「ほっ」と。キャンペーン

今夜はこれで

新潟の先輩から枝豆を送っていただいた。
そのあくる日あたりから集中豪雨で、先輩が居住する市の一部に、避難勧告が出されたようだが先輩のところは大丈夫の様子で安心。

「湯あがり娘」という色っぽい名前の品種で、地元だけに新鮮だから、香りと甘みに富んでいて、ここらで入手できるものとは雲泥の差。

一方、NYに行っていた息子が免税店で土産に買ったウイスキーを持って帰ってきた。
会社に入ってから、はじめて2週間もの休みをとったそうで、そういえば、職種が職種だけに、夏休みは知る限りほとんど取れない状態であったから、リフレッシュしないといけないと、常々思っていたのだった。

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重いのに持ってきてくれたのは、小生が好むアイリッシュウイスキー「ジェイムソン」。
通常は安いがスッキリ辛口の10年ものを愛飲していて、香り高く甘い12年ものは、たまに飲むだけであったが、其の12年もので、しかもパッケージの背格好がいやに高いと思っていると、国内では見たことのない1000ml壜であった。

枝豆とウイスキーは、相性がどうかと思われるかも知れないが、アイリイッシュは、スモークの香りがついてないから、枝豆の味を損なうことは無い。


ジエイムソン12年は、ほんのり甘みがあり、枝豆との相性は、ウイスキーでは抜群。
ビーフジャーキーもお供にして、ソーダで割って「ウイスキーソーダ」で飲ることにした。
これで蒸し暑い季節、当分楽しめそうだ。

家にある最大のグラスに氷をタップリ入れたものでウイスキーソーダを作るが、氷は一旦洗って入るが、それでも少し匂いがつく。
今度は氷を何とかしなければ。
ソーダによってウイスキーの味と風味は極端に変化するが、あいにくペリエの買い置きがなかったから、ウイルキンソンで我慢。
ペリエで割ったときは、甘さが一際強めに出て、嫌な炭酸味がないから、ウイスキーが上物に変化したように感じられる。

ソーダの水が硬水か軟水かが味の原因だろうか。
それとも、もともとの水そのものの味がウイスキーによって拡大されて出るのだろうか。
まさか炭酸ガスに味が有るわけはないし・・・


最近ウイルキンソンは、ペットボトル入となってしまい、昔の瓶入りとは全く違うものになってしまったような感がある。国内ライセンス生産と思うが、炭酸臭さ・・・少し苦味が後を引くので、主張の弱いウイスキーとは相性が良くないだろう。
瓶入りを探がして飲んで見たい。

ちなみに、下品な名称、「ハイボール」とは、小生は一切言わないことにしてから40年がたつ。
サントリーには悪いが、ハイボール=トリス(トリスバー)安物、という感覚があるのかも知れない

by noanoa1970 | 2011-07-31 17:06 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)

思わず飛び起きてしまったケーゲルのベト8

アインザッツが鳴った瞬間、思わず飛び起きた。

それを聞くのが本来目的でなかったから、カップリングの「田園」を聴いた後、そのままにしておいたから、始まってしまったのだ。

聴く気がないから横着して寝転んだ時のこと。
今まで聴いたことがない冒頭の音・・・第1主題がとてつもなく鋭い音で鳴り響いたから、体が反応して、飛び上がってしまったというわけだ。

これまで聴いてきた多くのベト8が与えたイメージは、いわばリズム感あるモーツァルト、そしてベートーヴェンの交響曲の中では、かなり異質な存在であるかのようなものであった。

従ってベートーヴェン全集を購入しても、ようやく最後の方に聴くのが常で、なかには聽かないママのものまである。

小生にとって、最もベートーヴェンらしさがないのが、8番の交響曲であるという意識がその昔から存在していて、だれの演奏を聴いても、好きになれない曲であった。

そんなわけで、今まで一度も聴いてなかったヘルベルト・ケーゲルのベト8だが、これには本当に脅かされ、今だかつて一度も味わったことのない8番、(それはケーゲルの演奏に、理由があるからに他ならないのだが、)まるでベートーヴェンの新曲を聴いているような錯覚に襲われた。

そこにあるのは、モーツァルトではなく、紛れも無いベートーヴェンそのもの。

しからば、これまで聴いてきた演奏とケーゲルの違いはどこにあるのだろうか。
ケーゲルの演奏の何が、ベト8にこれだけの力を与えたのだろうか。

4番と6番を聴いたときにも書いた覚えがあるが、ケーゲルという指揮者は、9つの交響曲があって、その中の1つとしてだけ捉えているのでなく、9つがお互いに有機的な繋がりを持っていて、背景にあるベートーヴェン的思想はさておき、音楽的には「運命の動機」でくくることが出来るのではないかと小生は思うようになった。

いや、「運命の動機」とベートーヴェンの思想的背景は、密接に関わり合っていると推測はするものの、確証を得るまでには至ってない。

歯切れの良さがある、そうケーゲルの演奏を表す人も少なくないと思う。
そのハギレの良さは、ケーゲルのアクセントにあるのではないかと、小生は思っているのだが、ただでさえアクセント依存度が高い8番に、さらに強めのアクセントをつけることで、8番が異次元の世界へ導かれていく。

2楽章(小生は引用したカノンを秘曲集聴いた)メルツェルさん、御機嫌ようから引用し、メトロノーム発明者であることから、正確なリズムで優しく奏される事が多いのだが、ケーゲルはここでも強いアクセントをつけて、メトロノームから開放した演奏をした。
第1Vnが目立つ演奏が多いが、ケーゲルは第2Vnを第1Vnと同等に扱っていて、低弦の刻むリズムを強調しているから、終曲のグリッサンドの強烈さは、他のだれもやってない新鮮さを見せる。

3楽章は木管、特に金管を際立たせた演奏で、通常聞こえない音が、とび出すように聞こえてくる。
クラリネットの裏の音、対位法で書かれた部分の音と音色はすばらしいし、ファゴットにもいい仕事をさせているのが極めて死温泉である。

クレッシェンドの妙は4楽章にありで、管と弦の掛け合いのところでは、「運命の動機」のリズムパターンがハッキリとわかるし、バスーン、ファゴットと低弦のリズムに支えられ、ヴァイオリン群が上昇下降する様は清々しい気持ちにさせられた。

中間部、クレッシェンドしていき音量が上がったところで、それを受けて低弦が歌うところが随所にみられるが、音響的にも、情念の発露という意味でも、とても納得の行く表現である。

掛け合いも多くみられ、猫の目のようにリズムの変化点が多い終楽章を、ハイスピードだが、1音足りともおろそかにすることなく、全ての音が聞こえ響くようで、しかもケーゲル節と言っていいのか、ケーゲルが強調したいところ、そしてそレを演奏する楽器を際だたせるようにして印象度を強くする。

小生は「運命の動機」がリズムパターン化されたものを、終楽章に見ることとなったが、それはケーゲルのアクセントとクレッシェンドのなせるところからで、他の指揮者では全く気がつかなかったことであった。

8番が特に好きだという人は、そう多くはないと思うところだが、ケーゲルを聞けば、8番の良さがもう少しわかるのではないだろうか。

ケーゲルは、冷血、異常、奇怪、爆演という言葉で語られる風潮があるが、小生が聴いた限り、そういうところは一切無く、アクセントやクレッシェンドの強力な所が、そして「自殺」をしたことが、そんな風評を生んだのであろう。
東ドイツで一生を終え、西欧とのマージが無かったことで、彼についての正しく豊富な情報が得られなかったことにも原因があると思われる。

かつて小生はケーゲルを、楽譜を改ざんしているかのように書いたことがあった。
それは聴こえてくる音が、今まで聴いてきたものに比べ、あまりにも違う所が多かったからだが、そうでなく、ケーゲルは、オケの音響を、出来る限り全ての音が聴こえるような配慮をしたのだろうと今思っている。

自分のためのオケでなく観客のためのオケであるためには・・という問いかけをいつも持って望んでいたのではないか。

そして楽譜改ざんではなく、むしろその逆で、細かい音符も、丁寧すぎるほどトレースしているが、そこにくわえて自分の楽曲解釈結果を鋭く反映させるようにした結果、いつも聴こえてくる音響とは少し異なったものに聴こえるのである、決して奇を衒ったものでない、そう考えてよさそうである。

なぜならば、一風変わっている思われてるケーゲルの音楽だが、聴いたほとんど全てが素晴らしいからである。

by noanoa1970 | 2011-07-31 14:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(42)

想いを新たに聞くべき音楽が固まってきた

「ヤコブの梯子」ブログから発展に発展し、旧約聖書創世記から南北イスラエル分裂崩壊までとなり、その間100を超えるコメントをいただいた。

お忙しいなか、時間をたくさんとって、有益で刺激的なコメントを頂いた、HABABIさん、abendさん、こぶちゃんさん、には特に感謝の意を表さねばなりません。

アダムとイブ、カインとアベル、モーゼとアロンの解釈へと発展し、ここ最近では、ユダヤのバビロンj捕囚の話で相当刺激を受けたところであった。

そもそも旧約聖書の出来事が話題になったのは、このブログの特徴でもある、クラシック音楽からのもので、
音楽の素材となった、「逸話の背景を探ろう」という、ちょっとした試みであったが、音楽が追いつかない距離にまで発展してしまうことなった。

