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2つのコンヴィチュニー/LGOのブラームス交響曲1番

この素晴らしい演奏の録音が廃盤となってから久しいが、復刻ブームの今日でも、2001年に相次いで発売となったBOX盤中にも、なぜかこの演奏録音は入らなかった。

ブラームス1番は日本人好みの上位の曲、コンヴィチュニーに興味ないクラシック愛好家でも、ブラームス1番の音源をコレクションしている人は多いから、きっと多くの方が聞きたいと思っているに違いない。

しかし未だに復刻発売されないのはなぜなのか。
恐らくCDで国内発売されたケースはなく、かつてLPではオイロディスク盤の単独販売、廉価盤コロムビアダイヤモンドシリーズで発売されて、ブロニスラフ・ギンペル/ヴイオリン、アルトゥール・グリューバー指揮/ベルリン交響楽団のバイオイン協奏曲とカップリングの詰め込み盤で80分もの長時間収録LPであった。

しかしCDは、1990年代ドイツのARS VIVENDIレーベルから発売になっただけで、これには同じ内容の2つのジャケットでの発売があった。
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国内廉価盤
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現在版権はいずれにあるのか分からないが、廃盤となって久しいので、ぜひともリマスターの上、再復刻発売していただきたいものだ。

さて、本日話題にするのは、上記の同じ音源の音盤ではなく、もう一つ別演奏のブラ1のことである。
正規のエテルナ音源としてオイロディスクから発売され、1962年コンヴィチュニー最後の録音として知られる音盤以外に、1960年LGOとのライブ録音が存在し、これは恐らくURANIA音源だと想像するが、それを復刻したものだ。

裏青盤とよばれ、こういう非正規盤を話題にすることはタブー視されてきたが、多分その理由としては版権の問題と、それが本当に表記通りの演奏者のものか、情報が信用に当たらないからという理由だったように思う。

しかし、情報の正確性云々は、大手CD制作販売会社だっておかしかったことがあり、責任と信頼にによる安心感、精神安定剤を得るについては、大手の会社の所謂正式盤であるから安全とは言えないし、安心できないということが明らかになってきた。

版権が明確な上でのコピー盤は除外しなけれてばならないが、正規盤非正規盤という名称、今ではあまり意味がなくなっているのではないだろうか。

裏青盤という名称は、闇とかアンダーグラウンドとか、非合法のような意味を背景に持つようで、あまり好きな言葉でないが、裏が青いのは事実である。

青裏盤、画像も出すのもためらっていたが、もうそういう時代でもないから、出すことにした。
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演奏時間は一部を除き聴感上も正規盤とはかなり違っていて、
ライブ盤42分12秒、正規盤48分19秒と、リピートを考慮しても余りある、約6分もの差がある。
演奏録音は1960年4月となっていて、正規盤の1962年とは別演奏のように見える。

ライブ録音の本CDも裏青盤であるが、入手したのは京都のレコード屋の老舗十字屋である。
HOSANNAという裏青盤専門?レーベルは、今や裏街道を歩いてばかりいないようで、マイナーレーベルの扱いとなっている感がある。
発売されてるCDを見ると、それこそマイナー演奏家、レア音源専門のレーベルといって良いだろう。

良し悪しは別として、普通であれば決して世にでることのない音源の音盤が沢山存在するから、特化したファンには答えられないだろう。

本日のCDもそのHOSANNAから発売されたものである。

情報は全くなく、録音年と演奏者、演奏時間が記載されているだけの、今にも素人の個人趣味的な、イヤそれよりももっと手を抜いた、表紙だけのジャケットで、非常にプアーでチープに写るものだが、レア音源、中身で勝負といったところに存在価値があるようだ。

前述の正規版が未だに復刻されてないのは、なぜかという問題であるが、オリジナルマスターに瑕疵があるのか、紛失してしまったのか、また悪夢のような演奏者違いが分かった、オリジナルはモノーラル録音だったとか、そのあたりの問題があったのか、ヤル気がないのか、あれだけの演奏録音が復刻されない理由として、あらゆることが想定されることになる。

小生はこの録音、1962年のETERNAだとすれば、音質を見ると、あまりにもETERNAの実力とは違うので、1962年ではなくもっと古い録音、モノーラル録音の擬似ステレオ発売で、モノーラルオリジナルマスターでは無くなってしまっていたと推測してしまうが、そんな推測をさせることは、例のブル4問題があったからこそであろう。

正規盤の音源を、モノーラル録音の、しかもライブ音源であったと言う人まで現れることになった、いわくつきのものだ。

以前小生は擬似ステレオではないかという推測記事をかいたことがあったが、東ドイツというハンディがあったにせよ、1962年録音とされる音盤の音質は相当良くないと思ったのが、擬似ステの論拠の1つであった。

もしこのことが事実とすれば一層のこと同一演奏であることの可能性が高まるし、事実でなくても違うか同じであるかという問題ハ、依然として残存する。
事実であれば、先程あげたライブ録音が、正規録音盤と同じ音源である可能性が出てくるし、もしそうでないのならその理由を、実際に比較視聴することによって確認しようと思ったのが、今回のブログ内容である。

同一演奏なのか
これは聞き比べると一目瞭然だが、聴感上ではハッキリ別演奏だと言えるのではないだろうか。

拍手が入るからとか、随所に観客の咳が入るからとかの理由でないものとして、展開部のリピートの有無、ライブ盤でのトランペットの異常とも思える前面露出はマスターリングや編集では恐らく消せないだろう。
テンポ設定もライブはすこし速めである。
終楽章低弦が第9に似たメロディを奏でるときの、出だしアインザッツがすこし乱れる正規盤、隙がなく合っているライブ盤。

聞き終えてざっと印象に残るものだけでもこれだけ有る。

細かい所の違いはたしかにあるし、テンポ設定、リピートの有無の問題は確かにある。
しかしオーボエソロの奏法と音質は両者ともにそっくりであるし、ペーター・ダムらしきホルンの演奏も音色も両者共に素晴らしい。

大きく違うのは、ライブ盤1楽章の2分13秒付近、正規盤1分56秒付近の、トランペットの前面露出で、ライブ盤出はかなり強く長く引っ張っているが、正規盤では埋もれるぐらい小さく演奏される。
ライブ盤は比べると、正規盤よりアップテンポといったが、その事はそう感じる部分が、特徴的で印象的だっただけで、実際にはライブ盤より正規盤が、少なくとも指摘部分までは早いのは、ライブ盤がテンポをかなり動かしていることによるのだろう。

聴感上の速さ時間と時計時間は、大幅にずれることはよく経験することだ。

このトランペット、マスターリングや編集で処理が可能であったかどうかが分かれ目のような気がする。
今までの音盤での経験では、リピートもカットすることは可能だし、拍手や咳もカット可能のはずだが、これほどの前面露出、しかもオケの中に混じってのことだから、それだけいじることができるのだろうか。

トランペットを含めて、あちこちいじりすぎたことで、全体の音質に影響が出たのだろうか。

デジタルリマスターリング技術は相当なものがあると聞くから、音程は変えないで、テンポだけを早くするとか、そういったテクニックは有るだろうし、そして少々合ってないアインザッツなども、修正可能だとすれば、
この両者の演奏は、明らかにコンヴィチュニーであろうスタイルと、コンヴィチュニー節が感じられるから、コンヴィチュニーの演奏に間違い無いと断定する。

しかし異演奏か同一演奏かについては、聴感上の違いだけに頼れば、異演奏という結論となる。
しかしもともとの意図が、同じ音源を別ヴァージョンの演奏に見立てることにあったとすれば、そこに他にも多くの技術的ななにかが加わったという可能性も捨て切れない。

2つのコンヴィチュニーのブラームス、別バージョン演奏なのか、同一演奏のオリジナルマスターの技術的変化の産物なのか、すごく判断が難しい。

聴感を邪魔するもので、さもありなんとされるような、マスターテープを技術的にいじって改ざんしてしまえば、それを聴いての判断などは誰しも困難だ。
そういう時代・・複製時代と贋作時代が一緒になっているのが、現在の姿である。

聴感を信じることにして、小生は別バージョンの可能性が高いと言うことにする。


以下の文章はすこし際どいところがありますから、読まれる方に事前のインフォメーションと注意をいたしたくおもいます。
読み飛ばしていただければ幸いです。


このことはモノーラルライブ録音を、あたかもステレオのスタジオ録音であるかのように、しつらえてしまう行為と同じことで、いわば贋作といって良いことだ。

骨董に贋作場多いのと同様、録音音楽の世界も、同じことが無いわけはなく、録音数が少なく、ステレオ録音になると極端に少なくなるコンヴィチュニー、しかも根強いファンが存在していて、あらゆる音源を探す状態にあるのだから、音盤贋作師が活躍、暗躍てもおかしくはなく、感性領域であるから、骨董よりもだましやすいしだまされやすい。

骨董と違うのは、客のリテラシーで、骨董の客は市場にあるものの中では、本物のほうが少なくて、騙すのも騙されるのも承知の世界がある。
したがって「目利き」と称される達人になりたいために、巨額を投資するものも多い。

ところがクラシック音楽は「芸術」という仮面があり、その上クラシック音楽愛好家はお人好しが多いのか、騙されたことがわかっても、怒る人は数少ないようだ。
さらにそのことに気が付かないでいる人も少なくない。

ポカミスだから仕方がないとか、モウ時効だとか言う論調に惑わされず、喩えポカミスにしろ、意図してやられたにせよ、其のお先棒を担ぎ、少なからず利潤を得たメーカーは、その音盤を購入し所有している愛好家に対し、現物確認の上、新しい音盤を無償で提供するぐらいのことがなぜできないのか。

これヨーロッパでのポカミスが原因の誤表記だから、そして50年もたっているから、もうなかったことにしようとばかり、現存しているメーカーからはなんのコメントもなく、シャアシャアと、これが正しい音盤ですよ、と言うだけにとどまるのは、あまりにもユーザーに対して礼節を書くものと思うがいかがだろうか。

一番残念なのは、このような問題に直面するたびに、懐疑的な耳で対処しなければならなくなってしまったことである。

今聞いている音楽が、果たして表記通りの演奏家や表記通りの録音月日のものかどうか、そんな事が気になってしまうと、音楽其のものを聞くことができなくなる。
演奏比較視聴が真偽探索視聴になってしまうこともあるぐらいだ。

誰にも間違いは有るだろうが、それがわかった時点、小生はコンヴィチュニーのブル4問題は、もっと早くかららわかっていて、ある時点からブル4は発売しなくなったことで推測可能だと思うが、わかった時点で情報公開すべきことだと思う。

ブル4真偽問題はまだ決着は付いてないと小生は思っているが、それは某評論家が情報源を明らかにしないまま、大手CSショップのコラム、そればかりか今回復刻再発売となったCDのラーナーノーツにまで書いたこと、メーカー販売会社はいまだに黙りを決め込んでいることからだが、もしメーカーサイドがそのように認めるのなら、きちんとした情報源を明かし、その上でのインフォメーションが必要であろう。

非正規盤についての言及を控えるエチケットやマナーを持っているクラシック愛好家を、あまりにもバカにすると、痛いしっぺ返しがくると思うのだが、小生もそのマナーの中に今までいたが、これからはそこから抜け出し、青裏盤についても言及することに決めた。

正しい情報管理が行われ、したがって音源、演奏家、録音日時などに誤りはなく正しいとされるものだから、正規盤とまで呼んで、愛好者に信頼と安心安全を与えてきたと信じてきたが、もうその事は幻である。
それに版権のない若しくはあいまいな音源を扱うことは、違法でもなんでもないはずだ。
まして著作権切れの歴史的音源は、自由に扱って良いことになっている。

過去のチョイミスでしたと、音楽評論家に言わせ、販売会社メーカーの自分たちはだんまりを決め込んでしまう。
そればかりか、なし崩し的に、これが正しいですよとばかりに、復刻再発売する姿勢、どう考えてもおかしくないだろうか。

