アンゲルブレシュトのレクイエム

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シャルランが録音した珍しい逸品。
どうもシャルランは、オルガン録音を得意にしていたようで、残されたもののなかにはオルガン曲が相当ある。

そして、声楽曲はシャルランの録音の性質を、とてもよく表現するものだと、小生は思っている。
それで最初に今シリーズで入手したのが、フォーレのレクイエムであったが、これは前復刻盤に比べかなりましではあったが、全体的にスッキリしない印象で、少々期待はずれであった。
ただし、シャルランらしいアナログの良さは、前復刻の数倍は出てはいたように思うが・・・
小生の好きな、初期エラートの録音と、余り差がないようであった。

小生実は、フランクのオラトリオ「至福」を入手したかったのだが、残念なことに、この音源復刻はなされなかったようだ。
サブマスターに瑕疵があったのかもしれないが、返す返す残念なことである。

それで、同時に入手したアンゲルブレシュトが作曲したレクイエム(アンゲルブレシュトのフォーレのレクイエムは定評がある)そして「ヴェゼレイ」という、交響的招魂と呼ばれる、いわば宗教的交響曲の、いすれもが世界発録音のカップリングで、宗教曲を得意にしたジャン・フルネ指揮で録音されたもの。

アンゲルブレシュトは、1911年の「聖セバスチャンの殉教」初演の合唱指揮者で、翌年全曲の指揮も行ったいわゆる初演指揮者である。
ドビュッシーとの親交が厚く、ドビュッシーのスペシャリストとして知られている。

このレクイエム、基本的には、フォーレのレクイエムの7曲編成を、踏襲していると思われ、本来のレクイエムのスタイルからはかなり遠い位置にある。
フォーレとの相違点は、以下「赤」オッフェルトリウムは含まれず「黄色」のディエスイレを加えている点。

イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie)
ディエスイレ(Dies iræ)
オッフェルトリウム(Offertorium)
サンクトゥス(Sanctus)
ピエ・イェズ(Pie Jesu)
アニュス・デイ(Agnus Dei)
リベラ・メ(Libera me)
イン・パラディスム(In paradisum)

曲は重苦しいオルガンの序奏で始まり、合唱があとを追う。
キリエでは、フォーレのレクイエムの冒頭とよく似たフレーズが印象的。
やがてファンファーレとともに強烈な合唱が始まる。

作曲年代・・1940年あたりからすれば、現代音楽なのだが、それに反し、印象主義的・神秘主義的、そして浪漫主義的な雰囲気が垣間見れる音楽となっているのは、ドビュッシーや仏6人組あたりの影響だろうか。

フォーレにはないディエスイレを入れているところは、レクイエムの必然のように感じるが、続くサンクトゥスがディエスイレのように激しい音楽となっているから、緩急のメリハリからは、これはあえて入れなくても良かったようにも聞こえるが、フォーレをそっくり踏襲するのを避けたのだろうか。
ここにおいて、少しの不協和音が見られるが、現代音楽然とはしてないため、非常に聴きやすい。

シャルランの録音は、オケと合唱のffにて其の手腕が分かる。
声楽もオケもオルガンも・・・すべての合奏のアタックにおいて、少しも音質がにごらないのは見事だ。

いちばんの聴きどころは「サンクトゥス」ではなかろうか。
ディエスイレよりも相当強烈であるが、凄く耳になじむ。

フォーレで最も印象的なPie JesuとIn paradisumを、アンゲルブレシュトは、どのように表現しているか期待して聴いた。
一言でいうのは困難なことだが、幻想的な雰囲気に仕上がっている。
リベラメの詠唱を聴くと、神秘主義に通じるようにも感じられる。

全体的には、オルガンの使用頻度がフォーレより高く、前面におしだされる場面が多い。
20世紀の作品の割には、とても聴き易い作品だ。

フォーレのレクイエムの影で、ひそやかな存在となっているのだと思われるが、デュリフレのレクイエム同様の評価を得ても良いのだと思う。
今後演奏や録音の機会が増えることを臨む。

「ヴェズレイ」についてはいずれ書くつもりでいる。

アンゲルブレシュト:レクイエム
         :ヴェゼレイ
クリスティアーヌ・エダ・ピエール(Sop)
レミ・コラッツァ(Ten)
ベルナール・クリュイセン(Br)
ベルナルド・ジャン・フルネ( 指揮)、
フランス国立管弦楽団、フランス国立放送合唱団
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by noanoa1970 | 2010-08-31 10:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)

