聴きなおしたLP音盤

どんなにしてもうまく再生することが難しかったミュンシュのブラームスが、やっとのことで、今までよりかなりよい音で聞くことが出来たのをいいことに、ここ数日、今ではあまり聴くことがなくなってしまったLP音盤を引っ張り出して聴いている。

CDもLPも小生の再生装置は今が旬。
長年かかってようやくたどり付いたものだが、装置をつかさどる各々のパーツのバランスが、いい具合に取れた結果だろう。

壊れたと諦めていたCD950の復活で、デジタル音盤の音は中低域が伸び、粒立ちが増して、YAMAHA NS-1000を、それまで聴いたことの無いような別次元の音、すなわち限界まで追い込んでいると思われるし、アナログディスクも、トーンノアームAC3000シルバーとDENON DL-103、それにYAMAHA C2aのフォノイコライザー、ヘッドアンプのマッチングが良かったせいか、これまで聴いたことの無いような音で溢れることが多々あり、過去に音質がよくないからと、聞かなくなってしまったものまでが、生き返ったように生き生きと響いてくれるようになった。

先ほどもブーレーズ/NY管の弦楽合奏版「浄夜」を聴いたが、弦パートの配置が手に取るように分かるのには本当に驚いたし、今まで気がつかなかった部分、高弦と低弦の掛け合いで表現される男と女の会話が存在していることが分かって、楽曲の理解度がさらに増したように思う。

古い音盤を聴くごとに新しい発見があるし、何より音を楽しんで聴くことが出来るようになったから、もうこれは病みつき状態にあるといえる。

そんな中、久しぶりに聴いた古い音盤の印象を簡単にまとめて置く。
これら以外にもたくさんあるが、特に印象度の強いものをチョイスした。

「カラヤン/VPO:ベートーヴェン交響曲7番1958年録音、ヴィクター国内盤」
DECCAのCDと比べても遜色がない。むしろ弦の柔らかいことから来るオケの暖かさはLPが上。ただし団子状態の音が少し気になるLPに対し、CDは粒立ちがよい。(この音盤だけは、とても良く聴く音盤である)
演奏はこの曲演奏の5本の指に入るであろう素晴らしいもので、「silkvelvetの紳士」と、かつて小生は呼んだように、粋で鯔背でお洒落な演奏だ。
カラヤンは、DECCA時代のVPOとの演奏が特に素晴らしい。

「小澤征爾/ロスアンジェルスフィル:ベルリオーズ「幻想」、オデッセイ盤」
録音はすこぶるよい。オデッセイ盤はオーマンディ/フィラデルフィア管の「英雄の生涯」も年代を思わせない素晴らしい録音状態。ワルターの「巨人」といい優良演奏優良録音が豊富。
だがこの音盤の演奏はバツだ。音楽がただスムーズに流れていくだけの、まことにつまらない演奏になってしまった、小澤のストーリー性のある楽曲の演奏の多くはそういう傾向だ。

「アマデウス四重奏団:チャイコフスキー1番、ボロディン弦楽四重奏2番、グラモフォンレジェンド国内盤」
廉価盤で60年代の古い録音にもかかわらず、録音はよいし演奏は上品である。倍音成分が乗った美音が聞こえる。アーティキュレーション、アゴーギグで何時でも息がぴったりと合った演奏、ボロディン3楽章のヴァイオリンハイトーンの確かな音程は、この四重奏団が只者でないことを語るに十分だ。メンバーが変わることなく、40年近く一緒に活動してきたことは何よりの宝だ。

「オレゴン&ラルフタウナー:レストフルマインド、ヴァンガード国内盤」
ラヴェルの「なき皇女のためのパヴァーヌ」を、ラルフがソロで弾く時のダイナミックレンジは、ものすごく広く、SPが壊れてしまいそうな音響。アコースティックギターだからといって決して嘗めてはいけない。
音のひずみや破綻が一切ない好録音は、いかにヴァンガード録音が優れていたかの証明だ。
非クラシックの演奏も多いラヴェルだが、中でもラルフのギターソロは、技術的にも、音楽的にも天下一品。
ギターはギブソンだろうかギルドだろうか、少し毛色の変わったトーンが特徴だ。

「MJQ:ブルースオンバッハ、アトランティック国内盤」
昔ならヴァイブの強奏音が歪むので、途中でやめたくなった音盤だが、今回ではそれがなくなって、なんとか最後まで聞けるようになった。特にベースの音と、鈴の音のようなパーカッションの再現がよかった。ベースが思いの他前に出てくるのに驚いた。アトランティックレーベルは、どうもよくない録音が多いような気がする。
ロバータフラックでは、輸入盤も国内盤とあまり変わりが無かったから、R&B時代からの録音の伝統を引きずっているのかも知れない。60年代の録音と70年の録音があまり変わらないのは不満が残る。
MJQの演奏が良いだけに、アナログのもう少しましな音質で聴いてみたい。

「ヴァーツラフ・ノイマン/チェコフィル ドヴォルザーク交響曲8盤」
この曲は小生の思い出の曲でもある。名古屋今池に「スギウラ」というクラシック喫茶があって、ゴトウユニットのホーンがコンクリート製の箱に入れてあったし、マッキントッシュ、JBL,トーレンス、SMEなどオーディオファン垂涎のもので組まれた装置だったこともあって、浪人生時代から良く通った。
毎回のように、そのころ好きになったドヴォ8をリクエストするので、「ドヴォ8のお兄さん」というニックネームまでいただいた始末。
大学生になった夏、この店でアルバイトをしたときに、店主の息子から言われたことがあった。
セル/クリーブランドの音盤であったが、小生はカラヤン/VPO、1950年代DECCA録音とケルテス盤も良く聴いている。
ノイマン盤はレコード発売中止の直後、バーゲンセールで入手したもの。ノイマンは聞かず嫌いの指揮者だったが、ゲヴァントハウス時代のブルックナーとスメタナを聞いて見直すことになった。
それでこの音盤を聴くことにしたのだが、スプラフォンにしては珍しく録音状態が良い。1972年録音とは思えないほど明晰な録音で、デジタル録音に完全に勝る。演奏も、方々で小細工をしたくなりがちな曲であるが、オーソドックス。奇をてらったところは無いが、音楽の凹凸はきっちりとつけているし、チェコフィルも弦楽器はいうに及ばず管楽器も素晴らしい。長く聴いて飽きない演奏のように思う。

ちょっと不思議に思うのは、今まで音質が良いと思っていたテラークのオーディオファイルむけ音盤マゼールの幻想、小澤の運命、悪くは無いのだが、今はかつてほどではなく感じたことだ。

一般の音盤の音が、よく聞こえる様になったことによる相対効果なのか、良く分からないが、ダイナミックレンジを除くと、以前の印象度より低くなったのは間違いない。

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by noanoa1970 | 2011-09-27 11:43 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

大失敗し、そして磨いた

砲金製のターンテーブルの腹の部分が汚れてきた。

ストップスイチッチを押してもなかなか止まらないから、つい指で腹を押さえてしまうから、汚れやカビのようなものや錆が付いてきたと思われる。

それでもう少し綺麗にしようと、アルコールの付いた紙でこすってみたが、様子がおかしい。
それでもアルコールで拭いた跡の曇りであろうと、高をくくってどんどん進み、ついに全体を拭き上げた。

ところが乾拭きをしても、本来は鈍い黄金色に光っていなければいけないはずが、霧の様にボンヤリとした、すりガラス状になってしまった。

これでは回転させたときにも停止状態でもまことにみっともないから、すぐにネットで砲金磨きを検索すると、タバスコ、とか、レモンとかそういった「酸」がよいという話を聞いたが、液体では漏れてターンテーブルの下に入る可能性があって、とても使う気になれなかったところ、半錬りのピカールという商品がよいという話を聞き、本日近くのDIY店に行った。

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あいにくピカールはなかったが、ピカールよりも使い易そうなものがあったので早速入手。
アサヒペン発売の金属磨き「ぴかぴ缶」という商品で、この間の中には超微粒子の研磨剤を含ませた脱脂綿が入っていて、それを必要な分千切って使用するもの。

作業性は非常によかった。
これはいいことであるのだが、超微粒子のため、拭き上げにかなりの時間を要すること。
液体やゲル状のものでないものを選択したのは、万が一に備えてのことだから多少のロードは我慢だ。

超微粒子のため時間がかかり、まだピカピカにはなってないが、それでも以前よりはましで、心配のアルコールによって変色した後もどうにか綺麗になった。

プレーヤーの説明書を見ると、アルコールで拭くのは絶対やめろと書いてあった。
どうやら酸化防止剤を塗布してあり、アルコールと反応してしまうからだということらしい。

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大失敗をしたが、おかげで綺麗になりつつあるプレーヤーが、十分な仕事をするのを見て満足度が高い。

もちろん音は今が最上レベルであるのはいうまでもない。すべてのパーツのバランスが最良の状態にあるのだろう。

DENON DL-103の能力の高さには惚れ惚れしてしまう。
聴き直した過去のLPレコードすべて、変身するであろう音の期待が膨らみ、全曲が終わるまで楽しんで聞くことが出来るようになった。

