<   2008年 09月 ( 32 )   > この月の画像一覧

彼岸花

彼岸花の季節だ。
2005年 07月 28日のブログ「彼岸花」の「赤」で、小生は小津の「彼岸花」の赤について書いたことがあった。

同じく『自己主張する「赤」』で、「赤」は女性の自己主張の象徴であるという仮説を立ててみたこともある。

小津の「赤」の使い方は、とても巧妙である。

「彼岸花」の映画タイトルは、その時は「赤」つながりだとばかり思っていたのだが、それに加えて、先ほど面白いことに気づいた。

ご存知のように彼岸花は、秋分の日・お彼岸近くなると一斉に咲きだす。
これはたぶん体内時計を持っているためだと思うのだが、映画では娘の婚期が題材の一つとなっている。

それで、娘は「時期が来れば自分で結婚の意思を示すようになる」
だから「親は慌てるなかれ、そして娘が一人で咲こうとするのを、邪魔しないでじっと見守ってやるべきだ」

そのような教訓が「彼岸花」の女性の自己主張の象徴としての「赤」とともに塗り込められている・・・ふとそう思った。

youtubeに、映画「彼岸花」の予告編があったので貼り付けておいた。

知多半島の半田市にある矢勝川の堤防に、平成2年から彼岸花の球根を植える「ヒガンバナ百万本計画」が進められ、現在200万本の花が咲いているという。

「ゴンギツネ」で有名な童話作家、新美南吉の故郷でもあることから、最近は人手も多いと聞いている。

半田市観光課のHPはココ

来年はぜひ訪れてみたいところである。

「彼岸花」予告編、これを見ただけでも、随所に「赤」が効果的に使われていることがおわかりになるだろう。


[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-29 13:18 | 小津安二郎 | Comments(0)

似ている曲

久石譲の作曲になる『崖の上のポニョ』の1メロは、シューマンの「楽しき農夫」のメロディによく似ている。

お昼を食べに出かけた車の中で、突然そう思った。

シューマンはなぜか真似られることがある作曲家で、「赤とんぼ」の主要メロディは、「ピアノと管絃楽のための序奏とアレグロ」の中間部に幾度となく繰り返し出てくるメロディとほぼ同じである。

youtubeの動画を、貼り付けておくので「ポニョ」と「農夫」聞いてみてください。

『崖の上のポニョ』


『楽しき農夫』


いかがでしょうか。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-28 13:37 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

音の風景:「海ほおずき」と「麦笛」

西岡恭蔵の「街行き村行き」というアルバムに、「海ほおずき吹き」という歌がある。

このアルバムはこのブログで何度も取り上げている小生の大好きなもので、春夏秋冬それぞれの季節における、街の村のそして海の風景を歌にしたコンセプトアルバムだ。

編曲は恐らく「細野晴臣」だろう。
レゲー、ドドンパ、ボサノバ、サンバなどカリプソの香りが満杯で、ボブ・ディランの要素が色濃いファストアルバム「ディランにて」に続く2作目。
西岡にしては初めての試みのアルバムで、その後「カリブの嵐」へと進んでいく引き金となったものと思う。

「細野晴臣」、「はちみつぱい」のバックミュジシャンたちも息のあった演奏をしている。

この歌詞の中に「海ほおずき」と「麦笛」という、懐かしい子どもの遊びが登場する。

「麦笛」は、小生もよく鳴らしたもので、たぶん麦を刈り取って天日干しにした後、茎の部分(昔は天然のストローとして使用され販売もされていた)を20㎝ほどに切って手元を斜めにカットすれば、少し低い音でブーとかピーとか鳴る笛が即座に出来上がった。

小生は「ほおずき」は知っていたし、鳴らしたことはあった・・といっても口の中で潰すと音がブッと出るだけのもので、潰しては空気を入れ潰しては空気を入れることで繰り返し音を出して遊ぶのだが、すぐに「ほおずき」の皮が破れてしまい、おまけに酸っぱ苦いほおずきの実の味がしてあまり好きではなかった。

しかし「海ほおずき」というものは全く経験がない。
海のそばに住んではいたのだが、「海ほおずき」というものを見たことも、鳴らすのを聞いたこともなかった。

ただ「海ほおずき」を歌った古い歌のかすかな記憶では、「わたしゃほおずき海ほおずきよ・・ドンブラドンブラ・・・・」と「海ほおずき」の存在は知っていた。

調べると「海ほおずき」は、赤い実の植物とは全く違って、ナガニシ貝の卵であり着色されたものが駄菓子屋や縁日などで売られていたとあったが、小生はいまだかって見たことがない。

