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スパコン即興幻想

「京」が世界一のスピードになったそうだ。
でも一般社会でそのメリットを享受するには至ってないようだ。

それでどんなことを期待するのかを趣味と照らしあわせて少し考えてみた。
この話は、もう40年近くにさかのぼり、先に務めていた会社の研修会でのこと。

講師の「未来のコンピューティングで、できたらいいと思うことをあげなさい」という問いに対し、小生は「楽譜を読み込ませて(あるいはデータベースからチョイスして)、好きな指揮者とオーケストラを指定すると、再現してくれるようになるといい」と書いたことがあった。

これはSPや初期LP録音などで、演奏は良いが録音が古くて細部まで聞くことがかなわないものを、良い状態で再現できたら、という願望からのものであった。

仲間の知識人からは、それはOCR、OMRで、今でもできるようなことを言われ、反論したいのはやまやまであったが、当時のコンピュータに関しての知識の浅さで、黙っていたことがあった。

今思えば「読取」の技術だけでは解決しないこと、指揮者の解釈、アゴーギグやオーケストラの音色などのソースからデータベースを構築し、それと曲を合致させるという高度なテクニックを必要とするから、OCRやOMRだけでは到底成し得ないものであることは明らかである。

それでも当時はOCR、OMRという言葉とその意味を知っているだけで、コンピュータに明るい人と言われたものであった。

現在ならば、むしろ過去のソースを解析し、それぞれの演奏の特徴諸々のデータベースの構築に重点が置かれる話であることは明白だが、スパコン「京」で、果たしてそのような、ことが可能なのだろうか。

解析ソフトをどなたか作り出し、実験的に往年の指揮者とその手兵オケのシュミレーションから、最新データに置き換えたものを、音楽データに変換していただけると、過去の音楽遺産が現代の音でよみがえることになり、真の再評価に繋がる可能性がある。

また音質が悪いといって、聞く耳を持たなかった人たちにも、聞くことが可能だから、世界の音楽ソースは一気に何倍にも膨らむはずだ。

データベース構築がなされれば、手元の端末からアクセスし、曲と指揮者そしてオケを(演奏会場も入れるとより良いが)指定するとシュミレーションした結果、過去の演奏が最新の音響を伴い、最新録音と同じ音響で聞くことができるという事になるであろう。

オリジナルと比較し、音響が新しくなり、解釈や特徴はほとんど受け継がれていると仮定すれば、シュミレーションではあるが、かなりのリアリティを持つものと思う。

スパコンはスピードだけが取り上げられていて、ユーザーインターフェースが全く無いことから、槍玉にあげられるわけで、何か1つでも我々の身近なことで、今まで成し得なかったものがあれば、その事によっての裾野は広大だから、ひょっとすれば凄い経済効果を生むかも知れないから、そうなる兆しが少しでも見えることが肝心ではないだろうか。

学術的な活用は、それはそれで必要なことだが、その事が市民に還元されるには長い年月がかかるであろうから、一般市民のユーザーインターフェースを取る方向も大切なことのように小生は思っている。

これも思いつきだが、魚眼レンズやトンボの目玉が実際にどのように見えているのかを、再現すること不可能なのだろうか。

これまでは、多分そうであろうという情報はあるものの、それが正しいのかドウかは分からなかったが、実際に魚やトンボの目玉から読み取れるるものを解析し、再現するというのは妄想にすぎないことなのだろうか。

ものを見ることは結局脳の働きだというから、視神経と脳の代わりにコンピュータが活用できれば良いと単純に思うのだがまだまだ難しいのだろう。

と言うことは脳の働きはスパコンの比ではないぐらい凄いものということになる。
一説には人間の脳は100万京のスパコンに相当するというから、現状の100万倍の速度を持ったスパコンであれば、可能性があると推測される。

『人間の脳がどれほどの処理速度を持っているのか、計算するのはとても難しい。ヒトの大脳には約100億細胞、小脳には約1000億細胞あると言われているが、その細胞一つひとつを、携帯電話のプロセッサ1個分の処理速度だと仮定してみる。そうすると、今よりも百万倍から千万倍も速くしなければヒトには近づけない。』
以上のような言及もあるがあくまでも仮定の話である。

しかしコンピュータは、40年前から現在までで、千万倍速い処理速度になっていることを考えれば、可能性を否定するのもどうかと思う。

『2045年、人工知能(AI)を搭載したスーパーコンピューターが地球を支配する日が訪れる。コンピューターが人間の知性を超え、世界は「シンギュラリティー(特異点)」に到達する。病気や老化といった生物学的限界が取り払われ、もはや死さえも「治療可能な」ものになる』
AIの第一人者レイ・カーツワイルは以上のような予測をする。

スパコン開発の大きな目的は人間の「脳」に近づくことといっても過言でないような気がする。
その事が人類の幸せなのかそうでないか、神の領域に入ってしまうということだろうから、宗教的には反対する声もあることだろう。

とにかく今すぐ可能なユーザーインターフェースを持たせることは、必須なことで、このことがおろそかだと、市民からの支持はなくなってしまう。

「2位じゃ駄目なんですか」という有名な言葉も、ユーザーインターフェースの欠落から出てきた言葉であろう。

学者はこう言うことは全く気にかけないから、チームの中に今と近未来の活用法を研究し、今の技術ですぐにでも実現させるような人材を放り込む必要が有るような気がしてならない。

「何か1つ市民がメッリットだと思う具体例を見せてよ」、これが偽らざる願いであろう。

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by noanoa1970 | 2011-11-30 10:26 | トピックス | Comments(0)

湯船の中で考えたこと

風呂の中でこんなことを考えた。
まとまりがついてないままであるがご勘弁願いたい。

朝、早朝と書いて「あした」と読むことは「早朝の雨」:ゴードン・ライトフットの名作「early morning rain」の訳「あしたのあめ」からも分かるように古語での活用法である。

夜明け後の早い時間が「あした」ということで、昔の人は夕方から夜明けまでの時間帯を
「夕べ(ゆうべ)」「宵(よい)」「夜中(よなか)」「暁(あかとき)」「朝(あした)」と5つに分けていたらしい。