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by noanoa1970 | 2011-09-26 16:31 | オーディオ | Comments(0)

Kenny Dorham(1959)の記憶

このLPレコードはソリがかなり激しいので、以前のプレーヤー、追従性に優れたSME3009トーンアーム、シュアーV-15Ⅱでもようやく追従出来たが、結果フォノカートリッジのトレース能力が低下することで、あまり言い音がしなかった。

ソリやレーベルの真ん中に開いているべき穴が、真ん中でない(偏芯)ものは、輸入盤に頻度が多かったように思うが、オフセンターの穴にあたった場合は、もうどうしようもないことで、そういう盤では音楽が回転数を周期的に変化させたようになり、まともに聴くことは出来ない。

ソリの場合は、聞けないことはないにしろ、再生音に大きな影響があるし、レコードのソリを直すのは、非常に困難で、これといった方法はないからこれも厄介である。

Prestige盤「Kenny Dorham 1959」も、かなりソリがあるレコードだったから、ほとんど聴かずじまいのレコードであった。

プレーヤーをマイクロBL-111(糸ドライブ仕様)から、レコードのソリをバキュームで強制できるシステムを追加したSX-111FVに変更した後も、このレコードを聴くことがなかったのは、きっと聴かない習慣が身についてしまっていたせいだろう。

昨日そのレコードがあるのに気がつき、30年以上聴かずにいたが、今なら問題なく再生できるはずと、トライしてみることにした。

ターンテーブルにレコード盤を乗せ、いつものように吸着システムのボタンを押すが、しかしレコード盤はターンテーブルから浮いたまま。

こういう経験は他であったから、こんどは、レコード盤に手を添えて、上から少し圧迫してやりながら吸着をかけると、こんどは問題なく吸着。

音質に影響するからか、吸着ポンプの力を強力弱くしてあるとみえて、この盤のようにソリの激しすぎる盤はなかなか吸着しないが、人間の力を介在させれば問題なく、いままで吸着しなかったことはない。

このtレコード、そのままでは、超ハイコンプライアンスのトーンアームとフォノカートリッジで、ようやく再生できるかもしれないが、オイルダンプアームとDENON DL-103では、相当困難であったであろうものが、吸着システムのおかげで、まったく問題なく再生可能になったというわけだ。

思えば、ジャズを頻繁に聞くようになった時、懇意にしていたジャズ専門のショップを利用したことから、そのほとんどを輸入盤が占めていて、中には偏芯やソリがあるものもあったから、購入してまだいくらも立ってないプレーヤーを、糸ドライブの糸の継目がターンテーブルに接触してピーンという音を立てるのが気になったこともあって、新しくベルトドライブ、吸着システムつきのものに変更したのであった。

このレコード、今まで針を落としたのは2~3回のはずだが、輸入盤だけあって、結構スクラッチノイズがある。

確認すると、見てすぐに分かるような3cmほどの傷が入っていたが、最初からのものか、跡で着いたのかは分からない。

小生は、いつか「静かなるケニー」という有名アルバムを聞いてみたい、そう思っていた。
クリフォードブラウンのトランペットも好きだが、「静かなる・・・」とあるから、バラードを中心に演奏しているであろうと推測したアルバムで、なぜあの時それを購入しなくて、この盤にしたのかと悔やまれた。

ところが、それからかなり年月が過ぎたある日、購入しようと思っている「静かなるケニー」アルバム収録曲が、1959盤にあったものと、記憶の数曲がよく似ていることに気がつき、よくよく調べると、全曲同じ曲が収録されているではないか。

パーソネルと曲目データを確認すると、下記のとおりで、まったく同一であることが分かったのである。

しかしジャケットはまったく違っていて、ジャズ喫茶でかかるものや、雑誌でのそれは、小生が所有しているものとは同じではなかった。

オリジナル盤と同じく、Prestige 盤なので、てっきりオリジナル復刻盤でジャケットも同じだとばかり思っていたが、どうやら」それは復刻盤の復刻盤というものだったようだ。

こういうことは、ソニーロリンズのサキソンコロッサスでも経験したことだが、知らずに購入すると中身は同じでもジャケットがオリジナルではないことがあった。

1975年ごろの入手だから、このころは、日オリジナル復刻盤が多かったのかもしれない。
でも、国産復刻レコードのようなジャケットの手抜きはなく、オリジナルよりもよいと思うものもあった。

トミーフラナガンのオーヴーシーズ、オリジナルは文字ばかりがたくさん書かれているもので、アイディアは面白いが、ジャケットとしては賛否両論あること思う。
顔の写真のジャケットが復刻盤になったが、今ならよろしくないが、このころは情報が少ない時代だから、演奏者の顔写真は必要であったという配慮からか、クラシックジャズを問わず顔写真のジャケットはかなり多かった。

というわけで、ジャケットこそ違うが、Kenny Dorham1595と(quiet kenny )Kenny Dorham が同一であると知ったのは、数年後のことであった。

下記のディスコグライーにも、* Kenny Dorham - Quiet Kenny (New Jazz NJLP 8225; Original Jazz Classics OJC 250, OJCCD 250-2)
= Kenny Dorham 1959 (Prestige PR 7754)と記されており、全く同じ中身ということが確認できる。

よく知られているジャケットはオリジナルNew Jazz 8255と同一(だと思う)。
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再復刻盤ジャケットはPrestige PR7754
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片方は「Quiet」を主眼に置いたかのような雰囲気でとてもよい。
またPrestige盤では精悍さのある雰囲気の写真を使っている。
いずれも味のあるジャケットだ。

録音場所がヴァンゲルダースタジオとある。しかしブルーノートで有名なプロデューサー、ヴァンゲルダーが関与したのかは不明。

ものすごいメンバーの集まりで、いずれもがその道の第一人者だ。
曲の前の数字が何を表すか、小生には分かりかねるが、収録曲順ではない。
録音順を表すナンバーかもしれない。

こんなにもやさしい音のトランペットは、それまでジャズでは聞いたことがない。演奏曲目のせいばかりではなく、ドーハムの音楽観の表出と見ることが出来そうだ。

Lotus Blossom はA面最初の曲、これはジャズ喫茶でよくかかっていたので、メロディを覚えていた。

物思いに耽りながら、ウイスキーのショットグラス片手に、深夜に一人で聞くのにちょうどよい音楽。
コルトレーンのバラード、ジョニーハートマン、ヘレンメリルやクリスコナーもよいが、ドーハムも仲間に入れねばなるまい。


Kenny Dorham Quartet
Kenny Dorham (tp) Tommy Flanagan (p) Paul Chambers (b) Art Taylor (d)
Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, NJ, November 13, 1959
1916 Old Folks New Jazz NJLP 8225
1917 My Ideal -
1918 Blue Spring Shuffle -
1919 Mack The Knife Prestige PR 7754
1920 Lotus Blossom New Jazz NJLP 8225
1921 I Had The Craziest Dream -
1922 Alone Together -
1923-1 Blue Friday -
* Kenny Dorham - Quiet Kenny (New Jazz NJLP 8225; Original Jazz Classics OJC 250, OJCCD 250-2)
= Kenny Dorham 1959 (Prestige PR 7754)

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by noanoa1970 | 2011-09-26 15:55 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

オーディオ、小物いろいろ

机の引き出しや押入れを少し整理したら、懐かしいものを発見した。

中にはこれが必要になるときもあるはずだが、こんなところにしまっていたとは。

分散してしまってあるから、この際前部まとめておき、探しやすくしないといけない。

PC回りのものは、一緒にまとめてあるから、オーディオ回りの小物が今の状態となったのは、13年以上前のことと推測される。

いざというときに方々探し回るであろうことを思えば、今までたいした追加変更、トラブル、メンテがなかったことを物語るが、ひとまとめにすれば、そこだけチェックするだけですむから一応安心である。

ひとまず仮のケースに収容したが、こんど安売りショップで蓋付のケースを購入しよう。

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まずはフォノカートリッジ。
上の写真のものは、現役で、上からオルトフォンMC20MK2スーパー、シュアーV-15タイプⅡ、テクニクスEPC-205CMK3である。オルトフオンの回りを金属製の囲いをかぶせ、余分な振動から逃れるべく、堅牢にチューンアップしている。
主として使用しているのはDENON D-103だが、上記はいずれも音楽的再生に優れたカートリッジだ。

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長い間押入れで眠っていたSUPEXのMCカートリッジSD-909と、同じSUPEXの増幅トランスSDT-77カートリッジはオルトフォンの箱に入れてしまっておいた。
初めて使用したのが1976年で、小生の本格的MCカートリッジ1号。日産21個の手作りという宣伝で使う気になったもの。やや繊細だが、クラシックにはよくあっていた。多くの時間使用してないから今でも使えるはずだ。

残っていたカートリッジケースと交換針のケース。
左上がシュアーV-15Ⅱ、その右がとても珍しいNEATのMMカートリッジMVS-15、これは箱だけが残る。
下左はシュアーV-15の交換針VN-15E、V-15、V-15Ⅱ共通だった、これも十分使える。
右がSATINのM-14カートリッジの交換針N-14NE楕円針である。交換針は使用時間が少ないから、まだまだ使用可能だが、SATINは本体がなくなってしまった。
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現役フォノアーム、オーディオクラフトのAC-3000シルバーの箱と、アーム設置位置確認メジャー。
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今は使用しなくなったフォノカートリッジ。
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左からオルトフォンMC20、右上はマイクロVF3200、下がオルトフォンMC-10。
使おうと思えば使えると思うが、ダンパーがダメな可能性があるぐらい古いものだ。

