フルトヴェングラーのベト7

管楽器の後に、弦楽器が少し遅れたアインザッツ。
リピート時にもそうだから、これはわざとやったことなのだろうか。

意外にこのことが、帰ってこの曲の演奏スタイルをほぼ決定づけているような気さえする。
出だしのテンポがゆったりしているので、冗長度の高い演奏家と思いきや、音楽が進行するとともに、そのことがとんでもない間違いであることに気がつく。

2楽章で観客の咳ばらいがかなり聞こえるから、この演奏録音がライブであることがハッキリ分かるが、ライブだからそうなのか、もともとこの指揮者がこのような傾向があるのか今はわからない。

もしこのような傾向を多分に持つ指揮者なら、推測はある程度度可能で、多分ドイツで活躍した、演奏史上最も偉大とされる指揮者ではないだろうか。

自由奔放ともいえる・・・トスカニーニなどのザッハリッヒな指揮者とは全く傾向を異にする、しかしその音楽は妙に心をとらえて離さない。

「自由の中の規律」と「規律の中の自由」という言葉があるが、この演奏では規律が楽譜ではなく、楽譜の奥にある何か、そしてそれは演奏者の、「こうであろう」と言う仮説、いや断定に近いかもしれぬが、それほど自信に満ちているから、時々「エーツ」と思うことがあっても、それはすぐに快感に変化する。

アッチェレランド、スホルツァンド、そして絶え間ないアゴーギグが随所にみられ、時には軽めだがポルタメントもかかっている。

「変幻万化」という言葉に象徴される演奏だが、恣意的なところが感じられないのが、この指揮者の凄さだろうか。

短から始まる音は、極短く歯切れ良く、そして長から始まるそれは、思い切り長く伸ばす傾向があるように聞こえる。

その傾向は4楽章に特に顕著で、それまでの3つの楽章が、すべて最終楽章の前奏曲であったかのように、何かに憑かれたようにつき進む。

憑かれたとか神がかり的という言葉があるが、決してそうではなく、音楽のファンダメンタルは決して崩れないし、我を忘れるほど、没頭はしていない。
小生にには、この指揮者が、どこか冷めたところを、常時持ち合わせているように思われる。

音楽に没頭できないなにかがあって、そのことが帰って音楽にダイナミズムをあたえる。

終楽章の異常とも思える展開は、凄まじい嵐か台風のようであるが、それは子供のころに思っていた、どこか怖いものを経験したいという、危険な願望にも似て、この指揮者にとっても、やはり非日常なのだろう。(こんな演奏がそうやすやすと出来るわけはない)

このようなライブは、数ある優秀な演奏史の中でも、多分あまり経験ができるものではないと思われ、そういう意味では、この演奏会に参加した聴衆は、恐らく感動の涙を流さんばかりだっただろう。

オーケストラは、こんな破天荒な指示にピタットついてきており、急激なリズムやアゴーギグにも決して破綻が無く、見事な演奏を終始していて、このオケがとりわけレベルの高いオーケストラであることがわかる。(アインザッツの不一致は多分わざとであろう)

小生は長い間、ベト7はカラヤンウイーンフィルの1950年代のDECCA録音を一番気に入っていたが、本日聴いた演奏もとても素晴らしく、お気に入りに加えることにした。

種明
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これは予想的中。
フルトヴェングラーとベルリンフィルの1943年のライブ録音だった。
この時期はドイツ敗戦が始まる年で、スターリングラードでの敗北、そしてハンブルグ爆撃、ベルリン市民の疎開、北アフリカのドイツ軍降伏など、社会が激しく動いたときだ。
音楽界といえども、決してこの歴史から離れて存在はかなわなかったことだから、フルトヴェングラーの演奏会は、いつもとは違う緊迫感に包まれながらであったのだろう。

そんな情勢の緊迫感を、音楽への情熱に変化させての演奏会だったが、演奏会が終われば、ドイツ敗戦の前奏曲が始まる・・

だから、「一期一会」の演奏会でもあった。

フルトヴェングラーがそのことに気付かなかったわけはない、小生はそう思うのである。
したがってこのライブは、純粋音楽的意味合い以外の緊迫感が、背景に存在し、それが演奏にも表れているように思えてならない。
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by noanoa1970 | 2009-07-28 09:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブルーノ・ワルターの田園

