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お気に入りの器

シーズンには山菜を盛り付けた浅い鉢・・・あるいは伊万里隅切り四方皿。

花瓶に菊が生けられている。
いかにも中国風の絵付けであるし、「大化年製」とあるから、大陸のものの写しであると思われるが、画才はあまり無いが、いかにも職人らしく、細かい作業がしてある。
あまりデフォルメされてないところや、絵付けが緻密なところから、江戸時代中期以前の伊万里のように思う。
30センチ四方の皿だ。

残念なことに、少し変形してしまったので、いびつであるが、見ようによってそれもまた一つの味である。
以前この皿に小さなケーキを10個ほど並べて見たことがあったが、ジャストマッチであった。
和洋なんにでも似合う不思議なデザインの皿で、特にお気に入りの一つである。
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by noanoa1970 | 2011-11-13 15:01 | 骨董で遊ぶ | Comments(6)

手入れとしつらえ

昨日冬に備え、骨董の鉄瓶の掃除をしたので、本日は自在鉤の手入れをした。

長い間使ってないまま、ぶら下がっていたから、埃が付いているし、鉄の輪を組み合わせたチェーンのような形状の自在鉤は、最下部の輪が一番細い部分で2ミリほどにすり減ってしまって、今にもちぎれそうだから、そこにテンションガかからないようにしなくてはならない。

どの時代のものなのかは判然としないが、これも高山の骨董屋で入手したもの。

壁に沿って吊るされた自在の先には、籐製の花入れが下がっていて、生けられた花とのバランスガ非常に良かったので、有無をいわさずに入手した。

自在鉤にしては華奢で重い物は吊るせないようだから、囲炉裏には向いてないのかも知れないが、小生の家野囲炉裏は、囲炉裏風のテーブルを改造し、銅で創ってもらった炉が納めてあるものだから、所謂囲炉裏ではない。

したがって自在鉤は、古くからあるデザインのような重厚なものだと、囲炉裏テーブルには似合わない。
火災の危険があるから、薪は一切使用しなくて、炭だけしか使わないから、大きな鉄鍋を上から吊り下げることはないし、もしそうなっても、五徳の上に置けば済む。

あくまでもデザイン優先となったが、都会の偽物の囲炉裏では其れも致し方無い。
しかし炭であれば、十分に熾り、炉の厚さも30センチ近くあるから、熱が籠ることはない。

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清掃して乾燥させていると、家内が水焜炉を(器の中に水を張りその上に炭を載せて使用する)出してきたので、早速試しに自在の先に鉄瓶を吊るし、高さを調節して、昨日の鉄瓶を水焜炉の上にくるようにした。

実際にはこのようなな使い方はしないので、あくまでも実験的アイディアだ。

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この水焜炉は、白洲正子の随筆、『日本のたくみ ── 土楽さんの焼きもの』で紹介された 福森雅武氏の窯で焼かれたもの。

伊賀焼の土鍋は、土の密度が高くてしかも硬いから、熱しにくいが非常に冷めにくい性質を持っており、ことこと炊き上げる料理には最適だ。

本日は写真はないが、大きさは尺2、全体が黒い釉薬で覆われていて、持ち重りがする土鍋で、高温で焼きしめた感のあるものだ。10年前、丸柱まで行って水焜炉と一緒に入手し、以来様々な鍋物で重宝してきたものだ。
*水焜炉は、現在生産されてない模様
*土鍋に興味が有る方は上の色が変わったところをクリックで「土楽」HPにいけます。

囲炉裏の五徳か、横着したときは卓上ガスコンロの上において使うことが多かったから、この水焜炉に熾した炭を入れたことはない。

だからほぼ新品に近いが、置いておくだけではもったいないから、この冬は囲炉裏と併用して使ってみることにした。

本来目的は、土鍋を置くためのものだが、本日は囲炉裏の代わりになるような、しつらえとしてみたが、これもなかなかの雰囲気がある。

すぐにでも炭を熾して、鉄瓶でお湯を沸かし、美味しいコーヒーデモ飲みたい衝動にかられるが、後数ヶ月の我慢が必要だ。

家内と二人では土鍋の出番はないが、冬になるとかつてはミニパーティを開催して、土鍋が活躍したものだった。

永源寺の漁師から分けてもらった猪のロースを、味噌仕立てにしたときの油の美味しさは格別で、新鮮な猪のロースの脂身が、熱すると三角形のギザギザになることを初めて知った。