フランクとワーグナー

ワルキューレ3幕を聴いていると、何処かで聴いた特徴的なフレーズガ聞こえた。

それがなんであるかを思案して、ようやくそれがフランクの交響曲二短調の冒頭:序奏のフレーズと全く同一であることを確認した。

以下はフランクの交響曲Ⅰ楽章。
お聞きになればその箇所がすぐにおわかりになれると思う。


たった3つの音でできているものだが、そのフレーズは非常に特徴的で、多分ライトモチーフの1つではないかと、探ってみると、それがワーグナーのワルキューレにおける「運命の動機」であることが判明。

このフレーズに2度高いものを組み合わせたフランクは、そのフレーズを1楽章のいたるところで使用している。
おまけに循環形式をとっているから、ほかの楽章においても、そのフレーズガ聞こえてきて、さらに印象度が増しているのだろう。
そして、このフレーズを「循環主題」と呼ぶのであろう。

しかし、フランクが、ワーグナーがワルキューレで使用した「運命の動機」についての記述はどこを探しても発見出来なかった。

ただワーグナーの影響を受けていたとして、パルジファルからの引用があるらしい旨の記述が見うけられただけだ。

でも、これだけ・・・全く同一のフレーズを、度所っ初から引用し、いたるところで回想するがごときに、何回も循環しながら再現するフランク。

よほどこのフレーズ、そしてワルキューレあるいはそれらを通じて、ワーグナーをリスペクトしていたのだろうか。

今回の私的発見から、フランクのワーグナーからの影響度がどのくらいあって、そのことが作品にどのように反映されているかを探る視点が見えてきたような感じがする。

一般的に仏音楽家とワーグナーは、相性が良くないから、なにか面白いものが発見できるかも知れない。

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by noanoa1970 | 2010-08-28 21:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ワルキューレ第3幕前奏曲考

ワルキューレの中でも、3幕の前奏曲:「ワルキューレの騎行」は、オーケストラ版にアレンジした単独曲でも演奏されるように、非常に有名なか所だ。

さて、この前奏曲だが、ほとんどが、馬に乗った女戦士の勇敢な姿を描いたように,勇ましく演奏される。

コッポラが「地獄の黙示録」のヘリでの戦闘シーンで用いたごとしであり、そのような激しい勇敢な演奏を聴くと、あのシーンがフラッシュバックさえして来る。

しかし、「前奏曲」とは何であろうか?
その様な問いかけをするなら、それは幕への導入部分であり、その幕がどのような話なのかを、かいつまんで説明するとともに、なおかつ前の幕との繋ぎの役目をもするのではないか。

その様な・・・前の話を思い出させ、次の話に観客を導入するための仕掛けが、幕前の前奏曲である。

さすれば第2幕最終部の内容は、おおよそ以下の通りとなる。

ヴォータンの命に反したことで、ヴォータンに追われて逃げるブリュンヒルデは、神々の黄昏で、生涯をともにすることになる、名馬で愛馬の「グラーネ」に乗って逃げ帰る。

第3幕は、ブリュンヒルデが、父ヴォータンの逆鱗に触れ、しかしながら同時に父ヴォータンの愛情に包まれ、やがてジークフリートとめぐり合うための、神族から人間族への回帰の過程が塗り込められている。

ともすれば、8人のワルキューレたちが、天空を天馬に乗って駈けめぐり、英雄の争奪戦を繰り広げているのが、第3幕の前奏曲だという解釈のもとに、激しく演奏されるこの音楽。

しかし、このシーンはヴォータンから追われ、愛馬を操って逃げるブリュンヒルデの必死な様と、長時間疾走し続けたグラーネが、いくら名馬とはいえ、精根尽きはて、息絶え絶えになりながらも、主人ブリュンヒルデのために、瀕死の状態で駈けてくる前シーンの再興藩部をも包括するべきなのだ。

コンヴィチュニーの第3幕の前奏曲は、金管のけたたましさも、名馬グラーネの足取りは、ただ疾走するばかりでなく、重く苦しそうで、ほとんどの指揮者が演奏するような、軽快さと激しさ、そして迫力はない。