解釈を含めた逸話の奥深い背景を知った上で、それに関連する音楽を聴いた時の感慨は、それまで漫然と聞いていた時とは雲泥の差があり、特にオペラ、カンタータ、オラトリオなど、ストーリー性があるものでは、芸術家の逸話解釈も見えてくるようで、非常に有意義な時間を過ごすことができたから、これを機会に他にも旧約聖書の周辺に関係する楽曲があるはずと探してみることにした。

これをやってみようと思ったのは、abendさんから、ロッシーニのオペラ「ナブッコ」は、新バビロニアによって滅ぼされ、捕虜となってバビロニアに連行され、労働力となったユダ王国の為政者や民衆が登場するものと教えていただいたことが切っ掛であった。

そのような背景から、聖書周辺の題材にある音楽で、いずれ近いうちに聞こうと思うものを探し出し、アトランダムに書きだしておくことにした。

シェーンベルクの「ヤコブの梯子」「モーゼとアロン」は散々議論となり、解釈もできたので、改めて見聞きすれば新しいものが見えそうな氣配が濃厚である。

ロッシーニのオペラ「セミラーミデ」には、バビロン女王、アッシリア士官、土着宗教のバアル神の末裔が登場する。旧約聖書に、ヤハベ信仰とバアル信仰の対決が随所でみられるので興味深い。

追加
書き忘れてしまったので、追記しておく。
メンデルスゾーン カンタータ「最初のワルプルギスの夜」は、異教徒、ドルイド教徒をハイライトしたカンタータ。キリスト教文化に侵略され森に住んだとされる異教徒たちの代表的存在でもある。
ハルツ山にひきこもり、密かに宗教儀式を行いながら暮らしていたが、たびたび侵略するキリスト教徒に、目にものみせんと、悪魔に変装し追い払ったという物語。「最初の」とは、五月祭前夜の4月30日のこと。
ヨーロッパに広く伝わったこの話は、ケルト、北方ゲルマンの勢力を象徴するようだ。

ヴェルディのオペラ「ナブッコ」の由来は、原題『ナブコドノゾール』からで、南ユダ王国を滅ぼした新バビロニアの王、ネブカドネザル2世のことで、エルサレムとバビロンにまたがる話。
ヘブライ人たちが祖国への想いを歌うのが有名な合唱曲、第2のイタリア国家と言われる「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」である。
処刑寸前のヘブライ人の前にナブッコが登場し、バアル神の偶像破壊をしようとするが偶像は自分から崩壊し、ナブッコはヤハベの偉大さを知ることとなって、結局ヘブライ人を解放するというナブッコ礼賛の物語だ。
史実と照らし合わせ、オペラの作者の台本編集の技も見てみたい。ヴェルディの劇的表現も興味り。

ビバルディのオラトリオ「ユディットの勝利」は、アッシリアの大将であるホロフェルネスが、北イスラエル王国を支配下に置くためにやってくるが、それを危惧した女性ユディットは、酒宴の席に出向き、酔ったホロフェルネスの首を跳ねてしまう、その結果アッシリア軍は動揺し、イスラエル軍に撃破され敗退するという物語。「ユディット」は、数々の絵画になっている女傑。史実との違いがだいぶあるが、そのあたりを探ることで、ヴィヴァルディの思いが伝わりそうだ。

「ベルシャザルの饗宴」、これも新バビロニアによる南ユダ王国のバビロン捕囚の時の物語で、ウイキによれば、「バビロニア王ベルシャザールは、ユダヤ人の神器を用いて異教の神々を称え、ヤハウェを冒涜した。奇蹟が起きてベルシャザールは死に、バビロニアは崩壊し、ユダヤ人は自由を取り戻した。」とある。
異教・・おそらくダゴンかバアルを信奉したであろうベルシャザールにヤハベが鉄槌を食らわすという、ヤハベ礼賛物語。
ウォルトンのオラトリオが有名だが器楽曲ではシベリウスの組曲「ベルシャザールの饗宴」がある。
ヘンデルにもオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」がある。

ヘンデルには「サウル」「サムソン」「ヨセフとその兄弟」「ユダ・マカベウス」
「ヨシュア」「ソロモン」「ヨハネ受難曲」などと、旧約聖書の人物の作品が多い。

J.S. バッハ:コラール《来れ、異教徒の救い主よ》 BWV 659。異教徒とは何を指すか、救い主とはだれか検証後今一度聞いてみたい曲。

ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、異教徒の祭典を、刺激的なリズムによって描いたもので、何回も聴いて入るが、異教徒とは何かを確認して、もう一度聞くことにした。

ラヴェルの歌曲集ヘブライの歌は聞き流す程度にしか聞いてないため、歌詞を理解しながら聴きたい。

シェロモ(ヘブライ狂詩曲)はブロッホが作曲した「ソロモン像」から着想を得たとしたもの。ソロモンを知った上で聞くと感慨も新たになるに違いない。『イスラエル交響曲』も併せて聴いてみたい。

名前さえ知らなかったアレヴィの歌劇『ユダヤの女』。アレヴィの門人にグノー、ビゼー、ルコック、サン=サーンスと、そうそうたる人がいるとは、オペラ史を語るに外せない人であるといい、マイアベーアのオペラとは真逆のシリアス作品が多いという。時代は下がり、神聖ローマ帝国時代、背景はカトリック対反カトリックの宗教戦争である。かつてローエングリンを宗教戦争と捉えた小生には特別の興味がある。

プロコフィエフの「ヘブライの主題による序曲」は、単純にプロコの楽曲の造りを楽しむことにしたい。

リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」は、『新約聖書』の「福音書」にヘロディアの娘として登場する。洗礼者「ヨカナーン」の首を切り落とすがそれは母親にそそのかされてのこと。ヘロデは近親婚をシたとヨカナーンに非難されたが、後には彼を尊敬するようになる、しかし娘のサロメは首をとってしまう。母親嫌いのサロメが母親の言うことを聞くハズがないから、その複雑な心中を測るのに興味がある。オスカーワイルドの台本が元である。ちなみに先日録画を見たが、サロメが血だらけで、ヨカナーンの首を持ってうろうろするシーンに、思わずスイッチを切ってしまった。

サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」。ユダヤの英雄サムソンは、宿敵ペリシテ人をさんざんやっつけるのだが、デリラの色仕掛けで、自分の弱点が髪の毛であることを明かして捉えられるが、髪の毛が伸びて力を取り戻したサムソンは、再び活躍するという話。ペリシテ人が信奉する神が、バアル神でなく、ダゴン神となっているのに着目。
サン=サーンスの宗教心ある音楽にも注目して聴きたい。

ベッリーニ「ノルマ」には、ケルトの自然神、樫の木をトーテムとするドルイド教の巫女が登場し、異国の男との恋愛悲劇を扱ったもの。異教徒同士の恋愛ものがたりで、ノルマの歌うCasta Divaは美しい曲である。ケルトの国の宗教の巫女と、ケルトを支配下におくために登場するローマの将軍の許されなくただならぬ恋物語り。

メンデルスゾーンの「エリヤ」は何度も聴いているが、バアル神の神官とヤハベの代理エリヤが、生贄を前にして勝負し、ヤハベの神力が優ったので、エリヤがバアルの神官450人アシラの神官400人を惨殺してしまうところ。。エリヤが生きながら昇天する所が特に聞きものだ。メンデルスゾーンがこの場面をどのように曲にしたか今一度確認したい。

「聖パウロ」はメンデルスゾーンと同じように、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人である。
メンデルスゾーンはそのことを、終始気に病んでいたフシがあるように思うのだが、かつてはキリスト教徒を迫害さえシたが改宗によってキリスト教徒となったパウロは新約聖書の重要な位置を占める。メンデルスゾーンはパウロン自己投影をしたのだろうか、それとも改宗に批判的だったのか、そのあたりが探れるとありがたいのだが。ちなみに、メンデルスゾーンはユダヤの名前で生涯を通し、キリスト教徒名は一切使用しなかった。

未完の「キリスト」は、メンデルスゾーンの宗教三部作として、小生は其々が有機的な繋がりを持つと見ている。そしてキーワードは「改宗」ではなかろうか。未完だがぜひ聴きたいと思っている曲である。

上調べがつくもので、今まで熱心に聞いてこなかったもの、全く聞いてないものも含めて、ほとんど聖書周辺にある出来事から題材が取られていることが分かり、題材となった逸話のストーリーとその歴史的背景などの知識を持った上で音楽を聞けば、新しい感慨や新しい価値観に浸ることが出来るのではないだろうか。

カンタータ、オラトリオはわかるが、オペラの題材になったものがかなりあるのに、正直驚いている。
あらすじだけわかって聴いても、その時代背景がわからないと、単に恋愛もの・・特にイタリアオペラに多いように思うが、それだけのものとして見聞きしてしまったことが悔やまれるが、イタリアオペラに対する偏見が薄れそうな予感がする。ベルカントだけは、」どうしても好みに合わないが。

古今の作曲家は、オペラの題材としても積極的に使用した形跡が顕著だから、ユダヤ教・キリスト教と密接に生きていた(反・汎含め)のを実感した。恋愛劇だと思っていたものの奥には、壮大な歴史的背景が存在することを知って今後の接し方、理解の仕方が、相当変化するに違いない。
改めてもう一度見聞きすれば、必ず新たな価値が発見できるものと思う。

by noanoa1970 | 2011-07-29 18:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

人を惑わす郵便はどこからきたか

今朝ほど光回線を契約している某社から郵便が届いた。
中味を読んでみると、CTUファームウエアー更新の手続きについて書かれて有り、ユーザーが実施しなくてはならないということが書いてあった。