あるときは鍋いっぱいにおでんを、そしてあるときには丸のまま1匹手に入った鮟鱇で鍋を、さらに長浜で入手した青首の鴨鍋を、作者の福森氏はこの土鍋でステーキを焼くと最高の味がするという、まだ試したことはないが、小生の料理の勘がローストビーフがよさそうだということを告げている。

息子が帰ってこないと多分出番がなかなか無いが、この冬は土鍋を大いに活用しようと、せっかちだが今から思いを馳せている。

by noanoa1970 | 2011-08-21 22:57 | 日常のこと | Comments(7)

冬が来る前に

ここ数年間お世話にならなかった囲炉裏。
今年は十分活用しようと思い立ち、少し気が早いけど、引っ張り出したのは鉄瓶。

我が家には、骨董の鉄瓶が3個あって、その1つ飛騨高山の骨董屋で見つけたもの。
他の2つは義父の家にあったものを、引き継いだ。

高山で入手したものは、
骨董屋も気がつかなかったほんの微細な象嵌が、持ち手にあるもの。

大小の古い鉄輪を、いくつも繋ぎ合わせた自在鉤と一緒に入手したが、鉄瓶も自罪もこれは良い拾い物をしたと思っている。

本日は、鉄瓶をメンテナンスしようと、埃にまみれた鉄瓶を、先ずは洗浄することにした。

古い鉄瓶は、大体内側に赤錆が付着するものが多いが、3つ共に赤錆が付着している。

お湯を注いでみたが、幸い錆による影響はないようだから、しっかり乾燥させて、もう少し涼しくなったら、コメのとぎ汁か、さつまいもかじゃがいもを茹でたものを入れて、卓上ガスコンロでエージングすれば大丈夫のはず。

ガスストーブを使用するようになれば、その上に載せていつもおゆを沸かすようにすれば、これで完璧のはず。

いつもというわけには行かないので、ここぞという時には、炭を熾して囲炉裏に移し、その上でお湯をわかすことにしよう。

お湯が沸騰する前の合図のように、鉄瓶の蓋が共鳴して、チンチンという音を聽かせてくれるのが楽しみなことだが、砂鉄で作られたた鉄瓶でないと、あの音が出ないそうだ。

幼児期、父親の実家に行くと、火鉢に鉄瓶がかかっていて、チンチンという音を立てていたことを覚えているが、あの鉄瓶は砂鉄でできていたのだろうか。3つの鉄瓶の内どれかが、そうだといいのだけれど。

喩えそうでなくても、目の前でシュンシュンと湯気を立てるのも魅了的だ。

鉄瓶のお湯で立てる抹茶もさぞ美味しいことだろう。
鉄瓶でわかしたお湯で立てるコーヒーも旨いはず、濃い目のモカかキリマンを、古伊万里のそば猪口で飲むのもチョット贅沢な楽しみだ。

幸い倉庫にはメーカーから送られた備長炭が山ほどある。
地格の上石津の山奥では、今も炭焼き行われていて、かなり良い炭を安価に提供してくれるから、キャンプ用の粗悪な炭を使わなくてもよい。

そんな思いを巡らせながら、本日のメンテナンスを終わることにした。

道具はキチント使用し、メンテナンスさえ怠らなければ、どんなものでも便利に長い間活用することが可能だ。

蔵から鉄瓶が出てきても、赤錆が鉄瓶の友である事をご存じない人は、使いものにならないと、処分してしまうらしいが、非常にもったいないことだ。

鉄瓶などを使う環境がないから、致し方無いとは思うが、お茶好き、コーヒー好き、水にうるさい方、市販の水にばかり目をやらないで、水道水を鉄瓶で沸かしたお湯を使うと、驚きが待っていると思う。

鉄瓶のお湯がなぜおいしいかは、ペアである炭で沸かすことによる対流、鉄さびが少し溶け出し、タンニンと接触することで、カルキなどの成分を除去するなどが有るようだが、なぜかということも興味はあるが、やはり惜しいコーヒー紅茶、日本茶、抹茶を飲みたいという方が先である。