大手を中心にいま,CSRが盛んであるが、CSとともにこれらのことは、小さく些細なことの認識しかないようだが、CS、CSRの根幹をなすものであろう。

QC、TQCという品質保証の考え方を実践し、体質を改善する目的で、様々な企業が取り組んだが、形だけで終わったところもあったようだが、まさにCS、CSRも掛け声だけに終わっているかのような対応である。

by noanoa1970 | 2011-11-07 16:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(11)

コンヴィチュニーの音源、これがもし事実だとすれば・・・・No.1

たびたび訪問いtだいて鋭いコメントを頂戴している、abendさんとの発展的コメント会話から、仰天するようなものが飛び出してきた。

もしもこのことが真実だとすれば、すべてのコンヴィチュニー愛好家が50年近くも、騙され続けてきたとうことになってしまう。

話の発端は、コンヴィチュニーがVSO(ウイーン交響楽団)を振った「ジークフリート牧歌」の視聴感想を書くつもりが、この音盤がCD復刻されているか否かを確かめようと、WEBで調べると、某氏が某CDショップのためにの書いたものの中に、以下引用『ワーグナーの「ジークフリート牧歌」というのもある。国内で出た実績のあるものはウィーン交響楽団のものだが、古いレコード総目録にははっきりと「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」と記されている。』とあるのを発見した。

ジークフリート牧歌と同じVSOを振って、LGO(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)との録音は、実はVSOとの録音であったと、以前から問題となっていたことに関しての、某氏の、ブルックナー4番の審議問題著述の中に、ジークフリート牧歌にも及ぶ話しがあり、またも新たな真偽問題かと、そのことに話が進みそこから論点が逸れ、視聴感想ではなくなっていった。

某氏が某大手CDショップのサイトに、そして同じ事をCDライナーノーツでも書いているように、コンヴィチュニーのブルックナー4番真偽問題が、VSOの演奏であったと結着し、そして取り違え事件の犯人は「うっかりミス」であったと言う記事を書いた。

小生は真偽問題があからさまになった10年以上前から、どうも府に落ちなかったこともあって、今回もデータ源がハッキリしてないことに対し、批判めいた文章を書いたが、其れ以上に、レコード販売会社自体からの、なんらかのコメントが一切ないままに、再復刻CDを出したことに少々怒りとイラツキを感じた。

そういう中、もしその事が事実だとすれば、過去からのレコード会社の、犯罪といってもいいぐらいの行為が明らかにされるものを掴んだのであった。

その発端は、abendさんが有るサイトで発見したことを、コメントで教えてくれたことに始まる。
『WRC傘下のR.M.C(Recorded Music Circle)というところから出ているウィーンSOとのイギリスプレス盤ですが、「モノラル」と明記されています』

初期盤でもある音盤がステレオでなくモノーラルで発売されていて、ある輸入中古LP専門ショップでも、才初期盤と言われる音盤はモノーラルで発売されていると言うことに気が付いたということだった。

この問題は「田園」のLGOとの演奏に、ステレオ録音とモノーラル録音で別ヴァージョンの有るナシの問題が最近あって、視聴した結果、小生のは、別ヴァージョンという結論に至ったが、それとよく似た問題でもあったので、その時からコメントでこの問題に関わられたabendさんも、注目していたことだったから、オリジナル初期音盤が、モノーラルということの意味を知りたいと思われたに違いない。

結論から言えば、コンヴィチュニー/GLOのすべてのETERNA録音はモノーラルで、ステレオ録音とされるものは、モノーラル録音の擬似ステレオ化されたものであるというものだ。

このことについて言及したのは、有る輸入盤専門中古ショップの解説であった。

それによると、コンヴィチュニーの録音による音盤の初発売、所謂初期盤は、全てがモノーラルで、セカンドヴァージョンも、モノーラルの場合がある。

その後同じ音源のステレオ盤が登場するが、マスターテープがモノーラルだから、其れは擬似ステレオであるというのだ。

客観的根拠として、ドイツシャルプラッテン傘下のETERNAに、ステレオ機材が導入されたのが、1960年代半ば1964年である(ETERNA国内代理店徳間ジャパンの音楽関係者談)から、1964年以前の(コンヴィチュニーは」1962年死去した、)録音はステレオであり得ないとも言及した。
したがってコンヴィチュニーのすべてのETERNA録音はモノーラルであったということになる。

ETERNA音盤が得意な、某輸入専門ショップは、オイロディスク経由で発売されたブルックナー4.5.7番、そして2番も全てオリジナルは、モノーラル録音で、なんと、5番にいたってはライブ音源でモーラル録音だと断定している。

abendさんは、以前からステレオ盤で発売された、ブルックナー4.5.7番を聴いた時、そのステレオ感に違和感を覚え、7番に関して、ステレオ表記であったが、モノーラルにしか聞こえなかったという。

小生もオイロディスクから発売の7番を聴いていたが、てっきりモノラル録音だとばかり思っていたにもかかわらず、ジャケットには小さな文字でSTEREOとキチント表記されているのを今になって発見した。

最後の録音だと言われる、ブラームス1番について、STEREO表記ではあったが、純ステレオ録音とは違い左右の広がりはあっても、平面的すぎたので、ブログに擬似ステレオかもしれないと書いたが、たちまちソウではないという反論があったことを記憶する。

コンヴィチュニーの録音音盤は、ステレオよりも、モノーラルで発売されたもののほうが音がヴィヴィッドであることを何度も体感したことがあるが、このことは先のこと、オリジナル録音がモノーラルの聴感上の裏付けとは言えないだろうか。

1960年代初期、死去する62年までののコンヴィチュニー/LGOの録音といえば、ブルックナーのいくつかとベト全とシューマン全、そしてブラ1、後はヴォイトブリック社から発売となったライブ録音がすこし有る。
大物は1962年日本公演のステレオ録音の第9である。

他にはコンヴィチュニーが外国で録音した、バンベルク響との新世界、VSOとのワーグナーや今回話題になっているブルックナー4番、リヒャルト・シュトラウス、チェコフィルとのシューベルト9番があるが、こちらは日本と同じステレオ録音である可能性が高いと思われる。

最近ではWEITBLICKが音源を保有していると見られる、フランツ・コンヴィチュニー指揮ベルリン放送交響楽団のブルックナー8番と併せて、ライプツィヒ放送交響楽団との9番がステレオ表記で発売されたが、モノーラルにしか聞こえなかったことから、販売会社によって後日、初期ステレオ録音のため、極めて手狭いステレオ感である、とのいいわけじみた注意書きが添えられたが、どう聞いてもモノーラルであることは間違い無いようだ。

満を持してスタジオ録音されたベト全、シューマン全がステレオ録音ということは、誰も疑ったことはないと思うが、某輸入専門店によると、1964年のステレオ録音に関する機材導入前になるから、話の経緯からの理屈からすると、ステレオ録音ではあり得なくなる。

ただベト、シューマン全集は、オランダフィリップス社との、共同制作だという話を聞いたことがあるので、もしそうであるのなら、フィリップス社の機材と技術によるステレオ録音であるという可能性も有る。
聴感上で擬似ステレオというには厳しすぎると思う所があるが、足掛け2年の録音に渡るとはいえ、曲目によって音質に差があるのは、とても気になるところだし、第9にいたっては明らかに継ぎ接ぎの音が聞こえるから優秀なフィリップスの手にはならなかったと思えなくもないから断定はできない。。

またDGによって録音され発売された、オイストラフ親子とのバッハ、そしてブラームス、チャイコのvn協奏曲などは技術水準からも聴感からも、完全ステレオ録音であるといって良いと思う。

ただし以上のETERNA録音でのことは、レコードオリジナル初期盤が全てモノーラルでの発売であることと、ETERNAの機材のステレオ化が1964年だったということを前提にしたもので、そうであるなら、答えはただ1つしか無い。

しかし小生は、その機材が何を指しているのかによって、展開がずいぶん異なり、後に発売となるステレオ盤が、大元からのステレオなのか、モノーラルからの擬似ステレオであるかの決定に関わってくるものと思っている。

例えば、機材が録音機材そのものではなく、カッティングマシーン周辺で有るとすれば、録音は2CHで出来ていた可能性があり、諸事情で、初期盤はモノーラル発売となったと考えられる。

その理由として、60年代は家庭用ステレオ装置が普及しつつあった年代、60年代初期は、まだ電気蓄音機が主流だったから、ステレオ盤は聞くことがかなわなかった、したがってステレオ盤はオールマイティではなかった。
しかしやがて急速にステレオ装置が普及しだしたその時に、ステレオ盤として再発されたのではないかと思うところもないではない。

米国のジャズレコードメーカーも、イギリスのビートルズのアップルレコードも、録音は2CHだったが初期レコード発売はモノーラルであり、少し時間を置いてステレオ盤で発売された。

我が国においても、市場に同じ音源のモノーラルとステレオ盤が両方存在したことは、小生も経験したことだ。国内初のステレオ録音発売とされる、尾高さんのフルート協奏曲を含むN響の日本人作曲家の音楽録音でさえ1960年のことだから、2CH録音は東ドイツでも可能であったかもしれない。

また仏では、シルヴェストリの新世界がモノーラルとステレオで発売されたが、新たに演奏したものをステレオ盤として発売したから、2つの異演奏が存在するということになっためずらしい例だ。
そんなことをわざわざする必要がないはずだから、同一演奏であるといった人もいたが、2つの音盤を聞き比べるとまったく違う演奏であった。
何かの事情でモノーラル録音しか出来なかったのが、ステレオでどうしても発売したい理由が有ったと思われるが両方共仏ディスク大賞を受賞している。(技術的な問題があったのか、擬似ステレオされなくてよかった)

いくら東ドイツだからとはいえ、西欧諸国に追いつき追い越せという国策の、国営シャルラプラッテン傘下のETERNAが、西を意識しないで機材で後塵を踏むということは、すこしの遅れならともかく、西の2CH録音開始が1958年からとすれば、1965年ぐらいまでの6.7年間もの遅れとなるが、それだけの遅れが東ドイツにあったということはあまり考えられないし、ETERNAの音質は、世界最高水準で初期盤はとくにファンが多いし、評価も高いから、西欧諸国と同じような機材、それなりの物を使用したと考えて良いのではないだろうか。

ETERNAの代理店、徳間ジャパンの関係者情報では、ETERNAがステレオカッティングマシンを導入したのが、1964年であったとのことだが、録音装置とは違うから、録音自体は2CHステレオで出来ていた可能性もある。

そのことを補完するかのように、その中古ショップの解説には、(そうは言いながらも、録音が非常に良いからか)ひょっとすると、もとは2CH録音であったのかもしれないという言及があった。

推測すれば、1960年代のETERNA録音は2CHステレオの可能性が高く、販売戦略上、初期盤はモノーラルでの発売であったが、のちにステレオ盤で再発された可能性もある。

コンヴィチュニーはその過渡期の時代の人であったから、モノーラルとステレオ録音が混在するが、ステレオ録音は極少数であろう。
しかしある時期、比較的優秀なモノーラル録音を、擬似ステレオ化したことは、販売戦略上差別化としてあり得ない話ではない。

ブルックナー7番のように、擬似ステレオにもなってない(と思う)ものを、ステレオ表記したことは、別の理由があったと考えられる。

ブルックナー5番は、モノーラルライブ録音であるものを、当初から擬似ステレオにして発売したという仰天話を解説に書いたものを見たが真実は如何に。

さらに最近発見された、オリジナルマスターテープを修復しデジタルリマスターして復刻再発したVSOとのブルックナー4番も、音質改善は低音が強調された以外言うほどのことはなかったし、左右の音の広がりはあるものの、以前のヴァージョンと大差がないし、フルートがあり得ないところから聞こえてくるので、擬似ステレオと言われても致し方ないところはある。
しかし録音がオーストリアで、しかも向こうの機材だったとすると、VSO(ウイーンフィルの当時の録音はすでにステレオであったから)完全ステレオのステレオ盤である可能性も出てくる。

abendさんから指摘していただいた、VSOとのブル4、新旧のLPCDを比較視聴した結果、以前のヴァージョンにあった、1楽章展開部第2主題がくり返されるところで、明らかにマスターテープの瑕疵が原因と思われる、弦楽器群のさざなみのように奏される音の途切れは、今回のヴァージョンでは無くなっていた(小生も確認した)から修復されたのだろう。