手順書が1枚付いていたので読んでみると、簡単そうだったので、これなら10分もあれば終わるであろうと、実施にかかった。

しかし、この手順書、覧てすぐ分かる人がいるのだろうかと思うほど、不親切にできている。

CTUの「再起動」が必要とのことで、その確認と手順についてが記載されているのだが、最初はハードのランプ点滅を確認せよとなっていて、続くその下にはは、CTUの縦型横型のハードの形が書いてあり、設定・変更・その他のボタンを押せとある。

小生は一連のユニットを、デスクの下に設置してあるから、机の下に潜り込んで、設定変更する必要がある。
そう思い、やおら痛い腰を我慢しながら、机の下に潜り込み、ハードをチェックしたが、説明書に書いてあるような設定ボタンなどどこにもない。

何回も見なおした挙句、ひょっとしたらと思い、再度説明書をチェックし、詳細を読むと、スタートアップツールをインストしてない方は次のことをやれ、そう書いてあるのが目に止まった。

この項目は、PC上で実施するのかとようやく気がついたが、説明書の流れでは、いかにもハード上で実施するような流れになっていて、「これはPC画面から実施してください」などの案内などは全くない。

小生がこの事項はPC画面からやれということなんだ、そう気づいたのは、スタートアップツールの入力にURLが書いてあったこと、ところどころに「クリック」と言う言葉が出ていたこと、それ以外には説明というものなど全くないので、そのことだけの情報からであった。(勘が働かないと読み間違ってしまう)

しかも細かい文字でURLが書いてあり、それをPCのアドレスが書いてあるところに入力せよという。

まあこれも不親切極まりないことで、普段はyahoo、googleなどの検索エンジンを使用していると思われる、中高年のユーザーに、URLを間違いなく入力させることは並大抵ではない。

どこに入力したらいいのか迷ったり、入力間違いをおこしたり、結構大変であることは、小生がやっていたPC教室の生徒、中高年と主婦層の実態を考えても察しが付く。

そんなことを考えながらPC上に出た画面に沿って、「再起動ボタン」をクリックした。
手順では次にログイン画面が開くはずだから、ID・PWを手元に用意しながら待ったが、10分たち20分たっても進まず次の画面が開かない。

実施しているユーザーが多いので、ピーク状態だから混雑しているのだろうと思いながら、それでも30分たったので、時間を置いて実施しようと、いったん中断することにした。

その間調べ物をと、googleにアクセスしようとしたのだが、「IEでは・・・・接続できません」と、時々出るメッセージを返した。

しかしこれは、WEBコンテンツを見ようとするときに出るもので、googleの初期画面では経験がないこと。
おかしいと思って、いろいろアクセスしようとするも、どうやらNetに接続できてないようで、光固定電話をチェックすると全く応答を返さない。

先にやったCTUファームウエア更新のための「再起動ボタン」を押したこと、ひょっとしたら途中キャンセルしたのが原因かと思いながら、サポセンに電話した。

最初女性が電話に出て、事情を話すと、暫く待ってもらえば、そのうち繋がるようになりますから、そう言ったが、実施手順説明書があまりにも不親切だったので改善要求しようと、担当セクションに回してもらい、今回の事情を説明すると、その男はこちらのPCの回線設定の確認をするために、これをやれあれをやれと言うのだった。

ひどかったのは、もう一度URLを入力してくださいというもの。
ネットに繋がってないのに、再度やっても先ほどと結果は同じでしょうというと、いやこのURLはインターネットとは関係がないのでなどとワケのわからないことを言い始めた。

どうしてもやってくれといったが、結果はダメで、今度は何をやろうとしているのか不明のママ、あれこれ指示を出し始め、結局40分指示のとおりした結果、やはり繋がらない。

彼の最終的な結論は、小生は違うと思っていたが、ハードの修理が必要だから現場での対応が必要というものであった。
ハードとはCTUなのかPCなのか説明もないまま、故障修理サポセンに電話しろというのだった。

それでだんだん怒りがこみ上げてきた時だったから、事情を知っている貴方が技術サポセンに連絡指示を出してくれというと、自分は九州にいるので・・・云々かんぬん言い出した。

客から掛ける番号は全国統一番号があるが、自分からだと調べなくてはならないと屁理屈を言う。
PCから検索すればすぐに分かるし、不具合の原因と対策がある程度わかった人からのほうが、修理担当もやりやすいのではと突っぱね、10分後に折り返し修理担当からの電話を待つことで話がついた。

この間1.5時間インターネットも、固定電話も使えない状態だ。

勿論こちらからは携帯でかけたのだが、電話が終わってしばらくして気がついた。
先方は固定電話番号しか知らないはず、だから20分たったにもかかわらず、掛かってこないのだと。

しかし、携帯を固定電話から転送できるようにしてあるから、いいはずだと思いつつそれでも、固定電話が使えないのだから、うまく転送が掛かるのだろうかと心配になり、別の携帯から固定電話にかけて実験した。

結果は大丈夫、キチント転送ができたが、そrれにしては先方からの連絡が遅すぎるから、仕方なくことらから電話番号を調べ故障修理サポセンに連絡をとった。(ネット検索ができないとこんな時にも不便だ)

担当者が電話に出たが、この会社のサポセンなどの電話は、掛かりにくいこと夥しいし、ようやく掛かっても自動応答だから、用件の内容によって掛かる先が違い、何番を押せなど、非常にまどろっこしく、緊急の場合は神経を逆なでする。

それでも今回は素早く繋がったほうだから、先ほどの怒りは少し収まって、事情を説明すると、リモートで回復するかも知れないから10分待っていただきたいという。
しかし最初にアクセスしたサポセンのひとは、色々やって結局訪問修理が必要との結論だった旨説明すると、自信アリげに、それでも10分お待ちくださいというのでシブシブ待つことにした。

九州サポセンから修理サポセンに連絡が有ったかはどうもしらない様子で、大きな組織だから仕方ないことだと思いつつ、先ほどの約束はどうなったのか、と思っていると、携帯が反応し、こちらから掛けた先ほどの人と違う人からの電話で、ようやく最初の約束の電話が1時間以上たってから来たというわけだった。

何回も同じようなことを話すのは嫌だったから、先程こちらから電話して、今リモート修理を待っているというと、どうも同じ職場にいるようで、リモート修理を待ってくださいということになった。

10分の約束が1.5時間、この会社らしいと思いながら、メールも当然ダメだろうと思いながらOEにアクセスすると、受信があるではないか。

以前のアクセス時に引っ張ってきたのだろうと思っていると携帯がなり、リモート修理が完了したから、チェックしてくださいという。

原因は回線が混んでいたので、ファームウエアの更新DLが、途中でストップしていたとのこと、ようやくこれで接続が可能になった。
しかしこれも問題がある、というのも、予測できるはずの、今回のような状態になった時の対処の仕方が何も書かれてないからである。

そのまま待つのか改めるのか、もし小生と同じ状態になったらどうするのか。
同じ状態が発生することはこれからも大いに有り得ることであろう。

あれこれで2時間タップリ時間を費やしたが、この原因を作ったのは、一通のメールで、それは先に書いたようにユーザーにファームウエア更新手続きをやらせるためのもの。

不親切極まりない手順書の上に、通常やらなくても良いものまで記載されていて、その説明が全くないから、混乱する。
小生の場合、専用画面にある再起動ボタンを押しただけで、その後の手順は一切踏んでないにもかかわらず更新ができた。

あまりにもひどいからその手順書をUPするが、これの実施時期はウイークデイの朝早くが良いと思う。
たまたま今日はメールガ届いた関係で、皆さんが一斉にアクセスしたのでパンク状態になったということが原因らしい。

それにしてもこの手順書だれが作成したのか、ユーザーに送付OKした奴はだれなのか、文章表現力のなさ、読む側のことを全く考慮しない身勝手さ。
「一応造りましたよ」「忙しい中緊急で」そんなヤッツケ仕事の声が隠れている。
お客に出せるような代物じゃないことぐらい、チェック出来るだろうに。

これを読んでそのとおりやれるか否か、そんな検証もしないままこのような書類を出し、先程からの会話によると、今回のことはそもそもやる必要がない(場合によって)ようなことも聴こえてくるし、一体この責任はドウ取るのか、客を混乱に巻き込む働きしかしないのではないか。(小生の場合は、再起動方法に書いてある手順は一切やらずに済んでいるから、全てリモートで出来るのかもしれない))

おまけにファームウエアの更新、ユーザーにはメリットなし、提供する会社のメリットを図るためであるから、、なおさら問題である。

こういうものこそリモートで実施すべきことである。

手順書のあまりの酷さに実物写真を貼りつけておいた。
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by noanoa1970 | 2011-07-26 17:36 | トピックス | Comments(0)

聖書の中の逸話を聴く。メンデルスゾーン「エリヤ」

メンデルスゾーンの「エリヤ」を聴いた。
以前にも聴いたが、その時はエリヤとは何者なのかだけを調べたが、歌詞の内容も何もわからずじまいの単なる音楽として聴いただけだった。

今回は一神教、多神教、バアル、ヤハベといった古代ヘブライ史の一コマを、ある程度理解した上でのことだから、当時のイスラエル国家の宗教的状況と、預言者「エリヤ」の出現の背景に、興味を持ちながら聴けたから、かつて聴いた時とは全く違った印象を持つこととなった。