中国茶には鉄瓶は不向きだとも、そしてあっさりとしたコーヒーガ好みならば、ステンレス製のポットのほうが良いという説もあるので、万能ではないかも知れない。

お湯が沸く前の音、沸騰中の音、鉄瓶の形状、蓋のツマミの凝ったデザイン、すり減った胴に刻印された文様、長い時を生きた黒ずんだ肌、お湯を注ぐときの音、燃え炭の赤と黒そして白の美しさ、鉄瓶を掛ける自在などなど、目と耳そして味覚をも楽しませてくれるものがあるから、冬もまた楽しである。

茶碗やそば猪口豆皿を活用し、扁炉に花を添えるのもまた一興。

そんな冬の楽しみのために、本日から続くメンテがある。
明日は自在鉤に付着した、埃を取り除く作業の予定だ。

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by noanoa1970 | 2011-08-21 00:16 | 日常のこと | Comments(2)

岩手水沢・南部鉄器角型すき焼き鍋・・・50年前の

調整してきたレコードプレーヤーが、何とか最上の状態となったので、棚から出した物を整理していると、「民芸」という雑誌があり、何気なくパラパラとページをめくっていると、思いがけないものを発見した。

d0063263_12274812.jpgこの雑誌は昭和29年3月31日の出版で、手に取ったものは、昭和32年1月1日発行となってる。

毎月1日に発行すると表記されていて、今から50年以上も前の古い雑誌である。

定価は50円である。

大正末期、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎 、富本憲吉 、バーナード・リーチ などによる民芸運動のリバイバルなのか、戦後ようやく庶民の生活が楽になってきたせいなのか、このような雑誌が刊行されたことは、ある種驚きでもある。

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雑誌の終わりのほうに、今で言うところの「通信販売」コーナーがあり、「たくみ案内」頒布会という名前が付けられた、それには第1回頒布会出品の「浜田庄司」の湯飲みが大盛況であったこと、そして予定をはるかに上回る応募があって、品物が品物だけに、到底増産は不可能で迷惑をかけたことのお詫びと、今回頒布が出来なかった方のため、「芹沢鮭介」作の四季カレンダーを、第1回頒布会の延長作品として提供することが書かれていた。

頒布品で「浜田庄司」、「芹沢鮭介」を出品するなど、今では到底考えられない、贅沢なことであるが、当時はそのようなことがお互いに許されたいい時代であったのだろう。

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さらに、第2回頒布会のお知らせとして、今回の話題の品の宣伝がついていて、それは我が家に2個伝わっていて、少人数のスキヤキには必ず登場するものであった。

岩手県水沢製の「スキヤキ鍋」と銘打たれたその頒布品、角型で取っ手がついていて、肉厚の南部鉄器で出来た、見た目も美しい鍋である。

取っ手はスライドさせ、取り外し可能、角型であるが内部にはRがやんわりと付けられ、いかにも手工芸作品の風格がある。
これでスキヤキをすると、これがとんでもなく美味しいのだ。

小生の好きなスキヤキのスタイルは、魯山人」風。
長ネギを3センチほどに切り、肉の入る余地を残し、鍋に立てにぎっしり並べる。
砂糖は使わずに、醤油と酒だけで味を調えるもの。

学生時代のスキヤキコンパ・・・京都の「いろは」というスキヤキ専門店でやるのだが、それぞれの出身地でスキヤキのやり方が大きく違い、同じテーブルに着こうものなら、もう少しでけんかになりそうな場面をいくつか見てきたこともあった。

スキヤキも地方やその家庭で、やり方が大幅に違うのは面白い現象である。

またスキヤキ専門店でもやり方は千差万別。
このあたり詳細に調べると面白いであろうが、今後の課題としよう。

魯山人風のスキヤキなどは当時は誰も知らないことで、こんなやり方を強行したら、きっと総すかんを食ったことであろうが、小生がこのやり方を学んだのは、かなり後の話し、白沙村荘でのこと。

それまでは本当に適当に、醤油、砂糖、水を使い、せいぜいヘッドで最初に肉を焼くのであるが、その肉がなくなって追加するときには、そのまま生肉を入れるのはなぜかと少しだけ疑問を呈しながらも、食欲が勝っていた年代だったから、さほど深く追及することなく過ぎてきたのだった。

魯山人風すき焼きをやるのにテーブルに並ぶのは、一升瓶と醤油。
砂糖がないようだから台所に取りに行きます・・というと、ここでは砂糖は使わないといわれ驚いたものだった。

このやり方が一番おいしいから・・・といわれ、見ていると、ダイナミックに肉、ネギ、しらたき、豆腐(焼きではない)、春菊を大量に入れた、大きな鉄鍋の上から一升瓶の酒を大胆に注ぐ。

