ツバメの巣立ちか

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上空を羽をヒラヒラさせて飛んでいる鳥がいた。
コウモリだろうと思ったが、コウモリならばこんな日中に飛ぶことはない。
輪を描く様に数羽で旋回しているのを凝視すると、どうやらツバメ。
其れも多分巣立ちしたばかりで飛行の練習中と判明。

それで本日の朝7時ごろ、ツバメの飛行訓練の様子を撮影しようと試みたが、子供ツバメが飛行を完全にマスターしたのか、それとも親ツバメなのかはわからないが、その素早さに写真など撮れるはずもない。
シャッター間の長いデジカメはこういうときどうしようもない。

それで、空シャッターを10回以上切り、持ち帰ってみると偶然撮影できたものがこれ。
小学校の上を飛んでいたもの。下はプール。

拡大して写真を見ると、くちばしに枯葉を咥えている様子。
という事は親ツバメなのか。

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by noanoa1970 | 2012-05-31 14:00 | 日常のこと | Comments(1)

QUADESL63のスピーカースタンド

探しているのだがなかなか見つからないので、つなぎにと物色していたらよさそうなものが見つかった。
写真のような設置になったが、まだ少し高さが足りないので調節用の長いネジを探し中。

ただ以前のべた置きよりは、椅子を変えると耳の高さ丁度になり、音質も低音が以前より締まったようだ。
不思議だが奥行きが前にまして出てくるようになり、QUADの持ち味がより引っ張りだされた感じだ。
やはり置台は大事だとつくずく思った次第。

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置台そのものが功を奏したのか、耳の高さに近づいたせいかよくわからないが、改善されたのだからどちらでも構わない。
なにを利用したかお判りになるだろうか。

御名答が無い場合は、しばらくしてからコメント欄に書き込みます。

木製で幅60×奥行き450×高さ12
片方がカーブしてます。
ただしQUADのカーブとは逆なのが惜しい。
サイズはピッタリ収まってます。
これで片方2480円・。
失敗なら高いが成功したから格安。

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今度は高さの自由がきく長めのネジ探しだ。

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by noanoa1970 | 2012-05-28 16:41 | オーディオ | Comments(7)

ブラームス交響曲1番、想いでとともに

昔からよくあった問いかけに、「ブラームスの4つの交響曲で好きな順を挙げろ」というのがある。
考えてみれば、あまり意味のある問いかけとは思えないが、今はもう無くなってしまったクラシックの掲示板サイトにも、同じような問いかけがあり、質問の意図などは問わずに回答をする人、いまはこうだが時間がたてば変化するという前提で挙げた人、楽曲は演奏を伴っているものだから、単に楽曲だけでは判断できないという人、たった4つの交響曲の好きな順を挙げるだけでも、いくつかの問題を抱えるのだった。

おそらくは、ベートーヴェンとちがい、。全曲が秀逸で甲乙つけがたいことがあるし、ブラームスは少々聴き手を選ぶようなところもあるので、最もよく聴いているものを、好きな順の上位にしてしまう傾向があったのだろうと思う。

小生はその時記憶では、1342としたと思うが、いま強いて順を付けるならば、2314となる。
そしてたぶんそれもいつか変化するであろう。

優れた楽曲は聞くたびに新しい発見があるから、其れにつれて今一番お気に入りのものも変わるのだろう。

その時の上位はなんといっても1番であったし、やはり1番は圧倒的人気で、音盤の数も演奏会の演目でも一番多い曲だ。

さらに今度は演奏者を、との問いかけには、ダントツでミュンシュ/パリ管であったように記憶するが、今現在変わったかどうか興味深いことではある。

小生が1番の交響曲を聴いたのは…いや聞こえてきたというほうが正解だが、中学1年生…丁度クラシック音楽に目覚めた頃の夏休みだった。
その頃は名古屋の自由ゲ丘という新興住宅地の市営住宅に住んでいて、2階の6畳間が小生の勉強部屋だった。

それ以前から時々クラシックの曲が小さな音量で聞こえててきたので、好きな人いがいるのだなと思ってはいたのだが、その向かいの人はというと、大学受験の浪人生、だから小生よりは4・5歳上の人で、めったに外に出ることはないし、着物の寝間着を着ているのが窓越しに見える程度だったから、話をしたこともなかった。

彼には3歳ほど下の弟がいて、いつの間にか小生はその弟と遊ぶようになった。
小生はその住宅ができたときから移り住んだが、向かいの家族は前の家族の転勤の後に新しく入ってきたから、知り合いになるには少し時間がかかったのだ。

母親はいなくて、頑固そうな親と兄弟2人で住んでいるらしく、時々親父の怒鳴り声が聞こえてくることがあった。新聞社に勤務しているという事で、土日はいつもゴルフに出かける様子が目に入った。