太陽が登りかける直前を「暁」、徐々に明るくなってくる頃、すなわち早朝が「あした」ということになり、「早朝」を「あした」とした「early morning rain」の邦訳は適切だ。

古来「あした」が朝及び早朝の意味を持っていたということはわかるが、明日と書いて「あした」と読み、翌日のことを表すのは何故だろうか。

むかし「明日という字は明るい日と書くのね」「若いという字は苦しい字に似てるわ」とアン真理子が歌っていたが、明日すなわち翌日を「あした」となぜ呼ぶことになったかははっきりしてないようだ。

翌日のことをあれこれ思いやるのは、前日の夜であろうことから、明日、翌朝の日に想いを馳せるということで明日を翌日の意味で使うことになったのではないか、というのが小生の推理である。

さてもう1つの謎、どうして、夜明けを「あした」と言うようになったのかについては諸説あるようだが、これも小生の推理を働かせて・・・

略語を使うことは、斬新で時代の先端を行っているに等しいことと思ったのは、昔も今も変わらなかったようだという大前提のもとに。

太陽が顔をのぞかせる直前、ぼんやりと明るくなってくる頃を、「夜が明けました」云々言っていたのだが、少々長くて悠長だったことから、誰かが「よがあけました」という呼称から「○が○け○ま○た」を削除し、「あした」と言う呼称を編み出して、それが伝播して夜が明けること、夜明け=早朝を「あした」というようになったのではないかと推理してみた。

昔の人の中にも現代の若者のような略語が流行の先端を行くものとおもっていた人がいたのだろう。
「ありがとうございました」を「あしたー」というのと一見同じような形成パターンであるように見えるが、重要な違いは、意味合いが封じ込められているかいないかで、「あしたー」はそれだけでの意味合いはなく、お礼をいう時でないと効力がないから、単に短くしたというだけである。

とんでもない妄想的推理でしかないが、他の諸説も大なり小なり。

「夜が明けるとき」という意味で「あけじた」と言っていたが「あけじた」から「け」が抜けて転じて「あした」となったという、例えばこの説にしても略語でそうなったとの説明で、しかも「明け時」を「明けじた」と発音するのは東国地方というから、範囲はかなり狭いと考えて良いしそれが普遍的になrったという確証に乏しいから、、あまり説得力はないと思う。

しかしいずれにしても、「略語」説は、まちがいではないような気がしてならない。
そして略語の中に、意味を保持しつつ簡略化されたもの、単に短くしただけのものの大きく2つがあるように思える。

昔の人の中にも、略語を使うことは流行の最先端を走っているものと勘違いしていた人がいたのではないか。いやむしろそれを楽しむ風潮が有ったのではないかとも思う。

略語など有る一定の組織でしか使わない、そしてその他の人が聴いても意味が分からない言葉を使うことによって、ひとつの共同体を作る原動力になったということもあるのではないか。

卑近なでは「業界言葉」の一つ、言葉を逆さまに言う・・・ジャズをズージャということは、最初はジャズ屋の一部が使い出したと思われるが、それが徐々にに浸透し、今やマスコミ業界でも使われるようになったものであろう。

ゲーセン・・・最近はこのように意味のない縮めただけの略が多いようだが、ゲームセンターでなく、音楽をやっている一部で使われた言葉で、五千円貸してくれをゲーセン貸しててくれと言う具合に、CDEFGAHのGは5番目、このことを知って使うのは音楽関係でも演奏する側である。


またよくあるオーケストラの助っ人「エキストラ」を「トラ」というのは、オーケストラの関係者で、これは他の人にほんとうの意味を知られたくないというところと、オーケストラのトラをひっかけた言葉のように思う。
演劇や映画のエキストラを「トラ」というのは聴いたことがないから、オケ専門の言い方なのだろう。

これらは自分たちの領域を示すアイデンティティのようなものして考えることも出来、その言葉も意味も知っていいる人は他人でも大きな仲間意識の中に入ると言うことを示すものであろう。

隠語によるゲマインシャフト形成と言うと怪しげに聴こえるかもれないが、自然発生的要素と、意識して・・必要性からのもの両方があいまったところで成立してきたのだろう。

しかしながらこういう言葉も、今やマスコミがドラマや映画バラエティなどで平気で使うし、その言葉を使うタレントを主演させていることから、かなり多くの一般人の知る所となってしまい、一般的な使い方になると思われるようなものも散見されることから、かつて存在したゲマインシャフト的な効力はなくなりつつ有るようだ。

話としては隠語の成立過程探求のほうが面白いが、「略語」に戻ることにする。

略語として生き延びる条件としては、単に短くするだけでなく、素の言葉の意味を保持しつつ発音の具合が良く言いやすくなくてはならないのだと思う。

発音に無理がある略語は生き残らないようである。

日本語として定着しつつ有る外来語も日本語と比べて発音が楽なものが優先的に使われるようで、「〇〇を得ることをゲットする」というように、日本語のほうがわかりにくく長くて硬い言い回しのものは外来語に取って代わられる。


「甘味」という言葉は、発音の「かんみ」と聴くだけでは何を言っているのか分からない人が増えてきたのだろう、だからスイーツという外来語のほうが、発音から甘いものを連想させやすいからだろうか、今や日本語として定着しそうである。言い易いしおまけに少々気取った言葉に聴こえ、マスコミのバックアップもあって定着まちがいないようだ。

分からないのは、「車のキー」というのに、「家のキー」「玄関のキー」とは言わないこと。
最も「車の鍵」という人も居ないわけではないから、「KAGI」という発音はステ去られたわけではないようだ。

結局は耳に馴染み、言いやすいことが略語としての条件というyことではないだろうか。
それがどのような意味を持つかは、略語に関してはそれ自身が独立してしまうので、ドウでもいいことなのかも知れない。