フォノアームAC-3000は、アームの先のシェルを脱着するのでなく、アームの根元を脱着するから、フォノカートリッジを交換するときは、アームごとの交換となってしまう。このため予備のアームを複数持つことになるが、ストレートアームとS字タイプがあり、それぞれの取り付けで調整が発生する。
S字アームは、ラテラルバランス、インサイドフォース、左右水平バランス、カートリッジとシェルの重さにあわせたメイン錘で細かい調整が必要になるが、そのとき必要な錘類と水平バランス用小物である。
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フォノカートリッジについてくるネジやボルトナット類、そして交換済みのリード線、など集まり具合が歴史だ。
ガラス瓶にはターンテーブルのベルトが入っているが、これもまだ十分使えそうだ。
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最後はヘッドシェルと呼んでいた、カートリッジを取り付け、アームに接続するための物。
SMEの穴あきとFRのマグネシウムシェルがとても懐かしい、たくさんあるのは、安価なマイクロのシェル。
FR製のカートリッジ収納BOXに今回入れた。

最後は
シェル&カーリッジ収納BOXに入れたヘッドシェル。
SMEもFRもSTAXのものも残っていた。
フォノカートリッジを接続したまま収容できる便利GOODS
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AC-3000にDENON D-103そうちゃくしたところ。AC-3000の凝ったメカがわかると思う。
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奥に見えるのは静電防止のためのもの、左は埃取り。小生はいわゆるレコードクリーナーはほとんど使わない。
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ターンテーブウはマイクロSX-111FV、レコード盤をポンプの圧力で、バキュームし、反りがないようにする。おかげでアームの動きは常に水平を保つからカートリッジの能力を高いレベルで発揮できる。

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by noanoa1970 | 2011-09-23 18:00 | オーディオ | Comments(0)

仏PATHE MARCONI 盤で聴く2つの録音のことなど

先日ミュンシュ/パリ管、仏パテ・マルコーニ盤の音質が良くないということを書いたが、違う曲ではあるが、同じ仏パテ・マルコーニの音盤があったのでこちらも聴き直ししてみた。

この音盤、最後に聞いたのはいつだったか、今ではその記憶さえない状態であるが、おそらく10年以上は経っているのではないかと思われる。

盤の状態は、数回針を落としただけなのですこぶる良い。
事実針を落としたが、物理的ノイズは皆無であった。

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プーランクの2台のピアノのための協奏曲、クラヴサン協奏曲「田園コンセール」:ジョルジュ・プレートル/パリ音楽院管弦楽団、プーランク自身のピアノ他による。

録音は1962年、録音技術者データは記載されてないが、ミュンシュのブラームスと同じシリーズである。
同一エンジニアの録音とも考えられるが、定かではない。
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聴いてみて仰天したが、1962年録音にもかかわらず音は鮮明、現在のデジタル録音と比較して、遜色がない。
音の角はなく、聴いていてワクワク感が喚起され、プーランクの小洒落たところが良くわかる。
CDも所有しているが、LPのほうがエネルギッシュに聞こえる。
ピアノの音色が冷たく感じないのがLP、余分な響きをカットしたような音のCDは綺麗だが色気がない。
ミュンシュ/パリ管のブラームスと比べ、オケの録音状態をチェックしたが、響いた音は生々しく、ヴェールをかけたようなブラームスとはまったく異なるもので、同じレコード会社の録音だとは、到底思えなかった。

いったいブラームス音盤製作の工程でで何が起こったのだろう。
何かの瑕疵がなければ、あのような醜い結果にはならなかったはずだ。

EMIは、録音が良くないということが、その昔掲示板でも話題になった覚えがある。
その中には、イギリスEMIは良くないが西ドイツEMI,仏EMIは結構良いから同じ曲目でも、西ドイツか仏盤を探すと良いなどというものがあったが、ブr5アームスを今回仏パテマルコーニ盤、国内盤(手元にないので記憶だけだが)、そして国内盤CDを聞き比べてみたが、違いはほんのわずかで、音が良くなったというほどのものではなく、いずれも相変わらずよくなかった。

上のことは、主にカッティング、ラッカー板、プレスのいずれかの工程に要因があると考えられるが、厳密に言えば、音質劣化はオリジナルマスターラッカー板が使えなくなって、それをコピーした2番手3番手を使用することによっても起こる。

しかし英EMIが慨してよくないというのは、オリジナルマスターとサブマスターの差であるということでなく、工程すべてのどこかに、重要な問題点を抱えている可能性がある。

たしかに海外で録音されたものを日本で製造発売した国内盤は、外国のものより概して音質は良くない傾向であるが、端からサブマスターを使用してプレスまで行くのだから、その大きさはともあれ、最初から差がついているのは確かなことだ。

LPでマニアがオリジナル初期盤を求めるのは、原盤:オリジナルマスターが使われた可能性が高く、子、孫、曾孫となるにしたがって音質が悪くなると思っているからであるが、EMIが総じて音質が悪いこと、そして中でも英EMI盤にオリジナルマスターで作成されたものでも、良くないものがあるということになると、音質が良くないことは、マスターに原因があるのではないということになる。

小生はすべてのEMIのカッティングマシーン辺りが怪しいように思うが、確たる証拠は見えてこない。
仏EMIがもし新しいカッティングマシンを新規導入していて、それが1968年以前1962年以降であれば、そこから音質が変わり、人によっては音質が劣化したと思うのかもしれない。

プロデュサーやエンジニアが、新規導入のカッティングマシーンを使いこなせなかったという推理も浮かんでくるが、まったくの空想であるから、この辺りでとどめることにしよう。


しかし、プーランクの協奏曲は1962年録音にもかかわらず、1968年録音のブラームスを、はるかに凌駕した優秀音質であるのはどういうわけなのか、実に不思議なことである。

カッティング以前の工程、すなわち録音→ミキシング・マスターテープ作成(マスターリング)→カッティング→金型作成(ラッカー版)→プレスという工程の、音質決定の大きな決め手にもなるといわれるテープからヴィニールレコードを作成するカッティングの瑕疵なのか、録音時の問題なのか、それとも原盤作成時か、それともその後の工程のいずれかよくわからないが、アナログディスク作成には、小生のような素人などにはわからないものがあるのだろう。

たとえば、発売当初の国内盤のアナログディスク、ロストロポーヴィッチ/ジュリーニ、ロンドンフィルのドヴォコン1977録音、演奏はすごく気に入っているのだが、最強音で音が団子状態になり明らかに歪んでいる。
カートリッジを替えてみたり、スピーカーを切り替えて聴いてみたが、結果は同じで音盤に瑕疵があるという結論になった。

問題はこのような状態の音盤にもかかわらず、平気で市場に出してしまうという消費者をなめきった態度だ。

再生装置の問題かもしれないと、知人の装置でも試したが、同じ箇所で聴いていられない音の歪みが発生しし、それまではゆったりとしてよく歌う演奏に身を委ねることができたのに、その箇所に差し掛かるととたんにそれまでの気分が興ざめしてしまう。
ブログの知人HABABIさんも、同じ音盤の同じところで、「針が飛ぶような歪みが出る」「カッティングの問題ではないか」といっておらるので、やはり間違いないことであろう。

発売前の視聴で、製作者側がこのことに気がつかない訳はないと思うが、それでも発売してしまう神経の鈍さと、音盤製作のプライドのなさ、そんなものを感じざるを得なかった醜い音盤であった。

しかし最近のリマスター盤CDでは、演奏録音ともに高い評価レヴューとなっていることが多かったから、改善されたと思うが、小生が入手した最初期アナログディスクでは、歪むことを知っていながら直そうとせずに、そのまま市場に出したことは、小生に言わせれば一種の犯罪行為に近い。

営業サイドなどほかセクションとの変なバランス感覚が働いて、製作者側が妥協してしまうことは、ないでもないとは思うが、企業体質なのか個人のあるいは製作グループの資質なのか、やってはいけないことを見てしまったようで、非常に後味が悪い。

「個人」の依存度が高いのは、良い面と良くない面があるが、この音盤担当総合プロデューサーは、品質よりも、納期や営業上の利益を優先してしまったように推測される。
一昔前であれば、エンジニアのプライドが許さなかったことが、組織の論理優先の結果、こういうことが平気でまかり通ってしまうようになったとすれば、エンジニアの耳の劣化のせいだけでは解決できないものが存在する予感がし、とても厄介な時代になってしまったように思われる。

先ほどEMIエンジェル盤で、ムーティ/リヒテル、フィルハーモニア管のベートーヴェンの3番の協奏曲を聴いてみたが、こちらはたいそう音質が良かった、1979年録音であったが、こういう良い音盤も存在しているからEMIの音盤品質の劣化原因究明のための状況把握は困難を極める。

