白昼夢

30分弱の昼寝の間に、こんな夢を見た。

「宮崎ファームエイド」が、国内のマスコミ、芸能界、文化芸術界の皆さんによって、開催されることになった。

これは口蹄疫で災難にあった、宮崎の畜産農家を、経済的に援助する目的だ。

多大なる精神的苦痛を救済することは、なかなかかなわないが、せめて畜産農家の人たちが、少しでも前向きに、全国の名だたる和牛の源の幼牛を、今後も育てていこうとする意欲を出していただくためのもの。

発起人の代表は「北野たけし」。
もと「たけし軍団」のメンバーでもあった、1番弟子の東国原知事を通じて、宮崎の畜産農家を救済するため。

ブランド牛を食べるばかりの国民であってはならない、国内からブランド牛の源が消えようとしている、こういう危機に対してもっと目を向けるべき。
宮崎の畜産農家の人たちに、これにめげず、さらに頑張っていただきたい。

だから今回各方面に呼び掛けることにしたという。

そして、この「北野たけし」の呼び掛けに呼応し、いろいろな分野の人たちが声をあげた。

「北野たけし」は、新作の映画の収入の50%を宮崎に寄付するといい。
音楽分野では、そうそうたる歌い手たちが、「救済コンサート」を、ボランティアで開催する運びとなった。

総勢約100人の歌い手や演奏家たちが、10か所以上の全国の主要都市で、12時間にもわたるコンサートを開催するという。

民放各社、其れになんとNHKまでが、この模様を全国中継するということになった。

視聴者には100円の寄付が求められるが、この日はどの曲も「救済コンサート」しか放映しないことになったから、全国規模で、多額な寄付金が集まることとなる。

クラシック界では、佐渡裕が中心となり、主だった管弦楽団を衛星中継で結び、総勢1000人規模のコンサートを開催する。
演目はマーラーの「復活」。

これらボランティアコンサートなどの収益金は約500億円規模となる見込み。
政府救済金と合わせ、かなりの資金となる。

宮崎の畜産農家は、育ててきた牛や豚やヤギなど、すべて殺してしまうこととなった精神的打撃は、なかなかぬぐえないが、しかし全国規模で、多くの人々が、支援をしてくれたことに感謝し、今後も畜産業を前向きに続けていき、少しでも早く、よい種牛を育てていきたい・・・そう語った。

今回のボランティアコンサートなどの活動は、我が国にとって初めての大規模かつ全国民運動的な勢いがあるものになり、日本人も捨てたものではないことを、改めて知らされることとなった。


・・・・耳元で、虫の羽音らしきものがして目が覚めると、そこにあるのは、いつもの現実だった。

なぜ我が国ではこういうボランティア活動がナザレないのだろうか。
諸外国で今まで開催された、数数の救済コンサートを思い出すにつけ、社会的に開かれない感性と心情と、意識の元主の多いことが思い知らされる。

・・・といいながら、具体的にはアクションを取らない自分がそこにいる。

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by noanoa1970 | 2010-05-30 17:07 | トピックス | Comments(0)

シューベルト「魔王」ピアノ版を聴く

「魔王」については,かなり以前から、ブログに書いてきた。
しかし、シューベルトの歌曲「魔王」は、ほんの数人の歌い手になるものしか聴いてないことに気がついた。

小生が「魔王」に興味を持ったのは、父親の介護もむなしく,子供が死んでしまうという、悲劇的な詩の内容はもちろん、歌い手が、[語り手、魔王、子供、父親]と4人一役を歌いきるという、音楽構成と、不気味な三連音符のピアノ伴奏による相乗効果が凄く発揮されていること。

さらに「魔王」とはキリスト教の概念では「悪」であるが、非キリスト教・・・つまりキリスト教文化以前の文化では、かなりの地位にいた存在・・・神といってもいいような存在であったことは確かな顔とだ。

旧宗教文化圏の支配者は、キリスト教では恣意的に「悪」とされたのであり、そして反社会的生物となってしまった。

しかしながら依然として、少ないながら非キリスト教社会の1部では、伝統の「神」であろう。

ゲーテがどこからこの話のネタを拾ってきたかを検証はしていないが、おそらく北方ゲルマンあるいは、アイリッシュ&スコティッシュあたりが大いに匂うところ。

さらにシューベルトの厭世感の原因の一つと、小生は考えているのだが、「父親と子供の葛藤」・・・これはそのまま文字どうりでもあるが、父親=キリストあるいは教会あるいはキリストそのものとすれば、シューベルトの宗教的本質は、非キリスト教的なものであったという大胆な仮説が提示されても面白い。