耳が慣れてきたSP覆刻CDだが、チョット休憩で、先日ペーターマーク指揮のベートーヴェン「田園」を聴いた。

この演奏は数ある「田園」の中でも、とりわけ小生が好むものだ。

5月あたりの、まだ田植え前の水田のように、そしてそれは田舎の・・・千枚田のように美しい田園である。

「ターナーの水彩画」という喩をかねてからしているが、まさにそのような表現が似合う演奏である。

本日はその「田園」が聞こえてきて、1楽章の第1主題が鳴った時、すぐにこの演奏が相当なものであることを認識させられることになった。

幾分速いテンポで進む演奏は、極わずかにポルタメントをかけながらも、決して甘美とならない。
ところどころレガート気味だが、あくまでも自然体だ。

一瞬だが、ヘルベルト・フォン・カラヤンの60年代のベルリンフィルとの録音を彷彿させた。

全体の印象は、モダンな演奏である・・・そう表現しておくことにする。
モダンとは、19世紀を引きずってっていなく、かといってノイエザッハリッヒな演奏でもない、いうなれば、その両面をごく自然に解釈に取り込んだような演奏のことだ。

ごく自然にというところが、この指揮者の多分真髄ではないかと思うところは、音楽に刺が無いところ、過度な表現をしないところ、しかし歌うところは非常に丁寧にオケを歌わせるところ、このあたりが音楽の進行と絶妙なバランスをとりながら進められるから、この長い交響曲を、一気に聴けてしまう。

この交響曲は、楽章ごとに表題がついていて、ややもすると、楽章ごとの表現に差がつきすぎ、楽章間のバランス・・・つまり曲としての総合的バランスが取れてないことが多いようだ。

つまり、5つの楽章すべてにわたって素晴らしいとされる演奏は、多くはない。

ところが本日聴くことになった「田園」は、そうではなかった。

オーケストラの特に弦楽器群を、まるでウイーンフィルのように、柔らかく滑らかに、ところどころ挿入されるレガートは、水彩画の田園ではなく、パステル画か薄い油絵で絵がかれた・・・初夏の「麦秋」を思わせるような輝きときらめきを持つ。

刈り入れを控えた麦畑のように、黄金色の輝きを持つ、生き生きとした田園風景を思わせる。

希望にあふれた非常に若々しい「田園」だから、この鬱陶しく蒸し暑い雨の日には、もってこいの演奏でもある。

水彩画のターナーではなく、「ジョン・コンスタブル」が描く風景画のような、明晰感ある田園だ。

録音のせいで、管楽器が埋もれててしまっているのは残念だが、これは仕方あるまい。

オーケストラ自体のトーンが明るいのだろう、弦楽器の奏法はウイーンフィルのようだが、しかしドイツのオーケストラにはない音響バランスがあるように聞こえる。

また裏の音をよく出していて、第2バイオリン以下の弦パートが、かなり表面に出てきている。

これは小生好きな演奏の一つになるだろう。
録音自体も、そんなに悪くない。

よく似た演奏としては、大昔コンサートホールソサエティで入手した「ポール・クレツキ」とフランス国立放送局管弦楽団の演奏で、この演奏もやや早めのテンポ、フレージングにメリハリがあって、弦パートが非常に柔らかかったが、まさかクレツキではないだろうし・・・

種明
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意外や意外・・・なんとワルターとフィラデルフィア管弦楽団の演奏でした。
ワルターの「田園」というと、ウイーンフィルとの録音か、コロムビア交響楽団との演奏が有名で、これらは、ワルターの演奏の真髄とも称せられるもの。

しかしフィラデルフィアとの録音は、今までの・・・というかワルターの固定観念を大きく異なるものであった。

多分この演奏がワルターであると初聴で当てられる人はいないと思われる、そんな非ワルター的な演奏だ。

ワルターの指揮を評してピアニストの内田光子は・・・「内田:美しいものを追うことにね。ワルターには、道ばたの花がきれいだなと言って、そこに時間を費しているうちに全体が見えなくなっちゃうところがあるんです。それが困るんです。そうお思いになりません? 「あなたは初期の、アメリカヘ行く前のワルターの七十八回転レコーディングを聴いていないんだろう?」と言ってくれる人もいます。だけど、私の知っている、アメリカへ渡ってから入れたモーツァルトの六つのシンフォニーとか、マーラーとかは・・・・。マーラー未亡人のアルマが「ブルーノ・ワルターこそうちの夫の跡継ぎだ」と言ったそうですけど、私は、アルマ・マーラーは何もわからなかった人だと思っているんです。それだったら、クレンペラーのほうがマーラーの音楽に近いと思いますね。マーラーでも、ワルターは道草しちゃうんですよ。そこ、ここで小さな花がきれいだと、彼は立ち止まって見ちゃうんです。」・・・以上のように言っている対談があるが、この「田園」を聴けば、発言を訂正しなければならない、そう思うはずだと、小生は強く思う。

