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本日より

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noanoa1970

# by noanoa1970 | 2009-12-09 07:15 | トピックス | Comments(0)

カザルストリオでシューベルト1番を聴く

1928年録音のSP復刻、デジタルファイルにしたものからDLした。
既発売のSPそのものやLP復刻では、音質は相当良くないから、敬遠されがちだが、それでも昔からのファンは、大事に聞いてきたと思われる。

ここ最近、CD復刻リマスター技術がかなり進歩してきて、少し前では、あれこれ弄り倒して音楽そのものをダメにするケースが結構多かった。

しかし昨今では、そのあたりが改善されつつあるようで、DLした元音源の正体は確認できないが、聴いてみると、期待をはるかに超えた高音質(1938年録音とは思えない)であった…もっとも、バイオリン、チェロ、ピアノは、SP音源でもかなり程度のよいものが散見される。

カザルストリオは、カザルス、ホロヴィッツ、そしてティボーという、往年の名演奏家として名を残している、いわばスーパースターが集まったトリオだ。

経験的には、特に室内楽では、名のある者同士が参集したものに、良い演奏が少ない。
むしろ長くトリオやカルテットなどを組んで音楽をやってきた小集団に、あまり評価されてないが、素晴らしい演奏をすることが少なくない。

「百万ドルトリオ」として名高い、ルビンシュタイン、フォイアマン、ハイフェッツの組み合わせも、すべてにわたって素晴らしいかといえばそうも言えないところがある。

理由は多々あろうが、ここではそれについての言及は避けておこう。

それで、彼らの演奏はどうであったのか。

アインザッツこそ少しずれているものの・・・・バイオリンのティボーのリードがよくわかる・・しかし思惑は大外れしかも良い方向に外れた。

これは大変息のあった演奏だ。

カザルスもコルトーもティボーのリードに身をゆだね従って、優美なシューベルトを聞かせてくれた。

かなり練習を積んだのか、それともさすがは1流の演奏家、これぐらいのアンサンブルはわけもないのだろうか。

あるいは・・・・
そう思って調べると、このトリオの結成はなんと1905年ということが判明。

この録音はそれから30年以上たち、ティボーが55歳、カザルスが62歳、そしてコルトー61歳という、いわば円熟期の演奏録音だ。

結成してから30数年の・・・大いに気ごころの知れたトリオのようであった、だからレコード会社の思惑によって、にわかに仕立てられた名だたる演奏家の集まりとは一線を画すわけである。

小生はこの曲が2番とともにお気に入りで、新旧取り混ぜ、様々な演奏録音、生ではボーザールトリオを聴きに行ったが、この曲にも・・・特に2番はそうだと思うが、シューベルトの2面性が潜んでいるように思う。

ザックリ言ってしまえば、優しさや美しさが前面に出てくるものと、その反対でしかも表面的には明るく優しいが、その奥に潜むシューベルトの屈折した心情、暗黒面をも表出するような演奏があるように思える。

どちらもシューベルト、自分のその時の好みで、いずれのサイドをチョイスして聴くようにしているが、前者の代表例として、スークトリオの旧番、後者の代表例はウイーン・ベートーヴェントリオの演奏であろうと思う。

さてカザルストリオはというと、やはり時代性を反映してだろうか、美しさと優しさそしてそれに加え、何かに向かおうとする推進力、力強さをも感じることとなった。

歌うところはテンポルバートを巧みに生かし、歌いきっているし、各パートの掛け合いも、・・・往々にして有名演奏家の集まりでは、火花を散らすことがあるが、ここではまったくそのようなことがなく、じつに気持ち良い音楽が、信頼感あふれるパートナーシップの元で醸し出される。

個人的個性を表面に出そうとせず、お互いの音をよーく聴いたうえでの、そして相手が何を望むのかを常にキャッチアップしたような演奏だ。

かといって彼ら固有の「~節」での聞かせどころをちゃんと心得ていて、誰のチェロ、誰のピアノ、誰のバイオリンかが、単独演奏を聴きなれた人には、すぐにそれとわかるようになっているのが、彼らのアンサンブルの真骨頂だろうか。

録音が古いとか、演奏スタイルが古い(演奏スタイルの新旧は、実をいえば存在しないく、最新といわれるものでも、過去の焼き直しに過ぎない)とかで、聴くのを拒否し、最新の録音ばかり聴いている方もいらっしゃるようだが、非常にもったいない話だ。

