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コンヴィチュニー/ウイーン響のジークフリート牧歌視聴感想のはずが、思わぬ方向に


ジークフリート牧歌について書くはずであったが、プロの文章についての所感となっていったので、そのまま続けました。(今回の話題は、個人に対しての所感ではなく、広くプロと呼ばれる人たちの執筆に対するものであることを、予めお断りしておきます。実例のほうがわかりやすいので、例をあげての記述ですが、名前も著作は伏せおきます。)

HMVの記事にある人物が「コンヴィチュニーの○○○」という文章を書いている。
エッセイ風の文章のも見えるから、神経質になるのもおかしいとは思うが、この話題こそ、今から10年前、参加していたクラシックの掲示板で論議されたことであったから、そして小生の取り分けて好きな指揮者の録音についての事だからである。

さらに、小生の実聴の結果から、ある推論をブログ上で展開した事でもあるからであった。

某氏の著述内容は、コンヴィチュニーのブルックナーの4番、かつてウイーン響とGLOとで発売された音盤が、実は同一演奏でウイーン響の演奏だと判明した顛末を書いたものであった。

きっかけは、この度リマスターされてCD再復刻となった音盤の発売にあたってだが、実はこの問題は、ネットの掲示板で、小生も含んだやり取りがあって、それは今から約10年前のことであった。
記憶の限りそれ以前にこのような言及した人におめにかかったことはない。

コロムビア・オイロディスク・ヴィンテージコレクションシリーズ第一回発売直後、小生はコンヴィチュニーの新世界及び掲示板で議論さめやらぬブルックナー4番をぜひとも発売して欲しい旨、コロムビアに問い合わせたことがあり、その時の回答は、今は未定だが、出来れば、来年辺りに発売したいというのがメールで帰って来た。

どちらの演奏でで発売されるのか興味があったし、今の担当者は、ブル4事件のことなど知らないだろうと思い、送ったメールで、ブル4の2つの演奏の真偽問題のことに触れておいた。

小生は、1993年「コンヴィチュニーの芸術」シリーズに、新世界の他と混じって、2つの演奏のブル4が復刻発売されたのを、何故に二種類も・・と不思議に思ったことがあって、後に掲示板でそれが同じ演奏であるとの話題となった時、その二種類のCDを入手して、手持ちの二種類のLPを加えて比較試聴したことがあって、聞いてみた結果からの見解をブログに書いたことがあった。

某氏は、この間違いの原因は、原盤保有者のエテルナがオイロディスクに5番7番のマスターを譲った際、オイロディスクが、一緒に発売するために出した自社の4番のマスターを、エテルナの5番7番のGLO表記に惑わされ、4番は本来ウイーン響なのにもかかわらず、勘違いしてGLOの演奏であるとしてしまったことにあるという。

すなわち、4番はオイロディスクが原盤保有者で、5・7番はエテルナが原盤保有者だったといい、オイロディスクが自社保有の4番を取り違え、GLOとしてしまったうっかりミスだったという。

某氏は、情報源について詳しくは触れてないから、今一つ信ぴょう性にかけると、小生は思うのだが、ゴタゴタしていたにせよ、自社オリジナルマスターテープ収録のオケを、果たして間違えるだろうか。
何重ものチェックが当然はいるだろうし、自社オリジナル原盤ともなれば、大切に扱い保管したことであろう。

また、そのような間違いでオイロディスクがGLOの演奏と誤表記したまま発売したとするなら、エテルナ側もないものであれば架空表示、存在するものであれば、版権侵害などの問題があるから、黙ってはいないだろうことは誰でも推測できること、また何らかのリアクションが有ったはずである。

しかしその後もこの間違い表記のGLO盤とウイーン響の2つのブル4は、日本にも入ってきたし、コロムビアが国内盤として発売し、さらに1993年のCD復刻のコンヴィチュニーの芸術シリーズにも、両方がはいっていたのだ。

うっかりミスにしても、オイロディスク、エテルナのいずれか気づいたはずのことを、50年たった今、うっかりミスだったと言われても、到底納得できる物ではない。

小生はオイロディスクが西ドイツや自由主義ヨーロッパ圏向けの販売戦略上、GLOの演奏であると表記したほうが得策であると判断した結果なのではないか、あるいは元々2つの別演奏録音があったのではないかとと推測している。
コンヴィチュニーは、SKDかGLOでこそコンヴィチュニーといえるから、どうしてもGLOの4番の演奏を、オイロディスクが販売したいとの希望から並列発売としたのではないだろうか。

音源が1つか2つかという問題があるが、小生は2つあったが、それぞれに瑕疵があったのではないかと推測している。(これに関しては拙稿http://sawyer.exblog.jp/9913498/審議問題は本当に決着したのか)に記載した。

小生は、今回真実として明かされたことは、誰かが意図的に流布した情報の可能性もないとは言えないと思ってしまう。

情報源がハッキリしないだけに、小生は某氏の得た情報に納得してないことは、先のブログに再三書いたが、本日はそのことよりも、その文章で同時に触れられている、レオノーレ2番の序曲が、バンベルク響と表記されたものと、LGOと表記されたものがあるが、両者は同じ物のようだから、○林直○氏は、「今度はエテルナがオイロディスクから原盤を借り受け、そこでうっかりバンベルク響をゲヴァントハウス管として保管してしまったのだろうか。」と少々皮肉を込めた口調で、エテルナのうっかりミスのように語っている。

「ブル4はオイロディスクのうっかりミスで、レオノーレ2番序曲はエテルナのうっかりミスであった」そんなことがまともに信じられるほど、たとえ素人の視聴者でも、そんなに甘くはないし某氏にしても本音はちがうところにあるに違いない。

この度のうっかりミス説、少なくとも説得力があるものとは言えなく、それよりも意図して、あるいは必然性があって、そうしたとの推理のほうが、的を得ていると思う。

レオノーレが同一演奏か違うかは、いずれヒアリングして別途小生なりの意見を述べたいと思う。

これに類する話はまだまだあって、
某氏も言及した「田園」については、小生も昔から気になっていたが、モノーラル音盤が廃棄されてしまい、確認が出来ぬまま、最近再入手できたので、早速比較試聴の上、結果をすでにブログに書いていて、結論は2つの理由で別演奏であるとした。

某氏は、どの音盤で比較したのかはわからないが、異なる演奏であるとの断定を避け、ピッチノ狂いがテンポの差である可能性について触れ、ピッチを合わせるとひょっとすると・・・と同一演奏の可能性もすててない書き方をしているようだ。(外見的判断ばかりでなく、プロと称するのだから、演奏内容からの判断はできないものかと、思ったが、某氏のお得意は、音響のようだから仕方ないかもしれない)

さてようやく本題、本日取り上げた「ジークフリート牧歌」。
某氏は、「そのほか、ワーグナーの『ジークフリート牧歌』というのもある。国内で出た実績があるものはウィーン交響楽団のものだが、古いレコード総目録にははっきりと「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」と記されている。この曲のゲヴァントハウス盤というのは存在しないので(少なくとも正規の録音では)、これは目録の誤植ということも考えられる。と記述した。(以上HNV寄稿文から引用)

「昔の情報にはには時々誤りがある」誤りの原因は様々だが、うっかりミスが多かったので誰の責任でもないということを言わんがためのダメ押しとして、ジークフリート牧歌の例を出したのだろうが、不完全な情報ならば、書くのは止すか、そうでないなら情報源を明らかにすべきであろう。

(少なくとも正規の録音では)とは、私は知らないが、他にもあるかもしれない、ということを言いたいためであろうが、正規でも非正規でも関係のない話、ここは有無を話題にしているのだ。非正規でも存在が確認できれば、あるということに他ならないから、断定は避けなければならない。

この曲のゲヴァントハウス盤というのは存在しないので(少なくとも正規の録音では)、という言動は、非正規録音ならば存在しているのか、存在しないと断定する根拠は何かが問われることになる。

厳しいことを言うようだが、ものを書いて収入を得ているプロだから文責は付いて回る。

「古いレコード総目録」によると言われても、それが何か、シュワンンのカタログを指すのか、いつの年代のものか、一切記載がないが、その目録の更新後に発売された演奏録音が記載されるはずがないのだから、その点は重要ポイントである。

「はっきりと書かれている」とあるから情報源はしっかりとしたものがあるはずであると思う。

エッセイ風の文章とはいえ、必要な情報源を省略しての言及が多く、プロの文章とは到底思えないが、古いレコード総目録が、シュワンのカタロググなのか、何であるのか、いつのものなのか、記載していただきたいし、総目録に記載があるこの曲のGLO演奏が存在しないと断定する理由の説明は合理性を欠く。

