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浅川マキのふるさと回帰

少年は私、私は少年、浅川マキは「少年Ⅱ」でそう語った。

以下は1971年の「浅川マキⅡ」「紀伊國屋ライブ」に収録されている「少年」の歌詞である。

数々の浅川の歌の中で、この歌のファンは多い。

小生は、この歌「少年」を文字通り「少年」・・・父か母の片方をなくし、生れ故郷からやむを得ず違う町・・・多分港町だと思うのだが・・・に引っ越してきた少年の心境を歌ったものだと、そう思っていた。

しかし「少年は私、私は少年」という浅川からは、大人になりかけの、まだ少女らしさの残る女が、それまで育った故郷の村社会のしがらみを断ち切るようにして「あの町はきっといいよ」と、「赤い橋」を渡った大人になりかけの少女が存在する。

少女は浅川マキそのものである。

夕暮れの風が ほほを撫でる
いつもの店に 行くのさ
仲のいい友達も 少しは出来て
そう捨てたもんじゃない

さして大きな 出来事もなく
あのひとは いつだってやさしいよ
何処で暮らしても 同じだろうと
わたしは思っているのさ

なのに どうしてか知らない
こんなに 切なくなって
町で一番高い丘へ 駆けてくころは
ほんとに泣きたいぐらいだよ

真っ赤な夕日に船が出てゆく
私の心に何がある


「あの町はきっといいよ」と思って、故郷を飛び出したのだが、「きっといい」そう思って、たどり着いた町の現実は、少女が胸に描いた姿とは異質のものであった。

「何処で暮らしても同じだろうと、わたしは思っているのさ」と、ようやく悟りながらも、半ばあきらめているのが、今の心境だ。

自分の意思で飛び出した故郷だが、今思えばやはり故郷はよかった。

父も母も親類も、古くからの友達も、山も川も・・・・

帰りたい気もするが、やはりいまさら帰れない。
故郷が無性に恋しくなる。

この町で一番高い丘に登れば、故郷が見えるだろうか。

そんなはずもなく、ただ見えるのは、赤い夕に向かって出てゆく船。
かつて私があの「赤い橋」を渡った時と、あの船は、ダブって見えてしまう。

故郷に帰りたい・・・でも誰にも言えないその気持ち。
わたしの人生は、結局こんな思いのまま、何も変わらずに過ぎていくのだろう。

浅川マキ - にぎわい&少年 (1971)

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by noanoa1970 | 2010-01-30 11:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

気づいていたのだが、逃がしただけさ

浅川マキの音楽は、多くのジャンルと手を結んできたこと、しかしその原点は「日本的なるもの」・・・それを小生は「演歌」という言葉で象徴したのだが、重要なことがあるので、書いておかねばならない。

1971年年末の「紀伊国屋ライブ」で、浅川マキは、ロッドスチュワートが歌った曲を取り上げていて、それは「ガソリンアレイ」、「オールドレインコート」そして1976年の「灯ともし頃」でも「それはスポットライトではない」を取り上げた。

実は小生は、浅川マキの紀伊国屋ライブが、ロッドスチュワートを聴く切っ掛けとなったのだが、以前からなぜ浅川マキはロッドスチュワートを好んで取り上げるのか、不思議に思っていた。

ロッドと言えば、もちろん素晴らしい歌い手で、小生はフェイセスやジェフベックグループ時代のロッドが浮きなのだが、近年の彼はロックスターといわれる超メジャーな存在となった。

もちろん浅川が聴いたロッドは、「An old raincoat won't ever let you down (1970) 「Gasoline Alley (1970)」、あるいは「Every picture tells a story (1971) 」であろう。

1970年の「浅川マキの世界」にも、1971年9月5日発売の「浅川マキⅡ」にもロッドの姿はない。
しかし1971年年末の「紀伊国屋ライブ」では浅川はロッドの歌を2曲取り上げている。
9月から12月・・・3か月の間に浅川はそれまでの「ゴスペル」「トラッド」に加えて、新しくロッドスチュワートが歌った歌を取り上げたことになる。

