「ほっ」と。キャンペーン

ヴォータンは何故片目なのか・・・最終章

「ワルキューレ」物語中の種族には・・・「神族」=「ワルハラ族」、「ヴェルズンク族」そして「フンディング族」が登場する。
ヴォータンは別名ヴェルゼであるから、出自はヴェルズンク族であるのかもしれない。
そうだと仮定すると、彼は「神族=ワルハラ族」に入り婿で入った人物で、最初は神族の「エルデ」と結びつき「ブリュンヒルデ」他7人のワルキューレをもうけたが、神族の跡目相続で、エルダとフリッカが争い、フリッカが勝利したため、エルダからフリッカに乗り変えたのではないだろうか。

神族は母系相続であるから、母親の血筋が家督を引き継ぐ、しかし外敵から守るためには、武力に優れた「男の力」が必要であった。
ヴォータン=ヴェルゼの出自の「ヴェルズンク族」とは、「狼族」でもあるから、もともと集団の仮、攻撃が得意な種族。「狼」をトーテムとしていたのであろう。
ヴェルズンク族の権力者の血筋を引くものが「ヴェルゼ」=ヴォータン」であったのではないだろうか。

彼ら「ヴェルズンク」が、体制に「纏ろわぬ者」の象徴であるのに対し、「フンディング族」とは、「ブンディング」=「犬族」と考えられるから、こちらは「纏ろう者」としてよいのだろう。
ジークリンデを娶ったフンディングをフリッカが助け、ヴォータンにジークムントがトネリコから抜き取った強者の剣「ノートン」から魔力を奪わせることになったのも、フンディングがフリッカの権力に纏ろう者の証拠のように思える。
事実物語中には、フンディングに対して、ヴォータンが、「フリッカの奴隷め!」と言い捨てるシーンがある。

フリッカに対して頭の上がらない「ヴォータン」は入り婿であり、結婚という契約によって現在の地位を気づいたわけだから、フリッカの束縛からは逃れられない立場に在った。

父ヴォータンと母エルダとの子供ブリュンヒルデは、フリッカをもともと良く思っていなかった。
しかるに、やむなくフリッカの言うことを聞いた父ヴォータンの隠された気持ちを察して、フンディングと対峙するジークムントを助けようとした。

纏ろわぬ者の種族と纏ろう者の種族の対立・・・権力者による代理戦争の構図が「ヴェルズンクとフンデイング」の抗争である。
このような構図はわが国の歴史の中でも頻繁に見ることが出来る。
親、子供、兄弟同士の争いの構図も、見ることが出来る。
わが国の3大英傑は、すべて自分の身内を殺害しているから、まさに歴史は、ワールドワイドで繰り返す。

ワーグナーの巨大な楽劇「ニーベルングの指環」の第1夜、「ワルキューレ」を見聞きするうちに、このような妄想が沸いてきたが、学生時代そうであったように、この物語をを単なる「神話」あるいは「御伽噺」として読むよりは、「ハイネ」が、・・・・わが国では学会からは異端視される在野の民俗学研究者達の多くが語るような「隠された歴史」が見えてくるから、異なる次元の世界に入れるような気がして面白い。

以下は、「ウォルフガング・サヴァリッシュ」とバイエルン国立歌劇場管弦楽団1989年
レヴァイン盤にも出演した「ヒルデガルト・ベーレンス」が同じブリュンヒルデ役で出演しているのが注目される。美声が最後の最後まで破綻しない「サヴァリッシュ盤」での「ベーレンス」に、一日の長があるように思う。

「ベーレンス」も良く歌っているが、「ブリュンヒルデ」の、明るさの中の影と苦悩を併せ持つ性質を表現する、声の質と歌い方として、小生は「カラヤン」盤の「クレスパン」をより好む。

演出:ニコラス・レーンホフ
ブーレーズ盤ほどではないが、やレヴァイン盤に比べ、時代背景はより新しく設定され、16・7世紀ごろのような雰囲気がある。
斬新なアイディアがところどころ見られ、前奏の開始早々幕が開いて、出演者が無言で演技する。「ノートン」が最初に現れ、ジークリンデが、トネリコから剣を抜き取る英雄の出現を待ちわびる様子が強く演出される。

