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クルト・マズア/N響の第9

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年末恒例NHK第9コンサートが22日開催され、その模様がBS-Hで放映されるのを楽しみにしていたのを、本日観ることができた。

興味は大きく2つあって、1つはマズアはかねてから第9の女性パートに、少年少女合唱団を、起用していて、本公演でもそうする旨伝えられていたこと、そして第2楽章のティンパニをディミヌエンドさせているのが今回見られそうなことである。

マズアは82歳という年になって、その指揮ぶり・・・楽曲解釈が変化したのではないかかと、期待と不安を持って臨んだのだが、その心配は見事に裏切られた。

やや早めのテンポで音楽を造り、ほとんど・・・かなり細かいものは見受けられるのだが、インテンポで通していた。
3楽章は指揮者によっては、抑揚をつけてオケを歌わせるものがあるが、マズアは、かなり即物的に音楽を進める。

このようなスタイルの演奏は、録音されたものを何回も聞くには良いのだが、ことライブでは少し物足りなさを感じるだろう。

30年ほど前のゲヴァントハウス管とのスタジオ録音と、さしてその解釈に変化はないようで、マズアの第9の演奏スタイルが昔と同じように、したがってその姿勢や解釈に微塵もたじろぎがないということであろう。

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オケはスタンダードな両翼配置で、ティンパニを中央奥に配置する。

N響は技術的にはとても素晴らしく、世界的水準レベルに達しているとは思うが、この演奏では、かなりクール。
今の季節これだけの慣習と総勢200人以上の大舞台なのだから、もう少し熱いものが感じられてもいいのではないだろうか。


しかし言いかえれば、熱くなる心情を通り越したところにある、プロなりの客観性が出た演奏ともいえよう。

マズアの指揮ぶりは、大仰なところは一切なく、指揮棒も使わないから、派手さは全くない。
年のせいかというと、そうでもなさそうで、指揮台のバックガードからかなり離れたところ・・・オケに1番近いところに立っての指揮であった。

マズアは、口でも指揮をする。

そして各パートへの指示がかなり細かいことが特徴だが、後はほとんどオケに任せているような気配が漂う。

2楽章のティンパニは、やはりディミヌエンドしていたが、奏者はかなり苦労すると思われるが、難なくこなしていたのはさすがであった。

テーネの歌い方は「G-F」で、小生の好みの方法だ。
一番心配した邦人のソロは、全員高水準で、最初に出るバリトンは、高域に少しだけ難があるものの、最近ではベストに入る出来栄えとお見受けした。

テナーもほとんど崩れがなく、この難しいパートを高水準でこなしていた。
それに引き換え、女性ソロ陣は少々焦り気味なのか、上がり気味なのか、多分本領を発揮できずに終わった感があった。

さて総じて素晴らしかったのだが・・・

小生が1番ガッカリしたのは、せっかく起用した少年少女合唱隊だ。
といっても、彼らの技量のことではなく、せっかくの起用の意図らしきものが発揮されず、まったく効果的でなかったこと。

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小生は女性パートの代わりに、少年少女合唱を起用するものと思っていたが、それは勝手な誤解で、そうではなく、正面左わきに20から30名の合唱隊が配置されるのみで、後は通常の合唱団の人数配置に彼らを加えたにすぎなかった。
したがって期待した少年少女合唱の、レスビブラートの天国的あるいは宗教的静謐さの声が、大人の声に同化されたのか、あるいは埋もれてしまい、これでは非音楽的意味しかない結果となってしまった。