さて肝心なのはここであるが、ロッドスチュワートは「ロック歌手」といわれるのだが、こにお1970年71年のロッドを「ロックの歌手」としてだけ捉えてよいものだろうか。

小生の答えはNOである。
そして多分浅川マキ自身も、ロッドを「ロック」とし手だけ考えてなく、おそらくは「ソウル」の歌い手として捉えていたのではないか。

71年までのロッドのアバムを聴けば、そのことはわかると思うが、ロッドは、ソウル・・しかも白人のソウル、さらに言うならば、スコティッシュ・アイリッシュの魂を持つという意味でのの「スコティシュ・アイリッシュ-ソウル」の歌い手であると仮定しても外れではない。

昨夜のFM番組の中で、ゴスペラーズの「村上てつや」氏が、1996年のことだったというが、浅川マキに、新宿ピットインの楽屋であったときに、「何か歌えと言われ、オーティスレディングの「ドッグオブザベイ」を歌うと、「声はいいけど、歌はタイミングだ」と言われ、そして「日本人がソウルをやるなら、ロッドスチュワートを聞きなさい」と言われたことを語っていた。

このことから推するに、浅川は日本人がどれだけ真似をしても黒人のソウルには、絶対に勝てはしない、・・と言おうことは黒人のソウルを目指しても意味はないということを言いたかったのと同時に、「ロッド」を聴いて学べということは、「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」すなわち自分の出自の国の魂を歌えということなのだろう…そのように小生は解釈した。

このころのロッドを聴けばすぐにわかると思うが、ロックという音楽を取り入れながらも、その底辺に流れるのは、スコットランドやアイルランドに伝わる伝統音楽なのだ。

つまりロックという形式を借りてはいるが、中身はスコットランドやアイルランド・・・非アングロサクソン人の魂・・・「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」である。

しかもそれがまったく違和感がないばかりか、古いけど新鮮で時代を超えて聴く者に響く音楽となっている。

そのようなロッドを、浅川は見出したのではないだろうか。

浅川が種々のジャンルの音楽と手を結んでも、それは形式を借りるだけであって、内容は終始「日本的なるもの」・・・象徴的に「演歌」という言葉を使うが、「日本人のソウル」そのものだったのではなかろうか。

ゴスペラーズの村上が浅川から「ロッドスチュワートを聴け」と言われたのが1996年のこと、そうなると、浅川マキは、1971年から30年近くも・・・多分亡くなる直前まで、ロッドスチュワートの歌の中に「スコティッシュ・アイリッシュ-ソウル」の姿を見続けていたということになる。

そしてそのこと・・・形式は種々の音楽ジャンルを借りる・・手を結ぶが、内容はいつだって「日本的なるもの」という浅川の音楽的姿勢の大きな要素の1つであろう。

浅川マキの出発の曲。ファースト録音より、「アーメン・ジロー」

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by noanoa1970 | 2010-01-29 11:27 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

浅川マキと五木寛之の対談を読む・・・最終

<たとえ5人の聴衆のためでも>という、対談につけられたサブタイトルの意味がわかる個所がある。

それは歌い手にしても物書きにしても…すなわちすべての表現者に当てはまることなのだが、表現方法や表現スタイルの変化変容と、それを享受する聴衆の感じ方の問題だ。

多分五木は対談の根底に、前衛的サブカルチャーとしての「アンダーグラウンド」と、「日本的なるもの」すなわち保守的とか伝統文化とかの既存文化、主流文化との対比があり、其れを浅川マキが、あるいは浅川マキの歌う姿勢に、どのように対峙、または影響反映れているのかということを、念頭にいた節があるように思う。

先に書いた「違うんだな」という観客の言葉に象徴される、表現者の変化変容と、其れに異を唱える・・すなわちそれまでの表現方法の中でしか享受しきれない観客とのギャップ。

そのことを、前衛的なもの=アヴァンギャルドとアンダーグラウンドを、単純に一緒にはできないとしても、自らそれを求めることも、必要に迫られてのこともあるが、常に変化していく表現者は、それまでの観客・・すなわち、それまでの表現を支持してくれた客との決別を覚悟しなければならないと言っている。

