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京都岩倉のアパート下宿・・「谷崎」と「はつ子」を巡って

1969年のこと、小生は上賀茂の下宿から、岩倉のアパート下宿に移ることにした。
白沙村荘のバイト仲間、S倉の誘いもあり、銀閣寺までバイトに通うのが何かと便利だったからである。

初めての鍵付の部屋だったことも、引越しの充分な理由であったし、何しろ出来立ての新築であったから魅力だった。

上賀茂では、当初便利な賄い付だったが、バイト先で晩御飯を食べることが多くなってから、かなり無駄にしていたから、経済的でもあったのだ。

S倉は半年ほど前に、銀閣寺に近い下宿先から、岩倉に引っ越していて、静かで快適な環境がよいとも言っていた。

その頃の岩倉は、京都市内ではあったが、「ど」という言葉がつくほど田舎で、叡電が修学院を過ぎると、あたりは急に京都らしくなくなり、周囲は畑ばかりの、長閑な風景が広がるところであった。

S倉が岩倉のアパート下宿に引っ越すことにしたのは、他にも理由があって、それは「奥山はつ子」という、その昔は、祇園の名妓と評判の高かった人が、白沙村荘の橋本「関雪」か息子「節哉」あたりと旧知の中だったのだろう、時々白沙村荘を訪れていて、小生のバイト中にも、幾度と無く顔を見せていた。

その「奥山はつ子」さんから、お菜ところの田鶴子おばさんが、「今度岩倉に自分の家を新築し、同時に学生向けのアパートを隣接する」、という話を聞き、恐らく学生さんを紹介して欲しいなどといわれ、小生より半年ほど前に、白沙村荘のバイトに入ったS蔵に、白羽の矢が立ったというわけだった。

それからしばらくして、S倉の誘いで、まだ空きの有る部屋に小生が入ることになったというわけで、最終的には、DRACのメンバーが都合3人入ることとなった。

「はつ子」さんは当時いくつだったのか、実際の年より随分若く見える感じがあったから、それでも65歳ぐらい(お菜ところの田鶴子おばさんと同じぐらいの)だろうか。

いつも元気で、着物の上に上っ張りを着て、玄関周りを掃除している光景を思い出す。

ただ、同じアパートの住人の中で、アパートの持ち主、「はつ子」さんの、かつての素性を知るものは、われわれを除いて殆ど居なかったであろう。

谷崎潤一郎と往復書簡を交わした、「渡辺 千萬子」は、白沙村荘「橋本関雪」の娘の子供つまり孫で、谷崎の妻「松子」の連れ子と結婚し、谷崎が愛したといわれる女性だが、奥山はつ子も芸子時代、谷崎とその妻両方から好かれたといわれる、祇園の名妓であった。

谷崎の「京羽二重」の中に「奥山はつ子」のことについて、書かれている件があるので掲載する。

抜粋だが、谷崎は随所に、「はつ子」の踊りのこと、そして顔立ちと黒髪の美しさ、等を絶賛している。

音楽評論家の「野村光一」が、「はつ子」を見に、ワザワザ訪れたというエピソードも添えられていて、少なからず驚いた。


(ある人との会合先について谷崎は・・・・)
『私は又躊躇するところなく「奥山」を希望した。
 会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売つた奥山はつ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、諄(くど)くは書くまい。嘗(かつ)て彼女が祇園を去つて料理屋兼旅館の女将となつたと聞いた時、私はこの上もなくそのことを惜しんだ一人であるが、今日の会場を私がこゝに択(えら)んだのは、ひよつとしたら毎日新聞や山口君の顔で、こゝの座敷でなら彼女が得意の地唄舞を舞ふのを見ることが出来ようかと思つたからである。』

『他にどんな名人がゐるにしても、はつ子の「黒髪」ばかりは絶品であると私の妻は云ふのであるが、私もそれに異議は称(とな)へない。、祇園花柳界のあの正式の服装、––はつ子が「黒髪」を舞ふ時はいつもこの服装である。そして誰よりもこの服装が似合ふのもはつ子である。舞は舞そのものゝ技巧ばかりが凡(す)べてゞはない。何と云つても美貌がそれに加はることが条件である。はつ子の場合は正にそれである。あゝ云ふ顔は単に祇園の花柳界のみを代表する顔ではなく、京都全体の美を象徴するものと云へる。あの顔を見てゐると、京都の持つ幽艶、気品、哀切、風雅、怨情、春夏秋冬のさまざまの変化、さう云ふものゝすべてがそこにあるやうな気がする。』


『はつ子はと見ると、頭を普通の引つかづけにして、飾り気のない質素な女将の身なりをしてゐる。あ、この頭ではあの「黒髪」は見るよしもない、今日は舞はない気なのか知らんと、少しがつかりする。』



『今日は先笄の頭と白襟黒紋附の姿は遂に見ることが出来ないけれども、兎も角も舞つてくれると云ふのは特別のサービスである。訪問着は濃い納戸色(なんどいろ)で、それにアイボリー色の紙衣(かみこ)の帯を締めてゐる。帯には濃い茶の花兎の模様がある。髪は地髪を自分で器用に髷(まげ)に作つて載せてゐる。』



『さう云ふ藝者臭くないところ、銀座臭い感じのところが、徳七翁のお眼がねに叶ふ所以(ゆゑん)であつたかも知れない。
 はつ子は云ふ、自分は美容院などへも行つたことがない、自分もパーマネントをかけたいと思ふけれども、ドライヤーに頭を入れるとムカムカして気分が悪くなり、吐き気を催して来るので、あの中へ這人ることが出来ない、髪を結ふにも、髢(かもじ)は使ふことがあるけれども、鬘は殆ど使つたことがない、
「あたしの髪はいつも地髪で結ふのどつせ」』



また、歌人である田中保子さんの「京のうんちく」の京女編の中にも、奥山はつ子のことが書かれている。
奥山はつ子、本名奥山初は明治、大正、昭和の三代にわたって
磨きぬかれた京女として生きた。
はつ子は数え年十三歳で舞子になった。
(註、はつ子曰く、祇園町では舞妓やのうて舞子、芸妓も芸子いわんといかんのどっせ)
普通は十歳、 身体が弱かったはつ子は遅れたことに持ち前の負けん気の拍車をかけた。
京大内科の松尾部長(俳人いはほ)は
~初髪やはつ子はつ子とうたはれて~と詠む。
妓籍の女だけではない、京の女はよう気張る。


