最大のコンプレックス

いろいろあるが、やはり最大のものとしては、音楽表現ができない・・・つまり楽器がろくに演奏できないということだ。

思えば感ずるところあって、小学3年生の時、「バイオリンを習いたい」と両親に告げると、母親は賛成したのだが、父親は「学業がおろそかになる」といって反対した。

初めて自らやりたいことを告げた少年のぼんやりとした希望は、無残にも父親の威厳の前で、その瞬間収縮してしまったのだった。

その後小生は、もっぱら聞く人になって長い時を過ごすことになったのだが、今も残念に思うのは、あの時何が何でもバイオリンを・・・といわなかったのかと、今でも悔やまれる。

そうであったなら、別にバイオリンで生計を立てなくても、学生オケや社会人になっても、地方のアマオケに入って、音楽を表現できた可能性があった。

父親は小生の音楽への要求をはねのけたが、妹のピアノには賛成し、3歳のころからピアノを習わせ、個人レッスンも付けさせた。

妹はいつもいやいやピアノの前に向かい、時には泣きながらレッスンしていた。
おかげで小生は、ツェルニーやハノン、ブルグミューラー等のメロディをいつの間にか、覚えることとなった。

そんな妹は、途中でピアノから声楽へと種目変更し、音楽専攻科のある高校から、音楽大学に進んだのだが、卒業するやまた一般教養女子大に進みたいといい、2度も大学生となった。

卒業後しばらくYMAHA音楽スクールの講師を経て、個人のピアノ教室をやっていたが、結婚してその後音楽とは縁のない生活をしている。

聞くだけ人間の小生としては、何か楽器をと、フルートを購入し、大学オケに入って塩素ぷ回に出たいと思っていたのだったが、いざ入部してみると、フルート人口はものすごく多く、ほとんどが高校時代のブラバン出身者で、小生のような全くの初心者はいなかったから、jこれは付いていけるはずもなく、すぐに諦めた。
そして同時に入部したDRAC=同市は大学レコード音楽研究会の席を埋めることになったのであった。

今小生ができる楽器といえばギターであるが、それは出来るといえたものはなく、コードを頼りに、フォーク系の簡単な楽曲を、パラパラ弾く事が出来るだけなのだ。

さて楽器コンプレックスというと、小生の場合単にそれだけではなく、実は小生の親類縁者の中には音楽関係の人がかなり多いことにもあって、それもその大きな原因となっているようだ。

小生の伯父は法医学の医者なのだが、そお嫁さんは、四谷文子に師事し、毎日音楽コンクールで優勝の経歴を持つアルト声楽家で、その息子は東大を卒業して(これもコンプレックスといえばそうかもしれぬが)IBMに入社したしたのだが、すぐに退社して、今は練習指揮者やマイナーオケの指揮者を務めている。

どうやら東大時代学生オケで、チェロを弾いていたから、社内オケを持つIBMに最終的に決定したようだが、すぐに夢は破れたようだった。

彼は母親が声楽家であった関係で、極小さい時からピアノをやっており、腕は相当たしかっだったようだ。
彼の弟はやはり東大を卒業し、大手の重工会社に就職したが、やがて信州諏訪の、小さいが有名な、もてなしの宿の娘と結婚し、現在は旅館の主人として生活している。

さてさらに、小生の父親の従兄の奥さんという人は、瀬戸遥子といい、かつて新日フィルのコンマスをしていたという凄い人。
小澤征爾とはかなり親しかったと聞いている。
現在は多くの門下生を持ちながら、確か愛知県立芸術大学の教授をしていると聞いている。

さらにさらに、小生の父親の父親方の従兄(学者)の息子は、現在 名古屋フィルのバイオリンパートのリーダーという存在である。

小生の母親の兄は、上野音楽学校・・現在の東京芸術大学を卒業し、家庭の事情から音楽の教師となったが、若くして亡くなってしまったが、小生が最も音楽の薫陶を受けたのは、この叔父からであった。

親類縁者は小生の家庭とは違って、医者や音楽関係者が多く、しかもほとんど全員が国立大学卒業者。

小生の父親は旧帝国大学の卒業であったことと、トヨタG2番手の会社で、労務人事総務端の責任者をやってきたこともあって、大学は国立でないとダメだ・・・そういう感覚の持ち主であった。

最もそのころのトヨタGのほとんどは、大卒新入社員は、名古屋の国立大学閥を中心に、旧帝国大学の出身者で占められていたようで、たまに有名私立大学出身者を採用したときには、国立卒と私大卒の比較をして話すことがあった。

