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聖人「ヨハネス・クリュソストモス」ついにわかった

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「謎のレコード」ラフマニノフ・・・「聖ヨハンネ・クリソストモスの典礼」と題して2006-09-03 に書いたブログの「聖ヨハンネ・クリソストモス」の人物像が気になっていて、当時さんざん調べたのだが、さっぱりわからなかったのでそのままになっていた。

今朝何気なくその名前を思い出し、ネット検索をするがあいにく答えは同じ状態で、何も情報はなかった。

それで・・・過去のチョットした経験から、「ヴィット」と「ウイット」など同じスペルの発音違いによって検索の深度が極端に違うことを思い出し、実験してみた。

まず「聖」を削除、次に「ヨハンネ」→「ヨハン」と変更、そして「クリソストモス」だけにしてGoogle検索すると、もしかして: クリュソストモス という。

それで「クリュソストモス」にして検索すると・・・・
Wikipediaに「ヨハネス・クリュソストモス」として解説があるではないか。

長いことわからなかったことが、結果からすれば何ということはない、外国人の固有名詞の発音違いによって、情報検索ができなかっただけで、キチンとその人物情報はもともとあったことになる。

こういうことがいわゆる「盲点」というのだろうか。
ネット検索・・・特にGOOGLEのような直接入力スタイル検索エンジンの場合は注意が必要なことを改めて認識した次第。

もしかして・・・という間違い予測ツールがなかったとしたら、永久にわからなかったかもしれないことを思うと、GOOGLEに感謝しなければならない。

さて「聖ヨハンネ・クリソストモス」→「ヨハネス・クリュソストモス」たった2文字の違いで、この人物について、今まで到底知りえなかったたくさんの情報を得られることとなった。

膨大な資料がいくつかあるが、Wikipediaから抜粋しておくことにする。

[編集] 正教会におけるクリュソストモス

三成聖者大司祭首(さんせいせいしゃだいしさいしゅ)のイコン。正教会では特に崇敬される。固有の祭りに加え、不朽体移動日、他の聖人との合同の祭りなどがある。また正教会に理論的にもっとも大きい影響を残した神学者のひとりであって、その注釈書や説教は現在でもたびたび引用される。たとえば彼の復活祭説教のひとつは復活大祭の奉神礼の一部に取りいれられ、必ず朗読される。

中世半ばから、大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオスとともに三成聖者(さんせいせいしゃ、Three Holy Hierarchs)として合同の祭りをもつようになった。正教会ではこれを「三成聖者大司祭首 聖大ワシリイ(バシレイオス)、神学者グレゴリイ(グレゴリオス)、金口イオアンの祭日」として記憶しており、記憶日は2月12日(グレゴリオス歴換算の日付)である。但し日本正教会では聖体礼儀等の公祈祷で祝われる事は稀である。なお東京復活大聖堂(ニコライ堂)の東面(至聖所)の二枚のステンドグラスはこの三大聖師父のうち、大バシレイオスと金口イオアンのイコンである(南側ステンドグラスが大バシレイオス、北側ステンドグラスが金口イオアン)。

大バシレイオスの制定したとされる聖体礼儀(ミサ)の典礼文を簡略化して整備したことでも知られる。ビザンチン典礼で通常用いられる「金口イオアンの聖体礼儀」は彼に帰せられるが、現在使われる形は彼より後の付加によって発展したものであると考えられている。正教会に於いて、聖体礼儀は他の奉神礼と同様、歌唱される。

伝統的な旋律・聖歌は東欧を中心とした各地正教会に存在するが、近世以降、「金口イオアンの聖体礼儀」に作曲した作曲家も多数存在する。チャイコフスキー、ラフマニノフ、リムスキー=コルサコフ、などによるものが音楽的に知られる。詳細は「聖歌作曲作品としての金口イオアン聖体礼儀と作曲家」を参照。

歌われる言語は各国地元の言語を主に使う為、現在も聖体礼儀など奉神礼に用いる曲は各地方教会が各々育てている状態であり続けている。


キリスト教の世界では大変有名な賢人で、特にビザンチンやその伝承のロシア政教会では、クリュソストモスによってミサの典礼文を簡略化したものが必ず歌われるというし、その典礼文に曲をつけた作曲家は、ラフマニノフ、チャイコフスキー以外にも下に挙げたようにロシアの作曲家およびその人物が信仰したと思われるロシア正教会によるものがほとんどである。


