心の風景

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1970年当時は白沙村荘の池のふちから、上の写真のように、如意が嶽の「大」の字がハッキリ見えた。
8月16日は、店はお客で満杯となるのだが、こっそり抜け出し庭に出て「大」の字を盃に受けて飲んだ思い出がある。

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庭園の真ん中にある池、当時はもう少し水が澄んでいた。
巨大なマゴイが遊泳し、手をたたくといつも寄ってきた。体格の良かった故橋本帰一氏と似ていたのでその鯉を「帰一」と呼んでいた。鷺などの鳥によって鯉が全滅したので巨大な鯉はいなくなってしまった。
この池で鯉釣りをしたのは多分小生ぐらいだろう。

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現在はここで食事もできるようになったが、当時は住居であった。
関雪の「玄猿」のレプリカ軸がかかっている。

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小生が好きな構図。
問魚亭から倚翠亭を見たところ。
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こちらは問魚亭から憩寂庵を見た構図。
現在お茶会が開催され、利用されているのは倚翠亭だけとなってしまった。

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われわれは「大画室」オオガシツと呼んでいた「存古楼」。
約50畳ほどの天井が高い2階建ての日本建築。大作を完成するための画室としてつくられ硝子の扉で囲まれた明るい部屋だ。
池をはさみ、如意が嶽を借景としているから、その昔はこの部屋から大文字の送り火が見えたのであろう。われわれの時代には部屋の外に出ないと全部は見えなくなっていた。
2階は現在は立ち入り禁止となっているが、当時小生たちはバイトが終わると、そこに炬燵を持ち込んで、マージャンを」したものだ。その時のメンバーが40年ぶりに集まった。
なおその時使用したマージャン牌は、関雪時代から残された「象牙製のゲタ牌」であった。

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大正時代のオイルランプと照明。
さりげなく置いてある所が、この屋敷の歴史と風格をしのばせる。

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by noanoa1970 | 2008-10-08 10:03 | 白沙村荘随想 | Comments(1)

40年ぶりの顔合わせ

一昨日昨日と京都銀閣寺畔の白沙村荘時代のバイト仲間が40年ぶりに集まった。
中には京都来訪自体が40年ぶりという不届き者もいて驚いたのはともかく、とても楽しい思い出話のひと時を過ごすこととなった。

白沙村荘の菩提寺であり、吉兆の湯木貞一が手ほどきを受けたカリスマ的村瀬禅尼が作る「ゴマ豆腐」が有名となった精進料理の「ほんまもん」の元祖、「月心寺」ヘ行く予定であったが、手違いで行けなくなったのは残念だったが、白沙村荘(現橋本関節記念館)橋本妙館長が我々のためにテークアウトで、月心寺の料理を運んでくれた。

庭園を眺めながら、料理を味わいながら、うまい日本酒を飲みながら8時間も滞在して昔の思い出話に花を咲かせたのだった。

勝手知ったる他人の家だから、酒が無くなると誰かが台所に行って酒を持ってくるし、
同時代を過ごした女性たちもやってきて、一緒に楽しい時を過ごすことができた。

庭は白洲正子がその昔いっていたように「適度に荒れた感じがいい」。
往々にして京都の庭園は、寸分の隙もないほど手入れされていて、眺めるのはよいのだは人を拒むようなところが多いものだが、白沙村荘の庭園は人を暖かく迎え入れるそんな懐の深いものだ。

やはり自然と一体となる・・・そんな関節の心象なのだろうと強く思うものだ。

われわれのバイト時代には見通すことができた「如意が岳」=大文字の山の「大」の字は、木立に塞がれて長い間見えなくなっていたが、庭園中央の大きな鯉が遊泳する池も手入れされ、昔の面影を残すことができたようだが、やはり年月には勝てずところどころ損傷もある。

大がかりな修復も時が来れば必要になると思うのだが、この先どうなる事やら大変心配なことである。

3000坪の庭園と家屋、関節の残した美術品の維持管理は想像を遥かに越えた苦労があることだろう。


NOANOAで待ち合わせ、オープンテラスでワインとピザでランチ
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橋本妙館長と白沙村荘庭園にて
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庭園南側から大画室を望む
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茶室「問魚亭」から鎌倉時代の七重の石塔を見る
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ずいぶん数が減ってしまった、竹林の中の石仏
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1970小生がギャラリー目的で作られた古い洋館を改装して始めたNOANOA
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当時と同じ蔦が、いい具合に絡まっていて趣を出している
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NOANOAの入口の大きな扉、中の戸をあけると店に入ることができる
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5年ほど前にできたNOANOA新館
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表通りからみたNOANOA。奥が旧館右手に新館
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白沙村荘母屋から庭園を見る
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月心寺村瀬安寿の手になる精進料理
写真を撮るのを忘れたが、ゴマ豆腐は安寿さん自らの手になるものだそうだ
朝4時から起きて作ったという
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白沙村荘に会した一同の写真
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by noanoa1970 | 2008-10-06 15:48 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