いったいどんな音で鳴るのだろう。


d0063263_14471438.jpg
西岡恭蔵「街行き村行き」より「海ほおずき吹き」
初秋の海が近い村の風景と、そこに暮らす少年の少女への思慕が歌われている
郷愁誘われる歌だ。

灰色蜘蛛が虹色の
家を編んだ野苺沿いに
薄紅色のお化粧落とす
夕暮れ小道ゆきましょう

君が差し出した人差し指に
迷いトンボが止まって逃げると
もうそろそろ秋の風

海ほおずき吹き帰る道
夕焼け影絵の峠の君に
だまったままでまた会いましょう

丘を越えたら君の住む
白いお家が見えるまで
一人の時のさみしい歌を
好きだという言葉に替えて


糸雲ひいた夕焼け空に
ホホ染め君は麦笛吹いて
峠の雁におやすみなさい

海ほおずき吹き帰る道
夕焼け影絵の峠の君に
だまったままでまた会いましょう

海ほおずき吹き吹き

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-27 15:02 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

散歩道で去年見つけた不思議な花。
その時は八重の「木槿」だと思っていた。

今朝散歩の途中で立ち止まって見ると、1本の木にピンクと白の花が同時に咲いていた。

確か去年も同じ光景を見たのだが、今年は新たな情報があって、それによるとその花は「酔芙蓉」ではないのかという思いがした。

それで、散歩から帰ってデジカメを持ち、撮影することにした。
家内に見せると去年同様「八重の木槿」だという。

木槿ならばなぜ酔芙蓉のように花の色が変化するのか不思議であるから、調べたが、色が変化するのは「酔芙蓉」としてあった。

撮影は午前8時ごろ、今朝は快晴でもう太陽が上っている時間だが、両脇が木立の遊歩道は陽のあたり方がまばらである。

そのせいだと思うのだが、つぼみは全部が薄いピンク、咲いているものは薄いピンクと純白両方ある。

酔芙蓉の特徴は、朝は白い花を咲かせるが昼から夕方になるとインクから赤い花に変化する。
その様が酒に酔う様子と似ていることから「酔芙蓉」とされたという。

同じ気にピンクと白両方の花が見られたのは、日当たりと個体差がその要因であろうと考えるのだが、もしこれが酔芙蓉でなく木槿だとしたら、同じ気に白とピンクの花が咲く木槿があるということになる。

花を見ただけでは、見分けがつきにくく「葉っぱ」の計上を見る必要あり・・・そう記されているものを見つけたので、また引き返して今度は、明らかな木槿の葉っぱと正体不明の物の葉っぱ両方撮影してきた。

明らかに違うように小生には見えるが、家内は同じ種類だといい、やはり「木槿;」だと言って譲らない。

夕方再度現場に行って見て、白い花がピンクか赤に変化していたら、「酔芙蓉」の可能性が強まると思うのだが、それまで待ちきれなく書いている。

葉っぱの形状と花を見て、酔芙蓉か八重の木槿かがお分かりになるだろうか。

小生は酔芙蓉であって欲しいと思うのだが・・・・

花には判別が難しい種類がかなりあるという例を実感した次第。
今夕が楽しみだ。

酔芙蓉と思しき花
d0063263_10234784.jpg
d0063263_10242294.jpg



木槿の花
d0063263_10245190.jpg


裏庭に修学院から持ってきて植えた芙蓉があるというので、それぞれの葉っぱをスキャンした。

左、庭の芙蓉の葉。中、酔芙蓉と思しき葉。右、遊歩道の木槿の葉。

葉を比較すると、明らかに芙蓉と木槿は違う。
どうやら酔芙蓉と思しきものの正体、葉っぱの形状からは木槿に近いようだ。

はたして夕方、花の色の変化はあるのだろうか。

ひとまず結論を持ち越しにしておこう。
d0063263_10391642.jpg

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-27 10:30 | 季節の栞 | Comments(0)

トンボつり

木曽の高原に期待した赤とんぼの姿は、見当たらなかった。
家内は、稲が色づいた田圃の畦道に数匹飛んでいたというのだが、小生が行ってみたところでは、その姿はあいにくなかった。