さらにコロムビアエンターテインメントのオイロディスクヴィンテージコレクション上の情報によれば、VSOとのブル4の音源は、オイロディスクの前身である、オペラ社が保有していたもので、オイロディスクの所有でなく、(オイロディスクが引きついだのか)という新事実が解説にあった。

ブル4にLGOの演奏はなかったという事が、最近事実化してきた感があるが、これだけごちゃごちゃした上に、新たな情報も飛び出してくるぐらいだから、何れもが決定的な根拠が無いものばかりなので、LGOとの演奏が存在した可能性も捨てきれない。

コンヴィチュニーは1952年、チェコフィルとブル4を録音していて、R・シュトラウスのティル同様に好んでいたフシがあるから、チェコフィル、VSOとの録音以外の、得意のSKDやLGOとの録音がないことのほうが不自然ではないか。
まして他のブルックナーの全てが、お膝元のオケとの録音なのに、4盤だけが異国のオケとだけの録音では納得が行く物ではない。

GOLのブル4音盤初出が1960年代半ば頃だと思うが、もしこの世に存在しないGOLとのブル4を語って、世の中に出したならば、GOLが黙って見過ごしただろうか。

GLOにブル4の演奏録音は存在しなかったのかを確かめるには、コンヴィチュニー時代のGLOのメンバーでコンマスだった、ボッセ氏あるいはズスケ氏が存命中に訊いておかねばならないことだ。

また某ETERNA音盤を得意とする輸入盤ショップが指摘したように、最初期盤はモノーラルで発売されたから、当該録音がモノーラルで、後に疑似ステレオ化しての発売であったとするなら、別の大きな問題を抱えることになり、(小生は他の理由で認めてないが)結着したとされている「コンヴィチュニーのブルックナー4番問題」は、オケが同じか否かも含んで新たな次元の問題が出ることになり、まだまだ解決からは、ほど遠いものになってしまう。

旧LP、旧CDと比較視聴した小生の聴感では、音は当時の水準だが、押しなべて、左右に無嫌味に広がるステレオ感は奥行きに乏しく、平面的で、楽器の位置がおかしいところがあり、ステレオ録音ではなく、モノーラル録音の疑似ステレオの可能性も捨て切れないと感じている。
擬似ステレオ云々は、電気信号解析で明らかになることだと思うのだが・・・・其れを暴くことは業界のタブーということもあるので、これ以上言及できないが、真実を知りたいものだ。

WSOとのブル4録音の保有者「オペラ」に関して、現在のところ、オイロディスク社の前身とだけ情報があるが、活動期間や範囲、他の音源、この音源の正式録音年月日などオペラ社の情報がもう少し欲しいところである。

オイロディスクヴィンテージシリーズで、オペラ原盤の復刻CDが、5点ほど発売となっている。

フルヴェンなどの昔の音源を、アナログ音盤の音のオリジナリティを重視して、最初期の音盤から復刻作成したCDを作っている某音楽評論家、大手CDショップに寄稿したものと同じ内容を、CDライナーノーツにも書いていて、新発見されたオリジナルマスターを修復使用したから音質が良いことを、ヴェールが1枚も2枚も取れたようだと、販売会社同様盛んに強調した。

前ヴァージョンの音盤と比較視聴すれば解る通り、低音部が強調され若干の改善がされたことはわかるものの、オリジナルマスターと強調していうほどの音質改善にはなっておらず、聴き比べなどせずイメージで言及したのではないかという疑いを持ってしまった。

オリジナルマスターとコピーしたサブマスターに大した音質の差が有るはずもなく、その後の処理に質の差は出るのだろうが、いじりすぎることなどはしないから、大幅に違うことなどあり得ないはずである。

この評論家、以前からプロとしてヤバイと思うな記述が散見され、今回のブル4での、お得意分野のはずの音響、前のヴァージョンにあった1楽章再現部の弦楽器群が、さざなみのように刻む音の途切れが、なくなったことには、いっさい触れていないことは、なにを物語るのだろうか。

自らCDを製作する某氏だから、、まともに聴いていたとすれば、気が付かないはずはないし、このことは音が良くなった云々と同様以上に、今回の新たなデジタルリマスターでの改善の大きなポイントであるように思うのだが、其れについていっさい言及してないから、ライナーノーツもその内容から推測されることだが、実際に聞いた上で書いたものなのか、非常に疑わしく感じられる。

膨大な量のヒアリング対象は承知だが、せめて自分がライナーノーツを書く対象ぐらいは、ジックリ聞いた上で文章にするのが最低のマナーであると思うが、評論家と称する人の中には、往々にしてこのベーシックな「聴く」ということを、怠っている人がいるように感じられて仕方がない。

いつもコメントをくれる方の情報によると、異なる某評論家が、実際の録音のオケを他のオケと取り違え、取り違えたオケについての評論をしたという事実を教示いただいたが、これなどは思い込みと実際に聴かずに評論したかいずれかで、どちらもプロの評論家としてやってはならないことであろう。
これに似たような例は、決して少なくないようだ。

かつてLGOとのブル4のライナーノーツを書いた評論家の長老W氏、彼のことを気遣ってか、少なくとも10年以上前、掲示板で話題となっていた真偽問題は業界のタブーとされた感があったように思うが、W氏の死去後、時効だとばかりに、復刻新発売とタイミングを合わせるように登場してきたのは、偶然であろうか。

ブルックナー4番の問題は「うっかりミス」が原因だから、結果として販売に携わった日本のレコード会社そのものに、直接の責任はないということを裏付ける情報を、新リマスターリングされた新ヴァージョンCD発売に際し、複数の場所で紹介しているが、この情報は恐らく新ヴァージョン発売のレコード会社がつかんだ情報ではないだろうか。

レコード会社がその情報を、某氏に伝えたと思われ、日本のレコード会社の責任はなっかったのですと代弁させ、過去の過ちを免罪する目的があった思ってしまうのは、新発売されたCDのライナーノーツにも同じ内容の記載をしていること、その内容をレコード会社が認めたという事になる。
というより、情報源はレコード会社だから、レコード会社の思惑通り、うまく某氏に代弁させたということだろうとつい推測してしまう。

したがって、今回新たに出てきた事のような、取り違え「うっかりミス」情報公開に、上記のような何らかの作為、意図があるのだろうと推測できてしまうし、50年もたった今頃になってでは、それほどの説得力は感じられない。

話をもどすと、ベト、シューマン全集盤は、一部に継ぎ接ぎした形跡はは認められるものの、ステレオ録音であろうと思われ、機材云々を判断根拠にするより、オランダフィリップス社共同制作説に説得力がある。

絶対的証拠とは言えないが、この全集の西欧での販権は、フィリップス社が持っていたし、後になるとフィリップス傘下のフォンタナレーベルで廉価盤としても再発売されている。
多分多くの方がフィリップスかフォンタナレーベルのコンヴィチュニーをお持ちのことと思う。

そして、販権をフィリップスが持ったことは、決して偶然ではなく共同制作が有ったのではという事実を裏付けるもののような気がする。(あるいはサブ原盤をフィリップスに売却したか)
ちなみに小生所有のLP全集は、フィリップスの原盤を使用したものである。

モノーラル録音された音源のうち、ステレオ録音であってもおかしくないような、年代の若いものの一部を、販路拡大を狙ったのか、擬似ステレオ化しステレオ盤とし販売し、それが何回も繰り返し発売されることになり、大元がモノーラル録音であることなど忘れ去られてしまったということもあり、ブルックナー5番も4番はその典型なのかもしれない。

by noanoa1970 | 2011-11-01 06:28 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(3)

コンヴィチュニーの音源、これが新事実なのかNo.2

オイロディスクは4.5.7番をセット販売するに当たり、全てLGOの演奏で、しかもステレオ盤として販売したかったという推理も可能性があろう。
あってはならないが、取り違えは意図的であった可能性も出てくる。

これまでの一連の流れの、コンヴィチュニーの音盤の、モーラル録音の擬人ステレオ化問題が、初期盤といわれる音盤を多く所有する、輸入盤専門中古ショップによって明らかにされたということだ。

今でこそ7番はモーラル表記だが、オイロディスクから我が国に導入されたときの、ブルックナー4.5.7盤はステレオ盤として登場した。

某輸入盤中古ショップの、ブル5のコメントに「録音:1961年ライヴ モノラル録音のステレオ化」とあることも仰天のこと、擬似ステレオであることは音からなんとなく納得できるものの、ライブ音源であるというから実に驚くべきことだ。
ライブ録音だからステレオ録音はできなくモノーラル録音になったというのは、それまでのコンヴィチュニーの多くのライブ録音からも推測できることだ。

そういう一方、ミュンヒェン国立(ザクセン州立、SKDという表記もある)歌劇場管と、ウラニアに録音したワーグナーの指輪オケ版には、同じ音源でステレオ表記盤とモノーラル表記盤が存在している。1954から1958年ごろの録音と思われるがはっきりしたデータはないし、ザクセンが具体的にどこのオケなのか,ステレオ録音は無いころだから、擬似ステレオの可能性が高い。

モノーラルをステレオ表記した例も、モノーラル録音の擬似ステレオ化されたものも「STEREO」表記だからややこしいが、コンヴィチュニーの音盤にはこれが混在しながら、やがて全世界がステレオ盤であることを認知するという事態となっていった。
嘘もつき通せば嘘でなくなるということを地で行った展開である。

そうなると、VSOとの演奏であると言う結論と共に、リマスター再発売された、ブルックナー4番。
同じ音源のサブマスターを使用し、GLOとVSO両方で発売された、LP1974、CD1993年発売を再度聞き比べたが、オリジナルマスターを使ったから、音質が改善されたという割には、言うほどの効果に乏しく、其れよりも前から思っていたことだが、左右の広がり感はあるが、平面的で奥行き感がないこと、フルートを筆頭に、あり得ない楽器の位置から聴こえてくるのは、最新盤もどれも同じであった。

これもひょっとすると擬似ステレオの可能性もあるし、最後の録音と言われる1962年のブラームス1番も擬似ステレオのように聞こえないでもない。

問題だったブル4の録音が、実はモーラル録音で、その擬似ステレオされたものを、我々は長い間LGO録音と平行して聴いてきたということになるが、もしそうだとすると、我々は2重に騙されたかもしれにということになる。

果たしてことの真相はいかなるものか、下記のようないろいろのパターンガ考えられる。
1964までは、カッティングマシーンガなかったからETERNAの1964年までの録音は全てモノーラルだったのか。
録音自体はステレオだったが、カッティングマシーン導入が1964年だから、自社のステレオ盤は其れまでは無いということなのか。
ステレオ録音されたものを、西欧諸国のいずれかに頼んでステレオカッティングしたのか。
聴感上モノーラル録音を擬似ステレオ化したものはあるか、あるとすれば何んなのか。
録音自体はステレオだが、モノーラル盤で発売し、追ってステレオ盤を発売したのか。

abendさんから頂いた指摘、整理されたものでわかりやすいからこれを記載しておくと、
『1 録音はモノラルで行われて発売され、後にそれを擬似ステ化したものが発売された。あるいは両者が同時に発売された。
2 録音はステレオで行われ、当時のユーザー事情からモノラルとして発売され、後に本来のステレオ盤が発売された。あるいは両者が同時に発売された。
3 最初からモノラル録音、ステレオ録音が同時に行われた。』

bendさんによる追記として
『バンベルクSOは当時西独のオケ、VSOは1955年以降永世中立国となったオーストリアのオケであるということをです。調べたのではないのですが、コンヴィチュニーはバンベルクやウィーンへ行って、当地で『新世界』やブル4、R・シュトラウスの作品などを録音したのでしょうね。しますと、そこではステレオ録音はもちろんのこと、ステレオカッティングも既に行われていたと考えられます。そうだとすれば、VSOとのブル4はステレオ録音で、東独にはステレオカッティングマシンが無かったからモノラルで発売するしかなく、逆にオーストリアや西側諸国ではそのままステレオで発売されたのではないか』