かつて、祇園の芸子集の中でも、ひときわ異彩を放って、各界の著名人から、贔屓にされたという「はつ子」さんが、後に岩倉に引越し、学生アパートを経営するというなんていうことは、谷崎は、よもや思いもしなかったことだろうが、これも時代の流れというものなのか。

その当時「はつ子」おばさんは、どのような気持ちで、毎日暮らしていたのだろうか。

知っている彼女の自慢は、息子が京都大学卒の優秀な人であるということだ。
そういえば、アパートには、京大生が数人居て、夜な夜な騒ぐ小生たちを、白い眼で見ていたことがあった。
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by noanoa1970 | 2008-05-19 16:08 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

昔の味・・・グリル「富永」

京都の洋食屋というと、小生の時代には、下鴨糺ノ森の「のらくろ」そして岡崎北の「小宝」が手ごろな店で、よく通ったものだ。
いずれの店もいまだ健在で、代替わりしているが、昔の味の面影はナントカ保たれている。「のらくろ」も「小宝」も、かつては「食堂」といってもいいような佇まいで、民家を少しだけアレンジしているだけだったから、メニューを見なければ、饂飩屋かと見まがうくらいのところだった。

恐らくは、初代店主が、1960年あたりから始めたと思われる店は、両店共に、息子さんが跡を継いでいて、平成の時代になっても残ることになり、大小の差こそあれ、両方共に、かつての民家は、立派なビルとなった。

しかし、特に息子さんが一人だけで、お嫁さんと一緒にやっている「のらくろ」は、2代目もそこそこの年齢だから、この後どうなってしまうのかと心配なところもあるが、「小宝」は、兄弟たちが継続してやってきたようだから、きっと今後も続いていくだろうと思っている。

「小宝」は、観光ガイド雑誌が、こぞって取り上げたせいで、「お待ち」が出来るほどとなり、ガイドブックを携えた、いかにも京都観客全とした人たちで、あふれるようになってしまった。

「小宝」のある通りを、少し下がったところの、何の変哲も無い「岡北」という饂飩屋が、修学旅行生や観光客でイッパイなのも、観光ガイドの悪しき宣伝のせいであろうが、京都ならではの、仕方なさなのか。

雑誌で紹介された「オムライス」か「ハイシライス」(京都の古手の洋食屋では、「ハヤシライス」を「ハイシライス」と呼ぶ習慣がある)を、殆どの観光客が食べている。

決して不味いわけではないが、どうも小生はここのデミグラスソースが、好みではない。

丁寧に作ってあることは、味わえば分かるが、それをそのままオムライスにかけてしまうから、またハヤシライスや、シチューにそのまま応用してしまうから、丁寧すぎるデミグラスソースに、殆どの食材が負けてしまっているからだ。

ソースエスパニョールとデミグラスソースを使い分けるといった心遣いが欲しい。
ソースを下手に使いすぎると、素材の味を限りなく殺してしまう。

かつて小生は、この店がまだ改築前の食堂のような時代に、バイト代が入ったので、「ポークチャップ」をおごって食べたことがあったが、そのときのソースは、デミではなく、それよりも味も色も浅い、ソースエスパニョールだったと記憶する。

デミグラスソースの「小宝」という宣伝と、表面的に洋食好きの観光客が、ソースの使い分けを結果阻んでいるのだろうか。
でも昨今のインチキインスタント洋食が蔓延する中、やはり「小宝」は、基本を守った昔ながらの洋食屋であることに変わりは無い。

相変わらずイントロが長くなったが、本日は、そんな京都の洋食屋の中で、当時ひときわその腕が光っていた、しかし今はもう無くなって久しい、下鴨芝本町・・・洛北高校を下がったところあった「富永」である。

この店のことを知ったのは、「白沙村荘」でのバイト時代のこと。
ご存知の方も多いと思うが、ここは橋本関雪という、南画の巨匠の邸宅と、広い庭園を記念館として1960年代の中ごろに、一般公開するに至ったところで、その敷地の中に、後に小生が手がけることになるNOANOAがある。

小生はそこで関雪の長男、節哉のお嫁さんである田鶴子おばさんが新しくやることになった、京のお晩材料理とお酒の「お菜ところ」開店に伴い、アルバイトとして働くことになった・・・1969年のことである。

夕方から閉店までがデューティであったが、昼間の人がいないときには、代わりを依頼されることが時々有って、そのときは朝10時半ごろから14時ごろまでが勤務時間だったから、ちょうどその頃、新婚でお嫁さんに来た、現在の記念館館長が、バイトと家人の食事を作る担当をしていたのだった。

土日祝日など、忙しいときには、誰もが庭のお茶席に借り出され、昼食を作る人手がなくなるから、そういうときには弁当の出前を頼むことがあった。

小生も数回それに当たって、届けられた弁当の蓋を開いた瞬間、「バイトがこんな豪華な洋食弁当を食べていいものか」とわが目を疑い、同じものを食べようとするおばさんに、思わず「これ、僕が食べてもいいんですか」と聞いたぐらいだった。

エビフライ、ウインナーソーセージ、ハンバーグ、ヒレカツ、赤スパゲッティ、ポテトサラダ、それらが手際よくダイナミックかつ上品に、大き目の重箱にご飯と一緒に盛られている。

ビニールチューブ入りの、ウスターソースなどという野暮なものは無く、タルタルソースが、薄いデミグラスソース(多分ソースエスパニョール)が掛けてある、それは立派な・・・恐らくこれだけで、半日分のバイト代に相当するのではないかと思うような、物凄く美味しい洋食弁当であった。

小生は、学生のバイトに対しても、こんな凄い食事を提供する、白沙村荘の懐の深さに驚嘆し、夜のバイトが終わると、大きな居間に集って家族同様、毎夜のように宴会サロンと化すあの懐かしき日々を、今も思い出すのである。

いかに学生を大事にする京都といえど、ここまでやるのは別格である。
関雪が、そして節哉が培ってきた、親分肌で、芸術肌の文化が、そのままスッカリ残っているかのようなところがあって、小生は白沙村荘に、入り浸ることになった。


