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焼き芋

焼き芋が食べたくなって、近くの産直売店に行くと、なぜか鳴門金時がおいてあった。

そこには「焼き芋屋」も出店していたが、そこは自前でと、この季節多くの時間使うストーヴで焼き芋を作ってみることにした。

一昨年からエアコン+石油ストーヴから、エアコン+ガスストーヴに切り替えたので、すぐに温まるし、面倒な石油の補給もいらないから、至極便利になったが、どうも使用時間が増えたらしい。

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いつもは薬缶を乗せておくストーヴを利用しての焼きイモ作りにトライした。

やり方は至極簡単で、サツマイモを洗って(少し塩を振ったほうがおいしい)アルミホイールで包み、ストーヴの上に載せておくだけ。

ストーヴは、熱源が2段あるが、いつも使うのはそのうちの1段だけだから、家内はそんな熱で、本当にできるかどうか疑っていたようだが、小生は自身があった。

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サツマイモをストーヴの点板に穴が開いた熱の当たるところにはまるように、適度に2つに切ってから、ホイールに包んで載せ待つこと1時間半。

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竹串を指して様子を見ると、立派に火が通っている。

途中何もしないでよいから、本当に簡単、時間まで放っておけば勝手に焼きイモができる。

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その昔(今もあるのかな)京都の蛸薬師に焼き芋屋があって、ものすごい人気だったが、それに匹敵、いやそれ以上のおいしい焼きイモが完成した。

市販の焼きイモはなぜかアツアツではないことが多いのに比べ、出来立てをすぐに食べることができるから、舌が火傷しそうなぐらい熱い。

やはり焼きイモはこうでなくっちゃいけない。

満足度の非常に高いものが出来上がり、家内と二人で、あっという間に全部美味しくいただいてしまった。

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by noanoa1970 | 2009-01-31 11:11 | 「食」についてのエッセイ | Comments(4)

天気予報の変な日本語

いつだったかTVの天気予報で、男性の予報官が「明日は南西の風、雨降るでしょう」というのを聴き、すぐに家内に「この人どこの出身なんだろう」、「ガ」を「で」と言っているというと、単なる言い間違いじゃないといわれ、その場はそれで収まったことがあった。

ところが一昨日、今度はラジオの天気予報で、今度は女性の予報官が「雨降るでしょう」というのを確かに聞いて、以前のTVでのあの言い方がその人独自のものでないというのがボンヤリと分かった。

そして本日カーラジオで、曜日が違うから一昨日とたぶん異なる人だと思うのだが、やはり「雨降るでしょう」というのをハッキリと聞いた。

最近の天気予報では「雨降るでしょう」を「雨降るでしょう」と言うのかと、調べてみたのだが、それについての情報はなかった。

そこで頭をひねって考えたことは、空から降ってくるものは「雨」「雪」「みぞれ」などがあるが、それらはすべて「雲」が発生もとである。

冬の季節には、その雲を通じ地上に降りるものには、雪になることも、みぞれになることも、雪になることもある。

またそれらのうち一番多いと思われる「雨」になって降りてくるものもあろう。

だから「今日は雨降る」・・つまり雨となるということを時系列的に言うために、わざと非日本語のような言葉を使うのだろう。

すでに3回もこの言葉を聴いているから絶対言い間違いなどではないから、なぜそのような言い方をあえてするのか、確認してみたくもなる。

しかし「雪になるでしょう」という言葉は聞いても、いまだに「雪降るでしょう」は聴いたことがないから、小生の推理もたぶん当たってはいまい。

どうにもむずがゆくていけないが、今のところはどうしようもない。

空気中の水蒸気が空中で水となり、それが地上に循環する土岐、気温が冷たければ雪かみぞれに、暖かければ雨となるわけだから、確かに、「水蒸気は雨で地上に降る=雨となって降る」という言い方は正しくもありそうだが・・・・

小生には音的に「で」が重なって「雨降るしょう」は、非常に気持ちが悪いのである。

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by noanoa1970 | 2009-01-30 16:46 | トピックス | Comments(2)

シルクロードに思いを馳せて

かってシルクロードにおける東西の分岐地区として、またオアシス都市として栄えたという「敦煌」がある。

シルクロードの覇者たち諸民族は、この地を制圧統治することで繁栄してきた。
月氏、匈奴、漢、三国、唐、五胡十六国、吐蕃、宋、北魏などなどかの血の支配を争ってきた民族は数知れない。