購入する際に、「賭け」の要素があまりにも強いと、消費者は遠のいてゆくことなどは十分承知だと思うが、小生が知るEMIの総合印象では、音盤品質の良し悪しのばらつきが大きいことは、否定できない事実だと思う。

よくないものを、なんとかより良いものにしていこうとする視聴者側の行為の幅は、非常に狭められてしまうが、それでも何とかしたいと思う気持ちは、演奏が良い音盤ほど強いものがある。(今ちょうど件のdヴォコンを聞いて2楽章に入ったところだが、問題だった1楽章第2主題を奏でる、チェロのグリッサンド直後のツッティ
時の、歪みによる音の混濁は、わずかだが以前よりも抑えられていて、ずいぶん聴きやすくなった)

再生装置を追い込んで、より良い状態にしたことによって、過去あまり評価できなかった音盤でも、もう一度見直すことで新しいものが発見できることを体験したのは、大きな収穫で、聴かなくなってしまった音盤から、見直しの1枚を発見することは、復活、再生、生き返りに貢献するようで、いいことをしたという気分になれ精神的にも良いことだ。

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by noanoa1970 | 2011-09-23 10:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

エージングの間の、隠れ名演2つ

復活したフィリップスCD950を、5年間の休眠から呼び戻すためにエージング中。
音楽流しっぱなしで、50時間以上すでに経過した。
外出時はリピート、睡眠時もヴォリュームを絞って、子守唄代わりにと、かけっぱなしにした。

その効果があったのか、固まりだったの音が、粒立ちの良い音に変わってきて、満足度のより高い音になってきた。
低音部がよりハッキリしてきて、オーケストラでは、配置はもちろん構成人数まで把握できそうな気配が漂うようになって来た。

ようやく長い眠りから醒めつつあるようだ。

装置との相性がが良くなくて、ほとんど聴かずじまいだった音盤も、躊躇なく手が伸びるようになったのも、非常に喜ぶべきことだ。

あまりCDばかりでは、アナログがかわいそうなので、平行してLPレコードも聞くことにした。
もちろんその間も、CDは動かしながらである。

そんな中、ピックアップしたのは、今までの装置では相性が良くないのか、満足できる音が聞こえてこなくて、それで聴くのをやめてしまってから10年以上たつ、オデッセイレーベルの古い録音。

そしてもう1枚は、昔友人が送ってよこした「不滅の交響曲」というBOXレコードの中にあった、マルケヴィッチのベト9である。

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ハンス・ロスバウト指揮アムステルダム・コンセウトヘボウ管弦楽団、ピアノ:ロベール・カサドシュ。
ベートーヴェンピアノ協奏曲5番「皇帝」 録音:1961年2月
ロスバウトといえば現代音楽、ザッハリヒ、冷徹といった言葉が浮かぶ指揮者であるが、伴奏指揮を執るときは例外のようだ。

以前のベト1協奏曲のブラインドテスト時もそうだったが、小生の思い描いていたイメージとかなり異なる指揮ぶりで、速めのインテンポではあるが、ところどころほんの少しだが、遊び心があるように思えたから、まさかロスバウトとは、思いもつかなかったのだった。

今回はピアニストがギーゼキングからカサドシュに変わっているが、この2人、書よく似たところがあるように小生は思っている。
どちらもザッハリヒな演奏スタイルだが、ピアノのトーンはカサドシュが明るく、洒落た感じがある。

ギーゼキングにはラヴェルが、カサドシュにはフォーレが似合っている・・・そのような資質と表現するとわかりやすいかもしれない。

カサドシュといえば、学生時代ベーム/VPO、バックハウスとのモーツァルト27番と、ジョージセル/クリーヴランド管、カサドシュの演奏、どちらが良いかで論争になったことがあった。

ほぼ同時にこの2つの演奏の音盤が発売されたこともあって、27番を購入するなら2つのうちのどちらかになっていたようだった。

小生はカサドシュ派で、コロコロと転げ回り、ウィットにあふれるようなピアニズムが、少々重たいバックハウスに比べると、モーツァルトには似合っていると思ったからであったし、26番とのカップリングであったことも要因であった。

20番もそうだったが27番に暗い影のようなものを強く求める人は、断然バックハウス盤を信奉した。

こんなザッハリヒ同士がタッグを組んだ「皇帝」だが、これが以外にオーソドックスで、近代合理主義の権化のような演奏家コンビでも、ベートーヴェンを前には独自解釈などすることは、ためらわれたのだろう。

ロスバウトらしさは失われているようだが「協奏曲」であるから、自己表現を極力抑えてまでも、シナジー効果をあげ、双方が高みに上るために、己を排除し、信頼の元にお互いの音楽を知り尽くしたところからもたらされる、双方の音楽的エネルギーを重ねた結果、ハイグレードの音楽となった。

これはCD化が遅れたためか、ファンが多くないのか、聴く機会に恵まれなかったからか、ほとんど取り上げられることがなかったと思うが、なかなか鋭い演奏で小生のお気に入り、隠れ名盤炉して良いだろう。

オケがアムステルダム・コンセルトヘボウというのも文句なしであるし、録音年相当以上で音質も悪くはない。
ステレオ感がやや乏しく擬似ステのようなところがあるが、ピアノは鮮明である。


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(味も素っ気もなく、何の変哲もないBOX盤のジャケット表紙だから裏面の写真にした)
イーゴル・マルケヴィッチ指揮コンセールラムルー管弦楽団、カールスーエ・オラトリオ合唱団、合唱指揮エーリッヒ・ヴェルナー
S)ヒルデ.ギューデン A)アーフェ・ヘイニス、T)フリッツ・ウール、Bs)ハインツ・レーフュス
ベートーヴェン交響曲9番「合唱」 録音:1961年1月

この音盤は、ずいぶん昔のもらい物で、日本ヴィクターが家庭用に発売した「決定盤不滅の交響曲」と題された、6つの有名曲が収録されているもの。
もらってから暫くは、棚の上においたままになっていたから、この6枚のBOXの中身を確認したことがなく、もちろん針を落としたことなどなかったが、あるとき棚のレコード類を片付けていたとき、初めて中身を確認したところ、マルケヴィッチ演奏の音盤があるのを発見した。
今まで聞いてきたマルケヴィッチの中で、チャイコフスキーの「中期までの交響曲」、ストラヴィンスキー「兵士の物語」、グノーの「聖チェティーリア荘厳ミサ」これらは特に気に入った演奏だった。

ロンドンSOとの「シェエラザード」は、小生が全曲初めて聴いた音盤で、もうずいぶん長い間廃盤状態にあるもの、現在復刻されたか確認してないが、されてないのであれば、早く復刻していただきたい。

発見したベト9、小生が指揮者の資質を探るのに、昔から一番良く聴くのがベト9だが、ロスバウトにも共通項が多い、ザッハリヒの典型マルケヴィッチが、ベト9をいかに料理したのか、大いなる興味をそそられたのだった。

聴いてすぐにわかることだが、この人の使用している楽譜が、一般に使われるものとは違う点があることだ。
楽譜が違うといったが、楽譜を見たわけではないから、多分違うに訂正したほうが良いと思うが、とにかく曲想が変わる最後の場面にそのことが顕著に出てきて、全楽章ともに音の追加変更箇所があることを発見できるが、単にオクターブ上げとか音を重ねるというものではなく、明らかに音型を追加変更したものがあることに着目。

耳だけの印象だが、ベーレンライター版ではなく、もちろんブライトコップフ版ではない。
ほんの少しの変更だとは言え、流石に変更して効果が上がるポイントを抑えたかのように、長年ブライトコップフ、そして最近流行のベ-レンライターに慣れた耳には、奇異にそして新鮮に聞こえる。

「マルケヴィッチ版」というものが存在するらしいが、その主な特徴と比較した結果、自身の演奏で果たして採用したのかは怪しいように思う。
したがってマルケヴィッチ演奏の第9での着眼点は、ほかのところにありそうだ。

大きな特徴は、まず普段とは違う音が聞こえることにあるが、この事がマルケヴィッチ版によってかどうかは、多分そうではないように小生は思うがどうだろう。

着眼点は、版云々でなく、実はほかのところに存在する。

和声・・特に普段は聞こえにくい裏の音まではっきりと出すこと、終始インテンポで通すが決して「淡々とした」でなく、強烈なティンパニの打撃がポイントポイントでオケを引き締めるから、ある種の区切り、新しい次音楽の始まりのような感じが出て来易い。

そしてマルケヴィッチの、「ベートーヴェン第9の真髄は対位法にあり」、といった考え方が強いように感じられる。

どなたかの著述が原因か、いかにも通ぶって、第9終楽章を付け足しの楽章だから、なくてよいとする傾向が、一部のクラシックファンに根強いようだが、ベートーヴェンにとっての「対位法」「フーガ」が、いかに重要な意味を持っているかを無視した暴言のように小生は思っている。

色彩感を強く出すことで定評がある仏オケ、それもラムルー管という非超一流オケを、中低音が充実し、重心の座った高みに上げたことは、マルケヴィッチであるがゆえに、訓練をめぐって相当厳しいものがあったことを推測させ、団員とのアイダに相当の確執があったと思われるが、演奏はそのようなことは微塵も感じられず、仏色を排除しつくして、ラムルー管が独墺のオケに変貌したかのように思うほどであった。