楽劇の進行内容を無視すれば、「ワルキューレの騎行」は、勇ましく軽快で胸のすくような演奏もあり得るし、おそらく・・・小生もかつてはそうであったが、その様な演奏を求めたものだった。

音楽そのもののインパクトを考えれば、その様に迫力ある「ワルキューレの騎行」は、聴衆に受けるし、またその様な音楽作りが支持されたことは事実であろう。

しかし、2幕からの物語の展開をよく読み取れば、あのシーンは、最初は足取り軽やかに疾走する馬に乗ったブリュンヒルデが、疲れてきたグラーネを叱咤激励して、ヴォータンから逃げてくるシーンを内包しなくてはならないことが分かる。

足取り重いが、主人のために、ありったけの瀕死の力を振り絞って走るグラーネ。
そんなグラーネを思いやりながらも、なんとかヴォータンから逃げたいと必死なブリュンヒルデ。

人間界からワルキューレ姉妹のいるところへと逃げ戻る、その様な時間空間的距離は、馬に乗って天空を駆けるブリュンヒルデの姿の永遠性は、いかに神族でもも困難なことを、ワーグナーは知り尽くしていた。

したがってその経過を、前奏曲という形にして、2幕から3幕へのスムーズな進行の繋ぎとしたのであろう。

そのあたりをよく捉えて、表現したコンヴィチュニーの演奏は、「武骨」で、おそらくは「ワルキューレの騎行」と相いれないという判断をされがちであろうが、それはとんでもない誤解で、「前奏曲の役割」そして「楽劇の音楽」を心底わかっていた少ない指揮者の一人であると小生はその様に思っている。

コンヴィチュニーの音楽を、とてもよく象徴しているところとして、第3幕の前奏曲:「ワルキューレの騎行」の部分を紹介しておきたい。
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by noanoa1970 | 2010-08-27 10:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

復刻シャルランを聴く

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シャルランという、録音技術士および彼が興したレコード会社のLPをご存知の方は、クラシックファンの中でも、相当のオーディオファンであろう。

1960年代の中ごろから70年代まで、オーディオファンでクラシックファンの面々は、このシャルランというレーベルの録音を、まるで神のごとく扱っていたのだった。

しかし、彼が残した録音のほとんどが、室内楽が多く、しかも名前も知られていないような演奏家を起用しての録音であったことや、輸入盤となると、4000円以上はしたと記憶するから、おいそれとは入手出来なかったのであった。

ありとあらゆる情報は、シャルランを絶賛するものだから、小生も国内盤なのか、輸入盤なのかよくわからなかったが、トリオが販売代理店となったころに、たった1枚だけ入手した。

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その話は、7.8年前に国内でCD復刻されたものが発売されたとき入手したフォーレのレクイエムを聴いて、以前のブログに書いて置いた。

その時のあまりにもひどいCD復刻の音質には、相当がっかりしたのだったが、今度新たにCD復刻いされるとのことで、同じフォーレを入手し、それであのシャルランの音質が確保されているようなら、ほかの復刻盤をも入手しようという根端だ。

それで先ほどから聴き始めているのだが、結論を言えば、国内復刻CDよりは相当増しで、左右の広がりも奥行き感も出てはいる。

合唱のアンサンブルのあれた感じも、オルガンの自然な響きも、ソロの可もなく不可もない歌唱も、少人数のオケのヴァイオリンパートがない弦パートであることも、いかにも良い状態のアナログ六音だということが分かる。

初期の…50年代から60年代初期にかけての、Erato Recordsの上質な録音を彷彿させる録音であることが分かる。

しかし音の艶は期待を裏切ることとなり、所々マスターテープの瑕疵が見受けられることや、ヒスノイズ、録音機材が発するハムノイズをひろってしまっている。

オリジナルマスターテープは、聞いた話では、税関のミスで廃棄処分の運命にあったといい、それ以降の復刻はサブマスターニよるものだという。
前回の国内発売版は、板興しであったから、シャルランの良さはまったく、そしてアナログ・・・LPの持つていた音質は、まったく再現されなかった。

今回の新たな復刻盤は、それよりは、はるかに増しではあるが、やはり現代において優位となるには、限界があるようだ。

ひょっとすると、・・・復刻の技術的良し悪しもあろうが、所有のヴィヴァルディの四季LPの音質と比較すると、シャルランの録音の中で、フォーレのレクイエムは、失敗作なのかもしれない。