ブリュンヒルデ:ヒルデガルト・ベーレンス
ジークリンデ:ユリア・ヴァラディ
フリッカ:マリアーナ・リポフシェク
ジークムント:ロベルト・シュンク
ヴォータン:ロバート・ヘイル
フンディング:クルト・モル

英雄を待つジークリンデ
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フンディングは近代的な成をしている・・・市民社会に溶け込んだ、体制派=纏ろう者の象徴のように見える
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フンディングの前で、今までの生き様を語るジークムント
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狼の毛皮を纏うジークムント・・・ヴェルズンク=「狼族」の象徴のようだ
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フンディングとの戦いを前に、強力な武器「ノートン」を探すジークムント
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トネリコに刺さったノートンを発見
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父ヴェルゼ=ヴォータンが残したノートンをトネリコから抜き取る
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ワルハラで、ジークムント救済のヴォータンの命を受けるために出現するブリュンヒルデ
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ヴォータンの妻フリッカが現れ、ヴォータンの意向を撤回させる
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フリッカは、しつこくヴォータンに、ブリュンヒルデへの命令の撤回を求める
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上着を脱ぎ捨ててまでの強い口調に、ついにヴォータンはフリッカの願いを聞き届け・・・誓わされることになる
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ブリュンヒルデに先の命令を撤回する。このときのフリッカがブリュンヒルデに勝ち誇ったように言う言葉が「女の戦い」を連想させる。
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by noanoa1970 | 2007-01-13 09:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ヴォータンは何故片目なのか・・・5

★オーディン=ヴォータンは何故「トネリコ」に「ノートン」を突き刺したのか?

下の写真は「トネリコの木」
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そもそも「トネリコ」という言葉は、日本人にはあまり馴染みのない樹木であるが、樹皮は漢方薬としても使われ、下痢止め、傷の洗浄剤として使われるというし、建材・・・家具材・床柱としても使用される。
「タモ」というのがわが国での名称で、中でも「アオダモ」は、材質が堅くて強く粘りがある。
そのため曲げることができ、このような特質を生かしてさまざまな用途で使われ、野球のバット、北国で使う輪樏(わかんじき)
生木でもよく燃えることから猟師が薪として利用した。

枝や樹皮を水に浸すと、水が藍色の蛍光を発する。この水は染料として使われた。また、アイヌは黥(いれずみ)をするときの消毒に用いた。 また、樹皮は民間薬としても利用された。主な成分はクマリン配糖体で消炎解熱作用、止瀉、利尿作用や尿酸を排出する作用があり痛風・結石の治療などの効果があるとされる。

以上のことから推察できるjことは、ケルト民族が「樫」を神木としたと、同じように「トネリコ」を神木=トーテムとした種族が存在し、ヴォータンの神族と長い間抗争を続けていたのではないだろうか。あるいは神族も「トネリコ」の効用を知って、広く用いてきたのではなかろうか。
いずれにしても、古代の遊牧民には欠かせない存在として「トネリコ」は存在したのであろう。

ヴォータンが手に入れた製鉄技術によって、鉄製の剣がもたらされることになるが、ヴォータンの家督を引き継ぐものは、神族には存在しない。
d0063263_1323351.jpgヴォータンの血を受け継ぐブリュンヒルデは「女性」であるから、入り婿を立てる必要があるが、フリッカは恐らくそれを許すはずが無いし、排除すべき母系社会に変りは無く、ついには異種族との間に子供を作り、その子供が成長した後、自分=ヴォータンより強い人間であるか否かを見定めるために、母権社会の象徴とも言える「トネリコ」に突き刺した父権社会の象徴である剣「ノートン」を抜き取ること駕できる=「新しい社会・・世界の創造者たるもの」の象徴たる人物の到来を画策した。

剣はトネリコから抜き取られはしたが、しかし、ヴォータンの意に反して、双子の兄妹同士が結びついてしまう。d0063263_13223764.jpg
フリッカとの結婚=契約の呪縛から逃れられなかったヴォータンは、自分の息子と娘が禁断の近親婚になるのを恐れてか、「フンディング」と「ジークムント」の戦いにおいて、本位を裏切ってまで、実子である「ジークムント」を死に追いやる。