組織に忠実、上の命令遵守、トッピなことはやらない、そんな国立大卒の傾向は、当時の比較的大きな会社では、採用の基準でもあったのだろう。

高度成長期の間には、そのような人材でもよかったが、それを過ぎて、しかも製造と販売両方で成り立つ会社では、そんなことは行っておれなくなった。

小生が2度目の会社として選択した、外資系のOA機器製造販売会社では、そのような国立大重視の考え方はとっくに無くなっていて、私大の比率がすごく高かった。

小生は中途採用だが、面白いエピソードがある。
長くなるが、思い出したので・・・・

小生の同期入社に、前職が秋田の田舎で郵便局員だったEという男がいる。

面接の知らせが来たが、彼は今までビジネススーツというものを着たことがなく、取り急ぎ揃えたのだが、靴は買い置きしていたものを履くことにした。

なんとその靴は白色で、スーツとは全く相いれないものであった。
彼は全く躊躇なく、皮靴だからこれでいいだろうと、勇んで面接におよんだ。

面接官は、人事担当では無く、現場の責任者で占められており、人事担当者はあくまでバックヤード・・そんなところも一般の会社とはかなり違っていて、ある営業現場の課長クラスの面接官の一人Mというひと、そのEの白い革靴画目に入り、全く不似合いなものを堂々と身につけている、そのユニークさを買って採用としたのだった。

この話はそのM課長が後年、われわれの所属する営業部に配転されてきて、当時の面接の裏話として語ったものだ。

さて話を戻すが、どういうわけか小生の親類縁者は東大卒業者が多く5人もいるし、しかも他のほとんどが国立大学卒業者で、医者も3人いる。

サラリーマンが少なく、小生の父親と従兄の一人だけで、後は音楽関係か医者か学者、後は公務員で占有されている。

私大卒業者は、ほとんど小生だけという・・・それも今では意識はないが、かくれたコンプレックスとなっているのかもしれない。

今思えば、父親は弁護士か裁判官になりたかったようで、「ジュリスト」という専門雑誌を読んでいたようで、ああるとき押入れから大量の雑誌を発見したことがあった。

父親は長男であったから、祖父の退官後、すぐに大家族の妹弟の面倒も見なければならないという宿命から、大学卒業と同時に就職し、何らかの稼ぎが必要であったのだろう。

大学院の希望や司法試験という長期に渡る非生産の身の上は許されなかったのだろう。
それに引き換え、すぐ下の弟は、法医学専門のの医者となった。

そういう長男の堅実さが、至る所に現れ、小生の進路・・・大学進学についても、国立大学へといい続け、それはものすごいプレッシャーとなったし、大学進学の一番の希望であった南山大学の人類学を専攻し、考古学をやりたいという希望もかなえられず、法学部か経済学部のどちらかを選択させられることになった。

しかし最大のものは、「楽器が演奏できない」ということであり、何度もチャレンジしようと思いつつ今までなにも手を打つことなく、その世界に参加することができないでいる。

しかし音楽を聴くことの量と質は、かなり自信があるのだが、時として、楽器コンプレックスが顔を覗かせる。
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by noanoa1970 | 2009-09-30 11:10 | 家族の肖像 | Comments(2)

見つけた

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どこかに小生がアランセーターを着ている写真があったはずだと、古い写真を引っぱり出して探してみると、案の定それはあって、どうやら小生がまだ学生時代の、鳴海の実家の居間での写真だ。

ヴィクターのステレオ装置は、それまでの主な装置を、小生が京都の下宿に持っていてしまったので、妹のリクエストで購入したらしいが、小生はあまり気に入ってなかった。
このころはこのような一体型のステレオ装置から脱却し、単体を組み合わせることがマニアの間では主流になりつつあった。

写真を見ると、レコードジャケットを妹が手に持っており、小生がレコードを手に持って、レコードを出したところか、袋にしまうところのいずれかであろう。

どのレコードであったかは、記憶が定かではないが、ボブディランのニューモーニングだったような気もする。

1971年ごろの写真だと思われる。
スリムタイプのホワイトジーンズに合わせているのが何とも・・・・

アランセーターは、そのころフィッシャーマンセーターと呼ばれていた。

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by noanoa1970 | 2009-09-30 09:26 | 歴史 | Comments(2)

アランセーター

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1969年のことだったか、小生は学生になってから、初めてジーンズを履くことにした。
このころの小生は、ジーンズ・・・Gパンというものには縁がなかった・・というより、それを着用することに何か後ろめたいものを感じていたからである。

最も今のように、猫も杓子もジーンンズという時代ではなく、大学入学時当時の67年68年ごろは、アウトロー的な一部の若者やミュージシャン、演劇などの関係者で細々と流行っていて、どちらかというと反体制的な香りもしていた。

当時のキャンパスには、ジーンズ姿はあまり見ることがなかったし、サークルDRACにはジーンズを着ているものは皆無であった。

そんな時代を少し過ぎ、小生が銀閣寺畔にある白沙村荘村でバイトをしだし、やがnoanoaをやり始めることになった時のこと、バイトで入ってきた数人の若者たちが、全員ジーンズを履いていたのを見て、その丈夫さと何より長期間着っぱなし可能なことが、その時のライフスタイルとマッチングしたので、思い切って購入することにした。

銀閣寺近くの若者向けのブティックで購入したのがLEVI'S で、EDWIN と比較してのことだったが、なぜそれを選択したのかは記憶がない。
恐らくは、又上云々という説明を受けたのではなかったろうか。

こうして小生とジーンズは出会うことになるのだが、小生はその時、そのブティックに飾られていた白ぽい・・・稀なりのゴワッとしたセーターが妙に気になった。

そのセーターは、今までの生活では着たことのない、そしてまで見たこともないような、真っ白いが太い糸で編まれているらしく、頑丈そうでしかもどこかネイティブさを持っているように思えたから、店の人に聞くと「フィッシャーマンセーター」だという返事だった。

