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未完成交響曲は無間地獄の音楽か

1楽章を、小生は地の底から這い上がるような序奏の後、シューベルトの心象を支配する大きな要素でもある「さすらい」のような、あるいは「冬の旅」で見せたような、絶望的な放浪のようなものを感じ、困難な歩行を表現するかのようだと言った。

古今東西、行進や歩行は2拍子かその倍数で表現されるから、そんなことはあり得ないという反論をいただきそうだが、しかしそのことは健常者が普通に歩いたうえでのことだ。
例えば身体障害者の歩行や老人が杖を頼りにしての歩行は、2拍子やその倍数で表現できるとは言えない。

小生はシューベルトが、3拍子を使用して「歩行」しかも困難なそれを、表現したのだと、強く思うのである。

歩き疲れた果てに、1つの「光明」を見出し、それが第2主題となって表現されるのだが、それはすぐに強いフレーズによって打ち消されてしまう。
つまり、放浪者が見たものは、つかの間の夢であったのだ。

そして再び放浪が、これからも、・・・(序奏のモチーフが現れ、第1主題が再び現れる)それは「無間地獄」へと続いていく長く険しい道のりなのである。

そうなると、2楽章は「安らぎ」ではなく「諦観:あきらめ」の境地だと言っても差し支えなくなってくる。

2楽章も1楽章と同じように、3拍子で作られていることを考えると、1楽章の境地を多分に引きずるものだと思わざるを得ないのである。


「未完成交響曲」がなぜ未完成に終わったかについては、諸説がある。

代表的なものは、「忘却説」そして「3拍子説」・・3拍子が続いてしまったことで、後の楽章が続かないと判断した・・などがあげられるようだ。

しかし、小生にはそのいずれもが説得力に欠けている感じがしてならない。

もし、この曲の隠れたテーマを、「無間地獄」であるとし、2楽章を「諦観」であると仮定すると、
はたしてシューベルトは、この上さらに何を付け加えて表現しえたのだろうか。

そのように考えると、シューベルトが2楽章で断筆をした意味がボンヤリ見えてきそうだ。
そして両楽章が3拍子の理由も理解しやすい。

シューベルトに、もしベートーヴェンのようなエネルギーがあったとすれば、3楽章は「希望」4楽章は「復活」といったものになっていたかもしれぬが、シューベルトは、この世の地獄(自身の死に至る病によるものか)を見てしまったものだから、どうしてもこれ以上筆を進めることができなかった。

・・・そんな妄想を喚起させるのが、「未完成交響曲」で、ムラヴィンスキーの演奏は、それを助長するものだ。
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by noanoa1970 | 2009-06-30 10:04 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

地でいったとしか・・・

ファラ・フォーセット、最愛の人に看取られて逝く・・・
癌で闘病生活を送っていた、ファラ・フォーセット。
ライアン・オニールから死の3日前にプロポーズを受け、最愛の人に看取られて静かに旅立った。

こんなニュースが示す通り、この話は美談として伝えられたようだ。

しかし、小生は太平洋戦争終結直後に、参戦してきて北方4島を奪っていったソヴィエトのように、思えて仕方がない。

これはオニールが出演した「バリー・リンドン」を、地でいった行為ではなかったのか・・・と疑ってしまうことしばし。

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by noanoa1970 | 2009-06-29 16:04 | トピックス | Comments(0)

未完成交響曲と魔王の秘密

ブルックナーの4番を立て続けに聴いたので本当に疲れた。

この間から書いてきたコンヴィチュニー盤の、オケの取り違え事件は、どう考えても、そんなに単純なものではないように思えて仕方がない。

やはりオリジナルマスターテープの補修をして作られた、サブマスターの存在が大いに推測される。

ブルックナーの交響曲は、そのほとんどに「ブルックナー休止」と呼ばれるゲネラルパウゼがある。
したがって、テープを繋いでの補修は、他の作曲家のものより、相当やりやすかったのではないだろうか。

「パウゼ」のある個所の、1楽章2楽章が怪しいと思うが、まだそれは検証できないでいる。

長大な交響曲を、例え1・2楽章が中心だったとはいえ、3種類も聴くと、やはり精神的にも、肉体的にも疲れる。

ブルックナーの交響曲は、それでなくても、聴いた後の疲労度が高くなる音楽だ。

それで箸休め・・いや耳休めにシューベルトの「未完成交響曲」を取り上げ聞いてみた。
先日聴いたムラヴィンスキーの演奏を、リトレースする目的もあったからだ。

「未完成交響曲」は未完成であるがゆえに、古くから特別な存在の作品として扱われてきたようだし、曲想からしても魅力的な作品であることには異論はない。

この楽曲に対する思いや、曲想から想起するイメージは、千差万別である・・・というわけではない。

1楽章の暗くて地の底を這うような序奏に始まり、第1主題へ続くが、この主題をどのように感じ思うかは人によってかなり違い、また演奏によって喚起されるものが違ってくる。

小生はテンポが緩やかで、暗いトーンの演奏の場合特に、時として、血の底から這い上がり、瀕死の状態で、足取りも重く歩いて行くような感じを持つことがある。
3拍子であるにもかかわらずである。

困難な行方をなんとか克服して、やっとたどり着くと、そこに見つけることが出来たのが、一筋の光明。

それが第2主題によって表現される・・・そんな感じを持つこともある。

序奏を「墓場」第1主題を「苦悩」第2主題のテーマを「愛」とする識者も存在するぐらいである。

このように、未完成交響曲にはシューベルトの、相反する内的精神の不安定さがあるとされ、明るさと暗さそして「デモーニッシュ」:悪魔的とか、鬼神に取りつかれたようなとの意をこめて表現されることもある。

