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苦難を乗り越える歌

フォスターのこの曲が頭から消えなく、二日続けてリフレインしている。

それで、手持ちのもの、そして便利なyoutubeと合わせて、10数種聞いてしまった。

youtubeに、探していた動画があったので、貼り付けておくことにした。

CDになったアルバム「アパラチアン・ジャーニー」と同じメンバーによるライブ演奏。

クラシック、カントリー、フォーク、ブルーグラス、作曲、異色の分野の優れものが一同に介し、フォスターを含む、アーリーアメリカンミュージックを演奏したライブ。

Hard times come again no more

Yo-Yo Ma on cello/James Taylor on vocal,guiter And Mark O'Connor on fiddle and Edgar Meyer on bass

我が国でも、オールジャンルが集まって、巨大な日本復興義捐コンサートの開催を望みたい。


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by noanoa1970 | 2011-03-30 07:21 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

Hard Times, Come Again No More

フォスターが作った知られざる名曲。

それが「辛い時代はもう嫌だ」「でももうすぐすべてが終わる」だから、辛くても今を頑張ろう・・・

かなりの意訳だが、そんな詩のように思って良いだろう。

元気いっぱいの応援歌もいいが、この歌のように、しみじみと心の襞を打つ歌も、応援歌になり得るのものと小生は強く思う。

メロディが短調で出来ているが故に、暗いところがあるが、でもこういう曲を皆で集まって、ゴスペルや賛美歌のようにして、歌うのも悪くない。

カラ元気ではなく、密かにうちに秘めた元気と活力が蓄積されそうだ。

youtubeに、この歌の意味合いを日本語で語り、そして歌った動画があったので、まずは聞いていただきたい。
埋め込みコードが取得不可なので、ココにリンクしておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=PiBIqPSNB5U&feature=related

だいぶアレンジされているので、オリジナルに近いバージョンでどうぞ。
Kate & Anna McGarrigleがしっとりと歌っています。オリジナルに近い祈りの歌のようです。



これは元気が出そうなロックアレンジ。
Bruce Springsteenの元気いっぱいの歌で。


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by noanoa1970 | 2011-03-29 17:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

緊急地震速報画面に、日時を入れよ!

今朝早く、TVを見ていると、チコンチコンチコンという音がして、緊急地震情報が画面に現れた。

また東日本で地震が起きたのだ、おそらく余震であろう。
震度は、マグニチュードは・・・

災害地区のみなさんは、朝夕を問わず四六時中の、終わらない恐怖の中に、今も居続けているのかと思うと胸が痛い。

朝の5時を少し回ったところだから、きっと驚いて飛び起き避難を迫られたであろう。

・・・とそこまで思ったとき、今見ているのは3日前に録画しておいたものだと気がついた。

もちろん最初は、録画再生をしているという認識もあったが、CMのないNHKだし、日時の認識を得ることのない内容であったため、音と共に緊急地震速報のマークが画面に突然現れると、それが今まさに起こっているものとの錯覚を生む。

昔ならば、画質があまり良くないビデオでの録画再生だから、今自分が見ているものが、録画されたものであるという、認識ははじめから終わりまで一貫してあった。

ところが、例えばBS-hi放送をブルーレイレコーダーなどの、高度な録画再生技術を持つもので、録画再生すると、(日時を特定する内容が含まれてないものは特に)録画であることをすうかり忘れてしまい、いつの間にかリアルタイム映像だと思ってしまっているというわけだ。

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そこに緊急地震速報だから・・・たまたま震源地からは遠方の、当地には直接影響が出ないところだったから、緊急避難の行動には至らないのだが、もしこれが当地に被害を及ぼす可能性があるとしたら、まして恐ろしい津波の危険性が強いとしたら、避難行動を取った可能性は捨てきれない。

今後復興にともなって、被害に合われた方たちもTVを見ることができるようになるだろう。
そしてその前後には、アナログ放送班終了し、地デジ、BSとなり、録画再生もデジタルとなる。

そうしたデジタル社会のもとでの、今までの緊急地震速報のTV画面では、録画したものを見て今起こっているとの勘違い、そしてそれがパニック行動に発展するおそれがある。

そのように想像できる事柄を防ぐために、緊急地震速報画面内に、発生日時を入れるべきだと小生は強く思うのだが・・・

デジタル時代のTV画面によるインフォメーションの形式と内容を、もう少し考えていただきたい。
マスコミや気象庁も想像力が欠如している。

小生はしばらくして気がついたのだが、傍でチラ見していた家内は、完全にリアルタイムの出来事だと思ったという。

録画された中に出現した緊急地震速報を見て、もうすぐ大きな地震が来ると思った事実は、視聴者側のミスであるとばかりは言えない。

どうも昨今の行状を見ていると、あらゆる分野・・政治、経済、マスコミ、役所、行政などの危機管理能力と、それを補完する想像力、推察力、洞察力のなさが目につきすぎる。

例えば本日取り上げた例が、現実にあるという想像力が、全く働かない。

流し手サイドは、今の現実だけしか見てない、しかし受け手サイドは、過去も今も両方が同時に存在している。

そしてそのことは、高度な録画再生技術の結果であり、現在では、誰もが日常共通して体験できることであることを認識していただきたい。

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by noanoa1970 | 2011-03-29 08:23 | トピックス | Comments(0)