酒が煮詰まってきて、少しテリが出てきた頃、醤油をくわえて一煮たち。

スキヤキきにつき物の卵はナシで、そのまま、薄口で、酒で甘みが出た肉や野菜をたらふく食べるのであった。

味が薄いが材料の味がよく出る、それは美味しい体験で、それ以来小生はこのやり方に、魯山人の伝記で知ったスキヤキのやり方を加え・・というか差し引きして、今日に至るのだ。

d0063263_12302761.jpg雑誌「民芸」の頒布品が、2セットあるのは、京都の義父が、自ら注文したものか、どなたかから頂いたものか、今となっては分からない。

当初ついていた木の蓋は、今はもうないが、錆び一つでずに、今でも立派な現役で、大変重宝している。

結婚を期に、息子にその一つを渡してあるが、どうやらそれを使った形跡は、今のところ無い。

このようなものを愛でるようになるには、後少なくとも10年はかかることだろう。

スキヤキは冬のものと思われているようだが、夏のスキヤキもいいものである。

映画「異邦人との夏」は、地下鉄を上がると浅草の文字が、生まれ育った浅草が懐かしく道をたどると、そこは昔の浅草があって、ある夏の日突然のようにして、亡き両親と再会し、短いひと夏を過す物語。

その映画の中で、両親と一緒にスキヤキを食べるシーンがあって、夏のスキヤキもいいものだと思うようになったものでした。

山田太一・大林宣彦のコンビ作品で、片岡鶴太郎と秋吉久美子 が両親役、風間杜夫が息子役、その恋人役で実は幽霊の名取裕子が出演する、下町の情緒の中の郷愁感が漂う映画でした。

雑誌「民芸」から映画へと、話は発展したが、雑誌「民芸」には内容は勿論、広告宣伝に、目を見張るべき優れたデザインのものが多いので、紹介することにした。

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東京の老舗洋食屋「たいめいけん」、京都の老舗民芸店「やまと民芸」、松本の和菓子「開運堂」、神戸の鰻や「竹葉亭」などなど・・・・すばらしいデザイン広告が掲載されている。

by noanoa1970 | 2008-06-21 12:07 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

骨董と猿蟹合戦秘話

面白いブロンズ彫刻がある。
京都の家内の実家に50年以上前からその彫刻はあったという。
蟹の背の上で猿が勝ち誇ったような姿を見せているもので、恐らく昔話「猿蟹合戦」からモチーフを得て作られたものであろうと思われる。

昔話では誰もが知っているように、猿の悪知恵に騙され、挙句は死んでしまう「蟹」への復習劇で、臼、蜂、栗、などが手伝って、悪い猿を懲らしめるというものだ。

しかしこのブロンス彫刻の作者は、それら昔話の原因の発端である、まだ青い柿の実を蟹に投げつけて、蟹を死に至らしめたその後の猿の行動らしきものを表現したようだ。

気になるのは猿が法衣らしきものを身にまとっていることだ。
擬人化の産物にしては法衣では少しおかしい。

天邪鬼を踏みつける毘沙門天のような感じにも見えてくる。

わずか10cm四方の箱に入ってしまうこのブロンズ彫刻が、単に趣味性の高い鑑賞目的なのか、それとも作者の芸術的、あるいは職人的スキルの発露としてあるのかは分からないが、猿の顔の表情や蟹の足の・・・今にも死に絶えそうな様子が良く出ている力を失った前足の表現、(それでも他の足はまだ必死に耐えているような力を感じる)細部まで丹念にキチンと仕上げられたこの彫刻は、単なる職人芸を超えた何かを持っているように思えるものを持つ。

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作者は、一体この彫刻において何を表現したかったのだろうか。
昔話の逸話とは違う何かに、思いをはせていたのだろうか。

そこで考えが及んだのが、「猿蟹合戦異説」あるいは「猿蟹合戦後日譚」とも言うべき芥川龍之介の短編「猿蟹合戦」。

すでに版権の無い時代の話であるし、面白いので全編をUPしておくことにした。

よく吟味して読まないと誤解を受けそうな、本来芥川が内蔵するシニカルな反骨精神の表現が随所にある。
蟹の仇討ちに「卵」が登場するのは、昔話によくある地方バリエーションであろうか。