「あけましておめでとうございます」を「あけおめ」と略すのはドウかと思うが、其れでもエキスはキチント入っている。

しかしこの言葉は日本人が持つであろう伝統文化と抵触するから、流行るかドウかは分からなく、小生は流行らないであろうと見ている。

「なんでも略せばいいってものじゃない」と白戸家のお父さんも言っていたが、略される前の言葉のエキスは忘れないで略していただきたいものだ。



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by noanoa1970 | 2011-11-26 10:47 | 歴史 | Comments(12)

フォルテピアノによるモーツァルト協奏曲から

小生はピリオドアプローチやピリオド奏法の演奏を好んでいわけではなく、どちらかと問われれば、否定的な試聴者である。

しかし最近になって、エリーナイ/コンヴィチュニーのブラームスの2番コンチェルトのピアノの音色から、フォルテピアノを使用したのではないかという結論に達し、多分それは的を得ているとは思うのだが、どこにもそのような記述は見当たらないから、自分の耳を信じることになるのだが、其れでも一抹の不安がつきものであった。

それでフォルテピアノと言われるものの音を確認しようとして探し聞き及んでみるのだが、作者や時代によって、出てくる音はかなり違っていて、チェンバロのようなものから近代ピアノに近いものまでが存在し、それらをひっくるめてフォルテピアノといってしまっていることが分かった。

200年もの歴史があるピアノを「フォルテピアノ」と一括りにしてしまうことは相当な危険性をはらんでいると小生は強く思うのである。

まだ詳細な研究成果が出ていないものと思われるが、今のままでは大きな誤解を生む事になってしまうから、もう少し細かい製作年代に応じた呼称なり説明なりが必要だと思う。

フォルテピアノでくくってしまうには違和感がある、あまりにも近代ピアノに良く似た音色のピアノも存在する。

一説には、スタインウエイが金属フレームを開発し、ピアノに取り入れる前までをフォルテピアノ、それ以降を近代(モダン)ピアノと呼んでいるらしいのだが、金属フレーム使用以前にも音色的にはモダンピアノとほとんど遜色ないピアノが存在するようだ。

ただしよく聴いてみるとモダンピアノそっくりな(一応フォルテピアノとするが)ピアノでも、全ての音がモダンピアノと同じであるかといえば、全体で言うと、上下の周波数を抑えた感じの音で、響きがカナリ抑えこまれていることがわかるし、高音部の煌きも一瞬はあるが、モダンピアノのように持続はしないし、音の高低で音色が違うことも多い。

低音部では音の響き・・・残響音といってもよい、がとくにデッドに聞こえ、余韻が感じられないから、このようなピアノを使うメリットは、長短の頻度が少ない(カナリ大雑把な言い方で恐縮だが)恐らくモーツァルト以前の作品においてでしかないように思う。

同じフォルテピアノでも、ショパン時代のものになると、アクションも音色もモダンピアノに近くなっていると見られ、そうなると、ショパンをフォルテピアノで弾くという行為そのものが陳腐になってくる。

以前ショパンが使ったものと同じ楽器で、エチュードを弾いたシーンをを見たことがあるが、ショパンの響きには到底聞こえなかったことがあった。(モダンピアノの音のほうが自然に聞こえるようにならされたとも言えるが)とくにショパンはフォルテピアノに戻る必要がないと小生はその時実感した。

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さて本日はフォルテピアノを使用した演奏として、多分耐えられるであろうモーツァルトの協奏曲を聴いてみた。
ピルソン/ガーディナーによる9番と11番の協奏曲である。

この録音演奏につて、小生が一目置いているある人物がブログで以下のように述べている。

「権威でねじ伏せるような古楽器演奏なんて、今時流行らないけれど、面白くしようとし過ぎて、作品を勝手な「解釈」でこねくり回し、結果酷い有様となるのは、私には到底理解できない。演奏における「個性」をはき違えたような演奏とこの演奏とは、正反対の真っ当なもので、モーツァルトの世界を堪能させてくれる。』

以上のような評価をこの演奏録音に与えているが、小生もほぼ同じような感想を持つものである。

音響からしても、この録音で聴こえるフォルテピアノはモダンピアノに近いもので、演奏もさることながらその効果は大きいのだと思う。

使用されたピアノは、モーツァルトの生家にある、アントン・ヴァルター製作の楽器に基づいて、米国のフィリップ・ベルトが1977年に復刻再生したもので、オリジナルは1780年製作でモーツァルトが演奏会で使用したものとされる。

モーツァルトがそれまで使用したとされる、シュタイン作のピアノからヴァルターに乗り換えた理由として、シュタインのピアノのチェンバロ的な響きを好きでなくなったという説があるが、先に小生が指摘した、フォルテピアノの音色がチェンバロ的なものからモダンピアノに近いものまで幅広いということの裏付けとなるであろう。

チェンバロ的な音のピアノならチェンバロを使っても、音量が大きい以外ほぼ同じことだから、演奏会のエポックにはなりにくいし、観客数も多くなってきたであろうし、バックのオケもそれに連れて人数が増えてきたことを考慮すれば、チェンバロの響きが打ち消され気味になることは十分予想がつく。

またモーツァルトがシュタインのピアノと縁を切ったのは、音色もそうであるが、演奏会の変化(観客数会場の拡大)から必要とされる、もっと大きな音を必要とする実用性があったのであろう。

このピノックの録音は、スタインウエイ云々関係なしに、かなりモダンピアノに近い音がするから、あまり違和感がなく聴こえる。

エリーナイのブラ2コンチェルトのピアノも、音色から類推すればモダンピアノに近いフォルテピアノの可能性が高い。

ピノック使用の復刻ピアノの音がオリジナルト比べ同じであったか、それともカナリの違いがあったのかは定かではないが、解説の誘導するところからは、同じような音であるという尋問に掛かってしまう。

小生は大いに疑問を持つが、すぐに検証できることではないから、一応そうであろうこととしておくが、モーツァルトがこれと同じ音色のピアノを使用したとするなら、後期の協奏曲に見られる繊細さと強調がバランス良く存在する理由の謎が解けるような気がする。