これは少年少女合唱隊では数が不足したので、通常合唱団に彼らを加えることでの妥協の産物なのだろうか。
それともこの大舞台を経験させたいとの思いやりなのだろうか。

この場に参加した彼らは、一生思い出として残るであろうし、今後成人しても合唱をやる人も多いだろうから、そういう意味では、良かったことになろう。

少年少女合唱を、とても期待しただけに、残念なことであった。

それにしてもマズア・・・こんなにもザッハリッヒな指揮者だったかと、これから手持ちの音盤を聴いて確認してみることにした。

# by noanoa1970 | 2009-12-26 14:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

幼子イエスのエジプト逃避行

昨日書いた、ヘロデ王による「エルサレムにおける幼時虐殺」の主題を扱った絵画は数多く制作されていることが解った。

『エジプトへの逃避途上の休息』という言葉でググルと、かなり多くの古今東西の作者による絵画がある。

旧約聖書中のこの逸話は、やはり、キリストが運よく生命を維持できたという話であるから、キリスト教にとっては原点的で、最も祝福される話の重要な1つなのだろう。

ベルリオーズが着目したのも、このような文化的背景の賜物であったと言えそうだ。

パロッチ作
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パルミジャニーノ作
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母マリアに見守られ、人と木の安息をとる幼子イエスが、とても微笑ましく描かれている。
これから待ち受ける困難などは、これからは見えてこない。

# by noanoa1970 | 2009-12-25 19:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

キリストの幼時からCoventry Carol へ

今年はベルリオーズの「キリストの幼時」を、クリスマスに聴く曲とした。
このオラトリオの題材は、古代ユダヤのヘロデという王が、救世主キリストの誕生を恐れ、国内の2歳児以下の幼児を全て虐殺したという、旧約聖書の中の話によるもの。

キリストとその両親は、このことを察知し、エジプトに逃れたというから、もしヘロデに虐殺されていたならば、今のキリスト教は存在しないことにおなる。

したがって、キリスト教にとっては重要な逸話であり、この時運悪く虐殺の対象となった幼児は全て聖人とされるほどである。

クリスマスに相応しいか否かはさておき、広い意味での宗教的雰囲気を持つ曲は、どれを聴いても似合っているように、小生は思っている。

かつてはM・Aシャルパンティエの「真夜中のミサ」が、そして最近ではヘクトル・ザズーの「light in the dark」がお気に入りだったし、フランスのキャロルもその中に入っていた。

ベルリオーズという人の作品は、小生はあまり好んで聴くことはないのだが、この「キリストの幼時」は昔からとても気になる存在で、本日聴けたことは誠に喜ばしいことだ。

ベルリオーズにおける宗教性は、卑近なところでは「幻想交響曲」中の、「神の怒りの日」の引用であろうが、他の作品には小生の知る限り・・・「レクイエム」を除き、あまり見受けられないと思う。・・・いや、近年になってから初演された「荘厳ミサ」があるが。

ベルリオーズがなぜこの題材を選択したのかを、今知ることはかなわないが、そのヒントの1つとなりそうなものを発見した。

それが16世紀イギリスの古いクリスマスキャロル:コヴェントリー・キャロル :Coventry Carolである。

この中で歌われる内容が、まさに「キリストの幼時」と同じ題材から取られているのだ。

虐殺の悲劇とキリストのエジプト逃避行を歌ったものが、クリスマスキャロルとして歌われるほど、聖書の中の逸話の中でも、特に世の人々に受け入れられてきたのであろう。

ウイキペディアに邦訳が記載されていたので、拝借した。
下記の内容である。

おやすみ、おまえみどりごよ、
ねんね、ねんね、おやすみよ。
おやすみ、おまえみどりごよ、
ねんね、ねんね、おやすみよ。

あねさまいもうと、どうしたら、
この一日を守れるの。
わたしら歌ってきかせてる、
あわれなこの子を守れるの。

王様ヘロデは恐ろしい、
今日命じたの強い兵隊に、
『目に入るなべての子供をば
切り捨て果てよ』と声高に。

わたしはおまえみどりごを、
思って朝からおののくよ。
歌わず喋らず別れましょう、
ねんね、ねんね、おやすみよ。

小生はこのイギリスのキャオルが、海を渡ってヨーロッパ大陸にやってきた、あるいはこれは大胆な推理だが、もともとフランスのキャロルであったのかもしれない。

そして多分ベルリオーズは、このキャロルをどこかで耳にし、その音楽的内容と詩の内容から、興味を持ったのではないか。
また新約聖書の中のマタイ伝に出てくる物語を扱った、『刈り込み人と仕立て屋の芝居』 という劇の中で歌われたというから、この劇を観た可能性も否定できない。

