

OB会開催前のキャンパスツアー待ち合わせ風景。

DRAC: Doshisha University Recorded Mujic Appreciation Clubの第19回OB会が開催された。
fbを通じて知り合った後輩のお二人もその前に行われたキャンパスツアーに参加していただいた。
今TVでおなじみの「八重の桜」の影響で、館内の一部は会津から持ってきたという八重ゆかりの品々や写真屏風、書などが展覧してあり、一般の人でにぎわっていました。
八重が使ったとされる本物のゲベール銃が意外に長いので驚きました。
最後の写真は、記念の同志社Goods、同志社カラー紫紺色のトートバッグを手にした初参加されたDRAC80年代の後輩、TさんとSさんそれに小生、同期のH氏。
待ち合わせ場所、A明徳館1Fチャオプレッソにて。
集まった人たちの写真とともに。
懇親会の写真は誰かがUPしてくれることを願う。
d0063263_1945292.jpg

d0063263_1944693.jpg

d0063263_1945363.jpg

d0063263_1945137.jpg

d0063263_194496.jpg

d0063263_1944256.jpg

d0063263_1943865.jpg

d0063263_1943512.jpg




[PR]

by noanoa1970 | 2013-06-16 19:06 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史番外編1967機関誌より

6月15日はDRAC-OB会が開催される。
その前に小生と同期で現在同志社大学文学部教授の石坂君が、キャンパス案内ツアーをやってくれるとのことだ。
忙しいだろう身にもかかわらず時間を割いていただけることに感謝しなければならない。
彼とは非常に親しい間ではなかったにしろ、下宿の行き来はたまにあったりした。
下宿では、ブラームスの室内楽を聞かされた記憶がある。
サークル内でも1回生当時から音楽そのものをかなり聴いていた人間であった。
今話すと一番面白い人間であると小生は思っているのだが、以前「君とはジックリ話したい」といっていたので、彼もまんざらではないようだ。

彼は2回生の時にロマン派音楽Gリーダーをやったが、1回生の時にすでにその素地があって、機関誌には論文とみてもよいぐらいの文章を投稿していた。

思慮深い男…それが小生の印象だ。
先日発見した機関誌DRAC16号…1967年発行、に特別寄稿文を投稿した文章があって読み返してみた。

小生も寄稿したのだが、社会学「ジルバーマン」の「音楽はいずこへ」を読んでエキスを抽出したに過ぎなかったのに対し、彼は、多くの文献を当たって長大な論文を書き上げ、其の頁数はB5班25頁にも及ぶものとなった。

当時その中身についての会話は知る限りほとんどなかったのは、内容が難しすぎたのか、不得意ジャンルであったからだろうか。
おそらく、グループの分け方は音楽史に基づいていたから、ほかのジャンルには興味をもてない、自分のハエを追い払うのに精いっぱいだったのだろう。

「二次派の新音楽・後期ロマン派への疑問と考察」と題し、主眼は彼がその当時最も好きだったと思われるブラームスとマーラーをキーファクターとし、いわゆる後期ロマン派とはなんであるのかという視点からの文章である。極端に言えばブラームスは復古主義とか形式主義者とか言われるようなものではない…そういうことをいいたかったのだとも読み取れる。

マーラーについての考察もなかなかのものだと思うが今回は割愛する。

いま読み返せば、ロマン主義あるいはロマン派、と二次派の音楽の規定がやや甘いところがあるにしても、大学1回生でこれだけの文章が書けるというのは、文才ともいえるが、やはり音楽そのものを聴き込んでいたことだろう。

聴きこまなければそれを言葉にはできないが、ながら聴きのように、聴いていてなくても言葉にはできる。
その違いは文章に表れるものだ。
テーマをもちながら音楽を聴くのと、聴いて楽しめばよいという者とは帰結が違ってくるものだ。

その中の一部をここに掲載し、こういう努力の積み重ねの結果、彼が今教授という立場にあるという事も認識していただけければと思う次第。

d0063263_20314256.jpg

d0063263_20313998.jpg

d0063263_2031371.jpg





[PR]

by noanoa1970 | 2013-06-10 20:26 | DRAC興亡史 | Comments(2)

邦人作曲家、音大生、音楽愛好家に対するアンケート実施結果1967年

いま読み返すと何ともまあといっても仕方ないアンケートの問いであったが、当時としてはこれが最善と判断した。
集計のことやそれから必要な分析のことをあまり考慮せず、しかも問いが抽象的なので、回答された音楽家や音大生、そしてクラシック喫茶に集まる人たちはさぞ困ったであろう。
しかし合計300ほどが回収でき、主対象の音楽家の中には熱心にお答えいただいた人もいた。

このアンケート収集結果と若干の分析、というか読み取れることは、小生とK君が深夜まで3日間かかって纏めたものだ。

1967年は小生がDRACに入部した年で、その時のリーダーはF先輩であった。
この人がいなかったら、このような…今考えると大胆不敵ではあるが、いまだかつて何処の誰もなし得なかったこと、そして生の声という貴重な情報を収集できたと自負するものである。
よってここに、その活動報告の一部としてDRAC機関誌16号に掲載したものを抜粋した。
機関誌DRACは16.17・19号がすなわち1967.1968.1970と発行されたが、1969年度は大学闘争の影響で発行されなかった。1972年以降は恐らく研究活動すら実施してないと思われる。


d0063263_11394366.jpg

d0063263_11394561.jpg

d0063263_114039.jpg

d0063263_1140610.jpg

d0063263_11401270.jpg

d0063263_11401452.jpg

d0063263_11401545.jpg

d0063263_11401741.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2013-05-18 18:26 | DRAC | Comments(4)

DRAC興亡史・・・1967~72その28「最終章」


≪前口上≫

時系列が入れ替わったりして、かなり読みづらいところがあるのを承知で、40年以上のことを思い出しながら、やっとここまで書いてきた。
願わくばDRACの諸氏による補足や異なる観点からの記述を待ちたいところである。
現在飲み会やOB会が開催されてはいるが、だれもこの時代のことに触れようとはしてこなく、ある種タブーのような感じもあった。

しかし、この激動の60年代後半から70年代初めのことは、その時代のOB諸氏の残照として、消そうにも消し去れないことである。

40年以上前のことを蒸し返すのはよくないという意見も有るとは思うが、やはり一度整理しておかねばならないと常に思っていたことだから、思いつくままに書き連ねたが、ところどころで記憶が途切れることもあり、まとまりのつかない物となってしまったバカリでなく、およそ「DRAC興亡史」というタイトルに相応しくないような、いわば自伝的なものになってしまったことは意に反することである。
しかし今思えば、たぶんこのような書き方しか不可能であったように思っている。