金口イオアン聖体礼儀の全曲を作曲した著名な作曲家
ドミトリー・ボルトニャンスキー - (1751年10月28日 - 1825年10月10日)《ロシア正教会》
ピョートル・チャイコフスキー - (1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)《ロシア正教会》
アレクサンドル・アルハンゲルスキー - (1846年 - 1924年)《ロシア正教会》
ミハイル・イッポリトフ=イワノフ - (1859年11月19日 - 1935年1月28日)《ロシア正教会》
シュテファン・モクラーニャッツ - (1856年-1914年)《セルビア正教会》
アレクサンドル・グレチャニノフ - (1864年10月25日 モスクワ - 1956年1月3日 ニューヨーク)《ロシア正教会・アメリカ正教会》
ザカリア・パリアシュヴィリ - (1871年8月16日 クタイシ - 1933年10月6日 トビリシ)《グルジア正教会》
セルゲイ・ラフマニノフ - (1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)《ロシア正教会》
パーヴェル・チェスノコフ - (1877年 - 1944年亡命せずソ連で永眠)《ロシア正教会》
ニコライ・チェレプニン - (1873年5月3日 サンクトペテルブルク - 1945年6月27日 パリ)《ロシア正教会》
イラリオン・アルフェエフ

正教会聖歌を作曲した著名な作曲家
マクシム・ベレゾフスキー - (1745年頃 - 1777年)《ロシア正教会》
ニコライ・リムスキー=コルサコフ - (1844年3月18日 - 1908年6月21日)《ロシア正教会》
セルゲイ・タネーエフ - (1856年11月25日(ユリウス暦:11月13日) - 1915年6月19日)《ロシア正教会》
ドーブリ・フリストフ - (1875年-1941年)《ブルガリア正教会》
イーゴリ・ストラヴィンスキー - (1882年(ユリウス暦:6月5日)6月17日 - 1971年4月6日)《ロシア正教会》
アレクサンドル・チェレプニン - (1899年1月20日 サンクトペテルブルク - 1977年9月29日 パリ)《ロシア正教会》
アルフレット・シュニトケ - (1934年11月24日 - 1998年8月3日)《ロシア正教会》


こういう観点からすれば、4世紀のキリスト教の聖人、金口イオアンフリゾストモスによって編纂された聖体礼儀は、ビザンチン:東ローマ帝国の東方キリスト教を介してロシア正教に伝わり、主にロシア正教儀式において使われてきた、歴史的に大衆になじんだものだったのだろう。

さらにこの典礼文に曲をつけ、より民衆に近いものとする動きが活発だったことや、そうすることが、ロシア正教会信者としての作曲家の指名的なところがあったのかもしれない。

リムスキーコルサコフの作品も聞いてみたいが、何よりもチェレプニン、シュニトケといった現代作家がはたしてどのような作品に仕上げているのか、興味は尽きない。



朱門岩夫 著「伝聖クリュソストモスの過越祭研究」という資料がネット上に存在するので、参考にどうぞ。http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/homcry0.htm

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by noanoa1970 | 2008-11-30 11:45 | 歴史 | Comments(1)

ちょっとショスタコーヴィッチを考える

以前なら散歩中にブログテーマが決まることが多いのだが、最近これといったテーマが頭に浮かんでこないことが多くなってきて、それとともにキーボードが遠くなってくるのを感じるようになってきた。

そんなわけで、ブログの更新が少しとどこうってしまったが、何もしないでいたわけではない。

ライプチッヒゲヴァントハウス管弦楽団の音色を確認すべく、F・コンヴィチュニー及び、クルトマズアで、ベートーヴェンの3番の交響曲、クルトザンデルリンクでブルックナーの3番の交響曲、ヴァーツラフノイマンでマーラーの5番の交響曲などを聞いて、ライプチッヒゲヴァントハウス管弦楽団の音色について書いてみようとしたが、録音の差が激しすぎて、オケの音色の特徴的要素に迫るまでには至らなかった。

これについては今一度の猶予を必要とするから、いずれ書いてみたいと思う。

並行して少し気になっていたショスタコーヴィッチについて、主に交響曲を聞き進んで、7番以降を中心に聞き始め、最後の15番を聞いていた時のこと。

(そういえば5番の交響曲は、まるでベートーヴェンの「運命」交響曲の模倣のように聞こえたのを思い出した)

この最後の交響曲については、それが最後故(最後の作品はいつも特別視されることが多いようだ)、何かと語られてきたし、「引用の宝庫」といってもよいぐらい、すぐにそれとわかる他の作曲家の作品の一部が引用されている曲である。

小生は「ショスタコーヴィッチ」が特別に好きなわけではなく、いやどちらかというと「毛嫌いしていた」に近い作曲家だったので、熱心に聞いてこなかった人間であるが、明らかにすぐにそれとわかるほど、大胆かつ恥も外聞もないような引用は、この音楽的特徴の大きな1つであると思った。