ちなみに「ルーベンス」は、なんども「幼時虐殺」についての絵を描いているから、ベルリオーズがそれを観たという可能性も・・・・

そうしたオリジナルキャロルや絵画に触発された原体験が、「キリストの幼時」制作の原点の1つであった、そう考えてもおかしくはない。

ケンブリッジシンガーズが歌う、とても美しいものがあったのでdぷぞ聴いてください。
クリスマスにピッタリだと思う。

Coventry Carol - The Cambridge Singers


# by noanoa1970 | 2009-12-24 15:43 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

「ん」

近年TVなどに出演する、女性タレントや一部女子アナのしゃべり方が気になっている。
おそらくまだ一般化されてはいないと思うが、TV上ではほぼ流行のように使われている。
意思を表現したり、居ぷ蝶のようにも聞こえるが、多分彼女らはそうではなく、単にそういう発音の言葉遣いが、恰好よいと思っているのだろう。

それは何かというと、語尾に「ん」がつく言葉の言い回しで、最期の「ん」を「ぅぅん」と語気を強めて発音することである。

あるときそれに気がついてそれから注意して聴いていたのだが、そのことはその人個人の所産ではなく、他ににもそういう発音をしている人が存在することを知った。

この発音を文字にして表現するのは難しいが、あえてそうするなら、「ん」を発音するとき、通常口と鼻の両方に息の流れが行くと思うが、彼女らの発音は鼻だけへ抜けるもの。
当然口は全部閉じて、しかも口をすぼめて前に出し気味の発音となるようだ。

さらに、あらゆる「ん」が語尾の言葉に対して、使われるようでもないから、もう少し調べる必要があろうが、いままで聞こえてきた範囲では、通常の・・・今までの発音とは少しニュアンスが違って聞こえ、あたかも新しい日本語の発音のように聞こえて、新し物好きで流行に敏感な彼女たちは、こぞってこういう発音をするのだろう。

昨日の番組で阿川女史までもが、この発音をしていたから驚いたが、マスコミ界では流行の兆しなのかもしれない。

となると、マスコミの影響をもろに受けやすい、一般の婦女子がこういう発音をするのもまじかなことだと推測される。

言葉の短縮やアルファベットで象徴化するといった言葉手法も、とうとう発音の領域(今までは方言どまりだったが)どうやら新領域に突入したようだ。

現在では当たり前の感がある「語尾あげ」に通じるところもあり、しかも聴いた瞬間斬新に聞こえ、話の内容にかかわらず(話が少々プアーでも)、ある種断定的にも聞こえるから、あたかも強い自己表現をしているような錯覚を与える効果があるから、発音自体の目新しさとのシナジーで、しばらくは流行するのかもしれない。

聴いていて嫌みはないのだが、どうも少し引っかかる所があるのはなぜだろうか。

# by noanoa1970 | 2009-12-22 10:31 | トピックス | Comments(0)

メンゲルベルクの第9

ほぼ1週間のご無沙汰でした。
もうすっかり外は冬の装いを呈し、久しぶりの長浜行きの途中の伊吹山も雪化粧。

帰宅第一稿は何にしようか迷ったが、季節がらやはりベートーヴェンの第9にした。

コアなクラシックファンのな中には、年末の第9はやめて宗教曲・・・たとえばメサイヤやマタイ受難曲あたりを聴くほうがよいとおっしゃる方もいるのだが、無類の第9好きの小生はやはりベートーヴェンの第9がいい。

何度も書いていることなのだが、小生の場合、指揮者の技量を図るメジャメントの重要な曲が、ベートーヴェンの第9である。

オケと合唱のコントロールの・・・・すなわち指揮者と演奏者の息が少しでも合ってないと、たちまち音楽が破綻してしまう。
だから名のある指揮者でも、良い演奏にあたることが少ない。
しかしどちらかといえば、無名に近いオケと合唱団を束ねながら、ものすごい演奏をしたものに巡り合うことがある。
ペーター・マークとパドーヴァヴェネトの演奏は、その最たるものだと思う。

年末にはクルトマズアが第9を指揮するそうで、例によって少年少女合唱隊を参加させるようだから、どのような第9を聞かせてくれるか、とても楽しみなことだ。
ゲヴァントハウスとの録音と同様の、ティンパニのディミヌエンドが見られるかもしれない。