71年を持って小生のDRACの記憶は途切れはするが、72,73,74年卒業のOB諸氏の記述が望まれるところである。

幸いブログを通じてめぐり合うことができた75年入学のHN:drac-ob氏によって、75年以降を引き継いでいただけるというから、80年代までのDRACの状況はいずれ明らかになるはずである。

氏の記述を待ちたいところであるから、よろしくお願いいたします。


≪コーダ≫

70年の夏まで小生は同志社学生新聞局で新聞局復活を手伝い、復刻第一版の発行を終えたことから、その後はもっぱら銀閣寺畔にある橋本関雪の屋敷、白沙村荘「お菜ところ」でのバイト、そして後に立ち上げることになる「NOANOA」での日々を過すことになる。

70年後半70年安保も通過し、大学紛争も一次終焉を迎えたが、執行部役員連中は、すでにDRACに寄り付かなくなっていて、彼らの動向はサッパリ不明となっていたが、その頃岩倉で同じアパート下宿にいたK田、F原と小生の元に、後に幹事長をやることになるA田、そしてS井達が入れ替わりやってきては、不思議な集団を形成していた。

71年にはN谷という男が幹事長をやっているという話を聞いたが、彼らの代は殆ど付き合いが無い状態であったし、何かやっているらしいというDRACの現状が伝わるだけであったある日、バイト先にやってきたのが2回生になったばかりのF田だった。

話を聞くとF田は、どうもバイト先を探しているらしいので、NOANOAに引き入れるようになって、ようやくDRACの現状がハッキリと伝わるようになって来たのだった。

71年の春にはすでにDRACのクラシックグループは、有名無実となっていて、N谷も幹事長とは名ばかりの、いわばノーカン状態であること。
JAZZグループが、細々とグループ活動を続けていること。
リーダーが、女性でH田であるということ。
新入生の女性のサークル員が数名入部したということ。
JAZZグループはやってはいるが、「ウエザーリポート」はJAZZか?などというくだらない議論をしていて、およそ研究とは呼べないことなどが断片的に伝えられるのだった。

このままではクラシック音楽研究会としてのDRACが滅亡し、変わりにタイトウしつつあるロックの連中にサークルが乗っ取られそうであるという危機感から、先のブログでの「BOXの扉に模造紙で書いた檄文」となるのである。
71年、われわれの世代は殆どが卒業し、京都を去っていったが、小生とK田は京都にまだ居た。
小生とK田が相談して行ったことであった。

しかし、それもむなしくF田はDRACを去り、小生とDRACの接点は、ここに終焉を遂げることになった。


71年、小生は下宿を岩倉から松ヶ崎の安アパートに移し、NOANOAをやりながら、F田や他のバイトの連中、そして白沙村荘の庭園の関係に従事する女学生達と交流を続けていた。

この頃庭園でバイトをしていた女子大生の友人が今の家内である。
また白沙村荘で事務員として働いていて、小生とは姉と弟のような関係で交流のあった女性が後にK田の奥さんとなる。

それまでの場所「お菜ところ」は、総ヒノキ作りで関雪の日本画のギャラリーとし建てられたものを、お晩材と酒を提供するシャレた店に改造したもの。
関雪の息子節哉のお嫁さん「田鶴子」さんがやることになったのを手伝っていた。

田鶴子さんは鹿児島県知事の娘という、由緒正しい人であったが、非常に気さくで仕事が終わると大抵一緒に近所の見せに飲みに行っていた。
樺山 愛輔の次女白洲、正子とは顔見知りの中であった。

お菜ところは、昼は観光客が多かったが、夜になると白沙村荘縁故の人たちが集う、ある種文化芸術のサロン的雰囲気が漂うような装いを呈した。

小生の文化芸術に対する興味がより深まったのは、この白沙村荘における日々によって培われたところが大きい。

陶芸家、詩人、作家、脚本家、画家、蔵元、有名な漬物屋、有名な寺の館主、美術館、博物館の館長、大学教授、劇団俳優などなど、あらゆる文化芸術関連の顔がいつも見える毎日で、時には話しに引きずり込まれたり、お酒の相手をしたことも数え切れない。

白洲正子さんと会ったのも、小山富士夫さん、女優のI・Nと知り合いになれたのもこの白沙村荘時代であった。

関雪のコレクションギャラリーとして作られた洋館を改造し、NOANOAをやったのは71年春のこと、京都で最初の「ピザとスパゲッティ」・・・イタリアンレストランとして好評であった。

もともと料理は好きで、中学生時代から大抵のものは自分で作っていたが、店で料理を提供するとなると話は全く違ってくる。
しかし自分の思うとおり店を任せてくれたから、張り合いが出て積極的に勉強した結果、本科的トマトソースと、ブイトーニそして完全手作りのピザ生地と、オランダ産ゴーダチーズのピザは、今でもその味を凌駕するものにはお目にかかれないほど美味しかった。

イタリアには行った事も無かったが、後にアルバイトに来ていた浄土寺の老舗のケーキ屋の息子O前が、新婚旅行でイタリアに行き、ナポリとローマでピザを食べたところ、NOANOAのピザの味にソックリだったのに驚いたという話をしたことがあるから、まんざらでもなかったのだろう。

利益製を気にせずに、ただ美味しいものを提供するという、殆ど素人同然のやり方であったから、今のピザのように、バリエーションはあっても、中身のウスッペラなものとは違い、満足度は高かったと自負しているが、利益は薄かったことだろう。
それでもそこが白沙村荘らしいところで、白沙村荘の庭園や美術品を鑑賞に来たお客に食事を提供するという、コンセプトがあったから、そのようなことが可能であった。

トマトケチャップと炒めた麺の「ナポリタン」が殆どの時代に、イタリアントマトを使用した本格的トマトソースとブイトーニの茹で上げスパゲティが不味いわけは無く、誰もが感激して食して行った。

小生が洋館の改装デザインを手がけ、初代チーフとして開発したNOANOAの料理が、時代とともにモディファイされたとはいえ、40年以上たった今も、京都銀閣寺畔の白沙村荘の中で、立派にその伝統の味を保ちつつあることはうれしいことである。