以上のように推測されております。

非常に重要な事柄なので、断定することはしないもの、諸事情を考慮してみると、大枠以上のどれかに落ち着くのであろう。

真相を知りたい気持ちと、知りたくない気持ち、2つの気持ちが共存する時間がしばらく続くだろう。

これらのことを確認する方法は、前にも述べたように、当時の関係者、GLOの存命者で日本在住と聞くボッセ氏あるいはズスケ氏、MGRが存命であれば一番良いのかもしれませんが、彼らからヒアリングすることでしょう。

2回渡って書いてきたことは、abendさんのコメント協力があってこそ。
改めてabendさんに感謝の意を評したい。

by noanoa1970 | 2011-11-01 06:23 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

コンヴィチュニー/ウイーン響のジークフリート牧歌視聴感想のはずが、思わぬ方向に


ジークフリート牧歌について書くはずであったが、プロの文章についての所感となっていったので、そのまま続けました。(今回の話題は、個人に対しての所感ではなく、広くプロと呼ばれる人たちの執筆に対するものであることを、予めお断りしておきます。実例のほうがわかりやすいので、例をあげての記述ですが、名前も著作は伏せおきます。)

HMVの記事にある人物が「コンヴィチュニーの○○○」という文章を書いている。
エッセイ風の文章のも見えるから、神経質になるのもおかしいとは思うが、この話題こそ、今から10年前、参加していたクラシックの掲示板で論議されたことであったから、そして小生の取り分けて好きな指揮者の録音についての事だからである。

さらに、小生の実聴の結果から、ある推論をブログ上で展開した事でもあるからであった。

某氏の著述内容は、コンヴィチュニーのブルックナーの4番、かつてウイーン響とGLOとで発売された音盤が、実は同一演奏でウイーン響の演奏だと判明した顛末を書いたものであった。

きっかけは、この度リマスターされてCD再復刻となった音盤の発売にあたってだが、実はこの問題は、ネットの掲示板で、小生も含んだやり取りがあって、それは今から約10年前のことであった。
記憶の限りそれ以前にこのような言及した人におめにかかったことはない。

コロムビア・オイロディスク・ヴィンテージコレクションシリーズ第一回発売直後、小生はコンヴィチュニーの新世界及び掲示板で議論さめやらぬブルックナー4番をぜひとも発売して欲しい旨、コロムビアに問い合わせたことがあり、その時の回答は、今は未定だが、出来れば、来年辺りに発売したいというのがメールで帰って来た。

どちらの演奏でで発売されるのか興味があったし、今の担当者は、ブル4事件のことなど知らないだろうと思い、送ったメールで、ブル4の2つの演奏の真偽問題のことに触れておいた。

小生は、1993年「コンヴィチュニーの芸術」シリーズに、新世界の他と混じって、2つの演奏のブル4が復刻発売されたのを、何故に二種類も・・と不思議に思ったことがあって、後に掲示板でそれが同じ演奏であるとの話題となった時、その二種類のCDを入手して、手持ちの二種類のLPを加えて比較試聴したことがあって、聞いてみた結果からの見解をブログに書いたことがあった。

某氏は、この間違いの原因は、原盤保有者のエテルナがオイロディスクに5番7番のマスターを譲った際、オイロディスクが、一緒に発売するために出した自社の4番のマスターを、エテルナの5番7番のGLO表記に惑わされ、4番は本来ウイーン響なのにもかかわらず、勘違いしてGLOの演奏であるとしてしまったことにあるという。

すなわち、4番はオイロディスクが原盤保有者で、5・7番はエテルナが原盤保有者だったといい、オイロディスクが自社保有の4番を取り違え、GLOとしてしまったうっかりミスだったという。

某氏は、情報源について詳しくは触れてないから、今一つ信ぴょう性にかけると、小生は思うのだが、ゴタゴタしていたにせよ、自社オリジナルマスターテープ収録のオケを、果たして間違えるだろうか。
何重ものチェックが当然はいるだろうし、自社オリジナル原盤ともなれば、大切に扱い保管したことであろう。

また、そのような間違いでオイロディスクがGLOの演奏と誤表記したまま発売したとするなら、エテルナ側もないものであれば架空表示、存在するものであれば、版権侵害などの問題があるから、黙ってはいないだろうことは誰でも推測できること、また何らかのリアクションが有ったはずである。

しかしその後もこの間違い表記のGLO盤とウイーン響の2つのブル4は、日本にも入ってきたし、コロムビアが国内盤として発売し、さらに1993年のCD復刻のコンヴィチュニーの芸術シリーズにも、両方がはいっていたのだ。

うっかりミスにしても、オイロディスク、エテルナのいずれか気づいたはずのことを、50年たった今、うっかりミスだったと言われても、到底納得できる物ではない。

小生はオイロディスクが西ドイツや自由主義ヨーロッパ圏向けの販売戦略上、GLOの演奏であると表記したほうが得策であると判断した結果なのではないか、あるいは元々2つの別演奏録音があったのではないかとと推測している。
コンヴィチュニーは、SKDかGLOでこそコンヴィチュニーといえるから、どうしてもGLOの4番の演奏を、オイロディスクが販売したいとの希望から並列発売としたのではないだろうか。

音源が1つか2つかという問題があるが、小生は2つあったが、それぞれに瑕疵があったのではないかと推測している。(これに関しては拙稿http://sawyer.exblog.jp/9913498/審議問題は本当に決着したのか)に記載した。

小生は、今回真実として明かされたことは、誰かが意図的に流布した情報の可能性もないとは言えないと思ってしまう。

情報源がハッキリしないだけに、小生は某氏の得た情報に納得してないことは、先のブログに再三書いたが、本日はそのことよりも、その文章で同時に触れられている、レオノーレ2番の序曲が、バンベルク響と表記されたものと、LGOと表記されたものがあるが、両者は同じ物のようだから、○林直○氏は、「今度はエテルナがオイロディスクから原盤を借り受け、そこでうっかりバンベルク響をゲヴァントハウス管として保管してしまったのだろうか。」と少々皮肉を込めた口調で、エテルナのうっかりミスのように語っている。

「ブル4はオイロディスクのうっかりミスで、レオノーレ2番序曲はエテルナのうっかりミスであった」そんなことがまともに信じられるほど、たとえ素人の視聴者でも、そんなに甘くはないし某氏にしても本音はちがうところにあるに違いない。

この度のうっかりミス説、少なくとも説得力があるものとは言えなく、それよりも意図して、あるいは必然性があって、そうしたとの推理のほうが、的を得ていると思う。

レオノーレが同一演奏か違うかは、いずれヒアリングして別途小生なりの意見を述べたいと思う。

これに類する話はまだまだあって、
某氏も言及した「田園」については、小生も昔から気になっていたが、モノーラル音盤が廃棄されてしまい、確認が出来ぬまま、最近再入手できたので、早速比較試聴の上、結果をすでにブログに書いていて、結論は2つの理由で別演奏であるとした。

某氏は、どの音盤で比較したのかはわからないが、異なる演奏であるとの断定を避け、ピッチノ狂いがテンポの差である可能性について触れ、ピッチを合わせるとひょっとすると・・・と同一演奏の可能性もすててない書き方をしているようだ。(外見的判断ばかりでなく、プロと称するのだから、演奏内容からの判断はできないものかと、思ったが、某氏のお得意は、音響のようだから仕方ないかもしれない)

さてようやく本題、本日取り上げた「ジークフリート牧歌」。
某氏は、「そのほか、ワーグナーの『ジークフリート牧歌』というのもある。国内で出た実績があるものはウィーン交響楽団のものだが、古いレコード総目録にははっきりと「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」と記されている。この曲のゲヴァントハウス盤というのは存在しないので(少なくとも正規の録音では)、これは目録の誤植ということも考えられる。と記述した。(以上HNV寄稿文から引用)

「昔の情報にはには時々誤りがある」誤りの原因は様々だが、うっかりミスが多かったので誰の責任でもないということを言わんがためのダメ押しとして、ジークフリート牧歌の例を出したのだろうが、不完全な情報ならば、書くのは止すか、そうでないなら情報源を明らかにすべきであろう。

(少なくとも正規の録音では)とは、私は知らないが、他にもあるかもしれない、ということを言いたいためであろうが、正規でも非正規でも関係のない話、ここは有無を話題にしているのだ。非正規でも存在が確認できれば、あるということに他ならないから、断定は避けなければならない。

この曲のゲヴァントハウス盤というのは存在しないので(少なくとも正規の録音では)、という言動は、非正規録音ならば存在しているのか、存在しないと断定する根拠は何かが問われることになる。

厳しいことを言うようだが、ものを書いて収入を得ているプロだから文責は付いて回る。

「古いレコード総目録」によると言われても、それが何か、シュワンンのカタログを指すのか、いつの年代のものか、一切記載がないが、その目録の更新後に発売された演奏録音が記載されるはずがないのだから、その点は重要ポイントである。

「はっきりと書かれている」とあるから情報源はしっかりとしたものがあるはずであると思う。

エッセイ風の文章とはいえ、必要な情報源を省略しての言及が多く、プロの文章とは到底思えないが、古いレコード総目録が、シュワンのカタロググなのか、何であるのか、いつのものなのか、記載していただきたいし、総目録に記載があるこの曲のGLO演奏が存在しないと断定する理由の説明は合理性を欠く。

目録の誤植だとする根拠は、その理由にあたると思われるものを読んでも、非常に薄く、説得力に欠ける、

存在しないと思っていた音源が、続々登場する現状で、よくもそのような根拠で断定ができるものだと、あきれてしまう。

うっかりミスの色々な場面を続けて例に出すことによって、我々が受ける思いは、「レコード会社は信用できない」ということになり、過去の過ちが不可抗力だったかのように、今こういう事件の真相なるものを明るみに出し、取り違え事件の弁明として書いたものが、逆効果となってしまったことに気が付かないのだろうか。

当事者であるレコード会社のコメントは、一言もなく、この情報提供が免罪符と、なし崩し的になることを意図したのか、リマスターされた音盤を復刻発売したが、1993年まで発売し、両方購入したユーザーに対するお詫びの気持ちもないのだろうか。
海の向こうのレコード会社の落ち度であるから、関係がないと、事の真相を公開までして、いっているようで、腑に落ちない。

ドイツのいずれかのレコード会社の誰かが気が付いてないはずがないことを、50年後の今まで何故黙っていたのか、ランドフスカとリパッティの例もあるから、昔の話とはいえ、関係したものとしての態度はあるだろうと、小生は思っている。

「コンヴィチュニー/ウイーン響のブルックナー4番復刻発売にあたって」とする、真相なるものを含めたコロムビアの見解を、表明するのが責任ある会社組織、顧客に対するCSであると小生は強く思っている。

もっともコンヴィチュニーに非常な興味をもつ人は、そう多くはないであろうから、見過ごされる可能性も大きいのだろうが。

素人の妄想推理であれば、なんとも思わないが、原稿書いて収入を得ているプロなのだから、推論だけの物言いは勘弁願いたいし、あるデータに基づく言論であれば、その出典を教えていただきたい。

小生はなにも某氏を個人攻撃をしているつもりは毛頭なく、例を上げたに過ぎなく、音楽周辺を職業にし、原稿を書いたり、解説を書いたり批評をしたりして収入を得ている、所謂プロに対しての物言いだと思っていただきたい。

書いた某氏ばかりでなく、過去のこととはいえ、その歴史を引きずっているレコード会社の、このことに対しての見解が一切ないまま、大手CDショップのWEB上で、情報の出自も明確でないまま、音楽関係者が書いたもので、よしとするのは、間違いのまま販売し続けたレコード会社として、許されるべきことなのだろうか。

某氏が、昔の情報、データーには不可抗力の間違いが多いということを言いたかったことは理解できるし、間違いが割りと多かったことは認めるものだ。

しかしどうもそれを強調しすぎるのは、リマスター盤発売において、過去の失敗を帳消しにするための、免罪符であるように受け取れないこともなく、その片棒を担いだのが某氏であるといういやな推測も出来てしまう。

文字情報はいろいろ悪さをすることが多いから、そうであるならば、外見的情報によって判断するのは避けて、ひたすら聴いて聴き分けて、その上での参考として活用するしかないのではないか。