独唱陣は、テナーが頑張りきれてないように思ったが、ほかはかなり良い出来ではないだろうか。
合唱陣も思いのほか良い出来だ。

ロスバウト/カサドシュ盤は、お互いの音楽観を認め合ったところからの、シナジー効果が良く発揮できた、良い演奏である。

マルyケヴィッチのベト9は、ベートーヴェンの「対位法」が、いかに意味性を持つかを、余すところなく表出した演奏で、第9の新しくも根源的な解釈だと思う。
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by noanoa1970 | 2011-09-22 22:36 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

壊れたCDプレーヤーの話

今から約15年ほど前のこと。
愛用してきた117V仕様のメリディアン207Ⅱを、そのころ流行った電源クリーンと昇圧を兼ねる機械を使って100→120Vに増圧して使用していたが、ある日のこと、この電源装置が壊れたせいで、207Ⅱを100Vで使用すると、コントロールができなくなってしまった。

再度電圧を上げる機械を購入しようかと思ったが、これだけで相当の出費だし、使用しだして20年近くなる間に、デジタル技術は極端に進歩しているから、新しい機種を調達したほうが良いと思ったが、メリディアンのアナログ的な音質が魅力的だったから、どうするかしばらく躊躇していた。

何か掘り出し物はないかと、オーディオ専門店街を物色していると、昔から知っている中古専門店に、新品の箱が5.6個並んでいて、よく見ると、フィリップスCD950とあり、それがCDプレーヤーであると知った。

価格は65000定価→35000、安売りの理由はわからなかったが、このぐらいの値段のCDプレーヤーなら、電源装置を購入するよりもかなり安上がりだし、もしダメでも繋ぎに使用できればよいからと思って購入することにした。

今思えば、CD951という新製品が出たから、950は旧製品となってしまい、在庫処分品として中古屋が格安で仕入れて、売りさばこうとしたと考えられるが、950と951はほとんど変更箇所がなく価格も同じであるから、欲しい人にはものすごくお買い得であったように思う。

視聴して驚いたが、35000円のCDプレーヤーとは到底思えない音がしたので十分追い込んで使用すれば、メリディアンに劣らない音がするのではと、期待感を持って本格設置した。

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しらべると、このプレーヤー、安価にもかかわらず、フィリップスの高級機LHHシリーズと同じメカで作られてれていることが判明した。
使用されている、スイングアームCDM-9、ビットストリーム方式1ビットDACのDAC-7は、国産プレーヤーの高級機が採用しつつあったもので、アナログ的音質のよさで評判のメカであった。

定価65000という安価なものにまで、こうしたメカを採用できるのも、メカそのものを製造しているからであろう。

1992年発売ベルギーで作られたCDプレーヤーであるが、1994年には951へ変更されていているから、わずか数年の寿命でしかなかったようだ。

小生が購入したのが1995年か6年ごろだったから、既に950は生産中止になっていて、だから投売りされていたのだろう。

そんな事情はまったく知ることなく、ただ安かったから、ダメモトで、暫く繋ぎに使えればよいというつもりで購入したのだった。

価格からは想像できない音質のよさに大満足して、それから役5年余り使用したが、あるときclose/open
ボタンを押してもトレイはうんともすんとも言わなくなり、CDの入れ替えができなくなってしまった。

トレイ開閉のモーターは回っているようだから、たいしたことはないのではと思いつつ、無理やり引っ張り出して、ギヤやベルト他のなにかが破損するのもいやだと思い、修理の機会を探るべく、暫く冬眠状態にすることに決め、SACD、DVDオーディオの音に興味が出始めたこともあって、パイオニアのマルチディスクプレーヤーを購入することにした。(950は機種はギヤを使用している)

CD単体プレーヤーに比べれば、音質低下は仕方がないと思ったが、SACDとDVDオーディオの音を想像し、そしてレーザーディクスプレーヤーにDVDプレーヤーを追加したかったので、音質劣化は承知で踏み切った。

しかしマルチディスクプレーヤーにもかかわらず、以外にも音質はかなり良いもので、デジタルオーディオの進歩葉、相乗異常に激しく、プリとの間にデジタル雑音除去を目的として、トランスを入れ込むことで、単体プレーヤーと遜色ない音質になった。

今も使い続けているが、不満はこれといってない、しいて言えばピュアオーディオからは遠くなったという、精神的な弱みがあって、ピュアオーディオだったら、さらに良い音がするのではないかという気持ちが、どこかに存在しているのは事実だ。

でももう10年以上使っているが、どうしても機械を変えなくてはならないという欲求を、起こすことがなかったということは、ほぼ満足であるとして良いと思う。

一昨日のことだった、棚のレコードの位置を入れ替えるため、壊れて使えなくなったフィリップスのCD950をいったん床に下ろそうとして持ち上げたとき、前面が傾いて下のほうを向いたせいで、音も立てずに、なにかがスルット滑り落ちできた。

なんとそれはCDの挿入口、トレイと呼ばれているものではないか。
壊れたと思い、手で開けるのを躊躇したのに、こんなことでほとんどスムーズに滑り出すとは。

音は出るのかどうか、それを確認するために、取り回しが楽なSTAXのシステムに接続し、ヘッドフォンで聴いて確認してみようと思い立った。

つかみ所がないので多少てまどったが、割と簡単にトレイが手動で開いた。
CDを挿入し今度は手動でトレイを閉めた。

ERROR表示が出たので、ダメかと思ったが、トレイを手動で閉めた後、CLOSEボタンを押すと、READING表示に変わり、やがて時計表示になったので、あわててヘッドフォンを装着し、アンプのヴォリュームを上げると、音はきちんと出ているではないか。

CDレンズクリナーを数回まわして掃除してから、視聴に入った。

多少操作に手間がかかるが、LPに比べればどうと言うとはないから、嬉しさがこみ上げる中、次々とソースを変えて、まったく問題ないことを確認した。

調整が終わって、ほぼ満足できるようになった現装置に繋いだら、どんな音が聞こえるか、大いなる興味を持って先ほど接続を終え、10年間電源を入れてなかったプレーヤーを、慣らすために、現在「ワルキューレ3幕」を流している。

まだまだ長時間のエージングが必要だと思うが、今でも音質はすこぶる良い。
マッシブになってきたことや、中低域が充実したこと、トラック終了のフェードアウトする時のリアリルさがよく出ていて、余韻が楽しめるようになった。
濁りがちだった「TRIO」での、ドリー、リンダ、エミルーが重なる声の濁りがより少なくなった。
音の定位が、今までで一番良くなった。
デジタル臭さがほとんどないのが確認できた。
16BitDAC、CDM-4採用のメリディアンとよく似た雰囲気の、アナログ的な音質であることが改めて確認できた。

CDプレーヤーの最新機種と比べると、設計が古いだけに性能面では太刀打ちできないとは思うが、CPを考えればものすごいものがある。

ブラインドで聴けば、僅か35000円のプレーヤーとは誰も思わないであろう。
オーディオの面白みはこういうころにもある。

先ほどネットでCD950情報を取得して見たが、評判は概して良いようで、中古でも人気があるようだった。
デザインや操作ボタンなど難点もあるにはあるが、音質に限ると評価はかなり高い。

ただ小生と同じトラブル、トレイの開閉ができなくなったというものが相当数あって、950の欠陥的問題がそこにあって、したがって951というう製品を急遽出したのではないかと推測してしまったが、発売開始して2年しか経たないのに時期製品を出すことを考えると、そしてトレイの開閉のトラブルが多いこと、性能の変化はほとんどなく価格も同じであることを考え合わせると、当たっているかもしれない。

それで、音が出ること、トレイの開閉は手動で可能なこと、音質はとてもよく金日いるレベルで鳴ってくれて、さらに追い込めばメイン装置として十分通用しそうなことなどを考え合わせ、手動式CDプレーヤーとして使っていくことに決めた。

リモコンが使えなくなったが、小生はもともとリモコンをほとんど使用しないから、どうでも良いことだ。
機械のボタンですべてのことが可能であることも幸いした。

壊れて使えなくなったと思っていたものが、チョットしたハプニングが元で復活した。
こういうことに出くわすと実に嬉しいものである。

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by noanoa1970 | 2011-09-20 15:56 | オーディオ | Comments(9)

演奏は良いけど録音が・・・・

小生の場合、そういう音盤の典型が、ミンシュ/パリ管のブラームスの交響曲1番である。

すでに何回も書いてきたように、この演奏録音は、1967年の年末深夜に、FMから聞こえてきたように記憶していた。

時節柄が手伝ったのか、たまたま帰省した年末の深夜に聞こえてきたからか、そのときの感動は、今ではかなり薄れてきたものの、これが本物のブラ1であることを認識するのに、十分過ぎる演奏だったことは、記憶の中に今もリアルにある。

音盤録音年月日を確認してみたところ、1968年1月8日、12日となっているから、情報が正しいとするなら、小生の記憶が間違いで、聴いたのが1967年師走はありえない、少なくとも、1968年1月以降だということになる。