しかし、小生は浅川マキのファンダメンタルに流れているものを、「日本的なるもの」・・・その例えに「演歌」という言葉を使って表現したが、其れは一までの日常・・・村社会の因習、慣習といった過去からの時間的習俗にあると思っている。

其れは、そこから離れよう、逃げようとしても一生ついて回るものなのだ。

浅川の初期の歌に「赤い橋」という歌がある。
ちょうど子の対談のころの歌だ。


ここで歌われる「橋の袂に咲く赤い花」とは、彼岸花なのか違うとか、其れはさして問題ではなく、「赤い花」とは今の「村社会」の日常・・・「私もいつかきっとあの橋を渡るのさ」と、そこから決別しようとする自分が存在するのだが、「赤い花」・・・つまりそれまでの日常のよさも同時に持ちえている自分が存在する。

今の生活から逃れたいが、手放しでそうすることもできない自分への葛藤が、そこに歌われる。

さらに「夜が明けたら」では


葛藤の末に、今の生活からさよならする意思が歌われる。
しかしここでもまだその決心はつかない。
「切符を用意して頂戴」と、あくまでも人の手にゆだねるそのことは、町を出ることが現実ではなく、「そうしたい」でも「そうしきれない」という、いわば願望に終わっているのが重要なことだ。

過去の因習やしがらみ・・・「村社会」という言葉を使っておくが、どうしても其れをぬぐい去れないものが、浅川には存在する。

対談で浅川は
「フリーは、観客は熱狂するが、私には欲求不満である、またロックはブームで終わるかもしれない。」ということを言っていて、その後の浅川の音楽的広がりとは無縁のような発言をしている。
しかし現実はそうではない。

さらに浅川は、「モップス」のコンサートでの逸話・・・「エンカ」と客に言わせ、そしてすぐに「追放」とステージで叫ぶのを例に出して、その頃の若者文化の「反演歌思考」を語ったが、コンサートがはねた後、観客に一人が、モップスの「あいつに(鈴木ヒロミツのことか)演歌を歌わせたらいいだろうね」と言っているのを聞いて、「面白いと思った」と言っている。

サブカルチャー、アンダーグラウンドの象徴的存在である浅川も、その当時の若者文化に象徴される「反演歌」だと、五木は思っていたらしいが、浅川が決してそうではなく「私、演歌好きですよ」というのを聞いて、五木は、若者の反演歌の中に「近親憎悪」の姿を見た。

一方その時五木は、浅川の底辺を流れる・・・音楽でいえば「演歌的なもの」・・民謡でも歌謡でもいいが、いわゆる日本的な音楽の総称としての「演歌」の存在に気がついたのではないだ得ろうか。

「反演歌志向」、・・・演歌の世界、すなわち「日本的なるもの」から抜け出すためには、徹底的に
そのことを追いつめなければ・・・すなわち理解しなければ・・・ならないと五木は言う。
「憎んだものの中には、共通のメンタリティがある」、そのことに気がつかないで、そこから背を向けるだけでは、決して決別できないと。

さすがは五木、仏教の教え・・・禅の思想のように、奥が深いことを言う。

浅川自身気が付いてないのかもしれないが、そして浅川のその時代の音楽しか聞いてない聴衆には気がつかないことだと思うのだが、(こういう小生も浅川のすべてを聞いたわけではないから、偉そうなことは言えないが、それでも彼女の7割ほどの音楽を聴いた感じでは)浅川が、あらゆるジャンルの音楽と手を結んでも、そこにファンダメンタルに流れているのは、象徴的に「演歌」という言葉を、あえて使うが、共通して「日本的センチメンタリズム」であり「ロマン性」であり、日常と非日常の葛藤である。

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by noanoa1970 | 2010-01-27 10:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

浅川マキと五木寛之の対談を読む・・・2

浅川の音楽姿勢にかかわるような、非常に面白い会話があったので、紹介しておこう。

浅川が「自身の音楽的変化を認めない客層が存在して、でもその気持ちはよくわかる」と言ったのに対し、五木は、「歌い手にしても物書きにしても、たえず自分の読者に「さよなら」と、決別の言葉を告げながら、働いていかねばならないような気がする」と言っていること。