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西夏壁画による西夏の風俗

中でも宋時代に起こった西夏という、いわば幻の国家はその存在がわずか200年弱に満たないことや、近世紀になってようやく解読されたたという西夏文字を持つ進んだ軍事・文化国家だったともいわれる。

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「鈴」は漢字では金偏だが、西夏文字では音偏であらわす。漢字とは異なり、理屈ではなく感覚に近いようだ。
こうして文字を並べたのを見ると、非常に美しい。

西夏が繁栄した理由は,東西交通の要路を占めたシルクロードの中継地点を征服したことであり、したがって西方と宋・遼(金)とのあいだに立って中継貿易の利を得ていたためとされる。

特に中国文化、教育を積極的に取り入れる政策をとり、仏教・儒教を基調とした西夏文化が栄えることとなった。

黒水城・敦煌などには仏教美術関係の遺蹟があって西夏文化の特性を示している。

短命に終わった国家だから、よほど中国周辺民族誌に興味がある人以外には、あまり知られない存在の西夏であるが、小生はとても興味を持っている。

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本日は西夏という幻のシルクロード国家に思いを馳せて、小澤征爾/ボストン交響楽団で、呉祖強作曲 琵琶協奏曲 「草原の小姉妹」 を聴くことにした。

この草原とはモンゴルの草原といわれているが、この際それはさておくことにする。
しかし皮肉にも西夏はモンゴル帝国によって滅ぼされた。

姉妹が草原で羊を放牧していると,突然強風がやってくる。姉妹は羊を守るために必死で強風と戦う,甲斐あってようやく風が去って良い天気になったというような、姉妹と羊とシルクロードの美しい草原を表現したもの。
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by noanoa1970 | 2009-01-29 12:04 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

真昼の「魔女」の正体・・・「展覧会の絵」を聴いて

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アンドレ・プレヴィンとウイーンフィルハーモニー管弦楽団で

「魔女」がらみで、本日は久しぶりに、ムソルグスキーの「展覧会の絵」

スラブ民話に登場する「バーバ・ヤーガ」という魔女がいる。
ムソルグスキーは「展覧会の絵」に「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤーガ」としてこの題名の曲を持ってきた。

ロシア民話にも登場するから、バーバ・ヤーガはスラブ地方において、かなり広くその名が行き渡っていたのだろう。

バーバ・ヤーガは魔女ばあさん、山姥、鬼婆、妖婆などと言われるように、年老いた魔女である。

魔女、あるいは悪魔の発祥の多くは、たいていの場合、キリスト教以前から存在したいわば多神教の神々のうち、(これもたいてい、キリスト教の立場で都合良く判断したものが多いのだが、キリスト教に反するものを悪神、そうでないものを善神とし、中には聖人となるものもいた。

そうした悪神の中でも特にキリスト教に都合が悪い存在のものを、魔女・悪魔としたのである。

中でも自然神・・・嵐、雷、水害、強風などの悪天候や一番過ごしにくい「冬」の季節をつかさどる神は悪神とされ、バーバ・ヤーガは、もともとは冬を象徴する自然神の名前であったという。

バーバ・ヤーガはキリスト教以前の神の多くがそうであるように、森の中に住んでいて、骨と皮だけの風貌をし、鶏の足のの上に立つ小屋に住んだといわれる。

ウイキペディアによる、以下の記述がある。

「民話に登場するときはたいてい敵役で、子供を誘拐して取って喰うパターンが典型である。ゆえに多くの物語では、彼女の助けを借りるのは危険な行為として描かれている。しかし災いに陥った主人公たちを彼女が助ける民話もあるし、たいていの民話では主人公が礼儀正しさ、節度の遵守、魂の清らかさを示せば善玉としてふるまう。」

この理解でいけば、「真昼の魔女」はバーバ・ヤーガではなかったかという推測が多いに可能になる。

物語の母親は、バーバ・ヤーガが「子供を誘拐して取って食う」という言い伝えを、子供を脅すために使ってしまう。

バーバヤーガの手を借りようとする行為はたいへん危険である・・・すなわちタブーであるにもかかわらず、母親はその禁を犯して子供の躾に、バーバ・ヤーガの名前を出し、その力を借りようとした。