ヴォータンの本心を知る「ブリュンヒルデ」は、ヴォータンの(本心ではない)命令に背き、ヴォータンの(本心ではない)罰を受けることになる。

トネリコから抜き取られた「ノートン」は、本来であれば、「父権社会の到来」を象徴するはずのものであった。

母系社会で近親婚は、いわば当たり前のように行われてきたという。
ここでフリッカやヴォータンまでがそれをタブー視することになるのは、「キリスト教」の考え方が入っているからであると思われる。
またフリッカとヴォータンの神格が、どう考えても逆さまであるように思うのは、ゲルマン神話とキリスト教の考えが混沌として交じり合っているからで、ヴォータンの2面性や矛盾も、そうしたキリスト教の影響の結果だろうと推される。

「トネリコ」が古代「自然神信仰」の象徴なのに対し、突き刺された「ノートン」は「非自然、すなわち創造物(神)信仰の象徴とも読める。
お互いは独立してその能力を発揮できない閉塞状況にあるのを、ノートンをトネリコから開放することによる・・・新しい信仰対象・・・すなわち、キリスト教の1神教信仰が見え隠れするようだ。

by noanoa1970 | 2007-01-12 08:31 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ヴォータンは何故片目なのか・・・4

ここらで少し整理しておく必要がある。
ヴェルズンク族とはオーディン=ヴォータン=ヴェルゼが、人間族(神と人の対比としての人間ではないことに注意が必要・・・だから別種族と言ったほうが良いかもしれない)との間に作った「ジークムントとジークリンデ」の双子の兄妹が所属する種族でヴォータンの血を引き継ぐ唯一の別種族といえる。
ヴォータンの血を引き継ぐものとしては、知恵・道徳の神とされる「エルダ」との間の子供「ブリュンヒルデ」が他に存在する。正妻「フリッカ」との間には子供はいない。

以上の簡単な整理を元にして、先にあげた解決すべき課題について考えてみたい。

d0063263_13254554.jpg★オーディン=ヴォータン=ヴェルゼとフリッカの口論で、母性であるはずのフリッカが「結婚=契約」という概念を持ち出して、ジークリンデとフンディングの結婚を保とうとし、父性であるオーディン=ヴォータンが「愛」あるいは血族の概念を用いて、ジークリンデとジークムントのタブーとされるような近親愛を認めようとしたのは何故か?
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これについて小生は
母親の血脈で家督相続させ、子孫をつなぐ古来からの母(系)権制社会から父(系)権制社会への脱皮の話が隠されていると見る。
ヴォータンは、フン族との契約で金銀財宝そして土地を提供したが、その引き換えに「製鉄技術」を輸入した。遊牧民が鉄製の農耕器具そして鉄製の武器を持つことで、勢力が強まるとともに、「男」の権力が増大することになる。

ヴォータンは、フリッカの血脈・・・実子が無いから兄弟姉妹、叔父叔母などが相続するのが本筋であるのを、ヴォータン自身の血脈=男系の血脈で種族の存続を保とうと、画策した。
その結果誕生したのが「ジークムント、ジークリンデ」である。
フリッカはヴォータンの血脈ではなく自分の=女系の血脈で神々の存続を図ろうとするから、「ジークムント」が「ジークリンデ」と結びつくのを「近親相姦」というタブーと、「結婚=契約」という概念を持ち出し反対したのであろう。
2人が結びついてさらに子供が出来れば(後のジークフリート)ヴォータンの男系の血脈は、さらに濃いものになるはずだから。
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そうなると神々という種族が、今まで連綿と培ってきた母系存続社会が崩れ、「」神々の崩壊」となる。
一方ヴォータンにとっては、自分の血が一切入ってないものに、せっかく築いてきた文武に優れた国家を継がせることは、すなわち神々の種族の崩壊につながると踏んだ。
周囲の外敵の圧力に備えた強力な国家は、自分の血を受け継ぐ男系の国家でなければならないと思ったのだろう。

「フリッカ」と「ヴォータン」の神格が入れ替わっているように思えるところが多々あるのは、キリスト教の影響なのだろうか。

by noanoa1970 | 2007-01-11 09:33 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ヴォータンは何故片目なのか・・・3