少し昔では余分な出費を迫られるから、ごくマニアックな人しか聴かれなかったのも事実ではあるが、昨今このような演奏録音が無料D+出来るわけだから、門戸をもう少し開いても良いと思う。
きっと今まで抱いていた概念:思い込みが相当変わると、小生は思うところだ。

時代の演奏を聴くことは、当時の音楽を取り巻く文化をも知るチャンスになりえるのだから。

これは小生の持論だが
料理ばかりに目が行ってしまって、その料理が盛られる器には全く興味を示さない、そんな人間はグルマンでもなんでもなく、ただの料理フェチにすぎない。

# by noanoa1970 | 2009-12-08 15:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

録音の良しあしと演奏そのものは・・・

クラシック音楽初心の頃は音盤購入選考の優先候補は「録音がよい」ことであった。
だから必然的にその時代の最新録音となるのだが、新譜だとレコードが2800円の時代だから、そうやすやすと買うことができなかった。

だから古い録音でも、比較的録音の評価が高いものを選択せざるを得なかったのだが、そんなレコードはは数少なかった。

しかしたくさんの音楽を聴きたい欲求のほうが強くなり、それで仕方なくその頃市場に出始めた「廉価版」に手が伸びることとなった。

安いものはモノラルで1000円、ステレオ録音でも1200円か1300円という価格設定だから、新譜1枚の値段で約3枚近いレコードが手に入る魅力は捨てがたかった。

さらにときどきだがいわゆる「穴あき盤」と言って、ジャケットの隅に小さな丸い穴が開けられて、そのレコードはバーゲン価格で販売されることを知り、そうしたレコードも探し回った。

つい最近まで正規の価格で販売されていて、中には最新録音のレコードもあった。
そんな中の筆頭が、ハイティンク/アムステルダムコンセルトヘボウの「展覧会の絵」。
フィリップスからの発売で、非常に録音がよかったし、カラヤン/ウイーンフィルのベト7・・・今ではDECCAから発売されているが、当時はヴィクターのリビングステレオで発売されていて、これもまた素晴らしい録音であった。

中にはSP復刻LPもあってゼルキン/オーマンディのベートーヴェン「皇帝」と「月光」のカップリングは、音は悪かったが、それでもかなり聴きこんだものだ。

当時の事情では、録音が多少良くないものも聴かないことには、音楽そのものの範囲が狭まってしまうというジレンマがあったというわけだ。

また新譜に至っても、今のように月に何百枚もの音盤が出て発売される訳はなく、10枚程度の新譜しか発売されないときもあったから、評論家たちもそれらを実際に聴いたうえで評論していたようだった。
しかし現在のような環境では、碌に音楽を聴かずに書いたとしか思えないような評論・・・というよりコメントが散見されるようになってきたのも、多分事実ではないだろうか。

必要時間から推測すれば、押して知るべしで、チョイ聴きかとんでもないのは全くその演奏を聴かずに、過去の延長から記述する輩も存在するようだ。

いささか話が脱線したので標題に戻すと・・・

「録音と演奏」における享受者側の受け取り方は、もちろんさまざまであるが、それでも、どうも録音が良いとそれに引きずられてその演奏内容がよい・・・言いかえれば録音のおかげで演奏そのものに、より多くの演奏がよいという付加価値がつくことがあるのではないか。

そんな気がしてならない。
SPやLPのモノラル録音に代表される、古い録音を聴いて、録音の悪さで演奏自体の良さを見出せない糸が若手の人に多いのは、多分経験知の不足そして耳の鍛錬の不足というか、慣れててないためではなかろうか。

そんな古い音の良くない録音を、今わざわざ聴く必要はない・・そのようなおっしゃり方もわからないでもないが、演奏と録音の相関関係は稀有であるから、往年の演奏録音に耳を傾ける時間を作っても良いのではないだろうか。

少し前であれば、そうした録音の多くを入手して聴こうとすると、出費がかさむこともあって、聴く候補としては、第2第3位となる傾向が強かったし、中にはそれらにまったく触れずにいらっしゃる方も少なくはないだろう。

費用対効果という側面がどうしても付きまとってきたが、今現在では「パブリックドメイン」というありがたい音源倉庫がアチコチでWEB上に散見されるから、多少のDLの手間をかけるだけで容易に往年の演奏を聴くことが可能だ。