それは、もともとのオリジナル録音がそうだったのか、サブマスター(これがどのような代物かは不明)によるものの限界なのか、テープヒスや録音機材の発するハム音、小生のCD固有のものなのか、パチパチというデジタルの傷の音らしきものも聞える。

リマスターリングで、テープヒスやハム音を取り除くことが可能なのに、あえてそうしなかったのは、やはりオリジナル性を大切にしたかったのだろうという予想はつくが、シャルランを知らない世代の人に聴いてもらうためには、少し工夫が必用だったのかもしれない。

そうは言うものの、久しぶりにCDによって、アナログ的な音を堪能できたことは、1960年代がよみがえってきたようで、非常にここちが良いひと時であった。

これから、同時に注文しておいた、小生初聴きの、アンゲルブレシュトのレクイエムを聴くことにするが、さすがに連続しては聞けない状況だ。

レコードジャケットも、新旧ではかなり異なり、新盤のほうに色合いがオリジナルLPの雰囲気があるように感じる。

 フォーレ:レクィエム 作品48 第3稿
 アン・マリー・ブランザ(ソプラノ)
 ピエール・モレ(バリトン)
 ジャン・ギユー(オルガン)
 サン・ユスターシュ管弦楽団&合唱団
 R.P.エミール・マルタン( 指揮)

 録音:1965年

オケはラムルー管弦楽団だという説もあり、指揮者のマルタンは神父で、作曲としてもしられている。

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by noanoa1970 | 2010-08-24 10:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

コンヴィチュニーの「ワルキューレ」

タイトルから、最近話題の多い「ペーター・コンヴィチュニー」が演出したものを想起される方がほとんどであろう。

しかしそうではない、「ペーター」の父親の「フランツ・コンヴィチュニー」が、イギリスのロンドンにて公演をしたときの、レア音源が復刻されたものなのだ。

1959年、東ドイツはおそらく国の威信をかけた形で、文化芸術の担い手を、西欧諸国に派遣した。
コンヴィチュニーのロンドン公演も、其の一環であったのだろう。

そして、コンヴィチュニーは、こともあろうに、得意にしていたワーグナの「指輪」全曲を、オペラ演奏専門のオケ、コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と、放送用に録音したのだった。

其の音源は、残されたテープの…おそらくはAM放送された音源からの録音らしく、状態が良くないためか、そのテープが個人所有にとどまったためなのか、いままでこの世に出ることはなく、「指輪」全曲を演奏ことは、コンヴィチュニー愛好家でもほとんど知らないことであった。

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小生はある時、ネットオークションに出品された、「ラインの黄金」を入手し、その音質のあまりにもひどいのを我慢しながらも、「指輪」全曲を、コンヴィチュニーで聞きたい欲求に駆られたのだった。

しかしその欲求は長い間実現することはなかった。

ただ、その間、コンヴィチュニーのレア音源が少しではあるが復刻されつつあったから、微かな期待を抱いてはいた。

そうするうち、トリスタン、マイスタージンガーが発売され、そんな折CDショップの検索欄からたどり、「ワルキューレ」発売を知ることとなった。

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昨日待っていたCDが、これも待ち望んだ「シャルラン」復刻盤とともに届いた。

シャルランについては、いずれUPするつもりだ。

それにしてもこの「ワルキューレ」の出演者は凄い。

ヴァルナイのブリュンヒルデにホッターのヴォータン噂ではヴィントガッセンも・・・おそらく「神々の黄昏」に出演と思うが・・・
ジークリンデも、フンディングも素晴らしい。

ワーグナー歌手が勢揃いの、どのような経緯でこのような公演が実現したのか、興味は尽きないが、いまのところ情報は何もない。

「ラインの黄金」には、1959年9月のことと記載があるから、「ワルキューレ」演奏も、そう離れてはいないはずだ。

イギリスの放送用録音テープが残されてないのは残念で、この時期にはカイルベルトがステレオで「指輪」全曲を残しているぐらいだから、内容がすばらしいだけに、もう少し良い状態であったなら、わだいになったはずである。

しかし実に音質は醜く、SP録音からの復刻よりも状態は良くないし、所々、音量がちいさくなるところもある。
そしてテープ保存状態が良くなかったのか、ずい所からエコーが聞こえてくる。

音質が悪いから、ワルキューレのファンや、たとえヴァルナイのファンでも、相当にがっかりするであろうが、小生にとっては、コンヴィチュニーの「指輪」の中でもいちばん聞きたい「ワルキューレ」が聞けるのだから、これは堪らない。