ロッシーニのウイリアムテル序曲のあまりにも有名な旋律「スイス軍の行進」
ワーグナーからは「指輪」、「ジークフリートの葬送行進曲」でもおなじみの「運命の同期」といわれる部分が何度も登場し、」陰に隠れてトリスタンとイゾルデ「愛の死」テーマが、どこかで聞いたと思っていると、それはハイドンの交響曲、それも最後の
104番「ロンドン」の出だしの音だったりする。

そのほか自作から引用があるとされるようだが、小生はその作品を聞き及んでないか、印象がないので確認できなかったが、すくなくともハッキリわかる引用は上記のように少なくない。

経験的には1曲でこれだけの数を引用した例を小生は知らない。

それで「なぜショスタコーヴィッチがこれらの曲の引用をしたのか」という疑問を解くために、自分なりにアレコレ推理し考えてみたが、事実関係はもちろん、程よい仮説さえ見出すには至らなかった。

最後の交響曲作品であるがゆえに、また自身の作品の引用があるため、「自身の回想」であるとする説や、1楽章をしてウィリアム・テルのロシア語表記の最初の3文字とレーニンのイニシャルが共に「ВИЛ」であることから、レーニンがソビエトの指導者であった作曲者の幼年期から青春時代を表しているという、こじつけに近いような説など、情報公開には程遠い国の「芸術家」であるから、その真実に至るまでには相当長い距離があることをこれらは示している。

最も自由主義国家であっても、いわゆる芸術においては「謎」の部分がなくては「芸術家」という立場を保つことは難しいだろうが。

ウイリアムテル序曲の引用について作曲者自身は、「深夜のおもちゃ屋さんをイメージした」と述べているようだし、息子でこの曲の初演者であるマキシム・ショスタコーヴィチは、「幼少の父が最初に好きになった曲である」ことに由来すると説明している。

しかしこれらの言動についても小生は、決して鵜飲みにすることはできないだろうと思っている。

古今東西、芸術家と呼ばれる人種の言動には、言葉通り受け取るとトンデモナことになることが多いようだから。

「幼少の父が最初に好きになった曲である」とした息子マキシムの発言は、そうすることが一番他人に説明しておくのに「楽」だからであろうぐらいの読み方が必要だし、「深夜のおもちゃ屋」という発言も、・・・(たとえ本人が語った言葉だとしても)いかようにも解釈できてしまうから、それでこの引用の説明がなされるわけではない。

深夜そしておもちゃ屋などという、いわば静と動が混在するような意味不明な、そして、ひっくり返したりあれこれ見て触るととても楽しいものと深夜などという、幼年期には怖いものの存在の同居する、わざとらしく矛盾したイメージを想起させるような言葉の遊びに付きあってしまうと、たちまちショスタコーヴィッイが仕掛けた罠や術中にはまってしまうことになろう。

ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」という暴露本が出版され、一時話題になった記憶があるが、小生は読むのを未だにためらっている。

ほんの一部しか知りえないが、あれもやはり「事実」というよりは、政治背景による演出の色が濃いようだ。

各々の作品群からというよりは、時代によって「作られた芸術家」としてのイメージのほうが勝ってしまうこの不思議な正体不明の作曲家の前で、オロオロしながら未だに音楽を聞いている自分の存在に、半ば呆れている状態なのである。

ショスタコーヴィッチを聴くとき、小生だけであろうか、その音楽からはとても彼が20世紀に生まれ1970年近くまで生きていた人の作品ではなく、ひと昔前の・・・19世紀の作曲家として聞いていることがあるのは。

ショスタコーヴィッチについては、まだまだ知られざる神秘的、秘密的部分が多いのだろうが、少なくとも彼の音楽は、その音楽のよし悪し、主義主張、芸術性、音楽性を別として、終始「ソビエト共産党とともにあった」と言うことは間違いない。

彼が生きている間に体制が変化していたら、「ショスタコーヴィッチ」が亡命しなかった理由の真相などきっともっと違う真実が聴けたのかもしれないが、歴史とはとっても、そしていつも皮肉なものだ。

政治をも手のひらで操れるような処世術にたけた凄い芸術家だったのか、面従腹背の人だったのか、それとも体制によって随時カメレオンのように身を変化させることが得意な存在だったのか、興味は尽きないが真相は闇の中だ。

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by noanoa1970 | 2008-11-29 11:43 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(1)