あるとき、「富永」が忙しくて、配達できないといっているらしいので、注文した弁当を、取りに行くように依頼され、場所と名前を聞いて小生ガ受け取りに行ったことがあった。
それが下鴨のグリル「富永」だったのだ。

橋本家では、その昔からよく「富永」を利用しているらしく、「富永」の主人は、お得意様のような扱いで迎えてくれ、なんだったか忘れてしまったが橋本さんに渡してくださいと、手土産を預かって帰った記憶がある。

弁当を待つ間に厨房を覗くと、ご主人の他に2人、狭い厨房の中で働いていて、体格のよいご主人は大変窮屈そうだった印象がある。

B級グルメなどと、最近では流行のようによく言うが、確かに店の構えは、一流レストランに比べれば「B級」・・・・(個人経営だから余りお金を掛けられない)という評価は当たりだろうが、だが、その味は名のあるレストランと比べても遜色の無い、「A級」の店は、知られざるところに眠っていて、まさにグリル「富永」は、その典型のような店だった。

その後下鴨界隈を走るときには、気をつけているのだが、すでに無くなってしまったらしく、当時の面影はもうどこにも無い。

ネットで探るも、「富永」の情報は殆ど無く、ただ1つだけ、小さい時に連れられてよく行った、近所に住んでいたという人のブログを発見した。

中年美食捜索隊

そのブログ内の、「グリル富永」のエントリーに付けられたコメントによると、富永さんは、重度の糖尿病が悪化して京大病院に入院。
コメントした人が目撃した話では、奥さんが車椅子を引いていたそうで、富永さんの足の部分には、それを隠すように、毛布がかぶせてあったと書いてあった。

糖尿病悪化のため、足が壊疽になって切断でもすることになってしまったのだろうか。
そういえば富永さんはかなり体格がよかった。
きっと食べることが好きで、おいしいものを追求しすぎたのだろう。

あの当時は40歳あたりの一番油が乗り切ったときであったろうから、生きておられれば、今は80歳ぐらいになろうか。

入院したその後のこと、何時廃業したのかの詳細は、分からないが、もし続いていたとすると、グリル「小宝」をはるかに凌駕する洋食の名店となっていたに違いないと、密かに思っている。

デミグラスソースのうまみに頼ろうとする洋食屋が蔓延する中、「フルヤ」も「富永」も、提供する料理にあったソースを使い分け、料理の味自体を、決して殺してしまうことの無い、ソースの使い方を心得た職人だ。

料理とソースのシナジーが図れることは、職人自身の味覚が洗練されていないと出来ないこと。

いくら長い間・・・例えば本場で修業したといっても、今でこそ日本食を参考にして「ポール・ボキューズ」が始めた、ヌーベルクイジーヌの流れが主流となって、来ている感があるが、当時はまだフランス料理は、かつての宮廷料理の流れで、長時間かけて素材をパリまで運ぶ必要下でのソース作りが主流であった時代を踏襲していた。

それをそのまま日本の洋食に用いれば、どうなるか、答えは簡単に出るというものだ。


グリル富永へは、誰といったかは記憶に無いが、ハンバーグステーキと、クリームコロッケの記憶があるから、やはりそれが好きな家内とだったのだろう。

京都の洋食の名店が、また一つ消えていってしまった。

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by noanoa1970 | 2008-05-15 08:40 | 「食」についてのエッセイ | Comments(14)

昔の味・・・広東料理「飛雲」

さすがの池波正太郎も、この店のことは取り上げていないが、京都の中国料理の、やはり名店と言わざるを得ないであろう。

小生が始めて「飛雲」に行くことが出来たのは、学生時代ではなく、卒業して間もない1973年か4年のことだった。

京都は修学院に在住の、家内の父親が、毎年「墨彩美展」という水墨画の展覧会を、京都市美術館で開催していた。

水墨画をやってみたい人は、だんだん増えてきていたようで、遠くは富山、そして大阪、地元京都の趣味人たちが習いに来ていた。

小生がよく行った銀閣寺交差点手前を左に入ったところにあって、立ち食いにもかかわらず安価な寿司屋「銀寿司」の大将も、習いに来ていて、小生と再び、つながることとなった。

1960年から70年代に、御所の北ないしは右の区域で過した学生なら、銀寿司にお世話になった人も多いだろう。

銀寿司の大将は、かなり稼いだのだろう、80年代の始めごろ、伊豆に引っ越してしまった。

「墨彩美展」が無事終了すると、決まって打ち上げに利用したのが、木屋町二条と三条の間辺りにあった「飛雲」で、小生も、家内も展覧会は手伝いはしなかったが、打ち上げだけには参加していた。

それまで、何度と無く木屋町筋を歩いたのだったが、「飛雲」という広東料理の店は、一度も目に入ることは無かったので、まさか、あのような場所に中国料理の店があるとは思いもしなかった。

何気なく通ると、見過ごしそうな、木屋町に面し、両脇が竹の塀で囲まれた細い路地を入ると、古い商人宿か遊郭の後のような民家が現れる。

前庭は、料亭のように手入れされ、打ち水までされていて、玄関にはスポック博士のように、耳のとがった下足番がいて、丁寧に来客を応対していた。

古民家を改造して料理を提供することは、今では珍しくなく、特に京都では、町屋を生かした店作りが流行っているが、その頃では、まして中国料理では、いかに京都といえども、大変珍しいことであった。(もう1件下鴨に「無庵」という店があり、そして70年代後半、東京の保谷には「武蔵野」という民家を改造した中国料理の店があった)

ピカピカに磨かれ、鈍い光沢を放つ大きな階段を上がると、「踊場」が設えられていて、空間のアチコチに、大きさの違いはあれ、小さなスペースが取ってあって、そこには、季節の生け花飾られているし、目に留まったのは、かなり奇抜な姿かたち、そして色付けがされた陶芸品がいくつも置いてあったことだった。

トイレの入り口にも、それは置いてあるので、気になってトイレから出て、しばらく眺めていると、入れ違いに義父が来て、「それは河井寛次郎だ」とさりげなく告げるのだった。

「河井寛次郎」・・・・その頃の小生は、白沙村荘での生活の影響で、食と陶磁器に興味を持ちつつあったとき、しかし記念館のある「河井寛次郎」、民芸作家としての「河井寛次郎」の名前は知っていたものの、その作品に触れたことは無かった。