谷崎潤一郎と白沙村荘

d0063263_11274824.jpg以前少し触れたことがあるが、谷崎潤一郎と往復書簡を取り交わし、小説「瘋癲老人日記 」の颯子のモデルになったとされる嫁「渡辺千萬子」は、橋本関雪の孫娘である。






d0063263_117710.jpg白沙村荘の庭でくつろぐ橋本関雪と千萬子と愛犬


「千萬子」という名前は関雪によって付けられたという。

千萬子は関雪の長女が、医者の高折家に嫁ついで出来た娘で、関雪は事あるごとに可愛がったという。

千萬子が渡辺に嫁いだ経緯は、資料が何も残ってないようだから、ハッキリとは分からないが、「江戸川乱歩」の日記に以下のような記述があることから、「乱歩」と関雪の長男「節哉」氏とは旧知の仲で、乱歩は「節哉」に頼んで谷崎の多分下鴨の「潺湲亭」を訪問したと書いている。

千萬子は昭和5年生まれであるから、下の記述の、乱歩が谷崎亭を訪問したのが、「千萬子」がこのとき17歳、同志社大学英文科を卒業したのが昭和27年だから、どう考えても結婚前のことと思われる。

乱歩の記述の「節哉」と「谷崎」の交際が、関雪を介在して行われたのだろうか、そして「節哉」の妹であり、「関雪」の娘でもある「高折」さんの娘=関雪の孫を、谷崎の家の「渡辺」に嫁がせたのも、なんとなく分かろうというものだ。


昭和22・1947年「江戸川乱歩日記」より

午前、橋本関雪邸の庭園と美術品を見る。谷崎潤一郎と交際のある節哉に仲介を依頼し、二人で谷崎の新居潺湲亭を訪ねる。《谷崎さんとは十年も前に一度文通したことがあるだけで、お会いするのは今度がはじめて、奥さんも同席され丁重な食事のおもてなしに預かり、お酒も出ていろいろ話をしたが、谷崎さんは文学談など好まれぬ様子なので、こちらも差し控え、結局文学以外の話の方が多かった》。二時間あまりで辞去、節哉と嵐山をドライブし、苔寺の庭を見る。夜は京大の小南又一郎の来訪を乞い、法医学の話を聞く。橋本亭に宿泊。・関西旅行日誌(昭和22・1947年)/探偵小説四十年(昭和32・1957年)


さて、「千萬子」が嫁いだ、「渡辺家」とはどういう家系なのであろうか。

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昭和38年頃,7月の谷崎の誕生祝いの集まりで,熱海梅園ホテルにて 左より惠美子,松子,潤一郎,重子,たをり,清治,千萬子,桂男(熱海 今井写真館所蔵)


かなり複雑で、調べるのに相当時間を要したが、やっと分かった。

谷崎の妻、(一度離婚したが、復縁することになった)谷崎松子と根津清太郎(大阪の豪商、松子は根津清太郎の前夫人)の子供の清治(従って松子の連れ子とということになる)を、松子の妹(渡辺重子)の養子にした(谷崎が自分と養子縁組をしなかったのは解せないが)後、「高折千萬子」と結婚、

「千萬子」と「清治」の子供が「たをり」というわけである。
「たをり」は、従って法律上は義理の妹になるが、実際は孫と同じであることになる。

d0063263_11225638.jpg「千萬子」は後に、銀閣寺疎水べりの一角で「アトリエ・ド・カフェ」という喫茶店を開くことになるが、小生は残念なことに一度も訪問した事がないうちに、閉じられててしまった。

また「千萬子」が、小生が白沙村荘にいた時代に、橋本家にやって来たという話は聞いたことは無かったが、節哉氏が無くなって久しかったし、いまや関雪の長男の子供「帰一」氏が、白沙村荘を一般公開に踏み切って、守る時代になったから、最早自分の実家という気持ちこそあれ、足を遠ざけていたのだろう。

関雪の娘、高折さん(旧名橋本妙子)のことは、名前は耳にしたが、顔の認識がないほど、白沙村荘とは疎遠となっていたようだった。


1946(昭和21)年の谷崎潤一郎詳細年譜(昭和22年まで)に以下の記述がある。
これによると、谷崎と「関雪」の息子橋本「節哉」の関係、そして渡辺「千萬子」の母親高折妙子:旧姓橋本妙子の関係が少し垣間見れる。

江戸川乱歩も小津安次郎も潺湲亭を訪問していた事。
「千萬子」の母親、高折妙子を三条木屋町にあった広東料理の「飛雲」に招待していたことも明らかになって、小生が好きであった店とオーバーラップするのが、何かの縁を感じることとなった。