近代法とは義理人情とは一切無関係に作られたもので、非人間的精神のものとか、近代合理主義には逆らえない運命にあるとか、契約という行為が重要なことで、口約束など、今の社会では通用しなくなったとか、そんな近代化、合理化、似非民主主義社会とその上になり立っているあらゆる権威(主義)を風刺・批判したとも取れる、大正12作の短編。

今日の日本の姿をすでに見据えていた芥川の眼力に驚嘆してしまう。



猿蟹合戦
芥川龍之介



 蟹(かに)の握り飯を奪った猿(さる)はとうとう蟹に仇(かたき)を取られた。蟹は臼(うす)、蜂(はち)、卵と共に、怨敵(おんてき)の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好(よ)い。ただ猿を仕止めた後(のち)、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着(ほうちゃく)したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺(とぎばなし)は全然このことは話していない。
 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間(どま)の隅に、蜂は軒先(のきさき)の蜂の巣に、卵は籾殻(もみがら)の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装(よそお)っている。
 しかしそれは偽(いつわり)である。彼等は仇(かたき)を取った後、警官の捕縛(ほばく)するところとなり、ことごとく監獄(かんごく)に投ぜられた。しかも裁判(さいばん)を重ねた結果、主犯(しゅはん)蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺(とぎばなし)のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪訝(かいが)の念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫(すんごう)も疑いのない事実である。
 蟹(かに)は蟹自身の言によれば、握り飯と柿(かき)と交換した。が、猿は熟柿(じゅくし)を与えず、青柿(あおがき)ばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、さんざんその柿を投げつけたと云う。しかし蟹は猿との間(あいだ)に、一通の証書も取り換(か)わしていない。よしまたそれは不問(ふもん)に附しても、握り飯と柿と交換したと云い、熟柿とは特に断(ことわ)っていない。最後に青柿を投げつけられたと云うのも、猿に悪意があったかどうか、その辺(へん)の証拠は不十分である。だから蟹の弁護に立った、雄弁の名の高い某弁護士も、裁判官の同情を乞うよりほかに、策の出づるところを知らなかったらしい。その弁護士は気の毒そうに、蟹の泡を拭ってやりながら、「あきらめ給え」と云ったそうである。もっともこの「あきらめ給え」は、死刑の宣告を下されたことをあきらめ給えと云ったのだか、弁護士に大金(たいきん)をとられたことをあきらめ給えと云ったのだか、それは誰にも決定出来ない。
 その上新聞雑誌の輿論(よろん)も、蟹に同情を寄せたものはほとんど一つもなかったようである。蟹の猿を殺したのは私憤(しふん)の結果にほかならない。しかもその私憤たるや、己(おのれ)の無知と軽卒(けいそつ)とから猿に利益を占められたのを忌々(いまいま)しがっただけではないか? 優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩(も)らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。――と云う非難が多かったらしい。現に商業会議所会頭某男爵(だんしゃく)のごときは大体上(かみ)のような意見と共に、蟹の猿を殺したのも多少は流行の危険思想にかぶれたのであろうと論断した。そのせいか蟹の仇打(かたきう)ち以来、某男爵は壮士のほかにも、ブルドッグを十頭飼(か)ったそうである。
 かつまた蟹の仇打ちはいわゆる識者の間(あいだ)にも、一向(いっこう)好評を博さなかった。大学教授某博士(はかせ)は倫理学上の見地から、蟹の猿を殺したのは復讐(ふくしゅう)の意志に出(で)たものである、復讐は善と称し難いと云った。それから社会主義の某首領は蟹は柿とか握り飯とか云う私有財産を難有(ありがた)がっていたから、臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのであろう、事によると尻押(しりお)しをしたのは国粋会(こくすいかい)かも知れないと云った。それから某宗(ぼうしゅう)の管長某師は蟹は仏慈悲(ぶつじひ)を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所業を憎む代りに、反(かえ)ってそれを憐んだであろう。ああ、思えば一度でも好(い)いから、わたしの説教を聴かせたかったと云った。それから――また各方面にいろいろ批評する名士はあったが、いずれも蟹の仇打ちには不賛成(ふさんせい)の声ばかりだった。そう云う中にたった一人、蟹のために気を吐いたのは酒豪(しゅごう)兼詩人の某代議士である。代議士は蟹の仇打ちは武士道の精神と一致すると云った。しかしこんな時代遅れの議論は誰の耳にも止(とま)るはずはない。のみならず新聞のゴシップによると、その代議士は数年以前、動物園を見物中、猿に尿(いばり)をかけられたことを遺恨(いこん)に思っていたそうである。
 お伽噺(とぎばなし)しか知らない読者は、悲しい蟹の運命に同情の涙を落すかも知れない。しかし蟹の死は当然である。それを気の毒に思いなどするのは、婦女童幼のセンティメンタリズムに過ぎない。天下は蟹の死を是(ぜ)なりとした。現に死刑の行われた夜(よ)、判事、検事、弁護士、看守(かんしゅ)、死刑執行人、教誨師(きょうかいし)等は四十八時間熟睡したそうである。その上皆夢の中に、天国の門を見たそうである。天国は彼等の話によると、封建時代の城に似たデパアトメント・ストアらしい。
 ついでに蟹の死んだ後(のち)、蟹の家庭はどうしたか、それも少し書いて置きたい。蟹の妻は売笑婦(ばいしょうふ)になった。なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、どちらか未(いまだ)に判然しない。蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、「飜然(ほんぜん)と心を改めた。」今は何でもある株屋の番頭か何かしていると云う。この蟹はある時自分の穴へ、同類の肉を食うために、怪我(けが)をした仲間を引きずりこんだ。クロポトキンが相互扶助論(そうごふじょろん)の中に、蟹も同類を劬(いたわ)ると云う実例を引いたのはこの蟹である。次男の蟹は小説家になった。勿論(もちろん)小説家のことだから、女に惚(ほ)れるほかは何もしない。ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名(いみょう)であるなどと、好(い)い加減(かげん)な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物(ぐぶつ)だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這(よこば)いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏(はさみ)の先にこの獲物(えもの)を拾い上げた。すると高い柿の木の梢(こずえ)に虱(しらみ)を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。
 とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。