情報を情報発信を、誤解しているぞ

「音楽で腹は膨れないが、心は膨れる」

朝ドラの中で、田中初音役の富司純子が言った言葉である。

心が膨れるとは、音楽によって心が洗われ和むこと、安らぎを得ること、明るい希望がわくこと、生きる望みが得られることなど、それらが魂に訴えかけることだ。

音楽の効用については、昔からこのように、よく言われることなのだが、現実にはどうかというと、それは偏に、普段のあるいは日常の、音楽とのかかわり具合、かかわり方によって、規定されるのではなかろうか。

無論音楽を音響であるという考えや聞き方もあるとは思うが、上記のような音楽の捉え方は、音楽を即物的に捉えず、主として感情表現の産物として捉える結果によるところが多いのだと思う。

感情表現の担い手には、その送り手(作者と演奏者)と受け手(聴衆)があるが、心が膨れる状態とは、おそらくその両方の感覚感情のベクトルが一致したという錯覚によるものなのだろう。

そしてその錯覚は、感情移入という行為によって成り立っている。

つまり、音楽で心が膨れるという事は、音楽は素晴らしいという形容詞に過ぎない。

しかし、いかに音楽が素晴らしいものであっても、音楽を讃えるためのつくり話を除けば、明日の米や水もない生活の中では、一切なんの役に立たないのが現実だ。

だからいつもとは違う日々、つまり非日常が来ないように、言い換えれば、音楽がなんのわだかまりもなく聞ける日常を望むのである。

ところが、皮肉なことに我が国でも、大災害に合われたみなさんの地域社会と、小生のように、ほとんど日常生活に変化のない地域社会に生きている人間が、現に存在していて、一方は今日を生きることに必死な状況だが、一方は朝から音楽を聴き、好きなことをやれる、いつもと変わらない日常を過ごしている。

ただ大震災の前のように、平常心で音楽が聞けるかといえば、そうでもあるがそうではない、と言わざるを得ない心境があるのも確かなこと。・・・・と、ここまで書いてきたが、どうしても書いておかねばならないことが脳裏から離れないので、急遽それについて書くことにした。


昨今の原発周りの情報の伝え方は、あまりにもひどく、いったい「情報」というものをどのように把握し解釈しているのかと、首を稼げなくてはならないものが多く散見される。

国のトップは会見で、政府には情報隠蔽などないということを伝えたいのか、この間包隠さず情報を発信してきたと言うが、この男「情報」という概念を、全く理解してない。

このような国家的危機状況においても、何でも包み隠さずに、ありのまま伝えることが、情報の正しい発信の仕方であるかのような、間違った考え方のもと、単一指向に陥ったまま自分たちのやり方で正しいと思い込んでいる。

「情報」とは何であるかを少し紐解けば、すぐに分かることなのだが、一向に学習しないのはなぜだろう、この政府、情報を伝えることの根本的意味が理解出来てないし、数々の情報における矛盾点は、結果国民を愚弄しナメているとさえ思えてしまう。

「情報」は、英語ではinformationのinform「伝える」という動詞、formは元来「形づくる」ことを意味するから、理解できる形(form)にすることがインフォメーション、すなわち情報である。

この基本的なことを怠って、わかってない人物が理解してないことを伝えようとするから、伝えられた側は、いつも混乱する。
単に伝えること、連絡することの中身を、情報であるとは言わないのだ。

例えば昨日、半径20Kから30Kゾーンの住民に対して「自主避難」を促す発言が政府からあった。
そしてその理由として、「この地区は物流状況が悪いので、生活必需品の供給に支障をきたし、よってみなさんの生活に対する影響が大きい」から、それを避けるためにどこか適当なところに、自分で非難してくれ、かいつまめばそういう内容だ。

一方でこの地区は、放射線の影響はさほどなく安全であるとも言うから、自主避難の要請の根拠は、物流の影響による生活物資の困窮ということだ。

しかしいったいこれは、・・・政府が国民や当事者に対して言うべき事なのだろうか、政府はどの面下げて、こんな馬鹿げた発言をするのか。

このような言及が及ぼすであろう悪影響を、全く考えないのだろうか。

政権交代をしても、所詮野党根性が抜けきらずにいるから、我が国を牽引するのは、そして責任を背負っているのは、自分たちであるという認識がないのか。

事の本質は物流にあり、そして物流が滞るのは、道路事情でもないし、物資が枯渇しているからでもない。
その理由は、運送業者が、風評で配達を拒んでいるからなのだ。

方法はいくらでもあるのに、政府はこんな状況すらも改善できないのか。

問題点は物流なのだから、しかも放射線の量は、すぐに被害が出るほどのものはなく、四六時中外にいなければ全く問題がないと発表しているのだから、物流業者を説得すれば済むし、自衛隊に出動してもらえば、済むことなのだが、政府はそれを放棄して、住民に避難すなわちここから移動せよという負担を負わせることを強いたのである。

