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アレキサンダー・ネフスキー

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プロコフィエフがが同名のエイゼンシュタインの映画の劇伴音楽を、演奏会用にカンタータにして再編したものだ。
映画、音楽を理解しやすいようにするためには、ロシアの歴史を少し勉強する必要がある。
ロシアの元は、ノヴゴルドを征服した「ルーシ」でヴァイキングの末裔とチンギスハンの子孫、そして周辺の諸民族を取り込んだいわば混血の公国、よってルーシはヴァイキングとモンゴル民族をルーツに持つ国と言ってもよい。今のウクライナ地方にあたる大きな都市となったが、その中に大きな力を持つところがあった。
しばらくルーシの中心地だったが、首長の死によって遷都され、キエフに移ったが、工業立国ノヴゴロドはやがてキエフ公国から独立し、ノヴゴロド公国となっていく。簡単だが、9世紀から12世紀の話。
キエフは今のウクライナの中心地だった。古代から中世にはモスクワは登場してない。
モスクワ公国がアレクサンダーネフスキーの血縁によって建国されたのが14世紀。

キエフルーシ、モスクワルーシという具合に、どちらも「ルーシ」=ルーシカガンが出自という誇りが合ったようだ。
しかし、ルーシ人の北方スラブ人は、スカンジナビア半島、モンゴルおよび周辺民族の混血民族ということになる。

ウクライナを「小ロシア」(チャイコフスキーの交響曲2番の名称にもなっている)、と言うことが有るが、東ローマ帝国から観て、近くにある大都市を小ロシア、遠くに有る大都市をロシアとよんだ。その次代はウクライナ葉重要な年であったことを物語る。
アレクサンダーネフスキーの登場は、13世紀はじめの頃、周辺の新楽民族との戦いで、名を馳せた人物で、スエーデン、ドイツ騎士団、ハンガリー、モンゴルなどと戦った英雄。
有名なのは、ネヴァ河畔の戦いで、スカンジナビア半島軍隊と戦って勝利し、英雄視されることになった。
ロシアの英雄で、史実を疑われる人物はかなりいて、イーゴリ公、ボリスゴドノフも多分に造られた感がある。

モスクワは、キエフ・ルーシの時代には名前も知られていなかった北東ルーシの小都市にすぎなかった。そして、モンゴルのハーンによって厳重に支配、管理されるようになったルーシ諸侯のなかから、モンゴルとの関係を巧妙に利用し権力を握っていったのが、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーと北東ルーシの諸公国に分封されたその子孫たちであった。

アレクサンダー・ネフスキーは、一方では戦闘の勇者であったが、片方ではモンゴル民族の建てた、キプチャク汗国に従った人物。
ロシア史の最大の屈辱は、タタールのくびきと言われるもので、モンゴル民族によって支配された歴史がある。
多くの英雄伝説は、その裏替え史とも観て取れそうだ。

そうは言っても、プロコフィエフの音楽は、素晴らしいの一言に尽きる。






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by noanoa1970 | 2017-03-08 10:07 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

マーラー「巨人」のフラジオレットその後の後

2006年2月16日ののブログ「フラジオレットその後」で、ようやくフラジオレットの音色が聞き分けられるようになったと書いたが、今日はそのフラジオレットが、オーディオ的により聞き分けられるか、メインSP装置を変更し、調整がうまくいった現システムで再度聞いてみることにした。

ソースはいろいろ考えられるが、ここはやはりアナログディスクでと、CD・LPあわせると、多くの人が所有していると思われるマーラーの「巨人」を、ワルター/コロムビア交響楽団の演奏で落ち着いた。

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小生が所有しているのは、輸入盤の廉価盤、「odyssey」レーベルのものだ。
このレーベルは、米コロムビアが出した少し古い録音を、再発していて、オーマンディの「英雄の生涯」、セルのドビュッシー「海」、カサドジュ/ロスバウトの「皇帝」など、小生が所有するものの中にも名演があり、このシリーズには名録音もかなり存在する。

以前にじっくり聞いたのは2006年、今回はそれから5年たってのことだが、こちら側の大きな変化は、スピーカーをQUADからYAMAHAへ、フォノカートリッジをオルトフォンからDENONに変更し調整したことだ。

そして、カートリッジをDENONに変更したので、プリアンプをアキュフェーズC-220プラスFRのトランスから、YAMAHAC2aのMCポジションに変更した。
つまりカートリッジの増幅を、トランスからヘッドアンプにしたということになる。

どれが音の変化に起因したというより、これらのシナジーで、以前にも増して素晴らしい音になったと思う。
自画自賛のようだが、うまく鳴らすのがなかなか難しいかったYAMAHA、NS-1000が、かつては到底考えられないほどの、美音を聞かせてくれるようになったということを、いいたいだけであると思っていただければ幸いである。

特にクラシックのレコーディッド音楽の再現性を判断するときに、ピアノ、弦、管楽器、ヴォーカル、それらの総合、定位、左右の広がり感、奥行き感、人によっては生で聞く時のような音の再現性、がどのように出ているかをチェックすることが多く、それも必要なこととは思うが、今回は少し毛色の違う観点からのチェックを試みることにした。

それがマーラーの「巨人」を選択した理由で、なぜかといえば、それこそ、この曲1楽章冒頭からかなり長く奏される、弦楽器による「フラジオレット」奏法の音があるからだ。

これによって聞こえる音は、通常奏法の音より倍々の高い音になる。
簡単に言えば「倍音成分」の音といえる。

この倍音成分の音、しかも最初は弦楽器全体、順次ヴィオラ、バイオリンとパートごとに奏されるが、特に最初の音が弦楽器全体で奏されたことがわかるか、それ以降に続くバイオリン単独のフラジオレットとの違いが判別可能か、そのあたりは、装置、装置以外の環境も含め、そして録音そのものにとっても重要なポイントであると思われる。

「巨人」の冒頭最初の部分では、すべての弦パートがフラジオレットで弾いているから、高音の弦の音という聞こえ方をしがちだが、優れた音響装置では響き方が違うはず、そういう考えにたって、旧装置での音の印象と現装置での違いを確認してみようと思い立ったのだ。

旧装置でもフラジオレットの音は聴くことができたが、聞こえ方に違いは出たのかどうか、その1点に集中して聞いてみた。

旧装置での音は、過去の記憶でしかないから、印象に確証はないが、それでもその時の音の印象は、割と鮮明だから、多分大きく外れることは無いと思う。

まず驚いたことは、冒頭の「A」音・・・ピアノにて確認、のフラジオレットが、スピーカー全体から聞こえてくるから、バイオリン単独ではなく、弦楽器すべてで奏されていることがわかったことで、このことは旧装置では気がつかなかったことだ。

おそらく今度の装置では、レコードの出す種々の雑音が、かなり抑えられたことで、このことはフォノカートリッジとその周りの変更によるところが大きいだろうと推測される。

過去聞いてきたいずれのLPレコードも、ちょっと驚くぐらい、サーフェスノイズ、スクラッチノイズなどアナログディスクの最大の欠点が減少し、音楽自体の詳細情報が聞こえやすくなったことに、要因があるのではないだろうか。

このことによって、再現の範囲が狭まっ足り、おとなしくなってしまったという印象は、まったくないといってよいから、おそらくは旧装置での音の入り口周り、特にオルトフォンの特定周波数領域と、そのほかの音響環境のマッチングが良くなかったのだろう。
装置はあくまでも相互作用、高価なものが絶対良いのではないことの証拠である。

バイオリンのフラジオレットでは、音がモアレのように漣をうって聞こえてくる。
前に聞いたときは、レコードの物理的な揺れが原因かと思ったが、どうもそうでなく、フラジオレットが重なることで、音が波線のように波打っているのが聞こえるのだ。

そこにほかの弦が加わるから、その波打つような聞こええ方がさらにハッキリ(といってももともと極小の音だから、それなりであるが)聞こえてくる。

フラジオレットにの音に乗って、次いで、管楽器がベートーヴェンの4番交響曲の冒頭と同じ、下降する音型を奏でると、カオス的な雰囲気が心を打つのは、マーラーの意図した思う壺であるに違いない。