去年のお盆過ぎには、そこらじゅう群れをなして飛び交う赤とんぼを見ることができたのに・・・

朝夕の気温が低くなったせいで、トンボは低地の里に下りてしまったのだろうか。
そう思って道中注意して見ていたが、ついにトンボの群れに遭遇することは出来なかった。

トンボの姿があまり見れなくなったのは、ずいぶん前のことだが、そういえば、今年の夏はどうもいつもと様子が違うことを、小生は蝉の鳴き声で知ったのだった。

いつも真っ先に鳴き始める、ニイニイゼミの姿が全くなくなってしまったこと、そして次にはあのやかましい声でなくアブラゼミが続くのだが、今年はそれより早くクマゼミが鳴き始め、それが長く続いた。

ギンギンギラギラのアブラゼミの声がほとんど聞こえないから不思議と思いつつ、しかしクマゼミの声ばかりが聞こえると、いつものあのギラギラ声が懐かしくなってくる。

盛夏とアブラゼミの声は、どうも小生の中では対となっていたようだ。

夏の終わりから初秋にかけて鳴くツクツクボーシの声は、夏が完全に終わったことを告げるように、昨日あたりから聞こえなくなった。


「トンボ」が昔のように見られなくなってしまったのはとても残念なことで、昔の人は日本を「秋津島」・・・トンボの島であるという表現をしたぐらい、トンボと我が国の縁は深く長い。

昔はトンボを捕まえるのには、道具などは不要で、人差し指1本あれば事足りた。
停まっているトンボに人差し指をクルクルと回しながら近付くと、トンボの目玉はそれにつれて、グルグル動く。

だんだん近づきサット手を伸ばせば、たいていのトンボは捕ることができたのである。
嘘のような話だが、これは事実。小生はこの方法で相当数のトンボを捕まえた。

しかしそんな方法では決して捕ることができない大物が「銀ヤンマ」、そしてそれは少年の憧れのトンボでもあった。

話はそれるが、「トンボ」が出てくる詩や俳句で、思いつくものは以下のようなもの。

小生の好きな西岡恭蔵の「街行き村行き」の中のリリシズムあふれる名作。

「ひまわり村の通り雨」先ほど聞いて起してみたのが以下のようなもの。
「トンボつり」という言葉が使われている。

通り雨の村に蓮の葉咲いた
君と僕とで相合傘の夏の雨
空吹く風が雨雲呼んだら
トンボつりの村道畦道
かすみかけて通せんぼ
肩をすぼめてべそかき顔で川沿い道を
君と抜ければ空で雷ゴロリ
通り雨