値段はと見ると、通常のセーターの3倍以上は軽くするもので、とても高価であったから、すぐにあきらめて、ジーンズだけを乳巣したのだった。

しかしどうしても、あのセーターのことが気になって仕方がなかったので、noanoaの給料が出たら・・・と、ひたすらその時を待って、ようやく入手したのだった。

給料の約3分の1が必要であったが、ジーンズに組み合わせたときの着心地と、周りにはこのようなセーターを着ているものはいなかったから、少し優越感を感じてもいた。

初対面では必ず「いいセーターですね」等言われたから、得意げでもあった。

それから長い年月が経ち、そのセーターの網目文様が、アランセーターと同一のもので、別名「アランセーター」といわれることを知った。

これらのことを思い出す気っ換えは、今朝のBSで、「アラン諸島の子供たちの話・・・セーターを編む少女」のことを放送していたからであった。

今も唯一ゲール語が残されているというアラン諸島の2つの島、そこでの少年少女の生活が描かれており、アイルランド、ケルト文化をこよなく気に入っている小生は、食い入るようにして画面を観たのだった。

おばあさんのその前から伝わるアラン伝統の編み物技術が、いまもなお、子供たちに伝えられ、細々ではあるがと切れずに伝わっていることに、大いに感動を覚えると同時に、このアランセーター画かつてすぇ快適に有名になったのは、今から約100年ほど前の、ある戯曲によってだと紹介されていたのに興味を持った。

TVではその戯曲名を紹介しなかったので、先ほどネットで調べると、その戯曲は恐らく、ジョン・M・シングの「海に騎(の)りゆく者たち(Riders to the Sea」だと判明した。

シングは小生初聴きの作家だが、アイルランド語による戯曲の創始者とされ、イエ-ツが古代神話を題材にしたのと異なり、彼は現代の生活を題材にしたという。

小生がなぜ放送の中の戯曲の話に興味を持ったのかというと、その戯曲の中で「漁師が海に出て遭難して死者となって帰ってくるのだが、それが誰であるかが、着ているセーターによってのみ判別された」とあり、そのことは、古からアラン諸島の女は、その家々の文様をセーターに編みこんできたというとを物語るものである。

万が一の場合の判別の証ともなっているという悲惨な歴史・・・アランの激しい海と、生活のために悪天候でも海に出て、したがって遭難も多かったであろう、アランの人々の生活がうかがえるものである。

フィッシャーマンセーター、アランセーターにはそのような哀しい歴史があるわけだ。

単なるファッションとしてだけではなく、それを着用することは、そんなアランの哀しい歴史と伝統をも間接的に受け継ぐことになる。

そんなわけで、今欲しいものの筆頭は「アランセーター」で、どうせならアランの女たちが手作りで編んだものが欲しい。

そう思ってネットで調べたが、一着5~6万円するので、おいそれとは購入できないが、それでも価値は十分有るのではないかと思っている。

学生時代に無理して購入したセーターは、20年は着たのだが、今はもう手元にはない。
残しておき、修理して使えばよかったと、悔やむことしきりである。

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by noanoa1970 | 2009-09-29 11:48 | 歴史 | Comments(0)

Peter, Paul and Mary - Leaving On A Jet Plane

悲しみのジェットプレーンと邦訳されたこの曲。
かなり長い間ジョン・デンバーが作者とは知らなかった。

youtubeに、これは大変貴重な、作者ジョンデンバーとPP&Mのコラボの映像があったのでUPしておくことにした。

姿からは70年代後半と推測されるが・・いつ頃の映像なのかは不明だ。


ベトナム戦争で招集される男の心境を歌ったもの。
やんわりとした反戦歌である。

こういう婉曲的な表現の反戦歌は、解釈の多多様性を秘めているから、長生きするものだ。

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by noanoa1970 | 2009-09-26 09:56 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

Mary Travers

マリートラヴァースと聴いて、すぐにあのPP&Mの女性ヴォーカルだと気づける人は、かなりのオールドフォークファンだと思う。

そのマリーがこの16日に亡くなったと聞いた。
白血病を患ったとも聞いていたから、それが悪化したのだろうか。

小生よりもちょうど1まわり先輩になるから、享年73歳だ。
数年前にボランティア活動として、元気そうにたち振舞って、子供のためのコンサートを開催し、そのシーンを放映したのをVTRに収録したことがあった。

デヴュー当時から比べると、約2倍もあるかと思うような体格に変わってはいたが、あの魅力的な声のトーンは、流石に健在であった。

実は小生が家を長期に留守にすることになった14日の朝、留守中に家内が音楽を聴きたいから、オーディオ装置の使い方を教えて欲しいと珍しく言い、そして何かCDをチョイスしろというので、選んだのがPP&Mのオムニバス盤であった。

留守中はほとんど情報が入らない環境にいたから、マリーの死のニュースは得られず、2日前に帰宅してこのことを知ることになった。

1960年代の極始め、中学1年生のころ、小生は初めて彼らの音楽に接することができた。
彼らの優しいハーモニー・・・しかしそのハーモニーは随所にヒネリがかかっていて単純には真似することが難しいのだが、それでも主旋律+αは部分的に真似したし、英語というものに興味を持った瞬間でもあった。