遅れてきた少年だったから、小生たちの友達の輪の中には入ることをためらったのだろう。
誰も彼を遊びに誘うことはなかったし、彼も何となく拒否しているような様子が感じられたが、いつもの友達を見かけない時、たまに一緒に遊ぶことがあったが、キャッチボールは嫌いだと言いって、彼はそれまで見たこともない丸い球を見せ、これがゴルフボールだと教え、「これを壁でこすると面白い」などと言って実際にこすってみせるのであった。
最終的には白色の液体のようなものが入った袋が出てきたが、これに触ると死ぬぞと脅かすように言いどぶに捨てた。

自分がゴルフをやるようにった時に調べてみると、大変危険な液体が入っていて、恐らくは重量バランスを保つためのものと推測される。
当時のゴルフボールの中身にゴムのひもが巻いて有るものだったから、こすっているとその部分が現れピチピチとゴムが切れる音がした。

彼の兄が大学に合格し、家を離れることになり、弟の彼は高校生、小生は中学3年生、クラシック音楽に興味を持って、家にはステレオ装置もあったころ。

その年の夏休みのある日、大音量で突然鳴り響いたのがブラームスの1番。
お兄さんが帰ってきたのだろうかと窓から見ると、その姿は兄では無く高校生の弟で、しかも音楽に合わせて一心不乱に、指揮者の真似をしている姿が目に入ってきた。

兄が残していったステレオと音盤を取り出して、其れまでクラシック音楽のクの字も言ったことが無かった弟が、まるで常人ではないかの形相での立ち振る舞いが窓越しに見えた。

朝の9時ごろから午前中いっぱい、そして夕方3時ごろから6時ごろまで、毎日毎日ブラームスの1番を連続してかけて指揮者の真似をしているのだ。

弟がなぜブラームスをかけたかはわからない。
兄が掛けていた音盤のなかで、よほどブラームス1番の一気果敢さが気に入ったのだろうか。
その音楽の特徴から、少し前に聞いたトスカニーニ/NBCであることは何となくわかった。

彼は高校生で小生は中学生、中学生同士の時は時々遊んだが、進学して以来会う事もなかったのが、突然そいう状態になって再認知することになったから驚くのなんの。

小生は高校受験を控えているから、中休みはするが、朝から父親が帰ってくる晩まで、鳴りっ放しだから、かなりまいってしまったが、うるさいと怒鳴るわけにもいかず、やがてそれにも慣れてしまい、おかげで同じ指揮者の同じ曲を数十回は聴くことになった。

その間彼は休むことなく、全楽章にわたり指揮者の真似をし手を振り、身体を動かすのだ。

しかし夏休みもそろそろ終わりかけのある朝、いつもの音楽が聞こえてこない。
お昼近くになっても聴こえないので、今日は疲れてお休みかと思っていると、向かいの家に大勢の人が出入りしている。

何か起こったのかと母親に聞くと、情報はすでに漏れ聞こえてきたらしく、あの指揮者の真似をしながらブラームを四六時中かけていた彼が、自転車で10分ほどの、小生たちが金魚池と呼んでいる貯め池で、浮いているのが発見され、死亡したらしいという話で、後で聞くと日曜日の早朝だったとのことだった。
小生たちはそれ以来、ザリガニの宝庫だった金魚池に、2度と行かなくなった。

事故か自殺かははっきりしないという事だったが、小生は前日の夜の彼の父親の怒鳴り声えと、其れに応答する彼の声を聴いていたから、父親と多感な少年の葛藤が引き起こした、思いつめた上の自殺ではないかと思った。
夏休みはもうすぐ終わろうとしているが、其れからはあのトスカニーニのブラームスが聞こえてこないのがなんだか寂しい気がしてしかたなかった。

その秋のこと、向かいの2階からあのブラームスが聞こえてくるので、小生は泡を食って、幽霊の仕業かと思ったが、ブラームスをかけていたのは、帰省した兄であった。

たぶん兄は弟がその音盤を聴きながら、必死の形相で指揮者の真似をしていたことなど、知らないだろうと思いつつ、兄や彼の父親にそのことを告げることはなかった。

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だから小生はトスカニーニ/NBCのブラームは、今でも絶対に聞かないことにしていて、トスニーニがフィルハーモニア管を指揮したライブ演奏を聴くことにしている。

ブラームスの1番を聴くたびに、身近に起きた悲惨な出来事を思い出すことが多いが、
したがって小生の今一番のお気に入りの1つは、そんな悲しい思いでが甦ることのない演奏。
つまり音楽に集中して聴くことが可能な演奏になる。

そんな演奏が少ないながら4つある。
いずれも集中力が強く、聴く者の意識を決して遠ざけることのない、魂のこもった演奏だ。
コンヴィチュニー/ゲヴァントウス管
クルト・ザンダーリンク/シュターツカペレ・ドレスデン・1971年盤
シャルル・ミュンシュ/パリ管
ヘルベルトフォン・カラヤン/BPOのライブ、1988年盤。
以上の4種類だ。