その証拠となるか否かは難しいのだが、未完成と魔王の接点が存在する。

それは以下の個所。
(魔王)
"Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt,
Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt."
"Mein Vater, mein Vater, jetzt faßt er mich an!
Erlkönig hat mir ein Leids getan!"
私はお前が好きだ。可愛いその姿が。
いやがるのなら、力ずくで連れて行くぞ

上記の部分のメロディは、あの「未完成交響曲1楽章の第2主題」と同一であるという事実であった。
未完成では3拍子、魔王では4拍子だから気がつきにくいが、明らかにそうなのだ。

甘い声でささやくような誘い声と、その裏にある恐怖の脅しの対比が見事に表現されている。
つまりこれは悪魔の「常套句」ともいえる。

甘味な美しいメロディーだが、その裏には世にも恐ろしい悪魔の誘いが潜んでいる。

これは「悪魔」を「悪」としたうえでの解釈だが、異なる解釈として、実は悪魔は父親そのもので、物語に登場する悪魔は、実は悪魔である父親から子供を救うための禅の神であるという説がある。

其れは多分、それまで長調で語られてきた父親の言葉が、急に短調に変貌することからのものであろう。

このメロディをシューベルトが、なぜ未完成交響曲に応用したのかは、奥が深いと思うが、其れはまたのちに譲るとして、(小生は、子供と父親の葛藤にそのヒントがあるように思う)

ネットに面白い音源を発見したので、以下の点を注意して聞いてみることにした。http://freeclassicmusicmp3.blog23.fc2.com/blog-category-14.html

リヒテルが弾くピアノ版「魔王」、ライブ音源だが録音年は不明だ。

「演奏から伝わるリヒテルの「魔王」の解釈はいかに」を知るため。

歌曲との表現の差異はどのあたりあるのか。
以上を知るために以下のことを念頭に聞いてみた。
また、4人のキャラクターをどのように弾分けているか。
そしてかなり困難を極めると思しき、ピアノテクニックはどうか。

リヒテルはずいぶん緊張していたのか、出だしで大きなミスタッチをしてしまうが、ごく早めのテンポで突き進む。
疾走する馬と吹きすさぶ嵐の表現は見事だ。
これだけ早いテンポであの3連符を打音し続けるのは、相当のテクを要すのだろう。

4人のキャラの表現は、音の強弱とテンポの揺れで、かなり表現される。
子供、そして父親の語りが、徐々に悲痛さを増していくのが手に取るように分かる。

「転調の妙」は、シューベルトの音楽的特徴の一つだが、リヒテルは情感あふれるように表現していて、物語の変化が凄くよく出ている。

気の入れすぎだろうか、ところどころミスタッチはあるが、あまり気にならないほど、音楽がつき進む。

「魔王」をわざわざピアノだけで演奏するということの意味は、4人のキャラをどのように表現できるか、難易度の高いであろう3連符の連続打鍵・・・しかもただ一定のリズムで弾くのではなくて、場面の変化を表すような弾き方が求められる。

リヒテルの解釈は従来の、善意の父親と病気の子供、そして子供を別の世界に連れ去ろうとする「悪魔」と言う解釈だ。(最もなことだが)

しかしピアノ版魔王は、歌曲「魔王」があって初めて成立するように思える。
どうしても物語の進行を頭においてピアノを聞いてしまうから、凄くよくわかるし、演奏者の力量も見透かせることになる。

その意味では多分ピアノ版を弾きこなせる演奏家は、そんなには多く存在しないだろう。
すぐにその力量(テクニックだけではない)が見えてしまうことになるからだ。

その意味で、リヒテルは、合格だと言っていいのだと小生は思う。
ライブで演奏してしまうのだから、相当自信もあったことだろう。

久しぶりによいものを聴かせてもらった。

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by noanoa1970 | 2010-05-18 11:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