おかげで相当数の曲は、英語の歌詞で歌うことができてしまうようになった。

今では逆に珍しくなってしまったナイロン弦のアコースティックガットギター、そしてベースのバックに女性を含むトリオのハーモニーは、天上の音楽に聞こえたものだ。

60年代中半まで、アコースティックギターが流行ったのは、彼らの影響が強かったと思う。

ジャケットでしか見ることが、当時はかなわなかったが、ブロンドで長髪のそして長身の美女の声のトーンは、当時同じように聴いていたジョーン・バエズとは全く傾向の異なるものだったが、どちらも素晴らしく聞いたものだ。

悲惨な戦争、朝の雨、500マイル、くよくよするな、悲しみのジェットプレーンそしてパフ。
オリジナルこそ少なかったが、すべての曲を、完全に自分たちのもにして歌っていて、後にオリジナルを聴いたときには、最初は多いに違和感を感じた覚えがある。

そんな小生のフォークソングの原点の1つがPP&M。
10年ほど前CDで揃えようと、CDショップに行ったのだが、あいにく未復刻らしく、ほんの数枚しかなく、非常に残念に思ったが、今回のことで追悼盤として彼らの全アルバムが復刻されることを期待してやまない。

今でもかなり時々、オムニバス盤・・・海賊盤らしいが、優れもので全2枚に約40曲が収録されており、彼らの全貌を少しだが垣間見ることが可能だ。

今夜は2枚目を聴いてみることにしよう。

マリーさん安らかにお眠りください。

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by noanoa1970 | 2009-09-25 15:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(5)

伊勢湾台風の記憶

昭和34年は、小生にとって、画期的なことがたくさんあった年だ。
この4月、皇太子と美智子さまの結婚式が行われ、国中をパレードするというので、皇室好きの父親が、思い切ってテレビの受信機を購入したのだった。

シャープの14インチのモノクロで、室内アンテナをテレビの上に乗せ、チャンネルごとに方向をずらしながら調整しつつ観ていた記憶がある。

以前は、数々のラジオ番組を聴くために、ラジオの前に集まったものだが、TVがやってくると、ラジオの出番は無くなって、ラジオが活躍するのは、安物のトランジスタラジオで、海外の音楽を積極的に聴くようになった中学生時代と、ラジオ講座を聴くようになったころであった。

このころのTVの記憶は数々あるが、衝撃的だったのは、60年安保闘争の映像を放映した時のこと。

いったい何であのような大勢が、国会議事堂を取り巻いて、デモをしているのか、警察隊との、かなり激しい・・・暴力的な映像に、何もわからない少年ながら、何か怖いものを感じた覚えがある。

東大の女子学生が、デモの最中に圧死したというニュースが盛んに放れ、「樺美智子」という名前は記憶の片隅に今でもある。

伊勢湾台風がやってきたのは、其の前の年の9月。
当時小生は小学校の5年生で、海に近い東海市から名古屋の高台にある市営団地に引越しをして2年ほどたったころ、千種区の東山小学校に通っていた。

名古屋駅から東山通りを東に進むと、覚王山、城山、本山、唐山、そして東山と、「山」のつく町名が示す通り、だんだん高度が増していく地形で、なだらかな丘陵地が広がるところであった。

自由が丘は城山から北に入ったところで、すぐ近くには徳川山町という、多分尾張徳川家の直轄所領で、ここで狩りなどを楽しんだところと想像できるところで、丘陵地を造成した大きな団地は、当時まだ周辺には、緑溢れるなだらかな小山があり、小生たちはよく探検に出かけたものであった。

当日は確か土曜日で、授業がお昼まであったか、警報が出て早引きをしたのかは記憶にないが、しかし明るいうちには、その夜起こる未曽有の災害など、だれも予想だにしていなかったような上天気であった。

TVの天気予報では、大型の台風がきそうだといっていたが、その兆候は全くない日暮れ前までは、全く普通にしていたし、これといって台風に備えることはしなかったようだった。

自由が丘という高台の新興住宅地に、数多く作られたブロック建築の市営住宅で、頑丈にできていたこともあって、ほとんど気にしなかったようだ。

しかし数日前から、父親は会社の仕事で東北・北海道に出張し、帰るのは日曜日・・つまり伊勢湾台風の翌日ということで、家には母親と6歳の妹そして小生の3人だけであった。

夜になって7時ごろからだんだんと風が強くなってきて、8時になった時風の強さが増すが、もう寝ようということになり、戸締りだけして全員2階に上がった。

ところが、ますます風が強くなり、風の音が激しくなる音が聞こえてきて、どうやら台風が近づいていることが分かって、母親がロウソクを取りに行った。

9時に近くなって、吹き荒れる風で部屋の中が風船のように膨らんできたかと思うと、突然のような、今まで経験したことのない暴風雨状態となって、照明が切れた。

停電で照明がきれロウソクの明かりになると、とたんに恐怖が襲ってきて、母親はパニック状態となり、それを見た妹が泣きだした。

断続的に部屋の中が膨らみ、そして収縮する・・・このような初体験はさらに恐怖を呼んだが、母親は、半泣き状態でただオロオロするばかりであった。

窓は鉄のサッシで出来ていたが、ガラスは今に破られそうで、ブロックで出来た住宅であったが、天井が破られるかのような、凄まじい暴風雨となった。

それで・・・・この話は、今も母親が当時を思い出して時々するのだが・・畳を持ち上げて、窓に立てかけようと、小生が提案し、6歳の妹までが頑張って手伝い、何枚ものもの畳を持ち上げて、窓に立てかけた。