白沙村荘でのいろいろな体験のことは、一部先のブログに記載したが、いずれ改めて詳しく書いて置くことにしたい。
ここでの体験は、小生にとっては随一の大きな人生経験であり、文化芸術の中にドップリと漬かった日々であったから、今までの人生の中に占めるその影響は計り知れないものであった。

1972年の春、小生は京都から名古屋に帰って、お城の見えるホテルNCで働くことになる。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-09-22 10:03 | DRAC | Comments(2)

DRAC興亡史・・・1967~71その27「1969夏から1970」

≪1969夏以降≫

合宿終了後、小生は実家には数日しか戻らなく、すぐに京都に帰った。
BOXは当然誰もいなくて、文連がロックアウトを手伝った至誠館に入ると、そこにはM、S村、そして先輩のO田がいるではないか。

小生は彼らから、「情勢」を聞き、一方合宿での話をした。
彼らはロックアウトを監視しつつ、至誠館に寝泊りしており、大学側から水道やガスを止められていて、トイレの悪臭がどこからか匂ってくる中にいて、O田はなぜか至誠館の全てのマスターキーを持っていて、教授連中の使っている個室の研究室のドアが、全てそれによって開くことを見せてくれた。

小生は名前を良く知る経済学部の教授の部屋に入ったことがあるが、分厚い百科事典のような背表紙のマルクスの「資本論」がすべて揃っていたことを覚えている。

そのような状況下、BOXの鍵をもらいに受け付けのいつものおじさんのところに行き、鍵をもらおうとすると、鍵はもう渡してあるという。
しかし先ほどBOXに行っても、BOXは鍵がかかったまま誰もいなかったから、誰かがBOXの鍵を持ったまま外出しているのだろうと思っていたのだが、何時までたっても鍵は戻らなかった。

BOXのある別館と呼ばれた建物の管理は、以前からかなり杜撰で、大学から拠出されるサークル運用資金の中から管理費を出して、人を雇っていたのだと思われるが、鍵を渡すのにサークル証、学生証などは有名無実となっていて、小生などは顔パスで鍵を受け取ったことが何回もあったから、押して知るべしであった。

新学期が始まったとはいえ、相変わらずロックアウト状態は続き、キャンバスもガランとしている状態は変わらなかったし、DRACのメンバーも、日本音楽Gの5人ほどが顔を出したに過ぎなかった。

夏休みの間にBOXの鍵が誰かに持っていかれたままになったことと、殆ど誰も来なくなったBOXにあるオーディオ機材をそのまま置いておくことのリスクを考えて、、すぐに持っていけそうな金目の「アンプ」を一次預かることにし、その代わりにBOXではなく少なからずDRACのサークルメンバー達がいる至誠館に、自分のオーディオ装置を下宿から運び、そこで研究会を実施することに決めた。

その一室は、DRAC所属のメンバーが、立てこもって常駐する場所でもあったから、BOXよりは逆に何かと安全だし、彼らとも話ができるから、日本音楽グループの研究活動はロックアウト下にあっても続ける・・・というコンセプトで再開したのだった。

そのような小生の勝手な思いだったにもかかわらず、昔のメンバーに新規メンバーが数人加わってグループ活動は続いていった。

小生自身も、あるときはグループリーダー、あるときはデモをし、あるときは学生運動活動家達と話す機会を得るために、至誠館に泊まっていくこともあり、晩秋までそのような毎日が続いていった。

その頃小生は中村雄二郎の「現代情念論」という本を読み、非常にに感銘を受け、同時に当時文連の諸氏の間で流行っていた、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」、磯田光一の「比較転向論序説」、桶谷秀明の「土着と情況、そしてルカーチ、ゼーガース、ブロッホの「表現主義論争」から得るところが多く、特に中村雄二郎の「情念」そして「美と政治との間に」という著述は、吉本隆明以上に影響を与えてくれ、それらから日本の国際主義とナショナリズムと文学、芸術のかかわりと、日本人が持っているであろう「日本的なるもの」と非日本的なもの、それらが示す音楽上の諸相について興味があったので、それを研究会の主眼においていた。

それ以外では、北壮夫の欝時のエッセイや小説と、福永武彦の小説はすべて読んだ。
そして、これらのことが、研究会を進めていく原動力となっていたのは、ほぼ間違いないことであった。

「日本的なる物をめぐって」という大きな課題は、橋川の「日本浪漫派批判序説」から保田與重郎へと、小生を向かわせ「日本の橋」「現代奇人伝」をも読むようになり、日本の伝統への回帰・・ナショナリズムについて考えるようにもなっていた。

ナショナリズムを批判する側の根底に、ナショナリズムがあるのではないかというようなことに、朧気ながら気づいたのも、その頃であった。

(今思うに、当時の学生の中には、反右翼、反権力的なものと同時平行して、反日本共産党があり、それが反民主青年同盟→非日本共産党系のセクト、あるいは全共闘活動に参加し活動したもののパワーのひとつの要因であったと思われる向きもあるようだ。
日本人と共産主義思想は、理屈では理解を示せても、感性や日本人が根本的に持つ情念的意味では、決して相容れない異質の考え方なのだろうという気がしている。)


しかしそんな中、学園闘争は徐々に激化し、同時に同志社では主流のセクト、「ブント」の党派内抗争が勃発していった。

Mから機動隊が導入される可能性があるから、ここでの研究会はやめたほうがいいという助言があったこともあり、さらに始めは7人ほどいたバリケード内の研究会も、だんだん減っていき、4人を数えるほどとなっていたので、ここは潮時と思い研究会を一時中断することにした。
学友会執行部を実質握っていた赤ヘルの社学同:「ブント」の内紛騒動が活発となり、学友会執行部と全学闘執行部はその影響を多分に受けたのではないかと思われる。

学内派閥抗争を危惧した学校側が、今まで聖域とされてきた同志社大学のキャンパスに、機動隊を導入して、バリケード封鎖を解くという行為に出るという話であった。

至誠館には此春寮の活動家や2部の活動家もいて緊張した空気が流れ始めていた。

ここにおいてDRACの研究活動は、すべてが休止状態に陥り、至誠館から退去してしばらくして70年安保闘争の敗北が決定的となり、セクトの親玉と大学側の「ボス交」・・所謂談合が行われ、(噂では、学友会を独占していたあるセクトに、大学側から金がかなり動き、結果ロックアウト解除となったようで、それらのことに対して、今まで真摯に活動をしてきた活動家達がつき上げ、セクトの分裂に発展し社学同は関西派などに四分五烈していき、「赤軍派」へと発展した。

