「ほっ」と。キャンペーン

またやってしまった

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ケースごと落とすと必ず蓋にある爪が折れてしまう。
この状態のまましまっておき、次に蓋を開けると、また蓋が落下する羽目になる。
爪の片方ならまだよいが、両方がとれると収まりのないものとなってしまい、中味も心なしかつまらなく思うことがある。
こんなCDが10枚以上ある。
こういうCDを取り出すと、気分が憂鬱になってしまう。
何事もないような顔をしているが、蓋を開けた瞬間がっかりしてしまう。

ケースだけを購入して作り直すこともできそうだが、面倒くさそうだ。
落としても爪が割れないものにならないのだろうか。


by noanoa1970 | 2012-04-29 16:03 | トピックス | Comments(4)

料亭風に

筍が煮えたので、料亭風に上品に盛り付けてみた。
山椒の香りと若竹が見事なマッチイング。
極薄味にしたので、色も香りも柔らかさも京都の筍と遜色はない。
器は恐らく清水だと思うが、70年以上の年代物だ。
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by noanoa1970 | 2012-04-28 21:24 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

地元桑名産の筍

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桑名の大きな園芸農園「花ひろば」の物産直売場で、今朝収穫したばかりの筍を仕入れてきた。
今が旬というより、竹林では収穫が間に合わないほどたくさん出ているらしく、値段はものすごく下がっていた。

この筍で、今夜は煮物、筍ご飯、薄皮のお浸しを食べることができる。
幸いなことに山椒」も入手できたから、自作の織部色の鉢に盛るとよく映えることだろう。
今夜が楽しみだ。

by noanoa1970 | 2012-04-28 12:55 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲5番

この交響曲の開始の合図、4つの音からなるフレーズは、「運命の動機」といわれ、姿形を変えて至る所に登場する。

そしてこの「運命の動機」が、この曲全体を支配するといっても過言ではない。

冒頭の「運命の動機」は、特徴的であるがゆえに、聴感的印象度が強力だ。
したがってこの部分の演奏は、のちの展開に大きく影響するし、指揮者の個性がはっきりと出るので、とても重要である。

ベートーヴェンはその重要性がわかっているから、2度目の4つの音に、小節を1つ足し加えた。
だから最初の4つの音よりも2度目の其れのほうが長いフェルマータで奏される。

「ダ・ダ・ダ・ダーン  ダ・ダ・ダ・ダーーーーン」ダでもジャでもよいのだが、最初の「ダ」の前には8分休符がついているから、「ズダ・ダ・ダ・ダーン  ズダ・ダ・ダ・ダーーーーン」というのが正しい。

音盤で聴くと演奏によってこのズが把握できないものもあるが、ズの代わりに声を出す指揮者がいたりしてそれとわかるし、映像で指揮を見ると、休止符の間を取っているのが良くわかる。

このあたりからすでに面白いが、さらにダ・ダ・ダ・ダーンのダ・ダ間の長さも切り方も指揮者に寄ってぜんぶと言っていいほど違う。
ダッダッダッダーンとやるもの、ダダダダーンとやるもの千差万別であるし、おまけに2度目のダ・ダ・ダ・ダーンのダーンのフェルマータの長さも指揮者それぞれ。
中にはダダダダーンンと、語尾を強くしめる指揮者もいる。
また、ワルター/コロムビア響のように、最初の4つの音と2度目の4つの音を続けて、8つの音で1フレーズとするものと、間に休止符を入れて演奏するものがある。

であるがゆえに、いろいろな指揮者&オーケストラの演奏を聴くのは1つの楽しみ方でもあるし、ベートーヴェンの5番ともなるとその傾向は特に顕著である。

そうやって自分が最も好む演奏を見つけられれば幸運なことだが、聴く側の変化で聞こえ方も変わってきてしまうから厄介で、このため自分が好む演奏が定まらないという人がいるが、それも、もっともなことだろう。

だから今回の企画も「今現在の」という但し書きを付けるべきではあるが、そこを「愛聴盤」という具合に表現したつもりである。
簡単に言えば、何等かの思い入れが強い音盤のことだと言い換えて良いかもしれない。

「刷り込み」という言葉が表すように、特に最初にお付き合いした音盤は、演奏の良しあしとはあまり関係なく、愛聴盤となることが多いようだし、その音盤と同じ公演に参加したならば、一層その傾向が強くなる。
他人がどう思いうと、構わないし、また他人は其れについてどうこういう資格はない。
個人的感性領域のことだからであるが、時々そんなことがわからないファンもいて、かつて掲示板などではたまに存在が認められた。

最初に「運命」と接したのは、クリップス&ロンドン響の演奏で、17センチ盤2枚に収録されていたものだった。
これはある意味便利で、楽章ごとに4つの面に収録されていた(と思う)から、楽章ごとに聴くのには重宝した覚えがある。

次は確か友人というより友人の親が所有していた音盤で、トスカニーニ&NBC、そしてワルター&コロムビア響、フルヴェンはなぜか聴くことができなく、かなり後で聴いた覚えがある。