カラヤン盤はこの録音が世に出なかったら、決してカラヤンのブラームス1番をあげることはなかったもので、それほどこの演奏は素晴らしい。
これまでカラヤンについてのさまざまな悪評など一切ない、カラヤンの高評価が凝縮されたような演奏と言えばわかっていただけるだろうか。

コンヴィチュニー盤を除けば、あとはすべて多くの人からの高評価が与えられた定評あるもので、ミュンシュ盤は未だに人気の筆頭である。
4者に共通するものといえば、集中力、構成美、爆発力、推進力、其れに音楽のタメ、言い換えれば各自固有のコブシの面白さだ。
これらにあまり使いたくはないが、精神性というような神秘的なものが加わるのだから、これはもうたまらない。

このような演奏ができるのは、稀なことであろうし、オケも指揮者もベクトルがぴったりと合っていなけれ到底出てくるものではない。

カラヤンでさえ、レガートを抑え気味にして、今までのカラヤンには無いブラームスを作り上げた。

それとたぶん演奏にあたる年代に何かの因縁のようなものがあり、コンヴィチュニーは最後の録音になったし、ミュンシュはパリ音楽院のメンバーがメインに、フランス文化大臣が肝いりで創設した新生パリ管の初めてのブラームス、そしてカラヤンは晩年を迎えての最後のロンドン公演となったものだ。
選曲がまた素晴らしく、シェーンベルクの「浄められた夜」が同時に演奏され、これもまた精神性という言葉を使わなくてはならないぐらい素晴らしい演奏だ。

これらの演奏録音の前には、歴代の名演奏も少しかすんでしまうように小生は思っていて、これ等のブラームス1番では、聴いている最中に昔の悲惨な出来事を思い浮かべることは全くない。

ザンダーリンクは、よくわからないが、これだけの演奏をするには力量に加え、なにかの精神的作用が働かなくてはできないだろう。

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ミュンシュ盤は特別な思い出があって、其れは1968年の冬のこと。
それまでの冬休みは、正月を迎えるために実家に帰ったことなど一度もなかったのに、急に里心がついたのか、暮も押し迫るときに、いつもなら安いバスを使うのだが、なぜか新幹線を使って家に帰った。

急な帰省にもかかわらず、家のものは皆が喜んでくれて、美味しい食事もお酒もごちそうになり、風呂に入っていい気分で除夜の鐘を聴いた後、FMを付けていると新年のあいさつとともにクラシック音楽番組が始まり、確かまだ発売されてないが素晴らしい演奏なので、と言って聞こえてきたのがブラームス1番だった。

年末にはだれか忘れてしまったが、N響の第9を家族で聴いていたから、同じ系統上にあるブラームスの1番が、しかも未発売のもので、親切のパリ管をミュンシュが振ったものというから、期待はおのずから高まり、実際聴き終わるとしばらく放心状態で、その夜は興奮のあま寝付けなかった思い出がある。
布団の中で、終楽章のコラールがいつまでも聴こえていた。
ミュンシュの音盤の質についてはここに過去記事がある。

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中で小生が最もブラームスらしい音楽であると思うのは、コンヴィチュニー盤だ。
コンヴィチュニーの音楽には、ブラームスの人間的特質がすべて表れているような錯覚に陥ることがある。
内容はロマン主義的だが形式的には古典主義という合い矛盾した音楽こそがブラームスの心象と音楽の重なりであろう。
酸いも甘いも喜びも悲しみも、そして異教徒の世界や先達に対する憧憬の念、尊崇の念が日本のお城の城壁のように、一見不揃いのようだが、紙1枚通る隙もないないほど緻密なファンダメンタル構造に支えられた音楽になっている。
ブラームスの和声(和声のなかに旋律を塗り込める)が成り立つのも、土台と骨組みが強固であるからで、音楽的には最良のバランスが保たれるが、そのあたりをよく出しているのがコンヴィチュニー盤だ。

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ザンダーリンクは、基本的姿勢はコンヴィチュニーとよく似たところがあり、やはり構成力とどっしりした土台が特徴だが、時折見せるかなり変化するコブシが、魅力を加味している。
オーケストラも実に上手だし深い音を表出しているが、やはり歌劇場のオケだけあって、指揮者の棒の変化にも柔軟に対応しきってている。

以上どれをとっても愛すべき音盤であることは間違いないが、カップリングも考慮して、トータルで考えた場合、こんなカラヤンは今まで聴いたことが無いぐらい、変貌したのか、もともとあった物が最大に発揮できたのか、いずれにしても、ブラームスがベートーヴェンに肩を並べた、いやそれ以上の音楽になったように小生は思うのである。

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そんなわけで、唯一選ぶとすれば、カラヤン盤1988年ライブという結論になる。
悲壮感さえ感じる音楽である。
こういう演奏会を、一度でよいから生で聞いてみたいんものだ。