このことは、演奏によってかなり顕著に違いが出てくることが多く、ムラヴィンスキーは、まさにシューベルトの持つ暗黒面をも表出するかのような演奏であった。

この反対に位置する演奏が、ブルーノワルターの演奏で、昔からこの演奏を聞いて育ったものだ。

しかし、小生はあることを知って、しかもそれは、ものすごい衝撃だった事を覚えている。

ある外国の音楽研究者の論文に、未完成交響曲の中には、同じシューベルトの有名な歌曲「魔王」に出てくる旋律と同じものがある・・・そのようなことが書かれてあった。

同じ旋律をいろいろな楽曲に使うということは、決して珍しいことではなく、ベートーヴェンもやっていたことだから、それだけなら別に驚くことはないのだが、ワルターを聴いてきた耳の「未完成交響曲」に、あの少しおどろおどろしい・・・悪魔に導かれて子供が死に至るというストーリーの「魔王」と同じ旋律・・・そうなると、よくある旋律の流用でも、かなり趣が違ってくる。

それで「未完成交響曲」と「魔王」を何度も聴きこんで、納得できたのが、「未完成交響曲」の1楽章第2主題と歌曲「魔王」の、病気の子供を馬に乗せて医者のもとに走る時、柳の影から出現した悪魔が、子供に対し甘い言葉で「こっちにおいで」と誘惑するところ。

この2つの旋律は同一のものであると確信できた。

「未完成」は3拍子、しかし「魔王」は4拍子だから、かなり注意して聴いてないと聴き逃す・・・小生も何度か聴いてやっとわかった事だが、同じ拍子に置き換えるとほとんど同じ旋律であった。

未完成第2主題は「愛」であるとする識者もいて、そしてそれは別に否定されるべきことではないが、この事実意をもし知ったら、はたしてその後も、「愛」であると言い続けることができるだろうか。

小生はこの事実を知って以来、「未完成交響曲」は優しい美しい静かな曲としてきた既成概念から解放されたような気がした。

そしてムラヴィンスキーの演奏に巡り合ってしまったから、もう後は何をかいわんやである。

過去のブログにもこのことを若干書いたが、聴いてわかりやすいように、YOUTUBEの動画が見れるようになったから、貼りつけておくおことにした。

少し長いのでそれぞれに其の個所を示す時間を表示したから、その部分を念入りに聴いていただきたい。

はたして同じ旋律に聞こえるでしょうか。

まずは「魔王」から
開始から3:00あたりのところ、悪魔が甘い声で子供を誘惑する所だ。
演奏は、Anne Sofie von Otter Claudio Abbado Chamber Orchestra of Europe



次に「未完成交響曲」
開始1:40当たりに出る第2主題を聴いていただきたい。
そして2つを同じ拍子にすると、わかりやすいと思う。
演奏はthomas schippers


おわかりになられただろうか。
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by noanoa1970 | 2009-06-29 14:41 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

オレンジ 石榴 不如帰

半世紀ほど前の話である。
季節はちょうど今頃。
なぜ季節まで覚えてるのかといえば、それは田川律という人が作った「うた」という詩に「石榴の花のオレンジを6月の雨が濡らす時・・・」があって、それに「大塚まさじ」が曲を付けて歌ったアルバムがあったからである。

田川律は「日本のフォーク&ロック史」という本を出したり、数々の日本のフォークミュジシャン達を影で支えてきた人物。

「西岡恭蔵」の追悼コンサートや「クロちゃん」の追悼コンサートを企画した人でもあったと記憶する。

4月に武蔵野市民会館で開催された「高田渡」生誕60年祭・・・還暦にも、ゲスト出演し、高田の持ち歌を披露してくれた。(何を歌ったかは失念)

小生はその時初めて、彼の風貌を見たのだが、もう極普通のくたびれたメタボの中年になっていて、「うた」を作った時の面影は無くなっていたが、いたって元気そうであった。

前置きが長くなってしまったが、それで半世紀も前の、6月と石榴とオレンジが、小生のかすかな記憶の中で、強力に結びついたというわけだ。

そのころ小生は、当時は最新のブロック建築で出来た、市営住宅に住むことになって、2階の小さな部屋をあてがってもらった。

その部屋は北向きで日は当たらなかったが、静かだったから、机の上にある棚の上に自分専用のラジオをおいて、新諸国物語や音楽放送を聞いていた。

TVが家にやって来る少し前の話だ。

机に向かって左側には、鉄でできたサッシの窓があって、細い通路を挟んですぐ、向かいの家の小さな南向きの庭が見えた。

庭の垣根にはいつのころか、赤い実をつけた石榴がなることがあって、その季節になると、小生はこっそりその実を取って食べることがあった。

母親だったか誰だったか忘れてしまったが、石榴のまだ熟しきれてない実を食べていると、「石榴は人間の脳みその味がするんだ」と教えられ、赤い実からは、とうてい想像できないそのスッパサは、人間の脳みその味なのか、などと思うのであった。

その話を聞いてから、2度と向かいの家の石榴を取って食べることはなかったが、多分季節は今頃だろう・・・あるときまだ実のなってない石榴の木を、ボンヤリ眺めていると(オレンジ色の花の記憶は残念ながらないのだけれど)1羽の鳥が飛んできて小生のほうを向いて枝に止まった。