旧装置では、メロディが主役となりがちで、混沌とした雰囲気は、今ひとつであった。

この音盤の録音は1961年だそうで、50年代ですら、コロムビアはかなりの好録音を残しているが、60年代では、さらに技術革新の性か、録音環境が良くなったようで、録音状態は、年代を考慮しなくても十分素晴らしい。

小生は、60年代中ごろに初めて聞いたときは、雑な録音そして演奏であるように感じたが、それは実にとんでもない誤解で、昨今の優秀な装置で聞きなおすと、コロムビアの録音技術の高さにめて驚くとともに、そのころトリビア情報として「知ったかが」方々で言い放っていた流言蜚語 、コロムビア響は2.3流オケのトラを集めた三流の録音専用オケであるから、一連のワルターの演奏は、オケであるコロムビア響に欠陥が多いなどと言うものがあった。

小生がそのころ所有していたワルター/コロムビア響の音盤は、数少なかったし、家庭用ステレオといった良きうない環境でしか聞けなかったこともあって、そんな情報を雑誌で平気で言っている音楽評論家の口車に乗ってしまい、自分の耳より似非権威を優先してしまった時代があった。

しかし時を経て、聞くチャンスが多くなるにつれ、このオケを三流とする根拠がどうも薄く、超一流とは思わぬものの、かなりのアンサンブルテクニックを持っているのでは、と思うようになった。

アメリカのオケは、あまり名が通ってなくても、実力のあるオケが多いように思うが、資本力などで海外の演奏者たちを招聘し、直接間接的にオケの人的原動力としたことによるものだろうし、歴史と伝統のある西欧に対抗するため、追いつき追い越せで、音楽学校をたくさん設立したことにも要因があるのだろう。

とにかくコロムビア響が、悪くないオケであるということは、素直に多くの録音を聞けば理解できることである。

比較すべきもないが、かつて同時に聞いた「カルロス・パイタ」率いる「ナショナルフィル」は、フジオレットも少し危うげで、強いて言えばこういうオケを三流というのであって、コロムビア響は決してそうでない。

ともあれ、新装置での音は、以前に比べ、音盤に本来録音された音を、よりリアルに再現するから、以前の印象とは少し違う印象を受けることになる。

ベールを1枚はがしたような、という例えで理解していただけるだろうか。

すこし詳細に語れば以下のようになる。

音のしまりがより強くなったし、中低域にマッシヴさが増した。
高域の伸びがより出てきて、金管が強めに出るが、心地よい響きである。
ひずみが少なくなったせいか、ヴォリュームを数段上げて聞きたくなるし、そうしても決してうるさくならない。
奥行きはあまり感じないが、定位が前にも増してはっきりし、楽器の位置がよくわかる。

しかし先に書いたように大きな違いは、フラジオレットの表現力であろう。
そのことでこの音楽に更なるリアリティが生じる結果となり、引いてはワルター/コロムビア響の演奏に、大きな付加価値を与えることに繋がった。
これに奥行き感が伴えば、言うことはないのだが。

以上のことから
ワルター/コロムビア響の一連の演奏録音は、再評価に十分値する。
改めて50年代後期から60年代にかけての、米国の大手レコード製作会社の録音技術は、素晴らしいものが多く、今でも立派に通用するものが限りなくあり、イギリスのDECCA,オランダのフィリップスとともに優秀演奏優秀録音の宝庫であることを確認した。
昨今復刻CDが出回っているようだが、オリジナルに忠実なリマスターであることを願いたい。

小生は最近うすうす気がつき始めているのだが、ワルターという指揮者の資質には、過去から言われ続けているような「優しい」「人間性豊か」「おおらか」「人徳ある」「歌心ある」「柔和」などなどで、語ってこられた音楽姿勢とは違うなにかが、存在しているのではないかということだ。

そしてそういうワルターに対する風評は、当時聞こえてきた音盤と録音装置での、ぼやけ気味の音によって、もたらされた可能性があるのではないだろうか。

30年代のモーツァルトを聞いたときに、以外や以外、かなりザッハリヒな演奏をするのに驚いたことがあったが、うまくまだいえないが、ワルターの二面性をテーマにいずれ書く時が来るのではないかと思っている。

比較的録音のよいコロムビア響、NYKフィルとの演奏を中心に、積極的に聞いてみたいと思う欲求は、ここからも来ている。

昔入手した、第9、ザ・グレ-ト、ドヴォ8のリマスターは芳しくなかったが、極最近入手の「運命」「田園」のリマスターリングは、かなりリアルで、レコードに録音された音をよく反映していると思われる。

この「運命・田園」がカップリングされたCDのデータを見ると、プロデュースが「ジョン・マッキュアー」、エンジニアが「ウイリアム・ブリタン」。
1958年1月27.30日録音となっている。
SONYレコードSICC1068、DSDマスターリング処理されたCDだ。

DSD云々ではなく、小生の耳には、ジョン・マッキュアーがプロデュースしたCDが、ハイを押さえ気味、逆に言えばローをほんの少し強調しバランスを取ったマスターリングのように聞こえるが、オデッセイのLPの音に近く、LPが入手困難な今、オリジナル録音により近い音を味わう上で、このシリーズが一番適しているのではないかとと思われる。

SACDやハイスペックCDが、発売されているか否かは未確認だが、まずは「巨人」を集め比較視聴してみたい。
より詳細な情報と優れたリマスターリングによって、ワルターの指揮ぶり、そしてコロムビア響の実力のほどが、よりわかるはずだ。

その音盤に録音された音楽情報を、余すことなく引き出すことは、プロデューサ-や録音技術者を通して、視聴者が演奏録音に肉薄出来うる初めの一歩である。

このことがままならないと、誤った演奏評価や録音評価になりがちだ、ということを、知っておかなければならないだろう。

「良い音」とは、「音質」にとどまらず、音盤の音楽情報を、余すところなく引き出すことでもあるといってよく、このために音響装置を、そして、その装置の音を、満足度の高いものにするため、さらに磨いていくのである。

「良い録音」とは、そうやって切磋琢磨した装置で、音盤の持つ情報を可能な限り引き出し、それにプラスして、満足できる「音質」が得られたときの音盤の音だということだろう。
つまり、音楽情報量プラス情報の音楽的質が、より高度に内在された録音ということではないだろうか。

今回オデッセイのLPで、ワルターの「巨人」を改めて聞きなおしてみたが、冒頭のフラジオレットが、この曲において、如何に重要なポインjントであったかを、再認識できたのも、フラジオレット奏法の音が、よりリアルに繊細に響き聞こえてきたことによる。

フラジオレット効果・・・「してやったり」「思う壺」と、きっとマーラーはほくそ笑んでいるに違いない。
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by noanoa1970 | 2011-09-16 17:53 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

思わず飛び起きてしまったケーゲルのベト8

アインザッツが鳴った瞬間、思わず飛び起きた。

それを聞くのが本来目的でなかったから、カップリングの「田園」を聴いた後、そのままにしておいたから、始まってしまったのだ。

聴く気がないから横着して寝転んだ時のこと。
今まで聴いたことがない冒頭の音・・・第1主題がとてつもなく鋭い音で鳴り響いたから、体が反応して、飛び上がってしまったというわけだ。

これまで聴いてきた多くのベト8が与えたイメージは、いわばリズム感あるモーツァルト、そしてベートーヴェンの交響曲の中では、かなり異質な存在であるかのようなものであった。

従ってベートーヴェン全集を購入しても、ようやく最後の方に聴くのが常で、なかには聽かないママのものまである。

小生にとって、最もベートーヴェンらしさがないのが、8番の交響曲であるという意識がその昔から存在していて、だれの演奏を聴いても、好きになれない曲であった。

そんなわけで、今まで一度も聴いてなかったヘルベルト・ケーゲルのベト8だが、これには本当に脅かされ、今だかつて一度も味わったことのない8番、(それはケーゲルの演奏に、理由があるからに他ならないのだが、)まるでベートーヴェンの新曲を聴いているような錯覚に襲われた。