町内植物園

散歩中に見つけた町内の花々。

これは「すずらん」垣根の下に一斉に花をつけた。
湿地あるいは暗所を好むらしい。
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遊歩道脇の家の垣根には「ジャスミン」が満開。
数十メートル手前から、むせるような香りがする。
ジャスミン茶なら奥ゆかしいが、これだけたくさんだと、亜熱帯地方の・・・たとえば「ラングーンの夜」を想起してしまう。
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これは珍しい。
「カキツバタ」はあまり発見nできないが、ここでは数本だが見事な花を差かけている。
「鉄扇」とともに、小生の好きな花の1つである。
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町内には、思わぬ花が咲いていることがあり、まるで植物園のようだ。

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by noanoa1970 | 2010-05-18 10:45 | 季節の栞 | Comments(1)

夢現か幻か・・・眠りのお供に音楽を聴く

初めてのことだが昨夜、PCにDLしておいた曲を流しながら、眠りに就くことにした。
音量はごく小さく、眠りの妨げにならないようにし、途切れないようにと、DLしたものをすべて再生してくれる、SONY sionic stageを使用した。

メディアプレーヤーでは、ファイル一個づつか、すべてのファイルのリピートしか効かないようなので、SONYを使いDLしたものすべてを再生するようにしたのである。

最初はモーツァルト「P協奏曲20番そして23番」に、次にR・シュトラウスの「4つの最後の歌」をシュバルツコップとフラグスタートの2種類で・・・曲順が違うことを発見。
シュバルツコップに比べると、フラグスタートは、かなり強調するところが散見される。

でも小生はやはり、これはカラヤンとヤノヴィッツだと思う。

しばらく記憶が無くなって、其れから聞こえたのが「未完成」、多分シューリヒトの演奏だろう。

未完成は、すべて聞いた記憶はなく、そしてやがて聞こえてきたのがドヴォルザークの「スターバト・マーテル」の後半から。

やがて深い眠りについたのか、しばらく眠ったらしい。
そして、次に聞こえたのがデュパルクの「旅への誘い」これは確かパンゼラの音源だ。

いったいどのくらい時が流れたのか・・・しかしあえて確認はしないでおいて、あるがままに任せることに。

強烈な、「魔笛」の「夜の女王のアリア」で目が覚めて、ミトプーの「田園」で再び眠りに。

ベルクのバイオリン協奏曲は記憶があり、モツレクはほとんど全曲聞いたようだ。

ベートーヴェンのPソナタ「悲愴」も鳴っていたな。

ブラームスのクラ五はウラッハとウイーンコンツェルトハウスの演奏だが、ノイズだらけで、聞くに堪えないのだが、起きて中止は面倒で、ジット耐え忍んだ。

そして漸く最後に、シューベルト弦楽四重奏14番で起床となった。

23時就寝起床が7時だ。
8時間中これだけの音楽を聴いたということは、数時間しか眠ってないことになる。

でも、こういうのもまた「良し」としたいものだ。

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by noanoa1970 | 2010-05-16 11:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

ベト7妄想視聴

先日の病院の待合室でのことだった。
かなり大きめの音量で鳴らされた着信音は、ベートーヴェンの交響曲7番1楽章の第1主題であった。

いったい何者がベートーヴェンなどを着信音に指定いるかと、その音の主を探すと、其れは実に失礼だが、およそクラシックと縁遠い風体の、70歳ぐらいの老人だった。

概観で判断してはいけないことはわかっているし、小生も逆の立場だったら、そう見られるかも知れない予測はつくから、・・・そう思う反面、どうしても不釣り合いな着メロに、きっと「のだめ」の影響で、その老人の子供か孫が着信音にしたのだろうと、いらぬ推測をしてしまったことがあった。

何を隠そう、今の小生の着信音は、まさしくベト7だ。
もし他人がこれを聞きつければ、きっと同じように思われるのであろう。

さて連休2日間で、ベト7(略したくはないが、便宜上こうして記述する)を20数曲聞いた。
これだけ聞くとさすがに飽きてくるのだが、それでもこの曲は飽きるまでに相当長い時間を要す曲だ。
言い換えればそれだけ曲自体が素晴らしいということになる。

この曲従来から、舞踏の神化とかリズムの権化と称され、とかくそのリズム缶が強調されてきた。
確かにそういう面はあるし、其れがこの曲の真骨頂ではあるが、多くの演奏を集中して聞いたことで、其れに是非付け加えねばならないことが見えてきたようだ。