知られざる古代ユダヤ王国

ショスタコーヴィイッチの「バビヤール」・・・ユダヤ人大量殺戮について調べていたら、思いがけない歴史的事実に出会った。

「ハザール帝国」という、いままでほとんど耳にしたことがなかった国家の存在である。

もともとはトルコ系の遊牧民族集団であったが、8世紀主導者はなぜかユダヤ教徒に改宗したという。

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10世紀のヨーロッパの地図によると、「ハザール帝国」は、東ローマ帝国ビザンチン王国とイスラム国家の中間に存在し、パワーオブバランスを担っていたものと想像される。

「ハザール王国」の歴史的意味をして、「ハザールがなかったら、ヨーロッパはイスラム化され、ロシアもアメリカもイスラム国家になっていた可能性が高い」という学者も多く存在するという。

またある説によると、現在のユダヤ教徒≒ユダヤ人の90%がアシュケナージユダヤ、すなわち白人系ユダヤ人で、古代ユダヤから続いてきた旧約聖書に登場する、セム系ユダヤ人=スファラディムユダヤは、わずか10%の人口にしか過ぎないという。

そしてアシュケナージユダヤの発祥こそ、「ハザール王国」における、改宗したユダヤ人で、国が滅びたのちヨーロッパ全土に散っていったのだとか。

このようなことが事実だとすれば、キリストを売った罪を背負わされて、長い歴史の中で差別されてきた「ユダ」の出自のセム系ユダヤ人と、現在のアシュケナージユダヤ人は、「ユダヤ人」という同じ名称でくくられるが、実はそのほとんどが古代突厥の西方進出以降トルコ化した遊牧民の末裔であるということになる。

ユダヤ人以外のユダヤ教国家「ハザール王国」は、知られざる歴史の重要な位置にあったといえそうだ。

ハザール王国はユダヤ教改宗によって、アラブイスラム国家とキリスト教国家の中間的な立場に存在することで、パワーオブバランスの一翼を担ってきたが、国内においては改宗を吉としない勢力との抗争が激化し、反勢力が国外に逃れて、「ルーシ」=「ロシア」と結びつくことになり、「キエフ・ロシア国」の前身「ルーシ・ハン国」となる。

大きくなった「キエフ・ロシア国」のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したハザール王国だったが、ウラジーミル大公はビザンチンとの友好関係を強力に推しすすめようと、キリスト教に改宗した。

このことがロシアでキリスト教が「ロシア正教」として栄えた一つの理由だろう。

「ルーシ」=「ロシア人」は、もともとは北方のバイキングの子孫であった。

ハザール王国がイスラム教でもなく、キリスト教でもないユダヤ教に改宗したことの意味は、純粋宗教的意味合いが強いというよりは、多分に政治的な「キャスチングボート」のような立場で生きていくためだったのではなかっただろうか。
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by noanoa1970 | 2008-11-25 12:23 | 歴史 | Comments(0)

バビヤールには墓碑銘がない

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ショスタコ-ヴィッチの13番の交響曲のニックネームは「バビヤール」。
冒頭にバスのソロで歌われるその歌詞が「バビヤールには墓碑銘がない」である。
「バビヤール」とはキエフ郊外にある渓谷の名前で、ナチスドイツによって、ロシア系ユダヤ人が大量に殺戮され、埋められたところだという。

この暗黒の歴史の一コマを1961年、エフトゥシェンコは詩「バビ・ヤール」として書きその詩を使って、ショスタコーヴィッチによって作られた交響曲(オラトリオのようでもある)が13番の交響曲別名「バビヤール」である。

ユダヤ人迫害に対するソ連の無関心を告発したとされるこの詩であるが、よく読んでみると、どうもそれだけではないように思えるところがある。

たとえば詩の一節には、「何たる卑劣だろうか、臆面もなく反ユダヤ主義者たちは、厚かましくもこう名乗ったのだ、「ロシア民族同盟」などと。」

この一節で思い出されるのは「カチンの森事件」である。
小生はこの歴史的な事件のことを最近になって知ることとなったのだが、この事件の真実を知ることとなって、歴史は勝者によって作られるということを実感した。

「カチンの森事件」とは、旧ソ連のスモレンスク市近くの森で、第2次世界大戦中にソ連当局が捕虜のポーランド人将校多数を銃殺して埋めた事件。1943年に同地を占領したナチス・ドイツ軍当局がその遺体発表したがソ連当局はかかわりを否定。

共産主義国家となったポーランドでは、この事件に言及することはタブーとなっていたが、ソ連が崩壊したのち1990年ソ連は内務人民委員部による虐殺と認めた 。

それまでソ連はこの事件の首謀者は、ナチスドイツであると主張してきたのである。

「バビヤール」はナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺の地とされているが、ある書物によるとここで殺戮されたのはユダヤ人に限らず、当時のソ連体制に逆らった人たちもたくさん含まれており、その主なものは「ハザール人」だという。