そこにあるのは、モーツァルトではなく、紛れも無いベートーヴェンそのもの。

しからば、これまで聴いてきた演奏とケーゲルの違いはどこにあるのだろうか。
ケーゲルの演奏の何が、ベト8にこれだけの力を与えたのだろうか。

4番と6番を聴いたときにも書いた覚えがあるが、ケーゲルという指揮者は、9つの交響曲があって、その中の1つとしてだけ捉えているのでなく、9つがお互いに有機的な繋がりを持っていて、背景にあるベートーヴェン的思想はさておき、音楽的には「運命の動機」でくくることが出来るのではないかと小生は思うようになった。

いや、「運命の動機」とベートーヴェンの思想的背景は、密接に関わり合っていると推測はするものの、確証を得るまでには至ってない。

歯切れの良さがある、そうケーゲルの演奏を表す人も少なくないと思う。
そのハギレの良さは、ケーゲルのアクセントにあるのではないかと、小生は思っているのだが、ただでさえアクセント依存度が高い8番に、さらに強めのアクセントをつけることで、8番が異次元の世界へ導かれていく。

2楽章(小生は引用したカノンを秘曲集聴いた)メルツェルさん、御機嫌ようから引用し、メトロノーム発明者であることから、正確なリズムで優しく奏される事が多いのだが、ケーゲルはここでも強いアクセントをつけて、メトロノームから開放した演奏をした。
第1Vnが目立つ演奏が多いが、ケーゲルは第2Vnを第1Vnと同等に扱っていて、低弦の刻むリズムを強調しているから、終曲のグリッサンドの強烈さは、他のだれもやってない新鮮さを見せる。

3楽章は木管、特に金管を際立たせた演奏で、通常聞こえない音が、とび出すように聞こえてくる。
クラリネットの裏の音、対位法で書かれた部分の音と音色はすばらしいし、ファゴットにもいい仕事をさせているのが極めて死温泉である。

クレッシェンドの妙は4楽章にありで、管と弦の掛け合いのところでは、「運命の動機」のリズムパターンがハッキリとわかるし、バスーン、ファゴットと低弦のリズムに支えられ、ヴァイオリン群が上昇下降する様は清々しい気持ちにさせられた。

中間部、クレッシェンドしていき音量が上がったところで、それを受けて低弦が歌うところが随所にみられるが、音響的にも、情念の発露という意味でも、とても納得の行く表現である。

掛け合いも多くみられ、猫の目のようにリズムの変化点が多い終楽章を、ハイスピードだが、1音足りともおろそかにすることなく、全ての音が聞こえ響くようで、しかもケーゲル節と言っていいのか、ケーゲルが強調したいところ、そしてそレを演奏する楽器を際だたせるようにして印象度を強くする。

小生は「運命の動機」がリズムパターン化されたものを、終楽章に見ることとなったが、それはケーゲルのアクセントとクレッシェンドのなせるところからで、他の指揮者では全く気がつかなかったことであった。

8番が特に好きだという人は、そう多くはないと思うところだが、ケーゲルを聞けば、8番の良さがもう少しわかるのではないだろうか。

ケーゲルは、冷血、異常、奇怪、爆演という言葉で語られる風潮があるが、小生が聴いた限り、そういうところは一切無く、アクセントやクレッシェンドの強力な所が、そして「自殺」をしたことが、そんな風評を生んだのであろう。
東ドイツで一生を終え、西欧とのマージが無かったことで、彼についての正しく豊富な情報が得られなかったことにも原因があると思われる。

かつて小生はケーゲルを、楽譜を改ざんしているかのように書いたことがあった。
それは聴こえてくる音が、今まで聴いてきたものに比べ、あまりにも違う所が多かったからだが、そうでなく、ケーゲルは、オケの音響を、出来る限り全ての音が聴こえるような配慮をしたのだろうと今思っている。

自分のためのオケでなく観客のためのオケであるためには・・という問いかけをいつも持って望んでいたのではないか。

そして楽譜改ざんではなく、むしろその逆で、細かい音符も、丁寧すぎるほどトレースしているが、そこにくわえて自分の楽曲解釈結果を鋭く反映させるようにした結果、いつも聴こえてくる音響とは少し異なったものに聴こえるのである、決して奇を衒ったものでない、そう考えてよさそうである。

なぜならば、一風変わっている思われてるケーゲルの音楽だが、聴いたほとんど全てが素晴らしいからである。
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by noanoa1970 | 2011-07-31 14:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(42)

カラヤンの「大地の歌」をデジタルマスターリングLPで聴く

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(この記事を書いた後に、明日7月16日は、カラヤンの月命日だということが分かったので付記しておく。)

LP生産中止となってすぐに、バーゲンで入手したもの。
今までまともに聴いたことがなかったのは、マーラー、特に「大地の歌は、カラヤンには似あわないと決めていたからである。

カラヤンの演奏録音には駄作がない、そのようにずっと小生は思ってきたのだが、「大地の歌」だけは例外と勝手にきめつけていた。

「大地の歌」、小生はワルター/VPOかクレンペラー/NFOの演奏をとても気に入っていて、この2枚はそれさえあれば他の演奏はいらないし、聴きたいとは思わないという、非常に珍しい状態に身を置けた数少ない音盤で、小生とはあまり相性の良くないクレンペラーだが、「大地の歌」は唯一といってよいほど、高いレベルで満足させてくれたから、ワルターとクレンペラー盤で長い間聴いてきた。

80年代中期、その頃収集の最優先の音盤は、オケと合唱あるいはソロ・・・人間の声が入ったものだったから、宗教曲を中心に集めていて、これもその時の1枚で、CDがすでに出現していたが、声はアナログがいいという想いからであった。

もともと安価なのに、バーゲンだから相当安く入手できたドイツグラモフォンの輸入廉価盤で、80年代後半に入手して以来、針を落としたのはたった2回、しかもA面を聴いたのみだった。

最近は新しい音盤を入手するのを控えていて、過去に入手した中から、あまり聞き及んでないものを探して聴くようにしているから、この音盤は格好のもので、おまけに殆ど針を落としてないから、レコード盤の状態もよいはずだ。

初めて聞く音盤に接する際、いったいどんな演奏が聴けるのだろうかと推理することは、とても面白いことで、推理通りの演奏なら、演奏家に対する自分のイメージが出来ている結果だと思い、外れれば外れたで、意外性に驚くとともに、自分の耳の鍛錬の足りなさを思い知る事が出来、新たなチャレンジ目標が得られるというものだ。

カラヤンのマーラー、しかも「大地の歌」の演奏イメージは、具体的なものが浮かんでこない。
なんとか思いを巡らせるが、浮かぶのは一般的なカラヤンの演奏を表現するときのもので、そのようなステレオタイプの見方は、いつもあまりにも表面的過ぎて、カラヤンの演奏を深堀するには程遠いものだから、あまり面白くもない。

イメージが湧かないのは、カラヤンのマーラーを殆ど聴いてないことに原因があると思うが、そのせいばかりとは言えぬものがあるような気がしてならない。

大胆不適な言い方だが、ひょっとしたら、「カラヤンには個性がない」のではないだろうか。

それとも時代に応じて演奏スタイルを変えてきたから、統一された特徴や演奏スタイルというものが無いように見えるのか。

なにを演奏しても卆がなく、聞かせどころを心得ており、殆ど失敗作がないカラヤンだが、演奏を聴いて、それがカラヤンの指揮によるものだと特定できるものは、音響的にはあっても、音楽的には余りないことが経験的なことだ。

カラヤンはゲルマン的なところとラテン的な所を併せ持つが、逆に言えば無国籍のグローバルさ・・・インターナショナルテイックなものをもっている、というよりそうなってしまったのは・・・カラヤンの美学によって楽曲の持つローカルエリア的風土を排除したことにその要因があるような気がする。

言い換えれば、母国語があるのに、エスペラント語に置き換えてしゃべって表現するようなところがあるので、万人に理解されるようで、主観的すぎる翻訳が必ずしも上手く行ってないから、誤解を産むとが多いような気がする。

初期~中期のカラヤンは、ザッハリヒな演奏スタイルだったが、カラヤンレガートが象徴するように、超メジャーになってからのカラヤンの演奏の特徴は、楽曲の解釈はあくまでもカラヤン自身の美学の帰結であり、誰がどこでどのような経緯で作ったのかなどは眼中にないようで、あくまでも楽譜とカラヤン自身の美学で音楽が成立する。