対談が始まったのは、浅川のファーストアルバム「浅川マキの世界」が発売開始された後であり、セカンドアルバム「浅川マキⅡ」:1971年9月5日発売直後のころだ。

対談のころ浅川は、ライブでは、このセカンドアルバムからと、同じく71年録音後72年にアルバムとなる「紀伊国屋ホールライブ」とほぼ同じような歌を歌っていたものと思われる。

よって、浅川が話題に取り上げて説明した、観客の声のひとつ、「違うんだな」「だめだな」という理由なき反応が出たことの背景には、ファーストアルバムと、1年時を隔てたそれ以後の歌≒セカンドアルバム、あるいは紀伊国屋ライブとの間での、観客の違和感を物語るものだが、しかし多少の違いはあるものの、基本的な音楽姿勢に、まださしたる変化はないように、小生には思える。

しいて言えば「演歌的志向」が、ややファーストアルバム「浅川マキの世界」に強く出ていたのは事実だが、両盤いすれも山木幸三郎 の編曲の力が強く働いている。

それらのことを整理すると、
浅川は自分の内なる存在である「演歌的要素」を、セカンド以後の歌からしいてなくそうとした傾向があり、観客の一部の人は、そのことを指摘して「違う」「だめ
といい、それを浅川はわかる・・すなわち自分の底辺に存在する「演歌的要素」をしいて変化しようとしていることへの反省と、しかし、そうしなくてはいけない何かがあるという確信が、このあたりの葛藤となって、五木との会話に表現されたように思える。

あまり気がつかない・・・特に80年以降のアルバムからはあまり想像できないが、浅川マキを終始流れている音楽は「演歌」あるいは「怨歌」といってもいいかもしれない、いわば日本人の歌である。

浅川はそういう、自らの「演歌」的ファンダメンタル加減を知っていたからこそ、あらゆるジャンルの音楽と結びつき、シナジーを得ようと努力した。

78年以降の浅川の音楽的変化の様は、このことを物語るものだろう。

フォーク、ポップス、ブルース、ロック、シャンソン、モダンジャズ、そしてフリージャズなどあらゆるジャンルと手を結んできたが、その底には、消そうにも消しきれない、消し去れない「演歌」」があった。

・・・・続く

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by noanoa1970 | 2010-01-26 12:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

浅川マキと五木寛之の対談を読む

いまだに浅川マキに関する話題で恐縮なのだが・・・
drac-obさんから届いた浅川と五木の対談をさっそく読んだ。

「真夜中対談 」文藝春秋 1971/12・25
浅川マキと五木寛之の対談より

<たとえ5人の聴衆のためでも>と出版社側によるタイトルがつけられている。

この中で五木は、対談の4年前と言っているから、おそらく1967年だと思われるが、浅川が金沢の五木の家に、浅川の歌を録音したと思われるレコードを持参してやってきたという、そしてその時五木は、浅川の印象を「少女」とも言っている。

多分この時浅川はまだ生れ故郷の金沢にいて、その初レコードとは1967年4月にビクターレコードから発売された、『東京挽歌 / アーメン・ジロー』のことであろう。

小生は「アーメン・ジロー」 については、ラジオで流されたのを聞いた記憶があるが、東京挽歌の記憶はない。しかしその曲の記憶はすでにない。

この時浅川は25歳となっている、にもかかわらず五木が彼女を見ての印象を「少女」と言ったのは、お世辞だけではないだろう。

多分その時の五木には、浅川の全く洗練などされてない、初で純粋そうな田舎の小さな女性と映ったのだろう。

浅川はずいぶん幻の女・・・黒ずくめの得体のしれない、まるで西洋の魔女でもあるかのような扱いをされてきたが、最近になってようやくハッキリとした彼女の顔が見られるようになって、過去のイメージとは違って、小生には「可愛く」見えた。