政府の要請を見ていると、国民にはさらなる不安が増すばかり。

物流の問題だけならば、常識的に考えてもすぐ解決つくはずなのに、物流解決の方法を選ばずに、避難を呼びかけるということ。

このことは、物流の問題にすり替えているが、実は放射線量が今後急激に強まるという情報に基づく処置ではなかろうか、という推測を生むことになる。

それに、場所も定まらないままに、あっち行けこっちに来いでは、住民の負担は計り知れないし、動くことが困難な人はいったいどうすればいいのだろうか。

住民は、さすらい人ではないはずだ。

住民はなぜ避難しなければならないのか、全く理解に苦しみ、痩せても枯れても政府なんだから、物流だけが問題ならすぐに何とかしてくれて、解決が付くはずと、当然ながら思うものだ。

避難要請の本質は、ひょっとすると物流ではなく、放射線量が徐々に増えつつあり、そのことを公表しないまま、住民を移転させようとしているからではないだろうかなどという、そんな推測をしてしまう住民や、このことを見聞きしている国民がいても、なんら不思議ではない。

つまりは政府が発信してきたもろもろの(彼らはそれが情報伝達であると思ってしまっているが)情報は、ほとんど全てと言っていいが、「情報」ではなく、それこそが風評被害を生じさせる原因であることが多かった。

受け手が、なぜそうするのか、どうして良いか、その根拠と理由そして大切な事は、それによって生ずる様々な事象の対応策をセットにして依頼や要請を以来するのでなければ、責任ある政府がやることではない。

情報はすべてお伝えしました、などという誤った自己満足をすぐにあらため、なぜ情報に「情」の漢字が当てられているかを考え、発言発表をしなくてはならない。

「情報」によって、人は考えそして行動する。

くれぐれも国民を惑わすような、不安に陥れるような、発表におけるものの言い方は、今すぐやめていただきたい。

未だに官の民に対する、上から目線があるのを感じてしまう。

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by noanoa1970 | 2011-03-26 13:42 | トピックス | Comments(5)

元気がでる音楽・・・2

本日は、元気がでるという見地からは、異色の音楽からの選曲だ。

なにが異色かといえば、本日選んだのが宗教曲、それもミサ曲だからだ。

宗教曲というと、その名のとおり宗教的で厳かで、敬虔な気持ちになるものと考えるのが普通だ。

バッハのロ短調ミサや、マタイ、モーツァルトをはじめとする、レクイエムがそうであるるように、心が落ち着く事はあっても、元気がでる(これらを聴いて元気が出るという人も中にはいるかも知れないが)という音楽ではないようだ。

しかし、小生が今まで聴いてきた宗教曲の中で、唯一と言って良い例外がある。

使われたミサの通常文テキストを少し無視すれば、そこにあるのは、神聖という概念ではなく、世俗「生の喜びの賛歌」そのものが聴こえてくるような音楽であった

その曲を初めて聴いたとき小生は、テキストは普段のミサ曲と同じにもかかわず、聞こえてきたオーケストラの響きは、地中海に浮かぶ島の白い雲と青い海を想像させるような、明朗なトーンであったことに驚いたものであった。

ミサ曲とは通常、教会の典礼儀式に最して歌われるものであったのが、時を経て、劇場などで演奏され、それを聴衆が聴くようになった。

そしてそのことは、曲の編成が大規模化することにつながったと考えて良いだろう。

つまり、宗教と少し距離をおくような場所である演奏会場で演奏されるようになってきたのだが、しかしそうであっても、作曲家の意識の根底には、神への祈りがあり、作曲の切っ掛けには、殆どの場合、純音楽的なものと共に、宗教的なものが存在する。

グノーが作曲した「聖チェチーリア荘厳ミサ曲」は、熱心なカトリック教徒であったが故に、グノーの持つ信仰心の表れであるとする言及が多い。

しかし果たしてそれだけが作曲の原動力なのであろうか。

音楽的要素から、小生はそのような固定的考え方には同意できかねる。

音楽家と盲人の守護聖人とされる、聖セシリア礼賛のためのミサ曲ではあるが、聴けば聴くほどに世俗的な音楽であり、聖人を尊崇するというより、荘厳華麗で、今生きていることの喜びと感謝あるいは人生の応援歌としてのほうに重きを置いて、それを精一杯強調した感がある音楽のように思えてならない。
注)荘厳ミサ曲の荘厳 とは、曲が荘厳であるというわけでなく、通常典礼文テキストが5つすべて使われて作られたことを意味する。

この曲の初演をを聴いたサン=サーンスは、このように言った。
「この音楽の出現は、一種の呆然自失とも言うべき感嘆を惹き起こした。その簡単さ崇高さ威厳に満ちた光は、まるで朝日のように、音楽の世界に響き渡ったのだ。人々は最初眩惑され、次に魅惑されそして最後に征服されてしまった。」