中期以降のカラヤンは、カラヤンレガートがあらわす如く、自分の美学に基づいて、音楽をソフティフィケートすることに専念するようになった。

注目すべきは、基本的にはザッハリヒな演奏スタイルなのだが、レガート、フェルマータなどを多用することでロマン主義的な演奏スタイルに思わせるような所があることだ。

万人に好まれるがコアなクラシックファンから嫌われるのは、カラヤンの美しさを追求する没個性の美学にあるのではないか。

マーラーの曲に内包されるものは、ドイツ辺境や周辺の地の民謡や踊りのメロディとリズムの引用、近代的和声とのシナジーを高めること、それらによって、音楽に新たな生命を宿らせた事なのではないか。

しかも楽曲には合唱やソロが登場するものが多く、つまり人間の声とオーケストラの調和と非調和、融合と拡散、協調と離反が合いまみえる曲であるといえる。

「大地の歌」では、意識しない宗教性と民族性、東洋思想、ペンタトニックスケール、現世否定と死への恐怖と憧憬、刹那的快楽主義、不条理、自己矛盾といったものが塗り込められているように思われる。

どうしても揚げておかなくてはならないのは、カラヤンは大体において、合唱を人間の声としてではなく、楽器のように扱っているということであるが、果たして合唱無しソロオンリーの大地の歌の場合はいかにしたのか。

例えばモツレクのキリエの終わりのキリエエレイソーンのフェルマ-タは、息が続くギリギリまで合唱を引っ張るが、このようなやり方は随所に見られ、声は楽器であるというカラヤンの考え方の表れであると思う。

ソロの声をも、楽器として扱うような気配があるや否やも、大事なチェックポイントである。

以上の観点を踏まえた、カラヤンの「大地の歌」、果たして如何なるものだったか。

音楽が美しい、いや美しすぎるぐらいだから、全曲をいとも簡単に聴けてしまった。
美しさの要因は、ここでもやはりレガートそしてフェルマータの乱用に近い使用である。

ソロの歌唱においてもそれは同様で、このためにソロ歌手の息が苦しそうな気配が、とくにはテナーのルネコロに著しい。

しかしマーラーを表現するテクニックとして、ひたすら美しい音楽づくりが果たして相応しいだろうか。

カラヤンはいつもたいていそうなのだが、「再生音響」に強いこだわりを持っているようで、この演奏録音では普段聴こえない音がハッキリクッキリ聴こえてくる。

ライブ映像で見る光景として、普段は中央よりやや下向きに吹く管楽器群が、一斉に楽器を上方前にして吹く事があるが、これは作曲家の指示かそれとも指揮者の指示なのか、マーラー演奏にそれが多いように思うが果たしてどうなのだろうか。

カラヤンの良いところ、それは再生装置で聞く人のことをも慮っていて、ホールの位置によってライブでは掻き消されてしまう楽器の音を、きちんと聞こえるようにしていることだ。

終楽章琵琶の音を模倣するためなのか、マンドリンの音色が今まで聴いたどれよりもよく出ており、マンドリンなどは使用してないと思うような録音がある中、音響を重視したカラヤンはマイク技術あるいはマスターリングで、それを再生装置で聞く聴衆のため、克復したとみてよいだろう。

1楽章に出てくるフルートのタンギングは、クレンペラー盤が最もよく表出していたが、カラヤン盤もよく聴こえてくる。

先日録画したアバド/BPOライブでは、フルートのタンギングが埋もれてしまいがちになったが、実際はそんなものなのであろう。

マーラーの曲は、押しなべて管楽器がハイライトされるものが多く、ホルンは勿論、特にイングリッシュホルン(コールアングレ)に活躍の場が多いが、それも含めた管楽器の音の表情付けだが、カラヤンは管楽器のソロにまで、たっぷりのレガートを要求する場面が多いから、弦が加わった暁には、滑らかに美しく聞こえるが音楽が甘ったるい蜜のようになるから、ひと舐めするには良いが、たくさん舐めると、その諄さが勝ってしまい、たちまち嫌気が襲ってくる。

確かにマーラーには、神秘主義的陶酔の感覚があるとは思うが、音楽は決して甘ったるくは無いはずだ。
ポルタメントを多用したメンゲルベルクよりさらに甘ったるくロマンティックに聴こえる。

アダージョ楽章では、ストイックで病的なものを感じることさえあるマーラーであるが、カラヤンはひたすら美しさを追求し、陶酔に導こうとするかのような演奏をする。

ソロ歌手のコロとルートビッヒだが、いずれもバックのオケとのマッチングがよくないのか、コロは神経質な歌唱が随所に見られるし、ルートビッヒも、クレンペラー盤であれだけの歌唱をしながら、カラヤン盤では楽曲の・・・詩の内容の深堀が出来てないのか、心なしか自信なさげに聴こえる。

クレンペラー盤よりも新しいカラヤン盤だから、どうもカラヤンの声も楽器という仕業のような気がしてならないが、ソロの歌唱にも無機質さを要求したのだろうか。

デジタルリマスターによるLPレコードは、確かに耳触りはよいのだが、リマスターで倍音成分まで除去してしまった結果なのか、本来持っているオケの音のエネルギーまでそぎ落としてしまったように聴こえる。

従ってオケがBPOであるか否かの判断がつきにくいが、それを無視すれば、実に上手な演奏であることは間違いないことだと思われる。

さらにリマスターしたCDではどうなのか、分厚い響きの大地の歌になったか、それとも美しく滑らかで流れるような大地の歌になったのか。

カラヤンはなおさらに、録音によっても大きく評価は変わるから、今回聴いたLPのデジタルリマスターは、技術水準の問題、エンジニアの耳、商業的勇み足のいずれか、あるいはそれらの複合の産物のように小生は想っている。

カラヤンの60年代70年代のBPOの音になじんだだけに、このリマスターは残念だ。
そういえば最近のアバドとBPOの大地の歌の音響は幅の違いこそあるが、かつてのBPOに比べ低音部の力強さが減少したように感じる。

こことはオケの近代化の一環なのか、世界に冠たるBPOではあるが、グローバル性とローカル性を併せ持ち、臨機応変の演奏を望むものである。

以上のことは、ゲヴァントハウス管にもあてはまる・・・つまりヨーロッパのオケ全体に言えるということを、付け加えておく。

カラヤンの「大地の歌」は、デジタルリマスター盤という未熟な音盤で聞いたから、的確には言えないので、オリジナル盤か優れたリマスターによるCDを聴いてから、という結論にしておくことにする。

大本の録音の素錠がよさそうだから、満足度の高いCDとなっている可能性大であると思う。
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by noanoa1970 | 2011-07-15 17:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

シェルヒェンのベト5、リハーサル録音から「トスカニーニ」を巡って






いきなりyoutubeの動画を張り付けで恐縮ですが、HABABIさんがワルターのリハーサル音盤を紹介しておられたので、刺激を受け、シェルヒェンのリハーサルのCDがあることを思い出し、感想などを書きこむつもりで捜したのですが見つからなかったので、もしやと思いyoutubeを探してみると、ちゃんとあるではないか。
存在することを、再確認できたたようで、ありがたいと同時に嬉しい事だった。

(昼食後に改めてCDを探したところ、一番最後に捜した棚の一番右端にあるのを発見、こういうことが小生には多く、一瞬で見つからない場合は、何度探しても見つかりにくい)

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ベートーヴェンの交響曲第5番のリハーサルと本番。
1965.2.24~26.スイス・イタリア語放送管弦楽団

これからリハーサルに入りますとかなんとか言ってているのか、最初はボソボソとしゃべっている。
パンパンパンパーーン・・・・パンパンパンパーーンと2度、足を床に打ち付ける音で本格リハが始まる。
最後の音だろうか、シの音は「f」だとか何とか言っているようだ。
繰り返しのパンパンパンパーーンとパンパンパンパーーンに「間」があるのが面白い、コーダでもそうだからこれはシェルヒェンが意図してやっていることなのだろう。