これも小生が年をとったのが原因かもしれないが・・・

五木が浅川との対談を望んだのか、それとも出版社の手配によるものかはわからないが、1971年という年は、五木は数々の著作が学生を中心に多くの評価を得て、その名声は凄いものがあった、いわゆる団塊の世代時代の執筆者の、いわば花形的存在、そして浅川はアンダーグラウンドというカウンターカルチャーの象徴的存在として、反体制志向の若者・・・学生に人気が出てきたときで、大学の文化祭ではひっぱりだこの存在でもあった。

両者ともに、団塊の世代の学生たちの一部には、かなり熱狂的なファンが存在していた人であった。
この両者の対談だから、いったい何が飛び出すのか、興味を抱いた人は多かったのではないだろうか。

小生が初めて浅川のライブに接したのも、このころの大学の文化祭のことであった。
しかし五木に関して小生は、熱心な読者ではなく、現在に至っても「サンカ」が背景にある著作をはじめ、ほんの数冊しか読んではいない。

開口一番の五木の浅川への質問・・・「今あなたの一番好きな歌は?」
それに対し、浅川は
今度歌おうと思っている曲だといい、1番の歌詞のすべてとともに、
「少年」を挙げた。

文章では「証明」という歌です。となっていたので、「少年」は、最初は「証明」というタイトルにしようと、浅川が思っていたのかと思ったのだが、どうやらそれは対談が録音されたものを、編集者が拾う過程で、聞き取りにくくて「少年」が「証明」に化けてしまったらしいことに気がついた。

歌詞の内容からして「証明」とはどう考えても、結びつかないし、対談の中で、五木は浅川に「あなたはまるで野坂昭如の文章のようなしゃべり方をする」「句読点が少なくて・・・」と言っていたし、小生が聞いた浅川のしゃべり方から推測しても、「少年」が「証明」に化ける可能性はある。

しかしこの編集者あるいは出版社といってもいいだろう・・は、話の内容を理解せずにタイプ起こしをしてしまった。

ほんの少しでも、浅川マキのとは言わないが、音楽に興味がある人間であれば、決して・・浅川自身が1番の歌詞をすべてそのまま話しているのだから、なおさらのこと、「証明」ではおかしいと気がつかなかったのだろうか。

そして聞こえにくいのなら、確認をなぜしなかったのか。
これについては、多分録音では「証明」と割とハッキリ聞こえてしまったのが原因であろう、そう小生は思うところがある。

たとえば浅川の「紀伊国屋ホールライブ」での語りにも、そのしゃべり方のせいなのか、録音自体はハッキリしているにもかかわらず何を言っているのかわからない個所があるからだ。
北国特有の、口をすぼめたしゃべり方が、その原因なのだろうかとも推測できる。

書きかけ・・続く

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by noanoa1970 | 2010-01-25 12:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

だいせんじがけだらなよさ

いったいなんだろうと思った方が多いだろう。

この言葉、さかさによむと「さよならだけがじんせいだ」となる。

寺山修司が作詞し、「時には母のない子のように」に曲をつけた田中未知が作曲をした。

小生は学生時代に、おまじないのようで、リズミカルなところもある、この言葉を聞いて、それが今でも記憶の隅に残っているのだが、カルメンマキの歌も歌詞の内容も記憶にはない。
多分ラジオでは流されていたのだろう。

寺山は「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう・・・」という彼のもっとも有名な詩もあって、この詩をなぜ作ったのか、小生にはわからないが、「また来る春は何だろう・・・の詩の最後には、「人生なんていらない」とあり、それは多分「さよならだけが人生ならば」に続いている言葉だと思えるから、一筋の希望がその時はあったのか、絶望的社会の中において、無理やり希望を見出そうとしたのか。

「だいせんじがけだらなよさ」は、言葉の遊びに過ぎないとも思えるが、さよならだけが・・・」の逆だとすれば、再び絶望感にさいなまれてのことなのか。

この歌は「カルメンマキ」そしてこの前亡くなってしまった「加藤和彦」によって歌われている。

加藤は・・・決して死者に鞭打つわけではないが、アイロニーな男だったようだから、寺山の詩ということではなく、逆読みの妙に興味があったのかもしれないが。

この詩の元ネタは、干武陵(ウブリョウ)の漢詩 「歓酒」を意訳したものの一部で。
作者は井伏鱒二であるという。

「この盃を受けてくれ 
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ」


今この瞬間を大切にしようという意味のようであるが、それをまたネタにしたのか、元ネタによったのか、寺山は「さよならだけが人生ならば・・・」そして「だいせんじがけだらなよさ」を作った。