そしてMは「初期赤軍」のメンバーとなった。

Mは、同志社の初期赤軍派にその身をおいた一人であった。
Mと小生はそれでも日常の行き来は頻繁に有って、三里塚へ行くための交通費支援をしようと思い、そのときBOXから小生が安全のために勝手に預かっていた山水のアンプを質屋に持って行き、7000円の質札に換えた。

Mは、そんなことはする必要ないというのだったが、小生はその頃バイトをしていたから、すぐに返す当てがあったので「心配せずに使ってくれ」と、少し格好をつけて渡した。

それからしばらくしたある日、突然小生の下宿にM畑と、A馬がやってきて、「アンプを持って行ったそうだが、どこにある」というのだった。

「しまった、質屋から早く出しておくべきだった」と悔やんだが、その時はまだ質屋に入ったままだったから素直に「今質屋に入っているが、もうすぐ出そうと思っていたところだ」というと、泥棒を見るような目つきをして、小生をなじるのであった。

「お前達役員会をスッポカし、DRACを辞めたような人間に、そんなことを言われる筋合いは無い」、「役員会も、合宿もボイコットしておいて、ほとぼりが冷めたら、何食わぬ顔をしてまたDRACに戻るつもりなのか」と、突っぱねようと思ったが、その理由が何であれ、サークルの財産を勝手に質に入れ、しかもその理由は伏せておかねばならないからここは素直に謝り、すぐに質屋に行ってアンプを出して彼らに渡すことにした。

役員としての責任を取らない彼らが、そして長い間BOXにも寄り付かないで居た彼らが、何故今頃になって、アンプを取り戻しに来たのか・・・よくわからないが、学園紛争も落ち着きを見せ始めた頃、再びBOXに来てアンプが無いことに気が付き、その頃まで周辺に居た連中に聞いて回って、小生にめぼしを付けたのだろう。
確かにS村には盗難の危険があるからアンプを預かっていることを話しておいた覚えがある。

質屋に入れたのはまずかったが、そのアンプもその後何時しかなくなってしまったらしいから、M畑、A馬がその後どのように管理したのかは不明のままである。
正義感からなのか、グループ活動再開という目的があってのことなのか、小生が個人的に流用するとでも思ったのだろうか。

その後彼らがグループ活動を再開したという話は聞いたことが無いから、単にサークル所有のものを個人で預かる状態に置いておくことはいけないことである・・・というような一般常識のなせる業だったのであろう。(アンプを預かった理由を話す気にもなれなかったので、誤解されたままになっていることだろう。バリケードの中の研究会など、彼らには想像もつかないことだから。)

とにかく、質に入れたことで、「盗難の危険性のリスクヘッジ」という小生のロジックは、見事に崩れたのであった。

その後、もうすぐ年度変わりという3回生後半のときのDRACは、2回生(次期3回生の)A田が半年余りの短期の幹事長となり、3回生になるとやがて2回生にその座を譲るという状態で、ほとんど執行部体制も無いような形式的なサークル組織であった。

小生はA田が幹事長になった1970年4月頃にDRACから離れ、バイトに精を出しながら、つぶれてしまった同志社学生新聞局を復活すべく、その方面で力を発揮しようとしていた。

これは先輩のO田の強力何誘いがあったのと、何らかを表現することに飢えていたことも合って、別館2階にあった「新聞局」のBOXに足を運ぶ毎日が続いた。

新聞局がつぶれたのは恐らく、学友会の主流であったブントの内部抗争が影響したものと思われ、
荒れた新聞局BOXには旧新聞局のメンバーは、誰一人として残ってはいなかった。

小生は、新聞発行などは、大昔の学級新聞をやったのみの素人だったから、京大の新聞部OBから手ほどきを受けながら、記事集めに奔走し、紙面の構成を考えた。
O田が「コラム」をすべて任せるというので、「ダス・ボルト」=「言葉」という名前にし、第1回のコラムを、新聞局宛に来た試写会のチケットを手にして観た、アントニオーニの難解な映画「砂丘」“Zabriskie Point”について書くことにした。

しかし難解すぎてよくわからなかったので、劇伴音楽として流れるサウンドに時々「ピンク・フロイド」と表記されるのを見て、イギリスのプログレの元祖ということを知り、その音楽について重点的にコメントすることにした。

しかしO田には「ピンク・フロイド」は理解されず、かなり文句を言われたが、小生はそのまま第一回のコラム「ダス・ボルト」として掲載した。

このとき復活新聞局発刊第1号のトップは、学友会の委員長だった「矢谷暢一郎」が、此春寮のある人間に託していった、68年から69年にわたる学友会活動総括の長い文章であった。

70年春、彼はすでに大学から姿をくらましていて、行く先不明の状態であったようだが、闘争の一時終焉における彼自身の総括は、掲載すべきであるという判断から第一面に持ってきたのであった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-09-21 09:02 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71その26「合宿の思い出」

≪出来事≫
1969夏、三方五湖で開催した合宿は、分科会形式でランダムのグループに別れ、話し合いをもつことにし、一方幹事長と小生は、(他の役員欠席だから2人だけで)、徹底的に話し合うことにした。

2人の話は長い時間続き、昼食の時間を過ぎても終わることがなかったので、他の全員には先に昼食を先に済ませるように言い、お昼もかなり過ぎた頃、食堂に向かった。
食事は何かの丼物らしく見ると、全員のテーブルには、まだ箸をつけてないような状態で整然としていて、出されたときのような状態で綺麗に並んだままであったから、全員がまだ食事をしないで待ってくれたのとばかり思い、少々悪い気持ちで最寄の丼の蓋を開けてみると、其れは全て食べつくされてカラッポであった。

隣のも、またその隣のものも、3つ.4つ空けたのだが、いずれも全部中身は食べられていて、そのときやっと、担がれたということに気がついた。

これはどういうことなのだろう?2人が食事の時間に遅れたのは申し訳ないが、重要な議論が白熱している最中だったから、食事は後で良いと思い、他のメンバーには先に食べてもらうように伝えたはずなのに・・・・
食べるのを諦めて部屋に戻り、そんなことをボンヤリ考えながらも、再びHS川との議論を再開していたとき、こっそり2人分の食事を運んでくれた女性がいた。