そして忘れもしないのが、小生のすきな指揮者、コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管の「運命」が収録された初心者向けの大全集であった。
残念ながらモノーラル録音だったので、しばらくしてフォンタナレーベル、すなわち廉価版でステレオの音盤を購入した。
同じく「田園」もモノーラルが収録されていたが、同じ指揮者とオーケストラでもステレオ全集盤とはかなり趣が違うようで、今現在この録音に該当する音盤は復刻されないままになっている。

こんな具合に小生は、チョイコアファン並に、いろいろな演奏を聴いてきたが、割と早めに好みが決まったので、所有の音盤はそんなに多くはない。

選択ポイントとして、テンポ、リズム、アクセント、フェルマータの伸ばし方などいろいろなメジャメントが、それに構成力、ダイナミクス等があるにせよ、自分に1番ピッタリと来る「収まり感」と表現してよいのだと思うが、ピックアップしてみると、それらの演奏は、かなり似通っているから、やはりそういうことなのだろう。

前回、前々回のこだわりの1つの音1つの楽器ではなく、今回の「運命」では、「収まり感」・・・自分との相性を大事にした。

コンヴィチュニー&LGOとともに候補となるのが、ヨーゼフ・カイルベルト&ハンブルグ国立管の演奏だ。

コンヴィチュニーとカイルベルトは「運命」に対するアプローチの仕方は同じように思われるが、冒頭のフェルマータの長さが違っていて、カイルベルトはワルターの演奏を思わせるように長く引っ張る。
コンヴィチュニーは人間の深呼吸の範囲内で抑えている。
コンヴィチュニーは、コーダでだんだん強く遅く(アラルガンド)していくが、ほぼ同じ時期に聞いたトスカニーニと比べて、こんなことを平気でやってのける凄い指揮者がいるものだと感心してしまった。

コンヴィチュニー独特のアクセント処理に比べ、あまり細かく変化をつけないカイルベルトは、つなぎの音がスムーズであるが、しかしどちらもインテンポの範囲である。
どちらも無骨だとか、質実剛健だとか、重心があるとか言われてきたが、小生流に言えば「音魂がある」音楽だという自作の形容をすることになる。

コンヴィチュニーがカイルベルトの7年ほど先輩になり、享年61歳とほとんど同じ、レパートリーもマーラー以外非常に似通っている。
活躍したところが西ドイツか東ドイツで、レコーディング数も違う、何よりもバイロイトへの出演が大きな差であり「指輪」をステレオで1955年に録音したカイルベルトに比べ、1959年イギリスでコヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と、おそらくはラジオ放送用に録音された音質の良くない「指輪」をコンヴィチュニーは振っている。
文化芸術外交をするという東ドイツの国策としてのことであったのであろう。

管弦楽団、合唱団以外はすべて東西ドイツから派遣されている。
ここで注目すべきは西ドイツの歌手たちも参加しているという事だが、東西ドイツは反目し合っていたとの見方もあるが、実は内々で行き来、交流があったと思われる。
反目というよりは競争関係にあったといってよいのかもしれない。

バイロイトとは言わないが、国内で演奏できなかったことはとても残念なことだ。
ワーグナーのオペラならば、コンヴィチュニーは割と多く優秀なメンバーと録音しているから、「指輪」の話は当然あっただろうに、実現かなわなかったのは実に惜しいことだ。

「運命」はコンヴィチュニーが1960年エテルナ、カイルベルトが61年のテレフンケン録音である。
両者の録音レベルは、ほぼ同等と見て良いが、コンヴィチュニー盤は低域をやや強調気味にしたマスターリングだ。

参考程度に演奏時間を挙げておく。

カイルベルト : コンヴィチュニー
①  8.43   8.01
② 10.12  10.27
③  5.59   6.80
④  8.51   1 1.44
....33.35.......37.32
4楽章の演奏時間の違いの大きな要因は、提示部の反復の有無だと思うが、3・4楽章は聴感上もカイルベルトはやや速めのテンポを取っている。

カイルベルトが後半3・4楽章をテンポアップしていることは、望むべきことに一心不乱に向かう姿の反映か。
コンヴィチュニーはインテンポで、来るべきものを堂々と真正面から迎え撃つといった感じである。

1楽章は意外性あるカイルベルト、4楽章は強い意志のもとに着実な歩みを見せて、ついにゴールにたどり着くコンヴィチュニー。
3楽章のブリッジパッセージ後のクレッシェンドは両者互角。
2楽章の歌わせかたもテンポの差こそあれ大勢に影響はない。

オケの技量も、1流扱いを受けにくいハンブルグ国立管だが、ここでは気迫と集中力を感じられえるから、このオケの録音のベストに入るであろう。

コンヴィチュニー来日時の大阪公演での「運命」を称して、まるで人とオケが変わったかのような素晴らしさであった、という声が参加した人から多く聞こえてきたが、全ての演奏すべての録音に、全神経をとがらせていることは、失礼だがあまり経験が無い。
同じ演目の別公演での評価が極端に異なるのは、そういうことなのだろう。