その鳥は、初めて見る鳥で、スズメよりは大きく、近くで飼っていた伝書鳩よりは小さい暗緑色の奇妙な鳥だった。

その鳥はかなり長い時間、石榴の枝に止まっていたかと思うと、突然その口を小生のほうにむけて大きく何回も開いたのだった。

そして小生は、その時奇妙な光景を目撃したのだ。

それは開いたその鳥の口の中が、(こんなことはあり得ないことなのだが)真っ赤であったからだ。

何か病気があって、それで休むために長く枝に止まっていて、血でも流れてそれで口の中が血に染まった・・・・そんなことを思ったぐらいの、それは衝撃であった。

「啼いて血を吐く不如帰」という歌詞がある数え唄があるが、それを知ったのはかなり後年のこと。

事実ホトトギスの口の中は、赤かったのである。
それを先人は「啼いて血を吐く」と、まるで労咳の鳥であるかのように表現した。

小生は、いけないものを観てしまったかのように、このことは誰にもしゃべることなく過ごしてきたのだが、半世紀たった今何かの・・・多分「大塚まさじ」の唄の記憶が引き金となったのだろうが、ちょうどこの季節、遠い昔の話を思い出した。

石榴は、熟して皮が破れて、中の実がはじけるころが美味しく食べられる。
しかしその姿は、決して優雅ではなく、なんとなく頭蓋骨が壊されて、中から脳みそが顔を出す光景にも似るようだし、脳みその皺と石榴の実の粒の付き方や配列は、似ているように思える。
それに石榴:ザクロと髑髏:ドクロは、ゴロが似通っているから、きっと昔の人は、石榴の実と人間の脳みそは同じ味だ・・・そんなことを言ったのだろうか。

本当にこのことがかなり以前から言われてきたことかどうか、一度調べてみる価値はありそうだ。

そして石榴の花のオレンジ、実際にこの目で見てみたいと思っている、梅雨の合間のひと時でした。

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by noanoa1970 | 2009-06-28 17:26 | 季節の栞 | Comments(2)

もうひとつの可能性

昨日のブログに付け加えるべきことを、散歩中に思い当たった。

かなりくどいが、コンヴィチュニーのブルックナー4番に関することである。

3楽章と4楽章の演奏時間がほとんど同じ(プラマイ2秒)だが、1楽章と2楽章5から20秒も異なる演奏時間の(これがすべて同一音源であるという指摘があるもの)CD音源が、すべてウイーン交響楽団との演奏である、そう借りにしたとすると。

演奏時間の差があるのは、通常では考えにくいから、恐らくは「本番」:正規にオリジナルマスターとしたものと、ゲネプロあるいはリハーサルを録音したものから作られたマスター(これをマスターと呼んでいいかはさておき)の少なくとも2種類が存在して、オリジナルマスターに瑕疵があったので、ゲネプロあるいはリハのマスターから1楽章と2楽章の1部を繋いで修復した。

そうではなく、オイロディスクあるいはエテルナには、ゲヴァントハウスとの録音オリジナルマスターがあったが、このマスターも傷みがあって単独ではLP発売すら困難であった。
そこでオイロディスクが所有するウイーン交響楽団との録音マスターと合成し、」版権をオイロディスクに譲渡した。

以上のどれかではないだろうか。

テープを繋いで修復したマスターは、都合3種類あって、それぞれから作られた音盤が販売された。

多分に妄想的だが、散歩中に思い当たったことである。
だからそれが真実か否かは、保証の限りでない。

音響からオケの特色・・・ましてオケを特定することは、いつだって非常に困難なことであるが、それを承知で、これから1楽章2楽章を中心に、さらにジックリ聴き比べをすることにした。

以前発売された2種類からは、違う演奏・・オケが違うようにも聞こえたから、今回発売のCDを含めて、もう一度挑戦だ。
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by noanoa1970 | 2009-06-28 09:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

真偽問題は決着したのか

いつもとは少し違う意味で、待っていたCDが突然到着した。
コンヴィチュニーのブルックナー4番にはいままで3種類が発売されていたが、その中の2種類は、全く同一の演奏であるとされ、今回は発売のCDは、オイロディスク社の所有するオチジナルマスターテープからのリマスター復刻だそうだ。

それで音質の改善とともに、このCDが正真正銘のウイーン響との録音で、世の中にゲヴァントハウス管弦楽団との演奏は存在しないことになったという、触れ込みだったから、満を持して発売を待っていたわけだ。

一聴してすぐに、音質の違いは、確認できる。
同じ演奏の、旧東ドイツのETERNAのLPと国内のLPの差のように、大きな音質改善がされていて、このことはCDにおいても同じだと体感した。

音質の差が影響を及ぼす演奏内容の差は、確かにあるように思うところがあり、今回同一演奏と結論を下した格好となった、合計3つのCDを聴くにあたり、特にそのことを念頭に入れたつもりで聴いた。

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聴いたのは、1993年DENONから発売された、同一音源と近年確定しそうな、ゲヴァントハウス、そして同じくウイーン響との演奏録音。
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そして今回発売のオリジナルマスターテープ復刻CD。

視聴結果、小生が感じたことや、CD解説が例のH氏だったから、その解説内容にも触れて思うことなど、忘れぬうちに書きとめておくことにした。

かなり長文となってしまったがお許しいただきたい。

注)区分けの「新旧」とは、旧発売新発売の意味である。

コンヴィチュニーのブルックナー4盤
いわくつきの「ウイーン交響楽団」とのオリジナルマスターテープ復刻CDを聴いた。

いわくとは、小生がブログで何度も書いたように、旧発売の…(LPにおいてもCDでも)それぞれ発売されてきた、ゲヴァントハウス管弦楽団(1960)とウイーン交響楽団(1961)の演奏が、実は全く同一音源(マスターテープは同じではない可能性があると思う)であるという噂があって、今回発売のCDは、完全オリジナルマスターテープによるものだとされる触れ込みだった。

しかしこのオリジナルマスターテープには損傷個所があって、今回はそれを丁寧に補修しての復刻という。

マスターテープとかオリジナルマスターとか原盤などさまざまな用語が飛び交うので、ここでいったんオイロディスクのテープなどが保存されているドイツ ソノプレス社のエンジニアの話をあ経ておくことにする。出所は、オイロディスクヴィンテージコレクションを発売する、コロムビアエンターテインメイントである。ケルテス盤についてのコメントであるが、参考にはなる。