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オーディン=ヴォータンは鉄製の槍を常に携え、最強の武器「ノートン」の剣を作り、人間=他民族の女との間に双子の兄妹を作る。
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「トネリコ」の幹に刺した剣を引き抜く強い男児が現れるのを、待つことになるのである。
この男児はオーディン=ヴォータンの実の息子であり、実の妹と禁断(キリスト教からは)タブーとされる近親相姦を引き起こす。
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さらにこの話には大きな疑問点があって、それは

★オーディン=ヴォータンは何故「トネリコ」に「ノートン」を突き刺したのか?

★自分が行った罰、炎の壁に包まれて眠るブリュンヒルデを救済するのに、実子の双子の子供すなわち、オーディン=ヴォータンの孫に当たるジークフリートに救済させ、しかも恋仲になる筋書きを作ったのはなぜか?

★オーディン=ヴォータンとフリッカの口論で、母性であるはずのフリッカが「契約」という概念を持ち出して、ジークリンデとフンディングの結婚を保とうとし、父性であるオーディン=ヴォータンが「愛」あるいは血族の概念を用いて、ジークリンデとジークムントのタブーとされるような近親愛を認めようとしたのか。

★そして何故フリッカとオーディン=ヴォータンは、それぞれの立場で「神々の破滅」を叫んだのだろうか?

少し考えただけでも、以上の疑問が出てくる。
神話だから、作り話だから、様々な矛盾はあってもおかしくはないが、これはワーグナーによって台本が書かれたものであるから、彼がそのことに気がつかないはずはないと、思うのだが、なぜかそのまま放置しているのがどうにも気にかかるのである。

by noanoa1970 | 2007-01-10 09:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

ヴォータンは何故片目なのか・・・2

「ニーベルングの指環」は北方ゲルマン神話を題材にして書かれたオペラである。
そして、その時代背景は、恐らくではあるが、「ゲルマン民族の大移動時期」にさかのぼることが出来るのではないだろうか。
つまり、375年の西ゴート族の帝国侵入から、774年のフランクによる統一までの長い歴史の一駒を、「サガとエッダ」の神話が語るのである。
その脈絡は連綿と続き、
「トリュムの歌」「スキールニルの歌」「ヴェルンドの歌」「フンディング殺しのヘルギの歌」「レギンの歌」「ファーヴニルの歌」「シグルドの短い歌」「ブリュンヒルドの冥府への旅」「アトリの歌」「ハムディルの歌」「ヴォルスング・サガ」、「ニーベルンゲンの歌」などがその主なもの。

「ニーベルングの指環」は「ニーベルンゲンの歌」をメインとして、中世の「ニーベルング伝説」と結合し、様々な逸話をちりばめて作られたもの。
そして、「ニーベルンゲン伝説」は本来 『エッダ』の中に書かれている北欧に伝わる断片的な伝承で、それをまとめて ひとつながりの物語にした13世紀頃の『ヴォルスンガ・サガ』、同じ頃に成立した、キリスト教化したドイツの抒情詩『ニーベルンゲンの歌』、それらをアレンジしたもの・・・それがが19世紀のワーグナーの歌劇『ニーベルンゲンの指輪』である。

大胆にはしょれば、「ゲルマン民族」が「フン族」に終え荒れて移動を始めたころから、徐々にキリスト教文化に支配されていった過程を一部描いているといっても外れないであろう。

遊牧民であるゲルマン民族の大移動・・・すなわち敗北による逃走を強いられたのは、同じ遊牧民の「フン族」(アジア系遊牧民とされる)の鉄製の武器と馬による脅威であったのだろうと想像される。
青銅器文化のゲルマン民族では鉄製の武器と機動性のある「馬」による軍隊に勝てるはずも無く、ヨーロッパ各地に追いやられていった。イギリス半島には「アングロ人・サクソン人」が、スカンジナビア半島には「デーン人」が、アイスランドには、所謂ヴァイキングが、そしてある種族はフランスやイタリアに流れた。