長旅して疲れて来日して、さらに移動しての連続演奏会だ、全てにパーフェクトなどあり得ない。
コンディションの良い時に当たった人は、もうけものと思ったほうが良いことは、経験的なところからの話だ。

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今回はカイルベルト盤をメインに、コンヴィチュニー盤をサブという事にしておくが、その理由はオケの力を極限にまで出し切ることができたのがカイルベルト盤であるからだ。

by noanoa1970 | 2012-04-28 08:36 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

フライ・・・残りもの

フライフィッシングをやめて15年になる。
それで少し前に手持ちのタックル類をすべてオークションで処分することにした。
ロッド、リール、そして未使用のラインはオークションで結構良い値段で売れた。
中でもスコットの20周年記念モデル、グラスパックロッドは、購入価格の2倍で落札された。

友人にあげたフライタイイングマテリアルとヴァイス以外の残りの殆どは、処分することができたが、どうしても処分できないものが残ることになった。
使いさしのティペット、リーダー、マーカーそのほかフライフィッシングに必要な小物たちだ。

その中で想い入れ深いものは、やはり「フライ」であろう。
まして自分で巻いたものならば、これは記念に残しておくべきだし、見るだけでも創造力を掻き立てるもの。

先日フライベストに入れっぱなしになっていたり、フライの道具類を入れるフィッシングバッグを整理して見つけたのが、長い間眠ったままになっていたFLYBOXが見つかった。

これらのFLYBOXの殆どを、ベストに入れていたのだから、フライベストの収容能力には、いまさらながらに驚いた。

なにが起きても良いようにと、あらゆる装備をして臨むのがフライフィッシャーマン。
水生昆虫から陸生昆虫の、幼虫から成虫まで、その時魚がなにを好んでで捕食しているか、やってみないとわからないから、種類とフックサイズを併せると、恐らくその組み合わせは何万通りにもなるだろう。

そんなにも多くのフライは、とても用意できないから、昔からある伝統的なフライを中心に、あとは自分好みのバリエーションを補足する。

わが懐かしのフライはこんなもの。
整理整頓されてないがとりあえずUPしておくことにした。
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by noanoa1970 | 2012-04-26 17:30 | 歴史 | Comments(0)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲4番

数ある楽曲の中で、ベートーヴェンの交響曲のように、何度も繰り返して聞かれる曲がある。

そうなってくると次第に、ベートーヴェンの演奏に望むものが固まってきたり、フレージングの好みが出来てくる。
それで当然のことながら、自分好みのスタイルでやってくれる指揮者の演奏がお気に入りとなる。
或いはによっては、自分がお気に入りの指揮者の演奏だから気に入ってるという事もあるが、両者に大した違いはない。

LPで聴いていた時は、同曲異演の音盤も非常に少なく、演奏比較など望むべくもなかったが、CD時代になって、音盤の価格も安くなったのと同時に、取り扱いが簡単になって、必用な個所からの再生ができるようになり、おまけにリピートまでできるから、納得するまでその部分を繰り返し聴くことが可能になった。

LPでは正確にその部分に針を下すことは不可能であったから、いわゆる演奏比較もやろうと思えば簡単にできるようになったのは、情報量と質のUPという意味ではよいのだけれど、逆に選択肢が増えすぎて、絶えず違うものを求めていくという、万年餓鬼のような状態になりがちである。

また音楽出版書物や評論家が持つ役割や価値が相当変化した今日、昔であれば、もともと新譜での発売数は少ないし、復刻も廉価版となるだけのことだったから、絶対量が多くは無く、選択肢も多くはなかった。
其れが故に彼らプロが推薦する演奏がいいと信じることが多かったのだが、今現在は全く様相が違ってきた。

柔軟に多くの音楽を聴くことのできる時間を持ったアマチュアディレッタントのほうが適切なことを言う事も多くなってきたようだ。
それに彼らは商売を全く考えないから、少なくとも商売での繫がりの深い、発売側ともはや視聴者の代理と言えなくなっている音楽評論家という構図は一部を除いてあまり信用されなくなった。

そのような環境でのアマチュアディレッタントの、ブログなどネット書き込みは貴重だし参考になることが多いように思うこのごろだ。

音楽を聴いて文章を書く方法やアプローチの方法は、人様々であるが、それがまた面白い。
全体のイメージをさらに楽章に分解して書く人もいれば、なにか1点集中型で文章を書く人なども存在する。

すでにUPした3番英雄において、小生は1点集中型の文章を書いたが、そのことは、たぶん耳に凄くこなれた楽曲しか書けない、すなわち曲の隅々までが頭に入っていなければ、分からないような微妙で些細ななポイントについてのことだからである。

そしてさらに、人によってはどうでもよいことの部類に入ることも多いものだが、当の本人にとってはいわゆる「こだわり」という言葉があるように、「かくあるべし」という物になって、其れが演奏の中心ではないにせよ、相当大きな要素となっていることもある。