イスラエルに多神教のバアル信仰者が増えつつあったと、いうより、イスラエル国王がバアル信者の妃を娶った事もあって、殆どの国民がバアル信者となっていったことを危険視したヤハベの密命を帯びたエリヤが、一種の宗教改革に死力を尽くす物語である。

この逸話の核心ではないにしろ、小生が一番興味を持ったのは、エリヤとバアル神の神官の闘い。
生贄勝負の場面である。
10パートから17パートにわたってその時の様子があらわされている。

小生はこの話、生贄に2頭の「牡牛」を使ったとうことから、戦わずにしてエリヤの勝ちではないかと思った。

どちらの神が火を持って生贄を焼いてしまうことが出来るかという勝負だから、バアル信者の大事なトーテムは「牡牛」であるが故、それを焼いてしまうことなど、毛頭考えられないことだ思ったからである。

この仕掛けをおこなったエリヤは、預言者であるが、相当な智慧者でもあったと推測出来る。
結果エリヤは、バアルの神官450人、そのほかのバアル神信者の代表数百人を処刑したという。

神官を処刑しても、生活と密着していたであろう宗教の力は、そう簡単に排斥できるものではないようで、エリヤはイスラエル国王から命を奪われそうになって逃亡する。

暴力で改宗を迫ったエリヤのやり方は、アイルランドケルトをキリスト教化した、のちの聖パトリックに比べると、非常に強引であるといえる。

しかし、エリヤについての詳細は、その活躍ぶりに反し、聖書では余り語られないように思うがなぜなのか。
そして彼の行状にキリストが見え隠れするのは何故なのか。
実に謎の多い人物である。

オラトリオ「エリヤ」を聴くにあたって重要な対訳がネット上に有るのを発見し、それを活用して聴いてみることにした。

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小生が聴いたCDは、ブロムシュテット/ゲヴァントハウス管によるライブ録音で、かなりの高水準の出来だと思われる、宗教曲としての真摯な演奏であった。
ライブ録音であるが、其れらしき雰囲気がないのは、とりわけ宗教色の強い演奏だからなのか。
「若者」役は、ボーイソプラノのように聴こえるがいかがであろうか。ソプラノが少年ポイ歌唱をしたのだろうか。(若者はボーイソプラノであったことが分かったので、追記しておく。マクシミリアン・クラスtrebleと記載されていた。)エリヤがことをなした後、海や空に変化のあるや無やを、若者に命じて見に行かせるところは、重要な場面のように思うが、配役が記されてない。天使役か誰かのダブルキャストなのかも知れない。 
クリスティアン・ゲルハーヘル(預言者エリア=Br)
ナタリー・シュトゥッツマン(王女イゼベル=A)
ジェームズ・テイラー(王アハブ=T)
シビラ・ルーベンス(天使=Sp)
マクシミリアン・クラス(若者=Tre)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス合唱団
モルテン・シュルト=イェンセン(合唱指揮)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ヘルベルト・ブロムシュテット(指揮)

youtubeにあった動画と、対訳をつけたので、興味ある方はどうぞ。
Mendelssohn's Elijah No. 10 "As God the Lord of Sabaoth"
10. Rezitativ mit Chor 10.合唱つきレツィタティーフ
Elias エリア
So wahr der Herr Zebaoth lebet, vor dem ich stehe: わたしの仕える万軍の主は生きておられる。
Heute, im dritten Jahr, 三年目の今日、
will ich mich dem Könige zeigen, わたしは王の前に姿を見せよう、
und der Herr wird wieder regnen lassen auf Erden そうすれば 主は再び大地に雨を降らせてくれるだろう。
Konig Ahab アハブ王
Bist du’s, Elias, bist du’s, der Israel verwirrt? おまえが、エリアよ、イスラエルを乱す者なのか?
Das Volk 民衆
Du bist’s, Elias, du bist’s, der Israel verwirrt! おまえが、エリアよ、イスラエルを乱す者だ!
Elias エリア
Ich verwirrte Israel nicht, わたしがイスラエルを乱しているのはではない、
sondern du, König, そうではなく、王よあなたと、
und deines Väters Haus, あなたの父の家だ。
damit, daß ihr des Herrn Gebot verlaßt あなたたちは主の戒めを捨て
und wandelt Baalim nach. バールに従って生きている。
Wohlan! So sende nun hin さあ!直ちに使いを送って
und versammle zu mir das ganze Israel すべてのイスラエル人を集めよ
auf den Berg Carmel, カルメルの山へ、わたしの前へと、
und alle Propheten Baals, すべてのバールの預言者、
und alle Propheten des Hains, 女王の食卓の席につく
die vom Tische der Königin essen: すべての森の預言者を集めよ。
Da wollen wir sehn, ob Gott der Herr ist. 主が神であるかどうか、見ようではないか。
Das Volk 民衆
Da wollen wir sehn, ob Gott der Herr ist. 主が神であるかどうか、見てみよう。
Elias エリア
Auf denn, ihr Propheten Baals, さあ、バールの預言者たちよ、
erwählet einen Farren, und legt kein Feuer daran, 牛を選び、火をつけずに置いておけ、
und rufet ihr an den Namen eures Gottes, そして おまえたちの神の名へ呼びかけよ、
und ich will den Namen des Herrn anrufen; わたしは主の名を呼ぼう。
welcher Gott nun mit Feuer antworten wird, 火をもって答える方の神を、
der sei Gott. 神としよう。
Das Volk 民衆
Ja, welcher Gott nun mit Feuer antworten wird, よし、火をもって答える方の神を、
der sei Gott 神としよう。
Elias エリア
Rufet euren Gott zuerst, denn eurer sind viele! 大勢なのだから、先におまえたちの神へ呼びかけよ!
Ich aber bin allein übergeblieben, ein Prophet des Herrn. ただわたし一人だけが、主の預言者として残った。
Ruft eure Feldgötter und eure Berggötter! おまえたちの森の神々、山の神々へ呼びかけてみよ!

Mendelssohn's Elijah No. 11 "Baal, we cry to thee."

11. Chor 11. 合唱
Propheten Baals バールの預言者たち
Baal, erhöre uns! バールよ、われらの声を聞いてください!
Wende dich zu unserm Opfer, われらの捧げ物を顧みてください、
Baal, erhöre uns! バールよ、われらの声を聞いてください!
Höre uns, mächtiger Gott! われらの声を聞いてください、力強き神よ!
Send’ uns dein Feuer あなたの炎をわれらに送り
und vertilge den Feind! 敵を滅ぼしてください!


Mendelssohn's Elijah No. 12 & 13 "Call him louder!"

12. Rezitativ und Chor 12. レツィタティーフ
Elias エリア
Rufet lauter! Denn er ist ja Gott: もっと大声で呼びかけよ!バールは神なのだろう。
Er dichtet, oder er hat zu schaffen, 彼は考え事をしているのか、それとも他にやる事があるのか、
oder er ist über Feld, 旅にでも出ているのか、
oder schläft er vielleicht, daß er aufwache! おそらく眠っているのだろう、起こしてやらなければ!
Rufet lauter, rufet lauter! もっと大声で呼びかけよ!もっと大声で呼びかけよ!
Propheten Baals バールの預言者たち
Baal, erhöre uns, wache auf! バールよ、われらの声を聞き、目を覚ましてください!
Warum schläfst du? なぜ眠っているのですか?

13. Rezitativ und Chor 13. レツィタティーフ
Elias エリア
Rufet lauter! もっと大声で呼びかけよ!
Er hört euch nicht! 彼にはおまえたちの声は聞こえていない!
Ritzt euch mit Messern und mit Pfriemen おまえたちのしきたりに従って
nach eurer Weise. ナイフと錐で自分の体を傷つけよ。
Hinkt um den Altar, den ihr gemacht, おまえたちが作った祭壇の周りをふらついて
rufet und weissagt! 呼びかけ、預言してみせよ!
Da wird keine Stimme sein, しかし声もなく、
keine Antwort, kein Aufmerken. 応えもなく、耳を傾ける者もないだろう。
Propheten Baals バールの預言者たち
Baal! Gib Antwort, Baal! バールよ!答えてください!
Siehe, die Feinde verspotten uns! 見てください、敵はわれらを嘲っています!
Elias エリア
Kommt her, alles Volk, kommt her zu mir! 来なさい、すべての民よ、わたしのもとへ来なさい!
14. Arie 14. アリア
Elias エリア
Herr, Gott Abrahams, Isaaks und Israels, 主よ、アブラハムの、イサクの、イスラエル人の神よ、
laß heut kund werden, 今日こそ知らしめてください、
daß du Gott bist, und ich dein Knecht! あなたが神であり、わたしがあなたの僕であることを!
Herr, Gott Abrahams! 主よ、アブラハムの神よ!
Und das ich solches alles わたしがこれらの事をすべて
nach deinem Worte getan! あなたの言葉に従った行った事を知らしめてください!
Erhöre mich, Herr, erhöre mich! わたしの祈りを聞き入れてください、主よ、聞き入れてください!
Herr, Gott Abrahams, Isaaks und Israels, 主よ、アブラハムの、イサクの、イスラエル人の神よ、
erhöre mich, Herr, erhöre mich! わたしの祈りを聞き入れてください、主よ、聞き入れてください!
Daß dies Volk wisse, daß du der Herr Gott bist, この民に知らしめてください、あなたが主なる神である事を、
daß du ihr Herz danach bekehrest! あなたが彼らの心を立ち返らせたという事を!
Mendelssohn's Elijah No. 16 "O Thou, who makest thine angels spirits."