今後は版権切れの・・・いわゆる古い録音は、CDなどのハード音楽媒体でなく、「ファイル」になっていき、無料で享受できるようになってきてもいるから、「まず聴いて」そしてそれから処々の判断をしたいものだ。

今まで培ってきた、自分の価値観が、かなり変化することもあるはずだ。

# by noanoa1970 | 2009-12-04 12:52 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

往年の演奏録音を聴いていて

数ヶ月前、自分の耳の訓練にと、買いためてほとんど聴いてなかった、歴史的演奏録音を、ブラインドテストのごとくアトランダムに取り出し、その音楽的特徴そして出来る範囲でそういう演奏スタイルの持ち主が誰なのか、と言いうことを推理する時間をかなり長く持ったことがあった。

今までのほとんどが「誰誰の演奏」ということを周知の事実として聴いてきており、中には・・・小生の場合はまれであるが、事前に解説などの諸情報を得たうえで聴くこともあったが、やはり「先入観」という厄介者が存在することに気がつき、一度そういう不純物を取り除いて聴いてみたらどうなるのかが興味の的であったからだ。

1つの演奏を、数回にわたって聴くという手間がかかったが、誰の演奏であるかを推理するには、それなりの時間と労力が必要になる。

しかし結果は・・・誰の演奏であるかについては散々であったが、楽曲のいわゆる演奏解釈についてはかなり見通せるようになって来たと思う。

そんなわけで多くの1930年代から50年代までの古い録音を聴いたわけだが、どうも小生の耳がそういった古い録音に慣れてきたらしく、40歳代まではほとんど見向きもしなかったSP時代の録音・・・東芝のGR盤は少しは所有もしているが、その頃は「オーディオ」というこれも厄介者に凝っていたためか、録音の良いとされるステレオ盤に目が向いてしまった時代があった。

50歳代になり、「オーディオ」は、・・・満足度の高い音が出るようになってから、足が遠のいてきて、そうなると今度はオン盤のチョイスポイントは「録音の良さ」<「演奏自体の良さ」に重きを置くようになった。

そういった背景もあって、小生の少年時代・・・すなわち1960年代に残された録音に目がいくように成り、前回の往年の録音もその延長線上にある。

小生が特に興味があるのは、冷戦下の東ヨーロッパ、特に東ドイツを中心に活躍した演奏家たちで、彼らの音源は、西ヨーロッパやアメリカに、だから日本においてもほとんど紹介されることがなかった。

少ないながらコロムビアだけが、細々と東ドイツやチェコの演奏家を音盤にしていて、コンヴィチュニーはそのおかげで知りえた演奏家である。

最近ではかつての冷戦下の東ヨーロッパの音源が相次いで復刻されつつあるのは、実に喜ばしい。

さらにそういったものを含む古い音源が、版権切れとなり「パブリックドメイン」にUPされ、誰でもDLして聴くことが可能な時代になった。

小生もここ数カ月これにお世話になっているが、中にはマニア垂涎の音源も相当数あって、しかも無料で享受できるのだから、こんな幸せなことはない。

心配していた「圧縮」による音の劣化も、録音自体が古いだけに、心配は取り越し苦労で、むしろパソコン煮取り付けた「アクティブスピーカー」(程度の良いものは必要であろうが)でも十分・・・というより、むしろそのほうがあっている。

こういう音源をメインオーディオシステムで聞けば、すぐに不満が出るのは容易に推測できるが、やはり適切なものを選択しなければならないにしろ、程度の良いアクティブスピーカーは、下手なミニコンやシスコンよりもずっと良い音がする。
周波数レンジ等を欲張ってなく、これら古い録音を聴くのにはもってこいだともいえる。

小生はやったことはないが、今はやりのポータブルオーディオ装置でしかもイヤホーンで聴くと、多分不満は出るであろう。

こういう古い録音は、スピーカーから出る音を聴くのがよいと小生は思っている。

録音が古くても概してソロ・・・ピアノ、バイオリン、チェロは概して録音がよい、というよりうまく録音できるのだろう。

小生もかつてそうだったが、古い録音を嫌ったり、あるいは録音が・・・音が悪いからと、毛嫌い尾する傾向は、今の人にも多い。

かつてのクラシック音楽の掲示板でも「ステレオで」お願いしますのように、。お勧めの演奏を依頼するときに、そのような注意書きが書かれることをちらほら見かけた。

多分その傾向はあまり変わらないのだと思うが、「パブリックドメイン」がそのような食わず嫌い払拭となるや否や。

DLした人へのアンケート調査があると面白いのだが・・・・

往年の録音が単に歴史的録音という範疇から抜け出て、その演奏内容にわたって再評価されることを望むものである。

# by noanoa1970 | 2009-12-03 16:14 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

メンゲルベルクの「新世界より」

メンゲルベルクの録音をそう沢山聞いてきたというわけではないが、ドヴォルザークの「新世界より」という曲は、小生が少年時代からズーット好きな曲で、小生には指揮者の特徴がよくわかる曲でもある。

