レオポルドルートヴィッヒのベートーヴェン第9

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初CD化のこの録音、小生はLP時代でも聴いたことがなかったので、今回入手した「ブラームス1番」、そして「チャイコフスキー5番」の交響曲の中で、最も聞きたかったものであった。

指揮者である「レオポルドルートヴィッヒ」についての詳細情報は、40年前のコロムビアクラシック大全集のブックレットでは、ドイツ中堅の指揮者で、手堅い演奏をする人だとしか紹介されテなく、おまけに、プアなマスターコピーからの廉価盤LPのチャイコフスキーの5番・6番、そしてブラームス1番の交響曲を聞いただけにすぎなかったが、いずれも印象度は低かった。

小生はもうずいぶん長いこと、指揮者の腕前を自身で確かめるたもに、ベートーヴェンの第9交響曲を聴くことにしている。

それはオーケストラと合唱、そして独唱が混在する曲の統率ぶりと、音の響かせ方をみたいためであり、合掌指揮者とのコンビネーションをも見たいためである。

楽器と音声の巧みなコントロール、そして合掌指揮者を含め、すべてのパートとの綿密な連携ができてこそ、音響が音楽として響くと思うからである。

大指揮者と呼ばれる人の演奏に、破綻が生じるのは、信頼関係が構築できなかったことの結果ではないかと思えることがある。

逆に、マイナーな存在の指揮者の振ったオケにも、ものすごい演奏があることも事実である。

そんなときに、小生は「オーケストラにおけるチームとしての信頼関係」を見たような気分にさせられる。

だから、小生にとっての演奏者の良否を決める試金石的ポイントの重要な一つが、ベートーヴェンの第9交響曲であるわけだ。

したがって、はじめて聞く第9の演奏は、どんなものでも心がときめくのである。

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さて、今回の「レオポルドルートヴィッヒ」の第9は近年で最も心ときめく存在であった。

音盤数がもともと、その活躍の割には少ない指揮者であるから、第9が残されていることは知らなかったのも、よけいに興味を持つ原因となったのだが、ようやく彼についての新たな情報が得られることになったのも、嬉しいことだ。

オイロディスクあたりからの情報を入手して書かれたものと思えるCD解説によると、彼は1908年生まれというから、「カラヤン」、「アンチェル」、「カイルベルト」、「アイヒホルン」と同じ生まれ年である。

モラヴィア(当時はオーストリア領)生まれで、ブルノ歌劇場の指揮者でもあったというから、フランツ・コンヴィチュニーと同郷(広い意味ではチェコスロヴァキア人)で、彼よりも6歳若いだけだし、大戦後は東西のベルリン交響楽団の客演指揮者、ベルリン国立歌劇場管弦楽団、ベルリン市立管弦楽団を指揮して活躍したというから、コンヴィチュニーとはどこかで知り合っていた可能性が高いといえる。

コンヴィチュニーは東ドイツで活躍し、ルートヴィッヒは北ドイツで活躍と、その守備範囲は違うが、巷の評価ではどちらも「手堅い」、「質実剛健」といったドイツのカペルマイスター的称号を与えられることが多い。

そしていずれも「オペラ」をも得意にしていることが共通点としてあげられる。

コンヴィチュニーは、ベートーヴェン、ワーグナー、そしてルートヴィッヒは、ウエーバーやなんとベルクの「ルル」まで録音しているというから驚きである。

そんなルートヴィッヒの第9が、どのように演奏されたのか、興味を持たないわけがない。

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レオポルド・ルートヴィッヒ指揮
ベルリン交響楽団
聖ヘドウイッヒ協会合唱団
マーリス・ジーメリング(sop)
ギゼラ・リッツ(Alt)
ルートヴィッヒ・ズートハウス(Tno)
エルンスト・ヴィーマン(Bas)
録音不詳・・・録音状態からすると50年代後期から60年代初めだと思われる
またベルリン交響楽団とは、東西両方存在したが、このころはハンブルグ国立フィルの常任となっていたころであるから、旧西ドイツのそれであると思われる。