それは一言ででいえば、対話と・・・誰かの言葉を無理に使えば、「対話と圧力」の音楽と言えるのではないか。

言い換えると、今まで理解できずにいた人同士が、いろいろな軋轢を乗り越えて、お互いを理解しようと心を開いて対話、あるいは会話するさま。

心を開いた暁には、丁々発止とばかり、打てば響くような掛け合いの妙に居間で発展する。

長い長い序奏部には、2つの主題があって、さらに進みソナタ形式の2つの主題が現れるから、主題が3つも4つもあるように聞こえて、最初は戸惑ったこともあったが、漸くわかったような気がする。

さて、この「対話」あるいは「掛け合いの妙」をいかに表現するか・・・そのことが今回たくさんの演奏を聴いての1つのメジャメントになった。

ダイナミュークやリズム処理などはもちろんだが、ここに焦点を当てると、今までよいと思ってきた演奏に加えて、新たに素晴らしい演奏が見つかった。

ミュンシュ/ボストン交響楽団1956
カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団1952

以上の演奏を、今までよしとしてきた
カラヤン/VPO1958
ミュンシュ/パリ管弦楽団1967
コンヴィチュニー/LGO
ドホナーニ/クリヴランド管弦楽団
トスカニーニ/フィルハーモニア管弦楽団
クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団

これらに加えることにした。

特にカラヤンは新旧5種類ほど聞いたが、どれもメジャメントの1楽章第1主題が提示される直前。
フルートと弦楽器の呼応、対話、会話のさせ方が実に上手である。

あのフルヴェンでも、ここは全くダメで、口ごもってばかり、何を表現したかったのかが、全くわからない。

ミュンシュはこの曲が得意だったのか、新旧ともに白熱した演奏だ。
カラヤン/フィルハーモニー管弦楽団では終楽章のホルンはデニスブレインだろうか、実に朗々としたコラールを聴かせてくれた。
そして掛け合いの妙を誰よりもうまく表現しているのが、やはりカラヤンということになる。
例の部分・・フルートと弦パートの会話なんぞは、素晴らしすぎて涙腺が緩んでしまう。

低弦のゴリゴリ感ももっともよく表しているのがカラヤン盤だ。
そしてカラヤンは若い時のほうが、より素晴らしいのではなかろうか。

リピートがいずれも欠如していることを除けばカラヤンが素晴らしい。

フィルハーモニア管弦楽団がランクされたのは偶然であろうか。
再評価せねばならない管弦楽団ではあるようだ。

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by noanoa1970 | 2010-05-04 17:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

通りゃんせ 

佐藤公彦を実際に見たのは、ラジオから流れた歌を初めて聞いた時から、40年も経った先日のことだった。

最近のフォークソングの番組では、かなりマイナーな歌い手も登場することがあるが、まさか彼が出てくるとは・・・

「ケメ」・・・と、司会者が紹介したときには、一瞬誰のことかと思ったほどだったが、ようやくあの「ケメ」と称された佐藤公彦だと思い出した。

といっても、小生は彼の歌をよく聞いていたわけではなく、いや、本当のことを言えば、EPもLPも所有してないし、ラジオから流れるのを聞いていたにすぎないのだ。

雑誌に掲載された、宣伝用のレコードジャケットの「ケメ」は、コアなフォークソングの歌い手たちとは一線を画す、少し軟弱で、今風にいえばで、ジャニーズ系の甘いマスクのイケメン。

かつては、軟弱そうな中性的な風貌の歌い手が、40年経っても、まだ当時の面影を引きずって、現れたのだから、彼の歌の記憶をほとんど消し去っていた小生は、はたしていったい何を歌うのか、大いに気になった。

早川義夫からギターを借りて、おもむろに歌いだしたのが「通りゃんせ」。

歌を聴いていて、日常の感じとは別物の、自分の中の別の心臓が動き出したようだった。

歌詞は以下の通りだ。

詩を作ったのは女性だと思ったが、意外にもこれは男性の作ったもの。

何の不自由もなく生活してきた彼女に、突然不幸が舞い降りてきた。
はじめはその現実を恨み、生きていく気力もなくしてしまうほどであった。
しかし、ある時から、彼女はそれをふっ切って、現実と向き合い、現実を受け入れた。
今はただ、前を向いて歩いて行くだけ。
これからまた、さまざまな苦難がきても、来るなら来い。
女だから恋もしたいし結婚願望も捨てたわけじゃない。
でも、今は残された家族を守っていくことだけを考える。
いつかはきっと私にも幸せが来ると思うと信じて・・・