その結果・・・古くからの言い伝えで、タブーとされていたことを犯したことで、魔女のバーバ・ヤーガから子供を奪われることとなった。

エルベンが詩を、そしてドヴォルザークが作曲した「真昼の魔女」とは、「バーバ・ヤーガ」のことではなかっただろうか。

悪魔辞典によるバーバ・ヤーガ。

森の小屋。小屋は、鶏の脚の上に立ち、髑髏の乗せられた柵に囲まれ、ヤガー婆さんの特定の呼びかけによって向きを変え、扉を開く。
妖婆。殺された大蛇の母親。名前は「あいまいな女」の意味。もともとは、森の動物の主、加入儀礼の祭司、死の国への渡し守などとされる。語源からはヒッタイトの葬礼の老婆と結びつけられる。また、足に注目し、前身が蛇である死の女神とする説もある。

鼻は大きく曲がり、歯は長く、盲目で、骨の一本足の、小さく痩せた、醜い老婆。しばしば豚にまたがる。
巨大なすり鉢に乗って森の中を高速移動する。右手のすりこぎで操縦し、左手のほうきで跡を消してゆき、亡霊たちを引き連れる。
契約に基づいて、助言や食料を与え、魔法の馬や糸玉の贈物をするが、、合意内容を満たさなかった場合は食ってしまうと脅す。また、子どもをさらって炉で焼いて食べたりもする。
ロシアの民間歳時暦では、他の妖怪とともに夏至の時期にキエフのはげ山に集まる。
民間伝承では、殺された大蛇の母親で、その話の主人公と戦った。ハンガリーの民間伝承では、ヤガーはもともとよいフェアリーだったが、魔女へ堕落した。
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by noanoa1970 | 2009-01-26 11:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ドヴォルザーク交響詩「野鳩」

本日は4曲あるドヴォルザークのエルベン交響詩から最後になる「野鳩」を聴く。

冒頭、ベートーヴェンそしてショパンの葬送行進曲に似通ったところも少し散見され、またパーセルの「メアリー女王の葬送行進曲」風のティンパニーが聞こえる葬送行進曲風の音楽で始まる。

しかし弦の下降による表情は、妻の偽りの嘆きあるいは薄笑いのようにも響くところが不気味で、この葬儀が偽りの葬儀であることが暗示されるようで、ドヴォルザークの仕掛けが面白い。

タイトルからは想像できないが、実はこの物語は夫殺しの妻の話である。

妻がなぜ夫を殺したのか、その理由はっきりとしないが、たぶん若い燕ができ、夫が邪魔になったことが原因ではなかったか。

葬儀の後しばらくすると、トランペットの音とともに、愛人が現れ二人は結婚することになる。

結婚式の舞踏会のシーンであろうか、スラブ舞曲風音楽が流れ、幸せな二人の時がしばらく続く。


そうするうちに亡き夫の墓の前に1本の樫の木が育ち、そこに鳩が巣を作った。
そして妻が夫の墓の前に行くと、その鳩は、悲しそうに、妻を責めるように鳴くのだった。

さすがに夫殺しをした妻は、良心の呵責に耐えきれなくなり、精神的苦痛を味わう日を送るが、鳩の悲しそうな鳴き声を聴くごとに、だんだん精神状態がおかしくなりとうとう発狂自殺してしまう。

鳩の鳴き声はフルートとバックのハープで示される。
R/シュトラウスの「4つの最後の歌」の「夕映えの中で」で奏される、フルートによるヒバリの鳴き声によく似ている。

ドヴォルザークには、「英雄の歌」という交響詩があり、R/シュトラウスに影響を与えたとする説もあるから、ひょっとするかもしれない。

このあたり音楽は、妻の精神状態がおかしくなっていく様子を、この時代の音楽手法としては、かなり饒舌にダイナミックに表現している。

4つの交響詩の中では最もダイナミックな表現に富む音楽だが、最後の終わり方はどうかというと、妻が自分のした悪行を悔いて発狂自殺したことで、夫の魂も救われ、妻を許した夫が来世でもう一度一緒になるかのような、浄化された空気の中で音楽が終わることが一層の変化を音楽に与える。

つまり「死」をもって罪を償うことで、殺された側、殺した側両方が救済されるかのような死生観が見て取れるが、これは非キリスト教的な考えであろう。
イスラム教に近いか、いやもっと古い原始宗教のようなところを感じる。