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このとき「スカンジナビア半島」そして「アイスランド」に逃れた種族が残した物語が、アイスランドに「ノルン語」で残したのが「サガ・エッダの物語」である。
「オーディン」という神格が出現することになるのだが、オーディンは片目である。
小生はオーディンが隻眼である理由を「知恵の泉」との交換ではなく、「フン族」(アッチラ王に代表される)との交渉の結果、製鉄技術と馬をを輸入する代わりに、領土を差し出したと見る。・・・・北方ゲルマン種族の王は、こうして戦いの知恵、すなわち鉄の武器と馬を手に入れ、製鉄技法の「タタラ」と「鞴」の熟練工の象徴として隻眼となったのを、「知恵の泉」の話、すなわち、「片目と知恵の交換」の話へと変容して行ったのではないかと推理する。

ちなみに北方ゲルマンの本拠地「スエーデン」の北部の都市キルナは鉄鉱石の産地として有名で良質な鋼の名産国でもあるから製鉄技法さえ習熟すれば、槍、剣、盾、矛の製造は容易であったであろう。

以上のように、オーディン=ヴォータンが隻眼である理由を、小生は「青銅器から鉄器への移行」にともなう革新技術輸入と、その代償としての「黄金」と「土地」の提供の契約を「フン族」の王族と行った結果のことだったのではないかと思うのである。

by noanoa1970 | 2007-01-09 10:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ヴォータンは何故片目なのか・・・1

初詣に行った「多度大社」には「天目一箇命」が祭られていることは先のブログにも書いた。
この「神」は、「鍛治の神」として扱われているが、さらに「台風」を象徴する神でもあるという。
一説に、台風が「一つ目」・・・すなわち[台風の目はひとつであるからである]とするものもあるが、小生はその説を少々怪しいものと・・・こじ付けなのでは?と思っている。

「天目一箇命」は片目の神であり、それはタタラ製鉄と関係があることはほぼ間違いないことであると思うのだが、さらに「台風神」の人格を持ち、その理由を「台風の目」に求めるのはいかにもこじ付けであろう。

そこで、小生は以下のように考える。

タタラ製鉄の際に使用する鞴(ふいご)、それによって溶鉱炉の火の温度を高くし、砂鉄や、鉄鉱石を溶かすのだが、溶鉱炉の火の温度=光の色の変化を、炉の穴の中を片目を瞑って見ることから、「片目」=鍛治神の象徴となったこと。
そして鍛治の神様といわれるような達人ともなると、溶鉱炉の火=光を見続けて来たところから、まばゆく光り、しかも高温の火が目に入ってくるから、熟練になればなるほど、片目を悪くし、ついには失明し、片目を失うこともあろう。
鍛冶屋を長年やれば、片目が見えなくなる・・裸眼で実行せざるを得なかった時代であるから、鍛冶職人の職業病ともいえる。
そしてこのことは何も日本に限らないことは、ギリシャ神話の鍛治の神「キュクロプス」の例を見ても明らかであろう。d0063263_14193325.jpg









そして天目一箇命の別人格「台風」とは、「台風の目」にその根拠を求めるのではなく、小生は、風の音にあると思っている。

鞴(ふいご)によって起こした風によって、溶鉱炉の温度を最大に上げる必要があるから、タタラを足で踏んで起こす鞴の風は強力で、その音は「ヒューッ、ピューッ」そして溶鉱炉が燃える音は「ゴウゴウ」と表現できそうであるから、この音と、「台風」の暴風雨が立てる音が似ていることから、「台風」の別人格を持つことになったのだろうと。・・・・・・

ヒルデガルト・ベーレンスの「ブリュンヒルデ」
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正月早々「クレスパン」の声が聞きたくて取り出した「カラヤン」の「指環」、「ワルキューレ」を、映像で見ようと、一昨日から「ジェームス・レヴァイン」がメトロポリタン歌劇場管弦楽団と演奏した1989年の映像を見た。
演出=オットー・シェンク
ヴォータン=ジェームス・モリス
フリッカ=クリスタ・ルートヴィッヒ
ブリュンヒルデ=ヒルデガルト・ベーレンス
ジークリンデ=ジェシー・ノーマン
ジーク・ムント=ゲーリー・レイクス
フンディング=クルト・モル
このところ奇抜な演出が目立つが、このシェンクの演出は、かなり正統的なもののように思われる。
やや太目の「ジークムント、ジークリンデ」ではあるが、「ジェシーノーマン」の「ジークリンデ」も「ヒルデガルト・ベーレンス」の「ブリュンヒルデ」も熱演である。
「レヴァイン」の演奏は、やや早いテンポで、ぐいぐい引っ張るようで、スカッとして気持ちが良い。