さすれば誰も断定情報としては認知せずに、その人物の耳にはそのように聴こえるが、自分はどうなのか聴いて確かめようとするアクションになるというものだ。

プロと言われる業界人たち、実聴することを隅に押しやる傾向にあるような気がしてならない。
小生が読んだ某氏の著述も他の人のものも、おしなべて、自分の耳で感じたことからの言及が殆ど無く、客観的であることが良いことであるように、錯覚しているのではないかと思うぐらいに、外見的情報を主とした言及が多いのはなぜなのか。

評論と言うより解説だから、自分の意見が全くといっていいほど無い。
業界も己の喪失の時代なのか。

GOLとウイーン響2つのブルックナー4番を実聴した結果、同じ演奏に聞こえたか、違う演奏に聞こえたのか、それが原点ではなかったか。

音楽が相手なのだから、聴いた上での言及や判断を避けるようでは、素人同然以下、とてもプロであるとは言いがたいと思うのは、小生の偏見だろうか。

プロと呼ばれる人物たちが、どのような感性の持ち主なのか、我々は知りたいし、かつてはそういう物書きがかなり多くて、面白く刺激を受けたことが多かったが、現在はそれを避けるようで、参考とできうるもの、刺激をうけるようなものが極端に減ったと感じるが、違うだろうか。

by noanoa1970 | 2011-10-25 14:31 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(58)

コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管、2つの田園

3.5時間かけて文章を作ってきた。

マイクロソフトのアップデートで、自動再起動で作り中のデータが全部無くなってしまったことは経験したが、今回は投稿画面でいつものように文章を作り、ソロソロいったん保存しておかないとと思ったが、佳境に入ったので、今しばらく文章を打っていると、突然画面が変わり、投稿画面がエキサイトホーム画面になってしまうではないか。

あっと一瞬思ったが、なにか変なことをしたわけでもないから、戻るボタンで投稿ページに戻れば、なんと言うことは無いだろうと考えたのが甘かった。

一瞬にして3.5時間の作業が全て無駄になってしまったのだ。
さらにこの文章を作ったkら、1時間は追加しなくてはならない。
自分で誤って何かをしたのが原因ならば仕方ないが、今回はマイクロソフトでもないし、小生は只いつものように文章を打っていただけのこと。

しかしどう考えても画面が自動的にに代わってしまうことはありえないから、何かが原因だろうと、あれこれ考えがても小生は只単にキーボードで入力作業をしていただけで、ほかに心当たりはなにも無い。

ずいぶん長い文章だったから、文字数オーバーだったかもしれないが、それならそれで、表示が出るはずだ。

しかもエキサイトHP経由で投稿画面に入ったわけでは無いから、IEの戻るボタンなど押しても小生のページに帰るだけのこと。
それに投稿画面に集中している中、マウスを画面最上部にもって行き、戻るボタンを押すことは到底考えられない。

理由が不明なのも腹が立つが、バックアップを取っておかなかったほうが悪いといわれれば、其れまでの話だが、何か腑に落ちない。

仕方がないので、消された文章を思い出しながら、余分なものを省き、絞って再度書き始めることにした。

用意した音源は、ベリリンクラシックス全集盤、EDEL全集盤、コロムビア大全集の中からモノラル録音盤(もう1つライブ盤があるが、今回の目的とは関係ないので、視聴音源には入れなかった)

消えたブログ記事では、ベルリンとEDELの両盤(同一演奏)でのオケのトーンの比較、アナログディスク国内廉価盤と初期盤、さらにETERNA盤でのオケ音色の違いに触れた。
そのことから、ゲヴァントハウス管を評しての、いぶし銀、渋い、j鄙びた、などの表現は、国内廉価盤の音によって作られたイメージで、それが今でも残存継続しているのだという仮説を導き出し、本当のゲヴァントウスの音とはいえないということ書いてきたが全て消されてしまった。
ゲヴァントハウス管とのライブ演奏は、演奏という観点からは興味深いが、本ブログ記事の狙いから外れるため割愛した。

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2+1つの田園の視聴結果
モノーラル録音とステレオ録音は異なる演奏であった、というのが小生の結論である。
(もしそのことが正しいのでれば、コンヴィチュニーの田園は、ライプツィッヒゲヴァントハウス管放送響とのライブを含め、3種類あるということになる。)コンヴィチュニーの田園は、というより、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管の田園は、3種類あるといったほうが良いかもしれない。

異演奏の理由として大きく2つのことが確認できた。

1つは
1楽章提示部のリピートの有無。ステレオスタジオ録音ではあり、モノーラルスタジオ録音盤ではなし。
(レコード収録のための時間短縮で、リピートカットしてしまうことがあるから、これだけでは
絶対的決め手にはならない)

2つめは
じつは、冒頭から両演奏の大きな違いはハッキリしていたことなのだが、2度目のヒアリングで確信に至った、それは両演奏のテンポ設定の違いである。
モノーラル盤ではいつものコンヴィチュニーらしく、比較的ゆったりしたテンポで、急ぐことの無いのんびりとした旅の上、新鮮な空気が気持ちよい田園風景のある村に到着した清清しい気分といった感じだ。
レガート表現さえ見られる演奏なのだ。

それに対しステレオ盤では、今までのコンヴィチュニーらしくなく、まだかまだかと、はやる気持ちで、待ちわびた田舎にやっと到着することができた、比較すると、コンヴィチュニーには珍しい、きびきびした速めのテンポであった。

ターンテーブルの回転数が正規の回転数と違うことを考え、あらかじめ調整したから、もしあるとすればレコード側のピッチがおかしいことになるが、両録音のピッチはほぼ合っていて、たいした誤差ではないと思う。
ほかにも違いは見られたが、大きく違うこの2つをもってすれば、両演奏が別演奏の録音であるということは、ほぼ確実であると思う。

視聴で用意したベルリンクラシックス全集盤、EDEL全集盤、アナログ国内LP、エテルナのLPの音の違いから、「渋い」「いぶし銀」といわれてきたゲヴァントハウス管の音色が、相当誤った過去のイメージを引きずっていることを、立証した文章を大量に書いてきたが、其れも全部消えてしまったから、今ここで再度書く気力が無いので、いずれまたということにしたい。

唯一1990年代初期に国内販売された「コンヴィチュニーの芸術」シリーズの中のモノーラルCDを聞いてみたいが、入手困難のため、いずれオークションなどでめぐり合えれば追記したい。
加筆)いつも訪問していただいている、abendさんによると、ダイヤモンドシリーズの田園は、ステレオ表記だが実際はモノーラルで、今回入手した大全集盤=芸術シリーズ盤と同じものではないかという連絡があった)

加筆)小生の結論は、上の2つの理由から、両演奏録音・・・モノーラルスタジオ録音とステレオスタジオ録音は異演奏ということになった。

by noanoa1970 | 2011-10-22 00:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

コンヴィチュニー/SKDのベートーヴェン4番

コンヴィチュニーの4番の交響曲は既出の、ライプチッヒ放送響とのライブ、ゲヴァントハウス管との録音があるが、今回のSKDとのライブ録音で都合3種類となった。

SKDとのベートーヴェンは、コンヴィチュニーが首席指揮者時代の、非常に評価の高い「エロイカ」があったので、今回の4番はいやがおうにも期待を持たせるものであった。

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今回の演奏は、1953–1955 と、このオケの首席指揮者を務めたコンヴィチュニー、6年ぶりの里帰り、勝手知ったるオケだといえるから、思い切りドライブ可能であるだろうから、客演指揮者とは違う何かが有るだろうことの期待も湧いてくる。

前回の23番の協奏曲同様、ザルツブルグ音楽祭での演奏録音で、もちろん発復刻初出CDである。

コンヴィチュニーの録音の質は同じ年代のほかの録音と比べ、余り芳しくないものが多く残念なことがあるが、1961年の今回のライブ録音は、モノーラルであるのが残念だが、当時のほぼ水準並みの音質で、コンヴィチュニーの録音としては、最上級の音質の録音であることを先ず指摘しておかねばならない。

4番で非常に大切な出だし部分、えもいわれぬ暗い底から、這い上がってくるような、不気味な弦のピチカートを伴う響きは、残念ながら弦楽器と管楽器群のピッチが狂っているせいで、端から別の意味の不安を抱かせることになってしまった。

しかし、ブラームスの4番でも経験したことだが、徐々にその不具合が解消され、途中から先ほどの音からは信じられないような、凄いオケに変身していったことがあったから、今回も其れを思い出しつつ期待をした。

さすがにSKD、2度目の弦の大きなグリッサンドの少し前あたりから、オケのピッチはビシッと合うようになり、リピート時には、さらに隙が無いほど揃うようになって、ようやくSKDの本領が発揮されることとなった。

返す返すも、この曲で重要かつ意味深長で大切な、冒頭の和声のピッチのずれがもったいないが、その後の立ち直りの速さは、実に見事であったから許すとしよう。

いぶし銀の音色といわれて久しいSKDだが、今回はその印象からは少し遠いシルキートーン、艶やかな音色を出していて、SKDやLGOを評してよく言われてきたオケのトーン、渋い音、東ドイツの音などと言う表現が、いかに色眼鏡で見た印象表現だと、ばれてしまうような音である。

1楽章第2主題において、コンヴィチュニーは、フルヴェンやカラヤンとは違い、フルートの旋律の後の個所に前打音を入れるスタイルを採用していて、第1主題にすでに出ている物悲しさの強調を回避したが、ここでもその方法で演奏しているが、このやり方は小生の好みでもある。

弦楽器群の上昇下降を繰り返しながら進行するところ、たいていのオケはここでハーモニーの乱れが生じるることが多いが、SKDは全てにわたってピシっと合っていて、乱れなどは恐ろしいぐらい皆無だ。

2楽章は特に弦の力量が発揮される楽章だが、クレッシェンドそしてディミニュエンドの変化の様子を、とても表情よく出しきっている。
ハーモニーがつけられたメロディーをを長く引っ張る時の美しさは、このオケが伝統の上に胡坐をかいている古い体質のオケであるなどということなど微塵も感じさせない程、アーバンセンスを持ち、洗練されていて、ドイツの田舎オケとは全く異なるものだということをしめすものだ。

コンヴィチュニーの強弱の変化をうまくとらえた表現する指揮も平坦になりがちな楽章から抜け出ている。同じように活躍する木管楽器、中でも特にクラリネットとフルートの技術は群を抜高レベルにあるといえる。

2楽章は木管金管楽器群が活躍する楽章、聴こえるホルンは、ペーターダムではないにしろ、音が凄く良い。
満を持して登場するティンパニーの後のコーダは、とてもコンヴィチュニーらしい。

3楽章も音の上昇下降という、この楽曲共通のコンセプトがたもたれていて、それに強弱が付け加えられるが、コンヴィチュニーの短くも鋭いクレッシェンドのちりばめは、短いこの楽章を意味あるものにしているようだ。SKDは相変わらず木管楽器が美しい。

終楽章は弦の細かい刻みの上に管楽器が迅速かつ美しいメロディーをつけてゆくが、それまでの楽章とは違い、ほぼ全般にわたり忙しさがある楽章である。
この楽章のテンポ設定は指揮によって大幅に違うようで、中には追い立てるようにたたみ込む指揮者もいるぐらいだ。

コンヴィチュニーはAllegro ma non troppo、自身の田園の1楽章とくらべ、少しだけ速めのテンポを取っているが、管楽器の特に速いテンポでメロディーを吹かなくてはならないファゴットも、何の問題もなく軽々とこなしていて、このオケの個人の技術レベルの高さをも再認識させられた。

極端に急いではいないが悠長ではない、ちょうど良い塩梅のテンポ設定で、なぜかコンヴィチュニーのテンポは、小生の好みとピッタリと合うことが多い。

こういう演奏を聴くと、奇しくも同じORFEOレーベルから発売になり、評価が高いC・クライバーあたりの大仰な音作りが鼻につき始めてくる。
クライバーの音楽からは、ベートーヴェンの姿は見えなくなってしまっていて、良くも悪くもクライバー自身が前面に出てしまったが、コンヴィチュニーの音楽は自分を抑え、視聴者にベートーヴェンの姿を見せることが可能な音楽であるといってよい。