この音盤を、聴くとき1つだけアドヴァイスがある。
それは最初に収録されたシェーンベルクの「浄められた夜」と次のブラームスを通して聞かないことだ。
順番を逆聴いてもダメで、其れは両方ともに聴く側も集中力するあまり、

すべてを正常では聴けなくなる恐れがあるからで、もし聞かれることがるのなら、片方ずつにして置くことである。

気になる演奏は最近発売になった、フリッチャイ/北ドイツ放送響 1958盤。
お聞きの方おられましょうか。

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by noanoa1970 | 2012-05-25 17:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲9番

いよいよベートーヴェン最後の交響曲にして大曲である。
この曲には、数々のの思い出がある。

生まれて初めて全曲を聴いたのが、アルテュール・ローターがハンブルグ国立管を指揮したものだった。
自分で購入した初めての音盤は、グラムホンがドイツ直輸入と宣伝し、おまけにそれまで2枚組がほとんどであったものを1枚に収録した新譜だった。
記憶では3500円だったと思うがLP2枚に収録されたものに比べると随分安かったし、新録音でしかもカラヤン/BPOだから満を持して入手した。
1964年か65年のころで新譜だったから、録音された1962年から、国内ではかなり遅れての発売だったようだ。

レコードの側面がきれいに面取り取されていて、尖りが無いから指がまったく痛くないので、これがドイツの工業力なのだと感心したものだ。

録音状態は当時としては、すこぶる良くて、低弦の箱鳴りが聞こえてきて大変感動を覚えた。
学友教会合唱団の出来をうんぬんする人が多いが、其れよりソロの歌手陣、特にグンドラ・ヤノヴィッツの美形と美声にすっかりまいってしまった。

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大切にしていたLPはどこかに行ったままになってしまい、仕方なくCDを3枚購入したが、最新のHQCDよりは、OIBPのPOCG-3587のほうが小生のオーディオ装置にはあっているようだ。HQCDは低音部を膨らませ過ぎてしまっていて、アナログオーディオ時代には良かったが今では、少しやりすぎの感がある。

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しかしHQCDのジャケットは完全オリジナルを再使用したものだ。

というわけで、カラヤン/BPOの1962年録音は小生にとって記念碑的存在。
カラヤンの第9の場合録音が新しくなるにつれ音楽がつまらなくなってくるよな感じがして仕方がない。

カラヤンの対抗馬としてDGが売出に力を注いだフリッチャイ盤は、力尽きや矢折れという感じが良くもあり悪くもある。小生はここでのディス7カウには疑問が大いにあるが、お亡くなりになられたばかりのディス7カウが歌った唯一の第9という価値は高い。

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ここ数日モントウ盤を聴いているのだが、リハ風景が収録されていて、打ち上げに「ラ・マルセイエーズ」が奏されるのだが、ここにモントウの想いが集約されているのが感じられ、本番の大きな下支えになっていることが良くわかる。

またモントウの録音は低弦が強く出るものが多いようだが、このウエストミンスター盤でも同じようだから、録音のせいではなく、なにかしらの意図があったものと思われる。
低域の支えが強い音楽は安心感がある。

他の演奏では問題が無いが、第9になると極端にあらが出る指揮者も少ないくないが、モントウはそれらとは違う。
おそらくはオケとの信頼関係を常日頃から築いてきた歌証拠であろう。

オケとうまく言ってない指揮者の第9は、どこかで「やはり」という感じがするが、モントウは素晴らしい音楽をオケや合唱、そしてソロの歌手陣から引き出している。
人気のラトルなどはその典型に思う。
過去から評価が高いフルヴェン/バイロイト、何度も聞く音楽ではない。
クレンペラーに至っては音楽破綻の一歩手前だ。

第9は絶対ピリオドアプローチ、ベーレンライター版ではいけない。
これまで聞いたものに良いものは1つたりとなかった。
アバド新盤もジンマンも、ガーディナー、ブリュッヘンも情けない演奏だ、実験しているわけじゃないのだからいい加減にしていただきたい。
独自の版のマルケヴィッチは悪くはないのだが、バランスが少し良くない。

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意外だがものすごくよかったのが、レオポルド・ルービッヒがベルリン交響楽団を振った1960年あたりの録音のもの。
ローターもそうだが、意外に名の知れてないもので名演奏がある典型だ。

モントウと同じように、オケの全信頼を集めた結果の音楽を、満足度の非常に高い演奏で提供してくれたのが、ペーター・マークである。
小集団ながら、有名1流オケ以上の力量を発揮させているし、ソロも合唱も秀逸だ。
これが生録音であることが信じられ無い。