いつものDLサイトで、メンベルベルクがアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したものを発見し早速聞いてみた。

メンゲルベルクの特徴というと、他の指揮者ではまねすることが困難だと思うほどのアゴーギグ、そして時には嫌味に聞こえることもあるが、たいていは心地よいポルタメントの多用だろう。

そのメンベルベルクが、新世界をどのように料理し、小生の味覚を満足させてくれるのか。

小生はドヴォルザークを、ことさら民族主義的な表現で演奏する者を、あまり好まないのだが、メンゲルベルクならば、多分民族主義的なものを排除し、自分流に音楽を作っているのではないかと、そんな仮説と期待を持って聴いたのである。

なんと・・・・

古今東西の演奏の「新世界より」を聴いてきたのだが、こんな「新世界より」は初めてだ。

メンベルベルクのレガートあるいはスラーは、他のどの指揮者にもない独特の・・・前で伸びたり中間で伸びたり、後部で伸びたり、あたかも好き勝手やっているように聞こえる。

その特徴は2楽章のイングリッシュホルンのソロを聴けばすぐに分かろうというもの。

しかしだからと言って音楽が異常ではなく、例えは悪いがあたかも本場のウインナーワルツ・・・(これはほぼ一定のパターンを持っているが)・・・パターンのない自由なリズム処理のウインナーワルツのよう(そんなものはあるわけもないだろうが)に、自由奔放の中に彼なりの筋が1本通っているから、変わり種という言葉は当たっているが、爆演でも奇演でもなく、音楽がじつに美しいのである。

ただ不思議に思うことがあって、それはこの録音が1941年にもかかわらず、使用されている楽譜が「スプラフォン・プラハ版」、すなわち1楽章冒頭のホルンの入りが3拍ではなく2拍のものを採用しているということだ。
(「・ポツポー」という3拍のものと「ポポー」という2拍のものがある。)

ただし「スプラフォン・プラハ版」(古い楽譜を改定したもので原典版ともいわれる)が改定に至ったのは、1960年代のことだといわれているから、1941年では個の採用はないはずである。

にもかかわらず、あたかも「スプラフォン・プラハ版」を使用したかのような演奏をしているということは、メンゲルベルク独自の楽譜研究の成果ではないかと想像できる。

だとすればメンベルベルクの、あの少々奇異に移る演奏スタイルは、綿密な楽譜研究の結果であるともいえる。

これは小生の単なる仮説にすぎないから、もう少し丹念に多くのメンゲルベルクの演奏を聴かないと判断はつきかねるが、それは今後の課題としておきたい。

「ポルタメント」のメンゲルベルクといっても言い過ぎではないがごとく、新世界ヨリにおいても、やはりポルタメントが多用されている。

しかし同様に顕著なポリタメントを使っているシルヴェストリと比較すると、ここでのメンゲルベルクのそれは、嫌味には聞こえなく、むしろ心地よく聞こえてくる。

クーベリックもドヴォルザークではポルタメントを使用していたような気がするが、至極嫌味に聞こえた記憶がある。
クーベリックは、民族主義的という範疇からどうしても抜け出せれない者を根本に持っているようで、彼のポルタメントが嫌味に聞こえたのはそのせいなのかもしれない。
追記
先ほどクーヴェリック1951年録音で確認したところ個の演奏ではポルタメントの使用はなかった。
後のベルリンフィルとの8番での記憶違いだった可能性がある旨書き加えておくことにする。

果たしてどうだったか、もう一度聴きなおしてみることにしよう。

メンゲルベルグリズムあるいはメンベルベルグレガート、メンベルベルグアゴーギグは時として鼻に付くこともあろうが、「新世界より」では、その特徴が成功しているようだ。

メンゲルベルグ節というものがあるとすれば、まさにこの「新世界より」は、そのものという気がする。

# by noanoa1970 | 2009-12-02 11:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)