☆ドイツ ソノプレス社技術者のコメント
ケルテスのマスターテープについて
「マスターテープ」という言葉は一般的にはレコード原盤作成に用いられる音源テープということになると思いますが、実は仕様的にははっきりした定義がなく、実際の現場にはいろいろなマスターが存在します。特にLP時代のマスターテープにおいてはレーベルやプロデューサによってさまざまな考えや方針があり、その内容も多種多様です。
すなわち、手切り編集をした真のオリジナルテープをLPカッティング用のマスターとして使用する場合もあれば、オリジナルマスターの劣化の防止という観点や、スプライシングをなくして物理的に安定した走行と保存を得るためにマスターコピーをとってそれを使用する場合、また録音によってはエコー付けや音質の調整をした上ではじめてマスター音源としてオーソライズされる場合、さらにはLPカッティングの用途に限定して最適なイコライジングをしたコピーをカッティングマスターとして使用する場合などがあります。
このため各社のテープ庫には色々な世代のいろいろなマスターテープが保管されている可能性があり、それらの中から真のオリジナルにたどり着けた場合はきわめて幸運なことだといえます。
今回のオイロディスクヴィンテージシリーズの場合はそのようなオリジナルを捜し求めることにかなりの労力が費やされました。たとえばオイロディスクのマスターが保管されているソノプレス社のテープアーカイブには、各種アナログテープ、ディジタルテープ、光ディスクなどすべてを合わせると約40万本のマスターメディアが保管されています。(もちろんオイロディスクはその中のほんの一部です。)
この中から1950-60年代の知られざるテープを探し出すためには、録音デーや過去におけるすべてのリリース番号などのデータのほか、現場での忍耐強い捜索、スタジオでの音の確認、勘と経験のすべてを使う必要があります。
ケルテスのベートーヴェンの場合も捜索の結果テープ庫から何本ものマスターテープが出て来ましたましたが、幸運にもその中に真のオリジナルテープが見つけることができました。
気温、湿度ともに(現在では酸素量も)24時間管理されたテープアーカイブで保存されてきたテープは録音後40年以上経っているとは思えないほどの物理コンディションを保っており、このスプライシングがびゅんびゅん通り過ぎる正真正銘のオリジナルマスターがテレフンケンンM15マスター再生機の上に載せられ、数十年ぶりの明るい光のもとで、オリジナルならではのみずみずしい音を聴かせてくれました。



過去の過ちは、原盤を所有していた東ドイツETERNA社が、西ドイツのオイロディスク社に販売権利を譲渡した際、サブマスターを渡したが、その時一緒にゲヴァントハウス/コンヴィチュニーのブルックナー5番と7番をセットで発売した際、間違えてすべてをゲヴァントハウス管弦楽団との演奏と誤記したことに、その原因があったと、解説で某評論家のH氏は述べている。

そしてブルックナー5番と7番はETERNA原盤そしてブルックナー4番はオイロディスク原盤であると述べている。

なぜオイロディスクがオリジナル原盤を保有しながら、ETERNAコピーマスターを使い、しかも演奏をゲヴァントハウスにしたかその理由はこうだ。

オイロディスク原盤のブルックナー4番は傷みがあったから、別の箱に入れられた。
しかしそれには原盤という表記もウイーン交響楽団との記載もないままだった。

そしてオイロディスクに存在したウイーン交響楽団との原盤の存在は、いつしか忘れ去られることになった。

サブマスターテープが残っていたのだが、発売担当者が、ETERNAからライセンスを得たブルックナー5番、7番と一緒に販売する際に、4番をもゲヴァントハウスとの演奏だと思い込んでそのように表記した。

これが全世界に広まって、今までLPでもCDでも同一演奏を、異なるオケの演奏として発売し続けてきたということだ。
ようするにこの事件は、オイロディスクサイドのミスが招いたという結論になり、倉庫に眠っていたオイロディスクオリジナルマスターテープから修復復刻された、今回発売の正真正銘のウイーン交響楽団とのCDは、「原盤」だけに以前から発売されてきたものより、相当音質が改善されているという。

オリジナルマスターは傷んでいて、しかもコピーマスターとして、箱に入れられて保管されていたのを、今回発見したという。

そしてこのH氏,またもや唐突に・・恐らく販売サイドをかばう目的なのか、ブルックナーディスコグラフィーで有名なLovallo氏の著述における誤記・・・氏の著述でも、コンヴィチュニーのブルックナー4番は3種類あり、中でもゲヴァントハウスとの演奏を1963年としていることに着目し、このような権威の人でも間違える云々を述べて、発売もと、そして多分最大の隠れた狙いは、音楽評論家を擁護することにあると思うが、そのようなことまで書いている。

小生に言わせれば、1963年、つまりコンヴィチュニーはその時すでにこの世に存在しないことは、コンヴィチュニーの生存期間を調べれば、すぐにわかることだから、これはLovallo氏のミスではなく、出版サイドのミスであることは明らかなはず。

小生が求めるものは、音楽評論に携わり、昔からンそして今回コンヴィチュニーの幻のゲヴァンハウスとのブルックナー4番について語るなら、一言でウイーン交響楽団のものと「同一」と、しかもこれらの顛末劇情報の可否を頭だけで受け入れるのではなく、再度聴き比べた結果・・・録音状態だけではなく、演奏スタイルについて、本当に間違いなく同一演奏なのか否かを述べていただきたかった。