特に今回のベートーヴェン交響曲シーリーズでは、小生の場合は顕著に現れる。
弁解じみた前置きが長くなったが、今回の4番もそういう楽曲であることをお断りしたうえで、文を進めたい。

このい話題は過去にもブログで取り上げているが、今回は演奏のお気に入りを上げるというテーマであから、その理由として復活することにした。
どうしてそんなことに拘るのかと聞かれれば、「その方が小生にシックリ来る、そのほうが好きだから」という感性領域のことがその理由だ。

英雄でのトランペット処理でも、それは耳になじんでいるからだと言われればそれまでなのだが、耳になじむという事は、音楽を聴く上ではかなりの重要ポイントではないかと思う所だ。

結論から言うと、4番1楽章の中間部に出てくるフレーズの」処理のこと。
わかりやすいため、youtubeの動画を張り付け、租の箇所を時間で示すことにした。
以下はカルロスクライバー/コンセルトヘボウ管の演奏である。
6分経過した後、フルートソロの次に出る弦の主題の弾かせ方に着目していただけると、何ら違和感がない人と、違和感がある人、そして何も感じない人とに分かれると思う。



次に以下のムラヴィンスキーの演奏4分58秒からお聞きください。
クイライバーとの違いがお分かりになられたでしょうか。



両者の演奏の違いはほんの些細な1個の音符にある。
しかし些細な1個が大きな1個になることもあり、4番交響曲ではそのことが重要な意味を持つと小生には思えるからである。

3番のトランペット同様ここでも「ワインガルトナー」が登場するが、クライバーの演奏はワインガルトナーが改訂した版。
ムラヴィンスキーは改訂しないいわば原典版と言えるだろう。

この微妙な違いは「短前打音」d0063263_1024844.gif

と楽理的には言われれる物だが、聴感上、これがあるのとないのでは相当受ける印象が違ってきて、あるほうは小粋なものを感じるし、ないものは少しメランコリックなものを感じると思う。

ワインガルトナー風に言えば、短前打音のないものは「センチメンタルな表現」とされているようだ。
このことを音楽理論的に説く人も最近見かけるようになったが、小生はあくまで聴いたうえでの「好み」の問題で、どちらが好きか、もう少し突っ込めば、音楽の流れからはどちらが適しているかという事だ。

もちろん大差ないからどちらでもよいという人がいることは認めた上のことだが、現在聴くことができる演奏のほとんどが、それなりによさがあり決して悪いことはないから、このような細かい点が選択のポイントになってきてもおかしくはないと小生は思うし、何よりも感性領域の問題だから、短前打音有無のどちらが正しいとか間違いだとかは、2の次のことだ。

小生はもちろん短前打音による演奏が好きである。
あえて理由を言うのなら、第1と第2は絡まりつつ流れていくからはっきりは言えないが、井戸から亡霊が這い上がってきて、四つん這いの歩みをだんだん強め、ついにTV画面から這い出てくるような感じがする序奏に続き、(演奏によっては明るく快活になっているものもあるが)、なお序奏を引きずった第1主題が出てくる。その対抗が第2主題と考えた場合、陰陽をハッキリと表現したほう良いと思うからであり、第2主題に短前打音が無いものはワインガルトナーの言う「センチメンタル」な感じがするからである。
ここはやはり短前打音によってもたらせる、明るい気分の小洒落た感じのほうが小生にはピタッと来る。

したがって選択条件は
短前打音を入れた演奏であること。
第1主題の弦のグリッサンドによるクレッシェンド部分で、弦楽器の胴鳴り音が聞こえるようなもの。
提示部のリピートがされているもの。

以上を満足する演奏で小生所有のものは
ブロムシュテット/SKD
クライバー/バイエルン国立管
コンヴィチュニー/LGO

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以上となるが、辛うじて胴鳴りが聞こえてくるし、何ら奇をてらったところが無いから、小生の長らくの愛聴盤となっているコンヴィチュニー盤を採用することにした。

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聴き続けて45年以上経つが、今でも時々この演奏が聴きたくなる。
長く聴き続けることに十分過ぎる耐久度をもつものだ。

by noanoa1970 | 2012-04-21 00:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)

コンヴィチュニーの未完成交響曲を聴く

先日のこと、オークションサイトを見に行くと、何という事だろう、コンヴィチュニーの「未完成交響曲」が2つも出品されているではないか。

ETERNAの25センチ盤モノーラルのもっともオリジナルに近い音盤だ。
過去数回見つけて、オークションで競り合ったが、いずれも高額となって負けてしまった。

よく見るとオークション期限が残1日であるのもかかわらず、誰も入札していない。
それでダメモトで2つ共に応札した。


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ところがいつもと様子が違い、土壇場になっても他の応札はなく、結果2つとも格安で落札できた。
どうしても入手したいという信念が幸運を呼んだのか、2枚が届くことになり、現在手元にはおなじものが2枚あることになった。