YOUTUBEにあるカルメンマキの歌を聞いてみよう。埋め込みが無効なのでリンクする。

このころ・・・初期のカルメンマキは、まだポップフォークの歌い手の位置づけで、「ヤギにひかれて」とか「時には母のないこのように」が、マスコミにも取り上げられていた。

ハッキリした記憶がないのだが、60年代の後半の時代であった記憶がある。

寺山はこの詩を書いたときに…歌にするための詩、つまり歌詞であることは、ほぼ間違いないと思えるから、これは推測にすぎないが、念頭にカルメンマキ・・・彼女に歌わせたいと思ったのかもしれない。

そして小生はこの詩の前身とも思える「さよならだけが人生ならば・・・」は、浅川マキにおける不変の考え方ではなかったのかとも思っている。

そしてさらに、井伏の「さよならだけが人生だ・・花に嵐のたとえもあるさ」にさかのぼって、浅川マキの詩には「別れ」が付いて回り、それは淋しさ(寂しさ侘しさ)や、悲しみ(哀しみ)であると同時に、かすかな希望も存在し、それが始終入り乱れ、入れ替わる。

浅川がインスパイヤーしていたと思しき、寺山のこの2つの詩のうち、「さよならだけが人生ならば・・・」であれば、浅川マキが取り上げても相応しいと思うが、「だいせんじがけ・・・」は、決して浅川が取り上げるような詩にはなってない。

田中未知がすでに、ポップフォーク調に作曲したからとも思えるが、詩自体が「別れ」をテーマにはしているが、浅川の「別れ」とはその根本が異なっているように思うからだ。

やはりここは、生まれつき暗いものを背負ってきたようなところを思わせる、アンニュイな、そして美形のカルメンマキを想定して書かれた歌詞であろう。

黒人霊歌の「時には母のない子のように」は、小生はドヴォルザークが民謡を土台にして作った「わが母の教え給いし歌」とともに、いい歌だとかねてから思っていたが、カルメンマキの歌もそれらとほぼ同等に聞いた覚えがある。

drac-obさんのかつてのブログによれば、カルメンマキと浅川マキは、カルメンがマキ大姉さんと呼ぶような中で、浅川の持ち歌である歌から数曲をライブで取り上げたようであり、中でも「にぎわい」を歌ったのをライブで聞いたとの記事があった。

両者ともに、共通項は寺山修二となるのだし、きっと昔から顔なじみであったろうが、過去のデータからはそのようなものは読み取ることができなかった。

カルメンマキが今後も浅川の歌をもっと積極的に取り上げ、新しいアレンジで展開してくれることを切望してやまない。

浅川マキ追悼で全編浅川の歌のカヴァーでも出してくれないだろうか。
浅川の歌をまともに歌えるのは、「カルメンマキ」か「山崎ハコ」か、少々苦しいが、「中島みゆき」ぐらいであろう。
浅川の中後期の曲を歌いこなせるのは、この二人、カルメンともう一人「安田南」を挙げておこう。しかし安田も、もうすでにこの世にいないらしい。

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by NOANOA1970 | 2010-01-24 15:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)

こんな風に過ぎて行くのなら

タイトルは、浅川マキの歌である。

   こんな風に過ぎて行くのなら
   いつか 又 何処かでなにかに出逢うだろう
   あんたは去ってしまうし
   あの娘も あっさり結婚
   今夜ほど 淋しい夜はない
   きっと今夜は世界中が雨だろう


