マリア信仰の諸相

ブログの仲間HABABIさん、abendさんとの「プッチーニ」の「トスカ」の位置づけについてのやり取りの中から、ヴェルディが最後のシーンを変更しなければ・・・といったというエピソードから、トスカの中の殺人、自殺と言うカトリック教徒の禁忌に話が及び、カトリック教徒におけるプッチーニの宗教性にまで話が及ぶことになった。
さらにカバラドッシが描くのが「マグダラのマリア」であることなどから、「マリア信仰」についての言及が有った。

マリア信仰については、小生もかつて音楽に絡めた記事を書いたことがあって、興味の1つでもあったため、今思うことなど整理することにした。
整理するつもりだったが、これは難問中の難問で、「宗教」に絡む諸問題は、1筋なわでは解決も理解も難しいが、取り掛かった以上仕方がない。
小生の理解度が低いところが多数あると思うが、クリスチャンであるHABABIさん、仏教のエキスパートabendさんご両方からの示唆も多分に受けたいと願っている次第である。

音楽における「マリア信仰」の諸相には、「聖母マリアの祈り」や「アヴェマリア」「スターバト・マーテル」に代表されるように、多くの作品が存在する。
一神教のキリスト教カトリック教会において、なおかつマリア信仰が存在するが、これを不思議だと思う諸氏は少なくないだろう。
マリア信仰が、イエスキリスト以上に勢力を保ち続けていることは、マリアがイエスの産みの母親というだけでなく、もっと他の理由がなくては辻褄があわないし、それだけでは納得がいかない。

いや「鰯の頭も信心から」とあるように、信仰というものはそんなものと言われればそれまでだが、小生にはどうもなにか隠されたものがあるような気がしてならない。

音楽の世界において、そのことがうすうす見て取れるのは、例えばワーグナーの「指輪」。
北方ゲルマン民族他の伝説や神話を物語にしたものだが、この物語は複数の民族の歴史を組み合わせて表現しているものということができるだろう。
その歴史とは、キリスト教以前の文化社会以前・・・紀元前に存在した民族の話である。

さらに同じワーグナーの「ローエングリン」では、キリスト教社会と非キリスト教社会のぶつかり合いで、キリスト教社会がそうでない社会を席捲するという話を物語の中に読むことができし、母系社会から男系社会への変化の軌跡が読み取れる。
「パルジファル」においても、「タンホイザー」にしても、そのことが表れており、「魔女」的存在は、いつも非キリスト教の民から出ている。
それらは「改宗」という言葉が象徴するような、宗教戦争の歴史と見て取ることもできるのではないだろうか。

古来エ異民族間の紛争・領土争いでは、屈服して敗けた民は、奴隷として使われるが、自分たちの言語や宗教や名前を捨てたものは、戦勝国の人間として見做された。
「改宗」とは、そういうことの代名詞であり、今までの価値観を捨て去るに等しいこと、すなわち宗教と生活は、それほど密着な関係で合ったということだ。
今まで信心し、生活と密接だった神から、他の見知らぬ神を信心せよとうことだから、そうなった民族の気持ちは、いかなるものであったか、想像もつかない。

歴史上、宗教によって異民族を懐柔した例は少なからずあって、アイルランドの自然信仰の民ケルト系民族をキリスト教化し支配するというソフトランディング手法は、パトリキウスによって行われ、聖パトリックとして現在はカトリックの聖人とされている。

その逆も当然あって、戦争で相手を滅ぼし屈服させると、「改宗」を迫って心身ともに屈服させ、反乱などがないようにして支配していく手法も取られた。

以前のブログに、マリア信仰の発祥が少し垣間見える「聖金曜日」と題して拙い仮説を書いたことがあった。
また「3人のマリアの慟哭の叫び」と題し、マリアに関することも少し書いてたことがあった。
「ローエングリンと宗教戦争」としての過去記事があり、「パルジファル」第3幕では、クンドリと聖母マリアの類似性に少し触れた。

マリアは実は3人存在し、聖母マリア、マグダラのマリア、ヨハネの母マリアだと言うが信仰の対象のマリアは3人を含むのか否かなども知りたいところだ。

マリア信仰は、母性、母系社会、母権社会、母なる大地といった、キリスト教社会以前の自然神信仰が、キリスト教社会に変化するときに発生したものと仮定できないだろうか。
言い換えれば、キリスト教化していく過程で、必然性が生じ出現せざるを得なかったという事ではないだろうか。