ブゾーニ、モーツァルトと言っているらしいのも聴こえるガ、何をいおうとしているのかわからない。

所々で出る自ら歌うのを交えての音楽用語は、何とかわかるが、その言葉で何を伝えているのか、前後の脈絡がよくわからない。

いずれにしても、想像をたくましくさせる音源だということは間違いない。
リハというよりゲネプロかも知れないが、続く本番まで一気に聞き通してしまう、そんな魅力をこの音盤は持っている。

1楽章中間部を過ぎる頃から、だんだんシェルヘンの声が高くなり、終楽章に至るまで、まるで、レースを走る馬を、ムチで煽るような、凄いリハになっていく。
オケを煽りまくるシェルヒェンだが、何やら自分の主張らしきものをしゃべっているところがる。

一番の印象は、最初の方に出て来る「トスカニーニ云々・・・」たしかにそう聴こるが、イタリア語ともスイス語その他の言語とも判別がつきにくく(ミクスされているようなところもあって)、ましてや語学に疎い小生だから、最初聴いたときは、「トスカニーニ賛」、「トスカニーニのようにプレストで」演奏しろと言っているのかと思った。

しかし何度も聞くと、どうもそうではない、「パパパパーンと指揮棒でトスカニーニを思わせるように譜面台を叩き、どうも「俺はイタリア人のようなザッハリヒな指揮者ではない」というようなことを言っているようだ。
勿論イタリア人とはトスカニーニのことであろう。

考えてみれば、シェルヒェンの表現主義的演奏スタイルと、トスカニーニのザッハりヒな演奏スタイルとは、決して相容れないから、シェルヒェンがトスカニーニを尊敬したり、まして、トスカニーニのまねをするはずがない。

トスカニーニの音楽性を引き合いに出して批判していると考えていいだろう、もしそうであれば、そこがシェルヒェンらしくて、興味深い。

リハではそんな事まで語ることはないと思うが、拡大解釈をすれば、ザッハリッヒな演奏スタイルの芸術的バックグラウンドの「新古典主義」を批判していると想像すると、芸術的志向の違いが見え隠れし面白くなってくる。

シェルヒェンは、シェーンベルク、ヴェーベルン 、ベルクなど新ウイーン楽派の音楽の初演や、ヒンデミット、オネゲル作品の初演も行っている。
またノーノやクセナキス、シュトックハウゼンといった「前衛音楽」の初演にも積極的であった。

しかしそういった前衛的な側面のみならず、小生が所有している音源でも、バロック、バッハ、からロマン派、現代音楽まで幅広いレパートリーを持つが、割とオーソドックスな指揮をするものと、全く違う方向の破天荒なものが混在する(時代別変遷に言及するほど、自己統計が取れてない)指揮者だ。

これらの姿勢が示すように、表現主義:無調、12音そして前衛音楽の作曲家達との交流、さらには彼らの作品を積極的に取り込んだことが、指揮者としてのシェルヒェンに、それまでの指揮者にはない、楽譜の読み方と、革新的な演奏スタイル構築に寄与したのだろう。

そのことは「音楽とはかくあるべし」といった、音楽に対するシェルヒェンの情熱を感じさせる、大きな要因となったのではないだろうか。

シェエルヒェンの音楽的あるいは芸術的志向形成と時を同じくして、表現主義を志向する芸術家集団と、新古典主義者を標榜する集団が、激しい論争をしたことが影響したのか、音楽や演奏、そして指揮の分野においても、両者(単純には区分できるはずはないが、一応特徴から、シェルヒェンとトスカニーニを、それぞれ表現主義的な指揮者と、新古典主義的(ノイエザッハリヒカイト)指揮者としておこう)の、批判的対立が有ったことを思わせるものである。

以下の英文は、動画を投稿した外国人が、イタリア語とスイス語その他言語でシェルヒェンが、トスカニーニを引き合いにしてしゃべるのを聞きとって、英文にしたと思われる文章である。

これが正しいとすれば、小生の意訳では以下のようになる。

あまり自信がないので、英語が得意のベイさんに、よりよい訳をお願いしたいところだ。

He's talking about the different manners of interpretations before the first world war and after...blaming Toscanini for having introducted a way that is guilty of the distruction of creativity and originality in Art...

第一次世界大戦(1914-18)の前後で、音楽(楽曲の解釈)にはかなりの違いがある。
トスカニーニが示した方法は、藝術の創造性やオリジナリティを阻害するものだから、彼の罪は大きいといってトスカニーニを批判した。(小生の意訳)

「第一次世界対戦前後で藝術における主義主張、作品が変化した」というようなことを言っているが、それはまさに音楽において、後期ロマン派を経て、印象派、そして新ウイーン派の出現と、新古典主義音楽、さらにそれ以降の前衛音楽の出現を示唆しているように思われる。

そのこととシェルヒェンが批判したトスカニーニの音楽性とがどうして結びつくのかはわからないが、トスカニーニを大戦前の、いわば古い体質の指揮者であるということを言いたかったのだろうか。それとも大戦後出現する、新古典主義的傾向にある指揮者であるということを、言いたかったのだろうか。

大戦前の藝術は、いずれもロマン主義の亡霊であり、象徴主義の流れと平行して出現した表現主義は、ロマン主義の申し子という捉え方をシェルヒェンはしたのだろうか。

大戦後はというと、ロマン主義の亡霊に影響を受けながらも、否定するところに、不可思議さはあるが、反ロマン主義、反印象主義という立場の仏6人組やメシアン、ジョリベ、ブーレーズと続いていき、ドイツでは、新ウイーン派、すなわち調性の完全崩壊が出現することで、従来の音楽的価値観も崩壊することになった。

ロシアなど、各国でも時をほぼ同じくして同じような世代交代が行われ、中でもスクリアビンやストラヴィンスキーの出現は影響度も大きかったと思われる。

しかし一人の音楽家や演奏スタイルを、こうやって~主義というように括ってしまうことは、表面的な見方であることは、重々承知で、ドビュッシーを例にとっても、晩年は印象派とは呼べない作品を書いているし、作風がすごく変化した人もかなり存在する。

ではあるが、便宜上世紀末から20世紀へと時代が変わるときの、世界大戦があったからより激しく動いたと思うが、その変化過程を簡単に鳥瞰するためには致し方無い。

「第一次世界大戦前後の藝術、藝術思想・運動の変遷」という視点は、非常に奥が深から、これについては、もっと詳細な情報取得と整理が必要であろう。

中途半端な情報で恐縮だが、続けさせていただくとして、この時代の音楽の変化は、他の芸術運動の影響を多分に受けており、音楽が他の藝術ジャンルの思想や運動から、一番影響を受けた時代であったかも知れない。

物凄く大雑把に言ってしまえば、後期ロマン派音楽の亡霊が住み着いていたのが大戦前、大戦後にその残滓であるフランス印象主義音楽とドイツ表現主義音楽が出現し、それらを絡め取ろうとしたのが、新古典主義音楽であるが、奇しくも否定したロマン派の音楽的特徴を内包していたという摩訶不思議な世界だ。

時代は繰り返し、藝術も思想も繰り返していくのだろうか。
前衛はそれを断ち切りたいと願うところから始まったと小生は思う所がある。

シェルヒェンの表現主義的演奏は、ドイツロマン主義の流れから決してはみ出るものではない。
むしろトスカニーニのザッハリッヒな指揮のほうが、近代的≒反ロマン主義だが、実はロマン主義を内包する新古典主義的要素がある。
新しいようで古く、古いようで新しいのが新古典主義に内在する要素だ。

何故にシェルエンがトスカニーニの批判をしたかが、わからなくなりそうだが、それは多分主義主張といった物ではなく、音楽への取り組み姿勢ではなかったか。

トスカニーニは、米国に渡ってから特に、レコーディングによって、万人に音楽が聴けるように、積極的にスタジオに入って録音のために演奏した。
スタジオ8Hでの一連の録音は有名である。
くり返し聽かれることをも見越していたのか、作曲者の代わりに音楽を提供するべく、自己流の解釈を拒否した演奏で通している。

一方シェルヒェンは、録音よりもライブを重視したせいか、残された録音用音源は多くはない。
トスカニーニと違い、自分のベートーヴェンを聴いてもらいたいと言うような演奏だ。
しかも録音にもかかわらず、観客を録音スタジオに入れての録音演奏あるいはライブ演奏かと思うほどの感覚をいつも与えてくれる。