上記以上の小生の一押しはというと、おおいに迷ったが、コンヴィチュニー盤(ポリスキーリマスター盤)をほんの一歩の差で、カール・シューリヒトがパリ音楽院管弦楽団を指揮したステレオ盤になった。
その差は殆ど小生の中にはないが、コンヴィチュニー盤の継ぎ足し録音が、強いて言えば難であるぐらいで両者のアプローチ解釈は相当の開きがあると思われるが、いずれも小生にとっての名盤である。

またシューリヒト盤がもし1980年代半ばにステレオでマスターテープが発見されなければ、有無をいわずにコンヴィチュニー盤にしたと思う。

両者に共通点を挙げるなら、トータルバランスがすこぶる良いことに尽きること、両者ともに解釈は異なるように思うが、シューリヒトがやや早め、コンヴィチュニーはやや遅めのインテンポであることだ。

数る楽曲の中でも、特にこの第9は、指揮者と合唱指揮、そしてオケとソロ、合唱団のベクトル方向がピッタリとあってなければ音楽が成り立たない。
したがって、合唱をコントロールできずに合唱指揮者に頼っている指揮者の第9が、つまらなくなってしまうのも少なくはない。

シューリヒトが他国フランスのオケと合唱団を御して、見事に操ったからには、相当の訓練と信頼がもたらした賜物であろう。

「なにも引かない、なにも足さない」ウイスキーのCMではないが、シュートヒトの演奏はいつもそんな感じを受ける。
がしかしベートーヴェンの、しかも第9だからだろうか、楽章に1個か2個思い切ったことをやっている。
こういう所を聴いて確認するのも、シューリヒトの頑固なまでのザハリッヒ、インテンポから、足を踏み外した瞬間を味わえるチャンスでもあろう。

パリ音楽院管の技量はいつもながら素晴らしく、特に木管金管は素晴らしい。
シューリヒトが普通は入れないところでティンパニーを1発入れるのもビクッとさせられる。
凡庸のようでありながら、こういう仕掛けをこっそりとやってくれるから、シューリヒトは面白く凄い。
サーやるぞ、と構えるところが一切ない自然体の美があるようだ。

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ヴィルマ・リップ(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
マレイ・ディッキー(テノール) 
ゴットロープ・フリック(バス)
エリザベート・ブラスール合唱団
パリ音楽院管弦楽団
カール・シューリヒト指揮
録音:1958年3月4&5日、5月27~29&31日、サル・ワグラム(ステレオ)HMVC-7001

これは以前はモノラルでしかはÞる倍されてなかったが、最近ステレヲ盤で発売されたもの。
1958年録音だから疑似ステの可能性もなくはないが、そんなことよりも演奏の素晴らしさのほうに注目すべきだろう。

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どうしても挙げておきたいのはコンヴィチュニー盤。
全集盤と全く同じ録音だが、マスターリングが異なり此方のほうがリアリティがある。
ゲヴァントハウス管弦楽団の渋さのみならない、上手さがよりよく伝わるものだ。
たぶん廃盤になって知っているが、コンヴィチュニーファンは中古で見つけたら購入しておいて損はない。


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by noanoa1970 | 2012-05-19 16:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(3)

大垣へ・・・古民家カフェ「風地蔵」を発見

ちょっとした用事で隣の町大垣市へ。
お供えにと、義母が好きだった金蝶饅頭を購入してから、お茶でもと思い、かつていきかけた古そうなお店を探すが、見つからずにうろうろしていると、蔦が絡まる古民家があり、「手作り・・」と看板があったので、入ってみた。

印象的だったことはいろいろあるが、その話は次回訪問した時に写真を添えてUPするつもり。
お店の名前は「風地蔵」。
風知草かと思ったが「かざじぞう」と読むそうだ。
風知草や傘地蔵を思うような、そしてその庭の雰囲気を表すようで良い名前だ。

白洲正子風に言えば「適度に荒れたところが良い」というところか。
要するに自然であるという事。

カメラをもっていかなかったのが悔やまれる。

「風地蔵」のインスピレーションは次回に回すとして、今回は店をリンクしておくことにした。
先ほどオーナーの方の日記にコメントしたら、さっそく返事をいただいた。

オーナーは現地ではなく、遠く九州に在住らしい。
スタッフが後をきちんと受け継ぎ守っているようだ。

オーナーはもちろんだが、スタッフも店を愛していることが伝わってくる。
店を愛してないスタッフは、自然と態度に出るが、「風地蔵」のスタッフは、最近まれに見る応対の素晴らしさであった。

OHさん有難うございます。
頂いた新聞も過去のものも10話ほどですが読ませていただきました。
近いうちにまた訪問させていただきます。
しろくまクンも食べたいことだし。
偶然の出会いに感謝。

金蝶堂本店の饅頭と菖蒲団子、そして小生の好きな若鮎の写真だけ。
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by noanoa1970 | 2012-05-14 22:33 | 季節の栞 | Comments(5)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲8番