其れが女子大から入部した2回生の女性Y木であった。
S井達の扇動に、皆がそうする雰囲気なので、心ならずもそのようにしたのだが、心が引けたのだろう。
彼らに気がつかれないように、密かに運んできてくれたのだった。

冗談ともいえないような仕掛けをし、全員がそれに乗ることになったのはS井が扇動した結果によるものとしか考えられないが、少なくともDRACの執行部の幹部が2人、真剣に話し合いをしているのに、其れを知っていて茶かすような行為を仕掛け、(しかもこれは全員が協力しなければできないことだから)・・・どのような意図だったか分からないが、全員を従えて実施したこと、それに全員が従ったことに小生は物凄く衝撃を受けたのだった。

冗談や笑の出るような合宿の雰囲気ではなかったのに、彼らは一体どのような話し合いを持ったのか?一体何を考えているのか?
ひどくガッカリしたのと同時に、そんな疑問が脳裏を掠め、「このようなサークルは、もうどうしようもない」という諦めに近い何かが急に襲ってくるのを感じていた。

冷静であれば、「ピリピリした空気を和ませるためのもの」などということとも、考えられるのだろうが、少なくともHS川との話は、DRACを潰すか否かという・・・これはわれわれだけの問題ではなく、創設時にまでさかのぼる話である。

大学の顧問や松本氏を始とする諸先輩にまで影響し、小生にとっては公私共に世話になった、旧執行部先輩たちの努力と歴史を灰埃に帰すものと思われたから、HS川がよく例に出した、「中川五郎」(今はもう長すぎるコンチェルトなど、聞いているときではない・・・)的な考え方が象徴する文化サークル意識を持って、そんなにアッサリと簡単にDRACの活動を否定し廃止に至らしめることには、絶対的反対の立場を取らざるを得なかった。

(自己否定という言葉が正義の御旗のように、また一種の流行り病のように有って、HS川はよく「自己否定」という言葉を使っていた。)

自己否定、サークル否定・・・・反省や総括レヴューをし、改善ポイントを明確にした上で次のステップに進むのなら話は分かるが、否定し廃止し潰してはどうしようもない。

何がHS川をそこまでさせたのかいまだに原因は分からないが、その頃学生達の感性を支配していたもの1つとしての「アンビバレンツ」、「デスパレート」などの心情があった。

(自ら幹事長を退く宣言をしたほうが良かったのに、HS川はやはり人がいいのだろう、多分一人で悩んでいたのだろうと思うところもある。
68年春、HS川一人に幹事長押し付けの手をあげさせておきながら、それを支えてやらなかった小生を始め、ほかの役員幹部には大いに責任がある)

しかしそのような心情は少なからず誰もがあの時代には持っていたことでもあり、その中においても、目的意識を持とうとしていた人間が多くいたのも事実である。

HS川個人の問題(とばかりは言えないが)をサークル論に発展させて、しかも其れを大学紛争、70年安保闘争と文連傘下のサークル活動の意義に直結させて考える単細胞的思考に、小生は我慢ができなかった。

その頃の周りの風潮でもあった、政治>文化という意識的、無意識的な図式は、非常に危ういものがあると感じていたからである。

こうして2人の話し合いは、延々4時間以上続いたが、当たり前のように到達点を見ることはなかった。

小生は「潮時」を感じ始め、サークル員の意志を確認した上で、すでに有名無実となっていたグループおよび現執行部の立て直しは不可能であると判断した。
しかし、HS川がDRAC解散宣言を出すことは、絶対にやめろと釘を刺して、自然の流れに任せるように仕向けることに落ち着かせた。

全体会議の席上では、小生は今後も引き続きサークル活動を継続するという意思を示し、DRACに残るか去っていくかは、各自の判断に任せる旨の発言をした。
しかし、最早続ける研究グループがほんの少ししかないのだから、実質的にはサークル員は寄り付く島がない。

夏休みが終わった頃、大学がどのように変貌するかによっても、状況が変わるだろうとの見通しにすがる形で、ひとまず「夏休み休止」状態として合宿を終了させることにした。

小生のグループは、活動を継続するという宣言を公然としたが、夏休み後、グループ員が集るかは非常に不安でもあった。

しかし、一定の結論を自身でも出したから、逆に妙にスッキリして、その夜食事が終わり、ビールを飲んでいると、F原がマージャンをやろうと言い出したので、その誘いに乗ることにした。

このときの小生は、強運がついていたのか、終始変わることなく付き捲り、半チャン4回すべて一人勝ち、結果4000円ほどの(賞金)が懐に入ることになった。
普段であれば、何らかの形で還元するのだが、なぜか(お昼のあの仕打ちのことが脳裏にあったのだろう)ビールを2本提供しただけで、後は懐にチャッカリしまっておいた。(このお金が後に非常に大事なお金となる)

日付が変わる頃布団に入り、ウトウトしたと思うと、小声で「SY野さん、SY野さん」と耳元で囁く声がする。
眠い目を開けてみると、その声の主は別室にいるはずの女性の集団から抜け出してきた、女子大から入部した1回生のY内だった。

「Y木さんが、外の水呑場にいるから、行ってください」という。
見ると時計の針は朝の4時半を指していた。
ようやく回りがボンヤリと明るくなる頃である。

「どうかしたのか」と聞くと、「いいからすぐに、行ってください」と急かすように言う。

何かが起こったのかと思いながら、すばやく着替えて水呑場に行ってみると、そこにはY木がいて、この合宿の様々な事件がショックだったのか、「もうDRAC、なくなってしまうんですね」「眠れなかった」などと文学少女のように、寂しそうに言うのであった。
そして、「もうここにいたくない」、「すぐにでも出たい」などと言うのだった。
落ち着かせるために海を見に行って少し話したが、何か切羽詰っているように感じられたから、それなら一緒にここから出ようかと言うと、黙ったままうなずくのであった。
朝の4時半である、他の皆はグッスリと眠っている時間である。
このことを知っているのはY内だけ。

合宿は昨夜で終了しているし、今日はこのままどこかで遊覧をして帰るだけであったから、小生がいなくても別にどうということはない。
そう思いながら、出発のため荷物を簡単にまとめ、Y内に・・・今から帰るからと言うと、彼女は、そうなることを予想していたように、笑顔を見せて「はい、気を付けて」と言って見送ってくれるのだった。