村の外れの社の下の
背中合わせの頬杖顔さ君と僕
通り雨

残り雨一つ
お地蔵さんにおちりゃ
わらぶき屋根にモコモコ雲と蝉しぐれ
じいちゃんばあちゃん眠ったふりさ
退屈そうなひまわり村の雨上がり

思わせぶりに
空を渡る七色虹に
君と二人で小舟を曳いて村抜けて
通り雨

季節はずれの釣鐘草が
わかっているのかうなずき加減の
ひまわり村の通り雨
通り雨


さらには以下のような俳句が浮かぶ。

とんぼつりきょうはどこまで行ったやら 加賀千代女

とんぼ捕ろ捕ろその児のむれにわが児なし 山頭火

蜻蛉(とんぼう)の羽に輝く夕日かな 正岡子規

上2つは、今は亡き子供を子供が好きだった「トンボつり(取り)の思い出とともに詠んだ句である。

山頭火の句はわが子と、子供を捕られてしまった親トンボをかけているようにも読めるから、トンボを捕まえてむやみに殺さぬように・・・という思いもあったかもしれない。

子規の句は、誰でも経験することを詠んだ句のようで、何の変哲もないように見えるが、鮮やかにその時の光景がよみがえってくるようでいい句である。

「トンボつり」
この言葉で思い出すことがある。


小学2年生のころ、国鉄の蒸気機関車準急「比叡」の三等席に座って、車内販売の「アイスクリーム」を買ってもらって、京都の母方の実家に行ったことがあった。

「円町」の近くに、祖母と母親の兄、妹、弟が暮らす実家があって、夏休みになると出かけて行って1週間ほど滞在した。

兄は芸大(上野音楽学校)を出たが、父親が早くに亡くなったので、音楽の道に進むことを断念し、京都で高校の音楽教師となった。

山城高校で教鞭をとっていて、教え子にはサッカーの「釜本」がいると後に聞いた。
小生は母親の兄、すなわち伯父の影響を多分に受けて育った感がある。

遊びに行くと、必ず音楽を聞かせてくれ、小生に音感があるか否かを試すように「ドファラ」の音を歌わされることもあった。

聴かせてくれたリストの交響詩「前奏曲」は、今でも記憶の底に存在している。

音学、そしてオーディオはもちろんだったが、驚いたのは1956年、NHKが「ハイウエイパトロール」という米国のドラマを放送したとき、すでに内部がむき出しのままの自作のテレビが伯父の家にあって、見せてもらったが字幕スーパーだったから、何をやっているのかさっぱりわからなかった思い出がある。

音の良いラジオを作ってもらって、風呂敷堤に包んで持ち返った。
そのラジオを高校生時代まで愛用し、海外の音楽やラジオ講座の恩恵は、そのラジオのおかげであった。

1週間も実家にいると、自然に隣近所の子供と顔見知りになる。
「地蔵盆」の催しに誘われたり、近所のお寺や酒蔵に「清掃奉仕」・・・(もちろんお駄賃のお菓子目当てだったのだが)に誘われてついて行ったこともあった。

実家の前の道路を挟んだ向かいには、護岸された深い「堀」があって、夕暮れ前になると、近所の子供たちが三々五々集まってくる。

橋の手前には駄菓子屋があって、5円か10円を持って、どれにするか迷いながら選択の時を過ごすのも悪くなかったし、そうするうちに、コウモリがヒラヒラ飛ぶのとともに、憧れの「銀ヤンマ」が群れをなして滑空し、ユスリカなどの昆虫を捕獲する光景が見られるのだった。

ヤンマが飛ぶのを見ていると、少し年長の子供が見たこともないものを空中に向って投げているのが目に入った。

空中に投げられて、落ちてきたものを見ると、それは縫い糸のような細い糸に結ばれたものが両方につけられた振り子のようなもので、それが「トンボつり」の、しかも銀ヤンマを捕獲するための道具とわかった。

仲良くなった実家の隣の家の子に頼み込んで、その道具の作り方を聞いたが、「難しいし、はじめてではなかなか捕まえることができなし、投げるのもかなり困難だと、否定の言葉が返ってくるのだった。

しかし見る限りでは「独楽回し」・・・普通に独楽を回すのではなく、住んでいた田舎で流行ったのは、その上級編で、化粧品の入った空き瓶の蓋の上に独楽を引っ張り回して乗せ、それを左手に持って、もう一つの手で持った紐をぐるぐる回しながら追いかけっこをし、紐で逃げる相手を触れば勝ち・・・そういうゲームを修練していた小生だったから、投げるのはどうってことはないと踏んでいた。

あとはその道具の作り方さえ分かれば、自分であの憧れの「銀ヤンマ」を捕まえることができる・・・そう思っていたのだった。

近くに落ちてきた道具を、拾ってあげる振りをしてよくよく見てみると、糸は縫い糸で、両脇につけてある錘のようなものは、中に小石が挟まれて、特殊な紙で包みこんであることが分かった。

それですぐに実家に戻り必要なものを持ってきて作ってみたが、紙に包んだ小石は投げた途端すぐに解けてしまい、空へとは舞い上がらなかった。

包み紙はキャラメルの包み紙をもっと薄くしたようなもので、それがなんであるか想像もつかなかったが、何回もやり直す小生の姿を見かねたのか、中に親切な子供がいて、これを使うといい・・そういって小さな紙を渡してくれたのだった。

うちとけたその少年に紙の素性を聞くと、橋の向こうの駄菓子屋の隣に印刷屋があって、そこにから廃棄されるものがその紙の正体だという。

「謄写版」の「原紙」がその正体で、柔らかくて丈夫、捻っても元に戻りにくい、そして水分をはじくから、もってこいの材料、しかも只で手に入る。

子供の知恵はすごいものだ、お金が全く掛からない方法を編み出して、しかも最高峰のトンボを捕獲しようとは・・・・

早速同じようなものを作って、投げるのは得意とばかり、滑空する銀ヤンマをめがけてその道具を空中に投げてみた。

投げ方を教えてもらったわけではなかったが、見よう見まねで道具のV字の真ん中に人差し指を入れて、反動をつけて投げると、思いのほかそれは空高く舞い上がっていって、銀ヤンマは多分それを虫と勘違いするのだろう、追いかけるしぐさをするのが見えた。