専門家でさえ、いや専門家だからこそかもしれないが、固定概念が強いようで、同じ演奏家でもその時代とともに、演奏あるいは表現スタイル、解釈は、大きく変化するのだと言うことを前提にしなければならないのだと思う。

同じ演奏家の演奏した楽曲を、いろいろ聴くのはそのためでもあるわけだ。

ワルターは、そのような固定概念でくくられてきた「巨匠」の代表でもある。

小生はかつてワルターのある演奏を聴いて、ザッハリヒな面もあるのではないかと思った事があったが、年代が変化させたのか、それとも、もともと両面を内包した指揮者であったのかは、依然謎のままである。
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by noanoa1970 | 2009-07-26 16:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

クーセヴィッキーの展覧会の絵

この曲を小生は長い間・・・1960年代半ばから「ベルナルド・ハイティンク」指揮「アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の古い録音で聴いてきた。

その後数種類の録音を入手したが、ハイティンク盤になじんでしまったのか、どうしても他の演奏ではシックリ来なかった。

しかしハイティンクの他の演奏・・・例えばシューマンの交響曲にしても、小生には一向にピンとくるものが無かったのであった。

本日聞こえてきた曲は、ムソルグスキーの「展覧会の絵」。

当然のように古い録音であるが、この演奏はすこぶる良い。
音楽に活気があふれ、オーケストラの実力と相まって、ややもするとこの曲は録音が優秀でないと聴き劣りしがちな曲ではあるが、それはとんでもない誤解であったことを知らされた。

プロムナードのトランペットを聴くだけで、この相当の力を持つオケであるとわかり、やや快速のテンポとリタルランドをかける小節末が特徴的で、低弦楽器がうねるようだ。
ほんの少しポルタメントをかけている。

最近の録音は、いずれも金管楽器がハイライトされている録音が多いようだが、この演奏はあらゆる意味で、オーケストラの音響バランスが、絶妙に保たれている。

「小人」でのコントラバスやヴァイオリンの巧み。

「古城」でのサキソフオン、ファゴットの巧み。

「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」でのミュートトランペットは、たいてい音が外れるものだが、ここではピカ1の実力を発揮。


「キエフ大門」は、大見えを切らずに、やや早めのテンポで通していて、鐘の音が実に長い歴史を感じさせるように響く。

ここの終わり方は、アッチェレルランドをかけながら、リタルランドするといった、テンポが目まぐるしく変化している。

昔の指揮者で、このような素晴らしい「展覧会の絵」を聴かせる・・・フリッツライナーぐらいしか思い当たらないが、それにしてはテンポをかなり揺り動かすから、恐らく違うのだろう。

金管楽器からは、どうもヨーロッパの伝統的オケではないような気がする。

はたして誰なのだろう・・・

種明
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クーセヴィッキー指揮のボストン交響楽団でした。
ラヴェルに編曲を依頼したのが、このクーセヴィッキーだったようで、この指揮者はさまざまな編曲や現代音楽の取り組みを盛んにおこなった人でもあった。
今やすっかり忘れ去られつつあるように思うが、その功績も、音楽解釈も合わせ、素晴らしいと思う。彼の作曲したコントラバス協奏曲のライブが、読響のサイトにあるから、これからそれを見聞きしてみるつもりだ。
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by noanoa1970 | 2009-07-24 10:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ハンス・ロスバウトとギーゼキング

本日より「ブラインドテスト」というタイトル表示をやめ、聴いて判明した演奏家の名前を記すことにした。

聴き方は今までと変わりなく、演奏家を明かさずに音楽を聴き、推理した結果と、事実が大きく隔たりがあることを確認するものだ。(本当に当たらなく、今まで多くの既成概念で音楽に接していたことを改めて思い知らされた)