そういう例として、カラヤンとチェリヴィダッケの確執が取り沙汰されるが、音楽に対する姿勢を巡っての確執は、それ以前の少し古い時代から有ったのかも知れない。

このあたり、録音に対する演奏家の取り組み姿勢の変化や違いが明確に出ることになるのは、大戦を挟んでの録音技術の急速な発展に大きな要因があると思うが、(・・・戦争が科学技術発展の最大のファクターだから)そのことは、シェルヒェンの言うところの、大戦前後の変化の重要な1つになっているのだろう。

この録音でシェルヒェンの発する言葉が全て理解できたら、リハーサルは、こんなふうにやっているのだ、ということだけでなく、シェルヒェンの「解釈」を知るという事を含め、もっともっと広い見地から、いろいろなものが捉えられ理解が可能だろうが、残念なことに、小生の外国語の能力では、いかんともしがたいのが残念だ。

以前から小生には、音楽評論や音楽ジャーナリストを始め音楽を生業としている人に強い要求がある。
それは演奏家と聴衆の橋渡しをすることにあると、小生は思っている。
演奏表やCD評などは、今や多数の素人の耳の情報の方が圧倒的多数で、しかも様々な視点からのものが、ネットから入手可能だから、プロ個人の見方などは、なくても困ることはない。

何をやっていただきたいかというと、演奏会でも録音に置いても、演奏家がどのようにその楽曲に取り組んだか、如何に解釈したか、どういうところを重点に聴いて欲しいかなど、演奏家と聴衆を結びつけるための取材や、それができない過去の演奏家については、そのことをなるべく示せるような、有効な情報を集めて、教示して欲しいということだけである。

それを満足することが可能であれば、評論の視点はそこからたくさん導かれるはずだから。
今不足していること、それは演奏者と観客の情報共有のための橋渡しなのではないか。

今回聞いたリハの音源なんかは、シェルヒェンの音楽姿勢や解釈、人間性をも含めて、深く知るための格好の材料であるから、音源から読み取れる情報を精査した上で整理して提示していただくと、情報の価値はかつて無いほど高まると思うのだがいかがだろうか。

演奏者の音楽的姿勢や狙い、解釈の仕方などを知ることができれば、演奏の善し悪しなどは、単なる技術でしか無いことに気づくことも、大いに有り得ると小生は思っている。

また演奏者も、そのような自分の音楽的姿勢や考え方を、積極的に聴衆に知ってもらうこと、つまり情報発信することを、常に念頭に置いておくべきであろう。

いつまでも藝術の開かずの扉の内に、閉じこもって、「音楽を聞いてもらえばわかる」なんていうことを言っている時代は、20世紀末、イヤもっと昔、それこそ第一次大戦後で、とっくに終わってしまったことを、認識するべきではないだろうか。font>

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by noanoa1970 | 2011-06-29 11:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

シャイーとゲヴァントハウス管・ブル8を聴いて

以下の記述は、かなり長くりましたから、ご注意ください。
また2日間数回に分けての記述になりましたので、つじつまや、話の繋がりに欠ける所がありますことを勘弁ください。

シャイーはインタビューで、伝統のゲヴァントハウス管が、ガチガチの保守的なオケではなく、新しい解釈や新しい演奏法にチャレンジし、リハで納得した暁には、ものすごい集中力で、エメルギーを放射し、素晴らしい音楽を生み出すことができるオケだ、というようなことを述べた。

しかし、このことは、裏をかえせば、ゲヴァントハウス管、納得できないことには従わないということにもなる。

伝統・保守と革新という図式は、どのような世界にもあるもので、世界最古のドイツ伝統のオケと称されるゲヴァントハウスと、斬新な解釈が特徴の、シャイーの間にどのようなやりとりがあったのか、そして彼らの音楽の愛好者として、そのポイントがなんであったのか、そしてゲヴァントハウス管の伝統とは、シャイーの革新とはなにかを知っておくことは、彼らの音楽の発展を見守っていくためにも必要なことと思う。

シャイーが、公演を前にして、いろいろな場所とタイミングで、伝統オケに対して、いかに自分流儀を納得させてきたか、ということを、オケの協調性や素直な点をことさら強調して語ることは、その背景にはかなりの苦労があったことを想像させる。

シャイーは、ゲヴァントハウス管のカペルマイスターとしての意気込みを、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルー録音に際し、以下のようにも語っている。

幅広いジャンルに取り組むのは、偉大なオーケストラの懐の深さを証明したいとの思いがあってのことです。
「サウンド・アイデンティティ」と彼らは言いますが、音の個性、自己証明をするような音の個性を持ちつつも柔軟性をもっていること。柔軟性というと、何か変わればいいと勘違いされる方が多いかもしれませんが、そうではなく、しっかりとした自己を持っているかどうかが重要なのです。
幅広い知識を持ち、奏でる技術をもっている、多種多彩な色をもちながらも自らの色、文化を維持し保っているのです。
 
オペラは息継ぎ、フレージングなど、風のごとく、その時々で状況が変わります。
オペラハウス出身のオーケストラに最高のオーケストラと言われるオーケストラが多いのは、そのような柔軟性ゆえではないかと思いますが、ゲヴァントハウス管弦楽団もまたしかりです。


「音の個性」「柔軟性」という、背反するような言葉がシャイーから出たのだが、ゲヴァントハウス(以後LGOとする)のオケの特徴は、「サウンド・アイデンティティ」と、団員自らが言うように、そのトーンつまり「音の個性」にあると言われて来たことは確かである。

小生は、何度もその見方が一方的過ぎると言ってきたが、一般的な風潮としては、「渋い、分厚い、どっしりした、かっちりした、燻銀」など、の言葉で表現されてきた。

そしてそうしたLGOの音の特徴は、主にマズア以前、ノイマン、さらに遡り、コンヴィチュニー時代のLGOのトーンについて言及したものが多かったようだ。

世間では、シャイーになってLGOのトーンガ変貌したいう意見があり、極端なのは、シャイーになってからのLGOはダメになった、というものまである。

シャイー自身も、(オケのトーンだけのことではないと思うが)、伝統と革新の融合調和などという意味のことを語っているが、果たしてそのことがそのような評価を産む原因なのだろうか。

では、LGOは、いったい何が変わり、何がよくなって何を失ったのか、そんなことを、自分の耳で確認するのも、今回のライブを見聞きする楽しみの1つだった。

そしてもちろん、ブル8という曲は、すべての楽器が活躍する楽曲だから、各オケパートの技量も見て取れそうだし、今まで聞いてきたブル8演奏と比べて、シャシーの解釈がどのよう(に斬新なのかも)確認したいこともある。

それで小生は「伝統・保守と革新」という切り口から、主としてLGOが260年前からそうしてきたと思われる、主には弦における「ノンビブラート」での演奏に重点着目することにした。

「ノンビブラート」というと、誤解を生むかもしれないが、ピリオドアプローチによるピリオド奏法を指すのではなく、あくまでもモダン楽器によるもの、そして必要なとき以外には、ほとんどビブラートを掛けない、あるいは、ごく薄くかけるものを指すのであって、全くビブラートを掛けない古楽器のピリオド奏法とは違うものであることを、言って置かなければならない。

LGOのトーンの印象だが、マズア時代や、マズアよりも古い時代のトーンと比べれば、かなり違ってきたという印象だ。(生のコンヴィチュニーは中学生時代、ほかは音盤でしか聴いてないが)
昔のLGOの弦の音は、野生の麻の織物のような感じに思われているが、実は海島綿のシャツのような手触りを持ち、混ざりっけの無いストレートで筋が通った(ピュアな音)音がするのであって、決して田舎臭くないしゴツゴツもしていない。

素朴で鄙びた田舎の雰囲気を持つトーンという評価は、よく聽かれるベト全、シューマン全などの録音のイメージがそうさせるもので、他の音源で、数は少ないがライブ音源を聴くと、LGOのトーン他についての言及が、表面的にしか過ぎないことがわかると思う。(来日時のベト9が良い例)