この演奏録音で知ることになった大きなことがあって、それは以前に小生が気が付きブログに書いたことであるのだが、指揮者で言えばベルンハルト・パウムガルトナー、演奏者ではグルダ、ブレンデルが一部で採用したモーツァルトの協奏曲演奏のこと。

それはオケとピアノが同時にスタートするもので、一番顕著な例がアーノンクール/グルダの23番26盤の協奏曲で、その他にちらほらあるが、ピアノが埋もれてしまっていて、よく聴かないと見分けられないものがあるから、気が付かずにいる場合も多い。

この録音などは完全にピアノの音がオケに埋もれてしまっているから、ピノックが言っていることが体現できてないのが残念ではあるが、ピノック自身の言葉からはピアノは最初から弾かれてているようだ。
1楽章では非常にわかりづらいが、2楽章ではオケの音が小さいから、ピアノが同時に弾かれrている事がよくわかる。

ピノックはこのことについて以下のように述べている。

「私はこの演奏でピアノを独奏楽器としてだけでなく、オケ総奏部のコンティヌオ楽器としても用いた。すべてのモーツァルトの協奏曲には、鍵盤楽器の独奏者が、コンティヌオも弾くようにとの明確な指示がある、」そしてこのことはアンサンブルの実際の響きばかりでなく、私がアクションと呼んでいることのためにも極めて重要だと思われる。」・・・「近代の演奏はモーツァルトの指示を省略し、オケの序奏が終わるまでピアノの前でただ座っているだけとなってしまった。当時は独奏楽器を含めオケ全体で最初の主題提示部の楽節全てを演奏した。その後独奏者は主役としてオケから離陸し自分の仕事を果敢にこなしていくのである。もしこのことを削除するなら、モーツァルトの楽曲構成の重要な部分を切り捨てることになってしまう。」

以上のように述べ、オケとピアノが最初から一体で音楽を作るということがモーツァルトの指示であったこと、それが欠落すると曲の構成が崩れてしまうことを指摘し、とくにピリオド奏法の一貫としてはなくてはならないものという考えを示した。

モーツァルトの指示がそうであったことを小生は知らなかったが、モーツァルト自身の性格から類推すると、序奏が終わるまで、なにもしないでいるとは考えにくいし、弾き振りをしたことを考えれば、納得が出来ぬjこともない。

そしてそのことが当時のモーツァルト演奏のベイシックスタンダードなものであったという研究から、パウムガルトナーが試みたというのも納得が行く。

ピノックの言及はパウムガルトナー研究の査証であるとも言えるのだと思う。

コンティヌオ:通奏低音は比較的小編成のオケに不足しがちな低音部を支え、リズムも支えるから、それを弾き振りのモーツァルト自身が実施するということは、大きな意味があったのであろう。

これらのことは、モーツァルトがバロック音楽を引き継いでいたという事につながることなのであろうかという疑問があるが、それについては難問であるがゆえに言及を避けておきたい。

初めてグルダ/アーノンクールを聴いた時、そしてパウムガルトナーが数少ないながら、この奏法を取り入れた演奏をしたのを聞いた時、新しい物を発見したような気分になったが、モーツァルトが指示したことであったとは・・・。

そうなると逆にほとんどの演奏が、モーツァルトの指示に反する演奏をしているのは何故だろうかという問題が起きてくる。

指示がある楽譜がオーソライズされてない。
現代のように規模が大きくなったオケでは、ピアノの音が完全に埋もれてしまい、意味が無い。
通奏低音の役割をする低音部は例えばコントラバスを追加することで十分足りる。
弾き振りの習慣はごく少なくなった。

多分以上のようなことであると推測する。

だから比較的ピアノの音が聞こえやすいピリオド系の演奏者が採用することとなったのか。
そういう意味であるとすれば、パウムガルトナー/モーツァルティウム管のブレンデルとの20番の演奏は、モダン楽器モダン奏法のモーツァルトであるから、貴重であると言えそうだ。

何れにしても今回聞いたこの録音から2つのことが、より鮮明になったことは喜ばしいことで、この音盤の大きな付加価値である。


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by noanoa1970 | 2011-11-24 11:42 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

お掃除

といっても部屋の掃除ではなく、レコード盤の掃除である。

年期の入ったむかしのレコードは、どうしても埃やゴミが付いてしまうもので、レコードを掛けるときのクリーナーででの掃除ではどうしてもホコリが残ってしまうし、それに盤面も指紋で汚くなっている。

無いか良いアイディアはないものかと思案して、考えついたのが以下のもの。

用意するもの
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薬局で精製水を購入500ml100円
綿のシルクティッシュ(毛羽立ちをおさえたもの)小生は5×6センチに切ってある丸三産業のcotton puffを使用した。100枚入り約300円
100均でプラスティックのお盆を購入。100円
滑り止めに滑り止めシートピタペット家にあったものを使用したが、そんなに高くはないと思う。

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滑り止めシートを100均で買ったお盆の裏側の大きさに合わせてカットする。小生の場合は直径27センチの円形。これでレコードを置く所が確保できた。お盆の裏側、平らな面を使用する。

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レコードを載せて、洗浄用の精製水をまんべんなくかけて(この時クリーナーを使って伸ばすといい)均してから、コットン綿で強く拭いていく。
1度目は水分を吸収するため、2度目は艶出しと乾燥である。

100均で買った静電気除去のブラシでかるく撫でる。

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レコード盤が見ごとに美しくなった。
滑りが相当良くなったから、いろいろに影響するかも知れない。
レコードの傷つきは全く心配ないと思う。

要するにポイントは精製水を使ってレコード盤を磨くことにある。


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by noanoa1970 | 2011-11-23 07:00 | トピックス | Comments(2)

11月22日は

最近では「いい夫婦の日」となってしまった感があるが、1963年の今日は、ケネディ大統領が暗殺された月命日である。

思い起こせばあのホは、MHKが日本初の衛生中継の実験の日であったが、回線が通過した直後息を切ったようなアナンウンサーの声で告げられたのが、ケネディの死であった。

学校が休みだったのか小生が休んだのか、小生はリアルタイムでこのアメリカからの衛星中継を見て、其の衝撃のあまり、国語の教科書に「ケネディ死す」と書いた覚えがある。

今でこそ真相が暴露されているようだが,、その頃ケネディは、1962年キューバ危機を発端とした米ソ核戦争突入の危機を回避した政治家として、英雄視されていて、小生も尊敬の念を持っていたのだった。