しかしながら本日聴いたベートーヴェンのピアノ協奏曲1番。
バックはわからないものの、ピアニストは、多分「ギーゼキング」ではないかと予想した。

それだけギーゼキングのピアノは、特徴が無いことが特徴と言えて、それはまるで・・・喩は本当によくないと自分でも思うのだが、大胆に言えば、まるで機械が弾くピアノのようだからだ。

このピアニストは、この録音においてはそのことが顕著なのだが、全くミスタッチが無い。
モーツァルトのようにベートーヴェンを演奏し、また近代仏音楽のドビュッシーやラヴェルでよく見られるような、ピアノ演奏をしている。

感情移入の代名詞のテンポルパートは極わずか、コロコロと転がるようなピアノタッチは、聴いていてとても心地よい。

ベートーヴェンの演奏としては、稀有と言える演奏だと思うが、これは成功・・・小生の好む演奏だ。

バックの指揮者はというと、これもピアニストに匹敵するかなりのザッハリッヒな演奏をしていて、通常ならバックも、ピアノもこのような傾向が強いと、音楽に息が詰まってしまうことが多いが、この組み合わせは返って大成功といってよい。

ベートーヴェンといっても、3番以降の曲なら、このようなスタイルで通されると、首をかしげたくなると思うが、1番はまだベートーヴェンの先人の影響が強いから、ハイドン、モーツァルト的なザッハリッヒ解釈は、1つの方法であろう。

バックの指揮者は?と推理したが、思い当たらない。
初期のカラヤン?とも思ったが、カラヤン以上にザッハリッヒだから、検討がつかないのであった。

2曲目のリストの交響詩「人、山の上で聞きしこと」を聴いても、指揮者に思い当たる人物は、小生の中では無きに等しかったが、この曲を初めてFM放送で聴いたとき、小生はてっきりR・シュトラウスの作品だと思ったことを今思い出した。

初めて聞く曲の作者を推理するのもまた面白く、古典、ロマンあたりなら大体見当がつくことが多いが、「リスト」は、長い間、小生の「穴」だったから、交響詩は「レ・プレリュード」以外聴いたことが無かった。

それにしても、リストのこの曲、後期ロマン的な管弦楽和声が時々顔を出すかと思うと、古典的手法に舞い戻り、初聴きなのに、小生はそこに、人間の罪を裁く「神」の存在があるような感じを抱いていた。

多分そんなこともあって、R・シュトラウスの「ツァラトウストラ」のようなものを感じていたのだろう。

調べてはいないが、リストの影響をR・シュトラウスは多分に受けたのではないかと想像する。

「リスト」・・・改めてじっくり気か無くてはならない作曲家である。

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ピアニストは予想通り「ギーゼキング」。
たまには当てないと・・・
バック指揮者はハンス・ロスバウトでした。
小生、この指揮者の音盤は、カサドジュとのベートーヴェンピアノ協奏曲5番しか所有してないから、演奏スタイルについてはよくわからない。しかし1番の協奏曲を聴く限り、相当ザッハリッヒだと思う。
DGから選集が発売されているので、いずれ入手したい。
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by noanoa1970 | 2009-07-23 13:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

慣れと鮮度・・・チョットお休み

このところ1週間ほど、SP覆刻盤ばかり聴いてきた。
ステレオ盤に代表される新しい録音は一切聴いてない。

どうやらわが耳は、すっかり古い・・・1930年代から40年代の音に慣れてしまったようだ。
最初は少し苦痛であったが、今では楽しんで、そして興味を持って聴くことができるようになってしまった。

雑音も、盤越しの針のスクラッチノイズも、全く気にならない。
気にならないどころか、古めかしい音が、今では相当好きになって来もした。

10年ほど前に、蓄音器を入手しようと思い立ち、アレコレ調査したことがあった。
その時Victrolaの「グレデンザ」を発見したが
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(画像はKAYO-NET さんからの借りものです)、高級軽自動車1台分の値段と、メンテナンス、ソフトなど諸問題のためあえなく断念したが、あの時思い切って入手しておけばよかったと悔やむころしきり。