おそらくグノーには宗教者としての生きざまと、音楽家としての生きざま、その2つが混在いしていて、一方をネグレクトできない自分がいたことだろう。
しかし彼は音楽の道を重点的に進むことになるわけだが、このミサ曲には、そんなグノーの両立願望が現れているようで、神聖的なものと世俗的なものが混在しているが、結局は音楽、つまり世俗的内容の音楽が、宗教曲の仮面を被った世俗曲となって現れることになった。

宗教曲につきものの、対位法やフーガが使われてないのは、宗教との決別の思いがそうさせたのかもしれない。

このあたりは演奏表現によってもニュアンスが異なるのだと思うが、小生はこの音楽を、純然たる宗教曲として聞くことはなく、アクティブでプログレッシブに生きようとする人々への、応援の曲として受け止めることが可能だと思っている。

それでもこの曲の一部には、敬虔な気持ちにさせるところもあるから、この度の大災害で不幸にしてなくなった方々への追悼として、聴くことも悪くない。

昨日はアルトマン指揮の録音を聞いた。
ピラール・ローレンガー(Pilar Lorenger, ハインツ・ホッペ(Heinz Hoppe, フランツ・クラス(Franz Crass, 合唱ルネ・デュクロ合唱団、オーケストラ、パリ音楽院管弦楽団という物だが、ソロの素晴らしさが印象的だった。

本日はマルケヴィッチがチェコフィルを降った録音で聞くことにした。
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こちらは、アルトマンよりテンポを少し落とし気味にした、ゆったりとした設定だ。
録音が古くモノラルだから、モノトーン気味に聞こえるが、演奏はすこぶる良い出来だ。
聴いた中では一番宗教色が強い演奏だ。
イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)ゲルハルト・シュトルツェ(テノール)ヘルマン・ウーデ(バス)のソロもいい。http://www.hmv.co.jp/product/detail/2575519今調べたらステレオ録音されたものが復刻されているようだから、これは買いなおさねばならない。
  
ジョルジュ・プレートル盤は一番良く聴くが、こちらが一番ダイナミック、世俗的な表現で、生への賛歌応援歌というこのブログ内容にピッタリの演奏。バーバラ・ヘンドリクスの歌唱も見事。

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by noanoa1970 | 2011-03-24 12:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

7つの名前を持つ男

モイセイ・サムイロヴィチ・ヴァインベルクという作曲家は、スターリン時代をショスタコーヴィッチとともに過ごした人だ。

ポーランドのワルシャワ生まれ、ユダヤ人である。
ナチスのポーランド侵攻で、ソ連に亡命した最、ミエチスワフ・ヴァインベルクというポーランド語の名前を、ロシアふうに変えた。

その他ドイツ語、ラテン語、キリル文字表記など、移動地ごとに名前が変わるという具合に、自分の名前を沢山持つが、これはユダヤ人の生きるための知恵でもある。

正確に7つではないが、名前を多く持つという意味と、ユダヤ教キリスト教で重要な数字の7をあえて使わせてもらうことにした。

ワルシャワに残った親兄妹は、トラヴニキ強制収容所で亡くなったし、結婚した嫁の親もスターリンの反ユダヤ主義の一環で殺されたというから、反ユダヤを標榜した独裁者、スターリンとヒナチスヒトラーに対する恨みは相当なものがあったに違いない。

作品はというと、ショスタコーヴィッチ並の多作で、交響曲は19曲も作っているし、室内楽も多い。
7つあるオペラの内、パサジェルカは特に重要な作品だとされる。

本日この作曲家のオペラを取り上げることにしたのは、普段からよく聴いていたからではなく、むしろいままで全く眼中に入ってこなかった作曲家であるにも関わらず、歌劇パサジェルカ Passazhirka を見る機会に恵まれたからだ。

2010年7月 オーストリア ブレゲンツ祝祭劇場での、おそらく世界初公演が、BSーhiで放送されたのだが、そのストーリーは、アウシュビッツで起こった出来事を主人公に回想させ、本来なら幸せいっぱいのブラジル行の船中が一変して、こころ穏やかならぬ時を過ごすことになってしまった。
そんなある女性の心理状態、苦悩や葛藤を描いたものというのだから、刺激的オペラであろうと期待し観ることにした。

大まかな内容は
ナチス時代のアウシュビッツで、監守人をやっていた女性は、月日が流れ外交官と結婚。

1961年、外交官の夫の転勤で、ブラジルへと渡る客船のデッキで、アウシュビッツ時代に知った、ある人に似た女性を見つけたことから物語が始まる。

その人物は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人の女、当時看守であった彼女は、ユダヤ人女性に最初は同情し、何かと親切にして友情を深めようとするが、ユダヤ人女性は冷ややかな目で看守を見るだけだった。

本当の親切心ではなく、それはユダヤ女性の激しい恋心に嫉妬心を抱いた裏返しの行為であることをユダヤ女性は見透したからだが、それに腹を立てた看守は、仕返しにと、厳しい仕打ち・・・ユダヤ女性の人権のすべてを、暴力的に支配するといった具合に変貌する。