ハザールとはカザールのことで、遊牧民族であったが、ある時期にユダヤ教に改宗したといわれている。

このユダヤ教徒となったハザール人は、(ユダヤ教徒はユダヤ人である)ロシアではアシュケナージユダヤとして、多方面に力を持つにいたった。

一説にはロシア革命の主導者はユダヤ人であったともいわれているし、十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ国民共和国だとされる。

ロシアとウクライナは別民族であることから、昔からこの民族宗教紛争こそが、ソ連ロシアの歴史を動かしてきたのだと思われる。

スターリンソ連下において、このウクライナは独立国家を目指したことや、スターリンの政策と農業中心で土地を保有したいウクライナ人との利害が相いれなかったことも、中にユダヤ教徒が多かったこともスターリンソ連の反ユダヤ主義につながることになったのだろう。

「バビヤールには墓碑銘がない」という背景には、ソ連の反ユダヤ主義と、そればかりか実際に「カチンの森事件」に見られるように、ユダヤ教徒のポーランド人の大量殺戮や、未だ明らかにはされてないが「バビヤール」でのソ連によるソ連のユダヤ教徒殺戮にもかかわらず、歴史的事実を偽ってきたということと、その結果において墓碑銘すらないということを揶揄している。

エフトゥシェンコの詩の内容からは、わざと曖昧にされているのでよくわからないが、冒頭に挙げた「何たる卑劣だろうか、臆面もなく反ユダヤ主義者たちは、厚かましくもこう名乗ったのだ、「ロシア民族同盟」などと。」の下りから少しだけ、ソ連指導部に対しての皮肉のメッセージが読み取れよう。

むしろ音楽では詩ほどリアリティ(権力者がそれとわかるような)なく運べるから、ショスタコーヴィッチは、この音楽でナチスばかりかソ連のホロコーストを糾弾するかのような、険しい表情の音楽をつけている。

詩も音楽も非常にシニカルだから、歴史的背景を知らないで聞くと、読み間違えそうだ。

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by noanoa1970 | 2008-11-23 11:29 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

小象のためのサーカス・ポルカ

相当なクラシックファンの間にも、あまりその名が知られてない曲がある。
ストラヴィンスキーが作ったこの曲、実はあるサーカス団の依頼に寄ってのことだそうだ。

ウイキペディアによれば、「1942年、ニューヨークのバーナム&ベイリー・サーカス団の委嘱によって、像のショウのための曲として作曲された。」とされている。

この曲にあわせ、50頭の象が衣装をまとってマジソンスクエアガーデンにおいてダンスをしたと伝えている。

管楽器が中心の陽気なポルカだから、あたかも像が足を踏みならしたり、鼻を上下にゆすらせて踊るようなダンスにふさわしい曲と思えるが、面白いことにこの曲後半部にはシューベルトの「軍隊行進曲」のパロディーが聞こえてくることだ。

ストラヴィンスキーは、「戦象」をこの曲のモチーフにしたのだろうか。

ちなみに「戦象」とはポエニ戦争において、カルタゴの将軍ハンニバルが37頭の戦象を連れてアルプス山脈を越え、イタリア半島に侵入を試み、ローマを大いに驚かせたという歴史的事実がある。

またペルシアのダレイオス3世はアレクサンドロス大王率いるギリシャ軍に対して戦象を運用した。

アレクサンドロスがインドに侵入した際、ヒュダスペス川の戦いで、パンジャブ王国側は200頭の戦象を運用した。

ディアドコイ戦争では、戦象はより積極的かつ大規模に用いられた。紀元前301年のイプソスの戦いでは、両軍合わせて500頭近くの戦象が運用された。

1526年のパーニーパットの戦いで、ロディー朝側は1000頭もの戦象を運用した。


以上の歴史的事実から、古代インド中近東では、象が戦いのための重要な戦力であったことが知れる。

ストラヴィンスキーは、このような歴史的事実を知っていて、像のダンスに・・・といっても、50頭の像の踊りは圧巻であろうから、単なるダンスとは思えなかったのか、あるいはものすごい皮肉を込めて、「軍隊行進曲」をパロディとして挿入したのではなかろうか。

おどけたポルカを踊る像の歴史に潜む戦争の残酷性。

そういえばハンニバルの遠征では、過酷なアルプス超えで、生き残った像は37頭のうち、たった3頭に過ぎなかったといわれている。

ストラヴィンスキーは、この曲の中に「戦争」に対する強い反対の意を込めたのかもしれない。

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小生はこの曲の存在を、ヘルベルト・ケーヘル/ドレスデンフィルの商品州の録音によって知ることとなった。