(大正十二年二月)





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底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama

by noanoa1970 | 2007-12-06 10:51 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

招き猫

家内が物心ついたときには、すでに在ったというから、半世紀以上は経っている「招き猫」京都修学院の家にあったものだ。

かなり長い時を経てきたので、やや薄汚れているがこれもこの招き猫の歴史を物語るものと、洗うことはしないでいる。

体長20センチほどの小さいものだが、顔立ちも物凄く可愛い。

目の描き方を見ると、大正ロマン期の少女のオモチャや人形のように見える。

招き猫を取り出したのは、NHKの番組「美の壷」で「招き猫」が取り上げられていたのを見ての事。

残念ながら、番組中の「招き猫」の姿かたちに、ハッとするものが無かった・・・・それならば家にある「招き猫」の置物のほうがよほど良い、とばかりに登場いただいたのだ。

どうです
この可愛くて優しい顔つき。
あるようで、見つけるのはなかなか難しいようです。

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by noanoa1970 | 2007-11-03 09:12 | 骨董で遊ぶ | Comments(1)

お気に入りの照明

北大路魯山人の作品に鉄製の行灯がある。
「月と兎」「月とススキ」などの絵柄が鉄の素材によって組み立てられた行灯で、とても風流で小生の好きな作品である。

10年ほど前、近江の長浜の商店街にある金物店の店頭に、同じような雰囲気の行灯の灯りが灯っているのを発見した。

しばし感激しながら中に入って、素性を尋ねると、魯山人オリジナルではなく、北陸高岡の鋳物屋の作品で、売り物であるという。

高岡は昔から銅器や鋳物の盛んな町で、最近はこのような趣味嗜好の強いものを手がけるようになってきたとのこと。

長浜は北陸と京都を結ぶ重要な位置を占めていることからも、最近の町興しで方々から観光客が来ることもあって仕入れたのだが、思うようには売れないとも言う。

値段を聞くと、観光客が立ち寄っただけで、おいそれと購入できるような価格でもないから、(といっても大して高額ではないのだが)、観光客ではなく、・・・美術、陶芸工芸の趣味人が必要とするものなのであろう。

魯山人を髣髴させるこの行灯をいたく気に入ってしまい、すぐに持って帰ることにした。

魯山人写しというか魯山人好みというのか、「武蔵野」という名前が付けられている。
オリジナルを見たことがあるが、比較すれば、それはどうしても線の力強さ、繊細さなどで当然オリジナルに軍配が上がるが、オリジナルを入手することは到底望むべくもないことである。