またオケの配置も、ベト全は特別の近代配置だが、普段は両翼配置で演奏したことは、来日時のベト9で明らかになった。

ベト全の近代配置は、録音上の都合ではないだろうか。

以前のLGOに比べると、シャイー/LGOのトーンは、かつてあったサウンドコンセプト(意識しているか否かは別として)がなくなってしまったように聞こえてしまう。

しかにながら、かつてあったものとは、先程も言ったように、素朴、燻銀、鄙びた等々の、いわば作られたイメージのトーンではない。

その変化を、言葉で言えば、輝き(艶ではない)が付加された明るめのトーン、つまり、綺羅びやかさが付けられたということになるし、逆に言えば、このような音を出すオケは、履いて捨てるほどあるということになるが、その意味で、かつて合ったものと、あえていっておく。。

シャイー&ゲヴァントハウス管、耳障りが良いが音楽の深みに欠ける、エリアフ・インバル/フランクフルト放送交響楽団のブルックナーのように聞こてしまったのは、小生だけだろうか。

LGOはダメになったのではなく、シャイーによって、サウンドアイデンティティが希薄になり、普通のオケになった、という言い方のほうが、的を得ているように思う。

LGO自体が、自分たちの伝統なるものを、常に意識して演奏などしてない、ということは、例えば日本の能や歌舞伎といった伝統芸能役者の例を出さなくてもわかることだ。

彼らの伝統とは、おそらく意識した何かではなく、先達や先輩諸氏から、連綿と引き継がれてきた全てを、体感しながら身につけてきたものだろう、そしてそれが団員が言うところの、「サウンドアイデンティティ」という言葉となるが、具体的なものを表すものではない、いわば観念なのであって、概念ではないのだ

LGOの伝統とは何を指すのかを、問うたところで、具体的な答えが得られるわけもなく、「サウンドアイデンティティ」ですら、抽象化された概念だから、「すべて」あるいは「そんなものの意識はない」などの答えが返るだろうし、「自分たちの演奏そのもの」と言うかも知れない。

だから、具体的に、何がLGOの伝統で、伝統の音なのか、さらに具体的に、なにがLGO伝統の奏法であるかを、彼らは意識しておらず、それがごく当たり前のことで、自然に身につけてきただけに、小手先でそれらを変えて、新しい何か違う方向に、急激に持っていけるはずもない。

「クラシックから20世紀までの幅広いレパートリーの音楽を演奏することは、私自身、偉大なオーケストラの懐の深さを証明したいとの思いがあってのことです。」とシャイーは語ったが、この発言には少々噛み付きたくなっていまう。

オケの懐の深さ=どんな音楽でも高いレベルで、演奏できる事、であるとするなら、それを証明するために、例えばノーノの音楽を演奏するなどというのは、本末転倒頭であろう。

シャイーはLGOのマイスター就任に際し、世界最古の伝統あるLGOという、そのことを、神経質に考えすぎてしまったのはないだろうか。

自分の個性を出すために、今までと異なるやり方の、何か目新しいものを、という欲求、そのために、自分の意思の結果、今までとは違うLGOの別の顔を見せたい、などという勇み足的な考えが支配していたのではないだろうか。

音が変わったことは、シャイーの意思と努力の産物の1つであると考えてよさそうだが、それは推理したことが少なからず当たっていて、ビブラートが殆どに置いて付けられ、強くなっている事に、大きな要因の1つがある、そう小生は見ている。

ビブラートを施す場面は、弦の動きが高速になる時以外は全てにおいてで、ほぼ全般にわたりビブラートが付けられていた。

要するにLGOが一般的なオケの、弦楽器の奏法を採用したという事になるのだが、これでは全く斬新さなど無いし、逆にLGOの個性が目立たなくなってしまった結果に、なっただけではないのだろうか。

そしてそのこと・・・長い楽団の歴史において、ノンビブラート運弓で慣れ親しんできて、ドイツの、いや世界のあまたあるオケの中にあって、今では独特のサウンドを持つに至った大きな要因の重要な1つ、ノンビブラートを、シャイーが継続採用することなく、ビブラートONで演奏させた意味は、トーンが少し明るく綺羅びやかになったこと意外、果たしてあったのだろうか。

しかも気を付けてみていると、このビブラートの強弱のニュアンスが、高弦と低弦で差があるのはまだしも、其々のパート内で、強めの人、弱い人が存在し、結果音の震え方がばらついたこと。
さらに驚いたのは、他の人がかけているのに、数人がビブラートに反応してなかった時があったことだ。

まさか、シャイーが意識してビブラートとノンビブラートを混在させた、なんていうことはないだろう。・・・・まぁそんなことは、ありえないことだ。

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第1コンマス(白髪で小太りだから、クリスティアン・フンケさんか)を筆頭に、第1第1Vnからビオラまでの中に数人、他の人比べ、ごくごく薄くしかビブラートを掛けない人がいた。

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トーンが変わったことの最大の要因は、多分ビブラートであるのだろうが、オケのメンバーの中には、ビブラートをほとんどかけっぱなしの奏法(シャイーの革新の1つと言ってよいだろう)に、疑問を持っている人がいるのか、他の人に比べごくごく薄くしかかけてないので、仕方なく弾いているように見えてしまった。

第1コンマスのクリスティアン・フンケさんは、ケヴァントハウス・バッハ・オーケストラの指揮者で、ゲヴァントハウスゆかりのバッハを得意としてきたから、シャイーのモダン改革に、諸手を上げて賛成しなかったとしても仕方あるまい。

LGO、260年の伝統奏法から、そんなに急には足を洗うことができてないようで、シャイーの思惑に納得できないメンバーの存在が見え隠れするようだ。

かつて、N響が、アーノンクールだったか他の指揮者だったか思い出せないのだが、ピリオド系の指揮者の要求なのだろう、ピリオド奏法で演奏したことがあったが、結果メロメロの音楽になってしまったことがあった。

長年ビブラートをつける指運弓でやってきたものが、急にノンビブラートで、しかも運弓もピリオドでという要求だから、弓の運びは揃うはずもなく、音楽そのものに多大な影響を与えてしまったのだ。

LGOは、N響きとは逆パターンだから、大して音楽には影響はなかったようだが、シャイーの目指すオケと、そのトーンに、柔軟に対応することができるには、まだ発展途上にあるようだ。

そしてその試みがシャイーの自己満足に終わらなければいいが、と小生は強く思うし、危惧の念をいだいてさえいる。

視覚と同時に聴覚を働かせ見聞きすることは、、聴覚だけで音楽を聴くよりも、音楽の情報量が減りやすいし、聞き逃しも出て来やすい。

それで聴覚だけで、つまり音だけを聞いてみることにした。

やはり弦のビブラートによる音揺れが、一見柔らかい響きを・・・(これを艶があるとか美しいとか言う人もいると思うが)しっているように聞こえる。

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しかしビブラートのつけ方に、ばらつきがあるせいか、フワフワした大きなうね感がつきまとう。

だからコンヴィチュニー時代のLGOが見せたブルックナーのような、一本筋が通った、歯切れのよい、鋭角的な、重低音に支えられた安定感あるサウンドから、遠いものとなってしまったようだ。

LGOが標準化されてしまいつつある、というのが小生の印象で、そのことでシャイーの目指すところが、バロック~現代音楽まで幅広いキャパをもつオケになること、そして伝統を持ちながら、新しいものに積極r的に眼をを向けられること、(ここまでは言ってはいないが、)発展させて、(伝統の音色・音楽も新しい音色・音楽にも柔軟に演奏でき、弾き分けできること)、ということを付け加える、とすれば、音色以外においては、すでにできていることなのではないか。

シャイーは、自分の解釈に従って演奏してもらうだけで良いのではないか。
そして演奏したい曲目を演奏すれば、よいのではないか。

自分の意思をオケに分かってもらい、要求とうりの演奏をしてもらうために必要なもの、それは信頼関係に他ならない。

LGOが、今まで経験がない奏法や解釈による演奏を、もし拒否するとすれば、それは楽団の古参や首席の地位にある人が、キーを握っているはずだ。

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であるのに、ブル8では、第1コンマスが、ビブラートの強調を拒否するが如くのボウイングを見せたが、まだシャイーと完全な信頼関係がないのだろうか。