目録の誤植だとする根拠は、その理由にあたると思われるものを読んでも、非常に薄く、説得力に欠ける、

存在しないと思っていた音源が、続々登場する現状で、よくもそのような根拠で断定ができるものだと、あきれてしまう。

うっかりミスの色々な場面を続けて例に出すことによって、我々が受ける思いは、「レコード会社は信用できない」ということになり、過去の過ちが不可抗力だったかのように、今こういう事件の真相なるものを明るみに出し、取り違え事件の弁明として書いたものが、逆効果となってしまったことに気が付かないのだろうか。

当事者であるレコード会社のコメントは、一言もなく、この情報提供が免罪符と、なし崩し的になることを意図したのか、リマスターされた音盤を復刻発売したが、1993年まで発売し、両方購入したユーザーに対するお詫びの気持ちもないのだろうか。
海の向こうのレコード会社の落ち度であるから、関係がないと、事の真相を公開までして、いっているようで、腑に落ちない。

ドイツのいずれかのレコード会社の誰かが気が付いてないはずがないことを、50年後の今まで何故黙っていたのか、ランドフスカとリパッティの例もあるから、昔の話とはいえ、関係したものとしての態度はあるだろうと、小生は思っている。

「コンヴィチュニー/ウイーン響のブルックナー4番復刻発売にあたって」とする、真相なるものを含めたコロムビアの見解を、表明するのが責任ある会社組織、顧客に対するCSであると小生は強く思っている。

もっともコンヴィチュニーに非常な興味をもつ人は、そう多くはないであろうから、見過ごされる可能性も大きいのだろうが。

素人の妄想推理であれば、なんとも思わないが、原稿書いて収入を得ているプロなのだから、推論だけの物言いは勘弁願いたいし、あるデータに基づく言論であれば、その出典を教えていただきたい。

小生はなにも某氏を個人攻撃をしているつもりは毛頭なく、例を上げたに過ぎなく、音楽周辺を職業にし、原稿を書いたり、解説を書いたり批評をしたりして収入を得ている、所謂プロに対しての物言いだと思っていただきたい。

書いた某氏ばかりでなく、過去のこととはいえ、その歴史を引きずっているレコード会社の、このことに対しての見解が一切ないまま、大手CDショップのWEB上で、情報の出自も明確でないまま、音楽関係者が書いたもので、よしとするのは、間違いのまま販売し続けたレコード会社として、許されるべきことなのだろうか。

某氏が、昔の情報、データーには不可抗力の間違いが多いということを言いたかったことは理解できるし、間違いが割りと多かったことは認めるものだ。

しかしどうもそれを強調しすぎるのは、リマスター盤発売において、過去の失敗を帳消しにするための、免罪符であるように受け取れないこともなく、その片棒を担いだのが某氏であるといういやな推測も出来てしまう。

文字情報はいろいろ悪さをすることが多いから、そうであるならば、外見的情報によって判断するのは避けて、ひたすら聴いて聴き分けて、その上での参考として活用するしかないのではないか。

さすれば誰も断定情報としては認知せずに、その人物の耳にはそのように聴こえるが、自分はどうなのか聴いて確かめようとするアクションになるというものだ。

プロと言われる業界人たち、実聴することを隅に押しやる傾向にあるような気がしてならない。
小生が読んだ某氏の著述も他の人のものも、おしなべて、自分の耳で感じたことからの言及が殆ど無く、客観的であることが良いことであるように、錯覚しているのではないかと思うぐらいに、外見的情報を主とした言及が多いのはなぜなのか。

評論と言うより解説だから、自分の意見が全くといっていいほど無い。
業界も己の喪失の時代なのか。

GOLとウイーン響2つのブルックナー4番を実聴した結果、同じ演奏に聞こえたか、違う演奏に聞こえたのか、それが原点ではなかったか。

音楽が相手なのだから、聴いた上での言及や判断を避けるようでは、素人同然以下、とてもプロであるとは言いがたいと思うのは、小生の偏見だろうか。

プロと呼ばれる人物たちが、どのような感性の持ち主なのか、我々は知りたいし、かつてはそういう物書きがかなり多くて、面白く刺激を受けたことが多かったが、現在はそれを避けるようで、参考とできうるもの、刺激をうけるようなものが極端に減ったと感じるが、違うだろうか。

by noanoa1970 | 2011-10-25 14:31 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(58)

欲張りは災いの元

「6」の暴走はPCが不具合を起こしたのではなく、不精して生きたまま2重に置いた1つが下に落ち、なにかに接触しっぱなだったことによる、物理的原因であった。

次に頻繁に起こるようになった「A」キーの不具合、例えば、おばかさんOBAKASANNと入力すると、とAが抜けたOBKSNNになるから、とんでもないものに変換されてしまい、「OBKSん」となってしまう現象が頻繁におきるようになった。

かたまちでまちあわせ=KATAMATIDEMATIAWASEはKTMTIDEMTIWSEで変換するから、「KTM地でM地Wせ」となってしまい、入力より、訂正に時間とロードを取られてしまうことになった。

しかもたまに「A」キーが正しく反応するところとしない所があった上での変換だから、・・・この例のようにTAのAだけが反応しないと、「みtことのないような看板」となって、tが残ってあとは一部しか漢字変換されないため、Aが反応したか確認しながら再度入力し直しとなる。

ロードは3倍、時間も3倍以上かかってしまうからとてもやりきれなかった。

それで「A」キーの不具合だと思い、キーボードを交換したが、しばらくすると、交換後のキーボードでもおなじ現象が出るようになった。

「A」の悪魔に取りつかれてしまったようで、気味が悪いし、作業ははかどらないしで、先日のように3.5時間かけて入力した文字が一瞬のうちに全部消えてしまったときは、泣きたいぐらいであった。

これではブログもメールも思うように入力できないから、困ってWEBのPC相談室に連絡することにした。

直ぐに反応があって、最初に提出した情報以外に、ウイルスソフト名、ヴァージョン、更新の有無、などを教えろという。

ウイルスに感染した可能性があるのを確認するためだろうかと思いつつ、使っているものを教えることにした。

小生は長年使ってきたウイルスバスターの対応が悪かったので、ウイルスセキュリティZEROに切り換えた。しかしアドウエアー、スパイウエアーに弱いと聞いて、MSセキュリティーエッセンシャルズを追加して3年目になる。

無料ではあるが、MSのソフトはこれまでに、スパイウエアらしきものを捕まえて駆除してくれたが、ウイルスセキュリティはその例ががないようなので、小生はもっぱら迷惑メール対策として使用してきた。

同じような働きをするソフトを複数入れると競合しあうため、不具合が発生することがあるとは聞いていたが、試してみて不具合が出なければいいとばかり、2つのウイルスソフトをいれて使ってきたのだった。

思い当たることといえばは、ここ半年ほど、MSの」ソフトが何もキャッチしない様子であることだが、必要がなければ反応しないから、それでいいと思っていたことぐらい、今思えばWEBでの文字入力が時々反応がにぶくなったことぐらいだった。

二種類使っていますと連絡すると、それは絶対やめて1種類にするように、どちらかと言えば個人的見解であるが、MSソフトを採用したほうが良いだろう旨のアドバイスをくれた。

類推するに、2つのウイルス対策ソフト、表面上は問題なく見えるが、PC内でバトルを繰り広げ、お互いの良いところを消しあっているような感じがみえてきた。

交換前のキーボードは明らかに「A」キーの」接触不良だと思うが、交換後のキーボードは、そうでなく、複数入れたウイルスソフトが原因で、押したキーの信号の反応が遅くなって、「A」キーは他の文字と複合されるケースが特に多いので目立つのだろうと考えることにして、今片方のウイルスソフトをアンインスオールし、しばらく様子を見ている最中である。

どちらかがこけても、他方が助けるから安心だと思っていたが、お互いが譲りあって結果誰も何もしないというのと同じような、野球の野手のお見合い状態が起きていたのだろうか。

WEB上で入力の際、特に起こるIMEの返還順序。
変換候補が入力変換のたびに治具者に変換され、1番目にある候補がなぜか優先されないという不具合が続いているが、相変わらずこの現象が続いている。

IMEのバージョンを変えたり、GOOGLE日本語sysを導入したり、いろいろやってみたが、最初はいいのだけれど、そのうちこの現象にもどってしまう。
ひょっとすると、これもウイルスソフトによる悪影響なのかも知れないが、しばらく使って様子をみてみよう。

まだ結論には至らないが、これだけは、ハッキリ言え、教訓となりそうだ。

「素人の安易な考えはろくなことを招かない。しかも欲張りはなおさらのこと。」

by noanoa1970 | 2011-10-24 12:37 | 日常のこと | Comments(8)