こうして・・ハッキリ覚えていないが、時計時間よりも、実感はそうとう長い時間を恐怖と一緒に過ごすことになったのであった。

一体どれだけの時間が経ったのか分からないのだが、やがて暴風は去って、いつの間にか眠った小生は次の朝を迎え、ところどころ黒い雲が残ってはいたが、明るい日差しと、青空の庭に出た。

庭にはトタンや折れた木々、普段見ることはないさまざまな漂着物が飛んできていて、幸いなことに、周辺には天井が抜けた家は無かったが、それでもガラス窓が破られた家がかなり存在していた。

その時の実感は、「凄い暴風雨だったが、大したことは無かった」というものであったが、それがとんでもないことだと、思い知ることとなったのには、しばらく時間がかかった。

周囲からは、壊れた個所を修復するカナヅチの音が聞こえてきたが、父親が出張で不在の我が家は、特に修理するところもなかったようで、庭に飛んできた危険なものを掃除したにとどまった。

しかし相変わらずの停電が続き、水道もストップしたような記憶で、給水車がまわってきて水をもらいに行ったように覚えている。

こうして日曜日が過ぎた次の月曜日、小生の地区はさして被害が少なかったかったから、授業があるかもしれないので、母親が学校に行けといい、近所の1つ上の酒井君を誘って、道々授業あるかないかを話しながら学校に向かった。

学校までは小学生の足で30分かかるが、ガラスと切れた電線を注意しながら学校にたどりつくと、学校はガランとしていて、人っ子一人、先生すら学校に来ていなかった。

損した気分と、得した気分の両方がいり交る中、いつもと違うルートをたどりながら、台風の被害状況を眺めつつ家に帰ってきたのだった。

しばらくした停電復旧後、テレビラジオではようやく被害状況が分かってきたらしく、それで海岸近くや河口近くのところでは、多数の死者が出ていることを知ることとなった。

知多半島の付け根の、海岸に近いところにそのまま住んでいたとしたら、はたして命の保証があったのだろうかと思うと、父親不在の中の恐怖体験(母親のパニックが小生の恐怖を助長したが)など吹き飛飛ばすことが可能になったほどである。

交通機関がマヒしたせいで、父親が帰ってきたのは、予定を2日過ぎた火曜日の昼であった。
父親は阿寒湖で買ってきた「まりも」のレプリカを土産に、父親不在の中の恐怖のことなど、表面的には気に掛けないように、帰ってきたのだった。

電話もない時であったから、緊急時には連絡が取れない中、台風情報なども十全に入手できない出張の中、どのような思いであったのだろうか。
しかし、決して「心配した」という言葉は聞こえてこなかったように記憶する。

数日経って学校が始まり、さらに数日経ったある日の朝、先生と一緒に教室に入ってきたのは、南区と港区から転校してきたと紹介された、男女2名の生徒だった。

思えば伊勢湾台風で疎開してきた子供で、家も財産も友達も、ひょっとしたら肉親を亡くした身の上で疎開して来たのかもしれなかったのだが、そのころはそんな推察もできなかったし、先生も気を使ったのか、ただ「転校」と伝えただけであった。

心なしか転校聖生は、皆暗い表情をしていたのを思い出す。

そのころの小学校は、5年生だけでも8組あり、1クラスで約55人ほどの生徒数があった。
全校で多分30クラス以上あって、そこにすべて疎開してきた生徒が入ったとすると、ざっと50人近くの生徒数になるであろう。

低地で海や河口に近い街は、壊滅状態にあったのだが、被害の少ない位置に生活できた小生たち、そして学校のほとんどの仲間にはそれは実感としては伝わってこなかったのが、正直な気持である。

疎開してきた生徒たちは、半年もたつと、また元の所に帰って行ったが、どんな気持ちで学校生活、日常生活を送ってていたのだろうかと、今になって思うところ。

同じクラスの生徒の親戚の家が多大な被害にあって、死者も出たなどと聞き及ぶにつれ、また南区から疎開してきてそのまま、元の家に帰れなくいなった生徒と友達になって、あまり話したくなさそうにしているが、それでも少しづつ当時の話を聞くに及んで、針のように脳裏をさすことがあった。

母親は父親に、大事な時に居なかったことをいつまでも根に持っているらしく、。事があるたびにそのことを言っていたし、同時に小生が畳を上げるようにいったことで、窓ガラスが破損せずに、怪我も被害もなかったと、当時を思い出していうことがり、あまり褒めらっれる事がなかった小生は、こそばゆい感じがしてならなかったと同時に、普段は強気の母親が、リスクの時にはとたんにオロオロするばかりになるのを見て、普段とは違う一面を垣間見ることになって、」何か後ろめたさを感じたものだ。