「指環」を見ていて、いつも不思議に思うことそれは「ヴォータン」が片目=隻眼であることである。
どの演出を見てもそうだし、ある説によると、・・・・・
『オーディン=ヴォータンはミーミル(知恵の神)の泉によって潤っています。その泉にはオーディン=ヴォ^タンの片目が沈んでいます。かつてこの水を飲み知恵を得る代償に、彼は片目を差し出したのです「知恵」を得るために』

北方ゲルマン神話の「オーディン」=ノルン語、のドイツ語読みが「ヴォータン」であるといわれる。
小生はどうもこの「知恵の泉の話」を胡散臭いと思っているのだが、初詣の多度大社に祭られる「天目一箇命」=片目=一つ目の神、そしてギリシャ神話の、片目の鍛治の神「キュクロプス」、そして「指環」の北方ゲルマン神話の「オーディン=ヴォータン」に共通項があるのではないかと推理してみることにした。

by noanoa1970 | 2007-01-08 14:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

異説「山の人生」7・・・最終

「共同幻想」的に作られた多くの「真実」はあるようであるが、事件の因果関係的「事実」は「闇の中」、「藪の中」である。
事件から100年余りたった今、さらに「ひとつの真実」の形が最近かの土地にて、民間伝承の新しい形態となって登場することになる。
それを紹介しよう。
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「母情落日斧」は、明治三十七年、大和町内で実際に起きた「新四郎事件」を題材として作られた新作文楽です。
この事件は、柳田国男が『山の人生』の冒頭に「山に埋もれたる人生ある事」と記したものでした。
 平成十三年、人形遣いの中堅吉田勘緑が原作を書き、三味線の鶴澤燕二郎が作曲して、
九月一日、明建神社を舞台に初上演されました。
原作や舞台づくりには地元スタッフも参加して共同作業で制作された画期的な新作文楽です。

 明建神社の舞台を生かした野外公演の素晴らしい雰囲気もさることながら、
郡上の方言も取り入れた口語体や、現代的趣向もいくつか取り入れられたもので、
分かりやすく面白い文楽だとたいへんな好評を得ました。
翌年には屋内公演で再演され、今回郡上では三回目の上演となります。

母情落日斧あらすじ}

◎第一場 【新四郎棲家(春)】

 奥美濃大和の里の奥山に、新四郎は娘ナヲとその弟イチの二人の子どもを抱え、
焼畑や炭焼きなどをしてつましく暮らしています。母親はイチを産んで間もなく亡くなり、
その思い出は石塚に積まれて、母の教えを守る子どもたちの平穏な日々が続いていました。

       【同(夏)】

 母の形見の斧を振り回す弟イチをたしなめる姉ナヲ。
そこへ猪獲りのワナにかかって大けがをした父新四郎が帰ってきます。
三人が懸命に傷の手当てをする中、外にはホタルの灯が集まり母の姿となって現れます。
しかし、新四郎の傷はおもわしくなく、ナヲは寒水の庄屋の家へ奉公に出ることになりました。

◎第二場 【寒水庄屋ナヲ奉公(秋)】

 奉公先で健気に働くナヲ。庄屋夫婦にも気に入られますが、下男の六は面白くありません。
ナヲの色気にも気を惹かれる六は、夫婦になろうと言い寄りますが断られ、庄屋の銭とカンザシを盗んだと濡れ衣を着せます。
それに気づかぬ庄屋夫婦はナヲを解雇するしかありません。