盤質は両方とも経年だけのことはあって、スクラッチノイズはそれなりにあるし、録音状態もETERNAにしては芳しくはない。
SP録音のLP復刻のような音質である。

すでに何度も聴いているチェコフィルとの「グレート」は、コンヴィチュニーが時々見せるコーダのアラルランドンドはなくむしろ、アッチェレランド気味なのが特徴であり、強いて言えばザッハリッヒともいえる印象の演奏であった。

「未完成」は、「グレート」を上回るほどの徹底したザッハリヒであり、冷たいぐらいにクールな演奏だ。
アレグロ・モデラートという相反したような指示だから、狭い範囲にもかかわらず聴感上の速さは指揮者によって得体のしれないほどあるが、コンヴィチュニーは、いつもと同じように平凡ともいえるような速度で通している。

小さくも大きくも決して揺れることが無いのは面白みがないし、通常コンヴィチュニーは、どこかで必ず小技を入れ込むjことが多いのだが、「未完成」ではそういった小技を一切使っていない。
それで面白みに欠けるきらいがあるかもしれないが、むしろこのことが長く聴ける音楽を作ることに繋がっているのだと思う所がある。

胎児が母親の鼓動の音を聴いているような・・・というと妄想になってしまうが、どの曲の演奏を聴いてもそんな安心感と安定感そして心地よさがあるのは事実だ。

1楽章クレッシェンドも、決して大仰にはならず常に醒めた音楽で、聴いていてこれがブルックナーで見せてくれたコンヴィチュニーの音楽かと思うほど。

「グレート」「未完成」2つのシューベルト演奏に限って、コンヴィチュニーは相当冷静な演奏をしているようだが、この冷静さは、想い入れが強すぎて逆にそうさせるものなのだろうか。

あるいは「未完成」に潜むシューベルトの「無間地獄」に気が付き、そのことで音楽そのものが偏った方向にならないように、きわめて冷静さを保ったのか。

コンヴィチュニーの音楽からは、シューベルトの優しさ美しさも喜びも、その裏側にある孤独や流離いといったものも聴こえてこないが、それでこそ無限の享受の可能性が広がるというもの。

指揮者の解釈を強要する音楽は、いま好きでもそうでなくなるところがあるから、コンヴィチュニーの「中庸」は、小生にとって無限の可能性を持つに等しくなる。
たぶんそのことが、長く聴き続けられることのエキスではないだろうか。

1楽章終了時の音のアクセントに込めた、念押しのように響くコンヴィチュニーの想いは、なんだったのかと想像する楽しみがある。

それにしても2楽章、いささかつっけんどんすぎるのは、途中で終わることに対しての、そして本来あるべき音楽への望みと絶望感が入り乱れた結果、そういった感情の複合要素すなわち感情移入を徹底的に抑えた結果であろうか。

なぜに 「非の打ち所がない 」 といってもよい演奏が、いまだに復刻されないのか不思議だが、マスターテープを紛失したか、瑕疵があるのか。

復刻を願うファンも少なくないと思うが、今までには無いザッハリヒなコンヴィチュニーの演奏としても貴重な音源だから、ぜひとも復刻していただきたいものだ。

by noanoa1970 | 2012-04-19 16:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

高田渡の七回忌・・・・・夜行列車のブルース

本日2012年16日は「高田渡」が亡くなってから七年目に当たる。
七回忌は去年なのだが、東関東大災害でおそらくは記念のイベントは行われなかったのではないだろうか。
それで個人的七回忌という事で、本日取上げることにした。

高田渡については、これまでにかなり書いてきたと思うが、未だに聴き続けている日本の吟遊詩人的存在であった。

本日は彼のアルバムの中、1908年5月に行われた「高田渡生誕会」で入手したCD「高田渡、旅の記録 上下巻」の中から「夜汽車のブルース」を取り上げてみたい。

上巻の最初に収録されている「夜汽車のブルース」そして最後の「夜行列車のブルース」、どちらも「夜行列車」を介して放浪や恋人への追想をテーマにしている曲だ。

いずれも70年代の歌と思われる。

そういえば最近、多くの夜行特急列車が廃止されてしまい、2010年で下記の列車の運行を残すのみとなったようだ。
さらに今年日本海、北国が廃止された。
新幹線や高速度悪露の拡張で今後は恐らくすべて廃止されることだろう。
●北斗星 …上野~札幌間
●カシオペア …上野~札幌間
●あけぼの …上野~青森間
●はまなす …青森~札幌間
●サンライズ瀬戸 …東京~高松間(多客臨のときは松山)
●サンライズ出雲 …東京~出雲市間(東京~岡山間は瀬戸と併合)
●トワイライトエクススプレス…大阪~札幌間
(2012廃止)●日本海 …大阪~青森間
(2012廃止)●きたぐに …大阪~新潟間(新津~新潟間は快速)

「夜行列車のブルース」は、1974年のHOBOSコンサートで、高田渡と林ヒロシによって歌われているから、作られたのはそれ以前だろうが、さかぼっても数年以内の70年代であろう。
「高田渡、旅の記録 上下巻」に収録されたのは、2000年のライブコンサ-トでのことだ。