11月2日、故橋本関雪白沙邨荘で銭に会い揮毫をしてもらう。これ以前か、朝日新聞支局の紹介で関雪の息節哉に紹介され、ついでその妹妙子、その夫高折隆一を知る。

5月12日、春日豊(とよ、小唄演奏家、67)来訪、春琴抄の小唄聴く、磯田又一郎来るので豊に紹介、橋本節哉、宇佐美佐藤を紹介、銭の使いなり、西田秀生来訪、来客多く静養どころでない。

7月4日、井上金太郎、小津安二郎(45)来訪

10月17日、江戸川乱歩(55)が訪ねてくる。

1947年3月21日、国井夫人(市田やえ、38)、高折妙子を飛雲へ招待、四条木屋町の萩原正吟宅で繁太夫の鳥辺山など聴く。


谷崎潤一郎を巡っていくと、思わぬところで「縁」を感じるところがある。

2月26日は、橋本関雪の記念日で、恐らく現在も、月心寺で記念行事が開催されていると思われるが、月心寺の村瀬尼により、その昔、2月26日の関雪記に、谷崎潤一郎が、渡辺「千萬子」を伴って、月心寺を来訪したことが書かれている。
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by noanoa1970 | 2008-05-20 11:10 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

昔の味・・・「月心寺」の大鉢料理

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美味しい精進料理を食べさせてくれる、そしてNHKの朝ドラ「ほんまもん」に登場する、尼寺の庵主さんとしか認識の無い諸氏は、この禅寺に日本画の巨匠といわれる、「橋本関雪」夫妻のお墓があることをご存じないであろう。

ここは禅寺となってもう久しいのだが、実は橋本関雪が、江戸時代に走井餅本舗が所有していたこの土地と家屋が、持ち主の移転に伴い、廃墟と化していく様を見て、後世に残すべく、買い取、銀閣寺畔の白沙村荘別邸としたところである。

明治天皇が東京に下るとき、ここ走井茶屋に立ち寄り、「如在殿」に逗留されたという。

山門、雨花亭、五輪塔、持仏堂は、後に関雪が移築建造したもので、五輪塔は九州国東半島から別々の場所にあったものを、まるで初めから対でもあるかのように、偶然調達したものを、妻の墓とし後に自分の墓となった。

鎌倉時代に作られたといわれ、そのためであろうか、五輪塔には墓である戒名の刻みが全く無く、無垢のままそこに存在するのである。

「関雪」の雅号の由来も、実はこの近くの難所を詠んだ、蝉丸の「行くも行かぬも」・・「逢坂の関」と関係し、伝えられる話では、藤原道長の父、藤原兼家が夢の中で、逢坂の関に差し掛かったが、牛車が雪のせいで、前に進めなかった。

凶夢に違いないと恐れ、陰陽士に占いを頼むと、「雪」は「白」、逢坂の「関」は「関」、すなわち「関白」に通じるという予言どおり、道長が関白になったという、目出たい故事にちなみ、漢学者であった、関雪の父によって送り名されたと伝えられる。

月心寺に小生がはじめてお邪魔したのは、白沙村荘の「お菜ところ」という、京の「おばんざい」を提供しながら、夜は関雪ゆかりの人たちが集り、サロンとなる感のあったところに、バイトに入った1969年のことだった。

その頃白沙村荘では、庭園を一般公開し、庭園の鑑賞客に、お茶とお菓子を提供することも始めていて、京都の女子大生たちが交代で沢山、お茶席のバイトに来ていた。

過去から、関雪の記念日には、月心寺で身内の会が催されていたらしいのだが、その年の秋だったか、仕事のご苦労さんの会をやろうという話が持ち上がり、白沙村荘局長であった橋本帰一氏が、会場に選んだのが月心寺だったのだ。
当時小生は、月心寺という名前は、人づてに聞いただけだったし、まして関雪夫妻の菩提寺で、かつては、関雪の別邸だったことも知らなかったが、「お菜ところ」には、時々村瀬明道尼(われわれは、ただ、庵主さんと呼んでいた)がやってきて、「お菜ところ」の主人である田鶴子おばさん(関雪の長男、節哉のお嫁さん)と、アレコレお話しているのを目撃していた。

「お菜ところ」で提供する料理は、ほとんど田鶴子おばさんの手作りだったが、おばさんから聞いた話では、開業前に、月心寺の庵主さんから、料理の手ほどきを受けたという。

ごま豆腐、煎り豆腐、野菜の炊き合わせ、こんにゃくの炊き合わせなどの定番をはじめ、季節季節のものを作って出していたのである。

そう、ごま豆腐は現在の月心寺の、評判高い逸品でもある。

しかし、庵主さんの作るごま豆腐は、たいそう手間がかかり、力仕事であるから、田鶴子おばさんは、当初自力でトライしていたようだが、とても続かないと、あきらめて、途中から古くから番頭のように出入りしていた人に、その仕事だけを譲った。