ブルックナー8番は、音が豪快に前に出やすい音楽だから、オケの資質を見るには、あまり都合の良くない音楽で、金管が咆哮し、低弦が強力な運弓で大音量を造り出し、肝が座ったドシリとした音に圧倒され、演奏の良否を見失う恐れが多分にある曲だ。

特に管楽器のホルン群にミスがなく、そしてコーダがクレッシェンドしながらモルト・りタルダンドして金襴豪華に終われば、不満は少ないもので、一昔前の優秀な学生の吹奏楽の演奏に似た所がある。

中には管楽器だけが引き立つ演奏もあったりするが、ブルックナーは多分、弦楽器群と管楽器群其々が活躍する場所をキチンと設計し、お互いが主人公になったり脇役になったりを演出したように思うところがあり、そしてノヴァーク版8番1楽章を例外とし、コーダでは、Fがいくつあっても足りないほどのツッティとなることが多い。

さらに音のダイナミクスはもちろん、音の有無、特に無音を重要視し、突然の休止と無音状態を方方に入れ込んでいる。

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そのことを意識した上でなのか、シャイーは音楽開始と楽章間の時間を、他の指揮者の数倍も取って、聴衆もオケも、ホール全体が完全に落ち着くのを待って、祈るようにしてから音楽を開始した。

ブル8において、シャイーの解釈に、特別変わったところは見られず、ビブラート云々を除き、思っていたよりはるかにオーソドックスだったが、やはりこのオケとの演奏では、それが一番適しているように思うのと、その反面、シャイーは、本当にやりたいことが、まだできない状態にあることを十分推測させることになった。

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しかし思ったよりも、LGOのメンバーには、若い人が多く、さらにに意外だったのは、女性が多かったことと東洋人が多いことだ。女性は10人以上いるし東洋人は5人ほどいるように画面でみえた。

若い人ほどこだわりがあまりないし、切り替えも速いようだから、このことは、この先LGOが質実共に若返りをする、1つの有力な材料であるかも知れないし、シャイーの目的達成には、かなりの手助けになる可能性はある。

レヴァイン退任後のボストン響のシェフに就任するのでは、という噂がシャイー周辺を飛び交っているようだが、カペルマイスターになってまだ日の浅いシャイーに、そのような噂があるのも、シャイー&LGOの評価があまり芳しくないこと、そしてその向こうに、シャイー&LGOの確執のようなものを、敏感に嗅ぎとった結果でなければいいのだが。

オーケストラだって生き物であるから、変化してゆくのは当然のことだし、進化もする。
楽団員も変わるし、指揮者も変わるから、変化しないほうがおかしいと言える。

しかし、非常に見えにくくて分かりにくく、かつ抽象的だから、そのことを理解できる人は多くはないと思うが、自然に、当たり前のように引き継がれて来たもの、それはたしかにある。

人はそれを「伝統」と呼ぶが、オーケストラという音楽表現集団のそれは、何かの拍子に、それまでと変わった何かを感じることによって初めて分かることでもあるようだ。

小生はそれを、「ビブラート」という切り口で見ながら来たが、勿論単一のものだけで、モノを見る危険が有ることは、十分承知のつもりだ。

なぜなら、伝統の内容を規定するそれらは、お互いに有機的な繋がりを持っているからで、本来多くの他の切り口を合わせて、解明すべきものだからだ。

本日のブログは、そのほんの序章、いや目次にさえなってないが、かかった時間と少しの労力は、多分無駄ではないはずだ。

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ホルン軍団はかなロ上手で、難しいとされる、持ち替えのワーグナーホルンも立派な出来であった。

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第1ホルンと4楽章で大活躍のティンパニは、イケメン。

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by noanoa1970 | 2011-05-16 16:16 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

懐かしのレコードジャケット

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by noanoa1970 | 2006-06-09 09:58 | レコードジャケット | Comments(0)

懐かしのレコードジャケット

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by noanoa1970 | 2006-06-09 09:58 | レコードジャケット | Comments(0)

懐かしのレコードジャケット

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これは貴重なLP、「F・コンヴィチュニー」が「ベルリン放送交響楽団」(東独)を指揮したチャイコフスキーの5番の交響曲だ。小生は」コンヴィチュニー」と「チャイコフスキー」は相容れないと思っていたののだが、この演奏も4番の交響曲も、今まで知る彼の音楽の異なる側面を見るようで、ビックリするとともに、「渋い伝統のオケによる音作り」のイメージが、全くといっていいほど、払拭されてしまった。

彼は「ショスタコーヴィッチ」の10番、11番も初演直後に録音しており、東ドイツとなった影響か、何らかの政治的な力で、ソ連ものを演奏録音せざるを得なかったものと思われるのであるが、それはそれとして、この演奏の迫力はものすごい。

音源がなくなってしまったのか、一向にCD復刻されないのはもったいないと思う。
4番そして5番があるのだから、6番「悲愴」を録音しないはずがないと思うのだが、一向にその話は聞こえてこない。

4番は「ヴォイトブリック』からCD復刻され、ゲネラルパウゼの直前など、ド迫力・・・非常に程度のよい音楽的な爆演といってもよい演奏である。

1960年代、この演奏をベートーヴェン全集と同時に聞いての評論であったなら、彼に対する見方は、キットもう少し違うものになっていたに違いない。
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by noanoa1970 | 2006-06-08 09:00 | レコードジャケット | Comments(0)

懐かしのレコードジャケット

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コンサートホールソサエティという会員制のレコードクラブが1960年代にあった。それは多分「ステレオ」装置が一般家庭に普及しはじめるころと、時を同じくする。かなり分厚い封書・・・DMが送られてきて、中には、会員の特典、世界一のクラブなどの宣伝文句と、レコードの紹介が詳細にかかれてあった。
市販の価格水準からは1・2割程度安く、郵送で届くので、便利でだったから、書類に書き入れて送ったが、後にジックリ読むと、月1回の配布は、こちらかな断らない限り、自動的に送付されるというもの。今では商法違反スレスレのやり方であったが、それでも5枚ほど購入した。

それ以上購入しなくなったのは「コロムビアクラシック大全集」という、50枚組みのセットを入手したためである。もしそれがなかったら、このクラブのレコードはもっと増えていただろう。

最近このクラブのオリジナル録音の復刻が出ているようだが、まだ全てが復刻にはいたらないようで、モントゥーの晩年の録音、インバルやブーレーズの初期録音、クリップス、スワロフスキー、ワルター・ゲール、ポール・パレー、マルケビッチ、オッテルロー、デルヴォーなどの録音が残されます。リリー・クラウスやぺルルミュテールにも貴重な音源があるらしいので、復刻が望まれる。

このジャケットはコンサートホールに、ハンス・スワロフスキーがウイーン国立歌劇場管弦楽団とともに録音した、シュトラウスファミリーの音楽集である。
いかにもコンサートホールらしい、安っぽい安易なジャケットではあるが、大正期か昭和初期のマッチ箱のデザインのようなところがあって、チープだがレトロな雰囲気がある。

しかし聞きなおしてみて驚いた。これは素晴らしいシュトラウスだ。こんな格調高いシュトラウスは今まで聞いたことがない・・・と思えるほど素晴らしいのである。ワルツの拍のとり方は絶妙、あのウイーン風3拍子の独特さは、よく「伝統」といわれているが、この「伝統」の意味は、実際に宮廷などで、ワルツを躍るときの「ターン」の際、あの独特な3拍子でないと、うまく「ターン」出来ない・・・であるから、あのようなリズムとなる。
つまり、それを「伝統」という・・・ということを知っている人は余り多くないだろう。

これぞ「伝統」を芸術のレベルに仕立て上げたシュトラウス音楽の極意であろう。

収録は
「春の声」「ピチカートポルカ」「朝の挨拶」「憂いなし」「親しき仲間」「遊覧列車」「天体の音楽」『魔弾のポルカ「』加速度円舞曲」
レコードだから9曲しか入ってないがヨハンもヨゼフのものも、いずれもオ素晴らしい。
当時は針圧が5も10もあるプレヤーがついたステレオ装置だったから、全てに雑音やスクラッチノイズが入っているが、そんなことはお構いなし、久々bにシュトラウスを聞いて心を動かされた
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by noanoa1970 | 2006-06-05 12:09 | レコードジャケット | Comments(0)