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他の演奏を当たってみたが、極端に録音は少なく、カラヤン、マルケヴィッチぐらいしか見当たらなかったから、よほどストラヴィンスキーの曲にしては、よほどマイナーな曲なのであろう。

ケーゲルという変わり者の指揮者の演奏で聞くと、「笑いの中の狂気」とでもいえるような、曲想に聞こえてくるから、かなり怖いものがある。

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by noanoa1970 | 2008-11-20 11:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

今ではもう・・・ノスタルジーなのか

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京都北白川御影通りに昔あった老舗洋食屋「フルヤ」。
御主人はすでに亡くなって、跡継ぎもいないのだろう、今は当時の面影をほんの少し残しているだけとなってしまった。

京都での所要を済ませて、懐かしくなって付近を探して、ようやく発見した。

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下鴨本通り、洛北高校前に近いところにあった、これも老舗洋食屋「富永」。
「フルヤ」同様後継ぎはいなくて、今は廃業してしまったようだ。
看板だけがヒッソリと当時の面影を残している。

すべて自分で仕込みをするような本格的洋食は、かなり辛くハードな仕事だけに、今では蔓延するインスタント洋食屋や偽物レストランでも、客はある程度満足するようだから、誰も苦労してまで美味しい料理を提供しようとは思わなくなってしまったのか。

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by noanoa1970 | 2008-11-18 14:00 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

伸びた饂飩を平気で食べる鈍感なやつは許せない

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急に所用ができたので京都へ。
京都は今、紅葉のシーズンだが、観光は全くしないつもりで出発。

我が家から東名阪経由新名神で90分と近いので、車での移動は全く億劫ではない。
途中、新名神高速道路の風景を車内から写しておいた。

鈴鹿山脈や伊賀と甲賀を結ぶ山間の道を突っ切る形となり、トンネルは多いし、かなり高い所を走ることになるが、トンネルも道路も余裕を持って作られていて、とても走りやすくできている。

京都で用事を済ませ、お昼御飯をどこにしようか迷った挙句、昔から通っていた饂飩屋「岡北」にすることにした。

実は京都のあの独特の「親子丼」を食べたくなって、北山の「権兵衛」と思ったのだが、車が停められないので、「岡北」にした。

「岡北」という饂飩屋は小生が学生だった頃からすでにあって、特別のことはない古い小さな饂飩屋。

しかし近年、どういうわけだろうか、旅行雑誌や京都のガイドブックなどで、盛んに取り上げられたたせいで、それまでお客といえば、地元の人か、タクシー運転手が中心の店であったものが、修学旅行の生徒や一般観光客が来る店となった。

京都の「岡崎」あたりは、付近は美術館をはじめ見るところが多いので、観光客の往来も少なくはない。
その割には手頃な店がなかったことが、人気のもとだったのか。

最近ではお待ちができるほどの人気振りであった。

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ほぼ1年ぶりに行った店の入口を見て、さすがに驚いてしまい、暖簾の名前を確認し、店の中に入ってなお店員に「ここ昔の岡北?」などと聴く始末。

家内は家内で、メニューは昔と変わってない?と聞いていた。

家内はいつもここの「キツネうどん」を食べるのだ。

店舗の様子は今までと全く変わっていて、町屋の面影はみじんもない。
設えも、食卓や椅子もモダンなレストランという雰囲気で、この凄まじい変貌ぶりに面食らってしまった。

周りの客はそのほとんどが観光客と思しき人たち。

帰り際家内が、「昔のほうがお店の感じはよかった」などと店員に言うと、その店員は我々もかなり面食らっていますというからこの凄まじい変貌ぶりには、多少問題意識があるのだろう。

うどんの味は幸い昔と変わらなかったので、安心したのだが、昔からの馴染みの客は、多分行きにくくなったのだろうと思われる。

近年のあの繁盛ぶりは異常なほどであったから、さぞ儲かったことだろう。

小生人の食べる仕草を覗き見するほどの悪趣味は持ってないつもりだが、注文したものを待つ間に隣のテーブルに座った、30代と思しき女性2人男性1人のグループ。

関東から観光あるいは同窓会に出席したらしい。
盛んに引越しの話と沿線の話に夢中だ。

東京に住んで会社に通ったときに実感したのだが、東京の住人(東京人ではない)は、事あるごとに、自分の住まいがどこで何の沿線であるかを話すようだ。

割と大きな声だし、席が近いから聞きたくなくても耳に入ってくる、東京あるいは東京近郊に住まいしていると思しき彼らの話。

何かで久しぶりに会っただろうということは何となくわかるし、近況を聞きあうというのもわかるが、そのあとがいけなかった。

せっかく京都まで来てガイドブック頼りにやってきた「岡北」。
テーブルをはさんで女性2人と男性1人が向き合って座り、しゃべり続けているのはいいのだが、一足早く男性のところに、多分暖かい何かのうどんが運ばれてきた。