高田は、「古い友人が作った曲を歌う」といい、曲目を紹介してからイントロに入ると、拍手がたくさんあったが、高田はそれを中断させるように、「いや知ってるわけがない」と断言するように言い放った。

小生がこの曲を聴いたのは、1974年のHOBOSコンサート第1巻であったが、それは復刻盤で、2009年に発売されたもの。

おそらく1974年から2000年まであまり歌われなかったからであろうと推測するが、聴いていた人がいたとしても極少数だから、高田はそう断言したのだろう。

この歌の作者は「林ヒロシ」となっているが、林ヒロシという人物は殆ど登場しない人で、高田渡のバックもよく勤めていた「林亭」のCD、「風は歌う」が発売された時、「林ヒロシ」の名前が見えたので、てっきり「林亭」のメンバーだと思っていたが、そうではなく、佐久間順平・大江田信の2人が「林亭」のメンバーであった。
どうやら林亭の名前は林ヒロシからもらったのか、勝手につけたのか、そんなことらしい。

さらにこの林ヒロシをウイキで調べると、彼の本名は「小林政広」といい、映画監督であるという。
青年期高田渡にあこがれてフォークソング唄いとなったが、今は足を洗って映画に専念しているという、
だから登場しないわけだ。

しかし彼の作品「夜汽車のブルース」は今も歌い継がれていて、高田渡亡きあとは林亭がによって歌われる。

ウイキで調べると、林ヒロシは現在映画監督をやっていて、本名の小林正弘を名乗っている。
小生は彼の映画は、1本も見ていないが、かなり有名な人らしい。

高田が2000年のライブで歌った意図も、「知ってるわけがないんだ」と言い切ったのも、その時にはフォークから足を洗って映画の世界にいたこと、そして音盤が発売されたが、すぐに廃盤になったことからであろう。
下の動画は小生も出席した2005年5月、武蔵野市民会館で催された「高田渡生誕60年」からのものだ。
「林亭」が歌っているが、本人の林ヒロシが出席していたかは記憶がない。


それで林ヒロシの歌う場面はないかと検索すると以下の動画が見つかった。
「最終列車」というタイトル。米国のトラディショナルからだ。「ホーボーズララバイ」としてよく歌われる曲でもある。


中川五郎とのデュオ。この歌は高田が「神田」としても、「失業手当」 作詞:高田渡 原詩:ラングストン・ヒューズ 作曲:高田渡、 としても歌っている曲だ。
おそらくはこの2人、高田の追悼を込めて歌ったものではないか。
林ヒロシは、高田に恩があるのか、高田の死後に引っ張り出されたようだ。
作曲が高田となっているがたぶんトラディショナルだと思う。



なんだかんだ言っても、高田が及ぼした影響はジャンルを超えるところまで来たようだ。

by noanoa1970 | 2012-04-16 16:43 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲3番

ブログ連動企画第2弾として、最初に取り上げることにしたのは、ベートーヴェンの9つの交響曲。
順番に「私のお気に入り」を挙げていこうという単純な企画だ。
お互いのブログ記事投稿に対するコメントでは限界があるので、先ずはそれぞれの思いを披露してからと言う手墳とした。

HABABIさん、abendさんと小生の3人が参加して、既に1番、2番が終了した

ここでご両方のリンクを張っておきますので、みなさんそちらにもお立ちよりください。

HABABIさん「HABABIクラシック音楽夜話」
abendさん「Abendの憂我な部屋」

今回は3番「英雄」交響曲だ。
前回、前々回とは違い、たぶんクラシックファンであれば、多くの演奏をお聞きになっている有名曲だ。

さて何からとっかかろうと考えたが、バスチューユ牢獄破壊事件に端を発し、フランス革命が進行する中、庶民ともいうべき身分の低い士官が、やがて富と権力を握り、独裁政治を経て皇帝にまでなろうとし、ワーテルローの戦いにおいて敗北するという歴史的事実と、ベートーヴェンの時代が重なることだろう。

フランス革命戦争のゴタゴタ期に、彗星のごとく現れたナポレオンに対して、ベートーヴェンはシンパシーをもっていたことは有名な話だ。
ナポレオンの皇帝即位は、啓蒙主義観念論が育成される中、自由平等博愛というフランス革命の理想を裏切ったことに繋がる出来事であると、共和主義者的志向のベートーヴェンが、激怒してナポレオンにささげるために書いた楽譜の表紙を破り捨てたというのが、小生が知っている逸話である。
一緒になって上司批判をした、本来味方であるはずの男が、金と出世のために、いつの間にか仲間を裏切り、一人だけ良い子になって、上司に取り入った、なんていう話は、サラリーマン社会でもあることだから、これらの逸話を全面否定はしないが、創作がかなり入っていることを考慮しておかないといけないだろう。