だから、まさかこんな一見抽象的に見えるような文様が、奇抜に、しかも赤黒く、全体に施されているようなものが、あの民芸作家「河井寛次郎」であるとは、想像だにできなかったのだ。

でもどうして・・・河井寛次郎の作品がこの中国料理の「飛雲」に・・・10点はあっただろうか・・・しかも何気なく踊場のようなところに置かれているのだろうか。

普通の感覚ならば、ガラスケースに入れて、床の間に置くことだろうに・・・・

一体「飛雲」の経営者とは何者なんだろうか。
これが白沙村荘であれば、(これだって驚くべきだろうが)文化芸術的に同業であるから、さして仰天することは無いのだが、いかに設えガよいとはいえ、たかが・・・一般人が来れてしまう、しかも中国料理屋なのだ「飛雲」は。

しかし、後に義父から聞いた「飛雲」についての話は、なるほどと納得させられるものであった。

戦前の話だろうと推測される、義父の若い頃、まだ絵の修行をしていてお金も無かったとき、どういうわけだろうか、「飛雲」の主人に世話になって、しかも「飛雲」に居候していたという。

「飛雲」の主人は恐らく、広東の「華僑」で、日本でかなり苦労して、成功した一人なのであろう。

文化芸術に携わる人たちを、いわばパトロンのように、食客同様飲み食いさせ、育ててやろうという、ボランティア精神に満ち溢れていたのだろうか、義父のほかにも数人の人が世話になっていたと聞いた。

「飛雲」の主人の名前さえも聞くことは出来なかったが、そのような経緯から、義父はひとり立ちできるようになり、展覧会も開催できるようになったとき、その昔世話になった「飛雲」への恩返しの意味もあってか、利用することにしたのだ。

河井寛次郎の作品も、恐らくそんな「飛雲」の主人の、文化芸術に携わる若い人たち育成というような、ボランティア精神の結果がもたらしたものだったに違いない。

京都の中国料理は広東が多いように思うが、きっとそれは、京料理と広東料理の近似性が、京都人好みに通じるところからだろうと、勝手に思うことがある。

料理の盛り方も、中国料理の中では、かなり粋で、味も色も優しい。

小生は「飛雲」で生まれて初めて「鯉の丸上げ甘酢あんかけ」を食べたが、長時間油の中を泳いだにしては、全くくどさも油臭さも無く、パリパリいう音と、その食感が、透明な甘酢とあいまって、頭からシッポまで、全て食べることが出来た感動は、忘れることが出来なくなった。

シュウマイも、春巻きも、鶏とカシューナッツ炒めも、青梗菜のクリーム煮も、いずれも美味しかったが、80年代の後半、店をたたんでしまうことになった。

高島屋に、そして北白川に分店を出したそうだが、あの見事な古民家でのもてなしに、勝るものは、到底かなうわけも無く、思い出だけが残ることとなった。

河井寛次郎の作品群は、そしてまだ有ったであろう美術陶芸品の数々は、どのようになってしまったのだろう。

しかるべき人の手に残されていることを願うばかりである。

その後打ち上げの会場は、以前ブログに書いた、湯葉で巻いたような素晴らしい春巻きを出す、紫竹の「鳳舞」に移ることになった。

昔から家内がつれられてよく行っていたという、富小路通四条上るにあった「大三元」も、店の雰囲気はまるで中国のようで、出される料理は、少量ながら本格派で、知る人ぞ知る名店だ。

あるHPに驚くべきことが書かれていて、それによると、京都の中国料理の発祥は「飛雲」の広東料理に有り、「飛雲」で修行した職人達がそれぞれ独立し、店を作って行ったとか。

古いところでは、「鳳舞」、「大三元」。
比較的新しいところでは、上七軒にある「糸仙」、祇園白川にある「竹香」
堀川北大路北の「鳳飛」は、文字通り「飛雲」と「鳳舞」から、その名がとられていることが分かる。

どうりで義父が「鳳舞」、「大三元」にまで通ったのかが納得できる。
「飛雲」の主人が弟子の職人達の店を紹介したに違いない。

「鳳舞」の味は、最近代替わりをしたのか、料理人が入れ替えあってしまったのか、理由は定かではないが、昔のあの素晴らしい味に比べると、幾分落ちてきてしまったのが残念だ。

「飛雲」「大三元」がなくなってしまって、古くから残るは、いまや「鳳舞」だけとなってしまった今日、かつての味を是非復活していただきたいと願うばかりである。
(多分中華だしの取り方=基本に問題がありそうだ)
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by noanoa1970 | 2008-05-14 10:53 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

昔の味

今は無き昔の味というと、小生が忘れられないものに、もう40年前になろうか、京都で過した日々に、食したものがそれである。

以前からブログに書いている洋食屋「のらくろ」もその中に、勿論入るが、「のらくろ」は、嬉しいことにいまだ健在である。

それら食の名店の中、今はもう無くなってしまい、従ってもう姿かたちがなくなってしまい、味の思い出しか残ってない食の名店についての思い出を書いておくことにする。

一つは、木屋町三条の路地を奥に入ったところにあった、中国料理の名店「飛雲」。
今ひとつは、下鴨芝本町にあったグリル「富永」。
最後は、本日取り上げることにした、左京区樋ノ口町のグリル「フルヤ」である。

「フルヤ」に初めて行ったのは、結婚前の家内と一緒だったから、1972年のことだったと思う。
その頃小生は、立ち上げたNOANOAでの・・・ピザとスパゲッティの腕前は相当なものがあったと自負するのだが、所詮は基礎を学んでいないところの、独学だったから、応用が利かないことに、ソロソロ限界を感じ始めていて、今後どうするか思案中のときであった。

それでも食に対する貪欲なまでの興味、何しろ食べることが無類の喜びだったから、少ない情報の中、貴重な美味しい情報が耳に入ると、早速出かけて賞味することにしていた。

d0063263_2021923.jpg「フルヤ」もその中の一つだったが、フルヤがある細い路地のような小道は、小生の好きな道でもあったから、何度と無くそばを通っていて、いかにも古くて、「一見さんお断り」の雰囲気を持つような、しかしなんとなく家庭的な雰囲気が有りそうな佇まいに、「グラタン、ビーフシチュー」と書かれた看板があるのを見てはいた。

しかし、まだ学生の身であったせいか、なんとなく入りづらくて、躊躇し続けて、NOANOAに限界を感じ始めた1972年、ようやく「フルヤ」のドアを開けることになった。