◎第三場【寒水峠】

 庄屋を追われたナヲは失意の中、寒水峠を越えます。
失意が恨みへと転じる己の邪心に気づくナヲ。母を呼び、新四郎とイチの待つ古道へと急ぎます。

◎第四場【新四郎棲家・落日】

 傷だらけになりようやくたどり着いた我が家。
ナヲは亡き母親のところへ連れて行って欲しいと新四郎にすがります。
弟イチの願いも聞き入れて、新四郎は落日の陽が射しこむ中、形見の斧を二人の首に振り下ろすのでした。

      【同・二ツ塚(冬)】

 人気の消えた山里に雪が降り積もります。
浄土には再会を果たした親子の姿。思い出の二ツ塚の傍らには雪の中、九輪草が花を咲かせます

・・・・・・こうして「文楽」という「古典的技法による新しい形」で、「新四郎事件」および「柳田」の「山の人生」の話は語り継がれるのであろう。内容は「文楽」特有の「人情事件」「情話」として脚色されてしまってはいるが、この悲しい心中事件は、この先もその地域で長く語り継がれることになる。
そしていつのまにか「真実」と「事実」とが同じ水平線上に並ぶことになるのであろう。

しかし小生は 異説「山の人生」4の中の「異説その2」に直いっそうの説得力を感じるのである。

伝えられてきた古今東西の「民間伝承」「神話」「伝説」等の中には、このような形で変化しながら、伝えられてきたものも少なくないはずである。
ここに小生は
ワーグナーによる「ゲルマン神話」を素材とした「オペラや楽劇」に思いをはせるのである。

by noanoa1970 | 2005-11-25 09:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

異説「山の人生」6

異説「山の人生」「3」「4」で述べた2つの話はいかにも説得力ある話ではある。
しかし問題は、事実はひとつであるにもかかわらずその真相なるものが複数あり、しかも異なっていることに大いに不可思議さを感じてしまうのだ。この2つの話の「複合」だとしても、それが原因で一家心中はありえない(だろう)と思うからである。。

事件がおきた明治37年(日露戦争開戦の年)、季節は「柳田」では「秋」、「新四郎さ」説では「夏」のことであるし地域敵に見ても、郡上郡「寒水」「大和」地区であるらしいから(新四郎屋敷後)として今も碑が建つという)その地区・・・「寒水川」は小生がよく釣りに出かけたところでよく熟知しているのであるが、中山間地区の農村であるが、険しく奥深い山の中の里ではなく、確かに寒村ではあったであろうが、厳冬期ならまだしも、事件のあった季節では、飢饉で飢えるような気候の地域ではないと思われる。(小生が小屋を借りていた安曇軍奈川村のほうが厳しい地区だから比較できる・・・時代が違うことを考慮しても)
    
・この2つの事件の当事者によって語られたという、「後日談」は本当のことなのであろうか?

・本人が語ったことをその身元引受人が記憶し、それをまたその親戚のものが後に思い出し
筆記した。・・・・この年月の間に、だんだんと事実関係が薄れて、曖昧になっていった可能性はないか?

・果たして本人は事実を語ったのか?

・事件の犯行動機供述に弁護士による脚色は本当にあったのか?

・村人の、「事件に対する因果関係誤謬の原因」となるような「共同幻想」・・・・事件当事者本人もさることながら、「庄屋家族」に対する気使いや自分の村の汚点を世間から隠そうとする見えない意思が働かなかったか?


小生はこの2つの説の「動機」にとても不可解な点が見えるような気がするのである。
①=「柳田」説=「新四郎さ」の1つめ・・・「飢饉による飢餓から父を救うため自ら犠牲おなった子供の孝行話」

②=「新四郎さ」の2つめ・・・「奉公に出した娘がイジメにあって盗みの疑いを掛けられたことに抗議しての一家心中」

①も②にしても子供殺害および一家心中未遂事件の「動機」としては非常に説得力に欠けるといわざるを得ない。
そしていずれもが非常に「作為的」であるように感じてしまうのである。
その「作為」とは
この事件のあらましを・・・こういう事にしておこう。・・・ということであったのかもしれない。

by noanoa1970 | 2005-11-24 09:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