ある時、収容所の実態を調査しに来た、現場監視役の上司から、看守の評価を問われたユダヤ女性は、看守の暴力に怯えたのか、良くしてもらっていると監視役に告げ、そのおかげで、看守は出世し本国に帰還する。

しかし一方、看守の悪行を何故か言わなかったユダヤ女性は、すぐに死への場所に移されることになった。

大まかなスリーリーでしかないが、ユダヤ人の女性にたいし、ドイツ人のしかもナチスの女性看守の、アウシュビツでしてきた、忘れてしまいたい残虐な行為。

かつてのユダヤ女性に似た人を見て、忌まわしい記憶がよみがえってきたその現実が、自分の幸せな未来をすべて奪ってしまうのではないか、という恐怖で怯えるほどの重荷の大きさと、それに至る心理状態を顕いたものと受け止めた。

実際ユダヤ女性に似た人は、英国人とわかるのだが、過去の忌まわしき記憶は、脳裏から消え去ることはない。

夫には、自分がナチス党員だったことがバレてしまい、もしそのことを世間に知られることになれば、重い刑罰を受けるはめになり、幸せだったこれまでの日々と希望に満ちた将来が、一転して不幸のどん底に変わってしまう。

もう自分に幸せはないのか。
いずれユダヤ人のナチスの残党狩りに捕まるかもしれない。
夫は多分離婚してくれと言うだろう。
あのユダヤの女性によく似た女性と出会わなければ・・・
アウシュビッツに収容された人たちへの厳しい仕打ちは、命令されて行なったもので、自分のせいではない・・・

などなどの思いが頭の中を駆け巡る。

日常のふとした偶然が引き起こす悲劇・・・しかしそれは決して偶然ではなく、過去に自らが行った残虐行為が招いたという、因果関係の結果によるもの。

加害者は忘れても被害者は永遠に忘れない。

過去の非人間的行為を、日常は忘れて過ごせても、心の片隅に残っているから、何かのきっかけで表面化する。

そのような考え方には、因果のなせる必然であるという、ユダヤ的思想が根本にありそうだ。

すなわちユダヤ人のナチスドイツ、ヒトラーに対する、戦争犯罪追求の執念の姿勢、全面には出てこないが、背景には絶え間なく流れているようだ。

外交官の夫と、ナチスの残党と分かってしまった妻が、この先どのような人生を送るのかは、だれも知らない。

しかし毒ガス室に送られて、死んでいった多くのユダヤ人に比べれば、心の重荷、葛藤などは些細なこと、自業自得で、いた致し方ないことである。

元アウシュビッツの看守でナチス党員の女性、この先どのように生きることが可能なのだろうか。

ユダヤ人には、かつてのナチス党員を徹底的に炙り出し、裁判にかけることを目的とする組織が、今も尚、存在するようだ。

ショスタコーヴィッチに比し、彼の評価が定まるのはかなりの時間を要すこととなった。
近年再評価が進んでいるから、録音も増えると予想される。

キャスト及び演奏
旧アウシュビッツ看守・・リーザ:ミシェル・ブリート
外交官の夫・・ワルター:ロベルト・サッカ
ユダヤ人女性・・マルタ:エレナ・ケレシディー
マルタの恋人・・タデック:アルトゥール・ルチンスキ
収容所の女性・・カーチャ:スヴェトラーナ・ドネワ 
管弦楽:ウィーン交響楽団
合唱:プラハ・フィルハーモニー合唱団
指揮:テオドール・クレンツィス
演出:デヴィッド・パウントニー

出演者はもちろん、指揮者も知らない。
ただウイーン交響楽団とプラハフィル合唱団を知っているのみ。
映像で見るこの若手指揮者クレンツィスの、大仰な手振り(視認しやすいためにだろうか)が印象的だ。
比較もできないが、さすがにこのオケは、難曲にもかかわらず、うまくこなす。
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by noanoa1970 | 2011-03-23 11:26 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

元気が出る音楽、外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」

ありそうで、なかなか無いものだが、やはり日本人なら日本の音楽が良いと、思いつたのは、「管弦楽のためのラプソデー」。

言わずと知れた外山雄三の作曲になるものだ。

昨今では録音もちらほら見られるようになって、NAXOSの日本人の作曲家シリーズにおいても、新しい録音でお目見えした。

沼尻竜典と東京都交響楽団による演奏も悪くはないが、この曲の持つ土俗的なエネルギーの表出感が今ひとつだ。

録音も良く音は綺麗だが、マッシブなそしてプログレッシブさが少し足りないのだ。
若い指揮者だからきっと1960年代初頭の、まだ日本においてクラシック音楽、特に邦人の作品が闇の中にあった時期、「日本人ここにあり」的な、伝統と革新を合わせ持たせた音楽を志向したその時代、作曲家の苦悩の反面存在した、将来への夢と希望への躍動感の存在を知らないのだろう。