ベートーヴェン4番の交響曲冒頭のフレーズをマーラーが交響曲1番「巨人」の冒頭に引用したように、ラフマニノフはパガニーニ狂詩曲の18変奏曲において、8番の冒頭のフレーズを引用した、そう小生は思ったことがある。
とてもよく似ていると思いませんか。


ラフマニノフの第18変奏Andante cantabile変ニ長調だ。
パガニーニの主題の反行形上下を反対にした形=「ソミファソド」をテーマにしたとこのことで、小生の推測は外れであった。

さて、8番はそれだけを購入したことがいまだかつてなく、最初の音盤はロンドンの「不朽の名盤シリーズ」で、カール・ベーム/VPOの「未完成」…当時は8番が「未完成」で、9番が「グレート」だったが、8番繫がりでベートーヴェンをカップリングしたのだろう。
録音データは記載されてなく、モノーラルのLPであった。
未完成冒頭の弱小音が、ほとんど聴こえないぐらいの録音で、せっかくの細かいニュアンスが伝わってこないものであった。

その点ベートーヴェンの8番は、とても明るくリズム感もよかったので、8番繫がりと明暗の曲の取り合わせとしても良いカップリングだと思う。

その時代から不思議に思っていた事があって、其れは次の楽譜の3小節目のスタッカート付の音符。
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どう見ても3小節目は4分の3拍子ではなく音符が2つ余っているような感じがする。
だから聞いていて編拍子的で面白いとは思うが、リズムの仕切り直しのように聞こえて仕方がない。

楽譜を見ると1小節の音が次の小節に食い込んでいるのがわかるが、このあたりにヒントがあるのかもしれない。
「ヘミオラ」という言葉が頭をよぎるがこれもそうなんだろうか。

8番の交響曲が面白いと思ったのは、他でもない。
メトロノームの発明者メルツェルにあやかって作ったカノンに同じフレーズがあり、これを応用して作ったのがⅡ楽章だということがわかってのことだった。
たまたま「ベートーヴェン秘曲集」というCDを、京都の十字屋で見つけて確認することができた。

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さて本題の愛聴盤であるが、これぞという物にはお目にかかったことが無いが、聴いていて驚いた演奏ならある。
以前のブログ「思わず飛び起きてしまったケーゲルのベト8」にも書いたように、小生にとってのケーゲル盤は実に新鮮であった。
この演奏で8番に関する考え方が大いに変わった。






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by noanoa1970 | 2012-05-12 09:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(12)

113%の月

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今日は月がいつもより13%大きく見えるという事を聴き、待ち望んで写真に撮った。
望遠だとブレルのでなかなかうまく撮れなかったが数枚だけいいものがあったのでUPすることにした。

なぜいつもよりも大きく見えるかはわからない。
しかし心無しか大きく・・・というのは嘘で、ふだん夜空なんか見上げたことはないから、大小を比べられないのが正直なところだ。



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by noanoa1970 | 2012-05-05 22:45 | トピックス | Comments(6)

長浜ゴブラン菓子店のオーディオ

昨日長浜へ行った。
ほぼ1か月ぶりである。

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いつもと違って祝日なので数倍もの人出で商店街はどこも満員。

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そこで商店街に行く前に住宅街にある手打ち蕎麦屋で昼食をとることにした。
ミニ丼と手打蕎麦の定食にしたが、いつも通り丁寧な作りで、おまけに木の芽をあしらった筍の土佐にまでついてきた。
蕎麦屋は「みな方」といい、名前が知れてないが、名店である。

当てもなくブラブラしながら、骨董屋を冷やかしたりして、商店街の外れにある、竹細工線の専門店で、来年使うための火吹きだけを註文して、角のパン屋でコーヒーと牛筋カレーパンでひと休み。

しばらく歩くと向こうからジャズが聞こえてきた。
この筋でジャズが聞こえるのは、英国アンティークショップのジャズバンドの人形の演奏か、あるいはゴブラン菓子店しかない。

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音が大きくなるにつれ、ゴブランのオーディオだとわかり近寄ると、オーディオ装置は依然とちがっていて、完全平面バッフルにアルテック409Aか409Eが取り付けてある。
以前は構面開放型バッフルに755Eが取り付けられてあった。

バッフルの仕上げはプロ以上でパワーアンプは6CA7を使っていた。

いつも思うのだが、部屋の中で聴くことが出来たら・・・・

今日はコールマンホーキンズがかかっていて、店主の並たいていではない趣味の深さがうかがえる。

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しばらく聴いたのち、黒壁美術館の前のウインドウに飾られた江戸切子作品を眺めて帰路に就いた。




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by noanoa1970 | 2012-05-05 15:09 | オーディオ | Comments(6)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲7番

7番の愛聴盤はこれを差し置いてはない。
何もかもが小生好みで、オケの響きテンポも、最も理想に近いものだ。
ベートーヴェンの交響曲の中で、最も躍動の変化が激しい曲だから、鯱張った演奏は似合わない。