覆刻CDで我慢・・・いや結構よく復刻されているのではないかと思うので、我慢することにした。

しかしいつまでもSP覆刻CDばかり聴いているわけにいかないので、本日は、久しぶりにペーターマーク指揮で「田園」を聴くことにした。

小生は以前からこの演奏を表し、「ターナーの水彩画」のよう・・・と言ってきた。
本日聴いても、その新鮮さ、瑞々しさの感じは、依然と変化はない。

しかし、SP覆刻ばかり聴き続け、耳が慣れてしまいつつあった小生には、新たな発見が多くあった。

演奏評はここでは述べないが、この演奏録音、ライブ録音では最優秀といってもいいだろう。
実は最後の拍手まで、小生、この演奏が「ライブ」であるということを忘れていたほどであった。

「田園交響曲」には、名演とされるものが少なくないが、滅多にその中に入いることが無いペーター・マークだが、小生は高く評価している。

いつも聴いている、比較的新しい録音のCDが、これほどまでに美しい音で聴けるのも、SP復刻盤のおかげだ。

温故知新探放もそういう意味では付加価値が高い。
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by noanoa1970 | 2009-07-22 17:56 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラインドテスト・・・8

本日聴いた、モーツァルトのピアノ協奏曲21番は、1楽章のカデンツァで、すぐに過去に聴いたものと判明した。

従って、「ブラインドテスト」としては、成立してないことをお断りしておく。

シュナーベルのピアノ、マルコム・サージェント/ロンドン交響楽団の演奏だ。

小生はかつて、コンヴィチュニーとギレリスの同曲の演奏をとりあげたとき、シュナーベルのカデンツァを、「まるでJAZZのようだ」と評したが、これは独特・・・恐らくシュナーベルオリジナルのカデンツァであろう。

少しぶっきらぼう気味に始まる1楽章は、シュナーベルのハッキリしたタッチのピアノと、よくマッチし、凄く客観的なモーツァルトとなっている。

速いテンポと、少し突っかかるようなバックが、ピアニストを気遣いなしに付き進むので、ピアノとオケのバランスはあまり良くないが、それでも大枠の方向性は同じような感じであるから、音楽としては成立している。

サージェントはこのような芸風の指揮者ではなかったように思うが・・・
シュナーベルに無理に合わせたのだろうか。

ところどころでかける、軽いポルタメントは、シュナーベルの芸風とは根本的には違ううのではないか、
という気がしないでもない。

しかし、シュナーベルの、非モーツァルト的なカデンツァには、いつも驚かされてしまい、
モーツァルトの向こうにベートーヴェンを思わせるような、仕上げとなっているように聞こえてしまう。

カデンツァに驚くことはあっても、小生が多少の違和感をどうしても持ってしまうのは、長いこと聴いてきた数種類のカデンツァの音に、慣れてしまっていた証拠でもあろう。

ベートーヴェンの最後期ソナタには、JAZZ的要素があると、小生はかねてから思っているが、
シュナーベルのカデンツァに、そういうところを見たのかもしれない。

問題の、というか期待の2楽章。
以外にもシュナーベルにしては、情感タップリに演奏している。

シュナーベルのピアノは、客観的ザッハリッヒと言う言葉で括られルトおもうのだが、
その言い方は少し乱暴であったことの証明のように、サージェントの、微妙なポルタメントを付けながらの
バックに呼応し、優しく美しい音楽を作っている。

終楽章になると、また元に戻り、快活で素早い、そして明るいモーツァルトになる。

急緩急もしくは、明薄明、動静動というような、メリハリが強調されていて、21番演奏のスタイルの
一翼ともなっただろうことで、後継者たちにかなり多くの影響を与えた演奏の1つなのであろう。

既に聴き覚えがある録音だから、簡単に済ますつもりが、少し長くなったので、このあたりで・・・

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by noanoa1970 | 2009-07-18 11:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラインドテスト・・・7

いきなりホルンがひっくり返る音で始まる、ブルックナーの4番の交響曲、俗に「ロマンティーク」と呼ばれている曲が始まった。

ブルックナーの交響曲は、管楽器が活躍する曲が多いが、中でも4番はホルンが冒頭から活躍する。
このホルンの演奏そのもので、この曲の生命が決まるといっても過言ではない。

本日聴くことになった録音演奏では、大事なホルンの演奏が随所でひっくり返ったり、最初の音が出ないため、スー・ボアーというように聞こえる個所がいくつかある。

ホルンは管楽器の中で特に難しい楽器だから、音がひっくり返ることは致し方ないから、指揮者もそれを咎めることはないようであるが、それでも、あまりにも多すぎる。

ただこのオケのホルン奏者が、伝統的なウイーン式ホルンを使用しているとするなら、話は少し変わってくる。

ウイーン式ホルンは、特に演奏が困難な楽器で、その芳醇な音に反し、演奏が難しいとされるからである。

録音状態があまり良くないので、ホルンの音色から判断することは適切でないが、もしウイーン式ホルンであれば、このオケは、ウイーン交響楽団か、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団のいずれかであるのだと考えられる。