ハインツ・ワルベルグのモーツァルト交響曲40番

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モーツァルトの40番の交響曲は、モーツァルトの交響曲中一二を争うほど好まれる曲で、短調の好きな日本人ごのみの曲でもある。

小林秀雄の心斎橋体験の影響を受けた人はもちろん、クラシックファンで40番が好きでない人は余り知らない。

小生が最もよく聞いたのはブルーノワルター/コロムビア響で、ワルターのルフトパウゼがわかった時の、してやったり感は今でも覚えていて、小生は後年、ワルターパウゼと呼ぶようになった。

上のコロムビア大全集のジャケット写真にあるように、ハインツ・ワルベルグ/バンベルク響の40番が、ベルンハルト・パウムガルトナー/モーツァルティウム管の41番のカップリングで入っている。

調べてみると、直前に発売された全く同じ中身の正規アルバムがあって、売れなかったためなのか、衣装替して廉価全集に組入れられたということだろう。

しかし小生は前述のように、40番はワルターを聴いていたから、この演奏には見向きもしなかったので、印象も記憶も全くなく、ワルベルグの指揮であることも忘れていた。

1965.6.年頃に、N響の客演指揮者で来日した時、どこかで聞いたような名前だと思ったが、それもそのはず、41番はパウムムガルトナーが刷り込みになった如く、レコードB面ばかり聞いていたが、ジャケット裏A面の演奏者には、ワルベルグの名前が記載されているのを見ていて、頭のどこかに入っていたからだろう。

TVのクラシック音楽番組で、ワルベルグを見たことはあるが、これといって印象に残ることもなかったし、そのぐらい真剣に聴いてなかったというこは、ハッキリした記憶はないが、ワルツだとか序曲だとかの地味な演奏品目のせいだったと思う。

要するに大物指揮者としては全く見てなかったということの裏返しで、シルベストリとはチョット違う見方をしていたようだ。

今回改めて全集をチェックすると、刷り込みのパウムガルトナーの41番のカップリングに、ワルベルグの名前があった。

今まで聴いた覚えがない、ワルベルグの、しかも気に入っているオケ、バンベルク響との40番、コロムビアから60年代初期に正規盤が発売になったが、それ以来再発もCD復刻もされてなさそうなので、この際聴いて見ることにした。

ワルベルグの予備知識は皆無で、他の演奏音盤も全く聴いたことが無いので、僅かな記憶はN響との演奏だが、それもわずかと言うより、ほとんど記憶にないといったほうが正しい表現になる。

正直あまり期待はしてない音盤であった。
モーツァルトはだれにも振れるが、しかし手を少しでも、一瞬でも抜こうものなら、たちまち大いなるしっぺ返しが来る音楽であるように小生は思っている。

しかもピアノ協奏曲が代表的特徴である即興カデンツァで見るような、演奏者の(気まま勝手の)自由度の幅は、交響曲の場合、そんなに広くないだろうから、良い塩梅のアーティキュレーションが求められるが、その匙加減が難しいことが多く、よって安全なザッハリッヒな演奏が多いのではないかと小生は思うところである。

モーツァルトを得意にする演奏家、指揮者は思うより多くはないようで、かつて一世を風靡した大マエストロのモーツァルト演奏、指揮も、今では鼻に付いてしまうことが、小生の場合少なからずあって、モーツァルトを克服しようとしない演奏、つまり自己を抑えた演奏に、いいものがあるように思う。

たまたま本日見聞きできた、カツァリスとマリナーの21番の協奏曲は、テンポが早いのが気になったのと、カツァリスのアインガング、カデンツァは好きに離れなかったが、それ以外は、モーツァルトの化身が降臨したかと思うぐらい、技術と音楽性がバランスした水準の高い演奏であった。

またエッシェンバッハとウイーンフィルの23番2楽章は、ロマンティシズム溢れんばかりの、モーツァルトからはかなり遠い演奏だったが、こういうのも悪くはないし、むしろ大好きな演奏で、ややもすると、指揮者とピアノのバランスが崩れるところだが、弾き振りの効果が良く出た素晴らしい演奏で2楽章の喪では物足りない思いであった。

2楽章はどちらもロマンチシズムがあることはあるが、ロマンチシズムの中身が全く違う、モーツァルト演奏スタイルで、いずれもが自分のモーツァルトをきちんと持っていて、妥協することなしに表現したこと、そして何よりもモーツァルトに寄り添う姿勢が、演奏に現れた結果であるからこその良演奏だと思う。

このような演奏を見聞きした後のことだから、より一層ワルベルグには、先にも述べたように、期待はしてなかった。

事実ワルベルグの演奏は、堅実なところはあるものの、40番のモーツァルト演奏で何を表現したいのか、最後までわからない、自己表現が見られない、つまらない演奏だったが、しかし、2回目の視聴で先に思ったことを打ち消すような何かが、じんわり湧いて出てきたように感じたのだった。

それは、なにもしない美というか、ウイスキーのCMじゃないが、何も足さないなにも引かないと言うか、とにかく自然体、石化けのような感じがして、つまらないという感想から、数歩前向きな評価となる気配がした。

実に何もせず、ただただ流れすすむ音楽に身を委ね、真実はモーツァルトの音符にあり、という寄り添いの感触を感じることができたようで、あれこれ考えるまもなく、音楽がが進行して行った。
そして、ひょっとすると、こういう演奏こそ、モーツァルトによく似合うのかもしれないと思うに至った。

ちなみに石化けとは、渓流の魚釣師が、付近の自然と同化することで、臆病な魚に安心感を与えると言うもの。

音楽から推測できる姿勢だが、きっとワルベルグは、指揮の姿も地味で、必要なところ以外オケに任せ、細かい指示や大業な身振り手振りはしない指揮者なんだろう。

はじめは勇んで美味しく食した、仏料理、イタリアン、中国料理、などの高級料理では、そのうち飽きてしまって、それを食して毎日過ごすことが困難になり、やがてお茶漬けやご飯と味噌汁が恋しくなる、そんな感じのする音楽であった。

小津安二郎ではないが、お茶漬けの味と言った比喩がよいかもしれない。

こういう演奏を知っていると、他の演奏をチョイスするときに、思い切ったものを選択することができる。
ダメでも飽きても、ここに帰れば良いのだから。

音源という音源がCD化される今日、そんな演奏の1つや2つを持っておくことが必要とされる時代なのであろう。

そんな印象のワルベルの40番であった。

by noanoa1970 | 2011-10-23 22:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

アルトゥール・ローターの英雄

ローターは、最近でこそギーゼキングと録音したベートーヴェンのP協奏曲5番が、1945年にもかかわらず、世界初のステレオ録音であると言われるようになり、其の名が知れることになるまでは、コロムビアレコードによる、ほんの一部のクラシックファンしか認知されてなかった指揮者である。

プロフィールをウイキなどで見ても、詳しい情報は未だに少ない状態で、もちろん音盤も数少く、ある大手ショップなどは指揮者検索欄にも記載されてないようだから、未だに認知度は非常に低い。

マイナー演奏ばかり扱っているショップでは、B級演奏家のコーナーに記載されることもあるが、マイナーでしかもB級だから、ひどい扱いを受けている指揮者だ。

NAXOSのオムニバス盤の中に収録されているものが、ディスコグラフィーとして検索できたが、オペラなど伴奏指揮が殆どであり、管弦楽作品は記載されてなかったが、数年前、コロムビアのオイロディスクヴィンテージシリーズの中に、ベートーヴェンの第9とブルッショルリのベートーヴェンP協奏曲3番を伴奏指揮した音源が覆刻発売された。

本日は未だ復刻されてないと思われる、ローターの録音から、ベートーヴェンの「英雄」を聴くことにした。
先週再入手したコロムビア大全集の中に、ベートーヴェンの3..9番があるのは知っていて、9番だけは小生が京都時代に持って行ってたので、廃棄を免れたが、あとはすべて処分されてしまったのだった。

演奏オケが、指揮者が誰だったかという記憶はハッキリしていたが、3番だけはあれこれ考えてもどうしても思いだせなく、再入手できた全集でようやくそれとわかったのが、アルトゥール・ローターがベルリン交響楽団を指揮したものであった。

英雄は、ワルターかコンヴィチュニーを主に聞いたので、ローターの演奏は記憶も殆ど無いぐらい、英雄はあまり聞かなかったのかもしれないが、この指揮者の名前は第9で鮮明に覚えていた。

第9のレコードは必ず2枚組で発売され高額だったので、おいそれと他の指揮者のものに手を出すことはできなかったのでもっぱらローターを聴いていた時代があった。

マーラー、ブルックナーに至っては、発売の数少ないのはもちろんだが、長時間ものは高額になるため、レコード1枚に収録できる、巨人、ロマンティークぐらいしか聴けなかったのだ。