この詩は今まで聞いていて、実はよくわからなかった。
それで、浅川マキが死んでしまったことを機会に、改めて聞きなおしてみた。

歌詞は覚えているから、すぐに文章化できるのだが、わからなかったのが、「こんな風に過ぎてゆくのなら」・・・・どうなるのだろうということだった。

「こんな風に過ぎてゆくのなら」その結果として、「いつか 又 何処かで なにかに出逢うだろう」に文章通り続くとすれば、意味不明となってしまう。

「今夜ほど淋しい夜はない」その理由が、「あんたは去ってしまうし、あの娘も あっさり結婚」にあるというわけではないようだ。

また「きっと今夜は世界中が雨だろう」は、凄い表現だが、単純に孤独感から来る淋しさの極限状態を表すのでもないようだ。

「いつか 又 何処かで なにかに出逢うだろう」という希望じみた言葉も、「さよならだけが人生」だから、すぐに「別れ」が待っている。

私の日常・・・こんな風に過ぎていく日常は、永遠に別れが付いて回ることだろう。
いつだってそうだった。
どうすることもできない。
それが私の人生だから・・・

私の人生は、世界中が涙を流してくれても変わりはしないし、慰めにもならない。
でも全世界がそうしてくれるとしたら、ほんの少しは変わっていくかも・・・
でもそんなことはあり得ないこと。
涙こみ上げる私の目は今宵、全世界が雨のように映っている。

浅川マキが死んでしまった後に聞いたこの歌は、わからないながらも、上のような解釈に落ち着いた。

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by noanoa1970 | 2010-01-23 10:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

パスワード

「安易なユーザー名とパスワードのワースト10、Microsoftが発表」とのニュースを見て、小生も先に普段は自動ログインしていたブログが、ある日働かなくなって、覚えていたつもりのパスワードが思い出せなくて、相当苦労したことがあった。

このニュースは、それとは違うのだが、忘れにくいものは簡単で、誰にも見破られそうだし、かといって簡単に見破られないものは、忘れると、相当きついことになる。

このあたりをどのように解決するのかが問題となるのだが、さてこのデータはたぶん米国においてのものと思われるが、多少興味があったので読んでみた。

ログイン名を「Administrator」「パスワードを「 password 」に設定したユーザーにおける外部からの侵入攻撃の数は、136971件に及ぶといい、さらに連続数字のものや、abc123のように初めのアルファベットや数字の一部を組み合わせたものに対する攻撃の頻度が激しいとのことだった。

ユーザー名は、当たり前だが、一般的な名前のものに対しての攻撃が多く、したがって一般的なユーザー名と、これも一般的といってよい、パスワードの組み合わせに対しては、予想通り攻撃が多いことが分かる。

我が国においては事情が若干異なるものの、ユーザー名とパスワード設定における、ユーザーの基本的思惑・・・おそらくは忘れにくいものを最優先する傾向があるのだと推測される。

生年月日と簡単なアルファベット組み合わせなどは、その最たるものだろう。
しかしこれは忘れにくいが、サイバー攻撃の的になることは十分あり得る話だ。

違うネタで、アルゴリズムを」使用したパスワード設定が解決法であるとするものもあったが、これは実にややこしく一般的ではないし、覚えにくいから、ファイル化すると、それが攻撃対象になる危険性もある。

どうやら辞書に掲載されてない自家製単語と、非連続の数字数位の間に、アルファベットの大文字小文字を入れるをのがよいようだが、小文字しか受け付けないものもあるから、これも万能ではない。

今のところ完全といえるセキュリティは、指紋か瞳・・絶対に2つとないもの、さらに究極はDNAとなるのだろうか。

何かよい方法はないものだろうか。

毎日PCをログインさせながら、心配を背負っていくことは、とても厄介で万が一を考えると、恐ろしくもなる。

知人にクレジットカードの暗証番号を盗まれ、50万円以上の請求が来た人も知っているから、小生は割高でも代引きにしているが、中にはどうしてもクレジット支払いをしなくてはならないものもあるから、実に困ったことである。

このようなことに関する保険はあるのか調べてみよう。

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by noanoa1970 | 2010-01-22 12:42 | トピックス | Comments(2)