演奏については、思いのほかメリハリが強く出されるもの。
出だしの弦のサザ波のような強めのボウイングは、小生が好むもの。
コンヴィチュニーの演奏をさらに強調したようなザワザワと波立つようで、これから始まる物語を前に、ワクワクさせられる。


1楽章17:05、2楽章11:19、3楽章16:16、4楽章25:28…約70分と標準的な演奏で、インテンポではあるが、かなり聴感速度は速いように感じるほどグイグイ音楽を引っ張っていく。

2楽章のティンパニーをずいぶん強調し、激しく叩いているのが特徴で、
この楽章のテンポはかなり早めである。

3楽章になると、ほんの微妙にテンポを動かすが、とても微かな範囲であり、オケを歌わせるのだが、他の主要な演奏に比べると即物的だといえる。

4楽章の「テーネ」は、バリトンに「F-F」と歌わせるオーソドックスなもの。
独唱は男性陣のバリトンソロが小生の好みではないが、テナー、女性陣と合唱人は大健闘だ。

バリトンの声がカントリー界の大御所、ジョニー・ キャッシュの声にそっくりなので、思わず笑いが出てしまった。

テナーのルートヴィッヒ・ズートハウスは、フランツ・コンヴィチュニーの「トリスタンとイゾルデ」で、「トリスタン」を歌っている人物。アーベントロートとのベト9にも出演しているし、フルベンの「指輪」にも出演している。
コンヴィチュニーのトリスタンのジャケットを見る限り好男子である。

カラヤンの起用する「ウイーン学友協会」のあまり上手とは言えない合唱団に比べ、「ヘドイッヒ教会合唱団」は、相当な技量をもっているようで、素晴らしいハーモニーを聞かせてくれた。

かつて某大型クラシック音楽掲示板に、小生がコンヴィチュニーの音楽を、建築物に例えて、「骨格が太くガッシリした建造物のようだが、同じ基準のレンガによって組み立てられた西洋建築ではなく、日本の城の城壁のように、大きさや材質の異なるものを組み合わせ、しかも継ぎ目が寸分の隙もないように、シッカリと組まれているが、水たまりを逃がすための穴をところどころあけている・・・そんな演奏である」と投降したのと同じような感想を、CDの解説者YK氏は、ルートヴィッヒの演奏家から感じたらしく、「石造りの堅牢な建築物ではなく、木造の骨格の建築のような、自然のしなりや撓みを生かした軽みがある演奏」と評しているが、ルートヴィッヒの演奏の一側面をとらえているように思われるものである。(ろくに音楽を聴かないで論評する評論家がいる中、この人はよく音楽を聴いているようだ)

小生には、表現主義的要素と即物的要素を併せ持つ、この時代にしては新鮮な演奏スタイルのように感じられる。

そのために、極端な個性を出さないためか、得意レパートリーを固定せず、古典から表現主義作曲家の作品まで、何でもこなすといった芸風が見られることが、帰ってあのオーマンディのような存在になってしまったのではないかと推測するものである。

しかし実際はこういう没個性に見えるような演奏こそが、聞き続けても飽きの来ない演奏であることが多いもので、ルートビッヒの第9も、おそらくそうであると小生には強く思われるのだった。

チャイコフスキーやブラームスを聞いて思うのだが、よくぞこのような演奏を、埋もれたままにしないで復刻してくれたものだと、作成者および発売元日本コロムビアに感謝の意を表したい。
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by noanoa1970 | 2008-10-28 18:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

第9いろいろ・・・アルテュール・ローター

小生は第9が好きである。そしてこの曲を演奏家の「試金石」と位置づけていた時期が相当長い間続いた。オケの、コーラスの、独唱の技量はもちろん彼らを束ねる指揮者の技量が聞き取れると思うからである。第9の下手な指揮者は小生のコレクションからは消えていくことになった。
今ではそのようなことは昔ほどではないが・・・というより「指揮者の技量確認」を行うことに余り意味を見つけられなくなったのと、第9に限らずたいていの場合、どんな曲でもその演奏を聴けば大体自分好みか否かがわかるようになってきたことによる。