店に入ると、右側に5人ほど並べるカウンターが、他に3つのテーブルがあるという、こじんまりした店で、カウンターの中には60歳を少し越した感じの、初老の親父が一人、そして白い割烹着の、奥さんと思しき女性が一人居た。

店には他に客が4.5人いただろうか、2人がすでに座っているカウンターに、われわれも座った。

食べるものはすでに、決めていて、ビーフシチューを2人前、そしてマカロニグラタンを1人前注文した。

シチューというと、小生はNOANOAで、陶芸家の小山富士夫さんが白沙村荘に来られたとき、お年でもあることだし、ピザとスパゲッツティ以外のもので、何か作ってと、橋本関雪の長男のお嫁さんであり、「お菜ところ」を切り盛りしていた田鶴子おばさんから依頼され、好みを聞いてそれならばと、メニューには無い、「カブと牛の煮込み」・・・シチューをNOANOAで作って出したことがあった。

小山先生は痛く感激され、高額なチップと、その頃では高嶺の花、決して飲むことが出来なかったウイスキー「オールドパー」を下さったことがあった。

マカロニグラタンは、小生が始めて口にしたのが「のらくろ」のもの、その味をナントカ踏襲して、NOANOAで一時メニューに加えたのだったが、ベシャメルソースの保存という基礎を知らないため、注文が入ると、いちいちベシャメルから作る始末で、これでは時間がかかりすぎ、結局メニューから外すこととなった。

プロと呼ばれる食の職人達は、これらのことを、どのようにしているのだろうかということにも、興味があって仕事がよく見えるカウンターに座ったのだった。

驚いたのはカウンター内の厨房の清潔さ。
ストーブ周りも、タイルの壁に下げられている手鍋などの調理器具も、すべてがピカピカと輝くほどだったこと。

通常なら黒くすすけて当然の鍋類が、ピカピカしているのだ。

小生はそれを見た瞬間、「この職人の作る料理が不味いはずがない」そう直感した。

料理をする人であれば、お分かりだろうが、最近では家庭でも、プロの使うアルミ製の鍋類を使う人が増えてきたが、毎日のように使えばすぐに、油等で鍋の周りが汚れる。
そしてそれをきれいにするには、使い終えたらすぐに、きれいに掃除しないと、汚れがこびりついて取れなくなってしまう。

鉄製のフライパンはプロにとっては、無くてはならないものだが、これも同様。
きれいにするためには、汚れがこびりついてくると、ストーブ(ガスコンロ)で、フライパンを燃やして汚れを燃やしきり、低い温度でフライパンに入れた油を長時間熱することで、フライパンに油を馴染ませるほど手間をかけるのである。よく手入れされた鉄製のフライパンで無いと、本格的なオムレツは決して巻けない。

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この親父・・失礼、初老のシェフは、きっとどこかのホテルで相当長い間修行をしたに違いない。

最近はマスコミの悪影響で、シェフと呼ばれる人たち・・・洋食をやる人全てをシェフと呼ぶ傾向があり、呼ばれるほうもそれで満足しきっているのが散見されてイヤになる。

それに、一昔前であれば、「どこで修行されたのですか」という問いに、「どこどこのホテルです」と明快に答えられる人が、本格的料理人であったが、最近では、例えば、海外・・フランス、イタリアなどに1年間、ただ食べ歩いて帰って来ただけでも、フランスで修行などと、平気で言っている。

学歴詐称は、どの世界にもあるから気をつけないといけない。

大体日本から何のツテも無く海外に行って、料理の修業など出来るわけが無いのだ。
せいぜい皿洗いぐらいが関の山。
ホテル同士が交流関係にあるところで、留学に近い形で行って初めて、厨房での本格的仕事が出来ることを知っておくべきであろう。

イタリアで3年間修行したなんていうだけのやつは、ほとんど大したことは無く、イタリアの、あるいはフランスの〇〇レストラン、〇〇ホテルのストーブ前、ブッチャー、など担当した部署を、正確に言わないやつは、殆ど学歴・・経歴詐称であるといっても過言ではない。

「吉兆」事件じゃないが、表面的な見栄えや、味の模倣に終始する昨今、ファストフードが蔓延する中、味覚も鈍感に慣らされてしまっているからなのか、味が本当に分かる人がだんだん少なくなったのではないだろうか。

話はだいぶ横にそれたが、そういうわけで、とにかく「フルヤ」のカウンターに座ることが出来た。

注文が終わって、老シェフが、先ず何をするのか興味を持って見守っていると、やおら、カウンターの下から、ジャガイモとにんじんを取り出し、ユックリとした所作で、それらをカットし、皮を剥き、角を取り始めるのだった。

それは、シチューに入れる野菜をシャトウに剥くという、野菜料理の基本の一つ。
しかし当時の小生は、シャトウ剥きなど知らなかったから、おもむろにやりだしたその光景と、ユックリした動作だが流暢な包丁裁きに、呆気に取られてしまった。

剥き終わった野菜は、恐らくブイヨンで煮込んでやわらかくするのだろう、鍋に入れ火に掛けられた。
そして剥かれた皮や余りの部材は、ストーブの一番奥の大きな寸胴の中に入れられた。
(この中に、デミグラスソースが入っていることは、そのときは分からなかった)

次にシェフは、鍋に湯を沸かし、そこにマカロニを入れて茹で始め、同時に、冷蔵庫から蓋付きのバットを取り出した。
バットには表面がバターで塗られたせいで、黄色い色をした、ベシャメルソースが入っていて、それをしゃもじでそぎ取り、手鍋に入れ火にかけて、途中少しミルクを加えてから暖めて伸ばしにかかった。

なるほど、蓋つきバットに入れ、表面にオイルを塗っておけば、冷蔵庫に入れても、バリバリにならないのだな、そういうことが分かり、チョット感激した。

フライパンには、いつの間にか、シュリンプと、たまねぎのスライス、そして立てに割ったマッシュルームが入っていて、軽く炒められている。

別の手鍋には、まだシチューの野菜が煮えているが、シェフは、先ほど伸ばしたベシャメルソースに、炒めたシュリンプ入りの野菜を入れて、そのジュースも入れて、最後にマカロニを入れ、味を調え(卵の黄身を入れたように思ったが、定かな記憶は無い)グラタン皿に盛り付け、上からパン粉とパルメザンチ-ズをタップリと振りかけてから、オーブンに入れた。