「国が諸君らに何をしてやれるかではなく、諸君らが国のために何ができるのかを 考えたまえ。」というケネディの名文句があって、あの頃は素晴らしい言葉だとおもっていたが、今では批判的に受け取らざるをえないところだ。

偉人や英雄を尊敬できた時代が懐かしい。

しかしながら、ケネディは米国史いや世界史上、いろいろな意味においてエポックメイキングな大統領としての位置は、不変であるのだろう。

普段はほとんど聞くことがなく、音楽だけではなく、歴史遺産としての価値がより高い、ケネディ葬儀のモツレクを聴くことにした。

内容については過去の記事に書いたので省略するが、この音盤は1964年か5年に発売となったのだが、5000円という価格でとても高校生には手が出なく、いつか入手しようと決めていたが、それからしばらくして廃盤となってしまった。

中古LPを探したがなかなか見つからずにいたところを、ようやく海外在住のレコードコレクターの人から譲っていただいたのが7年ほど前。

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掲示板の復刻希望欄に投稿もしたが、内容が内容だけに復刻は無理だという意見が圧倒的だったが、やはりこういう時代なのか、数年前のこと復刻発売されることとなった。

典礼通りの葬儀進行の中で、ラインスドルフ/ボストン響がモーツァルトのレクイエムを演奏するというスタイルで、開始の鐘の音も、神父の祈祷も、ときどき場にいる人達が席を立ち上がるがる様子も聴こえてくる。

解説者は野村良男氏で、1964年、最初の音盤が出た時のものであるが、その一節にはこう記されている。

「これは誠に歴史的であると同時に、感動的な録音である。最前列の「書簡側」すなわち向かって右側に、祭壇着席し、聖体拝礼を受けて神と故人の永遠的一致を他の誰よりも祈ったに違いない、ジャクリーン夫人の涙と心の震えをわれわれは感じないではいられない。」

残念ながら録音には無いが、カッシング枢機卿のミサ終焉にあたっての説教が記されているが、なかで、モツレクが選択された意義を以下のように言及している。

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「何人も傑出した合唱団、有能な指揮者のもとに、世界に知られたボストン交響楽団によって、モーツァルトのレクイエムがアメリカに一新を捧げた大統領のために選ばれたことの適切さを指摘しないではいないでしょう、芸術の天才と指導の天才がこの歴史的出来事で出会ったのです。」

芸術の天才とはラインスドルフ/ボストン響、そして指導の天才とはケネディ大統領であることは明らかである。このあとしばらくモーツァルトとケネディ大統領両者の共通項について詳細に持論を述べている。

ボストングローブ紙のロバート・ヒーリー氏は、威厳とびとスタイルト素質有るミサは、大統領とそっくりであったといい、ラインスドルフが枢機卿に言った言葉を引用した、それによると「大切なのは心であって、声ではないのです」と。

またジャクリーン夫人はミサ終結部が近づくと前に進み出て、ラインスドルフにお礼を言い、「magnificent」
だといったと伝えた。

最も著名なボストン響の後援者は「国中のどこの教会でも、あれほど素晴らしい物を見たことがなかった」との弁を伝えた。

時が時事が事場所が場所だから、誇張された所があるのは承知ではあるが、クリスチャンでも無い小生が音盤だけで聴くものとは、雲泥の差。があることは十分推測できることだ。

演奏会場という場かスタジオでの録音でしか聴いてない者にとって、モツレクは宗教とは縁遠い音楽になってしまっているが、こういう実録の音盤を聴くとまたベクトルの違う感慨が湧いてくるものだ。

集中とか一心不乱とか緊張度の高いと言う表現をすることがあるが、まさにこの音盤はそれらに加え、ケネディが、迷わずに天国にいけるようにとの真摯な祈りそのものである。

こういう録音は聴く方も心を正して効かねばならないし、そうやたらに聞けるものではない。

本日はそういう言わば1年に1回の日でもある。
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by noanoa1970 | 2011-11-22 15:08 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

カラヤンの歴代ベト7

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久しぶりにカラヤンの1983年録音のベト7を聴いた。
カラヤン最後のベト7録音で、カラヤンが75歳の時の録音である。

聴いていて気が付いたことがあって、それは体感スピードの速さであった。

「シルクのベルベットの紳士服を着たカラヤン」の演奏と例えたことがあった、VPOとの1958年DECCA録音は、もう少しゆったりとしていて、優雅でもあったから、それと頭の中で比較をすると、どうしてもこの晩年のカラヤンの演奏は年寄り臭がなく、一般的であるが、たいていの指揮者が晩年はテンポがゆっくりになる傾向があるにもかかわらず、何故か83年のカラヤンは、とても快速に飛ばした演奏のように聴こえた。

体感(聴感)速度というものは、音楽に関ししては、あまりあてにならないことがあるから、一応の参考になるだろうと、先ずは客観的的データとして演奏時間を調べてみた。

データ収集したのは5種類
①フィルハーモニア管弦楽団1953年
②ウイーンフィルハーモニー管弦楽団1958年
③ベルリンフィルハーモニー管弦楽団1961年
④ベルリンフィルハーモニー管弦楽団1976~1977年
⑤ベルリンフィルハーモニー管弦楽団1983年

1楽章 2楽章 3楽章 4楽章  トータル
①12:40,9:07,8:27,7:04・・・37:13
②11:44,8:39,7:42,6:43・・・34:48
③11:23,7:57,7:48,6:36・・・33:55
④11:18,7:58,7:12,6:27・・・32:55
⑤11:11,7:40,7:28,6:24・・・32:54