ローターの第9は、世界初CD化という触れ込みでヴィンテージシリーズに登場したものを入手し、何度も聴いていたが、手元に残ったレコード盤も聴いていた。派手さはないものの、聴かせどころを心得たカペルマイスター的手腕を発揮した演奏であった。

記憶に鮮明なのは終楽章、合唱が「フォーゴット」と歌うところ、フォーの後の息継ぎがあってからゴットだと、神様が分断されてしまうのを嫌ったのか、真相はさだかでないが、ローターは手前1呼吸のスラーで歌わせたかったためか、息が切れないようにフォーゴットを短く演奏したのが印象的で、大半の指揮者がフォーとゴットの間に、呼吸を挟んでまで延々と引っ張って(カラヤンはその代表)、神様への尊崇を表現するのに大して、ローターは言葉の連続性を大切にし、「神のために」を分断しないように演奏したと小生は観ている。
またそのことは多分、合唱や声楽陣との長い付き合いや、オペラの指揮によって培われたものではないだろうか。

この演奏録音はオケがベルリン交響楽団となっているが、現在もそうだが、ドイツの戦後のオケ事情はかなり複雑で、ベルリン交響楽団と日本で呼んでいるオケは、東西ベルリンに存在した。

西のベルリン響のほうが新しく1962年、東のベルリン響は1952年の創立だから、本演奏の録音年次第でどちらかは判明しがたくなる。

おそらくこの録音は1960年代前半だから、微妙なところ。
録音状態及び音質は、ややハイよりであるが、この時代にしては最上級である。
録音のレベルからの推測だが、西のベルリン響ではないかと考えられるが、東にもETERNAなど優秀なところがあるし、演奏の水準がすこぶる高いから東のベルリン響かもしれない、というわけで断定はむずかしいが、それはどちらでもさしつかえないことだ。

少し整理だけしておくと、
旧東ベルリンで活動していたベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester)は、昨年、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(Das Konzerthausorchester Berlin)と改名。1952年に西ベルリンのベルリン・フィルに対抗すべく設立されたオーケストラ。クルト・ザンデルリンクが指揮をしたブラームス全集はこのオケである。現在旧西のベルリン響は、そのままの名称Berliner Symphonikerとなっている。

ローターは、BPOもハンブルグ国立響も振っているから、東西ドイツ分断にもかかわらず、行ったりきたりが割と自由にできたのだろう。

ローターの演奏を結論から言うと、とんでもなく素晴らしい英雄の演奏だといえる。
多分みなさんがお聴きになれば、こんなにも素晴らしい演奏があったことを、そしてこんなにも力のある指揮者が、なぜ認知度が低いのか疑問をもたれることだろう。

細かいところまでキッチリと表現しているが、そのことで音楽がヴィヴィッド感を損なうことがない、それは随所に入れ込んでいるアーティキュレーション。音楽性が豊かで、音楽進行から決して外れることないばかりか、それがあることによって、音楽の質がさらに高まりを見せる、いいければ心地が良いということだが、聞かせどころを十分熟知したいわば職人芸的な手腕だ。

緩急があるのは、この音楽の特徴でもあるから当たり前だが、3楽章極端に落としたテンポで、語尾にはレガート気味のフェルータを入れ込んでいている。
ともすれば嫌味になる事が多いレガートやフェルマータも、ローターはまるで測ったように寸止めして、美しい表現を保ちながら音楽を繋げていく。

1985年生まれだからクレンペラーと同じ年の生まれ、フルヴェンより1つ上、モントゥー、アンセルメ、ワルター、トスカニーニは先輩に当たる。

プロフィールが無いのでなんとも言えないが、歌劇場指揮を長年こなしてきたのではないかとの想像はハズてはいないだろう。

そのせいか指揮法の流行のようなものとはあまり関係なく、誰か1人について指揮を学んだと言うより、基礎は勉強した上で、数々の指揮者の良いところを真似ていったところが有るようだ。

何でも屋的な指揮者と言われることもあったオーマンディのように、その頃発売になった音盤の影響で、勝手にそう思っただけの話しで、実はものすごい実力あるの指揮者であるように、ローターもNAXOSでのディスコグラフィだけで知ることになれば、少し昔のオーマンディと同じような評価になっってしまうことだろう。

しかし現在のオーマンディが見直されているように、ローターもいつかはその時が来る、そう信じるところである。

オケは,思ったよりも、と言うと失礼になるが、ベルリンフィルに勝るとも劣ることがないぐらいに、技術はしっかりしているし、何しろ響きが美しい。
レコード盤のノイズが少し激しいので、少ない所で聞いてみると、1つの楽器のように聞こえるバイオリン、チェロの弦楽器群、金管はホルンのごくごく小さな♭気味の仄暗いトーン、木管ではオーボエ、クラリネットが特にすばらしい。

アインザッツがビシーっと合っているのが爽快だし、アウフタクト入りでは特にそのことがオケの実力、全員の水準がすごく高いレベルにあることをあらわすようだ。

しかし、ただ上手なだけでなく、ローターの細かいアーティキュレーションに、諸手を上げて賛同し、オケ全体が、喜んで演奏するような一体感を感じさせるものだから、全部通しで聞いてしまったほど。
つくづく2楽章途中でB面に移らざるを得ないLPレコードの弱点をおもいしった。

調べは完全についてはいないから、もしかすると、CD復刻されているかもしれないが、もしそうであれば、CDも入手したい演奏である。

by noanoa1970 | 2011-10-22 17:57 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(10)

コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管、2つの田園

3.5時間かけて文章を作ってきた。

マイクロソフトのアップデートで、自動再起動で作り中のデータが全部無くなってしまったことは経験したが、今回は投稿画面でいつものように文章を作り、ソロソロいったん保存しておかないとと思ったが、佳境に入ったので、今しばらく文章を打っていると、突然画面が変わり、投稿画面がエキサイトホーム画面になってしまうではないか。

あっと一瞬思ったが、なにか変なことをしたわけでもないから、戻るボタンで投稿ページに戻れば、なんと言うことは無いだろうと考えたのが甘かった。

一瞬にして3.5時間の作業が全て無駄になってしまったのだ。
さらにこの文章を作ったkら、1時間は追加しなくてはならない。
自分で誤って何かをしたのが原因ならば仕方ないが、今回はマイクロソフトでもないし、小生は只いつものように文章を打っていただけのこと。

しかしどう考えても画面が自動的にに代わってしまうことはありえないから、何かが原因だろうと、あれこれ考えがても小生は只単にキーボードで入力作業をしていただけで、ほかに心当たりはなにも無い。

ずいぶん長い文章だったから、文字数オーバーだったかもしれないが、それならそれで、表示が出るはずだ。

しかもエキサイトHP経由で投稿画面に入ったわけでは無いから、IEの戻るボタンなど押しても小生のページに帰るだけのこと。
それに投稿画面に集中している中、マウスを画面最上部にもって行き、戻るボタンを押すことは到底考えられない。

理由が不明なのも腹が立つが、バックアップを取っておかなかったほうが悪いといわれれば、其れまでの話だが、何か腑に落ちない。

仕方がないので、消された文章を思い出しながら、余分なものを省き、絞って再度書き始めることにした。

用意した音源は、ベリリンクラシックス全集盤、EDEL全集盤、コロムビア大全集の中からモノラル録音盤(もう1つライブ盤があるが、今回の目的とは関係ないので、視聴音源には入れなかった)

消えたブログ記事では、ベルリンとEDELの両盤(同一演奏)でのオケのトーンの比較、アナログディスク国内廉価盤と初期盤、さらにETERNA盤でのオケ音色の違いに触れた。
そのことから、ゲヴァントハウス管を評しての、いぶし銀、渋い、j鄙びた、などの表現は、国内廉価盤の音によって作られたイメージで、それが今でも残存継続しているのだという仮説を導き出し、本当のゲヴァントウスの音とはいえないということ書いてきたが全て消されてしまった。
ゲヴァントハウス管とのライブ演奏は、演奏という観点からは興味深いが、本ブログ記事の狙いから外れるため割愛した。

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2+1つの田園の視聴結果
モノーラル録音とステレオ録音は異なる演奏であった、というのが小生の結論である。
(もしそのことが正しいのでれば、コンヴィチュニーの田園は、ライプツィッヒゲヴァントハウス管放送響とのライブを含め、3種類あるということになる。)コンヴィチュニーの田園は、というより、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管の田園は、3種類あるといったほうが良いかもしれない。

異演奏の理由として大きく2つのことが確認できた。

1つは
1楽章提示部のリピートの有無。ステレオスタジオ録音ではあり、モノーラルスタジオ録音盤ではなし。
(レコード収録のための時間短縮で、リピートカットしてしまうことがあるから、これだけでは
絶対的決め手にはならない)