だから、思い入れるものなしに、即物主義的に、サラリと演奏してしまっている。

作曲者の外山自身に語らせると(小生は学生時代、外山を招いてパネルディスカッションを企画実施したことがあった)恐らくは、そんなことはないといい、拒否すると思うが、外山の心中に「日本人」という強い意識がなかった筈はない。

N響海外公演用アンコールと位置づけられるこの曲は、その本来の姿は、東欧の作曲家とほぼ同じように、自国の伝統音楽を、いかに現代の手法を使い、世界に通用するスタイルの表現にするかという当時の邦人作曲家誰もが直面した志向に基づいたものであった。

ある者は印象派に、あるものは新ウイーン学派に、ある者はバルトーク、ヤナーチェクの新国民楽派に、ある者は社会主義リアリズムに注目、そしてそれを研究し、かれらの作曲技法から学んだものと、日本のあらゆる伝統音楽とを融合させようと試みた。

その時代はまだイデオロギーというものが、インテリゲンチャとは縁が切れないものだったから、芸寿家も否応なしに、己の主義を決めざるを得なかったのである。
60年安保はその試金石でもあった。

興味深いことは、小生が知る範囲では、この時代日本に「退廃音楽」は登場してない。
このあたりは「伝統音楽」の積極的取り込みの影響と、本人たちは気がついてないにしろ、日本人魂的なモノが根底にあったせいなのかもしれない。

ただし創作された曲はいずれも、折衷の域をこえているとは言いがたかった。

しかしそのような、折衷的楽曲が多い中、外山のこの曲は、近代現代の手法にこだわることなく、かといって日本の民謡をそのまま借り入れたわけでもない、自分の感性でかなり直感的に纏め上げた作品で、かえって特異な存在であった。

技法的にはなんの面白みもない音楽、そして本人はどう思っているかは別として、グローバルな土着というべきか、まずは外国で人気が出ることになり、その反響が逆輸入され、すぐに多くの日本人の好きな曲(多分)となった。

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外山本人の指揮による演奏もあるが、ここはやはり名手岩城宏之に登場願おう。

岩城の、ダイナミズム溢れ、マッシブでアグレッシブな音の塊は、いつも聴くものを圧倒してくれる。

N響も初のステレオ録音ということもあってか、持てる力を精一杯発揮したようだ。

未曽有の大災害で、途方にくれている人たちへの、励ましの音楽として聴くことにする。

日本の名演奏史というものがあるとしたら、この録音は、まさにそれに当てはまるものと言える。

岩城宏之/NHK交響楽団 キング1961年1月東京・文京公会堂録音

N響初のステレオ録音ということもあって、キングは相当に力を注いだと思われる。
LP1枚が化粧箱に入っているし、英文の解説まで付属する力の入れようだ。

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by noanoa1970 | 2011-03-22 09:06 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(3)

新しい発見、マラ1とベト4、ストラヴィンスキーとバッハの類似

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朝早く起きてマルケヴィッチ/フランス国立管弦楽団1967年録音を聴くことにした。

このCDは他にシューリヒトのベートーヴェン1番1965年と3番の交響曲1963年、とても懐かしい演奏家、ニキタ・マガロフのピアノとフリッツ・リーガー指揮1970年で、リストの協奏曲2番が、マタチッチ指揮1963年でプロコフィエフの3番の協奏曲協奏曲が収録されているオムニバス盤であるが、オケがフランス国立管弦楽団で演奏会場がシャンゼリゼ劇場ということで共通する。

CDは3枚になっているが、今朝はこの中からストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」を聞いた。

発見したのは、バッハの音楽の捧げものとストラヴインスキー詩篇1楽章の類似点。
ただしどこを調べてもそれらしき著述は今のところないが、小生は明らかにスオラヴィンスキーが引用したものと思う。

ついでにカップリングされているマーラーの1番の交響曲「巨人」を、久しく聞いてないマルケヴィッチの指揮で聞いてみようと思った。

指揮者がマルケヴィッチだからなのかは、わからないが、1楽章冒頭部分高弦のハーモニクスが聞こえたすぐ後に出るモチーフが、ベートーヴェンの4番の交響曲の冒頭部分によく似ていると、瞬間的に思った。

あまりにもの類似に、今まで気がつかなかったことが不思議だったが、指揮者によるものであろうか。

そのような経験は他でもあって、サン=サーンスの3番の交響曲を名だたる指揮者の演奏で聴いていたときはそうは思わなかったのだが、プレートルが指揮をしてモーリス・デュリフレがオルガンを弾いた録音を聞いたとき、「神の怒りの日」が引用されている・・むしろそれがモチーフとなっているのではないか、ということに気がついたことがあった。

気がついた当初ではそのような言及は見当たらなかったが、最近では引用されたとオーソライズされる著述も多く現れるようようになった。

指揮者によって起こる演奏の違いがあるのはもちろんだが、音の響かせ方・・・和音の強弱、内声部の強調などといった、微妙なニュアンスの差が、聞き手に重要な何かを与えるということは現実に存在すると思う。