こんなことを思わせるような詩の内容でで、その詩にケメは、「ソラドレミ」・・・いわゆる我が国の伝統的民謡にある、四七抜きの音型を持って作曲して歌う。

しかも、ニューミュージック的アレンジに、中性的な声・・・カウンターテナーで歌うアンバランスの美学に、相当打ちのめされてしまった。

「ソラドレミ」音型は、ケメの音楽手法の特徴とも、ほかの曲をyoutubeで見聞きして実感した。
日本のフォークソングの、新しいスタイルだったかもしれなかったのに、なぜかニューミュージックシーンに吸収され、結果コアなフォークファンからも、ポップなニューミュージックファンからも見向きされなくなってしまった感がある。

でもこれだけの曲を歌ったのだから、コアなケメファンは存在するのであろう。

久しぶりに心をざわめかせたケメの歌。
よくぞマスコミに登場してくれたと感謝。


通りゃんせ

作詞 門谷憲二
作曲 佐藤公彦



五月雨 五月よ来るがよい 実らぬ恋もあるがよい
私の縫ったちゃんちゃんこ 着る方も無く 衣替え

八月 葉月の虫の音は 愛しゅてならぬと鳴きまする
かあさま倒れた台所 今じゃ私が おさんどん

神無し 十月来るがよい 私も師走にゃ雪化粧
一人座って窓開けりゃ いつかは情けも 通りゃんせ

   通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ

五月雨 五月よ来るもよし 実らぬ恋もあるもよし
憎い 八卦見言いおった 30過ぎまで嫁がずと

若いころのケメはこちら
「メリーゴーランド」

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by noanoa1970 | 2010-05-03 09:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

バレンボイム/BPOのブラ1

昨夜偶然だったが、TVでオックスフォード大学のシェルドニアン・シアターからの生中継をやったのを見ることができた。

デジタル5.1サラウンドの番組という触れ込みだったので、あまり興味はなかったが、まさかクラシックのライブ中継があるなんてことは夢にも思わなかった。

さらに演奏はバレンボイムとBPO、しかもブラームスの1番だから、見ないわけにはいかない。
この前に2曲演奏があったようだが、これは残念ながら見逃してしまった。

バレンボイムという指揮者、日本ではあまり評判が良くないが、小生は高く評価していて、それはかつて、彼のフォーレのレクイエムを聞いたとき、そして一連のワーグナーの楽劇からだ。

フルヴェンのエピゴーネンと称されるように、バレンボイムは実力よりも相当低く評価されてきた。
しかし彼は、実に曲想のつかみ方に長けていて、随所に細かいアゴーギグを入れ込むとともに、実によく歌う。

大いなる期待を持って臨んだブラ1。
しかし結果はやや期待外れだった。

オケはものすごい集中力だったが、出て来る音はブラームスらしくなく、ブラームスのあの和声が平凡だった。
このことは会場の音響のせいかもしれないが、バレンボイムともあろうものなら、会場の音響特性に合ったオケの配置、そしてオケの音の出し方にもう少し気を使ってもよかったのではないか。

オケにすさまじいほどの気迫があっただけに、とても残念。
言い換えればオケ全体のトーンバランスがかけていた。
そしてもう一つ、バレンボイムの、細かすぎてわかりにくいテンポの動かし方に、オケが追いついていなかったこと。

バレンボイムは決して細かい指揮はしなく、ある意味ではオケにまかせているようにも見えるが、実は非常に細かいニュアンスを要求しているようで、これに対するオケの反応が少々追いついてなかったようだ。

終楽章コーダには、弦パートが棒に合わせられずに、シンコペーションしてしまったようだった。
平凡なブラームス。
出てきた和声のトーンは、期待が高かっただけに、小生の好みのブラームスからは、かなり遠い存在であった。

ベルリンフィルで小生が少々驚いたことは、男女2人の邦人の演奏家の存在で、しかも2人とも首席を務めていたことだった。

コンマスは「樫本大進」氏で、ヴィオラの首席が「清水直子」氏である。
ベルリンフィルでは、日本人の奏者がコンマスを務めた例は過去にもあったが、女性が首席奏者を務めた例は、これが初めてではないだろうか。

変貌し、革新されるベルリンフィル。
伝統のベルリンフィルも、時代には逆らえないのだろう。
そしてこのことは大変喜ばしいことでもある。

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バレンボイムから花を1本もらった清水直子氏。

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by noanoa1970 | 2010-05-02 10:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)