2つめは
じつは、冒頭から両演奏の大きな違いはハッキリしていたことなのだが、2度目のヒアリングで確信に至った、それは両演奏のテンポ設定の違いである。
モノーラル盤ではいつものコンヴィチュニーらしく、比較的ゆったりしたテンポで、急ぐことの無いのんびりとした旅の上、新鮮な空気が気持ちよい田園風景のある村に到着した清清しい気分といった感じだ。
レガート表現さえ見られる演奏なのだ。

それに対しステレオ盤では、今までのコンヴィチュニーらしくなく、まだかまだかと、はやる気持ちで、待ちわびた田舎にやっと到着することができた、比較すると、コンヴィチュニーには珍しい、きびきびした速めのテンポであった。

ターンテーブルの回転数が正規の回転数と違うことを考え、あらかじめ調整したから、もしあるとすればレコード側のピッチがおかしいことになるが、両録音のピッチはほぼ合っていて、たいした誤差ではないと思う。
ほかにも違いは見られたが、大きく違うこの2つをもってすれば、両演奏が別演奏の録音であるということは、ほぼ確実であると思う。

視聴で用意したベルリンクラシックス全集盤、EDEL全集盤、アナログ国内LP、エテルナのLPの音の違いから、「渋い」「いぶし銀」といわれてきたゲヴァントハウス管の音色が、相当誤った過去のイメージを引きずっていることを、立証した文章を大量に書いてきたが、其れも全部消えてしまったから、今ここで再度書く気力が無いので、いずれまたということにしたい。

唯一1990年代初期に国内販売された「コンヴィチュニーの芸術」シリーズの中のモノーラルCDを聞いてみたいが、入手困難のため、いずれオークションなどでめぐり合えれば追記したい。
加筆)いつも訪問していただいている、abendさんによると、ダイヤモンドシリーズの田園は、ステレオ表記だが実際はモノーラルで、今回入手した大全集盤=芸術シリーズ盤と同じものではないかという連絡があった)

加筆)小生の結論は、上の2つの理由から、両演奏録音・・・モノーラルスタジオ録音とステレオスタジオ録音は異演奏ということになった。

by noanoa1970 | 2011-10-22 00:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

60年代初期のレコード全集の内容

前回なつかしの全集を、オークションで落札したことを書いたが、当時の全集にどんな曲が入っていたかを紹介したいと思う。

クラシック初心者向け、あるいはファミリー向けといったコンゼプトで編集されたと思われるが、当時のプランナーがどのような曲を、50枚という枠組みの中」に押し込めたのか、其れを探って、其のころのクラシック音楽事情を推し量ることもできるはずである。

また今ならどんな選曲がふさわしいか、はたしてほぼ同じようになってしまうのかも、ついでに考えてみたいと思う。
そしてさらに、皆さんならどういう選曲をするのかも知りたいところです。

本全集収容曲
交響曲編
ハイドン:驚愕、太鼓連打、軍隊。モーツァルト:35、36、40、41番。ベートーヴェン:3番、5番、6番、9番。シューベルト:未完成。メンデルスゾーン:イタリア。ブラームス:1番。ドヴォルザーク:新世界。チャイコフスキー:5、6番。
使用されたLP14枚28%

管弦楽曲編
ヘンデル;水上の音楽、王宮の花火。シュトラウス:ウインナーワルツ集。ワーグナー、ヴェルディ:タンホイザー、オランダ人、トロバトーレより抜粋。ロシア音楽名曲:スラブ行進曲、1812年、中央アジア、韃靼人の踊り。グリーグ:ペールギュント1.2組曲。チャイコフスキー:くるみ割り。近代音楽名曲集:ボレロ、パヴァーヌ、牧神、オレンジ。オーケストラの玉手箱:マドンナの宝石間奏曲1.2番、ハンガリア舞曲2.6番、狂詩曲2番、ウイリアムテル序曲。
使用されたLP枚数9枚18%

協奏曲編
ヴィヴァルディ:四季、バッハ:ブランデンブルグ協奏曲3.4.5番。ハイドン&ボッケリーニ:チェロ協奏曲。モーツァルト:ピアノ協奏曲20.23番、ヴァイオリン協奏曲5番。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲5番、バイオリン協奏曲。メンチャイ:バイオリン協奏曲。グリーグ&シューマン:ピアノ協奏曲。ブラームス:バイオリン協奏曲。チャイコフスキー:ピアノ協奏曲1番。ドヴォルザーク:チェロ協奏曲。ガーシュイン:ラプソディーインブルー、パリのアメリカ人。
使用されたLP枚数13枚26%

以下室内楽編
ハイドン&モーツァルト:弦楽四重奏セレナーデ、皇帝、狩、アイネクライネ、ベートーヴェン:バイオリンソンタ・クロイツエル、ピアノソナタt:月光熱情悲愴、シューベルト:鱒、死と乙女、シューマン:子供の情景、謝肉祭、チャイコフスキー:弦楽セレナード。
使用されたLP枚数10枚20%

声楽編
ヴェルディ:椿姫ハイライト、ビゼー:カルメンハイライト、ウエーバー:魔弾の射手ハイライト、シューベルト:美しき水車小屋の娘全曲
使用されたLP枚数4枚8%

交響曲と協奏曲、管弦楽と室内楽がほぼ同じ比率。
声楽は予想通り低く、8%だ。

監修は堀内敬三、志鳥栄八郎、藤原あき、村田武雄が推薦の言葉を書いている。

LPレコードの収容時間からいっても、当時で50枚は多いように見えるが、実際の時間は少なく、2000分から2500分ぐらいだろうから、この時間内になにをチョイスするかは、苦労するとともに、プロデューサーの手腕が発揮されるところだろう。

必用なものは、コンセプト、つまり誰に対してなにを提供するのか、なぜ其の曲を選択したのか、その理由はどこににあるかと言った事象がハキリしないと、音楽史的に見た有名曲を時間内に収めると言うか、既存の音源を使うのだから、時間との駆け引が優先してしまう要素が強くなるだろう。

オーソドックスな選曲だと思うが、本全集でも盤面にアキがたくさんあるものと、余裕が無いものがあり、選曲組み合わせなど、数学的困難が一番あるような予感もする。

オーソドックスで入門編としては悪くない選曲だが、オムニバス盤が6.7枚あるのはもったいない。

ハイドンから1曲モーツァルトから1曲、ベートーヴェンから1曲、チャイコフスキーから1曲抜いて、ベルリオーズ幻想、マーラー巨人、ショスタコーヴィッチ5番を入れたいところ。
管弦楽そのほかのオムニバスをやめて、ドビュッシーの海、リストのレプレリュード、ストラヴィンキー春さい、ムソルグスキー展覧会かリムスキーコルサコフ:シェエラザード、プロコフィエフ:ピーターかロミジュリ、そして宗教音楽に1枚モツレクかフォーレクを入れたい。
イギリス近代音楽が全くないのも気になるところだ。

同じ作曲家の交響曲、協奏曲、管弦楽はダブらせないで、違う作曲家のものをとり入れるほうがよいと言うのが小生のスタンス。
ある程度の音楽史的順序は必要だが、こだわる必要はない。
それでどうしてもほかに入れたいものがあるはずだから、見本盤をつくり、さわりを紹介すればいいと思う。
レコード1枚50分あればかなりの楽曲が紹介できるはず。
其の中で聞きたいと思えば、別に買えばばすむ。
作曲家層が幅広いことは必要条件だろう。
後期ロマンや新古典主義、近代音楽と現代音楽の橋渡しシェ-ンベルク、リヒャルトシュトラウスが全くないのはおかしいしマーラーもブルックナーも聞かせどころを見本盤に入れてもよいだろう。

この全集を聴けばクラシックのなんたるかが理解できるなどと言う、完結された事実誤認の考え方のもので無く、次に聴くための基礎として捉え、今後つながっていくための基礎であるというと言うコンゼプトが強く必要なように思う。
そうでないとすれば、近い将来の購買層が育たないだろうから、クラシック音楽レコード販売上に影響が大きく出ることになる。

これだけ聴けばいい、こう言う錯覚は現に小生の家で起こり、月に1回LPを送ってくる、コンサートホールソサエティという会員制組織をやめてしまうが、その切っ掛けがこの全集であった。

どちらがよかったかは微妙だが、評価の高い演奏家が揃っていたのは、コンサートホールだろう。一度に50枚そろえるより、毎月1枚ずつ60枚になるが、5年かかって揃えその間じっくりと聴くほうがよかったかも知れないが、一概には決め付けがたい。

by noanoa1970 | 2011-10-21 06:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