小生が着目したのは、夫の墓の前に育った1本の「樫の木」である。
樫の木は、古代ケルトの民が信奉したドルイド教のトーテムでもあから、墓の前の樫の木、それに鳩が巣を作ったということは、かって古代ヨーロッパを席巻した、ケルト文化の遺産がスラブ地方にも残っていたことの・・・ケルトとスラブの文化の共通性あるいはケルト文化の残像といったものが見えてきそうであり、これについてもまた興味深いことである。

スコティッシュ、アイリイッシュのオールドバラッドにも、殺人の話は数多くあり、兄弟姉妹間のもの、夫と妻のもの、子供による親殺しなど多岐にわたる。

「殺人」の民話の共通性から、民族文化の共通性や互いの影響度などを探るのも面白そうだ。

ドヴォルザークがエルベン詩集「花束」に収録された12の民話から、なぜこの4つを取り上げたかは不明だが、この4つの話に共通するものは、「殺人」である。

「水の魔物」は、好きで異界の人と一緒になった女性が、なぜか子供を置いてまで里帰りした結果、子供を殺されるという、女性の変心が招いた悲劇の話。

「金の糸車」は、権力者に見染められた娘に起こる悲劇の話、ここでは義理の母娘によって殺害される、しかし結局は娘は生き返り、めでたく終わる。

「真昼の魔女」は、子どもの躾に禁句である魔女の名前を、安易に出して・・・本来悪意のない者の名前を出したことで、見せしめとなり、子供を亡くす母親の話。
口は災いのもとということか。

そして「夫殺し」の「野鳩」。

はたして偶然か、何かの意図があってドヴォルザークがこの4つをチョイスしたのか、知りたい所である。
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by noanoa1970 | 2009-01-25 13:27 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

真昼の魔女

「水の魔物」「金の糸車」に続いて本日は「真昼の魔女」。
この交響詩のもととなるエルベンの詩の内容は以下のとおりである。

NHK交響楽団1633公演プログラムから「平野昭」氏の解説より

「のどかな田園にある家庭の風景。妻は仕事から帰ってくる夫の昼食の支度をするために台所でせっせと働いている。
その脇では子どもが遊んでいる。

やがて子どもは1人遊びに飽きてむずかり出す。母親は最初は穏やかにあやすが、ぐずる子どもにだんだん語気が強くなり、しまいには、そんなに泣き喚くと真昼の魔女(ポレドニーチェ Polednice)を呼ぶと脅かす。

すると子どもは一旦は泣き止むのだが、すこしするとまた泣き出す。
母親は子どもを厳しく叱りつける。
するとそこに小さな茶色の魔女が現れて、子どもを貰ってゆくといって不気味な踊りを始める母親は魔女に許しを請うのだが、聞き入れてくれない。

ところがちょうど正午の鐘が鳴り響きだすと魔女は消えてしまう。
安心した母親は子どもを抱きかかえて失神してしまう。

帰ってきた夫が家の中の惨状を見て、妻を抱き起こす。
妻は目覚めるが、子どもは冷たくなっていた」。


曲は、けだるい昼下がりを思わせるような楽調で始まる。
木管楽器による母と子供の会話らしきものが続く。
(たぶん泣きわめく子供をなだめる様子だがこれが繰り返され、次第に音楽が強くなってくるから、母親が切れかけていることがわかる、そして子供を脅かすために魔女の名前を出すことになったのであろう)

面白いのは外で鳥が鳴く声が「運命の動機」であり、今後のストーリー展開が、不気味に進行することを思わせ、鳥の声による「運命の動機」が次には大きくなって全合奏へと発展するから、ここに気づくと今後の恐ろしげな展開が予想され、興味を喚起するところが仕掛けられているようだ。

不気味なクラリネット、ファゴット、そしてトランペットによって、魔女の登場が予見され、曲はワルツになり、魔女が躍る様子が描かれる。

突然教会の鐘の音が聞こえると、魔女は姿を消してしまう。(このあたりはキリスト教的だ)

その後は物語のような展開となるのだが、音楽自体は子供を亡くした母親の激しい悲しみの様子などは描かれなく、むしろそれが運命であるがごとく、静かに終わるところが帰って不気味である。

4つの交響詩の中でもっとも、起承転結に優れた作品だ。

この民話はいろいろな解釈ができると思うが、小生流には
「タブー」を犯した無知な母親・・・(今でもこのような母親はよく見かけるが)
そう、・・・「悪いことばかりしてお母さんの言うことを聴かないと、怖い人が来るよ」とか、「あのおじさんに怒られるから、お利口さんにしなさい」などと、間違った子供教育をする母親に対する教訓のようだ。