16. Rezitativ mit Chor 16. 合唱つきレツィタティーフ
Elias エリア
Der du dein Diener machst zu Geistern, 僕を精気とし、
und dein Engel zu Feuerflammen, 御使いを燃え盛る炎とする主よ、
sende sie herab! 彼らをここに降してください!
Das Volk 民衆
Das Feuer fiel herab! Feuer! 火が降ってきた!火だ!
Die Flamme fraß das Brandopfer! 炎が焼き尽くす捧げ物を飲み込んだ!
Fallt nieder auf euer Angesicht! 皆ひれ伏せ!
Der Herr ist Gott, der Herr ist Gott! 主は神だ、主は神だ!
Der Herr, unser Gott, ist ein einiger Herr, わたしたちの神である主は、唯一の主、
und es sind keine anderen Götter neben ihm. 主の他には神はいない。
Elias エリア
Greift die Propheten Baals, バールの預言者を捕らえよ、
daß ihrer keiner entrinne, 一人も逃がしてはならない、
führt sie hinab an den Bach, 彼らを川へ引いてゆき
und schlachtet sie daselbst! そこで殺すのだ!
Das Volk 民衆
Greift die Propheten Baals, バールの預言者を捕まえろ、
daß ihrer keiner entrinne! 一人も逃がすな!
17Octavio Moreno - Is Not His Word Like A Fire
17. Arie 17. アリア
Elias エリア
Ist nicht des Herrn Wort wie ein Feuer 主の言葉は炎のようではないか?
und wie ein Hammer, der Felsen zerschlägt? 岩を砕く槌のようではないか?
Sein Wort ist wie ein Feuer 主の言葉は炎のようであり、
und wie ein Hammer, der Felsen zerschlägt. 岩を砕く槌のようである。
Gott ist ein rechter Richter 神は正しき裁き手、
und ein Gott, der täglich droht. 日々怒りを表す神。
Will man sich nicht bekehren, もし人が神に立ち返ろうとしないなら、
so hat er sein Schwert gewetzt, 神は剣を研ぎ、
und seinen Bogen gespannt und zielet! 弓を引いて構える!

小生が気に入っている所。
讃美歌のような敬虔で非常に美しいメロディである。
モーツアルトのP協奏曲にも同じ様なメロディがあったように思うのだが・・・
Mendelssohn's Elijah No. 29 "He watching over Israel"

29. Chor 29. 合唱
Siehe, der Hüter Israels 見なさい、イスラエルを護る方は
schläft noch schlummert nicht. 眠ることもまどろむこともありません。
Wenn du mitten in Angst wandelst, あなたが不安のただ中で歩む時も、
so erquickt er dich. 彼があなたを元気づけてくれます。

by noanoa1970 | 2011-07-23 10:02 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(49)

エクソダス外伝

歴史的な記述が不正確だなどとして、エジプト国内での上映が禁止された。「エクソダス:神と王」
聖書の中の話をSF大スペクタルとしたのだから仕方あるまい。

小生が「エクソダス」ということばを知ったのは、小学校の6年生だった1961年のこと。

小生が生まれた実家に遊びに行くと、高校生の叔母が映画音楽を聞かせてくれ、その中に「栄光への脱出」のテーマミュージックがあり、だんだん盛り上がりを見せるオーケストラを使用した
その素晴らしさは、今でも口ずさめるほどメロディを鮮明に覚えていることからも解ることだ。

英語が得意な叔母は「エクソダス」と、この曲を教えてくれながら安物のレコードプレイヤーで聞かせてくれた。映画を見て感動し、レコードを入手したのだと思う。

ちなみにこんな音楽である。

本日は「エクソダス外伝」というタイトルだが、このところの小生のブログでのコメント話題が聖書の中の逸話によるものが多くなってきたこともあって、出エジプトの移住先の「カナン」や「モーゼとアロン」のこと、ヤハベの狙い、エジプトの利害など、尽きない興味から、色々な意見を参考にしてまとめてみたことをアップするものである。

推測が相当入っているが、歴史文化、民俗、民族、生態、古代史、など、小生が読んだ書物の考え方、特に梅原猛、網野善彦、鹿島昇の著作そして新国民社の季刊誌『歴史と現代』をよむにいたり、ものの見方考え方に大きな変化が生じたと思う。

そのような思考方法を駆使して、さまざまな情報を集め、そこから読みとれたものを書き連ねたので、アップしておくことにした。

エクソダス前後のカナン
バアル信仰で牛をトーテムとする多神教信者、農耕主体民族のカナン人(カナン人には2派があって、1つはカナンを去ってフェニキア人となった種族、もう一つがカナンにとどまってイスラエル人の支配下に置かれることとなった種族といわれる)、それとも農耕の必要性から、バアル神という邪宗を受け入れることになった、ユダヤの民、居住地域は異なるものの、カナンにはペリシテ人(アラブ人)をはじめ複数種の民が住んでいたようだ。

カナンの宗教
多神教で農業神の象徴であるバアル信仰の中に、「牛」をトーテムとする偶像崇拝のカナン人が存在した。
バアル神のトーテムが「牛」であることを指摘する学者が多いが、「バアル」とは「主人」の意であるから、多神教のトップに位置した神ではないだろうか。牛をトーテムとしたバアル信仰、蛇をトーテムとしたバアル信仰など多くのバアル信仰があり、中で権力が強い集団が担いだトーテム(牛)が、バアル信仰の代名詞となったということであろう。

バアル神とは、水と密接な関係を持ち、脱皮という転生を繰り返すというから、つまり豊穣の象徴たる「蛇」の存在を匂わせ、トーテムの中で主流である「牛」と結びつき神格が出来上がっていったとみる事が出来る。

「蛇」を中心にして、蛇に他の動物の特徴を付け足した「龍」は、蛇と同じく農業の民の信仰の対象になったが、「龍」には、たくさんのトーテムの合体が見られ、農耕の民の統合が行われたことを表すものとする見方も否定できない。

さらにバアル神の神格に「暴風雨」があるとの指摘は、農業と「水」との関係にtらし合わせれば、否定的にバアル神に存在するものとされたようだし、スサノオノミコトにも同じ現象があるから、納得出来ることである。

日本の古代史に出てくるスサノオノミコトが、「牛と蛇」そして「暴風雨」のトーテムの合体の産物であることを指摘する研究家もいて、シュメールやエジプトにおいて同じものが見られることにも言及していることは、バアル信仰の出自に関係する事になるのではないかと思われる。

小生が学んできたことから言えば、多神教はトーテムを持つから、「黄金の牛」の像とは、「牛」をトーテムとする種族が存在するということで、カナンの先住民カナン人は、農耕を糧とする多神教信者であること。
カナン人の中に「牛」をトーテムとする種族が存在し、牛をトーテムとするカナン人とマージすることで、カナン人の農耕技術と宗教を受け入れたイスラエル種族があったことが推測される。(牛は農業の力仕事の役目を担う重要な働き手だが、乳牛・肉牛として使われていたとすれば、牛トーテムの民カナン人も、すでに遊牧民と混血していた可能性がある)
カナンは豊かな土地であるがため、いろいろな民族種族が移住し、協調と争いを繰り返すことで支配非支配、統合分裂も産まれてきた。

エクソダスの背景は何だったのか
カナンにはもう1つ重要な、海洋貿易の拠点港としての位置付けがあったから、巨大国家であるエジプトが目をつけるにいたった。(フェニキア人の祖がカナン人であるという説があって、イスラエル人が支配するにいたり、カナンから出て行ったが、いつの時代か再びフェニキア人としてカナンに戻り、海洋交易の利権を持った)

エジプトで奴隷として働いていたイスラエル人、それを束ねるモーゼたちの悲願は、神から約束されたイスラエル人の土地カナンに戻って永住する(建国)ことで、エジプトの為政者ファラオは、カナンを海洋交易の拠点として熱望した。
ここにおいて、エジプトおよびモーゼが主導するイスラエルの民に、ウインウインの関係が生じることとなる。

一般的にエクソダスは、民族差別で虐げられたイスラエル人が、エジプトの圧政に抵抗して、集団でエジプトを脱走し、約束の地カナンに行きつくという話である。

エクソダスの新解釈
しかし別の見方として、カナンの港を手中にしたいエジプトと、カナンにイスラエル国家建国を願うモーゼの利害を達成するには、カナン侵略を企て実行することが必用であった。

イスラエルの神ヤハベは、カナンの現状、つまり多神教のバアル信仰が蔓延しつつあったことを危惧したので、モーゼとアロンに、バール信者を駆逐するために、カナン侵略をするよう指示をだした。
(しかし途中でアロンはモーゼ、従ってヤハベに逆らったので、カナンに入ることが許されなかった)

以上のように推測すると、モーゼとアロンは実の兄弟だったのか、遊牧の民であるとされが、アロンはエホバを信仰するイスラエル人であったが、実は半エホバのバアル信者ではなかったのか、つまりカナン在住のイスラエル人がバアル信仰者となっていったのと同様のものがアロンにあったと考えられ、二人の出自はアロンは農耕、モーゼは遊牧家系だから、実の兄弟ではなかったと考えてもよさそうだ。

検証はできないが、民族的な違いがあったかもしれないという仮説を立ててみたい気がする。
アロンの話は、バアル信仰勢力が、いかに強大であったかを、ものがたるものでもある。