カラヤンはどれもリピートはしてないから、同じ条件の比較である。

意外なことに、録音が新しくなるに連れ演奏時間が速く、したがって恐らくテンポも速くなってきている。
フィルハーモニアと最後のBPO演奏では、4分強の差がある。
いつも聴いているVPOとの差は2分弱。

BPOでは2楽章がどれも7分台とほぼ同じなのに対し、フィルハーモニアとVPOでは9分、8分と演奏時間が長くなっていて、聴感速度もゆったりとしたテンポをとっていることが分かるが、この辺り、BPOと組んでからカラヤンの解釈に変化が出てきたのだろうか。

カラヤン壮年期のフイルハーモニアとの録音が演奏時間が長く、テンポがゆっくり(聴感的にはVPOと同じぐらい)なのは不思議といえば不思議で、推測できるとすれば、カラヤンは一斉を風靡してから裕福になり、スポーツカーや自家用ジェットまで購入し、免許が切れる晩年にはヘリの免許を取得したほどのスピードマニアであったことと関係があるのではないかと思ってしまう。
分単位での生活様式が演奏に影響を与えた結果であるとは言えないだろうか。

Lush Lifeがrush lifeとなったカラヤンは、演奏スタイルまで変化した。
若しくはBPOとの付き合いの中で、テンポを速くしたほうが良いことの何かに気が付いたのか。

改めて5種類を聴いてみたが、以外に良かったのがフィルハーモニア管弦楽団との演奏で、テンポといい解釈といいVPOとの演奏に類似している。
オケの実力もVPOと遜色ないが、録音のせいもあるだろうが、VPOのほうがよりクレッシェンドの扱いにリニアさを感じ入る。
しかし各楽器パートの技術力もさることながら、息があっているという点ではVPOを凌駕するようである。

第2主題が直前のフルートが導入する弦楽器との掛け合いは、フィルハーモニアもVPOも見事な丁々発止、この部分を聴くとぞくぞくしてくる。

61年BPOとの録音では、前2つの演奏の解釈とはほとんど変化がないようだが、76年のBPOはレガート気味な所が出てきたために、最後の音が長めではあるが、全体のテンポと調和してなく、小生が注目している、フルートの駆け引きの所では、ブラウ、ゴールウエイ、ツェラーのいずれかが吹いていると思うが、テンポ設定と間のとり方が芳しくなく、フルートと弦パートの会話、あるいは駆け引きという洒落た感じが表現されない。
併せるといった所がなく、ソロとしてのフルートが前面に出てきてしまったように感じられた。

この傾向は83年録音でも顕著に見られることで、カラヤンらしい丁々発止あるいは対話というような、じっくりとした楽しみがなくなって、まるで喧嘩腰の言い合いのようになってしまったのは至極残念である。

晩年になるに従ってのテンポアップを、カラヤンの精力の証と取れないこともないが、残念ながら、83年盤では、去りゆく老兵の最後の足掻き姿を見るようで、ベト7演奏としては評価できない点が多すぎるように小生は思っている。

カラヤンはすべてのことをやりつくしたと思われがちだが、果たしてそうだったのだろうか。
老い先短いことの焦りはなかったのだろうか。

小生はそれらの裏返しが、テンポに表出されているように思えて仕方が無い。
多くのものを背負い込むように、自らなっていった果てのカラヤン、いくら帝王と呼ばれようが、一人の人間にすぎないのだから、もう少し異なる人生ベクトルを発見していたら、このような演奏スタイルにはならなかったことと強く思うのである。

しかしカラヤンの演奏は、どれを聴いても失敗作がないのは、流石であるというフォローもしておかねばなるまい。

あくまでも小生の試聴結果では、年代の古い順に良い(好きな)演奏だと言っておく。(フィルハーモニアとVPOは同等の好み)

果たしてカラヤンは、このことをどう思っているのだろうか。
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by noanoa1970 | 2011-11-22 11:54 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(10)

「ちあきなおみ」ねえ、あんた

「4つのお願い」、「喝采」のちあきなおみは、好きな歌手というわけではなかったが、70年代初期の「夜間飛行」でほんの少し見なおした。

それからしばらく空白があったのか、小生が耳にしなかったのか、いつしか時が流れ、20年後「紅い花」「黄昏のビギン」をラジオで聴いたのが、彼女を過去のイメージから完全に見直す切っ掛けとなった。

と言っても自分でCDを購入して聴くまでではないから、もっぱらyoutube頼りだ。

先日やはりラジオから、強烈に胸を打たれた曲が流れてじっと聴き入ると、ちあきなおみの歌う「ねえ!あんた」であった。

終戦後田舎から働きに都会に出てきた女性、あるいは都会生活をしていたが、家族もろとも家や財産を失って、そうするしか生きるすべのなかった女性の歌であろうか。
「星の流れに」と、妙にオーバーラップして仕方がなかったが、そんな女性の遣る瀬無さと純情を歌った曲であった。

この歌の中の女性は「母」であり、「聖母マリア」のような存在である。
自己犠牲の優しさが有るようだ。

最近にない衝撃的出会い、流行歌から離れ、自分の歌を見出した到達点として、この歌とちあきなおみを評価する。

森田公一作曲、松原史朗作詞
歌詞は下のURL
http://www.uta-net.com/movie/75180/

youtubeには他にもこの歌の動画があるが、このライブが一番良い。


ちなみに動画は


「星の流れに」が有ったので
癖が出てしまう美空ひばりを凌駕するほど味があり上手い


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by noanoa1970 | 2011-11-18 17:03 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(13)

一周忌

去年の11月17日夜9時頃、愛犬シバがこの世を去った。

夕方から一人で立つことは困難なようになって、其れでも必死に立ち上がるが前ノメリになって、頭から突っ込むという症状を見せ始めた。

前日は元気に散歩に行ったし、食欲も旺盛だったのに、今思えば、夕方2度も小生が座っているイスの前に来たのは、何やら訴えていたのだろうか。

シバは元気な頃、音楽を聞いている小生の傍らにキチント正座して、その頃はまだ健全なメインSP、QUAD、ESL-63の方を向いて熱心に音楽を聴いていたものだった。

コンヴィチュニーのブルックナー5番にすごく反応して、遠吠えを何度も繰り返した。
カラヤンのワルキューレ4幕、そしてマゼールの幻想にも反応したが、これは何れもアナログディスクの再生時であった。
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今では一人で音楽を聴くことになってしまったのは、なんとも寂しい気持ちである。