さてメンゲルベルクの演奏だが・・・

予想は、ある程度していたものの、こういう演奏は今では全く見られなくなってしまった。
この演奏に比べれば、世の中の全ての第9演奏がザッハリッヒにさえ思えてくる。

メンゲルベルクの演奏を、良くロマンティックという言葉で語ることが多いようだが、はたしてそれだけでこの演奏における彼の特徴が言いあらわせるだろうか。

それは甚だ疑問であると同時に、いままで彼が「ロマンティック」な演奏指揮者という一言だけで、片づけられてきた感があることを、もう一度見直さなければならないのではと思った。

小生の予想の範囲を超えた、アップテンポで終始通した演奏と、予想通りのルバート、ポルタメント。
楽譜を改ざんしたかと思わせるようなトランペットのでしゃばり。
アツと驚く、終楽章コーダの仰天のリタルランド。

こんな点からして、「ロマンティック」な演奏・・・そう位置づけらてしまったようで、言葉を換えれば「古い演奏スタイル」である・・・そう言っているようにも聞こえるが、しかし現在このようなスタイルの演奏は皆無だけに、小生には逆に新鮮に聞こえた。

楽譜原理主義的演奏や、ピリオド演奏が主流の様相を呈しているが、そのことは指揮者の総合的な技量がずいぶん狭くなってきたことを物語るとは言えないだろうか。

作曲家に変わる・・・あるいは楽譜に書かれないが、「こうあるべき」といった真のカリスマ的指揮者の不在が(このことは指揮者本人だけが招いた結果ではないと思うが)現代の演奏様式を模索しきれずに、自分を客観的にとらえざるを得ない過程で、(それが新しいと勘違いしているようなことが見受けられるのだが)楽譜原理主義的演奏や、ピリオド演奏に回帰しているのではないだろうか。

メンゲルベルグをはじめとする、彼らの時代の演奏のいくつかを聴くと、指揮者のカリスマ性がなくなってきていることを、音楽自体から気がつくことが多い。

言葉を換えれば、聴いていてこの演奏は誰誰の演奏だ・・・そういう風に演奏者を特定できるような特徴を華々しく持つ演奏が、実に少ないということになる。

現代では演奏様式というものは感受することが可能なものはなく、まして個人の演奏様式スタイルも、その特徴があまりなくなってしまったように感じられる。

小生は・・・演奏スタイルの歴史は、多少のアレンジこそあれ、おそらく繰り返すように思うから、そのうち18世紀の伝統を色濃く受け継いで、その上で自分の特色を色濃く出した演奏が、再びもどりそして脚光を浴びる時代が来るものと予想している。

複製芸術時代になってから、たとえばこのメンゲルベルクの演奏のように、あくの強い演奏はいつも繰り返して聴くには少々重たいと感じる方も多いと思うし、またそういう演奏技術以外のところで、演奏をやんわりと規定する力が働くのではないだろうかと思うこともある。

そのためか、ライブと録音でかなり毛色の違う演奏をする指揮者(いちばんよくわかるのは、テンポとリピート)も見受けられるが、これなどは再生音楽、すなわち繰り返し何回も聞くという所から、演奏自体が規定された証拠かもしれない。

メンゲルベルクの第9はライブ演奏の録音である。
しかしこの時代には、先ほどのライブと録音における演奏の違い等は考慮しなくてよい時代でもあったと推測できるから、ライブだから特別あのような演奏をしたわけでなく、メンゲルベルクの特徴が大いにあらわれている演奏であるといえよう。

彼はナチスとの関係が純音楽的評価に影響されるのか、毛嫌いする人も見受けられるが、そのことは分けて考え、やはり音楽そのものを聞いてあげるべきだろう。
小生は彼のスタイルは好きであり、近年現代を通じての物足りなさを十分補ってくれる演奏であるから、今まさに再評価するべき演奏であるものと確信している。

細かいことだが、バリトンあるいはバスのレチタチーボ、「テーネ」を「F-F」でなく「G-F」と歌わせることも、気に入っていることだ。

トー・ファン・デル・スルイス(ソプラノ) スーゼ・ルーヘル(アルト)
ルイ・ファン・トゥルダー(テノール) ウィレム・ラヴェッリ(バス)
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
オランダ王立オラトリオ協会合唱団
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク:指揮
1940年5月2日ライヴ

# by noanoa1970 | 2009-12-19 11:02 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)