長々と皆さんがご存知のことを書いたのは、実はこの逸話に関することと交響曲3番には、ちょっと気になるところがあるからだ。

多くの演奏をお聴きになって、そのことに気が付かれていたり、あるいは誰かの言及ですでにご存知かもしれない、一般的には「楽譜の改訂」という言葉で表される、1楽章のコーダのトランペットの演奏の違いのことである。

小生は昔からその部分の演奏は、ワインガルトナー改訂版の演奏で聴いてきたから、其れが一般的だと思っていた。
ともちろんワインガルトナーが改訂したことは、後になって知った事なのだが。

ところが今から10年前に入手した「カイルベルト盤」では、どうも今まで聞きなれたものとは違う。
下のカイルベルト/ハンブルグ響の演奏14分25秒あたりを聴くと、本来トはランペットによって奏されるところを、カイルベルトは代わりにホルン(小生の音盤では音がひっくり返っているからホルンだと思う)が「ド―ミドーソ、ドミソソソソソソソ(ソをオクターブ上げている?)」と吹かせている。
録音の精度に少々欠けるから、ホルンではなく、トランペットかもしれないが。



以下のバーンスタイン/VPOの演奏スタイルが慣れ親しんだもの奏だ。
トランペットが高らかに「ド―ミドーソ(低)、ド―ミソーソー(高)、ド―ミドーソ、ド―ミソーソー」と吹いている。

念のために手持ちの音盤とDLしたもの、ワインガルトナーは勿論、トスカニーニ、エーリッヒクライバー、メンゲルベルク、ワルター、クリップス、コンヴィチュニー、カラヤン、クナッパーツブッシュ、ラオナー、セル、フリッチャイ、バーンスタイン、ミュンシュ他、ブロムデュテットと聴いてみたがカイルベルト以外はすべてがワインガルトナー改訂版を使用しての演奏だった。
(アバドが少し気なるが聴けなかった)

ワインガルトナー改訂版は、これまでの伝統的演奏スタイルといってもよい演奏である。
17分29秒からお聞きください。


さらにもう一つ異なる演奏があって、トランペットで吹かれるところが途中でとぎれてしまうもの。
「ド―ミドーソ」ですっぱり切っている。
これはベーレンライター版によるものだと推測されるが、コーダのトランペットの吹き方に都合3種類のスタイルがあることになった。

バーンスタイン盤とヤルヴィー盤は「版」の違いで、バーンスタインはワインガルトナー改訂版、ヤルヴィーはベーレンライター版を使ったと思われる。
カイルベルト盤はオリジナル版・・・ベートーヴェンが書いた楽譜どおりの演奏ではないかと思う。

15分8秒からお聞きください。


そしてバーンスタイン版=ブライトコップフ版、ヤルヴィー番=ベーレンライター版に代表される1楽章コーダのトランペット処理の差を以下のように見る人がいるようだ。

①ナポレオンの勝利の凱旋とみてオリジナル版を改訂したと思われるワインガルトナー改訂版≒ブライトコップフ版。
②ナポレオンが名誉の戦死を遂げたとみて、トランペットを途中で切れたように演奏するベーレンライター版。

ようするにベートーヴェン或いはベートーヴェン解釈に端を発し、勝利の凱旋時のものとみるか、大敗北した時のものと見るかという事になる。
なぜならば、続く2楽章が「葬送行進曲」だから、1楽章と連続するには、勝利の凱旋即死亡とするには難があるという考え方らしい。
この考え方が、ベーレンライター版つまりデルマーが改定したいと思う切っ掛けだったのではないだろうか。

昨今の演奏ではヤルヴィ盤に象徴されるようなピリオド系統の演奏が多くなってきたから、ベーレンライター版の使用が多くなって来たようで、ワインガルトナー改訂版はあまり演奏されなくなったようだ。

しかしここに小生は大きな疑問を持つものである。
其れはベートーヴェンの「英雄」、絶対音楽だからとまでは言わないが、R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」のように、ある出来事を順に描き出したものとは思わないからであり、したがって「英雄」交響曲の1楽章と2楽章が長大な歴史ストーリーのまま繋がっているとは考えにくいからである。

上に挙げたように、勝利の凱旋から、すぐ次に葬送行進曲になるのはおかしいという意見があるのは承知だが、1楽章ののちに時間が経過して(音楽上は繋がるようになってしまうが)2楽章になるという事は考えられないものか。
もし1楽章と2楽章が連続したストーリー的に繋がらなくてはならないというのなら、其れは頭の中で考えたことであり、さらに屁理屈と知っていて敢えて言うなら1楽章と2楽章を続けて演奏してしかるべきだろう。
・・・と言いつつ、問題の箇所の少し手前で、「運命の動機」がトランペット(ホルンの場合もあるようだが)タタタターン×6回も聴こえる事がなにか悪い予感をさせるものだと考えると、ナポレオンの凱旋ではなく、戦死に繋がりそうな気もするが、それについては、小生が知る限り何の言及もない。
(運命の動機の発見は、小生にとって凄く意味があることだから、将来的に、意見を変えるかもしれないが、今のところそれはない)