庵主さんは、すでにそのとき、交通事故で右の手と足が不自由な体であったにもかかわらず、胡麻を大きなすり鉢で当たっていたというから、修行を積んだ禅尼僧は、やはりどこか違うものだと、関心の的であった。

ただ、(最近の事情は伝え聞くところによると)現在の月心寺で提供する料理のスタイルは、余り変わってないことを願うが、お客が相当変化し、大勢の観光客が押しかけるようになっているというから、昔のスタイルでは無理かもしれない。

精進料理といっても、当時の月心寺のそれは、精進然としてなくて、気の利いた割烹と、京の「おばんざい」を上手く調和させた、ダイナミックかつ繊細な、そして若者が食べても十分満足できるタップリとした量のある料理だったのだ。

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膳を使うだけでなく、時には大振りな鉢に、タップリと盛り込まれた料理が出てきて、青竹で作られた利休箸で、それぞれが好きなだけ取って食べる。

大量に盛られているから、遠慮することは無く、好きなものを好きなだけ食べることが出来る満足感を味わうことが出来、一つ一つが材料に感謝するように丁寧に加工され作られ味付けされた料理は、どれを食べても美味しい。
恐らく関雪→節哉→帰一と受け継がれた、白沙村荘橋本家の食卓は、月心寺の料理を上手く模倣したのだろうと推されるようなところがある。

「お菜ところ」で、月心寺の庵主さん→田鶴子おばさんへと受け継がれた、こんにゃくの煮物は、ほんの少し変化して小生の家に引き継がれた。


この料理は、「おばんざい」としてまた酒のお供として、非常に美味しいから、ここで作り方を、紹介しておくことにする。

小生宅では、この料理を「鶏・コン・ごぼう」と言って、正月には必ずお重にいっぱい作ることにしていて、すでに35年になる。

(*鶏肉は小生が加えたものであるが、後はかなり模倣している)

材料:重箱イッパイの(量は目分量)
鶏肉:200~300g:モモと胸を両方、一口大にカットする。

牛蒡:3~5本ほど:厚さ5ミリほどに斜め切りし、アク抜きのため、お酢の入った水に浸しておく。(しばらく後に笊にあけ、水分を切っておく)

蒟蒻:3~4枚:いったんボイルしておくか、上から重石をして水分を切り、金属製のものでカットしない(箸などで無数に穴を開けた後、手でちぎるのが手っ取り早い)ようにして、一口大にしておく。

大きな鍋に蒟蒻を入れ、蒟蒻が悲鳴をあげ続けるまで、充分乾煎りする(出来れば20~30分・・・これがポイント)。
蒟蒻をいったん取り出し、その鍋に胡麻油を多めにひき、鶏肉を炒め、色が変わってきたら、牛蒡を入れ、これも充分炒める。

次に材料を全部合わせ、だし汁少々、酒、しょうゆで味をつけ、水分がなくなったのをみはからって、最後に味醂を入れ照りをつける。

好みで七味唐辛子を加え、冷ましてから盛り付けた後、ゆでた絹さやを乗せると見栄えがよい。

注意点:(冷めてから食べるほうがこの料理は美味しいから、熱いときの味の濃さには注意すること。)
冷めると、味が濃く感じるから。



話が脱線したが、月心寺の村瀬明道尼は、愛知県出身で、小生が白沙村荘の皆さん総勢15人ほどで、最初にお邪魔したときに、小生の生まれが愛知県、住んだことは無いが本籍が、長野県の木曾であることが話のついでに分かると、「同郷の士」そして「わが修行の土地、木曾」と、懐かしそうに、例の大きなしわがれ声で言うが否や、「木曾節」を熱唱しだし、とても上機嫌で「ホラ歌え」といって、「正調木曾節」について実演までしてくれたことがあった。

1969年70年の2回にわたって、月心寺でのご苦労さん会が開催され、どちらも出席することが出来、大鉢にタップリと盛られた美味しい料理と共に、美味しい般若湯をたらふくご馳走になった。

加茂茄子の味噌田楽は、特に今でも味の思い出が残る絶品だったし、筍の筑前煮は後に、小生がそれを真似て盛るために、陶芸を習いに行って、大きな鉢を作るに至ったほどのインパクトを与えたのである。

余りにも長時間の遊行と、若気の至りで、お酒をしこたま飲みすぎて、小生は完全に酔いつぶれ、朝起きると、門限オーバーで、帰れなくなった先輩の女性たちを含めて5人ほどと、同じ部屋でごろ寝していたのを懐かしく、そして少し気恥ずかしく思い出すのである。

あの頃は、今のように、予約が取れないほど、有名になってはいなくて、月心寺のことを知る人など、殆どいなかった時代であったから、このような無茶も許されたのだろう。

月心寺に泊まった人間は、ひょっとしたら、関雪夫妻以外、小生たちぐらいしかいないかもしれない、そんな貴重な体験をした40年前のことである。


d0063263_1055224.jpg何年か前のこと、修学院の家を片付けていると、1冊の本が出てきた。
月心寺村瀬明道尼の書かれた「月心寺での料理」がそれである。