マラ1とベト4冒頭部分の類似について他に誰か言及しているかと、ネット検索してみたが、ようやくあるブログに、そのことについて言及したものがあった。

b4takashiさんのブログ記事「ベト4とマラ1が似ている気がする」に、楽譜を交えて語っているのを発見し、先人がいたことを少々悔しい気もしたが、それより同じ耳と感性をお持ちの方がおられたこと、そして小生の耳がまだ衰えていないことがわかったようで、いい気分になった。
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by noanoa1970 | 2011-03-21 10:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(5)

ううあ、もしくはうーあ

ACjapanのCMで、金子みすゞの「こだまでしょうか」を朗読している女性は誰だろうと、気になって検索すると、「UA」という女性シンガーであるとわかった。

「UA」・・United Airlines の回し者ではなく、「UA」と表記して「うーあ」と読むのだそうだ。

「ユーエー」と、つい読みたくなってしまうのは、感性が鈍くなった証拠のようで、少し悔しいが、最近の傾向は、まず音がありきで、その音にあとで適当にアルファベットとかカタカナとか、漢字あるいはひらがな文字表記をするのが流行のようだ。

スワヒリの言葉で「うーあ」の意味は「花」であり「蛇」でもあるらしいが、「花と蛇」・・何かを連想しそうで、どこか原住民らしきトーンを感じさせる。

drac-obさんがブログに書いていたが、ロックバンド「INU」は「アイエヌユー」ではなく、「いぬ」と読むのだそうだ。

昔、英語を覚えてしばらくした頃、「tobe tobe ten made tobe」の意味は?という有名な引っ掛け問題があって、シェイクスピアか、などと少し教養のあるものは、それが邪魔をして、全く英文になってないから、答えられなかった覚えがある。
答えはローマ字読みにあることは、皆さんご存知と思う。

素直な感性が、どこに行きがちな昨今だが、失いつつある感性を取り戻すのにも、そのような少々脳を刺激するような事柄はありがたい。

かといって「UMA」は、「うま」と読んで構わないが、「馬」ではなく、Unidentified Mysterious Animal:未確認生物の略語ということを知らなくてはならない。
文字を読むのにも神経を使うから、この頃は大変だ。

さて、「UA」・・「うーあ」というシンガーの歌を聞いてみるべく、お世話にあっているyoutubeで検索すると、たくさんの曲が登録されていて、曲目を眺めると、ロック、R&B、ポップス、民謡、
JAZZ、そしてオリジナルまで、すごく幅広いジャンルを歌っている。

活動期間がそう長くないのに、アルバムの数も相当数あるし、映画にも出演すると言うマルチタレントで、この傾向も昨今の特徴であろう。

昔のように、歌手は歌手で生きていくという分業ではなくなってしまい、マルチ化が進んでしかも誰もが芸術家、誰もがタレント、誰もが評論家、といった誰でも化現象が社会的に認められるようになって、安直にその道い進むことが可能となった。

そのような環境の中、ややもするとマルチタレントと言うには不適切な、例えばモデル上がりが歌を歌うが、ヴォイストレーニングなど基礎訓練もろくに受けないので、菊に耐えないが、非隠人はうまくこなしていると思っているし、顔とスタイルがそれを補完しているのに気がつかないものもいるが、そういう勘違い者は時の移ろいと共に消え去っていく。

だから芸能界の興亡は昔に比べて、極端に激しくなっている。

「UA」はどうだろう、推測してみようと思い、まずは彼女の歌を聞いてみた。

そこまでアクションを取る気持ちにさせたのは,なんといっても彼女の朗読の声とトーン、間の取り方と抑揚が、金子みすゞのかの詩にすごくマッチしていたからにほかならない。

先日ブログで少し触れた、医師であり歌手であるというマルチタレント「アンサリー」(偶然だがUAと同じ年生まれ)を、もう少しハスキーにしたような彼女の声は、例えば「ジャニスジョプリン」や「ジェーンバーキン」を歌うのに似合っているようだ。

高域の音を鼻から抜けるように歌うと、さらによくなると小生はおもうのだが。

好き嫌い分かれるかもしれないが、小生は気にいってしまい、数曲続けて聞いたが、そのなかで「KABA」というアルバムから抜粋した曲があった。

何でも彼女によれば「KABA」は「河馬」ではなく、「カバー」、すなわち他の人が歌ったものをカバーしたアルバムだという。

そのあたりにも、まず音声・・耳から聞く音ありき、そしてあとで適当な文字にするという姿勢が現れていて、文字にはできない幼児期、意味がわからないまま、耳から音として入って覚えた、そんな感覚が彼女にあるだろうことを再確認した。

新しい感覚のようでそうでなく、幼児期に誰もが体験したことなのだが、それを大人になっても忘れずにいることの素晴らしさがある。

こういう感性を大事にした幅広い活躍を期待するものである。

「KABA」アルバムコンセプトを語るUA


陽水の「傘が無い」をUAが歌う。

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by noanoa1970 | 2011-03-21 05:14 | トピックス | Comments(0)