演奏を通して自分を見せるのでなく、楽譜の向こうに作者ベートーヴェンを思い浮べることが出来るような音楽であると言い換えてもよいだろう。

このたびのSKD/コンヴィチュニーの4番は、同じオケで録音し絶大な評価がある「エロイカ」の演奏とくらべて、決して遜色ないばかりか、さらに上の評価をしても文句は出ない、そのように小生は確信するものである。

by noanoa1970 | 2011-10-12 00:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

グルダとコンヴィチュニーのモーツァルト

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待っていたCDが8時間ほど前、10日の夕方に到着した。

ザルツブルグ音楽祭で、グルダとコンヴィチュニーが共演した、非常に珍しいライブ音源の初音盤化である。

コンヴィチュニーの初音盤はそうざらにあるものではなく、SKDとの「新世界」が数年前にあっただけだが、今回はそのSKDを振ったベートーヴェンの4番の交響曲と、R/シュトラウスの家庭交響曲、そしてモーツァルトの23番のピアノ協奏曲が、グルダとの共演録音で、初お目見えすることとなったのだ。

今回ベト4は少し後まわしにして、最初にグルダとの演奏を取り上げることにした。

ベト4に関して一言、SKDとのエロイカ同様、コンヴィチュニーの3つのベト4演奏中の白眉である素晴らしい演奏といって良いが、これに関してはいずれすぐに記述したい。

まずは心配される録音状態だが、モノーラルであるのは残念だが、1961年8月録音は、コンヴィチュニーが無くなる丁度1年前の録音と言うことになる。

音質は以外に良くて、コンヴィチュニーのライブ録音の中では最も良い録音である。
録音レベルがやや低いので、ヴォリュームを上げ気味にして聴く必要はあるが、雑音も無くライブにしては上出来で、マスターリング妙味に尽きる音質であるといえるであろう。
グルダのピアノは、鮮烈な音といえないものの全く音質に瑕疵は無く、気になるような音揺れも殆どない。

少しハイ気味であるが、細かいところまでよく拾った録音で、SKDの上手さが手に取るように分かる録音であることも付け加えておきたい。オーディオ装置によっては、低音の強奏が団子に聴こえるかもしれないが、録音のせいではないから、オーディオ装置の調整でなんとかなると思う。

1楽章の冒頭の序奏での弦楽器の表情と音色は、さすがSKD、光沢があり柔らかさを伴うもの。
テンポはアーノンクール盤と同等やや速めの設定である。

弦の序奏の後、ピアノが徐に登場するが、このときかすかにグルダの歌う声が聞こえてきて、グルダが興に乗ったときに出る鼻歌は、近年と変わらなかく、思わぬものを見つけたという喜びがあった。

弦楽器の強奏時には、弱奏にまして優雅な柔らかさと艶を伴った、美しい音色を聞かせてくれたが、シルキートーンとはまさにこう言うものなのだろう。

古い音源によくある音の揺れは殆どないといってよく、ピアノの音も鮮明である。
断定はしないが、高音部の神経質なところがない響きと低音部の豊かさから、使用したピアノはスタインウエイではなく、ベーゼンかベヒだと思うが、録音状態によって大幅に変化するから真相は分からない。

木管楽器群がやや引っ込み気味であるが、そんなに気にはならない程度。
グルダの装飾音符の使い方は、いつも見せるような奇をてらったところは微塵も無いし、1楽章のカデンツァは、一般的なモーツァルトのもの。
オーソドックスだが、細かい仕掛けを気づかないように随所に施した、繊細かつ大胆な演奏だ。

嬰ヘ短調の2楽章は期待の楽章で、ほの暗い雰囲気をどのぐらい表現できるかが小生にとっての聴き所。
グルダのピアノから始まるが、この楽章でグルダは、細かいシンコペーションを多用していて、ややもすれば平坦になりがちな音楽を表情豊かにしていて、トレモロ1つとっても、非常に表情が豊かである。

コンヴィチュニーのオケは、小生的にはもう少しほの暗さがほしかったが、PPからゆるくクレッシェンドしていく、細身のクラリネットの入りは特筆ものであるし、グルダのシンコペーションに呼応するように、非常に繊細なオケの動かし方に、いつも思うことなのだが、伴奏時も変わらぬコンヴィチュニーの凄腕を、今回もタップリと味うことが出来た。

2楽章は、演奏者の腕の見せ所でもあるが、それだけに手抜きなどをすれば、すぐに分かってしまう怖い楽章のような気がするが、グルダもコンヴィチュニーも非常に集中度が高い。
コンヴィチュニーのアダージョ楽章は、思うより良いものが多く、音楽に語らせる術に長けているのは、長年の歌劇場指揮者経験で培ったものと思う。

お互いを良い意味で意識し、刺激しあったた結果であろう。このときグルダは31歳、ウイーンの三羽烏と言われ躍進中であり、大指揮者コンヴィチュニーと互角にエ渡り合える実力を既に持っていたことがよく分かる。

音楽祭であるがゆえ、聴衆は普段のコンサートとは一味違う、各国の音楽通たちが集まっていると推測され、それも演奏家の良い緊張感を持つにいたらしむ要因となったのだろう。

2楽章は特に良い仕上がりの楽章で、これまでのグルダの2つの演奏以上の出来ではないだろうか。
クラリネットの入りの後の低弦の分厚い響きを聴くと、魂が揺さぶられるようだ。

終楽章はテンポをさらに速め、初夏の風がに爽やかに駆け抜けるようである。
グルダのピアノはとても滑らかで快活なしゃべりを見せ、テンポルバートをしのばせることで、ウイーンの風味を一味加えた感じ様相をを演出した。
この楽章でもグルダのトレモロは抜群で、単に快活に転がるものではなく、1音1音に意味が込められているように表情豊かに響く。

通常ピリオドで演奏する箇所を、コンヴィチュニーはスタッカートで演奏し、躍動感をいっそう出しているが、目立たないが表情付けに利くものを、コンヴィチュニーにしては珍しく、積極的に取り入れたのは、グルダとの共演の隠れ効果であろう。

グルダはとにかく指がものすごく回っていて、速弾きの箇所もミスタッチなどは皆無で、相手がコンヴィチュニーだけに、思い切ったことは出来ないにしろ、余裕があるから、自然と隠れた遊びを入れることが出来たのだろう。

其れがどの場面かなど気にしながら聴くのも、何回も聴くうちの目的の主な1つとしては悪くない。
特にグルダにはそういう要素がたくさんあるから面白い。

小生の印象は、アーノンクール、北ドイツ放送交響との弾き振りを加えた中で、今回の演奏録音が最上級であるという評価をした。(ロスバウト/バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響は未聴)

ただしモノーラル録音で、少々ハイ上がりで録音レベルが低いことを付記しておく。
しかしコンヴィチュニーのライブ録音では最上の録音状態で、非常に聴きやすい録音であることも併記しておく。

貴重な優秀盤が発売にいたったことを改めて感謝したい。

by noanoa1970 | 2011-10-11 00:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)

恥ずかしながら、初めて気がついたこと

フランツ・コンヴィチュニーは、小生が最も好んで聴いている指揮者である。
今日はその中からコンヴィチュニーがバックを勤めたものを聴くことにした。

両方ともにブラームスで、1番と2番のピアノ協奏曲だ。

1番はジュリアス・カッチェンとの組み合わせで、録音が古い割りには、鮮烈なピアノが聴こえてきて、少し重たげなコンヴィチュニーの重厚な指揮は、ブラームスにとてもよく似合っていて、アンコールのモーツァルトP協奏曲20番2楽章まで、あっという間に聴き終えてしまい、満足感が漂う中、少し休憩を挟んで、こんどは2番を、エリー・ナイのピアノで聴くことにした。

(奇妙で少し怖いエリー・ナイ/コンヴィチュニーのCDジャケット)
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音盤はいずれもモノーラル録音だが、エリーナイのピアノは、本日の話題の機種判別問題を抱えるが、演奏は筋が通っていて悪くない。
発売はドイツのヴォイトブリック社である。

冒頭のホルンの序奏開始は、さすがLGOだけのことはあって、非常にスムーズで音色が良い、続くピアノの参入への期待が否応なしに高まってくる。

しかし、この音盤ピアノの音が篭もりがちで、カッチェンの録音のような鮮烈さは微塵も無く、ただただエリーナイの確信に満ちたような音のピアノが唯一の満足点だが、せっかくのコンヴィチュニーの硬軟交えたサポートも、録音状態は余り芳しくないので、少々聴き辛いところがある。
といくに肝心のエリーナイのピアノだが、キレもノビも無く寸詰まりの、風呂場で聞こえるような音となってしまっていたから、しょっちゅう聴く音盤ではなくなっていた。

しかし本日仰天することが起こってしまい、自分の耳を疑う羽目になってしまった。
と言うのは、エリーナイのピアノの音がよくないのは、録音のせいだとばかりい思って今日まで来たのだったが、どうやらそうではなくエリーナイが使用したピアノが、近代ピアノではなく、フォルテピアノであるのではないかという、これまでは全く思いもしなく、気がつくことも無かったことだった。

近代ピアノの音とフォルテピアノの音の違いは、おそらく誰にでも判別可能で、小生も自信があるし、多くはないがフォルテピアノ使用の音盤も聞いてきたから、間違えるはずは無いと確信し、自信もあるはずていた。

しかしこの方約5年、といっても聞いた回数は数えるほどなのだが、これをフォルテピアノだとは気がつきもしなかくて、ただ録音がよくないからだとばかり思っていたのだった。

今回聴いてすぐにフォルテピアノではないかと思った要因で、其れまでとは違うことと言えば、もちろん小生の耳がよくなったわけではなく、あるとすればCDPを変更したこと、それしか考えつかない。

ピアノフォルテ使用だとした小生の耳情報が、果たして正しい情報なのかを探すために、方々あたったが、気品のあるピアノであるという評価はあるものの、どれをあたって見ても、使用ピアノがフォルテピアノという表記がない。

CD裏にあるパーソネル情報には、エリーナイ:クラヴィアとだけかかれている。
この情報で使用ピアノが、フォルテピアノと端から分かる人など誰もいない。

外国語でしかかかれてないCD解説にも情報は無いし、ほかの情報も、情報源は同じだと思われる記述しかないのだった。ヴォイトブリックと言う会社其れを輸入した会社も、ユーザーサービスには実に疎くて、ためになりそうな情報は一切提供しない。

優良な情報がこれ以上見当たらないので、小生のの耳が正しいのか、そうでないのか、まだ断定は出来ないが、このことに関して小生は確信に近いものを持っている。

音の円さといい、響く音とそうでない音が混在し、その差ががかなり激しいのは、いくら音がよくないからといっても、近代ピアノで体感したことはないから、なんと言ってもフォルテピアノだと小生は確信に近いものを持つに至った。

それに、エリー・ナイが、ベートーヴェン時代のフォルテピアノを使って、後期ソナタを録音したものを聴いたことがあるから、可能性が無いわけではない。

それにしても製作社、販売会社から一切の情報が無いのは、完全に視聴者をなめているとしか思えない。

ブラームスの2番のコンチェルトを、フォルテピアノで演奏したのが事実だとすれば、よき宣伝文句にもなるし、購買も増すことだろうに、小生が間違っている可能性はあるにしても、其れはものすごく低い確率だと、それほど自信があるから、そしてCDPを変えたことによって気がついいたことでもあるから、微妙なところがあるにしろ、さらに聞き込んで自信と確信を持つにいたった上での結論であった。

万人向けのCDで無いから、お聞きになられた方はごくごく少数と思われるが、もしお聞きになられた方がいらっしゃいましたら、ぜひ御意見お願いします。

by noanoa1970 | 2011-10-10 10:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(20)

F・コンヴィチュニーの「ラインの黄金」

コンヴィチュニーの「指輪」とだけいえば、今や演出のペーター・コンヴィチュニーが有名になったが、これはペーターの親父のフランツ・コンヴィチュニーが、1959年9月18日から、ロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場で、「指輪」全曲を公演した時のライヴ音源から、前夜祭「ラインの黄金」の復刻盤である。