少なからずH氏の先人達評論家が、長い間2つの演奏を別物とし、それぞれについて評論してきたのだから、そのことをネグった発言は、納得できるものではない。

悪いのはすべてオイロディスクサイドだと言っているようで、何とも後味が悪い。

自分たちの耳の存在は、そして評論家としてのプライドは一体どこに行ってしまったのだ。

このようなことを思いつつ
改めて3枚のCDを改めて聴くことにした。

「3種類ともに、異なる部分がある」
したがって、小生の耳とオーディオ装置で聞く限り、以前から小生が推測したように、少なくとも、「2種類の演奏をつないで修復」したマスター存在し、それによって制作されたCDのように聞こえて仕方がないのである。

オリジナル原盤が傷んでいたということが事実であれば、コピーマスターは、そのままでは当然傷みがあるままだ。
今のようにデジタルリマスターリング技術の無い、当時の技術から類推すれば、傷の無いマスターを修復によって再現するには、テープの繋ぎしかないのではないか。

勿論、オリジナル原盤が傷む前に、サブマスターが作られ、オイロディスクがそれを使ったということも考えられるが、そうであれば3種類ともに聞こえる音楽が・・・もっともっと似通っていてもよいはずだ。

念のために、演奏時間・・・これも完全なデータとは言えないところがあることは承知の上で・・・CD表記のもので比較してみると、意外なことが明らかになった。

下に掲げた表を見ていただきたい。
これはゲヴァントハウスと新旧のウイーン響における各楽章そしてトータル演奏時間の表である。
(データー源はCD表記によるものであり、実際に計測したデーターではないことをお断りしておく)

明らかなこととしては3楽章4楽章の演奏時間が、+-2秒以下と、誤差の範囲であるにもかかわらず、1楽章、2楽章では相当バラツキがあり、2楽章の新旧ウイーン響との演奏をとっても5秒の差。
旧ウイーン交響楽団とゲヴァントハウスとの差は20秒もある。

5秒から20秒もの演奏時間の差は、音楽上で誤差と言うには、かなり難がある。

小生は・・・このデーターだけでものを言うつもりは毛頭ないのだが、そして音質の違いが演奏に及ぼす影響があることは、十分承知の上で、あえてこの3種類の演奏録音CDから、1楽章と2楽章において、い演奏なのか、同一演奏なのか今は判明しかねるが、継ぎ接ぎしたことを物語るものだと推測するものである。

演奏時間がこれだけ異なるということ、そしてあくまでも小生の個人的聴感によれば、やはり2種類のオリジナルマスターがそℬん材氏、それを継ぎ接ぎして2種類のサブマスターが作られたのではないかという結論となる。

今回発売されたオリジナルマスターからの復刻だが、オリジナルマスターテープのどこに瑕疵があり、どこをどのように修復したのかが語られないから、真実はいまだ見えないが、もしその個所がわかるのであれば、スッキリするのだろう。

それにしてもH氏、「新世界より」の解説で例に出した、コンヴィチュニー/チェコフィルとウイーン響の演奏内容は変わらない…そういったににも関わらず、このブルックナーの解説では、両演奏の違いを臆面もなく述べている。

読者や視聴者をバカにするような発言、そして前に言った事を平気で翻すような文章を書く似非評論家は信用できない。

今回の顛末話で決着がついたかのように、世間は思うだろうが、小生はますます疑いを持っている。

しかしコンヴィチュニーの演奏の素晴らしさは、変わることは無い。



コンヴィチュニーのブルックナー4番「ロマンティーク」の演奏時間比較(CD表記による)

    ①GOL    ②VSO(旧) ③VSO(新)
1楽章  16:22   16:42    16:30
2楽章  14:25   14:05    14:10
3楽章  10:23   10:25    10:25
4楽章  19:38   19:37    19:37
Total   60:48    61:49     60:42
   Coco-75401 Coco-75402 Coco-84623    
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by noanoa1970 | 2009-06-27 16:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

賞味期限が無い・・・

先日入手したCDは・・・本当に珍しいことなのだが、すべてが「あたり」だった。

コンヴィチュニーの「新世界より」
ムラヴィンスキーの「未完成」
ピエール・デルヴォーのメンデルスゾーン「イタリア」
レオポルド・ルートビッヒの「悲愴」
そしてヨゼフ・クリップスの「ベートーヴェン交響曲全集」

何れもが相当高いレベルの、満足度の高い演奏録音で、今までいろいろな演奏家で聴いてきた、これら通俗名曲における新発見も数々あった。

中でもクリップスのベートーヴェンは、数ある演奏の中で、「全集」というカテゴリーにおいては、恐らくTOPランクに入れてよいのだろうと思われる。

長いことお蔵入りとなっていた音源を、しかも超安価で復刻発売してくれたことに感謝である。

入手時には聴いていたものでも、時が過ぎるとほとんど聞かなくなってしまう音盤が多い「全集」。

ベートーヴェンそのものに飽きたわけではない。
その証拠に、それぞれの番手を、異なる演奏家で聴く場合が多い。

同じ演奏家で9曲全部聴きとおせる、数少ない演奏として、小生はやはりコンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管弦楽団のものを筆頭に挙げたい。

どうしてこんな古めかしい録音・・・とおっしゃる方が沢山いるだろうことは、百も承知出し、ここでどうしてそうなのかを、くどくど述べようとは思わない。

ただ言葉少なく言えば、「賞味期限の無い演奏」・・・とだけ言っておこう。

クリップスの「全集」もこれに近い、・・・いや、さらに「賞味期限」ばかりか、「消費期限」までも無い演奏ではないか。

クリップスのベートーヴェンの滑らかさの音楽的要因とは一体何か。
つなぎやイントネーションが、リズムが、テンポがナチュラル。
生粋の京都人が話す京言葉のようで、すごく心地が良い。