今日はシバの好物をお供えとすることにしたが、とりわけ大好きそうだったが、健康のためと、いっさい食べさせなかった「コロッケ」を特別に食べてもらうことにした。

家内はペットロス症候群がなかなか抜けないようで、毎日のお祈りと、供物を捧げていて、在りし日のシバの様子を語ることが多い。

今でも不思議なのは、小さな川や、側溝など、少し深くて水が流れているものには、激しい拒否反応を示したこと。

絶対に橋を渡るのが嫌で、引っ張ってもブレーキをかけるから、抱いてわたらなければいけなかった。

九華公園に花見に行った時、堀に近づくのを拒否したあまり、首輪がぬけて、逃走し、30分掛かってやっと捕まえたことがあった。
どうやら堀の水が怖かったらしい。

しかしそうかと思えば、琵琶湖や大きなダム湖などは平気で、水際まで自分で降りていくから、いったい無いが怖いのかが未だに謎である。
一応水に潜む悪霊を恐れたということにしておくおことにする。

遠出の際には、シバを一緒に連れていくし、よその柴犬を見ては、シバを思う毎日が続いている。

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今日は一周忌だから、シバの好物にくわえて、特別にコロッケをお供えした。
きっと喜んで食べることだろう。

シバは、大阪の劇団の楽屋犬として1歳半まで飼われていたが、劇団が解散となって、手放されることになり、保健所行きとなった犬であった。

恐らくは楽屋で皆が食べる弁当のおかずをもらっていたらしく、それでコロッケ、カボチャの煮物、フライドポテト、コーヒーまで平気で飲食する。

こちらに縁あって来たときには、冷蔵庫の扉に手を掛けたから、それが食べ物催促の意味なのだろう。
しかし、インターホンと外から聴こえる犬の吠え声に反応いて吠えるだけで、催促で吠えることは全くなく、それだけは訓練されていたのか、家の中で一緒に過ごすにはうってつけだった。

長生きを考えて、エイムスのペットフードだけにして、それにジャガイモの茹でたものやカボチャの茹でたものを添えるようにしたが、茹でている時から、鼻をくんくんさせて、この臭がすると自分の大好きな食べ物にありつけることを学習してしまったようだ。

いつもなら食事の前に、「お手と伏せ」をさせてから「待て」を数秒、「よし」で食べ始めるが、ジャガイモとカボチャの時は、待ち切れない状態で、いきなり食べ始めてしまうぐらい好物だった。

散歩の合図をすると、準備のため、体を真横に持ってきて、胴輪とロープをつけるのに便利なようにしてくれる、そんな利口な犬であった。

急な階段を下るときには、スピードを落とし、其れでも先行しそうになると、しばらく待ってくれた犬。

食べ物に執着すること以外は、悪い所が一切ない犬であった。

柴犬は飼い主に忠実と言われるが、まさにシバはその典型だった。
足が長く尾はしっかり巻いていて、左右に流れることなく背中の真上にあるから、精悍に見える。

想い出は尽きないが、きっと向こうでやりたい放題やっていることだろう。

今日は好きだった食べ物を、いっぱいお供えしたから、どれでも好きなモノをタップリと食べておくれ。
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by noanoa1970 | 2011-11-17 17:47 | 愛犬シバ | Comments(9)

ALBERNI SQ

小生は以前のブログ、「ブラームス弦楽六重奏曲追加視聴」で、アルバーニSQを初聴きといったことがあるが、実はそれは小生の勘違いであったことに気が付いた。

機会を見て訂正しようと思っていたが、つい億劫になってそのままとなっていたので、本日改めてそうではなかったことを書いておこうと思う。

このCDを入手したのは、CDでショップではなく、駅売りと呼ばれる通路などにワゴンに積まれて販売されているものからであった。

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collins classicsというレーベルのCDで、外観はDGソックリの金色が多く使われているジャケットのCDだ。
今でも時折DGのCDと間違えて取り出すことがある。

ボロディンとチャイコの弦楽四重奏曲がカップリングされたCDで、購入当初はBGM的扱いであったが、聴くに連れて、「悪くない」から「かなり良い」そして「これは良い」という具合に印象が変化していった。

このSQの1番の特徴は、弦楽器の音色の美しさであると思うのだが、当初は録音が優れているせいだとおもっていた。

それは、このSQ、名前も評判も経歴も出身国も知らなかった、小生にとっては初めての、しかも投げ売り状態のものを、たまたま入手しただけのものであったから、マイナスの付加価値が付いていたからであった。

それがどうだろう、聴く毎に妙に気が合い始めてきて、無名のSQにしては素晴らしすぎるという評価をするに至ったのが、購入後半年を過ぎ、ブリリアントから発売されたブラームス室内楽のBOXを入手した後のことであった。

その時はアルバーニというSQの名前も覚えてない状態の時であったから、ブリリアントBOXの演奏を初聴きとしてしまったらしい。

ブリリアントの室内楽全集にはアルバーニ四重奏団他による弦楽六重奏があって、聴いた印象を、小生は「1978年録音だから、今のようにそうはいい環境下の録音ではないと思うのだが、中低弦の柔らかさと、ヴァイオリンの最高音域の音色も美しい。」とブログで述べているが、その印象はこのボロディンとチャイコの四重奏の演奏にも当てはまる。

となると、アルバーニSQの音色の美しさは、録音に依存するものだけではなく、他に大きな要因があるのではないかと推察される。

小生はCDの解説をほとんど読まないが、とくに輸入盤の場合は絶対に読むことはない。
白内障の手術をしてよく見えるようになった最近でこそ、必要があれば、読むようにはするが、あの極小の文字は読み手の情熱が必要だ。