公演前にどれだけ練習を積んだのだろうか。
歌手とオケの息は、手兵のゲヴァントハウス管弦楽団ではないにもかかわらず、見事なほどピッタリあっていて、おそらくは短時間の練習だったと推される割には、合唱人もろもろすばらしすぎる出来栄えである。しかもライヴなのだから、これはもう脱帽である。

残された録音を聞く限りであるが、コンヴィチュニーは、かなりむらっ気があるようで、ライヴではすばらしい出来のときと、そうでないときがハッキリしている様だ。

しかし、「ラインの黄金」、「ワルキューレ」を聞く限り「指輪」全曲がいかにすばらしいものかを想像するのに難くない。

決してお勧めなどはしないが、これはコンヴィチュニーが残した音源の、白眉であるといっても過言ではないだろう。 

 ラモン・ヴィナイ(ジークムント)
 アストリッド・ヴァルナイ(ブリュンヒルデ)
 ハンス・ホッター(ヴォータン)
 クルト・ベーメ(フンディング)
 エイミー・シュアード(ジークリンデ)
 ウルズラ・ベーゼ(フリッカ)、他
 コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団、合唱団
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by noanoa1970 | 2010-08-23 10:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

仮説「呪縛」

ブル8に続き、9番を聴いている。
9番は、かのベートーヴェンの9番の交響曲から多大な影響を受けたと、諸々の解説では言われている。

調性が二短調であることや、開始が弦群の細かいトレモロではじまること(最もこれはブルックナー全般に及ぶが)、2楽章がスケルツォであること。

などなど他を上げる人も多いと思うが、そのような形式的な話はさておき、何度も聞くうちに、どうもブルックナーは、ベートーヴェンから形式のみならず、その主題およびそれらの属性からのエキスをも受け継いだのではないかという直感が閃いた。

ベートーヴェンの歓喜の歌のエキスは、かなり姿こそ変えてはいるが、何度か聞くうちに、小生にはブルックナーがベートーヴェンを、そして第9交響曲・・特に歓喜の歌の主題を、限りなくオマージュしているようにしか思えなくなってきた。

残された逸話に、未完の4楽章を「テデウム」にて補完して欲しいというメッデージがあったと聞く。

この話の信憑性を、9番の残されたそれまでの楽章が、テデウムとは相いれないとして、否定的な意見もある。

たしかに交響曲の終楽章に、単独でもちろん、素晴らし過ぎる「テデウム」を安易に持ってきて、終楽章とする方法には異論をはさむのだが、小生は少し別の見方をしている。

ブルックナーは、終楽章を、ソロと合唱入りの楽章にしたかったのではないか。
小生の耳にはブルックナーは、いたる楽章の中で「歓喜の歌」のエキスを、かしこく変形させて使用していると強く思われる。

形式的にも、そして内容的にもここまで影響を受けたり、オマージュしたりするのだから、行き着くところは、終楽章を合唱そしてソロの人間の声が入った楽章にすることだったのではないか。

しかしブルックナーは、ベートーヴェンを、技術的には不自由しないのだと思うが、模倣する勇気を終に持てなかった。

そして時間は十分あったのに、初期作品の改訂作業に逃げ込んでしまい、偉大なる挑戦から自ら身を引いてしまったのである。

音楽史上よく言われる、ブルックナーの「ベートーヴェンの呪縛」そして「9の呪縛」と言うものの正体は、このことに起因しているなかろうか。

9番を聴いての仮説にしか過ぎないが、終楽章に合唱を使ったなら、どんなによかったろうかと、未完に終わったこと同様残念でならない。
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by noanoa1970 | 2010-08-15 12:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Feierlich, nicht schnell