それでも、黙ったままではY内に迷惑がかかると思い、眠りの最中のHS川を起こし、帰るということだけを話して、Y木と2人で脱出したのであった。

どこに行くとも決めてなく、駅に行く交通機関も勿論ないから、とにかく駅の方角を目指し歩いていると、しばらくして後ろから農家のトラックらしき車が来て止まり、「どこに行くのだ」、「それなら駅まで乗せて行ってやる」といって、5時過ぎに駅に着いた。

このまま乗り継いで京都まで帰っても良かったが、それでは余り面白みがない。
そういえば懐には昨夜マージャンで勝った軍資金があるではないか。
それですぐに時刻表とにらめっこしながら、今まで経由したことがない路線を使って、とにかく小生の実家に連れて行くことにした。

そのことを話すと、Y木は軽くうなずくので、北陸線と信越線、中央西線を乗り継いで名古屋へと向かう・・・物凄い遠回りの路線を選択した。
これは昨夜の軍資金がなかったらできないことで、昨夜の付きが今日の長い路線の切符に化けたということになった。

何時間かかったかは覚えていないが、・・・朝5時に出て実家に着いたのが、夜7時過ぎだったから、相当長い時間一緒にすごしたことになる。

Y木は、小生の実家に二晩泊まって、当初のショック状態からもとに戻って、小生と一緒に京都に帰った。

このことは「三方五湖からの逃亡事件」として、サークル員の間で有名となったが、小生自身なぜあの時あのような行動が取れたのか、いまだに不思議である。

Y内とY木の間ですでに打ち合わせができていた・・・・そう考えなければ、あのタイミングで、あのようなことが起こりえるはずは無く、あるいはY内が単独で、Y木と小生を引っ付けようとしたのか、あの夜女性2人で眠れない夜をすごしながらオシャベリをした結果なのか、其れについての真相は聞かずじまいのままである。

Y内は、その後もいろいろな形で小生とかかわる機会が多く、手料理を作るから食べに来てという誘いで、彼女の家に行った事もあるし、NOANOAにも頻繁に顔を見せるようになっていた。

Y内は可愛らしいし頭の良い女性であったが、かなり無茶をすることも有り、妹のような存在であった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-09-20 08:59 | DRAC | Comments(1)

DRAC興亡史・・・1967~71その25「潮時」

≪分裂と崩壊の兆候≫

さて小生はデモには参加はしたものの、あくまで其れはサークル活動とは切り離して考えていて、決して中川五郎の歌に象徴されるようなことからではなかった。

「今は長すぎるコンチェルトなど、聴いているときではない・・・」
そのような歌に象徴されることを、そのまま受け入れるのか否かが、幹事長HS川と、副幹事長の小生の間の亀裂となっていき、其れが大きくなったのが69年の夏であった。

HS川は、サークル活動を、現状の大学の状況下では、無意味なものと考えるようになり、その頃から徐々にBOXに集るサークル員の数が現少してきたことを、「サークル活動に意味がないからだ」と総括するようになっていた。

小生は其れとは意見を異にしていて、少なくとも日本音楽Gは、メンバーも減少することなく続けていけていたし、研究活動を続ける自信はあったから、「サークル員がBOXに余りこなくなったのは、文連総体が赤色に染まっていくのを感じ始めたことの・・・すなわち学生運動に巻き込まれたくないと思っている諸氏達の思惑が、サークル活動よりも自身の身の安全を取る保全の力学として働いた結果にしか過ぎないという反論をした。

すでにその頃には、主だった校舎の殆どが「ロック」され、入り口は机や椅子が積み上げられ、所謂「ロックアウト」の状態にあり、講義の殆どは「休講」状態にあった。
そして文連本部は至誠館のロックアウトに参加し、ロックアウトに参加した傘下のサークル員達も少なからず存在した。

観光研究会、映画研究会、広告研究会、といった研究サークルは活発で、CCDと呼ばれる混声合唱団、グリー、軽音楽といったプレーイングサークルからも積極的な参加があったようだ。
DRACからは、S井、S村、ゲバ男(名前を失念)そしてMが積極的に参加した。

その頃すでに古典やロマンという音楽史的分類下のグループは、その活動根拠を見失っていたような感があり、リーダーたちは気がつきながらも改善の道を進もうとしてこなかったこともあって、それまで多数を占めていたそれらグループの半数以上のサークル員は、いつの間にかBOXから去っていき、実質活動は休止状態に陥っていた。

またこの状況を見て、グループリーダーや役員の一部には別館・BOXから足を意識的に遠ざける人間も存在した。
其れにより、水コンも機関紙の発行も不可能となり、研究会は一部でしか開催されないまま夏が来た。
しかしそれでも、他には殆ど誰も来ないBOXで、日本音楽Gは、活動を続けていた。

HS川が、そのことを知らないわけはないはずであるが、DRAC総体の活動を無意味だと総括したことに、小生は至極腹を立て、其れならば総会件合宿を開催し、この現状についてメンバーがどのように考えているのか、徹底的に話し合おうと提案したのであった。
(この時点でHS川の幹事長辞任のサインを見抜いていればよかったが、それには気がつかずにいた)
(このくだりを書いている9月12日お昼ごろ、家内が「安倍首相辞任の意向を伝える」というニュースが流れたといって知らせにきた。
国会中継を見るためにPC作業を、一休みしようと思っていた矢先のこと、それから数時間TVの前に釘付けとなった。
規模の大小、政治と学生サークルの違いこそあれ、組織の「長」の幕引きのタイミングとそのスタイルには、大きな差がないことがわかって、安倍首相退任事件とHS川の姿が今、物凄くオーバーラップしてくるのだった。)


夏季合宿を急遽総会兼夏季合宿の位置づけとし、全員参加を呼びかけ、三方五湖の民宿で試験が終了し祇園祭が終わった頃、夏休み前直前に開催することにした。
5月に実施した、北小松学舎での合宿には、新入生を含め総勢40名を越すメンバーが参加したが、特に自宅通勤者は大学がロックアウトされると、大学に寄り付かなくなっていたようだったこともあって、数ヶ月後には半数ほどとなってしまったが、それでも、三方五湖の合宿には、新入生と2回生のかなりのサークル員が出席し、総勢15人以上となった。しかし、其れにもかかわらず重要な立場であるはずの、3回生執行部役員およびグループリーダーの出席者はごく少数であった。