これは魚釣りのルアーフィッシングかフライシッシングと同じ原理だから、うまくいけば、トンボは無視と勘違いして食べにくる。
すると細い糸が絡んで、トンボが落ちてくるという仕掛けなのだ。

小石のほうがトンボより重いから先に地面に落下する、したがってトンボのダメージは少なくて済む。

トンボの習性を利用した「トンボつり」の技法とその道具は、誰が考え出したのだろうか、フライフィッシングにも匹敵する面白い釣りの方法である。

さて小生の釣果は、3投目に突然やってきた。
空中で道具を追った銀ヤンマの体に偶然意図が絡みつき、道具とともに憧れの銀ヤンマが足元近くに落下したのだ。

周囲の子供たちが歓声の声を上げるのを聞きながら、悠然とそして自慢げに糸を解いて、実家に戻るのであった。

実家の隣の子供の、小生を見る目が変わったのはそれからだった。

これが小生の「トンボ(銀ヤンマ)つり」の大切な思い出である。
[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-24 09:14 | 田舎で遊ぶ | Comments(0)

canna

昨朝急に話がまとまって木曽へと墓参りに向かうこととなった。
7月初めからの愛犬シバの闘病生活のこともあって、春の彼岸にお参りしてから、もう半年、かなり間が空いてしまった間に、お墓の周りはすっかり様子が変わってしまっていた。

お墓は新しいものが増えてきて、緑に囲まれていた周囲は、木立や木藪が切り取られて裸同然となり団地の様相を呈していた。

スッカリ見渡せるようになったのはよいのだが、これだけ木立を伐採され周囲が明るく開けてしまうと、お墓の厳粛な雰囲気が無くなったようで、先祖に申し訳ない気持ちだ。

なんでも地区の消防団の計らいで、乾燥時の森林火災防止、そして熊の出没の危険回避のための措置であると聞いた。

お盆やお彼岸のお供え物を狙って、熊が出るのだろうか、そういえばつい最近も人間の住む領域に熊が出没したし、近所のかなり交通量がある交差点のど真ん中に、猿が出現し、悠々としていたのを目撃したこともあったから、野生の動物たちが里山からさらに人間の住む領域に接近したことを体感した。

d0063263_10342288.jpg
d0063263_103532100.jpg
小生の先祖の墓は、昔から箱型に周囲を小藪で囲ってあったが、幸いなことに、私有地ということなのか伐採されてなかったから、ここだけは「団地型墓地」という感覚はなく、昔の面影を残せることとなった。

墓標の前にいれば、周囲の変化にがっかりすることはないが、しかし少し離れると団地のようなお墓の数に圧倒されてしまうこととなる。(と言っても都会の大型墓地とは比較にもならない規模なのだが)

邪魔する木立がないから、木曾駒ケ岳眺望のパースペクティブは抜群だし、木曽駒カントリークラブの〇番ホールも見通せるようになり、陰陽のメリハリがハッキリするようになった。

お墓には、最近誰かが来たらしく、花はすでに枯れた、「カンナ」の大きな葉っぱだけが残るのを発見した。

近くにある叔母の墓にも同じものがあったから、両方に縁のある人が来たのだろうと
推測はできるが、確証はない。

そして「カンナ」を供えたことに、小生の関心は移っていった。

小学生の低学年時に住んだ家の近所の農家の家の庭に、今頃になると大きな赤い花が咲くのを見て、なんとすごい花なんだろうと子供心に思ったことがあった。

そしてなぜか小生の心の中では、その赤い花は「大きくて派手だが、どこか悲しげなところがある花」という印象が強くなり、それは今でも続くこととなった。

どうしてそう思うようになったかを思い起こすと、それはどうもある歌のせいであるという結論を得ることとなった。

「カンカンカンナの花咲けば、赤いカンナの花咲けば、優しい母さん思い出す・・・・」

ラジオだったか・・・当時の音楽的情報源は、ラジオか保育園、小学校の音楽の時間、そして母親が歌っていた歌、悪ガキどもが歌う歌・・・のいずれかしかない。

しかしどれだったか、その情報源は覚えていないが、メロディと歌詞の一部、そしてその歌を歌った歌手の名前はなぜかハッキリ記憶にある。

タイトルは覚えていないが、歌った歌手は「松島トモ子」。
目の大きい童謡歌手で、一番最近の話題は、どこか外国の動物園でライオンに噛みつかれ、大怪我をしたということだった。