小生は「マリア信仰」は、非キリスト教民族をキリスト教に改宗サせるためのソフトランディング手法ではないかと考えている。
非キリスト教社会は母性社会で、時には母権社会の地母神を信仰する民族が多い。
つまり「女性信仰」であるがゆえに、一神教男権のキリスト教には馴染みにくいのは当然であるからこそ、「女性神」が必要となり、それが「マリア信仰」の発祥の起源の1つになったのだと考えている。

「聖母マリア」は、イエスキリスト以上に、異民族から受け入れやすい存在を伴って、迫異民族改宗下の信仰の対象となった。

400体ほど存在すると言われる黒いマリア像が残るその地は、かつてケルト民族が、異民族に滅ぼされる以前に定住した土地で、フランスなどヨーロッパ中西部・特に古くケルト人たちが活躍したかつてはガリアと呼ばれた地方である。

黒いマリアを黒く造ったのか、後で黒く塗られたか、あるいは自然に黒くなったのか、定かではないらしいが、
改宗の道具として、マリア像を黒く塗ることによって、異宗教を受け入れやすくさせたという説がある。

しかし有名なモンセラートの黒いマリアを写真で見る限り、異民族の臭がしないでもない。
黒人(黒い肌を持った)女性のマリア・・・考えにくいが、アラブ・インド・パキスタン人を想像させぬこともない。
「セント・マリー・ド・ラ・メール」がジプシーの聖地で、毎年「黒いマリアの巡礼祭」があるというから、ジプシー(ロマ)とインドの関係から、黒いマリア=インドパキスタン説もありえるのではないか。
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黒がケルト民族などの非キリス地域の民にとって、どのような意味を持つかがはっきりしなければ、解決の糸は見えてこないが、多くの黒いマリアの存在は、何かを語るような気がしてならない。
プーランクに、『ロカマドゥールの黒い聖母への連檮』と題された合唱曲があるが、よほど関心を引いたのだろうか。

もう一つの視点として、キリスト教内の宗教紛争、カトリック対プロテスタントの抗争で、カトリックの勢力を保つため、あるいは拡大するため、編み出した技ということも考えられる。

そういえば、写真で見る黒いマリア像は、仏像によく似たところがある。

<継続の予定



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by noanoa1970 | 2012-10-31 18:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(10)

扇子とハンカチ


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HABABIさんabendさンガ、プッチーニの「トスカ」について、興味ああることを話題にしておられたので、小生も再度手持ちのDVDで見ることにした。
その結果、詳細に見聞きすると、面白いことがわかたったので、少し角度の違うところから、書いてみたい。。

歴史的大事件、「マレンゴの戦い」で、ナポレオン軍が北イタリアを征服したこと。(これは、誤って伝えられたことが後になってわかる)

スカルビアが、絵描きカバラドッシを「ボルテール派」と決めつけたこと。
アンジェロッティは、秘密警察によって既に投獄されていたが、やっとの思いで脱出した「共和主義者」で前ローマ共和国領事。
スカルビアは警視総監だが秘密警察のTOPでもあり、おそらく任命権者は、傀儡のナポリ

ナポリ公国のTOPはカロリーナ女王で、カロリーナはハプスブルグ家のマリア・テレーザの妹、当然オーストリアのイタリア支配者として若くして女王となった。

マレンゴで、ナポレオンが敗けたという誤報の意味するところは、共和派が力を得、ナポリ公国がオーストリアの支配と王制から脱し、カロリーナもその配下であるスカルビアも、将来はないという、イタリア独立運動に繋がる。(仏革命の影響でのハプスブルグ家の崩壊)
そのことを案じた、スカルビアは、共和派をことごとく処刑しようとしたが、その一人はスカルビアが、ボルテール派と決めつけた絵かき、決めつけたのは、トスカの恋人、カバラドッシをトスカから引き離すためでもある。(アンジェロッティの親友ではあるが、本当に政治的に共和派とは、分からない)