夏休み直前の試験終了後(このときは、試験がない講義が多く、レポート提出が多かった)で、しかも恒例の合宿だったが、執行部を含むわれわれ3回生のうち、出席したのは幹事長、副幹事長、F原(グズラというニックネームだった)を始め、数人にしか過ぎなかった。

また、この合宿には、すでに卒業した妙心寺の近くに住む先輩K嶋の紹介でDRACに入部しており、持ち前のDADA思想を持ってかなり影響を及ぼしていた男・・・1年留任の4回生・・小生たちより実質2年先輩に当たる佐賀出身のS井が参加した。

彼が何故DRACに入部したのかはいまだに謎で、取り分けて音楽に精通したところもなさそうだったので、あるときその理由を本人に聞いてみたことがあるのだが、何も答えなかった。

恐らく先輩K嶋が、われわれが2回生の若さで新執行部体制を取ることになっとき、ご意見番的な立場にと考え、S井に頼んでDRACに入部させたのだろうと推測している。
S井とK嶋は、同じ頃スピードスケートのクラブに入っていたことがあったという。

このS井が若手達に与えたインパクトは、相当なものがあり、時期幹事長のA田を初め同期のK田でさえ、かなりの影響を受けたのではなかろうかと、思えるところが多々あった。
確かに常人が余り知るところではない、ダダイズム、デカダンス、アヴァンギャルドなどの芸術運動についての知見があったので、それらを初体験のメンバーには、多大なインパクトを与えたのは事実だった。

村山槐太や辻潤を知っている人間は当時殆ど存在しなかったのだから、それらの名前や作品について彼が語ると、未知のものを知っている物凄い人物という憧れに近い何かがあったのだろう。

もう一つの驚きは、S井の女性の扱い(経験)であったと思われる。
S井の女性との様々な接触の物語を聞かされたものは数多く、平均的には初心なものが多かったDRACの若手は、目を丸くしてその夜伽話のような話に聞き入った。
S井は「無頼漢」を気取っては、若手を驚愕させていたことは事実であったように思う。

S井とはいろいろ話をすることがあったが、恐らくお互いを認めていた結果だろう、激しい論戦になることは余りなかった。
「ヤーさん」とニックネームされていて、殆どの人間がそう呼んでいたS井は、最年長だったから、他のサークル員を呼び捨てにしていたが、しかし小生には「君」付けするか「あんた」といつも言っていた。

そんなS井が、なぜか三方五湖での合宿に参加したのであった。

誤解を恐れずに大胆に整理しておくと、この合宿の目的は

HS川がDRACの活動無意味派→廃止派、小生は、研究派で存続派の立場を取っていて、この件について(また現状の大学が置かれた環境下のサークルとして)自分自身は何をどうしたいのかという問いかけをし、自分自身の方向性を確認し、その上でDRACをどのようにするのか・・・すなわち休止・廃止・・・つまりDRACから去るのか、継続するのか、または第三の道があるのか
・・・以上のような答えを導き出すための大変重いものであった。

然るにこの内容で総会件合宿を開催することは、事前にメンバー全員に知らせてあったが、中心的存在であるはずの3回生は半数以上70%近くが出席しなかった。
小生はこのとき、何も言わずに欠席した執行部の連中を、責任放棄者であり、したがってDRAC退部者であるとまで認識するに至っていた。

今考えれば、これは現執行部の役職放棄であるから、そして幹事長はすでに気力を失っているのだから「執行部解散」とし、新執行部の選挙に移行するのが常道であったろうと考えられるが、「DRACを潰してもかまわない」などという幹事長や、其れを結果的に助長するようなS井の発言、それに下級生の中で次期執行部を担える気力があるものは、パワーと絶対数が不足している現状では、3回生と2回生混合の執行部体制を作っていくしかありえないこともわかっていたから、本来そのことについても話し合う予定をしていたのだ。

しかしそのことについて話し合おうとするも、A馬、I藤、Y田、HS川A、M畑、T田、彼らは役員であるにもかかわらず重要な合宿をボイコットし、K田は、昨年の夏休みに故郷のバイト先で知り合ったという女性と、再びバイト先で会う約束をしたという理由で、早々と故郷に帰った。

3回生ともなれば、近い将来のことを考えて、現状の大学での身の処し方を考える頃でもあるが、何も告げずに欠席するということは許されることではない。

休講、単位取得不能、卒業できないかもしれない、就職に大いに響く・・という近い将来に対する不安が、とても「サークルどころではない」という気持ちに傾かせたのは、理解できないことはないが、このあたりの無責任さに、執行部成立時の危うさが透けて見えるような気がしている。

近い将来のことを考え、少しでも学生運動の匂いのするものには一切かかわらないほうが安全と思う気持ち、そしてグループ活動の限界を感じていたことが、彼らの心情を直撃したのだろう。

学園紛争とサークル活動を、同じ次元で捉えることしかできない頭脳構造の持ち主。
「研究」という命題に、総論賛成各論反対の立場をとってきた人間、あるいは面従腹背の輩たちの本性は、このようにして露呈していった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-09-19 09:01 | DRAC | Comments(0)

DRAC興亡史・・・1967~71その24「幻想曲とフーガ」

≪危ない記憶≫

しかし小生はサークル活動と学園闘争を切り離して考えることに決めていて、文連本部が「赤色」に染まり始め、傘下のサークルでさえ「赤色」のヘルメットに白文字で全学闘と書き入れることを成り行きで迫られたときに、Mにそのことを話してみると、彼も意外と学園闘争のヘルメットを「赤色」にするのには難色を示す一人であった。

白色では工事現場の人みたいでおかしいし、黄色では嫌いな政党の下部組織の人間みたいで避けねばならなかったので、赤色の上から塗れるスプレーの「黒色」を選択し、吹き付けるが水性と油性の違いなのか、下に塗られた赤色の塗料が、収縮して皺になり其れがなんともいえぬ亀甲紋風の風情を出したのだった。

文字は全く入れずに自身のアイデンティティを出したつもりであったが、この「黒」の、しかも皺になって、かなり古びたように見える其れが、後に小生にとって大きな事件の一つに発展することになるのだった。

沖縄反戦闘争だったかでの、大阪御堂筋のデモにMとともに参加することになったのだが、例の黒色のヘルメットを携えて大阪に出向く途中、Mが突然「ひょっとしたらそのヘルメット、やばいかもしれん」と言い出した。
聞けば当時のセクトで、一番暴力的で危険なセクトが矢張り黒のヘルメットだというではないか。