多分その男性は女性の注文したものが、もう来るだろうと思ったのか、運ばれてきたうどんをそのままにして相変わらず話し続けている。

時間が経過し既に5分ほど経つのだが、まだその男性は運ばれたうどんに箸を付けないでしゃべっている。

男性の姿がすべて見えてしまう席に座った小生は、自分の注文が運ばれる間それを見なくてはならないことになって、うどんをすぐに食べないこの男性の行動を見て、なんだかものすごく腹が立ってきた。

そして男性の前に座っている女性2人。

うどんを食べない男性を見て、何故「お先にどうぞ」といってやれないのかと思うと、女性の注文が来るまで、既に5分以上も待って、同時に食べようとするその男性の変な気遣いと、それに気がつかない女性2人の鈍さに、小生は「岡北」改装の凄まじい変貌ぶり以上に驚いたのだった。

伸びたうどんを食べるのはその人の勝手であるが、わざわざ「岡北」のうどんが食べたくてガイドブックを頼ったにしろ、せっかく来て注文したのだから、熱いうちに伸びないうちにすぐ食べてあげるのが、客のマナーであろう。

そしてあとの注文を待っている人は、先に来た人に「お先にどうぞ」そして言われた人は「お先に失礼」といって先に食べる野がおいしく食べることに繋がる。

気になって女性が注文したものを見ると、「天せいろ」であったから時間がかかって当たり前。

想像力の働く人なら、自分たちの注文は時間がかかることなど予測できるはずで、そうなると次の展開を先読みできるはず。

そういう人なら「お先にどうぞ」とすぐに言えるのだと、小生は思うのだが、こういう少し先のことが読めない推理力・想像力のない人間を、こんなところで見るとは思いもしなかった。

5分もそのまま放置した「温うどん」
小生は絶対に食べたくない。

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by noanoa1970 | 2008-11-18 13:42 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

収穫の時

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いつもの散歩道、とある家の柑子みかん。
収穫の時を迎えたのだろう、橙色に色付いて来た。

さらにすぐ近くの民家の庭に、珍しいものを発見。
最初は蜜柑だと思っていたが、よく見るとそれは「レモン」であった。

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それほど大きくはない樹木には今、レモンがたくさん実っている。
庭先で収穫できるレモン。

かなり贅沢でうらやましいものだ。

10年前の今頃なら、収穫した新蕎麦を三たてで味わうことができたのだが、今ではそれも遠い昔の思い出となってしまった。

里山では農作物の収穫の時期を少し過ぎたころだが、柑橘類の収穫はこれからが本番。

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「収穫」といえば、昔よく聞いたアルバム、ニール・ヤングの「Harvest」。
「After The Gold Rush」とともに好きだったもの。

「アラバマ」という歌が収録されていた。
「After The Gold Rush」の「Southern Man」ともリンクする、南部人の人種差別に対する叛旗とも取れるような歌である。

南部で収穫とくれば、レッドベリーが作ったフォーク&カントリーの名曲、「Cotton Fields 」歌詞の中に、It was down in Louisiana
Just about a mile from Texarkanaルイジア州、テキサス州が登場する。

「綿摘み」に従事し、一生懸命働いても収入が少ない、貧しい黒人の子供が、かって母親の背中で聞いた歌のような感じである。

一方「レモン」はといえば、中学生時代に耳にした曲が2つ。
NHKの番組に「夢であいましょう」という音楽番組があって、男性四人のコーラスグループ「ダーク・ダックス」と人気を二分した「デューク・エイセス」が歌う「おさななじみ」・・・おさななじみの思い出は、青いレモンの味がする・・・

レモンは、今のようにポピュラーな果物ではなく、喫茶店でレモンティなどを注文するようになるのは、当分先のことであったから、当時、「青いレモンの味」とは一体どのような味なのか、とても興味がわいたものだった。

ちょうど同じころ、ラジオではナンシー・シナトラが歌った「LIKE I DO」という曲が
流れ、それをザ・ヒットパレードという民法の歌番組で、ザ・ピーナッツという双子の姉妹が歌っていた。