この物語では子供の躾ができない母親が、「Polednice」=「昼霊」という名前を出して子供を脅かしたこと、おそらくこのような、魔女の名前を出しにして物事を解決するやり方は、もともとこの地方ではタブーとされて来たのではないだろうか。

タブー(魔女を出しに使うこと)を犯したことによって、悪の当事者とされた魔女が母親に対して怒り、母親の言ったことを、本当のことにしてしまうといった、タブーを犯した仕返しの話であるように思われる。

タブーを犯してはならない、そして子供の躾・教育は、子供本人のためで、そうしないとひどい目にあうからなどというものではない…そんな教訓の意もあろう。
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by noanoa1970 | 2009-01-24 11:54 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

金の糸車

昨日の交響詩「水の妖魔」のヴォドニークは同じドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」の父親であること、西スラブ地方では「河童」あるいは「人魚」であるとされることもあることを付け加えておきたい。

本日は、エルベンのバラードに基づく4つの交響詩より「金の糸車」。

エルベンの原詩より一部を抜粋する。
ヘルダーの「オルフ殿」と似通った雰囲気のあるバラッドである。

森をとりまく、野や畑
来たぞ、ほら、来た、一人の紳士
黒き悍馬に、打ち乗って
ひづめの響き、軽やかに

小屋をめざして、まっしぐら
小屋のまえで、馬から飛ぴおり
小屋の扉を、トン、トン、トン
さあ 開けたまえ、みなのもの

いち早く、わが目のまえに
わが喜ぴを、示したまえ
いで来たりし老婆は、骨と皮
こりゃ、なんと、貴人のお出まし

おまえの家には大変化
所望いたすぞ、わが嫁に
おまえのうちの、まま娘
これは、びっくり、旦那さま

正気でそれを、お望みで
そりゃ、大事なお客だ、大歓迎
とはいえ、あなたは、どなたさま
そもそもわが家に来られたは、なにゆえに

われ、この国の王にして、領主なり
偶然、昨日、選ぱれた
おまえに、銀でも金でも遣わそう
おまえの娘、くれるなら

かわいい、糸つむぎの娘をぱ
おお、なんと、これは王様、おったまげ
こんなこと、誰が夢にも望みましょう
たとえ、あなたさまの慈悲深い

思し召しとは申せども
わたしどもは、それに値するものではありませぬ
それでもしかし、ご進言、どうかお承りくださいませ
よその娘はやめにしてわたしの娘、さしあげます

それはそっくり、瓜ふたつ
お顔の両の目、そのように
その糸、紡ぐは絹の糸
ぱぱよ、そなたの進言、怪しからぬ

余が命ずるままに、するがよい
明日、日が高くなるまえに
おまえの、まま娘をぱ連れて来い
王の城まで、わかったな

以下にはこのような物語が続く。

継母は、自分の実の娘を国王のもとに嫁がせるため、まま娘を森の奥で、実娘といっしょに殺害してしまう。
そして国王のもとには、義姉が嫁ぐことになった。

これを憐れんだ森の魔法使いは、八つ裂きにされた娘の死体を蘇生しようとするが、義姉が隠し持っている手足がないために蘇生させることはできない。

魔法使いは一計を案じ、金の紡ぎ車と交換することを条件にこれらを義姉が成り済ましている王妃から入手する。

王妃に成り済ました義姉が金の紡ぎ車で糸を紡ぐと、紡ぎ車は継母と義姉の悪事を歌い出した。

そこで国王は森へ急ぎ行き、魔法使いが蘇生した娘と再会することとなる。

・・・・これは昔話によくある継母と異父兄弟姉妹の間の争いの話である。
たまたま国王に見染められたことが悲劇となるが、最後は「めでたしめでたし」で終わる。

娘を助けようとする森の魔法使いの存在は、非キリスト教的なものであると思われるから、この話は古代スラブの民話がそのままの形で伝わったものかもしれない。

お金に目がくらんで悪いことをするとバチが当たる
何も悪さをしなかった正直者はきっといいことがある
そんなお話である。

音楽は国王が狩猟をしているようなファンファーレ、森を馬で駆け抜け、娘の家まで急ぎやってくる様子で始まり、一目ぼれを表すのか、切なく甘ったるい旋律もある。

ただこれは、聞かせどころが分散していてかなり長く感じられることもあるから、メリハリの強い演奏が求められる気がする。
しかしさすがはドヴォルザーク、耳になじみやすいメロディと緩急のリズム処理は途中で飽きるようなところがない。
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by noanoa1970 | 2009-01-23 15:15 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