演奏はアゴーギグにかなり富んでいて、独特のスタッカート処理が随所にみられるもの。

長大でしつこく、一気に通しで聴くことがためらわれるこの曲を、テンポ、強弱を揺り動かしリズム感あるが、歌いどころはテンポを落として歌いあげるといった、変化点の多さによって、飽きさせないような工夫が見える演奏だ。

ホルンのスベリ以外は、管も弦もかなりしっかりしたオケで、ティンパニーがほとんど弱音なのは、録音によるものか、演奏者によるものか、ハッキリしないのだが、もう少し強烈さが欲しかった。

この曲における、優美さと壮大感の両極・・・3楽章と4楽章の対比がよく出ているようだ。
4楽章のシンバルやティンパニーが弱音なのは、この演奏の版の違いなのかもしれない。

最近はコンヴィチュニー盤をよく聴くが、冗長度を感じるか否かでは、こちらの演奏のほうに冗長度の少なさの軍配を上げることになる。

コンヴィチュニー盤は、ジックリ構えて心してから聴く以外には、とても通しで聴くことができないが、本録音ではそういうことが無かった。(だから演奏が良いとは限らないのだが)

音量を上げ気味にして再び聴くと、なかなかの演奏で、ことに終楽章は、この指揮者の真骨頂といってもよい特徴が現れる。

テンポリズム、強弱を含むアゴーギブの目まぐるしいダイナミックな変化は、決してコンヴィチュニーには見られなかったもの。(コンヴィチュニーには、リタルランドは見られるが)

聴いていて面白く2回続けて聞いても、飽きが来なかった…変な言い方だが、チョイ聴きのブルックナーとして、通用してしまう演奏だった。

ただこの演奏を、繰り返し聴くかと言われれば、否定的な答えになってしまう。
これはこの演奏に限らず、ブルックナー全体に言えることなのかもしれないが・・・・

このような演奏の指揮者が好きなブルックナーファンは、多分多いことだろう。

オケは、ウイーンフィル、あるいはそうでなければ、ベルリンフィルと推測したが結果はいかがだろうか。

指揮者もある程度は推測でき、小生所有のブルックナー指揮者、あるいはワーグナー指揮者として知られる人物の特徴によく似ているが、書くと外れるから、あえて書かないでおくことにした。

種明
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クナッパーブッシュ・・・後になって、予想通りと書くのなら誰にでもできることだから、この表現は使わない。
しかもウイーンフィルであれば、小生所有の音盤がそうだから、聴き分けできたはず。
実際は1944年、ベルリンフィルとの録音だ。

やはり初聴きの録音演奏録音を、断定することは難しいものだ。
比較相対的に判断することもかなり難しい。
ただしあらかじめ、テストする演奏者がわかっているの中での比較であれば、推量がある程度可能なのは、推測の幅が極端に狭まり、少なくても特徴が1つでも当てはまるそれだけで、断定可能なことは、どの文芸でも共通するのだろう。

1944年というと、世界大戦末期、ドイツはすでに敗戦を迎える年でもあった。
にもかかわらず、このような録音が可能だったとは、別の意味でも驚くこと。
この演奏には、そんな戦争の精神的な影響はみじんもなく、ただ音楽をあるがままに演奏している。
そんな雰囲気も感じられる。
クナは、やはり怪物なのか。

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by noanoa1970 | 2009-07-17 11:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラインドテスト・・・6

今日はお休みにしようと思っていたのだが、昨日「未完成交響曲」に引き続き聴いた。2枚目のCDに「運命」が収録されていたので、忘れないうちに感想を書くことにした。

昔・・・LP時代の定盤は「運命/未完成」のカップリングだった。

運命のLPを買うと必ず未完成が、未完成を買うと運命が付いてくる・・・そんなわけで、この両曲の演奏録音は、必然的に増えることになる。

レコード会社各社は、これが売れ筋と見て、どこもかしこも、「運命/未完成」を出していた。

それに、・・・「運命」は、指揮者の解釈の差異が出やすく、しかもよくわかる曲でもあったから、一通り「名曲」に馴染んだ耳は、異なる演奏を欲するというわけだ。

ほとんどのクラシックファンは、このような体験を持つのだと思うが、CD時代になると、「運命/未完成」のカップリングは相当少なくなり、収録時間延長のおかげで、代わりに「新世界/未完成」などのカップリングや、版権が切れた録音も相当出てきたから、組み合わせは無数に存在するようになった。