ブルックナーの交響曲8番の終楽章には、以上のような表記がある。

これは「荘厳に、しかし、速すぎないように」の意味だ。

小生がこれまで聴いてきた13種類の演奏の中で、ブルックナーの指示を高度なまでに、守っていて、しかも小生の感性にピッタリと合っている演奏は実に少ない。

「荘厳だが速過ぎ」、の演奏が多いのに少々驚いた。
中には華麗に過敏すぎる演奏もある。

「荘厳」とは、比較的ゆったりとした流れの、しかも重圧な・・・宗教曲のような、音楽の向こうに巨大な・・・たとえば神の姿が垣間見れるかのような響きのことであろう。

そしてほんの少々だが、華美な点がある。

つまり、「重々しく、威厳があって気高いこと」との辞書の説明の通り。

これは聴いていて、その音楽演奏からもたらされる音響や、そのほかの音楽的要素によって、何となくわかろうというもの。

しかし問題は「早過ぎないように」という、曖昧かつ抽象的な表現で、其れがゆえに指揮者の解釈は大幅に触れてしまうこととなる。

8番終楽章の出だしの速さは、速いものとそうでないものは、極端なことを言えば、聴感上2倍ほどのスピードの差があるようだ。

ギュンター・ヴァントは思いのほか速く、オイゲン・ヨッフムは比較的遅い。
エリアフ・インバルなぞは速すぎで、曲想を台無しにしてしまった感がぬぐえない。

指揮者によってこれだけの差が出ることを、はたしてブルックナー自身は予想したのだろうか。
速い遅いなどの音楽的速度は、通常メトロノーム記号であらわすが、ネットで楽譜を見たが、その表記はブル8の楽譜にはなさそうだ。

そうなると、「速すぎないように」の「速さ」とは、指揮者の個人的速度概念、そしてそれまでの経験知、其れにブル8演奏上のパースペクティヴな解釈にゆだねられることになる。

だから我々は、そうした違いをも楽しめることになるのだが、しかしそうした中で、自分が一番気に入っているものを発見できる可能性は、あまり多くはない。

あまたの演奏の中から、お気に入りに遭遇できるチャンスは多くはないから、その昔小生もそうであったが、音楽情報雑誌の評論家なるものの批評を頼りにしたものだ。

しかし、プロの評論が絶対的支配を占める中で、徐々にその誤謬に気がつき始め、そうなると、自身の耳で探るのだから、必然的に同曲の保有数が多くなってくる。

そして、好きな曲ほどその数が増えるというわけだ。

不思議なもので・・・過去はレコード媒体による音楽自体の発売数の関係もあって、フィルター(取捨選択)がかかった形で、提供された中から選択をする時代で、その良し悪しはあるにしろ、帰ってよい時代だったのかもしれない。

しかるに昨今、ありとあらゆる音源が復刻され、もちろんその恩恵である、過去には決して聴くことができなかった、しかも素晴らしい演奏に巡り合えることがままあるが、選択肢は過去・・・アナログレコード時代の10倍以上ほどに膨らんでしまった。

幸いソフトの価格は安くなったからまだましであるが、それでも自分好みの演奏を発見することは、物理的経済的の両面に渡り、非常に困難を極めることとなった。

表題の、ブル8の終楽章の速度は、この音楽においての重要なものの1つで、荘厳であることと同様に重要だから、自分好みの・・・・自分がこうあって欲しいといえるような演奏を探すことは容易ではない。

多くのコアなクラシックファンは、自分のお気に入りの演奏家や指揮者をお持ちのことと思う。

それらはそれまで聴いてきたその演奏家の演奏を、自分が気に入ったからだ。

そして長い時間そうした演奏家と接することで、その演奏家の演奏上の特徴あるいは癖を・・・これらを解釈と言ってしまう人もいるほど、其れが分かるがゆえに、ますますその演奏家が好きになり、多くの演奏録音を、その演奏家を中心に収集し、聴くことになるわけだ。

小生の場合、フランツ・コンヴィチュニーという指揮者が其れに当たるが、ブル8でもやはり予想に違わない、実に素晴らしい演奏を聞かせてくれた。

「荘厳に、しかし速過ぎないように」というブルックナーの指示を、極限まで高めた状態で実現していて、しかも曲全体が・・・長大な時間を要し、下手すると途中でダレてしまう演奏も多い中、音楽のすべてが緊張感で包まれている。

こういう音楽を「音魂」のある音楽…小生はそのように呼ぶことにしている。

ブル8の愛好家はかなり多いと見受けるし、そういった人がときどき演奏評らしきものをブログでも書いているのを見かけることがあるが、コンヴィチュニーの音楽を聴いている人が、ごくわずかなのは残念なことだし、もったいなことである。

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by noanoa1970 | 2010-08-12 10:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ブルックナー・・・その音楽的秘密の1つ