以上のように書いてきたが、あまりにも断片的すぎると思うので、一旦まとめておくことにする。

まとめ
カナンは「乳と蜜が流れる土地」が象徴するように、肥沃で住みやすいところだったから、カナンという土地には古来から様々な民族が移住するようになっていった。
カナン人もその一派であり、源流がカナン人であるフェニキア人が再入植して、海洋交易の権利を得て居住したし、古代からのカナン人もいた。
遅れて移住したイスラエル人、南部にはアラブ系のペリシテ人(パレスチナ)もいる、いわば民族の坩堝状態であったと思われる。

当初彼等はテリトリーごとに住み分けていて、生活様式や信仰は独自のものがあった。
しかし人口増加が主な要因で、生産手段の確保増強の必要性が生じ、テリトリー争いが始まり、戦争が出現したが、中には融合して混血するものもあった。

古代イスラエル人の種族の中に、異宗教異文化のカナン人と混血したり、人口増により、食糧自給のために生産手段を変更追加の必要性から、遊牧民はカナン人の農耕に着目するようになり、農耕の民は遊牧に注目した。
このことから牧畜・・・農耕をしながら牛や羊を飼うという、より安定した合理的な生産手段が生まれ、生産性が高まるることとなった。

農耕を取り入れた遊牧の民の中に、カナン人の守り神である豊穣の農耕の神を奉じるものが出てきた。
カナン人の宗教は多神教の自然神信仰で、遊牧の民イスラエル人が信仰してきた一神教のエホバ信仰とは基本的には相容れないものだったが、農耕を取り入れたことから必然的に、カナン人の農耕の神「バアル信仰」をも取り入れるようになった。
つまり、農耕という生産手段の必要性が農耕の神を受け入れることにつながり、牧畜と農業という2つの生産手段を融合したイスラエル人が出現したということであろう。

カナンがバアル神信仰者だけの土地となってしまう恐れが出てきたことを危惧したエホバは、モーゼとアロンにエクソダスを指示し、移住先をカナンと決め、バアル神信仰者をカナンから駆逐するようにしむけた。
カナンのイスラエル人に農耕の必要性が高まり、バアル信仰が、多大なな影響を及ぼすほど、勢力を強めていったことを象徴するものとであり、エクソダスの途中のアロンの「黄金の牛」の話はバアル信仰の偶像崇拝を表すものであろう。

「黄金の牛」とは、バアル信仰の偶像崇拝のためのトーテムで、バアル信仰のトーテムとされるが、多神教であるがゆえに、実はさまざまなトーテムを奉じる民がいたのである。
バアル信仰とはバアル神を奉じる信仰というより、バアル神を支える自然神信仰だと小生は思っている。
「牛」「蛇」「鶏」「猪」など、農耕に関係ありそうな動物、水や太陽、材木など、トーテムは種族にとって大事なもので、種族のアイデンティティを表すものでもある。

森の民古代ケルト人が信仰したドルイド教は、「樫の木」というトーテムをもつ。バアル信仰の一派に「黄金の牛」をトーテムとした種族がいたということから類推すると、同じトーテムがシュメール人の中にも有ることから、カナン人の祖はシュメール人だったという可能性がある。

最初はモーゼに従順だったアロンは、やがてモーゼに反抗するようになる。
このことの見方に、ユニークなものがあって、モーゼとアロンは兄弟ではなく、逸話上作り出されたもので、本来2人は対立軸上に有ったのだという。
それが2人のトーテムに表れていて、黄金の牛を造ったアロンを「牛」トーテム、そしてモーゼを家紋がそうであるから「菊」トーテムとする見解がそれである。。

モーゼとアロンについては、よくわからないことがあり、聖書に出てくる現象の背景を徹底的に深読みする必用がある。

by noanoa1970 | 2011-07-19 10:36 | 歴史 | Comments(29)

聖書のエピソードを題材にした音楽

先に小生は、シェーンベルクの「ヤコブの梯子」について書いたが、このことから話が発展し、聖書の中のエピソードを読み解くために、宗教的視点以外に、文化社会学的な視点、生態学的視点、文明論敵視点、民族的視点、政治経済的視点、歴史的視点など、様々なアプローチがあることを知ることとなった。

ブログにコメントを頂いた皆さんにも、多大な思考時間と、情報収集の時間を、とっていただいたことに感謝の意を表したい。(最近はコメントというより、議論の様相を呈してきて、ブログもかつての掲示板ライクになりつつあるのは、非常に喜ばしいことと、小生は思っている)

「ヤコブの梯子」に続いて「モーゼとアロン」をアップしようかと思ったが、「アロン」についての情報と評価がいまだ定まってないので、少し先に延ばすことにて、今回は「放蕩息子の帰還」を取上げることにした。

この逸話は、ルカによる福音書 15章以下に出てくるキリストの例話である。

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相当有名な話のようで、題材にして描かれた絵は、レンブラントの最高傑作とも言われている。

ご存知の方も多いと思うが、簡単にあらましを。

ある家系に兄弟がいた。家長は兄に家督を譲るつもりであったが、弟は生前贈与を主張し、家長はそれに応じ、金銭?を弟に与えることにした。(金銭?与えたのが何かは記載されてないと思う)
弟はもらった金銭?を持って家を飛び出し、働きもせずに好き勝手な快楽的生活をし、その果てに持ち金が無くなると働くすべもないから、生活に困窮し食い扶にも事欠くようになった。
考えた挙句、彼は親の家に戻ることにし、その際その家の次男としての立場を放棄し、雇い人になる決心をする。
しかし帰還した弟に対し、家長である父親は「良くぞ帰ってきてくれた」とばかりに、宴会を開いてもてなしたから、それを見た長男は嫉妬の念に駆られることになり、家長に詰め寄った。
そのとき家長は、長男に対し、『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』こう言って諭した。

この話から読み取れるのは、「回心」というキーワード。
「回心」とはウイキペディアによると、『神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す』とある。

つまり放蕩三昧の弟だったが、自分の罪を知り、悔い改めなおして生きること、そしてそのために、かつて持っていたプライドを、かなぐり捨ててまで家長に従うことを決心したということであろう。

食べるために仕方なく、ということではないと聖書は言っているように取ることが出来る。

さらに弟に思い入れの強い父親をうらみ、弟に嫉妬心を抱いた兄に対して、「悔い改め回心」はパフォーマンスのように見えるだろうが、食べ物にも事欠きどん底の生活を経験した暁に、そこから這い上がってでも、かつての次男の立ち居地を放棄してまで生きようとすることこそが「悔い改め回心」であるから、嫉妬心を捨てて祝福しなさいというような思想があるように思う。

神の深い愛と慈悲の象徴的話で、対象は弱者に限らず万人である、ということをアピールしたかったのであろう。

生産しないものの象徴が、弟と見ることが出来るなら、労働によって生産するもの非生産だが労働するものに加え、労働も何もしないで・・・キリスト教の労働は神への奉仕と解すれば、つまり神にそむいて労働もしないで生活する人間の出現を思わせると共に、末子相続と長子相続の混同の時代を象徴するものではないかと小生は想像する。

家長が次男に与える事が可能な蓄財を蓄えていたということは、労働による蓄財ということであろうから、資本主義的な現象が見え隠れするように思う。

さて「放蕩息子の帰還」は、ブリテンがオペラのスタイルで創作しているが、小生は見ても聞いてもいないので、youtubeを頼って見聞きしてみることにした。
1968年初演の60分ほどの短いもので、登場するのは全員が男性で、男性が女性の役もこなすというものだそうだ。

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 1

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 2

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 3


ドビュッシーも「放蕩息子」を、カンタータにして発表、ローマ大賞を獲得した。
リアのアリアと呼ばれるものでロスアンヘレスが歌っている。
victoria de los Angeles "Air de Lia" L'enfant prodigue


ブリテンのオペラとドビュッシーは、音楽的共通点があるように思われ特にドビュッシーの「聖セヴァスチャンの殉教」に良く似たところがあるように感じた。

またプロコフィエフにもバレー音楽「放蕩息子」があるし、ウィリアム・ホガースの銅版画「放蕩児の遍歴」をヒントに、ストラヴィンスキーもオペラにした。
そしてアルベーンはバレー組曲として作曲した。

放蕩息子は、そのほか作家や映画作品、絵画、版画などにもなっている。

多くの作家が題材にしたのは、モトネタが「聖書」の中のキリストの寓話という側面があったからに間違いない。

by noanoa1970 | 2011-07-17 14:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(16)

暑い夏にはタップリの

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この季節、一日1パイは必ず飲んでいるのがアイスミルクティ。

今では市販のものが簡単に入手可能だが、どの商品も小生の口に合わないから、自分で造ることになる。

甘みが強いもの、ミルクをタップリ入れたもの、紅茶の味を強く出したもの、紅茶の種類などなど、自作ならばその時々で、要求するものに答えることが可能だし、思いのほか面倒ではなく美味しいミルクティが出来る。

今では家の中で、定番化された小生の作り方だが、自分で言うのはおこがましいのだが、この方法は簡単で確かに美味しい。

タップリ飲みたいから、器は家で一番大きいガラスのコップ。
写真では大きさが分かりにくいが、高さが20センチはたっぷりある大きなコップを使う。

先ず暖かい紅茶を、小さなカップで作るのだが、小生は市販のティーパックの中でも、割と優れものを使用する。
本来ならティーパックは使いたくないが、昔のような缶入りの紅茶だと、取り扱いや後始末が面倒だから、ティーパックになるが、今日はリプトンのティーパック、アールグレイを使用した。