しかし、今考えると、「運命/未完成」のカップリングは、絶妙のカップリングで、静と動、4拍子と3拍子、完璧と未完など、レコードのA面とB面の・・両極異ともいえる楽曲の組み合わせは、素直にレコードを裏返すことを手伝った。

話が長くなったが、そんなこともあって、「運命」の演奏は、かなり多く聴いてきたから、これは演奏者を当てなければ・・・と勇んで聴いたのだった。

ほとんど残響のない録音のなせるわざ・・・トスカニーニのスタジオ8Hでの録音のようであったから、一瞬トスカニーニと思ったが、トスカニーニの「運命」なら、そこそこ聴いてきて、印象が強かったから、そうではないと想い直した。

しかしその演奏の印象は限りなくトスカニーニに近いものだったから、頭の中で、トスカニーニに演奏スタイルが似ている指揮者は・・・と推理して・・・

ライナー、セル、ドホナーニ、カンテッリ、ラインスドルフ、あるいはミトロプーロスといった人が頭に浮かぶ。

しかし、このようなドライきわまる演奏をするのは、理由なき勘だが、恐らく非アングロサクソン、非ゲルマンの指揮者ではないかとも思うところ。

この演奏はライブで、指揮者がオケを煽るような気合を入れた掛け声が随所に聴くことができる。
「オケを煽る」そして指揮棒に無りやり従わせて、自分の意思を貫くような姿勢がうかがえ、それが音楽にも表れる。

こんなことが可能なのは、暴君指揮者でしかあり得ない。

ザッハリッヒそのものの演奏スタイルで、しかもものすごく速いインテンポ・・・トスカニーニよりも速い感じだ。(トスカニーニはそれでも、歌うところは歌う)

あっという間に終楽章で、あっという間に曲が終焉を迎えてしまうから、音楽を味わうというより、凄まじい音の洪水・・まるで鉄砲水に身を浸すというか、流される・・という表現が似合う曲想表現だ。

運命を聴いて、スカっとしたいなら、この演奏はうってつけだろう。

多分トスカニーニから影響を受けたか、彼に学んだかその近辺だろうとあたりを付けることにしたが、トスカニーニから影響を受けた指揮者は数多く、・・・カラヤンでさえ、その部類に入るであろうから、それでは収拾がつかない。

結局推理は失敗に終わりそうだが、トスカニーニ張りの指揮者・・・病気前のフリッチャイ/RIASの「新世界」ぐらいしか思い浮かばない。

小生が今まで全く聞き覚えのない指揮者なのだろう、「運命」の演奏者なら、多分わかるはずと、高をくくったことを反省しなければならない。

種明
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思いもしなかった指揮者「ロジンスキー」がNYKフィルを振った録音ライブである。
1945年録音。27分ほどとかなり早い演奏時間でトスカニーニ/NBCの30分をはるかに上回る超特急スピードだ。
ほとんど忘れていた指揮者だが、名前は記憶の底にキチンとある。
ロシアの指揮者ではなくポーランド出身とのことだ。
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by noanoa1970 | 2009-07-16 10:59 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラインドテスト・・・5

いきなり聞こえてきたのは、強めの低弦で開始奏されるシューベルトの「未完成交響曲」だった。

通常この曲の序奏はPPなのだが、この録音ではPかmfであるかのように強めに出ている。
しかしこのことは、指揮者によるものか、聞こえにくいSP録音であるから、マスターリングの処置なのかは、はっきりしないところだ。

かなり早いテンポで進む1楽章には、シューベルトの暗黒面は見当たらない。
むしろ、喜怒哀楽の喜と哀の対比に重点を置いた演奏だ。
第2主題は、かなり明るめに・・・喜の象徴のように・・演奏されるから、「魔王」の暗黒面を感じることはできない。