この26日は、伊勢湾台風の50年記になるという。
しかし未曽有の災害を経験したにもかかわらず、台風が近づいてくるのを、なぜか知らないが、心待ちにしているようなところふぁある、不謹慎さを未だに持ち続けている自分がいるのも事実である。

怖いもの見たさいぇきどな恐怖を味わいたいという願望が、心の底にあるのだろうか。

しかしこのことは、本当の恐怖を味わった事のない証拠でもあるのであろう。

人間はというものは、つくずく厄介な動物である。

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by noanoa1970 | 2009-09-24 07:34 | 歴史 | Comments(0)

1丁目1番地

今日からブログを再開することになった。
パソコンとは全く縁のない生活をしていたので、初めての約2週間の長期更新ストップだったが、やはりパソコン無しでは生活できなくなっていることを、認識させられることになった。

すぐに調べたいものがたくさんあっただけれど、パソコンが使えない環境では、すぐに解決しないから、そういう意味では、少々つらいものがあった。

そんなわけで、本日のブログタイトルは「1丁目1番地」なのだが、このところ政界の情報がたくさん入るせいなのか、政治家たちがこの言葉を多用するように思えてならない。

国民新党の新旧党首、自民党の議員、最近では新総務大臣の原口氏までもが、そpしてまさかと思ったが、鳩山首相までもが、この言葉を使うのを耳にした。

「まず手始めに・・・」、あるいは「最重点施策」とか、「最初の1歩は・・」とかを意味し、「まず最優先にやるべきことは・・・」ということを言わんがために、この言葉を使うのはわからんでもない。

しかし小生は、出来れば政治家には、この言葉を使ってほしくないのである。
多少の文学的表現だと彼らは思って使うのだろうが、小生には政治家たちがこの言葉を使うのを嫌う理由があって、それは以下のことが根拠なのだ。

また、この言葉を、各党の議員が使っているから、政界で流行っている言葉なのだろうが、小生の興味は、一体だれがいつ頃からこの言葉を使い始めたのかということにもある。

小生のような団塊の世代+-5歳ぐらいの年代の方なら、記憶の片隅にある型は多くおられるかと思うが、昭和30年代、NHKのラジオ番組に「1丁目1番地」という子供向けのラジオドラマがあった。

東京の街に住む家族の日常を描いたドラマだったと思うが、今ではその内容は記憶のかすかにしかない。

ただそのテーマソンは、歌詞もメロディも覚えていて、ほぼ完全に歌うことが可能である。

ということは、かなり頻繁にこのドラマを聴いていたということだろうし、50年以上前のことなのに、今でもそのテーマソングを覚えているということに、何かしらの感慨を覚えるものである。

そんな小生の思い出のラジオ番組のタイトル「1丁目1番地」を、政治家たちが、いかにも恰好付けのように、挙るように使用している風潮に、とても我慢ならないものを感ずるし、また少々腹立たしいのが本音なのだ。

一体いつ誰がこの言葉を使い始めたのだろうかと考えると、恐らくはドラマのタイトルからの引用ではないかと想像できる。

だとすれば、団塊の世代+-5歳ほどの、番組放送当時、ちょうど小学生から中学生ぐらいの世代の誰かなのであろう。

小生がこのドラマを聴いていたのはいつのことなのか、記憶をたどってみるが、今ではもうハッキリしないので、ウイキペディアにでも情報がないかと検索したが、残念ながら掲載は無かった。

推測すると、まだTVが家にないころのことだから、昭和34年以前ということになる。

わが谷TVがやってきたのが昭和34年のこと。
天皇皇后(当時は皇太子と美智子さま)の結婚パレード放映があるというので、父親が思い切ってシャ-プ製の14インチのモノクロTVを購入したのだった。

TVが来るまでは、ラジオが唯一の少年たちの楽しみで、このホームドラマもその1つであったのだろう、ホノボノとした感じが好きで、東京の市民の生活と自分の環境を比較しながら聴いた覚えがある。

不確定情報だが、どうも放送は昭和32年:1957年から始まったようだから、小生が小学3年生の頃のことのようだ。

脚本は「高垣葵」という人で、この人の名前は記憶に残っている、というのもそのころの子供向けのラジオ番組の多くは、この人によって作られたもので、番組の終わりには必ずと言っていいほどこの人の名前が読み上げられていた。

高垣葵・・・「タカガキマモル」と紹介していたと記憶する。

このような少年期の大事なラジオ体験のテーマを、安易に、しかも得意げに政治家たちには使ってほしくない。

政治家たちの表現力」の無さには、そして言葉遣いの貧困さには呆れることが多いが、自らは活気王がよいと、そして政界の流行り言葉のように使っているが、小生には実に気味が悪いのである。

余談だが新総理大臣の「お」の使い方も」ものすごく気になっていて、時には慇懃無礼に聞こえたりしてしまう時がある。

昭和34年はわが家にTVがやってきた年でももあったが、同時にその秋には、あの「伊勢湾台風」がやってきた年でもあった。

次回その「伊勢湾台風」の時の思い出話をUPします。

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by noanoa1970 | 2009-09-23 09:53 | 歴史 | Comments(0)