さてキーポイントは、ティーパックを2袋使うことで、これはなるべく濃い紅茶を作りたいためで、1パックだと出来上がりの色も香りも味も薄れてしまいがち、場末の喫茶店で出す哀れな紅茶のようなものにしかならない。

ティーパック2袋を、普段使うティカップに入れて、なるべく暑いお湯を注いで、紅茶の葉が完全に開ききるまで最低2分間待つ。濃ければ濃いほど美味しく仕上がる。

ちなみに、今日はアールグレイを使ったが、ダージリンは無難だし、オレンジペコはミルクと相性がよいと思う。

出来た紅茶原液に砂糖(小生は三温糖を使用)をお好みでいれ(小生の場合はかなり甘め)それを氷をタップリ入れたコップに注ぐ。

場合によってガラスコップの8割に近いぐらい紅茶が入ることがあるが、それでは多すぎるから、味見を兼ねて7割ほどに減らす。(アールグレイはストレートでも美味しい)
複数分・・・2人分が限度だろう・・作るには、少し大きめの器で紅茶を作ればよい。

出し終えたとはいえ、2袋のティパックがもったいないので、家内が自分用の紅茶をもう一度それで作るが、まだ完全に出きってないのか、紅茶の味と風味が十分あるといっている。

これでアイスティが出来たので、後はガラスコップいっぱいまで牛乳を注いで拡販する。
こだわれば牛乳もよいものを使用したい。
限られた材料だから、よい材料を選ぶのとそうでない時の差は歴然としてしまう。

ちなみに小生が愛用しているのは「大内山牛乳」で、最近では珍しいコクのある牛乳だ。

書き忘れるところだったが、ガラスコップに入れた氷は、氷表面に付着している、嫌なにおいの元や不純物を取り除くために、いったん水を注いでから水切りしておく。

これが小生のアイスミルクティの作り方で、以前はロイヤルミルクティを作ってから、氷を入れたグラスに注ぎいれたが、これでは非常に手間がかかるし、跡片付けが大変であるから、何時もいつも作れるものではないが、この方法であればそういう手間から開放されるし、いつ何時でも欲しいときに直ぐ味わうことが可能だ。

夏にはレモンティのほうが似合いそうだが、あれはどうも飲み物としては、不十分な代物のように、小生は思っている。

レモンと紅茶のバランスはいかにしたって鳥用がない。
その証拠に、紅茶専門店でも市販のものでも、レモンティで美味しいものにお目にかかったことがないから、やはりバランスのよくない飲み物なんだろう。

ミルクティがそれだけで成立しているように思われるのに、レモンティは他の何かがないと物足りない、つまり何か他の食材がないと成立しないように思うので、単独の飲み物としては不完全だと思う。

それに、レモンを浮かせると、折角の紅茶の色がたちまち褪せてしまうのが気に食わない。

やはりなんと言っても、紅茶はミルクティに限る。

by noanoa1970 | 2011-07-16 14:57 | 「食」についてのエッセイ | Comments(15)

カラヤンの「大地の歌」をデジタルマスターリングLPで聴く

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(この記事を書いた後に、明日7月16日は、カラヤンの月命日だということが分かったので付記しておく。)

LP生産中止となってすぐに、バーゲンで入手したもの。
今までまともに聴いたことがなかったのは、マーラー、特に「大地の歌は、カラヤンには似あわないと決めていたからである。

カラヤンの演奏録音には駄作がない、そのようにずっと小生は思ってきたのだが、「大地の歌」だけは例外と勝手にきめつけていた。

「大地の歌」、小生はワルター/VPOかクレンペラー/NFOの演奏をとても気に入っていて、この2枚はそれさえあれば他の演奏はいらないし、聴きたいとは思わないという、非常に珍しい状態に身を置けた数少ない音盤で、小生とはあまり相性の良くないクレンペラーだが、「大地の歌」は唯一といってよいほど、高いレベルで満足させてくれたから、ワルターとクレンペラー盤で長い間聴いてきた。

80年代中期、その頃収集の最優先の音盤は、オケと合唱あるいはソロ・・・人間の声が入ったものだったから、宗教曲を中心に集めていて、これもその時の1枚で、CDがすでに出現していたが、声はアナログがいいという想いからであった。

もともと安価なのに、バーゲンだから相当安く入手できたドイツグラモフォンの輸入廉価盤で、80年代後半に入手して以来、針を落としたのはたった2回、しかもA面を聴いたのみだった。

最近は新しい音盤を入手するのを控えていて、過去に入手した中から、あまり聞き及んでないものを探して聴くようにしているから、この音盤は格好のもので、おまけに殆ど針を落としてないから、レコード盤の状態もよいはずだ。

初めて聞く音盤に接する際、いったいどんな演奏が聴けるのだろうかと推理することは、とても面白いことで、推理通りの演奏なら、演奏家に対する自分のイメージが出来ている結果だと思い、外れれば外れたで、意外性に驚くとともに、自分の耳の鍛錬の足りなさを思い知る事が出来、新たなチャレンジ目標が得られるというものだ。

カラヤンのマーラー、しかも「大地の歌」の演奏イメージは、具体的なものが浮かんでこない。
なんとか思いを巡らせるが、浮かぶのは一般的なカラヤンの演奏を表現するときのもので、そのようなステレオタイプの見方は、いつもあまりにも表面的過ぎて、カラヤンの演奏を深堀するには程遠いものだから、あまり面白くもない。

イメージが湧かないのは、カラヤンのマーラーを殆ど聴いてないことに原因があると思うが、そのせいばかりとは言えぬものがあるような気がしてならない。

大胆不適な言い方だが、ひょっとしたら、「カラヤンには個性がない」のではないだろうか。

それとも時代に応じて演奏スタイルを変えてきたから、統一された特徴や演奏スタイルというものが無いように見えるのか。

なにを演奏しても卆がなく、聞かせどころを心得ており、殆ど失敗作がないカラヤンだが、演奏を聴いて、それがカラヤンの指揮によるものだと特定できるものは、音響的にはあっても、音楽的には余りないことが経験的なことだ。

カラヤンはゲルマン的なところとラテン的な所を併せ持つが、逆に言えば無国籍のグローバルさ・・・インターナショナルテイックなものをもっている、というよりそうなってしまったのは・・・カラヤンの美学によって楽曲の持つローカルエリア的風土を排除したことにその要因があるような気がする。

言い換えれば、母国語があるのに、エスペラント語に置き換えてしゃべって表現するようなところがあるので、万人に理解されるようで、主観的すぎる翻訳が必ずしも上手く行ってないから、誤解を産むとが多いような気がする。

初期~中期のカラヤンは、ザッハリヒな演奏スタイルだったが、カラヤンレガートが象徴するように、超メジャーになってからのカラヤンの演奏の特徴は、楽曲の解釈はあくまでもカラヤン自身の美学の帰結であり、誰がどこでどのような経緯で作ったのかなどは眼中にないようで、あくまでも楽譜とカラヤン自身の美学で音楽が成立する。

中期以降のカラヤンは、カラヤンレガートがあらわす如く、自分の美学に基づいて、音楽をソフティフィケートすることに専念するようになった。

注目すべきは、基本的にはザッハリヒな演奏スタイルなのだが、レガート、フェルマータなどを多用することでロマン主義的な演奏スタイルに思わせるような所があることだ。

万人に好まれるがコアなクラシックファンから嫌われるのは、カラヤンの美しさを追求する没個性の美学にあるのではないか。

マーラーの曲に内包されるものは、ドイツ辺境や周辺の地の民謡や踊りのメロディとリズムの引用、近代的和声とのシナジーを高めること、それらによって、音楽に新たな生命を宿らせた事なのではないか。

しかも楽曲には合唱やソロが登場するものが多く、つまり人間の声とオーケストラの調和と非調和、融合と拡散、協調と離反が合いまみえる曲であるといえる。

「大地の歌」では、意識しない宗教性と民族性、東洋思想、ペンタトニックスケール、現世否定と死への恐怖と憧憬、刹那的快楽主義、不条理、自己矛盾といったものが塗り込められているように思われる。

どうしても揚げておかなくてはならないのは、カラヤンは大体において、合唱を人間の声としてではなく、楽器のように扱っているということであるが、果たして合唱無しソロオンリーの大地の歌の場合はいかにしたのか。

例えばモツレクのキリエの終わりのキリエエレイソーンのフェルマ-タは、息が続くギリギリまで合唱を引っ張るが、このようなやり方は随所に見られ、声は楽器であるというカラヤンの考え方の表れであると思う。

ソロの声をも、楽器として扱うような気配があるや否やも、大事なチェックポイントである。

以上の観点を踏まえた、カラヤンの「大地の歌」、果たして如何なるものだったか。

音楽が美しい、いや美しすぎるぐらいだから、全曲をいとも簡単に聴けてしまった。
美しさの要因は、ここでもやはりレガートそしてフェルマータの乱用に近い使用である。

ソロの歌唱においてもそれは同様で、このためにソロ歌手の息が苦しそうな気配が、とくにはテナーのルネコロに著しい。

しかしマーラーを表現するテクニックとして、ひたすら美しい音楽づくりが果たして相応しいだろうか。

カラヤンはいつもたいていそうなのだが、「再生音響」に強いこだわりを持っているようで、この演奏録音では普段聴こえない音がハッキリクッキリ聴こえてくる。

ライブ映像で見る光景として、普段は中央よりやや下向きに吹く管楽器群が、一斉に楽器を上方前にして吹く事があるが、これは作曲家の指示かそれとも指揮者の指示なのか、マーラー演奏にそれが多いように思うが果たしてどうなのだろうか。