本日の失敗

失敗の原因は、ネット情報を、表面的にそのまま何も考ずに真似したことに尽きる。
1つ目は、1昨日の栗で、天津甘栗に挑戦すると言うことを書いたと思うが、本日其れを実行したときのこと。

道具にダッチオーブンという特殊鍋を使うとしてあったから、アウトドアの行動派と踏んで、まねをした。
鍋に小石・・・(小生の場合はスーパーの中のペットショップで水槽用の小石を入手した)を入れて暫く乾煎りし、暫くしてからオイルと砂糖を加え、熱くなってきたら、栗を入れてかき混ぜながら煎っていき色をつける

アウトドアマンらしい大雑把だがダイナミックなレシピ、細かいところも写真も、注意点も何もほかには書いてないのが不安だったが、作業は簡単だと思うので、実践済で成功したから記載したレシピであろうと真似ることにした。

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オイルの量や砂糖、小石の量は、書いてないが、といううより鍋の大きさがいろいろあるから、書けないのだろうから、経験がたよりの勘である。
サラダオイルがないのでオリーブオイル、砂糖はザラメを使用した。

作業に入って暫く、栗がもし跳ね小石をまきこんで飛び出したら危険ではないかと思ったが、いやそのために小石は重石になるから、飛び出すことはないだろうと作業を続けた。

しかし2kgの小石が入った鍋を、しゃもじで攪拌するのは、かなりしんどい作業だから、火を細くしたまま休憩にしようと別室に入ってしばらくすると、バスーンという言う音がして、同時に家内が悲鳴を上げる声がした。

急ぎ見に行くと、猿蟹合戦のように栗が爆ぜて、四方八方までは行かないにしろ、小石を巻き込み10粒ほど飛び出した音であった。

栗だけならよいのだが、小石が飛んでくるのは危ないから、まだ栗は天津甘栗には遠いような色だったが、仕方なくそのまま終了とした。

情報提供者は本当に実践したのだろうか、其れであれば、状況や出来上がりの品質、蓋を使うとか、かかった時間とか、必用な情報を書くはずではないか、それに危険性があるであろう栗の爆発のことも。

などと最初は情報提供者をよく思わなかったが、提供した内容や方法云々を悪く言うことは、よくないことだし、真似をした自分が悪いのだと思うことにした。それに考えて見れば、レシピを記載したのであって、作り方作業法を記載したのではない。

今考えれば、レシピだけの情報提供に過ぎないものを、勝手に真似して作業法は自己流だし、攪拌を持続しなかったことが爆発の原因であることは十分承知の上でいうと、小生もかつてはアウトドア派人間で、ダッチオーブンやアウトドア用オーブンを使って、野外でフランス料理を作った経験もあるし、使い方ノウハウはよく分かっているつもりだったこと、栗は爆ぜるものと言う常識が、小石を使うことによって防げると言う都合のよい合理化をしたこと、、其れがいけなかった。

いいタイミングに蓋を開けて攪拌すればよいことなのに、そういう基本を忘れていたのが原因である。
難しそうに思うだろうが、タイミングはすぐに理解できる自信はある。
楽して美味しいものを食べたいと言う、欲張った考えがこういう事態を引き起こした。

中止して取り出した栗は本物には及ばないが、少しあめ色がかって美味しそうだ。
暫くして冷めてから味わおうと思うが、よからぬ付加価値がついているから、さぞ甘くショッパイことであろう。

秋刀魚の味のする栗、はたしてどうだろうか。

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先ほど食したが、煎り方がまだ足りないので、殻が割りにくい、しかし味は市販の甘栗と比べて遜色ない。
我が家の栗は甘栗だが、こういう作り方をすると、いっそう甘味が増して実に旨かった。

手間隙がかかりそして危険もあったから、一粒一粒を大事に食べた。

失敗の2番目は、これもネット情報を真似したところが原因だ。
汚れたレコードのクリーニング法はいろいろあるが、安価で効果的だといわれる方法に、木工用ボンドを使うと言うものがある。

小生は昔からこの方法があることを知ってはいたが、実際ににやったことは無かった。
しかし本日其の方法をトライしてみる気になり、木工用ボンドを入手してきた。
万が一を考えて、しかし事前事後が分からなくては、効果確認ができないから、現役の中で積極的に聴く事がなくなったものからチョイスした。

一抹の不安は、木工用ボンドといっても種類がるのではないか、どのくらいの量、厚さで塗ればよいのかがサッパリ分からないと言うことだが、とにかくやってみようと思ったのだった。

剥がすタイミングは、白いボンドが透明になったときだと言うから、適当な量レコードに指で塗りつけてから、タイミングを待った。

1持間あまりして透明になったボンドをいよいよ剥がすときが来た。
しかしどこを探しても剥がれそうなところがない。
仕方なく埃が立たないティッシュでこすって剥がそうとすると、ボンドが溝の中まで深く入り込む様子なのが分かったが、剥がせるタイミングになったはずの、木工ボンドを塗った盤面のどこにも、剥すことが可能な場所は見つけられなかった。

木工用ボンド使用で恐れていたことが現実となり、失敗の原因が自分自身にあることを思い知ったが、水性のボンドだから、水かぬるま湯でこすり落とせば済むことだと、女性の顔パックのようにはならなかったことを後悔しつつ作業に入った。
思ったことは的中し、洗い落とすことができたようなので、毛羽が立たないティッシュと精製水を使って、再度盤面を拭上げた。

肩のこる作業だが、盤面はピカピカになって気持ちがよいし、音質が多少でもよくなれば苦労の甲斐あるというものだが、依然気になるのが、剥がれなかった木工用ボンドのこと。

量不足なのか、タイミングが早すぎだったのか、ボンドが合わないのか、それらがいまだよく分からないし、成功するまでには、不安定要素がたくさんあると思われるから、2度と木工用ボンドは使用しないと決めた次第。

それで日常簡単にやれるが、液がなくなってしまったD4レコードクリーナーでのクリーニングを、消耗品である液に精製水を使用することで復活することにした。

ボンドが剥がれてこなかったときは、正直冷や汗ものでしたが、上のような処理だから音質が悪くなったかと思いきや、ぬるま湯で洗い流し一皮剥けて、前よりもクリヤーになった感じがした。
確かに一部の雑音は低下したが、雑音に関しての貢献度は少ないが、しかし音質が少し向上したのはおそらく残留したカビが除去されたせいだろう。

毛羽立たないティッシュ(シルコットなど)と精製水を使って溝を拭く方法が手っ取り早く、ある程度効果も望めるし見た目がよくなるのもいいことだ。まだ実験はしてないが99.9%純粋に近いという、多分精製水を使ったと見られるウエットティッシュも便利そうだ。

当面は都度のクリーニングに、D4システム。
それにプラスして汚れがひどいレコードには、精製水&ティッシュを使った方法で行くことにする。

by noanoa1970 | 2011-10-20 23:00 | 日常のこと | Comments(4)

コロムビア世界名曲大全集

1962年の発売だから50年前と言うことになる。
父親が勤務していた会社の社歌を依頼した、ある音楽関係者の勧めで、この全集を購入した。

嫌いではないが、自分では積極的にクラシック音楽を聴こうとしなかった父親だったが、どうした心境の変化なのか、子供である小生ののためにと言うことだったのか、50枚がセットになったLPレコードの全集を思い切ったのだった。

廉価盤が登場する少し前、1枚あたり1000円と安価であったが、50枚セットとなると5万円と、当時はすごく高額なものだが、コロムビアレコードと関係があるその音楽関係者によって30%OFFで入手できたようだった。

小生はこのレコード類を聴いてクラシック音楽に入ったが、おかげで入門編であったが、中学2年で、幅広い音楽に接することができたから、物理的な問題で、そうは多種の音楽に接することができないことが多い周囲の友人知人よりは、広く浅く音楽史的に音楽を聴く事ができ、通俗名曲と向かい合うことができたのだった。

大学時代の音楽研究クサークルで、このことは良し悪し両面の要素を持ち、殆どの有名曲は聴いていたが、少し中に入ったメジャーではないご曲となると、サッパリ聴いてないことになった。

ある作曲家に特化したほうが、何かと持て囃される傾向があって、ほかの作曲家の作品は殆ど聞かないが、ある作曲家の作品に限ってなんでも聴くような人種は、変に尊敬の眼で見られたものだった。

小生など、序曲しか聴いてないワーグナーを、「指輪」とか「パルジファル」とかライトモチーフ云々言うのだから、ほかの作曲家の曲に疎くても構わなかったところがあった。

モーツァルトに特化するもの、バルトークに特化するもの、殆どドイツ音楽を聴かないまま仏蘭西音楽に特化するもの、いろいろな人間が出てくるようになった。
専門性が非常に尊ばれた時代背景もあったのかもしれない。