「指輪」全曲録音、残ってはいるが、今までコンヴィチュニーの「指輪」は、いわば幻となっていて、聴くチャンスはほとんどない状態であった。

小生は10年ほど前に、ネットオークションで、海賊版の「ラインの黄金」を入手したが、音源の状態に欠落やノイズが多く、ジックリと聴ける状態の代物ではなかった。

最近この時の第1夜「ワルキューレ」正規盤が発売となったので、早速入手して聴いてみたところ、音質は多少改善されていたが、イコライザーで中音域を下げた時のように、全体が詰まったような音だった。

しかしもともとワーグナーに定評のあったコンヴィチュニーらしく、1音1音に魂がこもり、確信に満ち自信に溢れた演奏で、歌い手の能力を、最も高いレベルで引き出す役割を十分担っているのが確認できた。

第3幕の前奏曲「ワルキューレの騎行」のところを聴くと、コンヴィチュニーが、いかに物語の流れを把握して音楽を作っているかがよくわかる。

歌手陣の起用は、海外公演としては(だから)豪勢な顔ぶれである。
また東ドイツと西ドイツの面々が参加しているのも、この公演に臨むものが、如何に大きいものであったかを想像させる。

戦後間もなくの東ドイツは、西ドイツに負けじと、得意の芸術領域で活発な海外へのアピールをしたという。

1962年のゲヴァントハウス管とコンヴィチュニーの来日も、そういう政府の政策の一環であったともいわれる。

「ワルキューレ」の主な出演者は
ラモン・ヴィナイ(ジークムント) 
アストリッド・ヴァルナイ(ブリュンヒルデ)
ハンス・ホッター(ヴォータン)
クルト・ベーメ(フンディング)
エイミー・シュアード(ジークリンデ)
ウルズラ・ベーゼ(フリッカ)、他
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団、合唱団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

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本日聴いた「ラインの黄金」であるが、以下のプロフィールである。
WLCD0334 2枚組 初出
ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」
ハンス・ホッター(ヴォータン)
リフャルト・ホルム(ローゲ)
マルガ・ヘフゲン(エルダ)
クルト・ベーメ(ファゾルト)
エドガー・エヴァンス(フロー)
フランツ・コンヴィチュニー指揮
コヴェント・ガーデン管弦楽団、合唱団
1959年9月18日ロンドン、コヴェント・ガーデンでのライヴ

ワルキューレにも増しての歌手陣が揃った傑作である。
同じ音源だと思うのだが、ワルキューレよりも音質が良くなっている。
発売元は、いずれもWALHALLだが、マスターテープの保存状態が良くなく、劣化したのだろうか。

前に入手した海賊版にあった、コピーテープの音揺れや、音の欠落などもなくなっているから、細かいニュアンスが捕まえにくかったところは、かなりの改善だが、1959年録音にしては、音源そのものの録音状態が芳しくないようだ。

どうもコンヴィチュニーの残した録音に、一部を除きあまり音質が良くないものが多いのは、とても残念なことだ。

米国ではそろそろステレオ録音が主流になりつつある時代だったから、ヨーロッパの録音技術はやや遅れていたのかも知れない。

この頃のハンス・ホッターは、貼りがある朗々とした声は、ヴォータン役の定番に相応しい。

オペラ指揮者としてのコンヴィチュニーは、とにかく物語の流れをよく掴んでいて、脇役に徹しながらも、集中力が途切れる事のないように、適度な緊張感を保つために、殆どわからないほどの、非常に細かい変化をつけることにあるようで、歌手陣もコンヴィチュニーのそうした工夫と、冷めながらも熱い音魂のバックに、集中力を切らさない熱唱をしている。

海外公演で、しかも現地のオケだから、あまり練習やリハーサルなどが出来なかったであろうにも拘らず、コヴェントガーデン管は、さすがにオペラに慣れているせいか、他の指揮者とは少し毛色の違う、コンヴィチュニーの解釈にも破たんなく、その能力を発揮している。

ホルンのひっくり返りは、致し方ないことにしておこう。

噂だったヴィントガッセンの出場はこの2作にはない。
ジークムント役はラモン・ヴィナイだったが、残りの2作品のジークフリート役での期待が残される。

by noanoa1970 | 2011-05-30 15:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「ドイツ的」ということ

「~的」という言葉の使い方は、大変便利である。

とくに文化芸術、音楽において、よく使われ見られるのが、「ドイツ的~」という言葉だ。

「ドイツ的」という言葉は、中でも演奏行為を、そしてその結果の音楽を説明したり、評論するときに用いられることが多い。

事実ネットで、「ドイツ的演奏」で検索すると、その言葉を使って語られる多くの記事を発見することができる。

小生自身の経験では昔、音楽雑誌である複数の評論家が、演奏・音盤批評や解説をする際に使った記事を読んだたことが最初だったように思う。

しかし今その時の文章を読み返して見ると、その当時はなんとなくわかったような気になっていたのだったが、今考えてみると「ドイツ的」という言葉の意味合い、「ドイツ的」という概念が、具体的には何を指しているのか、よくわからないし、どうにでも取れるような曖昧な表現だから、そのニュアンスたるや、受け取る人によってまなり違うということが予見される。

したがって、その言葉「ドイツ的~」を使った文章の受け止め方、理解の仕方は、受け取る人によって相当にバラつき、文章作者が言いたかったことが、曖昧模糊としてしまう結果になりがちだ。

ならば、過去から現在まで、とくに芸術・音楽上でよく使われてきた、「ドイツ的」あるいは「ドイツ的演奏」の具体的意味とは何かを、改めて今、探ってみなければなるまい。

そして出来れば、その言葉における自分の概念を確立しておきたいものだ。

そうすれば、これまで意識して自分で使うことを避けていたこの言葉を、屈託なく使うことが可能となる。
もちろん「ドイツ的とは何か」の説明をつけての話だが。

でもそうなると、概念化したものを包括して、言葉にすれば良いから、わざわざ「ドイツ的」という言葉を使う必要がなくなるかも知れないが、しかし短い言葉で多くを語れるから、便利であることは間違いない。

適宜な概念が確立できるか、はてまた、やはりこの言葉による表現は、無意味だから、今後も使わないといった、結論になることもあると想定されるが、どうなることやら。

「「ドイツ的」、あるいはもう少し具体的に、演奏を表して「ドイツ的」と聞いたとき、何を想像想定するかを、まず整理してておかねばならない。

小生の場合想起するものとしては、以下のような項目がある。

重厚、構造的、楷書体、着実、冷静沈着、伝統、地味、頑固、拘り、暗い森、歴史、精密、職人、勤勉、燻銀、鈍重

ざっと以上の言葉が思い浮かぶが、多分それらは、今まで様々な人が音楽を表現してきたときの言葉が、知らず知らずにに定着した結果であろう。

この指揮者の音楽は「ドイツ的」だ、という表現で連想するのは、イメージが似通った、上のいずれかの言葉の複合中に存在することが多い。

そしてなかで最も多いのは、重厚、構造的という言葉で表されるイメージであることのような気がしている。

しかし果たして、ドイツ的=重厚で構造的という、代表的な言葉のイメージがもつものだけで語ることができ、それで狙いのものを語れたということになるのだろうか、そしてそれで納得出来るものだろうか。

「日本的」に置き換えてみれば、説明表現するべき事柄が多過ぎて、それゆえに大事なものが表現できない語れない、そんなことに気がつくからなおのこと、「ドイツ的」を、単視眼で表現してしまうと、そこで完全な思考停止に陥ってしまうことになる。

振り返れば、「ドイツ的」という言葉の概念など確立しなくても、ボンヤリとした何おかをつかめれば、よかったのかも知れなく、そしてそれ・・・ボンヤリとした何か・・・言わずもがなのようなものが得られること、それは日本人共通の思考法であったのかも知れない。

でもそのことは、共通認識の土壌があった時代には通用したが、価値観が多様化した現代においては到底無理なことであろう。
だからこそ言葉の意味を指し示すもの、つまり言葉の概念が、昔に比べさらに強く求められるのではないか。

それはさておき、この言葉がよく使われる場面を考えたときに、真っ先に思い浮かべることができるのは、生粋のドイツ人演奏家に対してのようで、そうした演奏家に対する評論の中に多いのは事実である。

そういう演奏家・指揮者に、シューリヒト、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヨッフム、クレンペラー、ケンペ、ベーム、カイルベルト、ホルストシュタイン、テンシュテット、サバリッシュ、スイートナー、ザンデルリンク、ヴァント、マズア、ケーゲル等があり、これらの指揮者の演奏の特徴を指し示す1つとして、「ドイツ的演奏」という言葉が使われてきた。

準ドイツ人では、コンヴィチュニー、イッセルシュテット、クライバー、クリップス、ラインスドルフ、カラヤン等があるが、最初の2人以外の、とくにカラヤンにドイツ的という言葉を使った例は、あまり見かけない。

非ドイツ人系の指揮者には、殆ど使われないに等しく、あえて言えば、フリッチャイがドイツのオケでドイツ音楽を振った時に対してぐらいだろうか。

学生時代、男に男性的、女に女性的という言葉を使うのはおかしい、と言う持論を曲げない先輩がいた事を思い出した。
多分そのことは、かぶせた意味の・・・二重の言い回し言葉になるから、そして分かりきったことで無駄な言い回しだというのが、その理由だと思うのだが、真意を確かめたことはない。

先輩に言わせれば、ドイツ人の指揮者の演奏を表現するのに、「ドイツ的」という言葉は、おかしいということになるのだろう。

統計をとったわけではないから、感想に過ぎないが、どうも生粋の少し古い世代のドイツ人で、往年の演奏スタイルの指揮者に対して、「ドイツ的」という言葉が使われる頻度が高そうだ。

このことは、ドイツ的≒古めかしい、伝統、堅実、正確、重厚、といった言葉の象徴的表現として使われていると見て良いだろう。

加えて、渋い、鈍い、着実、忠実、隙がない、集団的、という意味合いが含まれていることがあるようだ。

上に挙げた指揮者以外にも、該当するものはまだまだあるだろうが、小生が聴きなれたものに限定しておくことにしたので、最近の人については記載しないし、演奏を聞く限り、最近の若手の人の多くは、そのような概念でくくることが難しいのではないかと思うことがある。

カラヤンに関しては、ドイツ的云々は、小生の知る限りでは、ほとんど聞こえてこなかったようだ。
これは何故か、興味があるが、この件に関しては今後の課題とする。

主にドイツ最古参のオケLGOを率いて活躍したせいだろうか。
コンヴィチュニーは、純粋ドイツ人ではないが、しかし、あまたの指揮者の中で、最もドイツ的という言葉で、表現されることが多いと思われる。

ぜひ言及して置かなければならないこと、それはオーケストラについてであり、ドイツのオケの紡ぎ出す音楽を、指揮者ともに「ドイツ的」という表現で語られることが多いということだ。

上記の指揮者がフランスのオケを振った音楽を、「ドイツ的」とは絶対に表現せず、たとえそうであっても、違う言い方をするのではないだろうか。
まして、フランス人指揮者がフランスのオケを振った演奏、例えばミュンシュ/パリ管のブラ1、これはドイツ的と言って良い演奏だと思うのだが、ドイツ的という表現をしたものを見たことがはい。

新旧入れればもっと多いが、上記指揮者との組み合わせが多く、例えば「ドイツ的な響き」と言われることがあるものに絞ると以下のオケがその代表だろう。。

ベルリンフィル、シュターツカペレドレスデン、ゲヴァントハウス管、jハンブルグ響、バンベルク響、バイエルン響、ミュンヘンフィル、など。

お隣りのウイーンフィルに対しては、どの指揮者との組み合わせにおいても、「ドイツ的」という言葉はあまり出てこないように思う。(ベームがそうだったかも知れない)