指揮者もオケも、そういう物から解き放された、いわば興に乗った演奏が似合うのではなかろうか。
といっても偶然カルロスで繋がったが、パイタやクライバーでは鼻につきすぎて、面白いがスマートではない。

小生は、文句なくこの点を満足させてくれる演奏として、カラヤンがVPOを振った1959年のDECCA録音を真っ先に挙げたい。

聴きどころはたくさんあるが、1楽章「ヴェルナー・トリップ」だろうか、フルートのソロによって2主題が引き継がれるところの弦楽器群との掛け合いの間の取り方は絶妙だ。
2楽章の弦の柔らかさは特筆もの、VPOらしさが低弦の分厚く気持ちの良い響きに象徴される。
3楽章からは、弾けたような音楽がほとびちり、4楽章では管楽器と弦楽器の呼応が、長年連れ添ってきた夫婦の阿吽のように「間」の呼吸の妙味が味わえる。

この曲の神髄は、ベートーヴェンが入手したであろう、各国のダンス音楽のリズムを変幻自在に操ったものだから、なんといってもこの曲は、リズムを軸にした掛け合いと引き継ぎの妙味が十分愉しめる演奏でなくてはならない。

それは舞踏会のようなものでなく、ちょうどお祭りの最中かそのあとに、集まった人の中から興に乗った人が相手を見つけ自然に誘い踊り始める。
それを見ていた人がだんだん一緒に輪の中に入って、最期には全員が楽しく踊る、そんな光景がする。

その点、カラヤンのリズム処理は、スタートから最盛期までがリニアーなクレッシェンドで巧みに描かれるようで非常に気もlちが良いし、「スマート」で「洒落た」感じが溢れている。

かつて小生はこの演奏を、ベルベットのスーツを着た貴族紳士のような・・・と例えたことがあるが、光沢があって、見る角度や光の当たり方によって変幻する、高級ベルベットのような音楽は、カラヤンとVPOの高度なシナジーの表れのように思う所である。

50年代から60年代のカラヤンは、70年代以降のカラヤンとは大きく違っていて、オケとの協調がうかがえ、独善的は表現は一切皆無だ。

カラヤンもこのころは、オケに任せるところと、自分がコントロールするところを十分わきまえていた。
したがって、そのことがオケの持ち味を十分以上に引き出す結果に繋がったようだ。

この時代のカラヤンとVPOとの録音には、いくつもの名録音があって、「ブラ3」、「ドヴォ8」、「惑星」は特に素晴らしい演奏だ。

フィルハーモニア管からVPOに代わり、プロデューサーもレッグからDECCAのカルーショウに変わったこのベト7の録音は、カラヤンのDECCA初ベ-トーヴェン録音でもある。

しかし気合が入っているという演奏ではなく、とてもスムーズでお洒落なベートーヴェンで、まるで絹の綾なすモアレのようだ。

VPOも自分たちの音楽をカラヤンに開放しているかのように、タップリと歌い踊る。
後年の悪評高いカラヤンレガートは使われないが、カラヤンに対するイメージを改めなくてはならないぐらいユッタリとしていて、なおかつ個と全体の見事なバランスがあって、小粋な新鮮さがある。

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1959年録音とは思えないほど優秀録音で、小生はこの音盤を1962年に入手したのだが、国内ではヴィクターからの発売で、しかも購入時穴あき番となっていたから、割と安く入手できた。

カラヤンが廉価になっていたことに驚いて、有無を言わずに購入したのだが、入手して本当に良かった音盤の数少ない1つである。

ヴィクターのリビングステレオのレコードは、防埃処理がしてあり、光にかざすと薄青緑に透けて見えるのが特徴で、家庭用のステレオ装置の重い針圧にも耐え、いまも傷は少なく良い音を聞かせてくれている。

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のちにオリジナルマスターテープをリマスターしたCDを購入したが、確かに音の粒立ちや細かい音までよく聞こえるが、全体のバランスが少々崩れ気味に聞こえてしまう。

この演奏は、音響のバランスが非常に良いアナログ音盤SRA-2202で聴くに限るようだ。

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by noanoa1970 | 2012-05-05 10:18 | Comments(2)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲6番田園

曲に対する固まった自分のイメージというものは、ベートーヴェンの交響曲で特に顕著であるように思う。

とくに「田園」は、表題とサブタイトルが音楽内容を表すものだから、長い曲にもかかわらず、音楽的には冗長さを感じることはない。

この曲を初めて全曲を通し聴いたのは、パウル・クレツキがフランス国立放送局管弦楽団を振ったコンサートホールソサエティの音盤であった。

会員になると、断らない限り月に1度音盤を送ってくるという、いかにもいアメリカのプラグマティックな考え方の販売方法であった。

残念ながら、父親が購入した大全集のお陰で、会員を1年足らずで止めてしまったから、いくらもたまらなかったし、何枚かは処分されたので、手元にはたった2枚しか残されてない。
ペルルミューテールのショパンとスワロフスキーのシュトラウス一族の音楽だ。