番組では、レコード会社から提供された発売前の音盤を紹介することがよくあったが、そうだったとしても、録音そのものが、1967年ではなく、1968年1月12日だとすれば、それ以降の早い時期、除夜の鐘の前後に聴いた記憶があるので、1968年年末か1969年正月のいずれかということになる。

いかにインパクトある出来事であったとしても、40年以上前のこと、きっと「除夜の鐘」の記憶と重なったことが、誤った記憶を喚起したのだろう。

今は手元にないが、最初にに入手したのは国内盤LPで、ジャケットは現在発売されているものと同じ、オケ全体が映った写真であった。

クリュイタンス/音楽院管時代から名が通っていた、フルートの「ミシェル・デボスト」が映っているのを、サークルの仲間に見せた記憶がある。

しかしこの音盤、そのころの装置でも、社会人になって、装置をグレードアップしてからも、決して聴き心地の良い音では鳴ってくれなかった。

音に角が立っていて、ほとんどが荒く響き、とても1960年代後半の録音とは思えなく、もう少しまともな録音だったら、ブラ1演奏のダントツの演奏になり得た、そう思いつつ聴くたびに、EMIの録音技術を恨みに思ったものだった。

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国産の音盤だから良くないのか、そう考えて入手したオリジナルの仏盤も、最初期CDも入手して聞いてみたが、いずれも満足の得られる音質ではなかった。

それでも、ゆったりとしたテンポだが、音楽は決して弛緩ぜず、緊張感がいたるところに漂いながら、鮮烈極まりないティンパニーが、各所で重要なアクセントをつけるといった、ダイナミズムあふれるミュンシュの演奏の素晴らしさは、録音云々を超えるものがあった。

4楽章のコラールにいたっては、「神々しさ」を感じさせるから、背筋がぞくぞくし、この演奏を嫌いに思う人は数少ないのではと推測できる演奏だった。
事実この音盤を気に入った人は数多く、ブラ1演奏では常にトップランクの位置を占めていて、多分現在も変化はないのではないかと思う。

オケの技術でいえば、4楽章ホルンのソロパート、(ミレドソーレーミド)実は息継ぎが困難なため1番ミーレドソーを引き継いで2番ホルンがレーミドーと奏するが、まるで1本のホルンのように聞こえるのも、デヴォストのフルートも、コンマスのソロも、個々の技術水準が高く、音楽的にも素晴らしかった、音楽院管のよさが失われてなかったことに、感動と安堵を覚えた。

しかし返す返すも残念なのは、録音の良くないこと。
リマスターリングされ、前よりは数段良くなったという情報がないので、最近再発売されたものは聞いたことがないが、もし改善具合がよければ、改めて入手したいものである。

演奏は素晴らしいが劣悪録音の典型の音盤、しかし音質的には満足度の低かった音盤でも、新たな環境の下では聞こえ方が違うことがあることは、既に何度も経験したこと。
それで、再生が難しく聴かなくなってから5年以上はたっている、ミュンシュ/パリ管のLPを探し出してきて、ダメモトだろうけどもう一度確認してみようと思い立った。

LPには、プロデューサー、録音エンジニアの名前が記載されていないが、CDでは記載されていて、それぞれ、オリジナル・レコーディング・プロデューサ:ルネ・シャルラン René Challan、オリジナル・レコーディング・エンジニア:ポール・ヴァヴァッスール Paul Vavasseurと表記がある。

この二人の製作として、ほかにもおそらくはパリ管最初の録音の、ミュンシュ/パリ管の「幻想交響曲」1967年録音があるし、「レーネ・シャラン」は、マルティノンのサン=サーンス交響曲全集のプロデューサーでもあることがわかった。

ようするにEMI専属の技術者だということになるが、メディアで聴く彼らが携わったブラ1の音質は、実に情けない。
オリジナルマスターは良かったが、後の工程の何かが悪さをして、あのような醜い音質になってしまったことも考えられ、もしそうだとすれば、いずれもう少しましな音質のものが出現する可能性もあろう。

最近のオイロディスク・ヴィンテージコレクショオンのいくつかのように、オリジナルマスターでの復刻が望まれる。

録音に携わったこの二人、小生が聞いたあのような劣悪な音質のレコードなりCDが、世の中に出たことに、何の違和感も持ってなかったのか、それも不思議なことだ。

1968年の録音水準からは程遠い音質結果となったLP、CDをそのまま市場に出したEMIには、プライドがなかったのかと疑いたくなってしまう。

一方で、「いや、本来の音が出きってないからである」といった、再生側に問題があるのかもしれないという考えも、少ないながら沸いてくる。

先ほども言ったが、良くないと思っていた録音のLP、CDでも、新たな環境で聞くと、かつてそう思ったほど悪くないと思えることは確かにある。

音響装置とソースのマッチングの問題は、ないとは言い切れなく、そのことがおきる要因は、装置の調整に尽きるのだと小生は思っている。
特定のソースの再現性に問題があるということは、逆説的に、装置そのものは悪くないということになるから、諸悪の根源は「調整」にあるということだ。

時間をかけて調整した結果、満足緯度がより高くなった現装置での視聴ではどうであったか。

いずれもごくごく小さな差異であるのだが・・・・
全体の音の角がほんの少し取れ、以前よりも少し丸くなったから聴きやすくなった。
音の角が邪魔した性なのか、聞き取りにくかった和声、特に裏の音が、以前より聞き取れるようになった。
以前は耐え切れなくなって全部通しては、とても聞けなかったが、まだまだ1968年の水準ではないにしろ、今回は新しい発見が随所にあって、途中でやめようとは思わなかった。
今までぼやけ気味で、芯がないように聞こえた低音部、特にコントラバスの音が、その位置と人数をおおよそ推測できるように変化した。
残念ながら、ティンパニーの音が右奥から聞こえてくるから、中央位置のジャケット写真と実際が同じとすれば、何かがおかしいということになるが志向性のない低音だから、致し方ないのかもしれない。

以前は全体に、性質の良くない霧がかかったような音質、したがって鮮烈さは、ティンパニーに、ミュンシュのダイナミズムあふれた指揮ぶりに、その依存度が高かったが、今回はオールオケ、特には弦の響きが少しだけだが、まともになったことで、聞くに堪えられない音盤から、なんとか聞くことができる音盤へと、マイナーチェンジではあるが、少しだけの変貌が見られたことが収穫であった。

しかし、まだまだこの音盤で聴く音質は、とても1968年の録音とは思えないものであることに変更はない。

音楽院管から変身し、新規の仏オケとして再出発する門出として、1967年末ミュンシュの「幻想交響曲」そして続いて1968年初めの「ブラームス1番」は、記念碑的録音でもあったのか、珍しくオケのメンバーを記載していたから、UPしておくことにした。

ミュンシュのアシスタント指揮者が、「セルジュ・ボド」であることがわかったし、コンマスが「ルーベン・ヨルダノフ」であったこともわかる。

昔ではほとんど必要がなかった情報も、今では要求されるということを知っていただきたいのと、オーケストラに光を当てた情報が求められていることも知っていただきたいものである。

さらに何より、素晴らしいブラ1演奏の1つであるミュンシュ/パリ管、オリジナルマスターからの復刻を願いたいものである。
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by noanoa1970 | 2011-09-19 02:20 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

マーラー「巨人」のフラジオレットその後の後

2006年2月16日ののブログ「フラジオレットその後」で、ようやくフラジオレットの音色が聞き分けられるようになったと書いたが、今日はそのフラジオレットが、オーディオ的により聞き分けられるか、メインSP装置を変更し、調整がうまくいった現システムで再度聞いてみることにした。

ソースはいろいろ考えられるが、ここはやはりアナログディスクでと、CD・LPあわせると、多くの人が所有していると思われるマーラーの「巨人」を、ワルター/コロムビア交響楽団の演奏で落ち着いた。

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小生が所有しているのは、輸入盤の廉価盤、「odyssey」レーベルのものだ。
このレーベルは、米コロムビアが出した少し古い録音を、再発していて、オーマンディの「英雄の生涯」、セルのドビュッシー「海」、カサドジュ/ロスバウトの「皇帝」など、小生が所有するものの中にも名演があり、このシリーズには名録音もかなり存在する。

以前にじっくり聞いたのは2006年、今回はそれから5年たってのことだが、こちら側の大きな変化は、スピーカーをQUADからYAMAHAへ、フォノカートリッジをオルトフォンからDENONに変更し調整したことだ。

そして、カートリッジをDENONに変更したので、プリアンプをアキュフェーズC-220プラスFRのトランスから、YAMAHAC2aのMCポジションに変更した。
つまりカートリッジの増幅を、トランスからヘッドアンプにしたということになる。

どれが音の変化に起因したというより、これらのシナジーで、以前にも増して素晴らしい音になったと思う。
自画自賛のようだが、うまく鳴らすのがなかなか難しいかったYAMAHA、NS-1000が、かつては到底考えられないほどの、美音を聞かせてくれるようになったということを、いいたいだけであると思っていただければ幸いである。

特にクラシックのレコーディッド音楽の再現性を判断するときに、ピアノ、弦、管楽器、ヴォーカル、それらの総合、定位、左右の広がり感、奥行き感、人によっては生で聞く時のような音の再現性、がどのように出ているかをチェックすることが多く、それも必要なこととは思うが、今回は少し毛色の違う観点からのチェックを試みることにした。