もっと調べなくてはならないが、このあたりで、「ドイツ的」という意味合いを探ることに話を進めたい。

どうもドイツのオケ、ドイツ人指揮者、そしてそれらの組み合わせが作る音楽の表現に、「ドイツ的」という言葉が使われることが多そうなのは、間違いないことであると思う。

もっとも、ドイツ人の組み合わせで演奏するのだから、「ドイツ的」は、奇異でないはずで、そのニュアンスはなんとなく分かりようもある。

しかし「ドイツ的」という言葉で表現される演奏の印象はというと、受け取り手によって、千差万別とは少し大げさだが、確固たる特定をすることは困難で、最も近いものとして、先に挙げた、「ドイツ的」で連想するものの中の、複合となってしまい、相変わらず消化不良は続く。

誤って伝わるおそれが十分にあるから、それでは評論家など執筆を生業としている諸氏の、文章表現としては、最適とは言えない。
しかし、逆に曖昧にすることを意識して、演出する人がいるように思うところもあるから、事はそんなに単純ではないようだ。

これらのことを踏まえ小生は、主にドイツ人による演奏に、「ドイツ的」という言葉を使う理由を、「ロマン主義」そして「ドイツロマン派」の特質を探ることで、つかむことが可能になるのではないだろうかと、仮説を立ててみることにした。

懐かしくも学生時代に帰ったようだが、この際、「ロマン主義、ドイツロマン派」について、簡単に整理し、まとめておくことにする。

「理性」と「感性」、「普遍」と「個」の対比における後者がロマン派の特徴。
対立概念は「古典主義」。
18世紀末~19世紀末に、その潮流は顕著になり、その旗頭は「ドイツ」。
ドイツロマン派の影響はヨーロッパ規模であったが、元祖のドイツに、かなり強力に根付くことになった。
文学における、シュトルム・ウント・ドラングが、芸術領域に影響し、詩、演劇、絵画が反応、技術の陶冶が強く必要とされた音楽は、伝統的保守的で、潮流に乗るのが遅れた。
啓蒙主義的な発想から、個また個の内面の感情や想いの表現への転換。
国民、民族意識の覚醒。
他の芸術とのかかわり、コラボレーション。
「異」なるものへの郷愁。
食べ物、異国の寓話、異形なるもの、架空空想、未知への興味。
自然回帰
自他国の民話童話に学ぶ姿勢。
異界魔界への興味。
非キリスト教化の動き。
ユダヤ人の台頭。
昔帰り思想と新しいことへのチャレンジ意欲。
ギリシャ・ローマ時代文化芸術への郷愁。
市民社会、大衆の出現による音楽・芸術環境の大きな変化。
有力パトロンの減少。
室内楽等個人的なものと、大衆向け巨大化音楽の出現。
エキゾシズム、オリエンタリズムの輸入。

以上参考文献を踏まえて、ザックリと上げてみた。
これらのことから、「伝統と革新」「内容が形式を破壊する」といった要素が混在し、結果「自己矛盾」に陥った時代であると考えられるから、「自己矛盾」の時代という言葉でロマン主義、ドイツロマン派を表現してもいいように思われる。

つまり
一方で有ることを望むが、他方ではそれを否定して見せる。
あれかこれかという2者択一から、あれもこれも、という欲求が目覚める。
個と集団、家庭と国家意識などの対立概念の無意識的同居。
インターナショナリズムとナショナリスムの葛藤。
それらの矛盾を抱えながら、ドイツロマン派は、時代を乗り越えて行かなくてはならず、それらからスピンオフした優秀物をたくさん輩出した。

例えば新即物主義、表現主義も、ドイツロマン派からのスピンオフ。
カールマルクスもその一人だと小生は思っている。
ロマン派から派生したユートピア、それがマルクスの思想と結びついて行くように思うのである。

このような例を示すまでもなく、ロマン主義、あるいはその中心的存在の、ドイツロマン派が、後世・・・ドイツのそれに及ぼした影響は、計り知れない。

このことを前提するなら、「ドイツ的」とは、ロマン主義的、ドイツロマン派的、と言い換えてもよさそうだ。

古いものと新しいものの共存。
自分流。
オリジナリティと模倣の重視。
日常と非日常の絶え間ない日々。
現実と架空。
異次元なるものへの憧れとと安定した現実の欲求。
予感と現実の格差。
個の範疇の己と社会的己。
規律の中の自由、自由の中の規律。

以上のように、対立軸上にあるものを、内包しながら、時には止揚しながら生きていくこと、それはいずれも人生の「矛盾」の克服に尽きるようだ。

そしてそれらのロマン派の基本的概念把握は、「ドイツ的」とは何かを探るのに、非常に重要なことだということが認識できる筈だ。


音楽の演奏に絞ると、例えば、ソナタ形式で作られた曲を演奏する際に、そのことがとても顕著に出るような気がする。
一般的にソナタ形式は、古典派の時代、つまりハイドン、モーツザルト時代に成立進化したといわれるれるが、音楽の重要な目的の1つを、ダイナミクスにおいた、ベートーヴェンで、ソナタ形式は本格的に開花した。

小生はベートーヴェンを、ロマン派の中に入れる方が正しいのではないかと思っている。
その意味でロマン派の時代にこそ、ソナタ形式は本当に進化を遂げ、さらに発展変化して、後人に受け継がれていくのである。
つまり対立概念や自己矛盾の克服、止揚のストーリーがソナタ形式に内在すると見るからである。

質実剛健、オーソドックスという言葉でドイツ的なるものを表すことがあり、その言葉が使われる対象として、フランツ・コンヴィチュニーという指揮者と組み合わせでゲヴァントハウス管の音楽がある。

しかしながら、彼らの演奏をよくよく聞いてみると、彼らの演奏が決してその言葉だけで表現できるのではなく、まさにドイツロマン派の特徴とオーバーラップすることが多いことに気がつく。

近代オケが取り入れたビブラート、そして第1と第2Vnを隣同士にしたオケ配置。
それらを昔から今日まで一切取り入れてこなかった、いわば格式と伝統を重んじる両者。
LGOは、指揮者が変わっても、ノンビブラート、オケの両翼配置を変化することはないようだ。
ここ30年ほど前から、ノンビブラート、両翼配置に代表される、ピリオドアプローチ演奏様式がとりざさされてきたが、ゲヴァントハウス管は、250年前からこの方式を採用してきており、近代楽器を使っている今でもそれを守っており、ピリオドアプローチの演奏以上に伝統的かつ革新的な音の表現をすることができるオケだ。
演奏しやすい改良管楽器を使うことをあえてせず、オーケストラ所有の昔ながらの楽器を使うという伝統もある。

しかしそのことが大いなる誤解を生んでいて、これらの環境において、コンヴィチュニーという、カペルマイスターとともに、創りだされる音は、渋くて鄙ているが、どっしりとした安定感がある、という論評がその最たるものだ。

しかし、楽器がが古く、ノンビブラート奏法の音が、そんな言葉で表すような音を実際に出すのかどうか。
そしてそのことは、コンヴィチュニー以前のゲヴァントハウス管の特徴として最も多く語られる。

それを認める人にとっては、コンヴィチュニー亡き後の、ゲヴァントハウスを称して、ゲヴァントハウス的≒ドイツ的あるいはドイツ伝統の音と言い換えることができるが、それが無くなってしまった、あの懐かしい、渋くてまるでいぶし銀のような音は、どこに行ってしまったのか、と言って嘆いている文章が未だに数多く散見される。

槍玉に挙げられるのは、かわいそうに、いつもクルト・マズアだ。

ほとんどが、コンヴィチュニー時代と比較しての言及で、しかいそれは、古きよきドイツを幻想的に語るのと同次元である。

残念なことに、そのような人の多くは、コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管の一部・・たいていはベト全か、良くてシューマン、そして「オランダ人」、最近ではショスタコーヴィッチも聞けるようになったが、主に最初の2つあたりでの感想に基づくもののようだ。

2002年に生誕100年記念で、コンヴィチュニー全集が相次いで発売され、それを契機に聞くようになった方もおられるが、それまで聞ける音盤は、特にLGOとの演奏は、ベト全かシューマン全ぐらいであり、よほどのコアなファンでない限り、熱心に聞く対象ではなかった。

小生は、LP時代複製各種マスターから製作された国内盤、そしてオリジナルに近い海外盤、CD時代には、BC盤EDEL盤と聞いてきたが、これぞゲヴァントハウスという音は、ETERNA盤で、これで聞くコンヴィチュニー/ゲヴァントハウスは、他のメディアで聞くときの音や雰囲気とかなり違う。

弦の音は艶が乗り、乾いた音、鄙びた音は全くしない。
ノンビブラートも、正しい奏法をして演奏すれば、ビブラートをタップリかけた弦の音に遜色ないばかりか、いぶし銀のような古びた音色ではなく、シルキートーンという表現のように、もっとなめらかで、明るく、変化追従能力の高い音楽を聞かせてくれるのだ。

最近はやりの、ピリオドアプローチによる演奏をお聞きになれば、弦の音色がちっとも渋くなく、暗くないばかりか、ハツラツとして明るいことがおわかりになるはず。

録音のせいで、せっかくのゲヴァントハウスの弦の音色が、本来とはかなり違う音色に変化してしまったことによる誤解の産物が、乾いた音、鄙びた音、古色蒼然などという表現を、使わざるを得ない印象になってしまったものと考えられる。

モノラルだが、比較的録音状態のよいいくつか・・・例えばベト5.7番のゲヴァントハウス管とのライブとか、オケこそ違うが、ベルリン放送響とのブルックナー、最近マスターテープが発見され、復刻されたバンベルク響との新世界、チェコフィルとのザ・グレイト、さらに極めつけ、来日公演のLGOとのベト9を聞けば、ベト全でのゲヴァントハウス管の音のほうが特殊であったことがわかると思う。

ベト全では正攻法で攻めたコンヴィチュニーだが、5・7番のライブ音源では、凄まじい盛り上がりと、実に変化点が多い音楽を創り、オケを自在に操ってている。
そして、もう少しで音楽が破綻しそうなギリギリまで、オケを引っ張り抜いて、自分が表現したいベートーヴェンを追求してみせた。

それでいて、楽曲の重要な箇所、例えばソナタ形式楽曲の各部分そして全体を通して、音楽的つじつまが合い、音楽が立派に成立していて、かなりの説得力を持った音楽になっている。

ドイツの戦車部隊がいるかと思うと、突然聖チェチーリアが舞い降りる、そのような対立概念を止揚し、いつの間にか音楽から解き放って見せるような結末を見せる。

そうした展開の巧み、さらに一旦染まれば抜けだすことが困難なほど魅力的な、アゴーギグによって、1聴すれば、すぐにコンヴィチュニーだとわかる、大きな特徴を持ち合わせている、近年珍しくなってしまった指揮者である。

酒に溺れそうな自分と音楽表現者としての自分が、同時に存在すること。
それを十分心得ていたようで、酒で赤ら顔のまま演奏台に上がっても、その演奏は、一切ブレることがなかったようで、アルコール依存症との汚名を着せられるコンヴィチュニーの中には、ロマン派特有の精神的2面性があり、密かに戦っていたのではないかと想像される。

このところ意識して、LGOが演奏したいくつかを聞いてきたが、コンヴィチュニー以後変化した、よくいwれるそのようなこと、実際には大したものではなく、オケが変化したとい言うより、束ねる指揮者の技量によって、音楽が変化した、そういった方がより正解ではないかと、強く思うようになった。

ノイマン、マズア、ブロムシュテット、ザンデルリンクと、いくつかの楽曲を聞いたが、ビブラートの薄め、やや薄めぐらいの差はあるにしろ、LGOそのものの基本姿勢にほとんど変化はなく、音色も言われるほどの変化がない。

ただシャイーは、ネットでしか見聞きしてないが、その範囲で言うことが許されるなら、変化点が多そうであるが、これについてはサンプル数が少ないから、いずれということにしておく。

長々書いてきて「ドイツ的」の概念形成ができたかと聞かれれば、YESとは言えないが、ロマン主義ドイツロマン派が、「ドイツ的」なるものの基本的内容形成に、大いに影響、貢献しているということの推測が、外れてはいなかった、とということを思い知った気がする。

by noanoa1970 | 2011-05-06 11:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)