生粋のウイーン子が演奏するワルツの如し。
一挙一等即すべてが理にかなっていて、しかもそれが心体からにじみ出るもの、恣意的なところは皆無。

あまたある「全集」の演奏録音の中、演奏史に残すべきものであると、強く思うことしばし。

強いて言えば、全集の中でのピカ1は「田園」だろう。

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by noanoa1970 | 2009-06-27 11:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ムラヴィンスキーの「未完成」やはりすごかった

以前にも少し書いたが、小生の「未完成」交響曲…最近ではシューベルトの、と、いろいろな未完成交響曲の存在が明らかになってきたから、断り書きが必要になった・・は、長い間優雅で優しい音楽の筆頭であった。

LPでは「運命」「未完成」のカップリングで、相当数が発売されたから、運命を聴くと未完成がついてきたのだ。

大昔は「未完成」を求めてLPを探したり、入手したことが無かったのだが、ひょんなことから未完成に狙いを定めるようになった。

そのLPはカールベームがウイーンフィルと演奏したベートーヴェンの8番の交響曲と、8番繋がりというわけではなかろうが、未完成が収録された1950年代のモノラル録音。
「ロンドン不朽の名盤」シリーズの1枚で廉価1000円であった。

ベームの演奏は、開始の低弦パートの音がPPP・・・ようやく聴きとれるぐらいの弱音で始まるもので、それまで聴いたいくつかの未完成では、開始は弱音ではあるが、聴きとれないことは無かったから、これはモノラル録音のなせる技だと思い込んでいたのだった。

後に同じベームとウイーンフィルの、80年代の演奏にセ接した折には、この開始のPPPはPぐらいになっていたから、やはりあの演奏は録音のせいだと再び認識してしまっていた。

ところが・・・である。

1978.5.30録音と解説にあるムラヴィンスキー/レニングラードフィルの演奏(YEDANG盤)を聴いたときに、初めて小生は、シューベルトに暗黒面が強く存在することを知ることになった。
この演奏の開始はPPぐらいだったから、音量的には、今まで聞いてきた演奏とさほど変わりは無かったが、そこから聞こえてくる音楽は、シューベルトの悲痛な叫びとでも言えばいいのだろうか、とにかく今まで聞いた未完成とは、明確に一線を画すもので、実にショッキングな体験であった。

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そのことがあって、最近発売になった、同じレニングラードフィルを率いた、1977年ムラヴィンスキー来日ライブコンサートから、未完成が収録されているCDを入手したのだった。

開始の音が聞こえてこないぐらい・・・そうあのベームとウイーンフィルの古い録音と同じような体験と、シューベルトの持つ暗黒面・・・デモーニッシュな側面が良く表出されるばかりか、静と動、強弱の差が凄まじい、感情の起伏の大きな揺れ、陰陽の表現が加わった見事な演奏に出会うこととなった。

ライブ録音で、あまり音響環境が良くないのか、録音状態はあまり芳しくないので、これもやはり録音のせいと思っていたが、実際に演奏を聴いた人の感想があるのを発見した。

それによると

会場の左端に座って聴いたその人は、ムラヴィンスキーが登場し、拍手がやんでも、なかなか音楽が始らなかった。
しかしムラヴィンスキーはゆっくりと指揮棒を動かしている。
どうしたのだろうと、右のほうを良く見ると、低弦がゆっくりとボウイングしている姿が分かり、もう音楽が始まっていることに、やっと気がついた・・・
以上のような感想を述べているから、やはり生でもムラヴィンスキー葉、かつてベームが総意sたのと同じように、開始の音をPPPで演奏したことが明らかとなり、CDでの復刻は音がいじられてないことを確証する事ができたのであった。

YEDANNG盤でも、シューベルトに潜む暗黒面を、相当強調するようなデモーニッシュな音楽表現は出ていたが、このライブではさらに凄まじい。
そしてそれだけではなく、来日ライブ演奏では、随所に音楽がレガートしているところが見られること、ここがかなり違う点だ。
これは新しい発見であった。

ムラヴィンスキーのシューベルトに対する感情移入・・・・あるいはオマージュが、音楽に強く表れているように聞こえてくる。

まるで胸を深く抉られるように響くティンパニは、シャルパンティエの「メアリー女王の葬送行進曲」以上に、暗く重くそして地の底に深く沈んでいくような錯覚さえ覚えるるものだ。

このライブを実際に見聞きした人は、この未完成を聴いて、一体何を思ったのだろうか・・・とても気になリ、興味があるが、恐らく鳥肌が立った人がいるに違いないと強く思われる。

CDで聞いてもそういった感じは拭えないのだから・・・

こういう演奏・・・しかもライブに出会えるのは、相当少ない確率であろうから、生演奏に接することができた人は、実に幸せな人だと、大いに羨ましくなる。

未完成の終焉における拍手の音がこのCDには入っていない。
それまで収録されたプログラムの終了時には、演奏が終わるや否や(ほとんど瞬間、時には音楽の残響がまだあるにもかかわらず)、いつもの光景だが、すかさず拍手する輩がいて、そんな輩がコンサートをダメにすることがよくあるが、流石にそういう輩がいたのを、この演奏終了の余韻を味わうには、相応しくないと、ワザとカットしたとすれば、それこそ製作者の良心だろう。

そんな不遜な拍手人間が、もし居なかったら、演奏終了後、しばらくしてから、心から湧き上がる拍手・・・しかも当分鳴りやまないと想像できるから、そうであれば拍手を入れて欲しかったし入れるべきであっただろう。

入ってないところを見ると、やはり昔から今でも存在する、似非クラシック愛好の拍手人間が居たことは、容易に推測可能だ。

ライブの唯一の欠点は、演奏者側というより、観客側にあることが多い。

このような凄い演奏を聴いて、終わるや否や待ち構えたように拍手ができるなぞ、到底常人には出来得ないこと。
一体どんな心の状態を持っているのだろうか・・・・
一種の病(やまい)としか思えないことがよくある。