このところブルックナーを聴きこんでいて、思ったことがある。

よく聞きこんだ、たいていの音楽ならば、ほんの一部だけを聞いても、それが誰のどの曲の、どの部分なのかを推量できる。

コアなクラシックファンであれば、そのような人は相当の確立で存在するだろう。

しかし・・・ブルックナーは、この点で、ものすごく難問である。

似通った傾向の多いモーツァルトでさえ、どうにかなるものなのだが、ことブルックbナーでは・・・これは小生だけのことかもしれないが・・・その音楽的特徴が強烈だから、ブルックナーであることはわかるが、その部分が何番のどの部分なのかは、確信に至らぬことが多い。

かなりの時間の経過を見ながら、特異な特徴の一端を聴くまでは、推量できかねるのだ。

時には、そう思ったとしても、見事に推量を裏切られる羽目に、陥ることもある。

これはなぜであろうか。

1つはブルックナーデジャヴと、勝手に小生がネーミングした、同じような音型が作品を超えて、登場することだ。

しかも、厄介なことに、同一作品中にも何回も登場するから、始末が悪い。

ただブルックナーの音楽は、よく比較上に上がるマーラーと異なり、覚えやすく記憶に残いから、追従することが容易だ。

しかし、そうであるが、一部分だけ(その曲特有の個所に当たれば別であるが)、を聞いてその曲に御正体を明かすことは非常に困難なことが多い。

聴く人の耳にかなりハイレベルな親和性を持つが、その理由はやはりブルックナーデジャヴという言葉を使ったように、同じ曲の中、さっき出てきたのではないかと思わせると同時に、違う楽曲にも出てきたのではなかったか、という「既視感」紛いの錯覚かと陥ることがあり、其れがゆえに耳にとてもなじんむ音型の塊ということに尽きてしまう。

したがって小生は、いまだに2番から9番(そのほかは全く聴かない)の、ある楽章のある部分を混同してしまうのだ。

こうしてみると、ブルックナーの音楽には、あるテーマ性が感じられることになり、同じような経験は、分野こそ違うが、小津安二郎監督の一連の作品と共通点があるようにも思えてくる。

そして小津が描いた戦後の家族や、その人間模様では、登場人物の配役や、ましてその名前までが同じものがあり、台詞をかなり頻繁にリピートさせてリズムを作ることや、1カット1シーンで、長回し、話題が切り替わるところには、象徴的な何かを配置するなどといった手法は、ブルックナーの音楽語法とかなり類似するように思えてくる。

小生はいまだに・・・話の展開や登場人物の台詞はほぼ覚えているのだけれど、その作品名に迷うことがある。

ブルックナーも、同じような傾向にあり、この点は他の作曲家の作品群と大きく違うところだ。
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by noanoa1970 | 2010-08-08 15:37 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

コンヴィチュニーのブル8

戦後から冷戦期の東ドイツの音楽界・・・レコード会社においては、かなりの混乱があったらしい。

東と西の交流とそして張りあいの中で、発売されたレコードのオケの表記や時には演奏家そのものの間違いなど、小生が知っているものでも数件にわたる。

このブログでもかつて取り上げた、コンヴィチュニーのブルックナー4番の演奏が、ウイーン交響楽団とライプチッヒ・ゲヴァントハウス管と2種類発売されていたが、後者の演奏は誤りで、実はウイーン交響楽団との演奏が正しいというもの。

小生はLPとCDで、ウイーン交響楽団とゲヴァントハウス管の演奏録音として発売された両方所有している。

一説によると、誤表記はマスターテープ保管上のミスであったというが、聴感上は微妙に異なるように聞こえる個所が存在することから、小生はやはり2種類の演奏があり、それらを何かの事情でつなぎ合わせたのではなかったかと、今でも思っていて、そのように推理している。

さて
件のコンヴィチュニーだが、この間から聴いてきたブルックナーの8番が、10年ほど前のこと、ドイツのヴォイトブリック社から発売となった。

世界初の音源だったからすぐに購入したが、ヴォイトブリックの説明では、1959年「ステレオ録音」とあった。

コンヴィチュニーの50年代の演奏のステレオ録音は、かつては皆無であったし、エテルナ音源ならば、さぞよい状態であろうと、おおいに期待したものだった。

実際に聴いてみた感じでは、左右の広がり感が乏しいステレオ録音と、一部では称されたこともあったし、疑似ステレオではないかという意見もあった。

小生の感覚は、モノラル録音にしては奥行き感があり、立体的な音がする不思議な録音で、ステレオ録音とすれば、ワンポイント録音の失敗作品、モノラル録音であれば、非常によい状態の・・・優れたモノラル録音をモノラル専用カートリッジで聴いたときに味わうような・・・そんな音であった。