家内に聞くと、1980年代はじめごろ、懇意にしていた表具師の方と一緒に、月心寺で開催された、何らかの会に出席したという。

d0063263_10553221.jpgそのときに入手したものであろう。
書籍の表紙裏には、自筆のサインがあり、初版であった。

この中には料理の心についても述べられていて、今話題の吉兆の湯木 貞一さんが、ごま豆腐を習いに来ていたということも分かった。

禅の心と料理をあわせて修業したであろう先代吉兆の湯木 貞一主人の「もったいない」という心を曲解したような、昨今の吉兆事件の数々、村瀬尼はどんなに心を痛めておられるだろうか。

かつて小生は、ある禅僧からこんな話を聞いたことがある。

それはその僧が修行の身だった頃、毎日掃除に明け暮れていて、あるとき掃除が終わってバケツに残った水を、ドブに捨てようとすると、どこからか「捨てるな」という声がしたという。

その声の主は、その寺の老師で、残り水もまた生かされなければならないから、ただ捨てるのではなく、庭の植木にやりなさいといわれたと・・・

一見無用になったと、人間が思う物でも、生かされる道は沢山ある。
残り水は、庭木の成長を助けることによって、生き、生かされるのだ。

また庭木も、捨てられる運命にあった水の命をもらって、また生きていくのだから・・・

そのようなお話を聞いたことがあるが、このような禅の話を、吉兆では「使いまわし」などという、とんでもない解釈を、しかも先代主人のせいにして、反省の色さえ見えないのは、月心寺で先代主人が学んだはずの、「料理の心」が、今は全く生かされてない証拠と見ることになってしまった。

吉兆の全員が、禅寺で3ヶ月修行し、「料理の心」を学ぶ気構えへの転換をしなければ、かつての名店も、最早何をやろうとしても、風前の灯であろうことは明らかである。

料理は禅の精神に通じている。

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by noanoa1970 | 2008-05-16 10:49 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

関雪桜・・・誰も知らない命名の経緯

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今はなき掲示板「クラシック招き猫」で議論を戦わせた論客「てつわんこ」氏のブログ「神戸阪神地域芸術文化情報」中の
京都洛東の紅葉(4)哲学の道 に白沙村荘:現橋本関雪記念館のことが書かれていて、中に「関節桜」が紹介されていた。

「この桜は、長い間関節が植えたものとされていたが、事実はそうではなく、関節の妻ヨネが苗木を購入し、哲学の小道の疎水沿いに植林したものである。」と、知ったかぶりのコメントしたら早速訂正していただいた。

さらに関雪桜の命名は・・・関雪の孫に当たる・・・当時白沙村荘の当主で局長であった「帰一」氏なき今日、こんなことを知る人はもうそうはいないと思うのだが、それは何を隠そう、当時アルバイトで入って後にNOANOAを立ち上げることになった小生とと大学サークルも一緒だった友人K田と、そして帰一氏によって考えられ、つけられたものである。

話は1969年ごろ、それまで橋本関節個人の住居で、その家族が住んでいた「白沙村荘」というニックネームで呼ばれていた約3000坪の敷地に有る池泉回遊式庭園を持つ家屋を一般公開するに当たり、小生は庭園管理の先輩達に続いて、屋敷内に新しく設けられることになった、総檜造りの「お菜ところ」という食事とお酒を提供する店のバイトに入った。

切欠はK田と下宿を同じくするS倉という男の誘いがあって、たまたま遊びに行った小生がK田を巻き込んでそれに同調したのだった。
そのとき白沙村荘は、一般公開をして間もない頃だったから、2人とも白沙村荘の存在も、橋本関雪という日本画の巨匠のことも知らなかったが、S倉の説明を聞き興味がわいたのだった。

白沙村荘でのバイト生活は快適そのもので、バイトの仕事は勿論だが、何よりも「文化芸術」の中に身を浸す快楽とチョットした優越感は、得も言われない魅力があった。

全てにわたってが、およそ京都人らしくない豪快さに溢れていて、夜ともなると関雪や、その息子である故雪哉、そしてその奥さんである田鶴子さん

(この人は大昔の東京都知事鹿児島県知事の娘・・・お嬢さんであるにもかかわらず、お菜ところをやることになった。
そして
このとき主に料理の手ほどきをしたのが、関節の墓がある精進料理で有名な山科の月心寺の安寿さんである)

の知り合い縁者などでいつも賑わっていて、青二才の学生の身分では絶対にお目にかかれないような高名の方々とも屈託無く酒を酌み交わしたり出来るそんな魅力があった。

いく月かが過ぎ、NOANOAというイタリアンレストランを開くことになって、小生とK田は開設主担当となって準備を始めていたが、あるときミニコミ誌の記者がやってきて、京都のタウンマップを作るからNOANOAを掲載しないかという。