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by noanoa1970 | 2009-06-26 10:48 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

評論家なるものに呆れる

今日もコンヴィチュニーの「新世界より」を聴いてしまった。
小生は昔からドヴォルザークのこの曲が大好きだ。

今まで何度聴いてきたことだろうと、推測ベースで数えてみると、2か月に1回づつ聴いてきたとすると、47年×6=282回。

年間10回と仮定すると、なんと470回聴いたことになる。

多分交響曲中小生が聴いた回数ではTOPランクに入る曲であろう。

あまたある演奏中、最もよく聞いた演奏は、フリッチャイのRIAS盤とBPO盤そしてこのコンヴィチュニー盤だ。

聴いた後、CD解説にはどのような情報が記載されているか、例のごとく、少々面倒くさいが、スキャナーで読み取ったものをPCで拡大して読んだ。

解説は某H氏…最近ではフルベンなどの復刻CD・・・良質の盤起こしを屋足り、音楽評論の著作を残している人であった。

読んですぐにガッカリした。
というのは
自分の考えを述べることはほとんど無いままに、コンヴィチュニーの演奏を評価した2人の評論家の正反対の意見を例に引いて語り、結局は自分の判断らしきものを全く書かなかったことだ。

おまけにデータの間違い・・・コンヴィチュニーの「新世界より」の国内初出は1963年と断言していること。
これはとんでもない間違いで、小生は1962年発売のコロムビアクラシック全集に収録されたもので聴いてきたから、間違いないこと。
念のためにLP発売年月を確認したので、間違いない。

不思議なのは、何の脈絡もないままに、コンヴィチュニーの「新世界より」のLPの初出時期を表記していることで、何か意味があるのかと考えたが、前後の脈絡に全く影響が無いままだ。

普通なら、自分が聴いたLPのことや、LPとCDでの音の違いなどに言及してもおかしくは無いはずなのだが、唐突に出てきてそれだけで終わってしまう。
単なる既知のデータの提示以外の何物でもない。

恐らくは発売もとからの情報をそのまま書いたものであろう。

既出の2人の評論家のコンヴィチュニー評価を、そのまま引用してしまうことや、決して核心に触れた自分の意見を表出しないところなどは、昨今のNETのブログ記事にも劣るものだ。
ここで小生は、おぞましいが「ゴーストライター」なるものの存在を疑ってしまうことになる。

このような文章は、プロの物書きの文章ではない。
一つの解説話としては、あまりにも醜すぎるのである。
発売もとか、本人かはわからぬが、誰か他の者に…それもドの付くような素人が書いたものに、名前だけを・・・箔がつくと思ったのだろうか、それともこのような解説文を書くことは、本意ではないと思っているのか、面倒くさいから名前を貸してしまったのではないかということを思わせるような文章なのだ。

何れにしても、…このようなことがあることはあまり考えたくないし、あくまでも小生の妄想の域を脱していないのだが、もしあるとすれば、クラシックファン消費者を根底から裏切る行為となる。

小生の勝手な妄想であり、これがそうでないことを祈るものである。

ここが駄目押し的に、1番大事な点だが、「コンヴィチュニーの(バンベルク交響楽団)この演奏内容は、手兵ゲヴァントハウスの時と全く変わりがない。」と言っている個所がある。

「演奏内容」などというわかりにくく、どうにでも取れるような言葉を平気で使っているところは、やはり素人の域を出ていない、この文章は、ゲヴァントハウスとの「新世界より」の演奏があって、それと比較して内容:(演奏は解釈は)・・・()中、小生・・・変わりがないのという話・・・そういう風に大いに誤解される文章であるが、コンヴィチュニーの「新世界より」は、現在バンベルク交響楽団の録音しかないのだ。(後にSKDとのライブ録音が発売になるが、この当時に認知されているものは、バンベルクのみである)」

だから演奏の基本的姿勢や解釈は、ゲヴァントハウス管弦楽団との…例えばベートーヴェンやブルックナーの時とあまり変わりがなくどっしりと構造的である…などと書かなくては真意が伝わってこない。

誤解のもとは、コンヴィチュニーの指揮ぶりがぶれないということの例えに、1952年のチェコフィルと1961年のウイーン交響楽団とのブルックナーの4番、「ロマンティーク」を例に出した、その後の発言であるから、余計に誤解を生むことになる。

「改めて聴いてみた」と書いているが、多分今までの経緯から推測されることは、このH氏、コンヴィチュニーの残した演奏を、1部を除きほとんど聴いてなかったと言わざるを得ない印象だ。

おまけに自分が見聞きした、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席バイオリニストが率いたズスケ四重奏団の演奏を例に出し、コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管弦楽団の特徴に当て嵌めることまでやってしまうのだから恐れ入ってしまう。

しかも1952年盤はハース版、1961年盤はノヴァーク盤であるが、それには一切触れずに、…もちろん解釈に大幅なブレが無いのは認めるが、この話を出した直後だから、知らない人は、ゲヴァントハウスとの「新世界より」との比較だと思ってしまう。

こんな評論解説は、素人の域をまったく脱してなく、素人が趣味的に書いたものならば、差し引いて読むことができるが、やせても枯れてもこのような仕事で飯を食っている人物だから、最近の評論界のレベルは相当に落ちていると、言わざるを得ない。

こうした真摯な評論解説活動をしないような人物に、評論やCDライナーノーツを安易に依頼し、出来上がった原稿にも一切クレームを付けずに、そのまま掲載してしまう発売もとの無神経さにも呆れてしまう。