小生はこのレコード全集で育った性で、幅広く音楽を聴くほうに徹したが、その中で少し違う方向性にめぐり合うことになった。

其れが演奏つまり指揮者の個性で、だんだんと好みの演奏、好みの指揮者が固まってくる気配が芽生えて、今に至るのである。

そんな現在に至る自分が一番世話になり、何度も繰り返し聴いた全集は、50枚のうち京都に持っていってた10枚ほどを除き、実家の引越しの最、残りはすべて廃棄されてしまった。

今でも時々思い出し、ブログに何回も書いたが、何しろ50年前、記憶が薄れていき、一部を除いて演奏者は誰がいたとか、収容作品は何であったかの詳細は忘れていたし、覚えている演奏家の中には、いまやヴィンテ-ジ級に値するものも少なくなかったから、なんとかその情報があればいいと思って、WEBで検索をしたのが16日。

情報は全く見つから無く、あきらめかけたとき、50枚組みというキーワードを追加して再度検索すると、オークションに出品されているらしい情報が飛び込んだ。

早速中に入ると、17日深夜でオークション終了なのに、確かにあのなつかしのジャケットが勢ぞろいであったし、誰も応札がない状態だし、このチャンスを逃せば2度とめぐり合わないかもしれないと、この際ぜひ入手せねばと、応札することにした。

大手発売の新譜のCD1枚と同じようなオークション価格で、超格安だったから、ぎりぎりで参入があると読んだが、結局応札者は小生だけで、そのまま出品者がつけた格安値段で落札出来てしまった。

価格が安かったことも嬉しいが、其れよりも50年前の余りにも懐かしい、小生にとって宝物のようなLPレコードが手に入ったことのほうが遥か上の嬉しさだ。

大1枚は覚悟したにもかかわらず、出品者も、応札側のクラシクファンも、このレコードの情報がないから、価値が分からなかったのか、小生以外誰も見向きもしなかったと言うことになる。

さすがに50枚となるとかなり分厚い。
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交響曲、管弦楽、協奏曲、室内楽、歌曲に分けられ、ジャケットデザインの色が、青、赤、オレンジ、紫、緑トとなっている。
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小生が特別愛聴したブルッショリ/パウムガルトナーのモーツァルト20番23番のP協奏曲。
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其れがたった今届いた。

厳重な梱包をあけて中身を見ると、ジャケットは多少汚れはあるものの、小生所有のものよりずっと綺麗だし、解説書もきちんとついている。

必要はないが、この全集には木製のレコード収納BOXが付属していたが、さすがに其れは無かった。

中にぜひとも聴きたかったものが数枚あり、それだけでも十分な価値があろうというもの。

レオポルド・ルートビッヒがたくさん収録されていて、最近CD復刻されたものは、ベト9を除き全集にすべて存在するし、ギンペル兄弟、ジークフリート・ボリースの協奏曲、フリッツリーガー、アルテュール・ローターなどの指揮者たち、イストヴァン・ケルテスはこの全集のベト序曲を聴いて只ものではないと子供心に思ったし、フランツ・コンヴィチュニー/ゲヴァントハウスの別録音といわれる「田園」など、その他大勢の無印良品が目白押しなのだ。

オイゲンヨッフムの弟、ゲオルグ・ルートビッヒ・ヨッフムのレアな録音もあるし、ティボール・ヴァルガ、マヒューラ、シュタートルマイヤー、ベルリンフィル弦楽四重奏団、ウイーンコンツェルトハウス四重奏団、ブンダーリッヒの旧録音の水車小屋など聴き所はいっぱいだ。

コンヴィチュニー来日の翌年の名曲集に、コンヴィチュニーの5番6番のベートーヴェン交響曲録音が2枚とワーグナーのジークフリート牧歌、それにドヴォルザークの新世界が登場するのも、思い切ったことをしたものだ。

少々汚れと埃が付いているだろうと思われる外袋をすべてはいだところ。注文した保護袋が到着しだい其れを被せることにした。100枚で@1.3と高くはないから、定期的に交換するのがよいと思うが、コレクション一度に全部は、とてもじゃないがいろいろ大変だろうから、汚れてきたものを交換すればよいことだが、なかなかできないでいたが、ネットで簡単に注文できるから、予備を置いておいておき、実行するほうがよいだろう。

外袋が新しいものが揃うと、棚が新鮮に見えるのが実によい。

京都の今も現役の老舗のクラシック喫茶は、全てよいのだが、只1つ欠点があって、レコード棚には、黄ばんでから既にかなりの年数が経つと思われる、うす茶色に近い色になった外袋に入ったレコードが、ぎっしり並べられているのが、歴史を感じさせるが、みっともないし、レコードやジャケットのためによくないことを放置していることだ。

今ようやく最初に聴くものを選択した。
フリッツリーガー/ミュンヒェンフィル、ジークフリート・ボリスvnのベートーヴェン、バイオリンコンチェルトだ。
盤面に傷があったので10分程度はノイズが少し大きめで連続したが、その後はすっかり取れ、素晴らしい演奏が聞こえてきた。音質もかなりよい。

ジークフリート・ボリスは、フルトヴェングラー時代のベルリンフィルでコンマスだったバイオリニストだ。
暖かい音色と、音程がしっかりした揺るぎの全くないバイオリンは見事。
こういう演奏を正統的と言うのだろうか。

1962年あたりの家庭用コンソールステレオは、針圧が10gは超えていたと思うから、そして50年の年月はカビも生えるであろうから、音盤の質は全く気にしてないのだが、スクラッチノイズならまだしも、ブチブチ音とザーが同時に連続するのには少々閉口したが、仕方ないことである。

当時のレコードプレーヤーは、先端のカートリッジに当たるところをターンすると、LPとSPが切り替えられるものが多かったから、間違えてSPの針でLPを掛けると、一発で其のレコードはダメになるが、この音盤はボチ・ザーのノイズだらけだが、暫くすると収まるし、盤面の溝を見ると、心なしに荒くなっているように見えるのはSPとLPの針を間違えた可能性がある。

オートリターンだから暫く放って置いて後に気がついたのかもしれない。
CD復刻された音盤もあるから、これらLPを聴いて演奏がよくも傷が多い場合は、CDを入手しようかと思っている。

今後はこのLPレコードもブログで取り上げていこうと思うが、其れはさておいても、実際に聴くのが楽しみである。

手始めはコンヴィチュニーの「田園」(モラル録音)がベト全の演奏と同じか違うのか、ライプチッヒゲヴァントハウス管放送響との3種類で聞き比べたいと思っている。

by noanoa1970 | 2011-10-19 00:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(16)

すわ一大事、パソコンが暴走

其れは何の前触れなしに起こった。(と思った)
エクセルの表にデータを入力しようとして、セルをクリックしただけで、数字の6が勝手に入力されてとまらない。

ほうっておくと、シートすべてに数字が埋まっていき、とんでもないことになるから、急いで終了した。

再起動した後、もう一度トライしたが、結果は同じで、ワードでも、I・Eでさえ検索文入力の小窓に数字の6が延々と入力されてしまう、なにもしないのにだ。

これではブログもSNSも、メールも、平場での文章作りも、6の暴走入力のせいで、ほかの文字がすべてのアプリケーションで入力できない状態になり、パソコンは実質的に、死んでしまったことにんる。

古いノートPCを引っ張り出し、WEBで原因と対策を探ろうとしても、ウイルス説とキーボード自体
の故障というものに2分されているようだった。

ウイルスチェックソフトは2つ、そしてスパイボットという駆除対策ソフトを入れているが、かかるときはかかってしまうウイルスであるから心配したが、長い時間かけてスキャンした結果、いずれのソフトも検出されずという言うメッセージを返しててきた。

ウイルスではなさそうだから、こんどはキーボードなのだが、キーボードはつい一月ほど前に新しくしたばかりだ。

しかし初期不良の例もあるからと、最初期のパソコンWIN98についていたものを使おうとしたが、古いから5ピン端子で、今使用のPCはUSB受け口しか付いてないから、変換アダプターが必用だが、どこにも無かったので、繋ぎ変えは今すぐには出来ないと、あきらめて少し休憩することにした。

休憩中に思い出したのは、先ほどガシャンという音が足元でしたので、確認するとNTTのデジタル回線用の機器のうち、一番大きなユニットが倒れていたので、音の犯人はそのせいだと解釈した。

しかし本当の犯人は、ほかにいたのである。
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面倒くさがりの小生、古いキーボードを撤収することなく、接続しっぱなしで、PC机の引き出しの奥に置いたままにしておくという暴挙をやっていて、つまり交換前のキーボードと交換後のキーボードは、両方生きている状態にあり、だんだんと押されれていって、ついにすべり落ちてしまったと言うわけだ。
引き出しといっても、PCデスクのキーボードを置くためのもので、使わないときには収納できるタイプのものだから、押されれば当然下に落ちてしまう。