それがマーラーの「巨人」を選択した理由で、なぜかといえば、それこそ、この曲1楽章冒頭からかなり長く奏される、弦楽器による「フラジオレット」奏法の音があるからだ。

これによって聞こえる音は、通常奏法の音より倍々の高い音になる。
簡単に言えば「倍音成分」の音といえる。

この倍音成分の音、しかも最初は弦楽器全体、順次ヴィオラ、バイオリンとパートごとに奏されるが、特に最初の音が弦楽器全体で奏されたことがわかるか、それ以降に続くバイオリン単独のフラジオレットとの違いが判別可能か、そのあたりは、装置、装置以外の環境も含め、そして録音そのものにとっても重要なポイントであると思われる。

「巨人」の冒頭最初の部分では、すべての弦パートがフラジオレットで弾いているから、高音の弦の音という聞こえ方をしがちだが、優れた音響装置では響き方が違うはず、そういう考えにたって、旧装置での音の印象と現装置での違いを確認してみようと思い立ったのだ。

旧装置でもフラジオレットの音は聴くことができたが、聞こえ方に違いは出たのかどうか、その1点に集中して聞いてみた。

旧装置での音は、過去の記憶でしかないから、印象に確証はないが、それでもその時の音の印象は、割と鮮明だから、多分大きく外れることは無いと思う。

まず驚いたことは、冒頭の「A」音・・・ピアノにて確認、のフラジオレットが、スピーカー全体から聞こえてくるから、バイオリン単独ではなく、弦楽器すべてで奏されていることがわかったことで、このことは旧装置では気がつかなかったことだ。

おそらく今度の装置では、レコードの出す種々の雑音が、かなり抑えられたことで、このことはフォノカートリッジとその周りの変更によるところが大きいだろうと推測される。

過去聞いてきたいずれのLPレコードも、ちょっと驚くぐらい、サーフェスノイズ、スクラッチノイズなどアナログディスクの最大の欠点が減少し、音楽自体の詳細情報が聞こえやすくなったことに、要因があるのではないだろうか。

このことによって、再現の範囲が狭まっ足り、おとなしくなってしまったという印象は、まったくないといってよいから、おそらくは旧装置での音の入り口周り、特にオルトフォンの特定周波数領域と、そのほかの音響環境のマッチングが良くなかったのだろう。
装置はあくまでも相互作用、高価なものが絶対良いのではないことの証拠である。

バイオリンのフラジオレットでは、音がモアレのように漣をうって聞こえてくる。
前に聞いたときは、レコードの物理的な揺れが原因かと思ったが、どうもそうでなく、フラジオレットが重なることで、音が波線のように波打っているのが聞こえるのだ。

そこにほかの弦が加わるから、その波打つような聞こええ方がさらにハッキリ(といってももともと極小の音だから、それなりであるが)聞こえてくる。

フラジオレットにの音に乗って、次いで、管楽器がベートーヴェンの4番交響曲の冒頭と同じ、下降する音型を奏でると、カオス的な雰囲気が心を打つのは、マーラーの意図した思う壺であるに違いない。

旧装置では、メロディが主役となりがちで、混沌とした雰囲気は、今ひとつであった。

この音盤の録音は1961年だそうで、50年代ですら、コロムビアはかなりの好録音を残しているが、60年代では、さらに技術革新の性か、録音環境が良くなったようで、録音状態は、年代を考慮しなくても十分素晴らしい。

小生は、60年代中ごろに初めて聞いたときは、雑な録音そして演奏であるように感じたが、それは実にとんでもない誤解で、昨今の優秀な装置で聞きなおすと、コロムビアの録音技術の高さにめて驚くとともに、そのころトリビア情報として「知ったかが」方々で言い放っていた流言蜚語 、コロムビア響は2.3流オケのトラを集めた三流の録音専用オケであるから、一連のワルターの演奏は、オケであるコロムビア響に欠陥が多いなどと言うものがあった。

小生がそのころ所有していたワルター/コロムビア響の音盤は、数少なかったし、家庭用ステレオといった良きうない環境でしか聞けなかったこともあって、そんな情報を雑誌で平気で言っている音楽評論家の口車に乗ってしまい、自分の耳より似非権威を優先してしまった時代があった。

しかし時を経て、聞くチャンスが多くなるにつれ、このオケを三流とする根拠がどうも薄く、超一流とは思わぬものの、かなりのアンサンブルテクニックを持っているのでは、と思うようになった。

アメリカのオケは、あまり名が通ってなくても、実力のあるオケが多いように思うが、資本力などで海外の演奏者たちを招聘し、直接間接的にオケの人的原動力としたことによるものだろうし、歴史と伝統のある西欧に対抗するため、追いつき追い越せで、音楽学校をたくさん設立したことにも要因があるのだろう。

とにかくコロムビア響が、悪くないオケであるということは、素直に多くの録音を聞けば理解できることである。

比較すべきもないが、かつて同時に聞いた「カルロス・パイタ」率いる「ナショナルフィル」は、フジオレットも少し危うげで、強いて言えばこういうオケを三流というのであって、コロムビア響は決してそうでない。

ともあれ、新装置での音は、以前に比べ、音盤に本来録音された音を、よりリアルに再現するから、以前の印象とは少し違う印象を受けることになる。

ベールを1枚はがしたような、という例えで理解していただけるだろうか。

すこし詳細に語れば以下のようになる。

音のしまりがより強くなったし、中低域にマッシヴさが増した。
高域の伸びがより出てきて、金管が強めに出るが、心地よい響きである。
ひずみが少なくなったせいか、ヴォリュームを数段上げて聞きたくなるし、そうしても決してうるさくならない。
奥行きはあまり感じないが、定位が前にも増してはっきりし、楽器の位置がよくわかる。

しかし先に書いたように大きな違いは、フラジオレットの表現力であろう。
そのことでこの音楽に更なるリアリティが生じる結果となり、引いてはワルター/コロムビア響の演奏に、大きな付加価値を与えることに繋がった。
これに奥行き感が伴えば、言うことはないのだが。

以上のことから
ワルター/コロムビア響の一連の演奏録音は、再評価に十分値する。
改めて50年代後期から60年代にかけての、米国の大手レコード製作会社の録音技術は、素晴らしいものが多く、今でも立派に通用するものが限りなくあり、イギリスのDECCA,オランダのフィリップスとともに優秀演奏優秀録音の宝庫であることを確認した。
昨今復刻CDが出回っているようだが、オリジナルに忠実なリマスターであることを願いたい。

小生は最近うすうす気がつき始めているのだが、ワルターという指揮者の資質には、過去から言われ続けているような「優しい」「人間性豊か」「おおらか」「人徳ある」「歌心ある」「柔和」などなどで、語ってこられた音楽姿勢とは違うなにかが、存在しているのではないかということだ。

そしてそういうワルターに対する風評は、当時聞こえてきた音盤と録音装置での、ぼやけ気味の音によって、もたらされた可能性があるのではないだろうか。

30年代のモーツァルトを聞いたときに、以外や以外、かなりザッハリヒな演奏をするのに驚いたことがあったが、うまくまだいえないが、ワルターの二面性をテーマにいずれ書く時が来るのではないかと思っている。

比較的録音のよいコロムビア響、NYKフィルとの演奏を中心に、積極的に聞いてみたいと思う欲求は、ここからも来ている。

昔入手した、第9、ザ・グレ-ト、ドヴォ8のリマスターは芳しくなかったが、極最近入手の「運命」「田園」のリマスターリングは、かなりリアルで、レコードに録音された音をよく反映していると思われる。

この「運命・田園」がカップリングされたCDのデータを見ると、プロデュースが「ジョン・マッキュアー」、エンジニアが「ウイリアム・ブリタン」。
1958年1月27.30日録音となっている。
SONYレコードSICC1068、DSDマスターリング処理されたCDだ。

DSD云々ではなく、小生の耳には、ジョン・マッキュアーがプロデュースしたCDが、ハイを押さえ気味、逆に言えばローをほんの少し強調しバランスを取ったマスターリングのように聞こえるが、オデッセイのLPの音に近く、LPが入手困難な今、オリジナル録音により近い音を味わう上で、このシリーズが一番適しているのではないかとと思われる。

SACDやハイスペックCDが、発売されているか否かは未確認だが、まずは「巨人」を集め比較視聴してみたい。
より詳細な情報と優れたリマスターリングによって、ワルターの指揮ぶり、そしてコロムビア響の実力のほどが、よりわかるはずだ。

その音盤に録音された音楽情報を、余すことなく引き出すことは、プロデューサ-や録音技術者を通して、視聴者が演奏録音に肉薄出来うる初めの一歩である。

このことがままならないと、誤った演奏評価や録音評価になりがちだ、ということを、知っておかなければならないだろう。

「良い音」とは、「音質」にとどまらず、音盤の音楽情報を、余すところなく引き出すことでもあるといってよく、このために音響装置を、そして、その装置の音を、満足度の高いものにするため、さらに磨いていくのである。