数々のコンヴィチュニーの音源の中でも、かなり状態が良い録音で、しかも1959年という…米国ではすでにステレオ録音が当たり前となっていたようだが、ヨーロッパのしかも東ドイツでは非常に微妙な年であるから、このCDを聴いた多くの人が、ヴォイトブリックのステレオ表記に疑いを持つことになった。

ほとんどの人がこの録音を、モノラルであると思っても決して不思議ではない。
たしかにステレオ録音の特徴の・・・昔のステレオ録音は特に顕著であった、左右の広がり感がない。

しかしよく聴いてみると、いわゆるモノラル録音とは違う点が、かしこに見られるので、ひょっとして・・・
そう思って、位相を逆に設定して、(小生の装置は、プリとCDの間にトランスを入れており、そのトランスに正相と逆相を瞬時に切り替えできるスイッチがある。

それで今回逆相に設定して聴いてみると、正相時よりもステレオ感がかなり強まった。

そのおかげでオケの配置が両翼配置であることや、ハープの位置までが、其れなりにわかるようになったのだ。

弦の艶そしてハーモニーが際立ち、金管のものすごい咆哮とともに、ベルリン放送交響楽団の総合力とコンヴィチュニーの実力のほどが、以前にもまして十分すぎるほど伺える。

ややもするとブルックナーの交響曲は、録音状態が演奏の質に大きく影響することが多いように思うが、今までモノラルのように聞こえてきた、本CDでさえ小生は高く評価してきただけに、逆相接続となって、オーディオ的にさらに素晴らしくなったことが相まって、小生の評価はさらにUPすることとなった。

そして、12種類聴いてきた中で、小生のTOPランクは、このコンヴィチュニー盤であることを確信。

演奏内容については後日とするが、4楽章の冒頭リズム処理を聴くと、まるでプロシアの陸軍の行進と、雄叫びのような感じさえする。

そしてこれらはすべて「神」の加護のもとにある…そのような空気が漂ってくる。

コンヴィチュニーのテンポとリズム処理、ティンパニをはじめとする低音部処理に支えられた上下動する弦群のさざめきは、神に向かっていく、あるいは神が天から降臨してくる・・・・そんな音楽である。

神がかりとは決して言わないが、この演奏はコンヴィチュニーの残した音源の中でもダントツである。
過去から定評がある、クナッパーツブッシュや、シューリヒトの演奏を凌駕するのではないだろうか。

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by noanoa1970 | 2010-08-04 16:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

試聴したブル8

この5日間で聴いたブルックナー8番は以下の通り。
DL音弦も含めると、全部で12種類となった。
特に好きな曲でもないのに、なぜか8種類もあったことに、改めて驚いている。

そして、心地よい疲労感が、今漂っている。

手持ち音源
・フランツ・コンヴィチュニー/ベルリン放送交響楽団1959年ハース版
・ジョージ・セル/ コンセルトヘボウ管弦楽団 1951年ハース版
・ハンス・クナッパーツブッシュ /ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1951年ノヴァーク版
・ハンス・クナッパーツブッシュ /ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 1963年1月24日ライブ
・ギュンター・ヴァント/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団2001年1月19日ライブハース版
・クラウス・テンシュテット/ロンドンフィルハーモニー1982年9月24~26日ノヴァーク版
・オイゲン・ヨッフム/バンベルク交響楽団1982年9月15日ノヴァーク版
・エリアフ・インバル/フランクフルト放送交響楽団1982年ノヴァーク版第1稿
追加
・エドワルト・ベイヌム/アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団1955年ハース版

パブリックドメインよりDLした音源
・ヴィルヘルム・フルトヴェングラー /ウィーン・フィルハーモニー 1944年録音ハース版+α
・ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ ベルリン・フィルハーモニー 1949年録音ハース版+α
・オットー・クレンペラー /ケルン放送交響楽団 1957年6月7日録音ノヴァーク版
・カール・シューリヒト/ 北ドイツ放送交響楽団 1955年10月24日録音ハース版

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by noanoa1970 | 2010-08-04 15:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)