聞けば昨今流行のタウン誌の走りのようなものを作るということで、銀閣寺周辺を1ブロックにするという。

当時小生たちはミニコミにも興味があったので、どんな感じに仕上がるのか興味もあって、あれこれ話すうちに、咲き始めた白川沿いに植えられた桜の話題になった。

白沙村荘当主で局長の「帰一」氏によると、関節の嫁が植えたもので、周辺の人は関雪はんが植えはったといっているらしいという。

この桜並木をNOANOAそして白沙村荘とむすびつけない理由は無い。
今までは個人の住居にしか過ぎなかったが今は違う。

そこでごく自然に、誰からともないように「関雪桜」とするのがいいのではないかという雰囲気になり、ミニコミ誌にそのように明記してもらうために党首であり局長の意見を仰ぐと「帰一」氏は、さも大発見したように大きく頷きながら「関節桜か、これはいい、当たり前すぎて今まで気がつかなかった」といいながら手放しで喜んだ。

「関節桜」が世に初めて出ることになったのは、このときの京都のタウンマップの雑誌によってで、それから長い年月の間に世間に浸透してようやく定着したのである。

名前の由来や名付け親そして命名者の存在などは、時とともに忘れ去られるのが宿命であるが、そういったものに関わったという事実が存在し、そしてそれが今日まで引き継がれてきているということに、何か特別なものを感じることがある。

現在の白沙村荘:橋本関雪記念館の運営は「帰一」氏が亡くなった後、奥さんの「妙さん」と次男の手になるが、まだ若き関節のひ孫は、そのあたりの経緯を多分知らないであろう。

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by noanoa1970 | 2007-12-04 11:21 | 京都 | Comments(1)

イチョウ・銀杏・公孫樹

イチョウは古来中国では「鴨脚」と呼ばれていたそうだ。
そういわれてみると、イチョウの葉は、水鳥の足の形に似ている。
さすが何でも「食」にする中国、でもまさか鴨の脚を食用にはしてないだろう。

「白沙村荘」に大きなイチョウの木があってその木は「雌」であったから、季節になると沢山の「銀杏」が実をつけた。
ほうっておくと、異臭を放つので、拾って水を張ったバケツに入れて、中のみを取り出すのであったが、あるとき隣の割烹の若いものが、2人で落ちた銀杏の実を全部持ち去ろうとした事件があり、早速抗議に行くと、そこの主人がいうには、「若い者が勝手にやったこととはいえ申し訳なかった。」とどこかで今でもよく聞こえてきそうな文句で、・・・実はそのことを知っていて、あるいは自分が指図してやらせたに違いないのだが、陳謝したことがあった。

そのころ「白沙村荘」では銀杏などを使うものは提供していなかったので、もっぱら自分たちの食用になるばかりであったから、それにしては沢山すぎるし、手間がかかる銀杏に少し閉口するところがあった。
お菜ところの「おばさん」は、コッソリ取らなくても、下さいといえばあげるのに・・・・と、この事件を悲しそうにいうのだった。
割烹料理屋と銀杏は切っても切れないほどの縁、無くてはならない素材なのだった。

そのような銀杏を小生は沢山もらって、下宿に持ち帰った。
しばらくは袋に入れっぱなしにしておいたのだが、ある晩友人が来て、お腹がすいたが何もなく、買いに行くのが面倒なので、「銀杏」を食べることにした。
どうやって食べるのがいいのか迷った挙句、銀杏を電気コンロの網の上にバラバラと沢山置いて食べられるようになるのを待つことにした。
5分ほどすると、突然パンという音とともに、銀杏がはじけ飛んで部屋のどこかに飛んだから、すぐに探して食べると、その美味しさといったら・・・甘みと、香ばしさ、そして中には黄色いものもあったが何しろ濃淡の翡翠色が素晴らしく、すぐに2人とも、弾け飛ぶ銀杏を追いかける「餓鬼」と化し、パンとはじける音が聞こえると、銀杏にありつくために相手を押しのけて部屋を探しまくった。

パン・・・バタバタ・ドタドタ・・パクパク、パン・・・バタバタ・ドタドタ・・パクパクが延々と続き、騒ぎが収まるのは、網の上の銀杏が無くなって、補充のタイミング時だけとなった。
あまりにもうるさかったのか、向いの住人が何をやっているのか覗きに来たほど。

こんな思い出が「銀杏」にはある。
そして「銀杏」は網の上で焼くのに限る。

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「近くの公園にただ1本あるイチョウ。
ほかのイチョウはまだ色づかないのに、すでに金色に身を染めている。
ここだけ特別に寒暖の差が激しいわけでもなさそうなのに、今年もいち早くきれいな姿に変身した。