すかザず次に、冷蔵庫から、あらかじめ煮込んでおいたであろう、二口ほどの大きさの肉を鍋に入れ、何かは分からなかったが、酒の類を入れて蓋をした鍋を火にかけた。(小生がいたホテルでは、マデラ酒を使っていた)
煮込んでおいた肉を、冷蔵庫に入れて保存したものを、酒で「戻す」という動作である。

肉はバラの部位とモモの2種類だったと思う。


数分たった頃に、肉を取り出して、先ほどシャトウに剥き、やわらかくした野菜と一緒にして、そこにデミグラスソースを注ぎ込んで、しばらく煮込んだ。

NOANOAで小生が作ったかぶと牛肉のシチューは、肉を煮込むことから始めたから数時間かかったが、このような方法なら、およそ15分あれば煮込み料理が出来上がる。
要点は、あらかじめ牛肉を煮込んでおくことだ。(肉を煮込むのに、何が必要なのか、このときは、知る由も無かったが)

熱くした陶器の鍋に盛られたビーフシチューには、青味の絹さやが乗せられ、シチューの上からサワークリームがかかっていた。

驚きは、注文した料理が、殆ど同時に出来上がって、カウンターに並んだときであった。

他の客の注文もあったはずなのに、それも同時にたった一人でこなした、その手際の良さにもかかわらず、どこにもあくせくした様子が無く、落ち着いて、ユッタリと・・・小生には流暢にさえ感じられたほど。

これは並大抵の料理人ではない、そう感じて提供された料理を、かみ締めながら、一口ずつ味わうようにように堪能した。

d0063263_19591663.jpg「フルヤ」についての情報が無いものかと、検索すると、なんとあの「池波正太郎」が、「むかしの味」(ブログタイトル「昔の味」はそのパクリ)という本の中で「パルメ・ステーキとチキンチャプスイなど」京都〔フルヤ〕と題し、書いているということが分かったので、先ほど本屋を3件探し、ようやく入手した。

池波がこのことを書いたのが、いつかは分からないが、新国劇の脚本をまだ書いていた頃のことで、そのため大阪、京都に来ていた頃だという。

池波 正太郎は1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)というから、生きていれば85歳になる、「フルヤ」に行った時のことは、今から23.4年ほど前のことと、書いているから、亡くなる直前にかかれたものだとすると、小生とほぼ同時代のことになるのであるが、ウィキによると、「1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになる。」と有るから、恐らく1960年代の始めごろのことだと予想される。

そうであるならば、池波はまだ40歳余りの年齢となる。
池波は、今ではもう殆ど情報の無い「フルヤ」について、少ないながらも貴重な情報を残している。

池波は、脚本仲間のWが、題名まで決まっているのに、脚本がかけないことを、どうにか慰める意味もあって、彼らはその日、京都大学の北の御影通り、(小生は京大農学部裏のといっていた)を歩いていて(この通りは、とても素敵な通りだから池波たちも、歩くことにしたのだろうが、観光客はメッタに通らない)グリル「フルヤ」の看板を見つけて入ったと書いてある。

「フルヤ」のあった、樋ノ口町御影通りは、東西の横の通りで、南北を走る北大路通りをさらに北に進んだところには、「高田幸吉」の店があって、高田は「フルヤ」の常連でもあったというから、池波は偶然歩いていて見つけたように書いているが、高田からこの店のことを聞いていたに違いない。

御影通りなどは決して観光客が、偶然通るようなところでは無いからだ。


そのことはさておき、池波は「フルヤ」で「パルメ・ステーキ」、「エビのコキール」、そして「チキン・チャプスイ」を食したと書いている。

そういえば、小生が座った横には「先生」と呼ばれた人が座っていて、「先生、今日は何グラムにしますか」などと老シェフが聞いていた。

恐らくは、京大の先生なのだろうと、小生が思っていたその先生が「180グラムで・・・」などといい、見ているとシェフは、冷蔵庫から大きなロースの塊を出してきて、ナイフを入れてカットし出した。

ミディアムレアだからシッポを使いますと、労シェフが言うのが聞こえたが、そのことが何を物語っているのか、当時の小生に分かるはずも無かったが、今思えば、答えは簡単で、ロースは頭とシッポとプロが呼ぶ方向があって、面積の大きいほう、すなわち牛の頭のほうにある部位を「頭」、逆に面積の小さいほう、尻尾に近い部位を「シッポ」と呼ぶ。

一般的には「あたま」の方の部位のほうが高級とされるが、Aランク・・・今では知る人も多い、A3やA5とよばれるものは、シッポでも相当すばらしい。

180グラムだと、頭のほうをカットした場合、かなり肉薄となるから、ミディアムはOKでも、ミディアムレアは相当難しく、どんなに優れた料理人でも、焼くことが困難である。

だから老シェフは、肉厚の取れる(火がすぐに通ってしまわない)シッポをチョイスした。

見ると取り出したロースは、程よいサシが入った、相当立派なもの。
今で言うA3クラスぐらいだろうか。

池波によると、近江牛を使用していると書かれている。


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さらに驚いたのは、小生が大好きな脂身を、かなりそぎ落としたことで、これはその先生の好みで、特別注文なのだろう、かなりの常連に違いないと解釈したが、ロースを頼んで、脂身をカットするのは、本来なら、ルール違反のようにも思えたのだった。

しかしこれも、ミディアムレアで肉を焼くための工夫であったかもしれない。

このような「有ずが利く」事も、今の洋食屋ではもう余りお目にかかれないことだ。


池波が食したビーフシチューの味の印象と、小生の味の印象がかなり違っていることが驚きで、池波は、「フルヤ」のビーフシチューを「今まで食べたどこよりも全く違った味わいに目を見張った」美味しい、「味はポトフのよう」・・・つまりアッサリしていると書いているのだ。

またポトフを表すのに、「洋風おでん」とも書いている。

おい待ってくれ、池波さん
「フルヤ」のビーフシチューこそ、本格的なシチューの作り方なのだ。
食品メーカーのおかげで、野菜と肉を煮込んだものをシチューとするようなところがあるが、ビーフシチューは牛肉の煮込みで、ポトフのような野菜中心の「ごった煮」ではないのだ。