大学生になって、この曲の原曲が、「ポンキエルリ」というクラシックの作曲家の歌劇「ラ・ジョコンダ」の中の「時の踊り」であることを知ることになった。

ザ・ピーナッツは、他にもベートーヴェンの「エリーゼのために Fur Elise」の編曲「情熱の花を歌っていた。

60年代の初めは、クラシックとポピュラー音楽があまり優れちぇいるとは言えない編曲で結びついた時代の始まりでもあったようだ。

散歩中の柑橘類の樹木になっている果実から、音楽へと話が発展してしまったが、そのような展開も悪くはないだろう。

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by noanoa1970 | 2008-11-17 18:38 | 季節の栞 | Comments(0)

超レア音盤か

裏庭ではなく、URANIAという米国のレコード会社のもの。
今はCD復刻もされてないようだが、オールドレコードファンには懐かしく、少し羨望のある、そしてかなり珍しい音源をもとにレコード化したメーカーである。

ジャケットも手書きのイラスト風のものが多く、決して垢ぬけはしなかったが、URANIAのエロイカは、フルトベングラーファンの間では有名なレコードであった。

すべてがそうであるかはわからないが、まるでSPレコードのような重量感があって、80年代のウスッペラなレコードの2倍ほどの重さがあり、かなりの安定感がある。

ただし歴史的録音が多く、また多分マスターはオリジナルではないだろうと思われるから、そこそこの音質ではあるが、輸入盤としての音質の素晴らしさはない。

F・コンヴィチュニーのさまざまな録音を集めていた時に入手したLP、おそらくはSPからの焼き直しだろうと思われるこのLPを最近聞いている。

スクラッチ音や、擦り切れたような針音は激しいが、いかにもOFFマイク録音の、戦後のドイツを彷彿させるような音が聞こえる演奏で、古めかしいのだがなかなかのワーグナーである。

この2枚のレコードはいずれもワーグナー「ニーベルンゲンの指輪」、VPL2はパルジファルの音楽も収録されている。

管弦楽団は
ミュンヘン国立歌劇場管弦楽団となっているが、このオケがミュンヘンフィルを母体としたものか、バイエルン国立歌劇場管弦楽団なのか、はてまた当時はこのような名前のオケが存在したが、今はなくなっているのか、さっぱりわからない。

ドイツのオケは数多く存在するし、旧西と東で同じ名称のオケがあったり、統一後東西南北の放送局の名前を冠にしたものが多いため、小生はかなり混乱することが多い。

この録音で不思議なことは、このハイライト盤の大本の録音のことである。
ハイライト専用に録音されたものなのか、それとももっと大がかりな・・・たとえば「指輪」の全曲録音は、コベントガーデン管弦楽団との演奏の存在が確認されていて、小生は「ラインの黄金」だけは裏青盤で所有している。

しかしこのミュンヘンのオケのものは、ディスコグラフィーでも確認できないし、かって世の中に出たことは一度もないと思われる。

コンヴィチュニーの録音は、ソ連が持って行ったままになっているものも多いと思われるから、このあたりで是非とも市場に出してほしいと願うものである。

収録されているものの中から、「ジークフリート牧歌」を聞いてみると、1960年ごろウイーン交響楽団と録音したステレオ録音と、ほとんど似かよった演奏スタイルであることに驚嘆してしまった。

恐らくこのURANIAのモノラル録音は1950年代初期のものだと思われ、10年時を経てオケも異なるのに、ほとんど変化させない、頑固で強靭な解釈は好感が持てた。

雑音の多いLPだが、CD全盛の中、たまにはこのようなものも悪くない。
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by noanoa1970 | 2008-11-15 15:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

プレジデント掲載のコラムに・・・

学生時代のサークルDRAC:同志社大学レコード音楽研究会の先輩の記事が雑誌「プレジデント」「人間邂逅・世界で一番」というコラムに掲載されました。

水戸室内管弦楽団の館長として95歳という高齢ながら活躍され、根強いファンも多く、DRACでも信奉者が多かった「吉田秀和」さんについて書かれたもの。

業界の中で媚びる音楽評論家が多い中、吉田さんは独特の感性と美学と楽典を基本にし、加えて彼の生きざまともいえるような、思慮深さを持ち合わせた類稀な人物です。

記事の作者の福田先輩は、小生が参加することになったDRACで現代日本音楽Gのリーダーとして活躍し、1967年当時日本人作曲家に向けて、その動向を探るべく、数百人にアンケートを実施した人でもあり、学生時代小生が強く影響を受けた人物の一人でもあります。

プレジデントの記事を掲載させていただきます。

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by noanoa1970 | 2008-11-15 13:41 | DRAC | Comments(0)