エルベンのバラードに基づく4つの交響詩より

いつも訪問しているいくつかのブログに、ドヴォルザークの交響詩から「真昼の魔女」のことが書かれていて、その発展形として「魔女」についての考察があったので興味深く読ませていただいた。

「魔女」の成立を、キリスト教布教の歴史と合わせて考察することは、なかなか興味深く小生もかねてから、音楽に多大な影響を与えた、ヘルダーやハイネといった民話収集者に興味を持っていた。

さてドヴォルザークは交響詩を5曲書いているが、中でも19世紀ボヘミアの作家・詩人・ジャーナリスト・フォークロア研究家エルベン:Karel Jaromír Erbenのバラードを題材とし、それに曲を付けた4曲が有名である。

Based on Ballads by Karel Jaromír Erbenと題される、これら4つの交響詩は単独で演奏されることが多く、以下の曲から成り立っている。

交響詩「水の妖魔」:Vodník = The Water Goblin Op.107(B195)

交響詩「真昼の魔女」:Polednice = The Noonday Witch Op.108(B196)

交響詩「金の紡ぎ車」:Zlatý kolovrat = The Golden Spinning Wheel Op.109(B197)

交響詩「野鳩」:Holoubek = The Wild Dove Op.110(B198)

いずれもが残忍な「殺害」の場面がある怖いもので、スラブの民話から採取されたバラードが題材である。

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本日はその中から「水の精」を取り上げることとする。
演奏は知らない人のもので、ドヴォルザークの交響詩、序曲がほぼ全曲録音されているのと、安価なので購入した。
演奏はそこそこ、あまり気に入っていないからケルテスあたりで買いなおす必要があるかもしれない。

ドヴォルザーク:交響詩/序曲全集
・チェコ組曲 Op.39
・交響的 変奏曲 Op.78
・序曲『我が故郷』Op.62
・『謝肉祭』 Op.92
・『フス教徒』Op.67
・『オセロ』 Op.93
・『自然の中で』Op.91
・交響詩『水の魔物』Op.107
・『真昼の魔女』 Op.108
・『金の紡ぎ車』 Op.109
・『野鳩』 Op.110
・『英雄の歌』 Op.111
ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団
テオドール・クチャル(指揮)


「水の精」と言えばクラシックファンのだれしもが、ラヴェルの夜のギャスパールの「オンディーヌ」を思い浮かべるだろう。

小生もはじめは「オンディーヌ」のことを念頭に置いて作曲されたと思っていたが、The Water Goblin と英訳されていたことから、これはひょっとしてと思い、それからいろいろ調べると、予想だにしなかったことが分かった。

Vodník:ヴォドニークはチェコ語で「水男」と訳すそうだから、邦題が「水の精」となっていても決して「オンディーヌ」ではなく、男性の妖怪であるし、「水の魔物」と訳しているものもあって、むしろこちらの邦訳のほうが適切であろうなどと思った。

最近「野の花」というチェコ映画では、このヴォドニークをチェコの河童妖怪のように扱って作っているというものがあった。

エルベンの源詩を探していると、ようやく見つけることができたので、それをコピーさせていただくことにした。
これでドヴォルザークの曲の背景が、さらによくわかるはずだ。

伝統的なバラッドの4行詩でできている。


翌朝、乙女は早起きし
洗い物をひとまとめ;
「母さん、湖へ行って、
スカーフを洗ってくるわ」

「ああ、湖へなど行かず、
きょうは家にいて!
ゆうべ悪い夢を見たから;
娘や、水辺に近づかないで。

夢で真珠を選んでやり、
お前を真っ白に着飾らせた、
スカートは水の泡そのもの; 
娘や、水辺へ行かないで。 

白いドレスには悲しみ、
真珠に秘められるは涙、
金曜は不幸な日: 
娘や、水辺へ行かないで」・・

娘はなすすべもなく、
たえず湖へと駆られる、
たえず何かにせかされて、
家には娘を惹きつける物はない・・


「水の精」(ヴォドニーク Vodník)より 関根日出男訳

さらに物語は続き娘はヴォドニークの嫁になり、子供までできる。
子供は妖怪と人間の間の子供というわけだ。

娘はだんだんヴォドニークが怖くなり(それは河童のような妖怪だから仕方ない)嫌になって、ほんの少しの間、実家の母い会いに行くと言って湖から逃げ出し、実家の母のもとに帰り一歩も外に出なくなってしまう。