ブログ更新しばらくお休みします

いつも訪問いただいている皆様に

しばらくの間、更新をお休みします。
今月末・・・9月25日あたりから再開する予定としますので、
よろしくお願い申し上げます。

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by noanoa1970 | 2009-09-13 11:54 | トピックス | Comments(2)

クラシックファン(コアな)が泣いて喜ぶCM

とてもマイナーなCMなので、小生も過去数回しか見たことがない。
測ったことはないが、恐らく15秒程度の極短いものだ。

全国区ではないかもしれないから、ご覧になられた方は少ないと思われる。

多分・・どこかの結婚式場のCMだと思うがそれがどこであるのかは全く記憶がない。

しかし、小生には妙に印象に残るもの。

それはCMで使用される音楽である。

結婚式関連のCMだと思われるから「結婚行進曲」が使われることには、何の不思議もないが、ここではオルガンでメンデルスゾーンの「結婚行進曲」が始まり誰でも知っている有名なフレーズに差し掛かると、とたんに単調に転調され、次に音楽がベートーヴェンの交響曲「運命」の1楽章の俗に「運命の動機」と呼ばれるものに変化するのだ。

小生は以前から、ベートーヴェン「運命の動機」が彼以外のさまざまな作曲家によって引用されていることをブログに書いてきた。

面白いのは、メンデルスゾーン、そしてワーグナーの・・・我が国で、披露宴で新郎新婦が入場する際に使われてきた、音楽の筆頭である「結婚行進曲」にベートーヴェンの「運命の動機」が引用されていること。

「結婚は運命」か、などという思いも働くのだが、特にワーグナーでは、ローエングリーンの中で使用され、「素性を訊くな」という約束をエルザが裏切って、結婚が破談になり、その後悲劇が訪れるという展開だから、「運命」の動機が使用されることはかなり納得できること。

一方メンデルスゾーンの結婚行進曲は「真夏の夜の夢」というシェイクスピアの喜劇を基に作られた劇音楽。
妖精たちの恋愛に関係するドタバタ劇で、最後は円満に終わるから、結婚式で使うとすれば、メンデルスゾーンのほうが、どちらかといえば相応しい。

次第を知っているクラシックファンに、ワーグナーは絶対に結婚式では使わないなどという人は多い。

そして小生もその一人で、息子の時には、結婚行進曲は使わないということで、ことが進んだからそれについて言及することはなかった。

そして小生はその上に、例えばマーラーに至っては、5番の交響曲・・・俗に葬送行進曲といわれる冒頭のトランペットソロの部分で、「運命の動機」・・したがってメンデルスゾーンの結婚行進曲冒頭と全く同じものが使用されることから、彼らはやはりベート-ヴェンの「運命交響曲」を強く意識したに違いないと踏んでいたのだった。

件のCMが、そうしたことを意識したか、そうでないかは不明だが、結婚行進曲が転調により変化して運命に変わるという、クラシックファンには答えられないような、この一連の「運命の動機」の、したがって結婚=運命・・・そしてCMのスポンサーの式場を使うのも決められた=運命なこと・・・そのように印象付けるマインドコントロール気味のCMに、思わずうなってしまった。

ただ残念なことに、音楽の印象度が強すぎて、スポンサーの名前など肝心なところの印象が全くない。

総じてこのCMは、かなり高レベルではないか、しかも普通の人にも「結婚行進曲」と「運命」という語句が音楽によって印象付けされるから、イメージ広告としてはこれまでには無かったやり方で、このCMの作者が誰か非常に知りたいところである。

少なくとも、小生には「運命の動機」でベートーヴェンとメンデルスゾーンが結ばれ、転調によって、からりスムーズなオルガン曲に編曲された見受けられるから、編曲者とCM製作者が、単純に「運命」と「結婚」を結びつけたのではないのだと思わざるを得ない。

CM最後のセリフ「わたしたち運命だからね」

そこにはかなり深い音楽への造詣が潜んでいると思われるのである。

ただしこのCMのことは、ネットで検索しても、ものの見事に引っかからない。

ということは全国区のCMではないのだろうか。
今まで数回スポンサー名を注意して観ていたが、音楽に負けてしまい全く記憶にない。

どなたかご存知の方おられないだろうか。

追記
名古屋三越ブライダルのCMと判明した。

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by noanoa1970 | 2009-09-10 09:52 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

「モンドセレクション」というあやかし

ルモンドLe Mondeというとフランスの伝統ある進歩派の新聞である。
小生は「モンドセレクション」ということ名から、てっきりフランスの権威ある食品の審査機関だと思い込んでいた。

モンドセレクションという言葉は、かなり以前のこと、あるオヤツのお菓子を製造するメーカーの宣伝によるもので、ココナツ風味のビスケットは、包装にそのマークが印刷されてもいた。

フランスといえば食文化大国でもあったから、このような賞を取得することは、相当の権威に思えたが、それにしてはそのビスケットは何とも平凡な味で、ただの一般的な「オヤツ」としか思えなかった記憶がある。