ナポレオンの席巻で、スカルビアの、いずれ政治権力を削がれるかもしれないという恐怖は、トスカを我が物にしようとすることに執着専念し、トスカの恋人カバラドッシの命とトスカの引換を迫る。

以前からことを企むための伏線があり、教会にアンジェロッティの妹、アッタヴァンティ伯爵夫人が隠しおいた、アンジェロッティが女装して逃げるための衣装の扇子が忘れてあったことで、トスカの嫉妬心を煽るために、それを巧みに利用し、カバラドッシが浮気をしているとトスカを嫉妬に駆り立てて、自分のものにするために利用した。

さらに伏線があって、、カバラドッシが製作中のマグダラのマリアの肖像画のモデルが、アッタヴァンティ伯爵夫人であったこと。(トスカには、眼の色を替えろとまで言う嫉妬心が有る)
そして、スカルピアは、トスカの嫉妬心と女同士の敵対心、宗教心を巧みに利用する。
「ようするに、あなたは恥知らずなまねはなさらない マグダラのマリアの
絵を示して顔や衣装をまとって…許されざる愛を結ぶようなまねは!」
信仰と恋愛、聖女と娼婦あるいは、カトリックのタブー、結婚しない身ごもり、マグダラのマリアを象徴して言ったのは、トスカのカトリック教徒としての信仰に反するということを傘にきた発言であろう。
スカルビアは、ダメ押しのように、アンジェロッティが忘れていった「扇子」を証拠にして、カバラドッシが浮気をしているということを、嫉妬深いトスカに邪推させた。(嫉妬を糧に相手を陥れるために、イアーゴはハンカチを使った…では私は扇子を使うとしよう!)
これがヴェルディの「オテロ」のイヤーゴのハンカチの策略とよく似ていて、オテロはデスデモーナの浮気を信じて破滅していく。
プッチーニはシェイクスピアとヴェルディの「オテロ」を相当意識していたに違いない。

トスカの愛情と嫉妬が、カバラドッシが囚われることになるという皮肉。
更に友人のアンジェロッティの拘束、拷問、自殺にも繋がる。
そして、自分を身売りをしてまで、カバラドッシの助命嘆願の約束をすることになる。

スカルビオは、トスカが自分のものになれば、絞首刑を偽の銃殺刑に変更し、ふたりとも開放するという約束をするが、スカルビオは、「パルミエール伯爵の時と同じようにやれ」と何度も部下のスポレッタに言うが、「パルミエール伯爵の時と同じようにやれ」とは、なにを指すのかが、よくわからないが、その当時の人は知っていたのだろう。
これらの伏線は、舞台劇を観た人たちは周知のことで、したがってオペラがより理解でき、更に良くわかったのだろうことは、プッチーニもお見通しだったと思われる。

トスカは「トスカのキス」と言って、スカルビオを刺殺したが、その後、蝋燭と十字架をスカルビオのそばに置いた意味を理解し難いが、カトリック教徒ならばわかるのだろうか。

しかし、トスカはスカルビオを騙し、そしてスカルビオはトスカを騙すという、騙し騙されの世界があり、約束は果たされず銃殺は空砲ではなく、カバラドッシは本当の銃殺になってしまう。

このオペラが示すのは、神は救済してくれないという、カトリック教徒であることの欺瞞で全てが嘘で固まっている・・・騙し合いであり、今まで信じていたものの崩壊ではないか。

どう考えてもわからないのが、スポレッタが、カバラドッシ銃殺の後のトドメを制することで、これは「パルミエール伯爵のときと同じ」ということの伏線だと思うが、どういうことなのかよくわからない。(策略によって、偽の処刑に見せかけた本当の処刑だったということか)

カバラドッシの拷問によってアンジェロッティの居所を、聞き出そうとするときの、トスカの様子を、スカルビアは「舞台上のトスカでさえ 、これほど悲劇的だったことはない!」といったが、この舞台とは「ラ・トスカ」プッチーニが1889年にパリで見た、サラ・ベルナールがトスカを演じた舞台のことと推測できそうだから、演劇のトスカを観た人に、それ以上の悲惨さを理解させるという、リアリティの実現と見てよいだろう。