ヴォドニークはちっとも帰らない娘に腹を立て、娘との間にできた子供を真っ二つにして殺してしまう。

こんな残酷な話である。

ヴォドニークは河童のような形をした妖怪だといわれるが、小生はこの正体を「蛇」あるいは「水蛇」なのではないかと思っている。

「みずち」は古語で「蛇」を表し、それは蛇が湿地を好むことにより、水の神として古代からあがめられていたという。

水・・・農耕の根源と引き換えに、親が娘たちの一人を蛇の嫁にやる約束をし娘を蛇に差し出すことによって、雨を降らせてもらうという、水乞い結婚民話も数多くあるから、このチェコ民話もそういった農耕民族の「水」信仰の一種から発展してきたものなのかもしれない。

キリスト教では蛇は邪悪の象徴として扱われるから、当然のことながらこの民話はキリスト教化される前の時代のもので、それがキリスト教化されると、ヴォドニークは自分の子供をも殺してしまう「悪の権化」のように描かれることとなったのだろう。

チェコを含むスラブ地方はキリスト教化が比較的遅かったから、「魔女」「魔物」伝説が、古来からのものとキリスト教化の文化のもとで混在融合した結果が、エルベンのバラードになっているらしきことは、スコットランド、アイルランドのバラッドの成立過程と似ているようで面白い。
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by noanoa1970 | 2009-01-22 14:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

ミケランジェリを聴いて

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アルゲリッチを今まで聴いてきたが、一昨日からミケランジェリを聴き始めた。

当初ハードケース入り7枚でauraより発売されたCDが、バッハ・ガルッピでノイズを出したこともあって、新しく10枚組となって格安になって再発売された紙ジャケのCDを買いなおしたものだ。

ライブ音源が多く、録音状態はあまり良くないものが多いのだが、ミケランジェリの演奏が小生は好きである。

楽器のせいか、はてまた調律の成果か、多くはミケランジェリのピアノタッチにその要因があると思われるのだが、怪しく美しいギヤマングラスのように、薄暗い輝きを見せてくれる。

ほかのピアニスト・・・アルゲリッチと比較するのもためらうところがあるが、彼女と比べても、より一層音離れがよく聞こえる。

ドビュッシーも、シューマンも、ショパンも、ブラームスもすべてがよいのだが、中でも小生はこのCDによって初めて聴くことが可能となったピアノ協奏曲第15番変ロ長調 K 450(1974年)
チューリヒ室内管弦楽団
エドモンド・デ・シュトルツ指揮

スカルラッティ
7つのソナタ[K.96,29,11,159,322,9,27](録音:1943,69年)

ブラームス
4つのバラード op.10(録音:1973年)
以上が特に良い出来だと思う。

惜しむらくは、ミケランジェリの残した音源が、全体的にもう少し録音が良ければというところ。

さすれば、彼のピアニズムの細部にわたって、その素晴らしさがもっともっと満喫できるはずだから。

ライブで聴けなかったことを、強く残念に思う演奏家の1人である。

ピアノの録音は以前からYAMAHA1000で聴くことが多かったが、ここ最近調整がうまくいったYAMAHAは、今までに無いほどの再生能力を発揮し、非オーディオ的・・・音楽を楽しませてくれるようになった。

youtubeにミケランジェリのピアノタッチがよくわかる素晴らしい映像があった。
Michelangeli - plays SCARLATTI - Sonata in B minor


Arturo Michelangeli - Debussy Reflets dans l'eau


Michelangeli - Ravel Piano Concerto - [1] Allegramente
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by noanoa1970 | 2009-01-21 10:39 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

アルゲリッチ:「夜のギャスパール」

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アルゲリッチのラヴェル「夜のギャスパール」
雨音も、鐘の音も、妖精の踊りも、夜の帳の匂いの中で交感しあう。


風が香ひをつたへるのでない。香ひが風をすずろかせるのだ。
                        (白秋)

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by noanoa1970 | 2009-01-16 17:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)