部屋の明かりを消して、この行灯の灯を灯すと(といっても中に電球が入っている)まだまだ残暑厳しい夜が、なぜか急に秋めいてきて、外で鳴く虫の声も一層よく響くように思えてくるから不思議である。

小生オリジナル作品の、銀行や学校に有ったような昭和初期の天井つり照明の傘と、明治時代のすばらしいデザインの植木鉢で作った照明d0063263_14423180.jpg
とあわせてお気に入りである。





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by noanoa1970 | 2007-09-22 14:43 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

伊万里・・・富士山・氷烈紋皿

古伊万里染付富士山・氷烈文様皿
江戸末期の志田窯の染付け皿と思われる。
志田窯の大きな特徴として、「氷裂文(ひわれもん・ひょうれつもん)」を多用しているという点が挙げられるという。

志田窯の特徴の一つは、大胆でユーモラスな図柄にありますが、富士に松そして氷烈紋のこの皿の絵はとてもダイナミックで、大らか。
にんまりと笑みを浮かべて絵付けしたように感じられてしまいます。

氷裂文は「地文様」として用いられ、富士山と松の周囲を埋め尽くすことで、主題を目立たせて強調しつつ、氷裂がピシピシ音を立てて、割れながら広がっていく印象を与ええ、皿を実際よりも大きく見せるような効果を感じる。

氷烈文様はかなりの人気を持っていて、特に富士に松の絵付けのものは、今ではあまり骨董店でもお目にかかれることが少なくなってきてしまったようだ。
富山県福野町のあるお寺の客間に、これと同じものが飾られてあったのには驚いてしまった。普段使いのものであるはずのものが、床の間に鎮座していた。

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by noanoa1970 | 2007-03-26 11:30 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

伊万里青磁向う付け

「蕎麦猪口」と呼ばれている通常のものより一回り大きな物。
青磁の「青」が程よいので、気に入っている。
京都の義父はこの器に水を入れて、水墨画に使う筆を洗うのに使っていたという。
一つしかないが、青磁の奥深い色が心地よく、紅茶を飲むのに良く使っている。
紅茶の「朱赤」と器の中の「白」そして青磁の「青」がとても良く映える。
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by noanoa1970 | 2007-03-23 10:39 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

廃墟で見つけたお宝

通るたびに気になっていたものがある。
それはおよそ100年以上、時を経ていると思われるほどの古民家。
わらぶき屋根で出来た農家のようだが、今では壁は朽ちており、わらぶきの屋根は野草が生えている状態である。庭は荒れ果て、もう随分長い間放置されてきたようだった。
周囲は新しい建物が立ち並び始めているから、そしてこの民家は、もはやリフォームも利かないのだろう、見るたびに荒れ果てていく様子は見るに耐えないものがあった。
それでも小生は、この民家の柱や梁が見たくなって、あるとき抜け落ちそうな床を注意深く踏みしめながら、中に入ったことがあった。
柱も梁もそんなに太く立派なものではなかったが、奥まったところに、これも朽ちかけた茶箪笥らしきものがあることに気づいて、今ではスムーズには開かなくなってしまっている引き戸を恐る恐る開けると、奥のほうに長方形の箱があることに気がついた。
少しためらったのだが、持ってみると重たく、「何か陶磁器のようなものが入っている」のでは・・・と直感したので、蓋を取ると、中から出てきたのが下の写真・・・・「印判の猪口」だった。
このまま放置しておいても、やがてはブルドーザーで壊されてしまうと思い、かといって承諾を得る伝もわからないので、黙って我が家に持ち返ることにした。(もしも持ち主がいたのならご勘弁ねがいます。)
泥のような土埃で汚れてはいたが、キチンと箱に収まっていたし、割れたり欠けたりしている様子は無かったから、漂白剤で洗浄すれば当時の姿がよみがえるという確信を持った。
こうしてきれいにしたこの「猪口」は、明治期に流行ったと思しきデザインの印判染付けの・・・・恐らくお茶を飲むための器なのだろう。今でも時々骨董店に置かれてあるのを見ることが出来るもの。古来の花唐草文様を印判を使って大量生産するために、さらにデフォルメしたものであろうと思う。
当時の雑器であろうが、今では逆に斬新だから、人気が有る印判手のひとつであるようだ。
同系統の印判の皿と合わせてみると、不思議な高級感を呈するのが、この「印判手」と呼ばれる器の面白いところかもしれない。
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by noanoa1970 | 2007-03-21 14:08 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)