そんな奥にストッパーのない、板だけの引き出しの奥においてある、交換前のキーボードが押されて床に落ちた時に発した音が、ガシャンだったので、NTTのデジタルユニットはキーボードが落ちてきたから倒れたに過ぎなかったのだった。

前のキーボードの存在はすっかり忘れていたし、暗い中の黒いキーボードだから落ちたのが見えなかったのだ。

PC98についていたキーボードのコネクターが合わないので、思い出したのが、奥に追いやったキーボード、Aキーだけの不具合だから実験には全く差支えがない。
A以外の文字数字が入力できるなら、新しいキーボードが犯人ということになる。

それで古いキーボードで無事入力できるか、試そうと手元に引き寄せようと思ったが、引き出しの奥に姿は無い。
調べると、奥の床の狭いスペースに、体を斜めにしてにして落ちていて、先ほどのガシャンは其の音だった。

引き上げようと思い、よく見ると、斜めに落ちたキーボードの左側はごちゃごちゃになっているコードかPCデスクの補強針金かに接触していたようで、もしや、数字の6が偶然接触状態、つまり6キーが押されっぱなし状態に有ったとすれば、勝手に入力されていく可能性はあるのだろうと推測し、引き上げた状態で問題のキーボードで試してみると、先ほどまでの6の入力暴走は、ピタリと収まった。

生きたまま床下に落ちたキーボードは、拍子に何かと6のキーが接触し、押されっぱなしの状態になったのだ。

そうして入力に関係するあらゆるアプリケーションで実験をしてみたが、2度と数字の6が入力されなくなった。

つまるところ、数字連続自動入力の犯人は、Aキー不調で交換したキーボードであった。
そして使わないキーボードを、生きたまま接続したまま放置した小生が原因だった。

そこで教訓
新しいものに交換した古い周辺機器は、すぐに廃棄処理すること。
くれぐれも生かしたまま接続したまま放置はしないように。
机やPCデスク周りの整理、整頓を心がけること。
トラブルの際には、まず物理的なものを疑うべし。

このままだとまた何か悪さの原因となることだろう教訓から、マウスも同じように古いものを接続したままになっていたのを、やっとPCから切り離した。

なぜ接続したままになっていたかと言えば、PCの裏側が見にくい事、配線が複雑で、間違えてほかのコードを抜いてしまうと、殆ど動かせないPC本体に再接続するのに難儀になるとの思いからであった。

デスクトップPCは、周辺機器などを接続するための配線が多いのfで、初めはいいとしてもすぐに配線が複雑に絡んでしまうから、非常に面倒だが定期的にケアーしてやる必用があるだろう。

このことに気がつかなかったら、システム復活などに発展して、それでも当然ダメなわけだから、すぐに送らなければならない重要メールも、ブログ記事も、検索さえも使えない状態のままで途方にくれていたことと思うと、冷や汗ものであった。

以上が今回の騒動の顛末である。
そして犯人はウイルスでなく人間が行った不精がであると思い知ることとなった。

小生、音楽、オーディオでは絶対これに類するようなことはしないのに、なぜかほかの事ではそうでないことが多いが、不精はいけないことである。

いやCDを出しっ放しにしたり、聴き終わったレコードをターンテーブルに置いたままにすることがあるから、やはり無精者なのだ。font>

by noanoa1970 | 2011-10-18 21:15 | 日常のこと | Comments(2)

アケビと栗

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数年前から垣根の中でひっそりと実をつけてきたアケビ、今年も比較的大きめなのは3つだけだが実をつけた。

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多くの実をつけた栗は、道路に落ちたものを、通りすがりの親子が珍しそうに拾ってゆく光景がほほえましい。

栗の木自体がいまや珍しいし、ましてや実がなっている姿や、落ちてきて中に実がある、いが付きのものなどは、見たことなどはないのだろう。

山栗だと思うが、実はかなり小さく、天津甘栗の小粒代の大きさだ。
いつもは食べるのが面倒なので、観賞に終わっていたが、本日は食べてみることにした。
天津甘栗風にとは思うが、小石を集めるのが面倒だし、時間がかかり味付けもなかなか厄介そうなので、焼き栗にすることにしたが、食べる際にごく小さい実の皮を剥ぐ作業に手間がかかりそうなので、事前に少し切れ目を入れ、茹で上げたものを乾煎りしてみることにした。

懸念だった、渋皮が実に付いて来る事無く、グレープフルーツようのスプーンでこそげると、苦労なしで食べることが出来き、これならばたくさん食べられると、ちょっとしたことだがやってよかった。

冷えてから食べると甘味が増して、天津甘栗に近いが自然の甘さだから、栗の味を損なわない。
くりきんとんを作るには、一個当たり15個ほど必用な計算だから、さすがに断念したが、この味ならば何も入れなくても中津川の専門店に負けないと思う。

アケビは、冗談で食べた後の種を撒いておいたのが、いつの間にか垣根の中で人知れず大きくなっていて、数年前、花が咲いていることでようやく気がついたのだった。

花は割りとたくさん咲くのだが、実をつけるものは非常に少なく、しかも毎年、実をつける枝の位置が決まっているようで、いわば定位置がアケビにあるようだが理由は分からない。

10センチから15センチほどになったアケビ、実がわれ始め食べごろとなったが、気がつかないままだと、最近民家近くまでやってきて、おととしは留守中に、家の駐車場の屋根の上で、ひとしきり遊んで帰ったと、近所の人が知らせてくれたが、大好物のアケビはサルに取られたことだろう。

いや数年前に実が生っていることに気がついたのだったが、種撒きしてから20年以上経っていることを考えれば、もっと早くに実をつけるようになっていて、気がつかないまま、サルに持っていかれていた可能性もある。

アケビは実を主に食べる地方と、皮を重視して、身を捨ててしまう地方があるというが、小生の家では両方楽しむことにしていて、実は冷やしたものをすすって上手く種を出し、実は味噌炒めにして酒のともにすれば山間の秋の季節を感じさせとても美味である。

味醂と醤油と鷹の爪でキンピラ風に炒めてもいける。
アイディアとしては詰め物も良いとは思うが、何背数が少ないから、いまだ実現しないが、中の餡には豚マンと同じようなものを使い、蒸すかうす衣で揚げてから、輪切りにすればよいと今気がついた。
冷めてから、わさび醤油で食すのがピッタリだと思う。

皮は少し甘味があって、鄙びた山間の村の秋の香りがするから、しいたけやきのこ類を微塵にして餡に入れるといいだろう。
温燗の〆張鶴本醸造がよく合うのではないだろうか。
あるいは小生が愛飲する「春鹿」超辛口純米でもいいような気がする。

アケビの皮の詰め物包み上げ包み蒸しは、中身の餡に肉を使うし、田舎を感じさせるような皮の香りがたち、あっさりと少しこってりが同居するから、本醸造の少しこくがあるものと、すっきりとキレがある酒であわせるのが良いだろうが、好みが別れそうだ。
熱いままを本醸造でいく場合は、山葵でなく和辛子がよさそうだ。

白ワインでももちろん良いと思うが、ソムリエ風に言えば、山間に湧き出る清水や周辺の地衣・苔のような香りがするものがいいということになろうが、具体的なものは知らないし、そんなワインがあるのかも知らない。
詰め物にはソースアメリケーヌが合いそうだ。望み薄だが、川海老の殻が使えれば最高だろう。

酒は、生で飲んで上手いものでも、合わせる料理でそれが持続しないことがあり、その酒の特徴の大半を殺すことさえある(ように思う)。

何も食べないで飲むか、料理によって酒を変える事が、「通」と言われる人に多いのは、そのせいなのかもしれない。

本日h、あらかじめ茹でたりでずに、生のまま乾煎りしてみたところ、殻が上手に剥がれ、栗の実そのままの形で食せたものが多かった。天津甘栗の味付けなしの感じで、非常に美味しかった。

それに気をよくして、本日小石を購入してきた。
栗がまだあるので、本格的天津甘栗に挑戦だ。

今のやり方でも、薄皮は実についてこなかったから、天津甘栗は中国産の栗でしか出来ないと言う神話を、崩してやろうと思っている。

ダッチオーブンに小石を敷いて、オイルと砂糖を加えて暖め、そこに栗を入れて小石と一緒に炒って行く。
時間がかかるが、むずかしくは無いようだ。

ダッチオーブンはキャンプ用に購入したものだが、天麩羅鍋として使用すると、抜群によく揚がる。
小石を入手したから、次はダッチオーブンで「石焼芋」だ。

by noanoa1970 | 2011-10-18 00:01 | 日常のこと | Comments(3)