長い時間を掛けて音楽となじんできたことによるものであろうと思っているのであるが、
さて、今日あたりから今まで集まっただい9をあれこれ聴いてみることにした。
ひょっとしたらむかしの好みが大きく変化しているかもしれない・・・・と思うと其れもまた楽しみの一つである。

順不同、アトランダムにレコードの棚に並べてあるものを順に聴くことにするが、最初だけは
生まれて始めて全曲を聴いたレコードを取り上げるこちにした。

ご存じない方がほとんどだと思われるのだが、
アルテュール(アルトゥール)・ローター指揮
ハンブルグ国立フィルの演奏
カップリングには若い日の「ケルテス」がレオノーレ3番とエグモントの序曲を指揮している。
1950年代中期から後期の録音と思われる。

1962年12月にこのレコードが発売され、同時に入手したもので、全50枚のクラシックレコード全集である。クラシック音楽入門全集としてコロムビアから発売された。ジャケットは経年変化でボロボロになってしまっている。
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演奏は
大仰なところが一切無く、淡々と進める、ほんの少しアゴーギグがある。弦楽器のボウイングに独特のものを感じる。例えば「シューリヒト」の演奏のように、長く聴いても飽きない演奏で、万人好みではないが、とても渋い・・・いわばツウ好みの演奏である。
多分彼はオペラが得意な指揮者なのであろう。別アルバムのベルディなどのオペラの抜粋を聴くとそんな気がしてくる。4楽章の「フォーゴッド」と合唱が歌う部分、通常4拍以上長く伸ばすことが多いのであるが、ローターは3泊ほどで終わっている。この辺りも合唱の技量を読み取り一番「いい加減」のところで終え、それ以上無理して引き伸ばすことをしなかった。
これはこれで聴いていて特に違和感は無くかえって好感がもてる。

残念ながら合唱は余り上手とはいえないが懸命に歌っているのがいいし、独唱陣の中ではバスの「フランツ・クラス」が歌唱法に独特の間合いがあって面白く聞ける。

3楽章にやや失速するところはあるが、4楽章はこの指揮者の底力を見せる好演である。

小生が一番気に入っているのは1楽章冒頭の弦の「漣」のようなボウイングがかなり強調され、其れが他にも随所に出現するところである。
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by noanoa1970 | 2005-12-04 08:55 | 第9を聴く | Comments(0)

F・コンヴィチュニーの第9

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7月28日、8月14日はそれぞれ、小生敬愛の指揮者「F・コンヴィチュニー」の命日と出生日である。
そしてこの指揮者は、小生が意識して最も最初に聴いたベートーヴェンの「運命」の指揮者でもある。
中学生時代に「ステレオ装置」が我が家にやってきて、たまたまクラスに音楽好きな男が数人いたこともあり、家にあるレコードを持ち寄って聴いたことがある。持ってくるレコードというと、どうしても「運命」と「未完成」のカップリングもの、そして「新世界」、などなどタイトル曲が多かった。フルトベングラー、ワルター、トスカニーニ、オーマンディ、シューリヒト、などネームヴァリューの有る指揮者たちの中で、コンヴィチュニーはほとんど無名に近かったのだろう。誰も他にはコンヴィチュニーの録音を持っているものはいなかった。特徴有るトスカニーニ、フルトベングラーの演奏録音と、当時としては録音の良かったワルターやセルの前で、録音もよくないし、表現も朴訥なコンヴィチュニーの音楽は劣勢だったことをはっきりと覚えている。・・・・当時から、「こちらがいい、いやこっちだ」・・・と、わけの分からないまま、音楽を通しての自己表現に夢中だったというわけであった。(笑)