「イチョウ」というとすぐに浮かぶのがこの句
中国人は、恐らく「食」から鴨の脚に見立てたイチョウも与謝野晶子は、金色・・コンジキの小さな鳥そのものに見立てた。
「食」の中国と日本人の「自然・動植物」にたいする感性の違いがあるようで面白い。
「ちひさき鳥」とは恐らくは、「千鳥」ではないだろうか。
といっても小生、「鴨」は大好物ではあるが・・・・

金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に                                与謝野晶子

今日は「小春日和」
写真は夕方でなく、朝8時ごろのものである。
まだ色づいた直後で、散り行くイチョウの姿は無い。
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by noanoa1970 | 2006-11-21 11:03 | 季節の栞 | Comments(0)

NOANOA回想録・・その4

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NOANOAでの小生が考えたスパゲッティ「まかない食」で好評だったものをご紹介すると。市販の壜詰めの「なめ茸」を、お湯にくぐらせたスパゲッティにオリーヴオイルかバターを加え、和えたもの、もう一つが、「お茶漬け海苔のもと」を同じように和えたもので、これはトマト味ばかりの料理の中では、「日本食」を感じる瞬間というわけで、大変な好評であった。このアイディアは後の
「壁の穴」・・・1980年代・・・の「ナットウ」「タラコ」「明太子」など和風スパゲッティの元祖となったと自負ている。和風スパゲッティブームが起こる遥か10年前・・・1970年のことであった。

さらに小生がふとした拍子に考え出したものに、後に「オーロラソース」と呼ばれ、今では誰でも知っている、たまねぎの微塵とマヨネーズ、そしてケチャップをあわせ、少し甘めで色がきれい、サラダなどに良く会うソースであるが・・・ある日これを偶然発見した。「妙」さんに作ったサラダを試食してもらうと、彼女は目を丸くして驚き、作り方を教えて欲しいといった。種明かしをすると、さらにその簡単さに驚いたものである。考案した少子も、今一度ベースのマヨネーズの底力に驚いたのだった。料理のレシピに特許権があるのなら、きっと今頃良い目が見れたかもしれない。(笑)
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by noanoa1970 | 2005-06-27 10:00 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録・・その3

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ブラインドテストを終了し、これならお客さんに出しても満足していただける・・・・と、いくつかのバリエーションを追加した日に、哲学の道を下がったところにある、楽焼体験の店に行き、お皿にメニューを書き込み、それを焼き物にしてもらった。

器類は、「たまねぎ」をデザインした伝統ある焼き物・・・「ブルー・オニオン」がピッタリと思ったのだが、目が飛び出るほど高価だったので、国産の「ブルーダニューブ」にした。これはこれで料理には良くマッチした。ソースの「赤」と良く合う「染付け」の磁器である。
すぐ下の写真が有名な、マイセンの「ブルー・オニオン」、その下が国産(有田)の「ブルー・ダニューブ」、質感は異なるものの、「ブルーダニューブ」も決して引けを取らないものであった。
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自学習だけでは限界を感じたので、接客と料理の基本を学ぶために、山科の「さざなみ」というレストラン・・・古くから橋本家が利用していたベテランの職人がやっている店だった・・・。そこでソースのストックの方法、コーヒーのレストランでの入れ方、仕込みのために必要なこと、安全管理、衛生・品質管理、そして実際に接客をしたりし、て2人で2ヶ月ほど毎日通い、教えてもらった。
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by noanoa1970 | 2005-06-24 08:00 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

NOANOA回想録-その2

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NOANOAでの料理をピザとスパゲッティに決めたのはよいとしても、この先膨大な準備の試練が待っている。小生は同じバイトの2人とともに、3人で開設主担当となった。帰一氏はすぐに名刺を作ってくれて3人に渡した。「白沙村荘・NOANOA開設準備担当」という肩書きである。KとSの二人は、この春卒業したのだが、事情があって京都にとどまっていたのを、小生が無理やり引きずり込んだ形となり、3人で、白沙村荘の従業員として働くことになったのであった。
小生と違い、料理そのものにあまり興味はなさそうな2人だったが、それぞれ「経済学部」「商学部」を卒業していたから、店の経理関係を彼らに、そしてKはセンスがよかったので、広報宣伝、調度関係をやってもらおうと内心思っていた。しかしその理想は早くも敗れ、数ヶ月後かれらはそれぞれ違う道を選択し、京都から去ってしまった。

一人残された小生は、ギブアップするわけにも行かず、かといって頼れる専門的な誰かがいるわけでなく、結局一人で準備をはじめることとなった。帰一氏は心配だったのだろう、事情を察して、庭園担当で入社した女性・・・美人であった・・・を一人回してくれた。

こうして2人だけでの準備が始まったのであるが、大変だったのは、メニュー作成とその調理技術の獲得で、スパゲッティはともかく、ピザにいたっては、作ったことも全くない状態であった。
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四条川原町の「明治屋」に行って、あれこれヒントを探していると、老齢の店長と思しき人が、アドバイスをくれて、レシピが載っている本、そして今一番おいしいスパゲッティを2・3教えてくれたのである。・・・・続く
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by noanoa1970 | 2005-06-22 08:31 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