確かに「フルヤ」のデミグラスは、小生の記憶では、サラッとした感じで、色もブラウンソースの色ではなく、トマトソースに近いが、味はデミグラスそのもの、本格的デミの味だったはず。

鳶色のものがデミグラスだと思っていると、それは勘違いというもの。
小麦粉の色の付け加減や、後の色素の元の加減、(カラメルでワザト色をつけるところさえある)、小生のような作り方・・・小麦粉は一切使用せずに、トマトソースとフォンでデミグラスをつくるもの・・・いろいろ方法がある。

恐らく「フルヤ」は、肉の味そのものも追いかけたかったのだろう、デミグラスにも工夫を凝らし、くどさを追いやったシチューにして、提供したのだと思われる。

池波がこれを「ポトフ」のようだと勘違いしたのは多分そのソースの色にあるのだろう。

とにかく池波と小生では、作り方を変えてないという前提での話だが、食した印象がかなり違ってはいるが、美味しいというところでは一致している。

池波の話では、まるで、小生がNOANOAで小山富士夫先生にお出しした時の味である。

味覚の問題は難しいからこのあたりにするが、「パルメ・ステーキ」とは一体なんであろうか。

池波によると、京都在住のスエーデン人、「アイナー・パルメ」という人の意見を取り入れたステーキだということだ。
しかし池波は、その味について、「いわれてみると、北欧の味がせぬわけでもない」などと書くに留めている。

これではサッパリ分からない。
スエーデンといえば、スモーガスボードに代表される、バイキング料理、そしてステーキならトナカイと相場が決まっている。

しかしそうではないから、スエーデン人のアイデアといって思い付くのは、「ジャガイモ」・・・ベークドポテトを付け合せにしたのか、ステーキ自体が・・・例えばシャリアピンステーキのように風変わりなのか、全く分からない。

「アイナー・パルメ」という人物も検索に引っかかってこずで、シャトウの名前か、かつての「オロフ・パルメ」スエーデン首相ガ有るだけで、肝心の「アイナー・パルメ」さんについては、何も分からずじまいに終わった。

アイナーもパルメも北欧系の名前であることは確かのようだから、池波の聞き間違いはなさそうだが、他のビーフステーキとの違いを味わってみたかったと悔やまれる。

最後の「チキンチャプスイ」であるが、小生にとってチャプスイとは戦後間もない頃の響きがする。

語源は中国語だそうで、何でもアメリカで、アメリカ人が中国料理を真似て、また発音まで似せて開発した料理で、これこそ「洋風ごった煮」というものだろう。

元は広東料理だが、チャプスイとしてメニューに載せているところは稀であるし、洋食でチャプスイがあるところは、今では殆どないであろう。

広東語 で「雜碎」、英語 で「chop suey」とほぼ同じ発音というところから、米国の中華街から派生し、米国料理となったものと思われる。

「フルヤ」が、何故チャプスイをメニューに加えたかは、想像も出来ないが、昭和の一時期はやったのかもしれない。

味は豚肉と野菜の甘酢あんかけといったところだそうだ。

池波によると、老シェフは、「古谷美義」といい、明治45年生まれ。
新大阪ホテル、銀座資生堂、都ホテル、京都ホテル、と修行をして腕を磨き、ガダルカナルに出兵という、悲惨な戦争体験をしたという。

明治45年は、1912年だから、池波より一回り上で、ちょうど小生の義理の父と同じ年だ。
小生がお邪魔した1972年は、古谷さんが60歳・・・今の小生と同じ年齢のときであったということになる。

何時「フルヤ」が無くなったのかは、ハッキリした情報が無いが、夫婦で厳しい洋食屋をやれるのはどう考えても70歳までだと思うから、1980年あたりまでであっただろう。
(2008.07.12フルヤさんのお孫さんからコメントが寄せられ、1986年までお店は営業していたということであった。80歳近くまで頑張って料理の道を進まれたことに、改めて尊敬の念を抱いた。出来ればもう一度訪問し、ステーキとグラタン、ビーフシチューを賞味したかったものだ。)

この頃小生は、東京でOA機器製造販売会社に入って働いていたので、京都には年に数回、家内の実家の修学院に行って帰るのがやっとで、なかでも年1回開催していた義理の父の主催する展覧会の打ち上げに、次回書くことにする、中国料理の「飛雲」の料理を食べに出席したことがあるぐらいで、あの「フルヤ」のことも、情報もその後はサッパリ不明となったままであった。

池波正太郎がまさか「フルヤ」について書いていたとは夢にも思っていなかったが、彼が書いてくれたことは、小生にとっても、非常に嬉しいことであった。

これで「フルヤ」のことは、何らかの形で人の記憶に残っていくからだ。
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by noanoa1970 | 2008-05-12 17:14 | 「食」についてのエッセイ | Comments(6)

修学院の家

玄関を上がってすぐ左にある茶室。伝統的なつくりでは勿論ない。玄関脇からすぐに入れるようにしてあり「にじり口」風にしてある。部屋の中には「炉」が切られている。小生はこの部屋をベッド代わりにしたことがよくある。右側の障子を開ければ、LDKに通じる。左は庭が見えちょうど「椿」「お茶」の木がすぐに見えるようになっている。
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部屋の中心部分に入る扉を開けたところ。障子が目に飛び込んでくる。
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かなり広い部屋。多分昔はここが画室であったことだろう。最近まではこの部屋が、今で言うところの、LDKとなっていた。京都の冬はとても寒いので、煙突つきの大型石油ストーヴは必需品である。
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LDKから次の次の部屋がこの囲炉裏部屋。古い民家の板戸を持ってきて仕切り戸にしてある。年月を経た板戸の黒光した色艶がなんともいえない風情をだしている。
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LDKから囲炉裏部屋を望む。右に見えているのは料理屋の厨房を思わせるぐらい長いキッチンユニット。
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囲炉裏部屋から一つ部屋を経て、LDKを見たところ。
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囲炉裏部屋の天井はこのようになっていて、自在鍵が下がっている。栗の木で作ったJ字型の、重さ50kgほどあろうかと思われるフックは取り外してある。平屋だからこそこのような天井にするが可能なのである。
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LDKの西側。ここも全ての窓が障子である。アルミサッシの手前にサンを設けて、全ての窓に障子をはめ込んだもの。
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囲炉裏部屋のシャレた空間。ここで寝てもいいし、机を置いて、あるいは寝転がって読書に励んでも、音楽を聴いてもい。ここは囲炉裏から少し持ち上がった3畳のタタミの間。居心地が大変によい。
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囲炉裏の回りはこのようになっている。火鉢も相当古いものである。囲炉裏の周りには8人は座ることが出来そうだ。ここでお気に入りの器と、料理と酒で楽し見たいものである。
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片付ける前まではこの部屋が納戸になっていた。全貌が明らかになると、この部屋の梁には、余り太くはないが、角材でなく自然の樹木が使われていることを発見した。
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囲炉裏部屋の自在鍵から廊下を介して納戸になっていた部屋を眺めたところ。
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一番北側の六畳の部屋。その向こうにはたたみのユーティリティがあって、橋には風呂がある。
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以上が修学院の家内の実家のあらましである。日本画家としての義父の趣味嗜好が表出した家屋であるから、いずれはこの地に住まいたいと思う。庭も相当に広く、手入れが何意義だが緑が豊富だから、そして静かな環境であるから、老後にはもってこいの住まいである。