そんな訳で何かヒントが無いかと、初めてジャケット裏の解説を見るが、こんな情報の存在を知った。

メンバー紹介は珍しくはないが、このように個々のメンバーの使用楽器を掲載するものは、そう多くはない。

それによると、全員がそれぞれの分野で歴史上定評の高い、職人の手になる楽器を使用していることが分かった。

第1バイオリン担当の、ハワード・デイビスの楽器は「クレモナ」のストラディバリウス「THEMAURIN」1718を、ロンドン王立アカデミーから貸与されて使用したと書かれてある。

その他の使用する楽器も1600年から1700年代に造られた楽器を使用したと書かれてあることを発見した。
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このSQの音色がとくに美しいのは、使用楽器による所があるのかも知れない。
柔くて良く響き、倍音成分の乗りが良いのだろうか、音に深みもある。

バイオリンの最高音もビンビンすることなく、なめらかで、極上の女性ボーカルを聴いているような気分になる。

音色の美しいSQは、他にも多いが、アルバーニSQは、その中でも抜群の音色の素晴らしさを誇るSQではないだろうか。

解説は、恐らく英国人の音楽研究学者、PETER AVISという人によるものだが、使用楽器に付いての情報をわざわざ書いたということは、何か深い意味があるものと思われ、小生はその事とアルバーニSQの音色と関係があるのではないかと思っている。

アルバーニSQは、イギリスで一番長く続いているSQで、最近ではベートーヴェンの四重奏曲全曲をSMIF教会で録音したと言う情報があった。

このCDの録音は1990年となっている。


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by noanoa1970 | 2011-11-17 12:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(24)

効果は抜群

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本日意を決して、天井下の四隅に吸音材を詰めた箱を取り付けた。

あまり目立たないように、白くて軽い15×15×40センチの箱を使って、中には「ワンダーエコ」を程良く入れた。
これを天井直下のコーナーに取り付けるために、粘着マジックテープを利用することにした。

箱の上下の適当な箇所に、オスのテープを貼りつけ、その上にメスのテープを貼ると、ちょうど粘着側が壁の表につくようになるから、そのまま壁に押し付ければ、取り付けられる。

箱は軽いから、粘着テープで十分だが、取り付けるには、長い脚立を必要とする。

そして脚立用の足場を確保せねばならぬのが、一番の難問であったが、それさえ出来ればあとは簡単とばかりに、取り付け後の音を期待して、早速コトにかかった。

吸音材入りの箱を作る作業から1時間で作業は無事終了。

対北朝鮮サッカー試合を見終えてから、視聴音盤をチョイス。
昨日墓参りの帰りに、カーFMラジオから聴こえてきたショスタコの5番を聴くことにした。

小生はこの曲のno1は、バーンスタイン/NYKFOの旧盤だと思っているが、所有はアナログディスクなので、テスト視聴には向いてないから、パルシャイの全集盤からチョイスした。

さらにブルーグラスフィドルの第一人者「マーク・オコンナー」、そしてコントラバス奏者としても有名な若手作曲家「エドガー・メイヤー」と「YOーYOーMA」の協演による弦楽三重奏g収録されている「APPALACHIAN JOURNEY」を聴いた。

視聴した結果、ほんの少しジャマであった低音部の特定周波数帯域での膨らみは、ほぼなくなっており、オケでも三重奏でもチェロ、コントラバスの音がはっきりするようになった。
とくにメイヤーのコントラバスのアルコもピッチカートも、最低音部を含む音階が見事に出てくるようになった。

低音部の締りのせいでだろうか、高域の音が柔らかくなり、刺激的な音は一切なくなったようである。
ショスタコ5番の1楽章には様々な楽器が登場するが、楽器の位置がはっきりするようになった。

これまではパルシャイ盤の金管の音色が刺激的であったが、今回は「楽器でございます」という感じの音になり、聴いていて疲れはしないし、このまま黙って聴いていたいという気分になってくる。今まではすべて聞くことなどとても出来なくて、いつも途中でやめてしまうのだが、細かい音までキチンと捉えられていて、上下立体感や奥行きを感じることが可能な、なかなか良いCDであることを確認した。

コントラバスは最低音部では音階を確認しづらいことがとくに多いが、ボワーンとした音でなく、余分な音成分を削ぎ落とし、基礎低音と倍音だけが聴こえてくるようだから、音階が見事に分かるようになった。

ジャズのセンテンスを汲んだ曲、ピッチカートでのベース捌きの音は、ジャズ専門レーベルの録音を凌駕するが、其の再生音は音量が凄いだけでなく、音楽的な意味を加えた凄さである。

「定在波」に効果が有ったかは、断定が難しそうだが、音がハッキリしたこと、刺激的な音は一切しなくなったこと、高域が柔らかく美しい音色になったこと、これらを総合すると、効果があったのではないかと思っている。

効果いろいろ
試行錯誤でようやく調性の今が頂点、完成型の出来上がりである。
再生音楽を聞くことが楽しい。
気づかなかった新しい音、ハーモニーを発見する機会が増えてきた。
これまでつまらないと思っていた音盤にも、いいところがたくさんあることの発見機会が多くなった。
巨大オケの巨大曲録音、凄いと思っていたものでも、そう大したことがないこと、パットしないと思っていたものの中に、素晴らしく味のある演奏があること、すなわち装置との相性でその音盤の価値が決まってしまうという誤謬から逃れることが出来たと言うのが率直な感想である。
ベスト調整された装置には、音盤との相性なるものは存在しない。音楽性有る録音はあるべきように、無いものはそれを隠さずに再生する。
ピアノは良いがバイオリンはダメなんていうのは未熟な証拠。
ジャズ向きとかクラシック向きとか、更に室内楽向きなどというものは、調性が未完である証拠といえる。
再生装置、環境の調整が不全なまま使い続けると、自然と其の装置が再生しやすいジャンルのソフトを中心に収集することになるが、これは本来おかしな事だ。
YAMAHA、NS-1000、32年掛かって今絶好調。

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by noanoa1970 | 2011-11-16 01:57 | オーディオ | Comments(4)