異説「山の人生」5

さらに調べてみると、また面白いことが分かった。「柳田」の「山の人生」の話と、「異説1」は金子貞二著「奥美濃よもやま話」の中に「新四郎さ」と題して2編収録されているそうで、この「新四郎さ」の話は、岐阜県明方村(現在明宝村)に居住する金子信一氏の話を金子貞二がかきとめたもので、新四郎は出獄した後、金子信一宅で作男として働いていて、身の上話を打ち明けられていたというもので、其れは2つの説明があったという。

事件の有った地域とはおそらく地図上の×・・・このあたりであったであろう。「大和」と「寒水」を結ぶ山道が合ったという。現在は合併されて郡上市となったの白鳥、八幡、明宝の三角形の中ほどの地域である。
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「谷川健一」によるとその話とは

『新四郎が金子信一氏に打ち明けた話によると、新四郎は妻に先立たれたあと、ふたりの子供と山で暮らしていたが10歳になる娘が、明方村寒水にある柿洞という屋号の家で使ってもらうことになり、家族にも可愛がられていたが数年経った頃から息子の嫁さんの嫉妬心から、意地悪されるようになり、巾着を盗んだという濡れ衣をきせられ柿洞の家を解雇されることになる。娘は炭焼きの父親のところにやむなく帰ることになる。娘は死にたいと漏らし、それに同情した弟と父親は一緒に死ぬことを決心し、父親は明年播くために採っておいた種のアワやキビをお粥にして子供らに食べさせてから殺したという。柳田國男の文学的表現と多少の違いはあるが、それは、裁判官の同情をひくための弁護士のテクニックであったのであろうと。』

新四郎さは獄中でも模範囚で、出獄したあとは善光寺参りをかかさず、念仏三昧で八十八年の生涯をとじたという。    谷川健一「柳田國男の民俗学」より

「柳田」オリジナルの「飢餓説」そして「新四郎さ」の「恨み人情説」・・・これらがいずれも出獄した事件当人から、身請け人となった金子某に伝えられ、その親戚であろうか、金子某が後に資料にまとめたものを、「谷川」が言及したものである。

「柳田」オリジナルの「飢餓説」よりは信憑性はあるが、「盗みの嫌疑」を掛けられたことで、「一家心中」未遂をはたしてするものであろうか?
いわゆる「村社会」であるから、「村八分」的な扱いに耐えられなくなったともいえなくは無いが、それにしても「一家心中」未遂とは考えにくいと思われる。

小生は先の話の中の「庄屋の息子の妻の嫉妬による盗みの濡れ衣」というところ、そして「弁護士のテクニック」というところが妙にヒッカカルのである。、

by noanoa1970 | 2005-11-23 09:32 | 怖い話 | Comments(0)

異説「山の人生」4

この話にはさらに驚くべき「異説」が存在する。

異説その-2

男の家に、ある日「山人」・・・「畏形の人」「非常民」「稀人」等と称される夫婦が山のほうから薪と炭を売りにきた。両方沢山あったので男が買うのを断ると、その「山人夫婦」は「お金がないので子供を食べさせることも出来ない」・・・といい、一人の「娘」を強引において去っていった。
男は困ったが、女房もなくしたことだし、家を切り盛りするのに都合が良いとばかりに、その娘を住まわせ家事を手伝わせて一緒に暮らすことにした。

男には息子がいて、初めは息子と娘は子供同士仲良く暮らしていたが、成長するに従い、恋愛関係になった。男も娘に恋心を抱くようになったので、息子と娘の成り行きを、快く思わなかった。

そうしたあるとき男は息子と娘のただならぬ関係に気がつき、嫉妬した男が斧で二人を殺害してしまった。自分も死のうと思ったが、死にきれずに刑務所に送られた。
・・・という「異説」である。

「異形の人」が登場するところがこれまでの話と全く異なるのであるが、小生はこの山人夫婦を「サンカ」であるような気がしている。
戸籍を持たない「山の民」、山間を放浪し自然と一体となって生活していた民は、この頃には農村(常民)との交流の必要が生じた。
自分たちで作った蓑・笠、竹細工などを売ることで、生活資金としていたことは事実であったようであるからだ。

下の図は「サンカ」が竹細工を作成しているところである。作成したものを山すその集落にもってきて金銭や食料などと交換したという。
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by noanoa1970 | 2005-11-21 09:20 | 怖い話 | Comments(0)