小生はそれにジット耐え、今に超有名な指揮者になる・・・と内心思っていたのだが、今思えば、それは自分の家のレコードを守りたいという、子供のナショナリズムそのものであった。その背景には、ハッキリとした演奏の記憶はないにせよ、生演奏で聴いた最初の海外オケと指揮者が、コンヴィチュニーとライプチィッヒ・ゲバントハウス管弦楽団であったことにある。
残念なことに来日した年の翌年1962年、チェコフィルとの演奏練習の最中、持病が悪化して倒れ、60歳の若さでこの世を去った。あと19年生きていれば、録音に恵まれもっともっと評価され、「巨匠」と呼ばれたことだろう。

ドイツの正統的指揮者という肩書きをつけられてから、もうすぐ半世紀になる。
あらゆる音楽関係者がこぞって、コンヴィチュニーをそのように揶揄し、その音楽を評論した。
小生も長い間その呪縛霊に取り付かれていたのである。その理由は恐らくコンヴィチュニーの録音のうち近年まで日本で聞くことが可能なものといえば、ベートーヴェン交響曲全集に偏っており、ついで、「タンホイザー、オランダ人」などのワーグナーの楽劇、ブラームスの1番の交響曲、そしてシューマンの交響曲全集であって、ブルックナーの後期の交響曲などを聴く事が可能になったのは、、ずいぶん後になってからと記憶する。

すなわちドイツ音楽の指揮者であり、そして伝統あるゲバントハウス管の常任で、出てくる音楽は、ベートーヴェンを、しかも3、5、6、番だけを聴いただけといわんとばかりの・・・「伝統的」、「古式蒼然」、「楽譜に忠実」果ては「ドイツ的」などなど・・・まるでわけの分からない「保守的指揮者の権化」がごとく扱われてきた。1961年来日して、ベートーヴェンチクルスを各地で公演したこともそれを助長したのであろう。
しかしながら、そういう面はあるにせよ、決してそのような表面的な見方で済まされないところにコンヴィチュニーの音楽の深さと凄さが実はある。

その一例としてベートーヴェンの第9交響曲を上げてみることにした。
コンヴィチュニーの残した録音の質は余りにもよくないものが多く、「エテルナ」の初期盤LPのみがその音楽を表現する。
しかしオリジナル録音を手に入れることは困難であり、LPでは余りにもポピュラーでない。どうしても「ベルリン・クラシックス盤」か、廉価で発売された「EDEL盤」CDということになるが、このリマスタリングは、オリジナルの録音の持つ音楽的要素を削いでしまっていて、耳に聞きやすいが、残念なところが多い。

小生が強く勧めるのが、入手が少し困難ではあるが、ポーランドのPolskie Nagrania, (ポルスキエ・ナグラニア=ムザ), レーベルからのリマスター盤。このマイナーレーベルの会社は、恐ろしくシッカリとしていて、リマスターのエンジニアの名前2人を公表している。
とにかくこのリマスター盤は、非常に高い「音楽性」を再現しており、低音部を電気的にブーストするなどの小手先のテクニックを排除し、エテルナ初期版に近い音楽性を再現しようという努力の成果がうかがえる。

出だしの特徴有る漣のような弦の音が、水平線の彼方から押し上がって響いてくる・・・音楽の始まりを告げるように表現されている・・・「空気感」がとてもよく伝わってきて、のっけから「これは凄い」と引きずり込まれてしまった。

通常は埋もれて聴こえない低弦に支えられた弦楽器の織り成すハーモニー、ティンパニの倍音成分、ピッコロの流麗な音色、ファゴットの深く凄みの有る音、余り上手とはいえない合唱陣の真剣な様子・・・などが手に取るように分かる。

ゲバントハウス管弦楽団の音の特徴の大きな要素が、ヴィブラートをほとんどかけてない弦の奏法にある。・・・こんなことさえ聴いて分かるくらいなのである。

1950年代後期の録音が、これまで見事に現実感を帯びてよみがえったのには正直驚いた。
全ての録音をこのレーベルにてリマスターしていただきたいものである。
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by noanoa1970 | 2005-07-14 09:02 | 第9を聴く | Comments(3)