最近の評論家や芸術音楽関係者なるものの、文章表現力の無さや、物事を誤解ないように、正確に伝えることの重要性認識の欠如には、相当に腹が立つ。

結局H氏が言いたいことを手短に言うなら、

・ドイツ伝統の味=地味で枯淡の演奏で、解釈がぶれない。(これを聴いてまだ枯淡とか地味な演奏と評すんだろうか)
・オケに任せっぱなしとの意見もあるが、そうとだけは言いきれなく、ところどころに自分の解釈を忍ばせるところが散見される。(いったい誰がいつオケに任せっぱなしと言ったのか、コンヴィチューしか出来ないところが多く散見されるのに)
・こうした演奏は、折に触れて取り出したくなる心温まる演奏だ。
録音状態も1961年の割にはとても良い。(そうではなくコンヴィチュニーの録音の中ではだろう)

結局は過去から言いつくされてきたコンヴィチュニー評価から1歩も前進していないのである。
せっかく素晴らしい「新世界より」を聴いた後の、プロフェッショナルとしての評価や感想がこの程度とは、いかにもプアー過ぎないか。

CD解説を、CDを購入し聴く人のために書き、それで原稿料をもらっているプロとして恥ずかしくは無いのだろうか。
「クラシック◎◎バカ」という本を書いているらしいが、それは自分のことではないのか。

こんな解説など苦労して読まなければよかったと悔やむばかりであった。
こういうものにお金を投入するなら、1962年当時のLP解説をそのまま記載してくれたほうがどれだけ良かっただろうか。
このシリーズ(オイロディスクヴインテージコレクション)の企画が相当良いだけに、至極残念なことである。
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by noanoa1970 | 2009-06-24 16:48 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(5)

缶入りベートーヴェン

昨夜聴いたコンヴィチュニーの「新世界より」の興奮が冷めやらぬ今朝だが、気を新たにして同時に届いた「クリップス」のベートーヴェン全集から「運命」を聴くことにした。

どうして「運命か」というと、これには深いわけがあって、小生が自分で初めて購入したレコードがクリップスの「運命」だったからである。

この全集も、そんな懐かしい思い出のためにと入手した。

1961年、中学1年か2年生の時、我が家にヴィクターの一体型「ステレオ」コンソールが、HMV犬と一緒にやってきた。

ステレオ装置には、サンプル盤として17センチ33回転の・・・EPが付属されており、ステレオ盤がそれしかなかったから、それを幾度も聞いたのだった。

オケのチューニングから始まるもので、ヴィクター発売の音源の一部を抜粋したものでしかなかったが、それまでの耳にはとても斬新に聞こえて、ステレオ録音とヴィクターのエコー技術に心から感動したものだ。

しばらくして見本盤では物足りなくなった小生、町のレコード屋に行って有名な「運命」を探すも、どれも2300円から2800円という価格で、とても手が出る代物ではない。

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そうなると、どうしても「運命」が聴きたくなり、しつこく探すと、なんと17センチEP盤のコーナーで見つけたのが、クリップスの「運命」。

これは運命とばかりに800円を払って、いさんで購入してきた。

EP2枚に収められたものだったが、そのころ流行りのオートリターン機能付きのステレオ装置だったから、さして国もならずに、相当楽しんだ。

コンヴィチュニー盤を入手する前の話であるから、このクリップス盤が小生の初「運命」体験ということになる。

数少ないが、クラシック音楽を聴く環境にあった友人たちは、ワルターやトスカニーニといった、親が購入した30センチLPの「運命・未完成」を持っていたので、小生の17センチ盤はとてもみすぼらしく、したがってその演奏自体も大したことは無い・・そう勝手に思い込んでいた。

「ヨーゼフクリップス」という指揮者の名前は記憶の底にあるが、それ以来彼の録音はほとんど聞かずに今まで来てしまった。

17センチ盤になってしまう(LP廉価版よりも低い地位にある)指揮者であるという、勝手な思い込みがそうさせたのは間違いない。

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しかし後年、一部愛好家の間でクリップスの良い評価が聞こえてくるようになってから、機会あれば聴いてみたい一つとなっていたが、昨年驚くべきことに、キャンディの缶のようなブリキの缶に入れられて、クリップスのベートーヴェン交響曲全集が、しかも超廉価で登場することになった。

発注をためらっているうちに、入手困難となって、再び今年になり登場したのをようやく入手したというわけだ。

改めて今聴いてみた感想としては・・・

とても平凡な演奏。
肩の力が何れにおいても抜けきっていて、淡々と音楽を作っているが、よどみなく流れていく。
ベートーヴェンを聴く・・というどこかしら存在する緊張感がいつの間にかなくなっていて、自然に音楽の流れの中に身をゆだねることができる。
何も足さない何も引かない・・・奇をてらったところが一切なく、感情移入もほとんどない。
しかしザッハリッヒというわけではないような、そこには気品という要素を感じることができる。

このような傾向の指揮者として、他にはカールシューリヒトがいるが、同じような傾向がかなりあると思う。

ベートーヴェンだからといって、過度な期待をする向きには、少々物足りないかと思われるが、クリップスのベートーヴェン演奏は、繰り返し聴いても飽きのこない演奏の、恐らく数少ない演奏の1つであると思い知らされることになった。

録音は1960年だが、さすが「エヴェレスト」原盤、相当に良い状態の録音である。
細かいニュアンスの表現までというわけにはいかないが、音の塊としての雰囲気を、とても良い状態で録音している。

最近このように、忘れ去られようとしている音源が、良い状態でリマスターリング復刻されるのは、大変にありがたいことであり、そうすることによって、こういう良質の演奏が後世に残る可能性を示してくれることは、演奏史においても1つの素晴らしい財産であろう。

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by noanoa1970 | 2009-06-24 10:38 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)