長く会員になっていたら、シューリヒトをはじめとする貴重なレコード音源が残ることになったが、其れがかなわなかったのは残念である。

中学の美術実習の時間に、コンサートホールの発売予定カタログにあった、シューリヒト/バイエルンの、写真のない、シンプルな文字だけの「グレ-ト」のジャケットをマネして作ったことがあったが、ロゴを書くのが難しくて苦労した記憶がある。

クレツキなど、その頃は3流指揮者だと勝手に思っていたが、それはワルター、トスカニーニ、フルヴェン、カラヤン、ベームが巨匠的存在で、レコード会社も大々的な宣伝をしたし、音楽雑誌でもさんざん挙げられていたのに、クレツキやシューリヒトでさえ、まともな評価が与えられなかったことによるものだと思う。。

もちろん中学生の小生の耳自体が、演奏うんぬんを聴き分ける能力などはなく、もっぱら評論家といわれる人の言動に大きく影響されたからだ。

しかし「田園」をいろいろ聞いてきた今、小生の「田園」の選択肢は広くはなくなって、モダン楽器のモダン編成によるノンビブラートあるいはそれに近い演奏というのがその選択の重点範囲となったようである。

その理由はと言えば、ただ1つ。
「ターナーの水彩画のような音を求めるようになったからである。
いや最近では「禅画」…この言葉がオーソライズされているかはわからないが、京都の義父が「禅画社」という水墨画を教えたり、展覧会を開いたりしていたから、水墨画ではなく「禅画」という言葉を使うが、恐らくは臨済宗妙心寺派管長で花園大学名誉学長であった、山田無文老師と懇意にしていたことから、この名前を付けたのだろう。
義父自らは、南砺市福野の本福寺の次男坊で、日本画をやりたくて京都に出た人だ。
ちなみに本福寺の宗派は浄土真宗である。

ターナーも良いが、「禅絵」のように、濃淡が表現する日本的な境地のような演奏を望ましく思うこの頃である。

そうなるとピリオドアプローチ、新版を使用した演奏は外れることになる。
なぜならば、鮮烈なところは、ときとしてよいのだが、いずれを聴いても音が乾いていて、田園風景のみずみずしさを感じられないからだ。
「ソナタ形式を持った印象派的な楽曲である」、田園をそういうと、多くの人からバカを言うなと、お叱りを受けるかもしれないが、絶対音楽という範疇にとどめ置くのはどうかと小生は思うのである。

この曲から瑞々しさを取ってしまうわけにはいかない。
したがって、それを具現化しやすいものとして、モダン楽器の柔軟性、つまり弦楽器をノンビブラートでも薄くビブラートをかけても、その場に合った演奏法をすることによる透明な響きのシナジーを期待してのこと。
(ノンビブラートとはビブラートを必要な時だけ、しかも薄く掛けるものと小生は定義している)

理屈云々よりは、瑞々しさ透明感があり見通しの良い演奏という事である。
この曲は、9つの中では、組み立て構成うんぬんは度外しても良いとさえ思っていて、農村風景の1駒1駒を切り取って、それが繋がっても繋がらなくても、その時の印象を美しく描いてくれればよいのである。

さらにその田舎農村風景は、ドイツに限定するのではなく、フランスやイギリスの牧歌的雰囲気のある農村も含んで良いという想いである。

そのようなことを考慮して、さらに一番長く聞いてきたワルターは外せないのを断わってピックアップすると
ワルター/コロムビア響
ケーゲル/ドレスデンフィル
コンヴィチュニー/ライプツィッヒゲヴァントハウス管1958年ライブ録音
ペーター・マーク/パドーヴァ・ヴェネト管
ヨーゼフ・クリップス/LSO
以上の5種類となる。
ピリオドアプローチ演奏は、軽快さと時には華々しさはあっても、瑞々しさにやや欠けるから一切入れてない。

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上記演奏の中から、ターナーの水彩画あるいは禅画の濃淡が表す瑞々しさを、一番彷彿させるものといえば、ペーター・マーク/パドーヴァヴェネトの演奏であろう。

暮れなずむ千枚田を、雨後の木立の中の田園風景を、ときには朝日に映えた山麓の牧草地を想像することがあり、それらがすべて薄い色彩か水墨画のように、幾段階かのグラデーションで描かれる。

そのような形容が一番ピッタリなのは、ペーター・マークを置いてはないといっても決して過言ではない。

ペーター・マークは「禅」の修行をしたと聞くが、禅が彼の演奏に与えた影響は、おおいにあるのだと思う。
彼の演奏を聴いて、「無一物」という禅の言葉が浮かんできた。
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by noanoa1970 | 2012-05-01 16:08 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)