白沙村荘-「お菜ところ」→「NOANOA」

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「お菜ところ」のバイトをしていた間には、いろいろなことがあった。高名な大学の先生、博物館長、劇作家、詩人、お坊さん、酒造メーカーの社長、織物の権威、陶芸家、女優、男優等が入れ替わりあるいは一緒に夜な夜な集まった。その全ては、関雪→節哉→田鶴子おばさん・帰一氏・おばさんの娘さん・・・という流れの中の交友関係からである。
そのころ・・・・というより京都の特性なのか、「白沙村荘」の気風なのか、橋本家の家風なのか・・・恐らく全てがあいまって、そうさせていたのだろうが、本当の身内のように学生を扱ってくれた。

常連のお客さんには、われわれはバイトの学生というより、「橋本家を手伝うもの」として映っていたようだ。小生などは「君は関雪さんのお孫さんだろう?」と何度となく言われたことがある。パンフレットの関雪の写真に割りと良く似ていたからだろう。

結果、成り行きのように、一緒にお酒を飲んでお話が始まる。小生たちが20歳前後、常連のお客様はほとんど50を越えていた。昔の話、今の話、芸術・文化論、話を聞いているといると、人脈関係がどんどん膨らんできて、・・・・凄いことになってくるのであった。

ある夜店に入ると、どこかで見たような女性が、配膳台の前でおばさんと話している。気がつくとその女性は、有名な女優の「I」さんであった。おばさんの娘さんが東京で劇団に入っており、その関係で、何でも京都での仕事の途中に立ち寄ったというのだ。彼女はしばらく店を手伝い、リザーブしたホテルには帰らないで、白沙村荘に泊まっていった。

あるときは、非常に有名な・・・・ホームドラマなどでは、良妻賢母的な奥さんの役をいまだにやっている「N」が実は相当の酒乱であることや、有名なお寺の管主が大変な女好きであること・・・などなどの、下世話なニュースも目に耳に入ってくる。

そんな体験は、思いがけないことだったが、芸術・文化に囲まれた環境で日々を送ることが出来たことが、とりわけ何よりも小生の精神構造を決定付ける源となったようである。

あるとき、中年の品のよさそうなご婦人がこられた。母屋に行ったのだが、「お菜ところ」にいると聞いたとかで、おばさんを訪ねてきたのだ。そのときシラスさんご無沙汰してます、お元気でしたか」・・・・とおばさんがいったのを記憶している。その婦人は「大変ですねお疲れのないように」などといい、食事をされて、「炒り豆腐」の作り方をおばさんに熱心に聞いていた。小生はてっきり料理関係の取材と思ったが、帰られた後、「シラスさんてどういう方・・・と聞くと、おばさんは、東京の方で随筆などを書いている人、昔からの知り合い・・・と教えてくれた。
その品の良いご婦人が「白州正子」だと分かったのは、後に彼女の著作の中の、「かくれ里(近江を中心にして)」を読んだとき、この年「かくれ里」取材のために、近江地方訪れていて、取材の間に京都に立ち寄ったものだと分かった。その白州さんも、すでにこの世からいなくなってしまった。d0063263_9231743.jpg「武相荘」=ぶあいそう・・・なんと皮肉ったネーミングなんだろう・・・という住居が町田市の郊外にある。

2年ほどたった時、当時の館長=局長と自ら宣言していた・・・帰一氏と話すうちに、、関雪のコレクションの保管陳列目的で、昭和初期に建てられた、蔦の絡まる古い洋館で、何かをやろうという話が持ち上がった。「ステーキハウスがいい」と帰一氏、「ステーキは若い客向きでないし、肉屋任せの調達では不安だし、調理技術も鍛錬がいるのでは」?と小生。

とにかくこの帰一氏は「食」に関して貪欲で、その体格もさることながら、人の2倍は食べる男であった。小生がビックリしたのは、仕事が終わって毎晩のように皆で食事、そしてミニ宴会となることがほとんどだったおり、彼の食事風景を見ると、なんと彼のご飯茶碗は優に普通の2倍の大きさがあった。これには新婚早々の奥さんも、さぞびっくりしたことだろうと思う。その奥さん「妙」さんが今の関雪記念館館長である。

アレコレ問答するうちに帰一氏の好きな「食」の中から、当時京都では提供する店が1軒しかなかった「ピザ」と、そして「スパゲッティ」の店にすることに決まりかけた。洋館は良く見ると、「イベリア風」に見えて、イタリア料理にはもってこいだとも思えこと、帰一氏が「ピザ」を好んで食していたことが決め手となった。しかし小生が実践を任されるという話で進んでいたから、困ったぞと内心思っていたのであった。
                                           ・・・・・・・・続く
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by noanoa1970 | 2005-06-19 09:09 | 白沙村荘随想 | Comments(0)