オペラの最初の音楽、スカルビアのモチーフのあとに出る音型は、ベートーヴェンの「運命の動機」「ミミドーレレシー」の音型のアナグラム「ミレドシ」で、このオペラは、救済されない人間たちの物語、つまり暗にカトリック、あるいはローマ教会を批判しているものと言えないだろうか。

アンシャンレジユームと市民革命が交差するイタリア、敬虔なカトリック教徒であっても、神の加護が受けられない・・・つまり宗教はなんの役にも立たないことが根底に隠されているとするのは言いすぎだろうか。
宗教心は見せかけそして騙しのテクニックに応用されるという、当時の社会現象の表現なのだろうか。
「神は死んだ」というニーチェの言葉が頭をよぎる。

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by noanoa1970 | 2012-10-27 12:59 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(28)

干し柿と栗きんとんのお菓子

注文しておいたお菓子が届いた。
飯田市「戸田屋安吉」の「柿すだれ」、市田柿の干し柿の中に、栗きんとんを入れたお菓子だ。
中津川の市川製茶のほうじ茶と一緒に食べてみた。
職人技などとは関係なく、只丁寧に作った干し柿と地元の栗を使ったもの。
何時の時代から有るかはわからないが、伊那、南木曽、中津川の南信岐北に伝わるお菓子。
今や高級品化してしまったが、田舎の菓子にしては味が上品だ。

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こちらは我が家の山栗。
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by noanoa1970 | 2012-10-16 13:00 | 季節の栞 | Comments(0)

収穫した「あけび」

今年は去年の数倍実を付けてくれたが、皮目が綺麗ではない。
皮を料理する方法は一つだけ定番があるが、この量を処理するには少し大変だ。
保存方法を考えないといけない。
まだ枝に5個以上ぶら下がっている。
中の実は甘くて野性的な味だが、種が多いので家の中では食べにくい。
昔なら、縁側で食べて、食べを庭に吐き出せばよかったのだが・・・・
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by noanoa1970 | 2012-10-16 12:51 | 季節の栞 | Comments(0)

武蔵野、新東京駅

連休の日曜日、息子が住む武蔵野市緑町のすぐ近くの文化会館で開催の、「トスカ」の公演に行った。
まるで旅芸人一座のような感じの、こじんまりした公演だったが、通算300回目という数をこなしているから、手慣れたものだ。
2つのアリアが有名だが、際立つようなオペラではないが、紙芝居的なまとまりがあり、バランスもとれているように思った。
オケは、総勢30人ほどだから、弦がどうしても弱く、吹奏楽団のような音響だが、ソレは仕方ないだろう。
このホールは、高田渡の追悼記念コンサートが開催された所で、過去に1回来たことがある所。
チケットは直ぐに完売になってしまうから、ほとんど空席がないのはいつもの事のようだ。

1200人収容の小さなホールにどうやってピットを作るのか不思議だったが、30数名のオケガその理由。
前列を何列か外してピットに仕立てたものだが、音の大きさには問題なく、歌手陣の声もよく聞こえた。
ここで開催される公演会はいつも格安だから、次回はオケか室内楽を聴いてみたい。

多目的ホールだから、残響は少ないが、その分それぞれの音はよく聞こえる。
大ホールはあまり好きではないから、気軽に聞くには調度良いし、なにしろ格安。
気に入ったものがあれば交通費を払って行っても良いだろう。
宿泊は息子のところに世話になればよい。

帰りは新幹線の「こだま」、ゆっくり寝ていけるのでグリーン車を選択。
大丸の地下で弁当を買って・・・その前に丸の内側に出て新東京駅を眺めることにした。

東京時代は、丸ノ内線に世話になったから、東京駅丸の内側はお手の物だったが、今回はすっかり様相が変わってかなり慌ててしまった。
だだっ広くて、未だ何もない地下街を彷徨いながら、地上へと近くのEVに乗ると、運良く丸ビルの前に出た。

地図があるだけで、行き先案内がないから、不慣れの人たちは何れも、地図を前にして、どうやってたどり着くのかわからない様子。

もう少し親切な案内ができないものだろうか。
いまのところ多分相当の外来者が新東京駅を見に来るというのに。

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お弁当はコレにした。
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by noanoa1970 | 2012-10-11 17:34 | 季節の栞 | Comments(19)