録音のせいか、オーケストラは、今まで聞いてきた中では一番柔らかい音を出していて、特にホルンの音色と技術には、このオケが相当の実力を持つことが確認できる。

それに付け加えて、弦パートには、一種独特の細かいルパートとアクセント処理が見られる。
これはオケの方言か、あるいは指揮者のアゴーギグなのか、判断付きかねる。
もしオケの方言ならば、伝統的演奏スタイルを、守続けてきた相当歴史のあるオケということになるだろう。

指揮者の方言であれば、純粋ドイツ風ではないような気がする。

長音から短音に変化するときに、その特徴が顕著で、静かなウイーンナーワルツを一瞬思い浮かべてしまった。

少々精神分裂気味のこの曲、この指揮者の場合はそう感じさせないどころか、バランス感覚がよいのか、構成力に富んでいるのか、全く危なげない。
もう少しテンポが緩やかであれば、優雅そのものといってもよいだろう。

速いテンポの1楽章の後だから、なお一層そう聞こえるのだと思うが、2楽章はかなりテンポを落とし、ジックリ歌い聴かせる。(何度か2楽章のみ聴いてみたが、それでもまだテンポは速いほうだ)

楽章における喜と哀ばかりか、楽章間の喜と哀を、はっきりと示した演奏のようで、小生はシューベルトの暗黒面を強調するかのような、ムラヴィンスキーの演奏もお気に入りだが、優雅な美しさを表出した演奏も、悪くないと思うようになった。


種明
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エーリッヒクライバーとベルリンフィルの1935年の録音。
速い演奏のはず、22分程度で終わっている。
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by noanoa1970 | 2009-07-15 11:09 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブラインドテスト・・・4

またもや名曲・・・でもこれは当たり前のことで、そもそも「20世紀のマエストロ」という全集盤なのだから、当然通俗名曲が多くなるのは、仕方がない。

それに、演奏をいくばくか判断するのには、都合がよいから、一石2鳥だともいえる。
最近はほとんど、聴くことのない曲もあるかと思うが、しばらくは楽しむことにする。

今日はモーツァルトの最後の交響曲、41番「ジュピター」。

これは優しい、実に優しいモーツァルトだ。
ともするとこの41番、かなり劇的に演奏する指揮者もある中、取り分けて静かな、落ち着いた、美しい曲に仕上げている。

出だしの音型の部分など、決してゴリゴリすることないので、少々ものたり無さを感じるが、この指揮者のモーツァルトに対する慈愛のようなものが溢れる演奏だ。

1拍と3拍が強めに出たり、小節の終わり目が、リタルランドするところは、いかにも古き良き時代を匂わせる演奏スタイルだ。

どうもこの1930年代から50年代の指揮者法の潮流としては、ザックリ分けると、それは3つあって、1つはノイエザッハリッヒカイトの流れを受けた、あるいは新古典主義的なものと言い換えても間違いではないだろうもの。

2つ目は、表現主義的な・・・楽譜に依存しない、かなり自由な解釈による・・・表現がよくないが、指揮者が作曲しなおしたような音楽づくり。

3つ目は19世紀の古き良き時代の指揮法を継承するといった動き。

この指揮者の場合は、あえて分類すると、3番目になるのだと思う。

貴族たちが集まる宮殿での演奏会・・・だから不協和音的な音さえもが、石造りの中規模のホールから美しく響いてきて、穏やかなひと時を、シャンパンでも飲みながら聴いているような音楽となる。

こういうモーツァルトは、沢山あるようで、実はそんなに多くはない。

この指揮者のモーツァルト像は、映画でのモーツァルトとは全く違い、限りなく尊敬できうる音楽の天才か、音楽の天使に映ったに違いないとさえ思うような、慈しみと慈愛に満ちたジュピターである。

オーケストラも明るい音を作っていて、この指揮者の解釈によくマッチしている。
特に2楽章は、この演奏中一番の聴きどころ。

実に優しく優雅な・・・ため息が出そうな演奏だ。

古い録音演奏を聴くことの喜びは、このような隠れた素晴らしい演奏を発見出来ることにあるのかもしれない。

種明
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なんとイギリスの指揮者ビーチャムの演奏だった。
1934年録音とかなり古いが、録音状態は良い。
ドラティの時とは違いロンドンフィルが、ここでは素晴らしい演奏をしているのは、やはりビーチャム肝いりなのが背景にあるのか。
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by noanoa1970 | 2009-07-14 10:28 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)