LDKとなっている部屋は、天井高が3m以上有るから、ここの天井を取り除いて梁を露出させたら、ものすごい空間になると思うのだが、それは当分先の話、夢・幻で終わるかもしれない。
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by noanoa1970 | 2006-05-23 06:48 | 京都 | Comments(0)

修学院の家

玄関の扉をを開けると・・・・
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上がりかまちの向かいには、障子で仕切られた部屋があり、良く来客用に使っていた。
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部屋は書院造の四畳半。とても落ち着いた雰囲気だ。この写真ではまだ長火鉢が置いてある。
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by noanoa1970 | 2006-05-22 09:57 | 京都 | Comments(2)

修学院の家

家内の両親がなくなって、実家である京都修学院の家が空き家となったので、後片付けをすることになった。今年2月から他人にお貸ししているのであるが、せっかく片付いて美しくなったときの状態を記念としてBLOGに収め、順次公開しておこうと思う。

この家は築約60年。終戦直後に建てられたもので、元来家族が居住するようには建てられていないようで「アトリエ」の雰囲気を持っている。、日本画家の義父がここを気に入って、住居件住まいとしたようだ。

南側道路から見た実家。植木の手入れ中。中ほどに「台スギ」が立っている。
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道路から玄関口への通路。少し下がった位置に家がある。
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玄関前から見た家。
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玄関口。
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by noanoa1970 | 2006-05-21 18:40 | 京都 | Comments(0)

不思議な置物

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京都の家にあった「鯛の置物」?である。
全長18センチ重さが300グラムほど、陶器の焼き物である。
上薬はグレーの釉薬が掛けてあり、一見「志野風」であるが、ハッキリは分からない。
裏を見ると、高台があり中には砂のようなものがこびりついているから、そんなに新しいものではないと思われる。小生がとても気に入っているものなのだが、これを何に使ったのか、サッパリ分からないままである。義父は絵を描くときに、 紙を抑えておく・・・文鎮のようにして使っていたと聞く。見れば見るほど愛嬌のあるかわいい「鯛」だ。

単なる飾りや置物にしては不思議であるので、他のものと組み合わさっていたものの一つであるとも考えられる。器としては使いようが無いのに、裏には「高台」らしきものがあるのも不思議だ。「鯛」だからめでたいときに使ったのか?

いずれにしても謎の陶器の「鯛」である。
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by noanoa1970 | 2006-03-09 09:51 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

お気に入りの小物

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[YAMATO]製の木枠丸型掛け時計。この時計は今から35年ほど前に、京都の洛北高校前の骨董屋・・・というより「古物商」という言葉の方が良く似合いそうな、年老いた主人の店で入手したもの。学生だった小生は良くその店を覗いていたのだが、それというのもその頃学生の間で密かに流行った皮製の・・・あるいはその紛い物の分厚い紙で出来た「旅行カバン」を探していたのだった。
よくカバンの表に外国の航空会社や船舶会社のレッテルが張ってあるアレのことです。

その日たまたまその店に行ってみると、その老店主曰く「今日はまだひとつも売れないので、オマンマの食い上げだ」という、前から欲しかった木枠の「アンティーク掛け時計」に目をつけた。
1500円というのを1000円しか持ってないというと、いつも顔を見るから1000円でいい、という。完全に動くかどうか確かめつつ、これはしめたとばかり喜んでもらってきたもの。
「YAMATO」とメーカー名があり、「テンプ」が見える珍しい時計で、早くも下宿の柱に取り付け1週間に一度、時計のねじと、ベルのねじを巻く手間はあったが、ずいぶん重宝した。
当時の価格水準から察すると、当時の1000円は現在の5000円~7000円ほどであろう。

今でも現役で動き続けているが、流石にねじまきを忘れるので、知らない間に針が止まっていることが多い。

先だっても遊びに来た人がこの時計で時を測り、お酒を飲んでいて、とっくに夜中の12時を過ぎているのに、止まっているこの時計を見ながら、「ずいぶん時の流れが遅い」と思っていたらしく、気づいたときには明日になっていた、という笑い話もある。
姿かたち、見栄えも、今出来のアンティーク風の時計と勘違いさせる美しさを、この時計は持っている。

もうあの老店主はこの世にはいないだろうが、その老人が仕入れてきた古い時計はまだ元気で、「ねじ」を巻くのを忘れない限り、動き続けている。
そしてあの老人を、小生は決して忘れることは無いであろう。
「ドック・ワトソン」の「おじいさんの古時計」をしばらくぶりに聴いた。某国の某歌手の歌と違って、過ぎてきた時間の重みを感じさせてくれる・・・素晴らしい!!
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by noanoa1970 | 2006-01-19 09:15 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)

お気に入りの小物

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「白粉」入れ拡大してみました。
とてもよいデザインで、現代でも十分通用することがお分かりでしょう。
大きさも段数も様々で、おせち料理にもってこいの直径20センチくらいの3段5段のものや、メンソレータムの容器のように小さいものまであります。
伊万里、瀬戸、久谷などで焼かれた磁器製で、とても使い勝手がいいものです。
骨董としての価格もそんなに高価ではありませんから、手ごろに入手できると思います。
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by noanoa1970 | 2006-01-16 09:35 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)