カラヤンの良いところ、それは再生装置で聞く人のことをも慮っていて、ホールの位置によってライブでは掻き消されてしまう楽器の音を、きちんと聞こえるようにしていることだ。

終楽章琵琶の音を模倣するためなのか、マンドリンの音色が今まで聴いたどれよりもよく出ており、マンドリンなどは使用してないと思うような録音がある中、音響を重視したカラヤンはマイク技術あるいはマスターリングで、それを再生装置で聞く聴衆のため、克復したとみてよいだろう。

1楽章に出てくるフルートのタンギングは、クレンペラー盤が最もよく表出していたが、カラヤン盤もよく聴こえてくる。

先日録画したアバド/BPOライブでは、フルートのタンギングが埋もれてしまいがちになったが、実際はそんなものなのであろう。

マーラーの曲は、押しなべて管楽器がハイライトされるものが多く、ホルンは勿論、特にイングリッシュホルン(コールアングレ)に活躍の場が多いが、それも含めた管楽器の音の表情付けだが、カラヤンは管楽器のソロにまで、たっぷりのレガートを要求する場面が多いから、弦が加わった暁には、滑らかに美しく聞こえるが音楽が甘ったるい蜜のようになるから、ひと舐めするには良いが、たくさん舐めると、その諄さが勝ってしまい、たちまち嫌気が襲ってくる。

確かにマーラーには、神秘主義的陶酔の感覚があるとは思うが、音楽は決して甘ったるくは無いはずだ。
ポルタメントを多用したメンゲルベルクよりさらに甘ったるくロマンティックに聴こえる。

アダージョ楽章では、ストイックで病的なものを感じることさえあるマーラーであるが、カラヤンはひたすら美しさを追求し、陶酔に導こうとするかのような演奏をする。

ソロ歌手のコロとルートビッヒだが、いずれもバックのオケとのマッチングがよくないのか、コロは神経質な歌唱が随所に見られるし、ルートビッヒも、クレンペラー盤であれだけの歌唱をしながら、カラヤン盤では楽曲の・・・詩の内容の深堀が出来てないのか、心なしか自信なさげに聴こえる。

クレンペラー盤よりも新しいカラヤン盤だから、どうもカラヤンの声も楽器という仕業のような気がしてならないが、ソロの歌唱にも無機質さを要求したのだろうか。

デジタルリマスターによるLPレコードは、確かに耳触りはよいのだが、リマスターで倍音成分まで除去してしまった結果なのか、本来持っているオケの音のエネルギーまでそぎ落としてしまったように聴こえる。

従ってオケがBPOであるか否かの判断がつきにくいが、それを無視すれば、実に上手な演奏であることは間違いないことだと思われる。

さらにリマスターしたCDではどうなのか、分厚い響きの大地の歌になったか、それとも美しく滑らかで流れるような大地の歌になったのか。

カラヤンはなおさらに、録音によっても大きく評価は変わるから、今回聴いたLPのデジタルリマスターは、技術水準の問題、エンジニアの耳、商業的勇み足のいずれか、あるいはそれらの複合の産物のように小生は想っている。

カラヤンの60年代70年代のBPOの音になじんだだけに、このリマスターは残念だ。
そういえば最近のアバドとBPOの大地の歌の音響は幅の違いこそあるが、かつてのBPOに比べ低音部の力強さが減少したように感じる。

こことはオケの近代化の一環なのか、世界に冠たるBPOではあるが、グローバル性とローカル性を併せ持ち、臨機応変の演奏を望むものである。

以上のことは、ゲヴァントハウス管にもあてはまる・・・つまりヨーロッパのオケ全体に言えるということを、付け加えておく。

カラヤンの「大地の歌」は、デジタルリマスター盤という未熟な音盤で聞いたから、的確には言えないので、オリジナル盤か優れたリマスターによるCDを聴いてから、という結論にしておくことにする。

大本の録音の素錠がよさそうだから、満足度の高いCDとなっている可能性大であると思う。

by noanoa1970 | 2011-07-15 17:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

決して外されない梯子

シェーンベルクの「ヤコブの梯子」を聴いてみようという気になった。

その前に、このオラトリオの背景となった逸話の出典を探ると、 旧約聖書の創世記28章12節からであることが判明した。

昔この楽曲の名前を聴いたとき「ヤコブ」を、イエス・キリストの十二使徒のヤコブだと思ったが、そうではなく、さらにに遡る時代の人だと分かるのに相当な時間を費やした。

聖書の世界には、多くのヤコブが出てくるから、整理しておかないと、誤解のもととなる。

アブラハム→イサク→ヤコブとエサウ(双子の兄弟の兄)と続く一家で、ヤコブはイスラエルの称号の源とされ、先祖にカインとアベルそしてノアを持つ家系である。

ヤコブの曽祖父アブラハムは、奴隷の妾女ハガルに、イシュマエルをもうけさせたが、本妻のサラは、二人を追放しろと、アブラハムに迫る。

ハガルはイシュマエルと逃亡し、神から土地を与えられたが、これがアラブ人が信仰するイスラム教の国となった。

この逸話を、ユダヤとイスラム、つまりイスラエルとアラブの、アブラハムを祖とする同族の確執とみなす説もある。

つまり本妻と妾の内輪もめが今日の民族紛争の原点だという、びっくり仰天の話である。

今思い出したのだが、母校に「矢内原伊作」という、クリスチャンの教授がいたが、「伊作」は「イサク」から取ったのかもしれない。

さて「ヤコブ」とは、どのような人物なのか。

創世記によれば、イサクが双子の兄エサウを愛したのに反し、イサクの妻リベカは弟のヤコブを愛したので、イサクの死に際、イサクが愛したエサウに変装して兄エサウと入れ替えることで、イサクの跡目をヤコブが得ることになる。

跡目をめぐる兄弟対決の話は、古今東西の歴史上よくあることだが、双子の争いは珍しい。
エサウとヤコブは双子の兄弟とされるが、母親違い父親違いの兄弟ではなかったかと小生は推察し、両者は部族間の代理戦争の様相を呈したものと解釈する。

古代の結婚観ならびに、父系、母系の血縁上の位置を表すものであるように思う。

ヤコブの先祖、兄弟の逆転はあるが、カインとアベルの兄弟争いの話が、ここに投影されているように思われ、弟殺し、嘘つきのカインもヤコブ同様、神から保護を受けることになる。

要するにヤコブは、自分の利益のために兄を裏切った人物ということになるが、不思議なことは、そのような人物に神が味方し、イスラエルの地と称号を与えたこと。

Heaven helps those who help themselvesということわざの、努力と信仰心があれば、神の加護があるという話とは少し違うように思う。

この逸話の背景には、何か裏がありそうだ。

兄エサウへの裏切り行為で、戦いが始まり、ヤコブの身に危険が迫ると、母親リベカは自分の兄ラバンのもとへヤコブを逃がす旅の途中のヤコブが、放浪の果てに、死を覚悟した夢の中で見たのが、天国の階段であった。

天使が天国と地面を行き来する階段があり、天使が神の声を携えてきて、ヤコブに告げた。

「この土地を、ヤコブとその子孫とに与えよう。
子孫は数え切れないくらいにたくさんに増えるだろう。
そしてそのために人類が皆祝福されるようになるだろう。」

ヤコブが改心し、初めて信仰心が目覚めたことへの、神からのご褒美ということだろうか、そうするとこの逸話は、信仰心を持つ者は幸せになれるという、信者獲得のプロパガンダのための逸話と捉えてもよさそうだ。

ヤコブはイスラエルの称号を与えられ、子孫のイスラエル12氏族を輩出することとなるが、しかし10氏族は「失われた10氏族」というように、チリジリとなって世界に分散してしまう。

ヤコブの逸話からうれば、ユダヤイスラエル民族は、兄殺しで裏切者の先祖を持つ民である、ということも成り立つ話で、ゆえに12氏族のうち10氏族が消えてしまい、残ったユダ民族は後世、差別される運命にあるのは必然だ、というようなロジックも成り立ちかねない。

キリストを金で売ったユダがユダヤ人であったこともそのことに拍車をかけることとなり、ユダヤ=裏切りの代名詞的扱いを受けることにつながったようだ。

とにかく、後世の人々は、雲の切れ間から地面に光線が差し込むのを、「ヤコブの梯子」、というようになった。

神への畏怖と尊崇、神の加護とそれに対しての感謝の象徴の姿として、天が造る「ヤコブの梯子」を尊んだのだろうし、しかもめったやたらに見られるものではないから、その光景に遭遇することは、幸運の証でもあったのだろう。

かいつまめば、そんな話だが、どうしてもわからないのは、裏切者で嘘つきで狡猾なヤコブに、なぜ神が味方をしたかということ。

どうも、「改心」「改宗」「新たなる信仰心」を持つことの重要性をアピールする狙いだけではない、もっと奥深いものがありそうな気配がするが、今のところ閃かない。

楽曲の話は次回にして、音楽を聴くことにする。
シェーンベルクは、自らのユダヤの血を意識して、ユダヤイスラエル民族の成り立ちと、民族への神の加護があることを描きたかったのだろうか。

A. Schönberg: Die Jakobsleiter (1/3)


A. Schönberg: Die Jakobsleiter (2/3)



A. Schönberg: Die Jakobsleiter (3/3)


by noanoa1970 | 2011-07-11 11:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(35)