AC-JapanのCM

あちこちでACのTVCMが話題になっている。

そしてそのほとんどが、批判的内容だ。

民放各局は、この度の巨大で悲惨な災害に当たって、これまでの企業CMを流すのを自粛した。

その代わりに、多分共同出資して作られた例のCMを流すことになったのだろう。

さて、ここまでは情勢を慮った、適切な処置であるし、CMの中身も公共の互助やモラール、子供の大切さ、老人福祉、コミニケーションの大切さ、健康などだから、これまで日常の売らんかなの宣伝が多い中、一服の清涼剤となるべきものであった。

しかしどうだろうか、同じCMを起用するのは、少し状況を考えればいた仕方ないことと思うが、あのように同じものを連続で、しかも通常のCMの時間中流れっぱなしであることは、いくら広告の中身が良いとはいえ、それを見る視聴者には相当な苦痛を強いることになる。

初期の頃はそうでもなかったが、最近では従来のCM時間の隙間を縫うように連続して流れる、ACのCMが聞こえ出すと、耳を塞ぎたくなるほどになってきた。

もうすっかりCMの内容も、それが意図することも知ってしまい、しゃべりをも覚えてしまうほどになってしまっている。

嫌なら見るなという、お決まりの論調があるが、この非常時に情報を把握することができるのはTVが主で、かなり長く見なければより正しい情報がつかめない。

CMのないNHKだけを見るのが手段かもしれないが、情報が偏っては困るのだ。
したがって、民放とNHKを見比べて情報を自分なりに集約するようにしているから、どちらも大切な情報源だ。

それにしてもあれだけ連続し、しつこく流れるCMは、おそらく史上始めてではないか。

頭を素通りさせる知恵も付いたが、それでも通常ならかなりのインパクトを与えるものだから、サブリミナル効果とは言わないが、別の深刻な問題が発生するのではないかと心配している。

民放各局は、なぜこのようなやり方をせざるを得なかったのだろうか。
「過ぎたるは及ばざるが如し」という格言を知らないのだろうか。

全国規模で重大なことが起きた場合、ここの企業CMを中止し、ACすなわち旧公共広告機構の、企業宣伝ではない広告を流すと決めていたのだろうか。

おそらくはそう考えて良いと思うが、問題はACのCMの使い方すなわち運用にある。

スポンサーである個々の企業のCMを流すことを中止すれば、おそらくは企業とのCM契約不履行となり、ペナルティが発生することは承知の上であえていうが、今まで通常時にCMに費やす時間すべてを使い切る必要が、果たしてあるのだろうか。

統計をとったわけではないが、1時間の番組の中でCMに使われる時間は約15分、不況下の最近ではもう少し長いかもしれない。

普段でも連続して2回同じものを流すことがあり、その場合でもしつこいと思う人は多いだろうに、いったい誰の裁量なのか知らないが、あのようなある種クレージー気味の方法を取るのは、非常識といえよう。

しかもその広告主が、公共広告のあり方を追求している、いわばモラールの防波堤的存在でもあるから、言う事とやることがおお違いだから、どうしても批判の矢面にさらされる。

利潤追求という判断のもとでのやり方ではないように思うから、ここはもう少し知恵と工夫で、例えばあの一連のCMを連続的に流すのをやめ、番組編成上余った時間は、風景とBGMで繋具といったことをやれば、あのような批判は怒らなかっただろう。

もっと望むなら、災害の情報を流す番組編成の際は、CM全面カットという大英断をしても良かったのではないか。
差し障りの無いCMとして、ACのCMを使うよりも、その方がマスコミの民放各社の意志の表明として受け取られ、評価を得ることになるだろうに。

ACに批判が集中しているようだが、批判の相手はACではなく、民法各局あるいはそれを束ねるところに向けるべきことではないだろうか。

しかし民法各局すべては、視聴者の立場に立てない、「やらせ」・・・こういうCMを流せば自粛という意思が伝わるであろうという、視聴者を小馬鹿にしたような方法に落ち着いてしまう、このような体質がまだ大いに残っている所だということを改めて認識した。

組織が大きいと、こんな根本的なこと・・・(まずは視聴者ありき)さえ考えの主流にあらず、本来とは全く関係の無い論理が優先され、結果あのような非常識極まりない、お化けを生み出すのだろう。

つまらない運用で、せっかくの自粛が裏目に出てしまった。

しかもあれだけ批判されてさえも、まだやり続けるその根性はなにゆえなんだろうか。

災害の報道で手一杯で、そこまで構っていられないというところなのだろうか。

考えたくはないが、スポンサーとの約束不履行、すなわち返金を回避するための、見せCM(お金は返さないがこの公共CMのスポンサーということにする)として、協力してもらうためのツールとしてあのACのCMがあるのだろうか。

広告の内容は、どれもかなりハイレベルなのに惜しいことだ。

金子みすゞの詩「こだまでしょうか」を使ったモノなど素晴らしいと思うのだが、そんな金子みすゞの詩を冒涜するようなものも出現しているが、それも多分CM連続流しに原因がありそうだ、

TV各局には、猛省を促したい。

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by noanoa1970 | 2011-03-20 06:09 | トピックス | Comments(4)