「良い録音」とは、そうやって切磋琢磨した装置で、音盤の持つ情報を可能な限り引き出し、それにプラスして、満足できる「音質」が得られたときの音盤の音だということだろう。
つまり、音楽情報量プラス情報の音楽的質が、より高度に内在された録音ということではないだろうか。

今回オデッセイのLPで、ワルターの「巨人」を改めて聞きなおしてみたが、冒頭のフラジオレットが、この曲において、如何に重要なポインjントであったかを、再認識できたのも、フラジオレット奏法の音が、よりリアルに繊細に響き聞こえてきたことによる。

フラジオレット効果・・・「してやったり」「思う壺」と、きっとマーラーはほくそ笑んでいるに違いない。
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by noanoa1970 | 2011-09-16 17:53 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ドラマ「砂の器」のちょっとマニアックな発見

録画しておいたTV番組「砂の器」前編を見た。
配役を違えてもう3回以上は、ドラマ化されているのではないかと思うが、現代に置き換えたり、スポットの強く当たる所が違ったりで、夫々面白かった。

今回の時代設定は原作に近いと思うが、事件が起きたのが昭和35年1960年というシテュエーションだ。
CG技術がより高度になったから、今やどの時代でもリアルな映像が作れるようで、製作者にはありがたいことであろう。

しかし表現や事象が当時のままでは、今では通じないこともあるから、リメイクの脚本は、かなりむずかしいであろう。

かつて市川崑さんが小津安二郎のリメークをやったことがあったが、無理やり現代に置き換えたため、失敗に終わったという印象をもったことがあった。

果たして今回のリメイク、成功しているだろうか、それ¥が興味の中心である。

和賀英良は映画版では現代音楽の作曲家でピアニストという設定で、コンサートでは自らの協奏曲を弾いていたが、今回はロマン主義的音楽の作曲家で、まだ未完成の交響曲の指揮者も兼ねて演じていた所が音楽関係での大きくちがうところだ。

未完成の交響曲を聞いたが、ラフマニノフのようなロマン性あふれる音楽であった。
時代を考えると、ほとんどありえないが、それは致し方ないし、「ロマン主義」を持ちだした真意があるのかもしれないとも思った。

推測だが、和賀英良の心の底にあるものと、ロマン主義は結びつくのかもしれないが、そのことは別の機会に譲る。

本来ならば、それら音楽関係で何か書こうと思っていたが、ある場面を見て、少々マニアックなことを発見したので、それについて書くことにした。

そのことに気がついたのは、(言葉も懐かしい名曲喫茶、60年代から70年代にはたくさんあったが、現在ではほとんど消えてしまった)「名曲喫茶」のシーンで、アナログプレーヤーのカートリッジが、大映しされたことだった。

さてこれから本題に移ることにしよう

本日の発見の源、その最初に映された画像がこれ
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これはトーンアームといって、レコードをフォノカートリッジがトレースする時必要なものだが、ここで使われているのは、SME社の3012あるいは3012SⅡという超有名なトーンアーム。
高級品だったので、マニア垂涎のもので、その頃使用出来たのは、お金持ちのマニアか音楽喫茶であった。
小生もようやく3009INPという一段下のグレードを入手したことがあった。

さらにマニアックな発見を助長したのがこれ
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これは小生も使用していて、今も現役の「シュアーV-15」という米国製のフォノカートリッジである。
このカートリッジはV-15が最初に発売になり続いてⅡ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴとヴァージョンが変わり(アップとあえて言わないのは旧製品のほうが良い音がしたから)時代と共に更新されていった。
小生のものは、V-15Ⅱ(タイプツー)で1971・2年頃に入手したもの。1ドル360円の時代だったから相当高額で、宝物のように扱ったことを思い出すが、事実、宝石箱のような入れ物に収納されていた。

1960年という時代設定から、使用されたのはV-15でないといけないが、しかし写真をよく見ると、アリがレコードに接している右側に、白文字で「Ⅲ」とあるのが読める。
V-15タイプ「Ⅲ」が発売されたのは、1970年代中期、本来なら「Ⅲ」の使用はあり得ない。
最初に発売となったV-15でなければならないが、これを現役で所有している人は殆どいない状態で、小生の所有するV-15Ⅱでさえ、所有している人は滅多になく、V-15Ⅲになって、多くの使用者が存在するのだ。
文句をいうわけではないが、ここまでマニアックさを醸しだしたのに、惜しいことであった。固定為替でなくなったから安価になったのが使用を拡げたのだった。

レコードプレーヤーのおよそ半分が明らかになってきたから、オーディオにも興味がある小生は、全貌を知りたいという欲が湧いてきて、ドラマの内容どころでなくなってきたが、そのことがわかるべく、ようやく映されたのが次の写真。
レコードプレーヤーは、オールインの物を使うのが当たり前であったが、マニアはそれぞれが独立したものを組み合わせて使用した。
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4枚の写真の下3つを見ると、ターンテーブルの胴の部分に何か模様があるように見える。
そう、このターンテーブルは、ガラードの401だ。それは胴の部分につけてある縞模様で、回転数の調製に使うものである。これがガラードの特長だった。
他にはトーレンス、レンコといった外国製のものが、マニアの間では使われた。
オーディオで海外製が絶対優位性を保っていた時代、それが60年代である。

そしてさらにこれらの喫茶店の内部の映像を見ているうちに、使用スピーカーはなにかが気になってきたのと同時に、その店、どこかで見た記憶があるから、どこか小生の知っている音楽喫茶を借りきって撮影したのではと思うようになってきた。

ドラマとほとんど同じような設えと雰囲気なのは、学生時代によく通った、京都のジャズ喫茶「YAMATOYA」。
この店の使用スピーカーは、2階にはJBLだが1階はイギリス製のヴァイタボックスCN-191コーナーホーンをつかっていた。
これも高級なスピーカーで、ウォルナット仕上の箱は独特の形をしており、長く使うと艶が出てきて、それこそ英国のアンティーク家具のようになる。
設置場所がコーナーに限定されるので万人には向かないが、環境が許せば、そして軍資金があれば(当時でも左右で360万ぐらいしたと思う)絶妙な音を響かせるから、小生も欲しくてたまらなかったスピーカーであった。

そこで、もし推定したとおり、京都の「YAMATOYA」をロケに使用したなら、きっと何処かでスピーカーも映ることだろう。そしてそれがヴァイタボックスCN-191コーナーホーンであるならば、小生の推察がほぼあたっているということになる。

そこのところに集中して見ていると、次のシーンの写真で推理の可否が分かることになったが、その前に、「YAMATOYA」ではないかと思ったのは、この写真であった。
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次の写真に推論の答がある。
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上の写真左、女性客が座っている後ろ、木製の変形の箱、これこそまさしく、ヴァイタボックスCN-191コーナーホーンそのものである。
ジャズ喫茶はJBLを使用する所が大半で、ヴァイタボックスは極少数でしか使用されてないから、多分推理はあたっていると思う。

しかし気になる所があるのは、レコードプレーヤーが映っているシーンの店は、すべてレンガ造りであったように見えたが、「YAMATOYA」はレンガが全てではなく、一部には壁紙が使用されていて、配置を変更してなければ、スピーカーがセットしてある入ってすぐの一番大きな場所の壁には、アンティークな壁紙が使われているのだ。

最近訪問したのは3年前、多分内装変更はしてないと思うが、した可能性もあるので断定はできないが。
使用されていたレコードプレーヤーは「YAMATOYA」と同じもの、しかしYAMATOYAには、もう1台同じものが実は有るのだ。2台が並んで設置してあったが、映像には写っていない。
配置を変えることが日常茶飯事だそうだから、撮影のために変更した可能性もある。

これらを総合すると、可能性は2つ。

最初の喫茶店は、「YAMATOYA」に非常に似たオールレンガ壁しつらえの別の店。
そしてべつのシーンで、ヴァイタボックススピーカーが有る「YAMATOYA」を使って撮影した。

あるいはやはり「YAMATOYA」であるが、レイアウトをいじるのと同時に、壁紙からレンガのようなものに似せたものを上からかぶせた、そういう可能性もなくはない。

小生は以下の写真から、「YAMATOYA」であると確信しているが、果たして真実はどうだったのか。
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上の写真一番奥の女性、小生が学生の時から、ずーっといつも店にいる「YMATOYA」の女主人ではないかと思われること。

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この写真左から2人目、小さく見えるのは、今ではあまり店には出なくなり、陶芸に凝っておられるご主人ではないか。以前橋本関雪記念館で古典を開いたおり、おしゃべりしたからうっすら覚えているが、遠目に写っているから、この映像では確かにそうだとは断定しづらいかったが、可能性は高いと思う。

ドラマ前編を見たが、ドラマの内容はすっかり飛んでしまい、上のようなことばかりを考えていた。
しかし、オーディオ関連で面白い発見もしたし、名曲喫茶のロケでジャズ喫茶が使われ、その店が京都のジャズ喫茶、「YAMATOYA」であると直感したことが、どうやら外れではない可能性があることを突き止めたという喜びを良しとしよう。

録画したから、ドラマはいつでも見ることができる。

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by noanoa1970 | 2011-09-13 01:17 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(13)