でも小生のは艶消しで、しかも相当くたびれかけて見えるし、ロゴも全く入ってないから大丈夫だろうなどといって、そのままデモに参加した。
御堂筋を南にデモは続いたが、ある場面で先頭の集団がいきなりジグザクデモを開始したとたん、其れまで周囲を警備していただけの機動隊がいっせいに、デモを阻止すべく動き出した。

それでもしばらくの間、ジグザクは止まることなく続けられたのだが、機動隊員たちの目がどうも小生を見ているような気がしてならなかった。小生を見て隣同士、何か小声で話しているようなのだ。

デモ隊が進み、途中で長い竹竿を持った赤ヘルの集団と・・・これは明らかにセクトの集団と合流しかかったその途端、機動隊が一斉にデモ隊を襲ってきた。
これはやばい、さっきから小生の黒ヘルに目をつけていたのは間違いない・・・そう思った瞬間、小生はヘルメットを思い切り脱ぎ捨て、羽織っていたナイロンのヤッケをも脱ぎ捨て、一目散に御堂筋から全速力で脱出し、横丁地下の飲み屋街に逃げ込んだ。

そこには店主と思しき中年の女性と4・5人の客らしい人がいたが、皆親切にしてくれ、お茶までご馳走になって、ほとぼりが冷めるしばらくの間置いてくれた。

京都から来た同志社大学の学生だというと、ご苦労はんなことや、わしの親戚にもあんたと同じ大学に行っているものがおる、気いつけて帰りや、帰りの電車賃は有るのかなどと親切に言ってくれた。

下町の人情を感じて感激しつつ、約1時間置いてもらった後、京都に引き返した。
このとき数十人の学生が検挙されたと後に聞いたが、もう少し逃げるのが遅れたら、あのセクトの人間と間違われて、相当ひどい目に合わされていたものと震え上がったものであった。

京都大学での集会に参加したときにも、大学側が機動隊を要請し、キャンバスに機動隊が入ってきたことがあった。
少し前の「百万遍の市街戦」のような騒ぎの影響だったのかもしれない。

文連傘下のサークルの人間を含めた学生が、学生会館前から出町を経由し、百万遍から京大の時計台下の広場までデモ行進する10.21国際反戦デーのイベントだったように記憶する。

見かけはただのデモ行進であったが、京大に到着すると、そこにはあらゆる色のセクトのヘルメットと旗が並ぶという物凄い光景で、文連の諸氏はうまく赤ヘルのセクトの口車に乗っかった形で、中には赤ヘルに白地で文連と書いたヘルメットで参加したものまで少なからずいた。

文連本部役員の中には、「赤」のヘルメットに象徴されるセクトの人間が存在したのかも知れない。

京都府学連の呼びかけの集会であることを知らずに参加したから、京大に到着して驚いていたのも後の祭り、大学側が機動隊の要請をし、大挙して乱入してきたから、学生はチリジリとなって方々に逃げるのみであったが、小生は行き先を見失って京大のとある校舎の3階に逃げ込んだ。

しばらく息を潜めていると、突然「お前らどこのものや」という大きな声とともに、3人のツメ襟姿の、京大生らしくない、どこかの体育会系の大学の生徒のような男が傍に立っていた。

同志社大の・・と言いかけると、さえぎるように、「どうして同志社の学生がここにおるじゃ」とやくざのような口調で言うのだった。

機動隊に追われて逃げ込んだのを知っていて言うのだから性質が悪いが、サークルの交流でとか何とか言えばいいものを、そのときはそのような機転が利かずにいて、それから延々と数時間にわたり監禁状態に置かれてしまった。

夕闇が迫って暗くなりかけた頃にやっと開放され、BOXにも最早人がいないだろうと思いついつ、かといってこのまま下宿に帰るのも侘しかったので、K田を訪ねると、DRACでも文連本部でも小生がいなくなったことで話題となっていて、恐らく機動隊につかまったものと思っていたそうである。

2.3発軽く殴られた後、しばらく監禁されたことを話し、その夜はブラックニッカ・・・文字通り苦い酒を飲みながらK田の下宿で過したことがあった。

当初は恐ろしく思えたその体育会系の・・京大生に間違いないと思うが、話をするうちに相手が当初、小生をセクトの人間と思い込んでいて、殴ったことを悪く思ったのか、柔和な姿勢を見せた。

それで、時が来れば開放されると言う実感があったから、ひたすらそのときを待っていたが、矢張り思ったとおりそこは体育会の学生、事情が分かりしばらくするとアッサリ返してくれたが、これが黄色のヘルメットであったとしたら、加茂川に浮いていたかもしれないと、思い出す度にゾットするのだった。

R大、K大の「暁部隊」という黄色のヘルメット集団は、学生と社会人が組織する、ある政治政党の青年組織で、何をするか分からない、有名な強力な恐怖の集団という噂を耳にしていたのだ。

小生が初めてヘルメットを着用し、その効果を体験したのは、新町校舎をある政治政党の下部青年組織が占領し、通用門を閉じて逆ロックアウトをしたということからであった。

いつも、暴力反対と言っていたにもかかわらず校舎に立てこもって投石器だろうか、石を無差別に投げてくるのだった。
隣のR大や社会人(暁部隊)も参加しているらしいという噂も聞いた。

それで彼らを追い出し、ロックアウトを解除すべく駆けつけるその中に入って、校舎の手前の扉の前に待機しているとき、突然「ガン」という音とともに、頭と首に強いショックを受け、体がしびれるような感触が襲ってきた。

偶然Mから渡されたヘルメットをかぶっていたが、其れを脱いで見るとヘルメットの頂上に直径5cmぐらいの皹が入っているのが確認できた。
石が飛んできてヘルメットを直撃したのである。

相当のショックだったし、一体どのくらいの石を彼らが投げているのか、あたりを探すとこぶし大より少し大きいブロック槐が近くに落ちていた。

校舎の2回から恐らく投石機によって投げられたからその衝撃は大きく、もしヘルメットを着用していなかったら、頭蓋骨骨折で脳挫傷の可能性も有ったことだろう。

しかし中にはヘルメットなしで参加するものもいて、学友会の「NH」が勇敢にも、ヘルメットなしで、飛んでくる石を除けていた光景を思い出す。
この体験から小生はその後ヘルメットを着用することにしたのだった。

[PR]

by noanoa1970 | 2007-09-18 07:09 | DRAC | Comments(0)