そのことを思い出したのは、ごく最近のTVCMで、それは名前も知られてないような、どちらかといえばマイナーと思しき会社の化粧品の宣伝による。

○○○コーポレーションというその会社、(○には奈良の古代史には必ず出てくる有名な地名と同じ読みが入るのだが)、通販を主にする天然成分使用を歌う化粧品の無料サンプルの試供を宣伝し、最後にその会社の責任者らしい、人相のあまり良くない顔の黒い中年男が登場し、「自信があるから電話は一切しません!」と強気の発言をして終わるもので、かなり頻繁にTVCMが流れるもの。
最近になって「モンドセレクション金賞受賞」という価値づけをおこなっている。

フランスの権威ある審査機関が、食品だけでなく、化粧品まで範囲拡大したのかと少しいぶかしく思って、調べると、意外なことが判明。
フランスの団体だと思い込んでいたのだが、実はこの団体、ベルギーの民間団体で、管轄範囲は
食品分野
•ワイン (Wine Contest)
•蒸留酒、リキュール (Spirits & Liqueurs)
•ビール、その他の飲料 (Beers & Other Beverages)
•食品 (Food Products)
•菓子 (Sweets Products)
•穀類製品 (Cereal based Products)
非食品分野
•タバコ (Tobacco)
•化粧品、トイレタリー (Cosmetic & Toiletries)
•ダイエット、健康(diet & health)

日常生活必需品としてわかりやすく分類すれば、以下のようなものが対象なのだ。
日本酒、泡盛、ワイン・ビール、茶・珈琲・ジュース・飲料水、洋菓子和菓子、食品総合海産物、麺類・穀物、調味料、養蜂製品、健康食品・食品材料、化粧品

そういえば、小生の住む地方の酒造メーカーの酒、「宮の○」・・○には冬に降る白く冷たいものが入るのだが、この酒も○年連続モンドセレクション金賞受賞という宣伝をしていた。

小生も何度か寿司屋などで、この日本酒を飲んだことがあるが、この酒がなぜそのような権威ある大賞を取得したのか、どうも腑に落ちない印象を持ったものである。

そんなことが経験としてあって、最近の○○○コーポレーションの、前々から胡散臭い印象を持っていたCMでの、モンドセレクション金賞を受賞したとの触れ込み宣伝に、かなりの疑問を持ちつつ、調べたのが昨日のこと。

●かなり多岐にわたりそして多品種にわたる審査対象があり、1品目日本円で約15万円で誰でもエントリー出来ること。
●審査員とか審査方法の詳細が公表されないこと。
●相対評価でなく、絶対評価であること。
●味や品質の良さによってその賞があたえられるわけでもなさそうなこと。

おおよそ以上のことが分かった。

さらに驚くべきことは例に出した○○○コーポレーションの化粧品は1種類だけでなく、5種類もが金賞を受賞しているし、そ他の名もないメーカーの製品が6種類も受賞していることが判明した。

最近とみにCMで流れる、お茶で作った洗顔石鹸や、ニンニクや黒酢のサプリ、健康食品のメーカー「○ずや」など、通販の会社の受賞物品が目白押しである。
養蜂製品では○田養蜂場のほとんどの製品が、中には餃子の皮というのもある。

超大手の食品メーカーのものもたまにはあるが、圧倒的に通販で消費者とコンタクトをとるような、マイナーメーカーが圧倒的だ。

これらのデーターを眺めていて、どうやら「モンドセレクション」というものを誤解していたことに気がついた。

表示成分通りに作られていれば、恐らくその製品の良しあし、特に「味」にかかわりなく・・・賞がもらえるのではないか。
そうなれば、その製品に対する多くの価値づけの中のほんの1つにしか、この賞受賞の意味合いがないということになる。

しかしその賞受賞を持って宣伝文句にする側は、一種の「幻想」を消費者に抱かせる結果になる、そしてそれを知っていてうまく使っているのではないかと思えてならない。


15万円払えば何らかの賞・・・特別金賞~金、銀、銅のいずれかは取得できるのだろうということさえ想像させるところがある。

運営資金がエントリー料金で賄われているところからも、エントリーの総量の拡大、すなわち範囲と品種の拡大は必須なのであろう。

審査員に誰がいるかもわからないので、何とも言えないが、ベルギーお得意の、チョコレートやビールならまだしも、国がらから見れば、およそ審査の範疇にないと思われるような、日本酒や焼酎、餃子の皮まで審査し、審査基準の公表なしに賞を授与してしまうというやり口は、架空の権威(知らない人には権威に映ることを見越して)を振りかざした一種悪行ではないか。

「モンドセレクション金賞受賞」などという架空の・・・いや、架空に等しいと思えるような権威に誤魔化されてはならない。

中には「味」の面を含むすべての面で受賞に相応しいものもあろうが、「出品すれば受賞できる」などというものになり下がっているように思えてしまうのは、情報公開がほとんどないことにも起因するのだろう。

「ルモンド」ならば権威ある新聞だが、「モンドセレクション」は・・・・???
「モンド」という冠に恥じない運営内容が望まれる。

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by noanoa1970 | 2009-09-07 14:22 | 「食」についてのエッセイ | Comments(2)