小生はこの曲が連続したストーリーではなく、映画の過去現在未来の場面切り替えのように、時間的つながりが必ずしもあるわけではない場面場面が、音楽的楽章になったものだと思うのである。
3楽章は未来に向かって進もうとする、市民の棟梁ナポレオンの推進力を感じさせるし、4楽章は過去を回帰して数々の偉業への賛歌であるように思う。
そして2楽章、そういう偉大な死と葬儀の場面へと続くのだが、楽章間には時間的隔たりがあるのではないか。
さらに音楽形式あるいは構成が、ベートーヴェンの内部でまだ内容より少しだけ勝っていたから、ストーリーが犠牲になったものと考えてしまう。

したがってベートーヴェンが尊崇の念を抱いた、その偉大なナポレオンの葬儀は、ベートーヴェンが、力の限りの荘厳さ厳粛さを演出したものだ。(皇帝になったとき楽譜を改定したというのなら話はベツだが)
そしてフーガを2楽章葬送行進曲と終楽章で大きな展開として使ったのもその表現であったと推測するものである。
だからこそ、裏切られたという感じを持ったベートーヴェンは、楽譜の表紙を破りナポレオンにささげるという意味のものを消したのではないか。

数多くの良演奏の中で1曲を選ぶというのは、至難の業であるが、そのような視点で考えた場合、小生の愛聴盤の中からの候補はすぐに決まることになる。

いずれも古い録音であるが、
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フランツ・コンヴィチュニーがドレスデンシュターツカペレを1955年に振ったもの。
そしてフェレンツ・フリッチャイが1962年にベルリンドイツ交響楽団(旧ベルリン(放送)交響楽団、ベルリンRIAS交響楽団)を振ったものの2つになる。(音盤にはベルリン交響楽団と記載されているが、そうなると東ドイツのオケを振ったことになってしまうから、たぶん誤記と思われる)

コンヴィチュニーは、ベートーヴェンが曲にこめた想いを、本人に代わり再現しようとするかの演奏だ。
一方フリッチャイは、あくまでベートーヴェンの作った曲でありながらも、自己投影・・・曲が持つものに自分を強く重ね合わせるという演奏のようで、晩年の演奏がそうであるように、ここでも思いっきりスローテンポ。
一音一音噛みしめた演奏だ。
どちらも重厚に仕上がっているが、上にも書いたように、曲へのアプローチが全く違う。

コンヴィチュニーはベートーヴェンの代弁者的(というより寄り添う)で、ベートーヴェンだったら、きっとこのような演奏をしたであろうということを思わせる演奏だ。

フリッチャイは、ベートーヴェンの代役というよりは、自己表出度の高い演奏のように見受けられるが、しかしベートーヴェンに対する尊崇の念は至る所でうかがえる演奏だ。

アプローチの仕方は違うが、どちらも「凄い」ベートーヴェン演奏であることは間違いない。

どちらかを選ばなくてはならないとしたら、捨てがたいフリッチャイ盤だが、礼節をもって遠慮いただき、小生はコンヴィチュニー盤を選択する。

その理由は、演奏そのものではなく録音にある。
コンヴィチュニー盤は、ETERNAの持つ録音技術に支えられ、1955年録音とは思えない、素晴らしい音質だから、モノーラルではあるが、音の表現が豊かで、隅々まで見通せることにある。
そのおかげで、コンヴィチュニーの音楽の作り込みが非常によくわかる。
1961年のステレオ盤全集にはない「ベートーヴェンかくあるべし」の緻密さと迫力をもつ、魂のこもった演奏が良くわかるから。
その点フリッチャイ盤は1962年録音にもかかわらず、低域が団子状態で、細かいアゴーギクや和声が聴き取りにくい。

10年ほど前に発売された、コンヴィチュニーのBOX盤には、GOLとの教会での録音全集の他に、今回小生がお気に入りとしたSKDとの録音を入れたことが、いかに素晴らしい演奏であるかを物語っている。

音盤は単独でも発売されている。
コンヴィチュニーのベスト演奏ではないだろうか。

コンヴィチュニーは、スタジオ録音よりもライブがいいのだが、まだ確信はできないが、ひょっとするとGOLの時より、SKDを振った時のほうがいいように思う。


by noanoa1970 | 2012-04-14 00:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

アケビの花

桜の花も残りわずかな時を向えた。

桜の明る色の花の影で、人知れずこっそりと咲く花。

果実は何度もいただいたが、花を見たのは初めて。

花が咲かねば実はなぬものなのだから、是非にとブログ記事にした。

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写真がピンボケで恐縮なのだが、垣根の中から顔を出して、葡萄の果実状の形になって垂れ下がっている。

大きさは小指の爪を1回り小さくしたぐらい。

濃い紫色の花だ。

恐らく数百いやもっとあるかもしれないが、その中で成長して果実になるのはたった5~6個。

実が成熟する秋が楽しみだ。

by noanoa1970 | 2012-04-13 15:51 | 季節の栞 | Comments(3)