浅川マキはやはり・・・

あまり知られてない存在だったようだ。
小生がブログリンクをしている人のブログで、浅川を取り上げたのはたった1人であった。

もっともクラシック音楽中心のブログが多いから致し方ないが、ネット上でも、浅川について個人的に書いているブログ記事は思ったより少ない。

理由はたくさんあるが、その大きな一つは、彼女の音源がほんの一部しかCD化されなかったことにあると小生は思っている。

(もちろんマスコミに登場しないことが、最も大きいだろうが。)

さらに当然と言えば当然なのだが、LPはすでにすべてが廃盤であるから、いまだに聞きたいと願う熱心なファンは、高額で数少ないオークションで入手するしかない状態だ。

入手できる金額はかなり高額だから、おいそれとは入手不可能な状態であるのも事実だ。
(5000円検討の値段が付いていて、競えばさらに上がることだろう)

ライブに参加できる数は、彼女が使用するライブ会場だから、そんなに多くの人数が聞けるわけではない。

よっていわゆる団塊の世代に代表される年代のオールドファンでも、いまだにLPで聞いている人以外は、そしてさらに若い世代に至っては、ライブ以外に彼女の曲を聴くチャンスはごく少ないと言える。

それでも浅川マキのコンピレーション盤が数種類現役だから、それを聞くことになるのだと思う。

昨日20代とプロフィールに書いてあったある人のブログの「浅川マキを団塊の世代から解放せよ」と題した、戦闘的なタイトルが目に入った。

内容をかいつまむと、団塊の世代の浅川は「フォークギタージャンジャカジャン」というとらえ方をしていたと書かれていて、80年代の浅川の、フリージャズスタイルを思わせる動画が貼り付けられており、70年代の浅川とは違って進化しているから、こういうものを聞かないで、浅川を過去の浅川…要するに筆者の言うところの、団塊の世代の浅川のイメージでとらえるのは間違いであるという論法だった。

たぶん紀伊国屋か京都大学西部講堂あたりのライブの一部がコンピレーションアルバムぬい収録されていたものを聴いてのことだと思うが、手拍子がアウフタクトではなく、伝統的な日本の手拍子である、そして観客の相槌の声が汚いとも評していた。

小生は「アメリカの夜」までは聞いているので、彼女の歴史は一応わかるつもりなのだが、たぶん筆者は、70年代のアルバムのほんの一部しか聞いてないことは容易に推測できた。

まぁ聞こうにも、すべては到底聞けないのだから・・・仕方ないが。

確かに80年代の浅川は、今までとはかなり変化の跡が見て取れるのは事実であるが、初期においても「フークギタージャンジャカジャン」の浅川は存在しない。

あえてそういう言葉を使用したのは、団塊世代そのものに対するアンチテーゼなのだろうか。

60年代後半から70代半ばごろまでの学生の浅川ファンの多くは、ちゃんとした意味においての「アンダーグラウンド」をある程度理解しており、その文化の中に存在する歌い手の一人に浅川マキという人間を見ていたのである。

また、暗いJAZZ喫茶で、一人モダンジャズやフリージャズを聞いていた人間の中にも浅川のファンはいる。
かといって団塊の世代が、みなジャズ喫茶通いをしたかといえば、そんなことはあり得ない事実である。

だから団塊の世代においても、浅川マキを全く知らない人のほうがはるかに多く、浅川マキと団塊の世代を直結した物言いは避けていただきたい。

サブカルチャーとか天井桟敷とかATGあたりに興味を持った人の中からの浅川ファンが多いのは事実であるが、そのような連中はごくごく少数であった。

だから「浅川マキを団塊の世代から解放せよ」という文字は、昨今の「アングラの女王」に代表されるような多くのマスコミ記者の記事そのものにいうべき言葉である。

アルバムは全体で1つの音楽だから、一部だけを聴いてのコメントや、事実を知らずに表面的な言動をしてしまう、おそらく若い世代のマスコミ記者に対してそういう言葉がふさわしいのだ。

そんな誤解がないようにするためにも、彼女のすべての音源のCD化が望まれる。

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by noanoa1970 | 2010-01-20 16:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

浅川マキの言葉

「時代に合わせて、呼吸するつもりはない。」

一番記憶に深い言葉でした。
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by noanoa1970 | 2010-01-19 11:49 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)