小生は童謡歌手としての認識のほうが強いが、調べると女優としても活躍していて、小生の「カンナ」の思い出の歌は、1955年の映画「赤いカンナの花咲けば」の主題歌であったことが分かった。

55年というと、小生が7歳だから小学校1年生だ。
やはり知多の聚楽園のころである。

農家の離れを借りて住んでいたから、農家の庭に咲いた「カンナ」を見たのだということを確信することとなった。

それならば、大柄で派手なカンナをなぜ「悲しげ」であると思うようになったのだろう。

そのヒントは、映画「赤いカンナの花咲けば」にあった。

映画「赤いカンナの花咲けば」のストーリーはざっと以下の通り。

主人公トモ子(松島トモ子と同じ名前だから、おそらく満州引き揚げの子供だった松島自身の経歴と映画はダブルのだろう)は兄がいたが、ある時自身の素性を母から聞かされる。
それは満州から引き揚げる時に、ある女性から託された子供が自分で、今の母親は実の母親ではなく、兄は実の兄ではないという事実。

それでも生みの母の形見の「ボタン」をつけながら、強く生きて、とうとう歌手になって、昔満州で流行ったという「赤いカンナの花咲けば」を、ラジオで歌ったところ、それを聞いた母親とようやく再開することができた・・・というストーリーであった。

むろん小生は映画を見てはいないし、その話も、まして映画になったということも知らなかったが、なぜかその主題歌とそれを歌った「松島トモ子」は知っていた。

この映画を見た誰かに聞いたのか、当時ラジオでこの主題歌がよく流れたのかは、今となっては分かろうはずはない。

母親が歌っていたという記憶もないし、映画の話を聞いた記憶もないのだ。

しかし小生の中の「カンナの花」は、「表面的には派手であるが、実はその影でとても悲しい花」として今も存在している。

d0063263_10363355.jpg
d0063263_10365479.jpg
いつもの遊歩道に、たった2本だけ、ポツンと「カンナ」が咲いているのを見つけ、今朝写真に撮った。

先祖の墓に供えられた、カンナの名残の大きな葉っぱを見つけたのが、昔住んだ田舎の町の農家の庭に咲くカンナの思い出と、どこか悲しげなカンナの歌につながった。

ちなみに、歌の作者は「古関裕而」である。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-23 10:37 | 季節の栞 | Comments(0)

密室の恋

刑法だったか民法の講義だったか、学生時代「未必の故意」という法律用語の解釈が難しくて苦労したことがあった。

「未必の故意」:ミヒツノコイを忘れないように、「密室の恋」:ミッシツノコイと覚えたこともあった。

農水省役人の汚染米売却は、「未必の故意」:思わしくない結果を事前に予想しておきながらも、なお、その行為に及んでしまった。
であろう。

また転売をした「三笠フーズ」は、「確信犯」:自己の利害のため、思わしくない結果に終わることを承知の上で実施した。

いずれも司法の徹底捜査介入が必要であるだろう。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-21 09:56 | トピックス | Comments(4)

ミニマムアクセス米・・・その誤解

ウルグアイで開催された、貿易の自由化や多角的貿易を促進するための通商交渉が「ウルグアイラウンド」である。

その会議でで決定されたのが、最低輸入義務(ミニマム・アクセス)であった。

ミニマムアクセスは「義務」であるから、たとえば、外国から一定量の「米」を、必要もないのに、輸入しなくてはならないこと・・・そのように世間では言われてきたし、昨今のマスコミや政府の報道でも同じように受け止れる発言が多い。

気になって調べると意外なことが判明。

「ミニマム・アクセスとは、最低輸入機会ともいわれ、高関税による事実上の輸入禁止を撤廃する事が目的で作られた。過去(1986年~1988年)において輸入実績が国内消費の3%以下の品目に関しては、低関税での輸入が決められた数量まで一次関税(低い関税)で輸入を、その枠を超えたら二次関税(高い関税)の適用を行う制度であるよく間違われるが輸入量が義務づけられている訳ではない事に注意が必要である。」

わかりにくい説明だが、

関税化とは、輸入数量制限のような非関税措置を撤廃し、通常の関税により輸入量の調整をはかることをいいます。日本はウルグアイ・ラウンドにおいてコメの例外なき関税化を延期する代償としてコメにおいては他品目よりも厳しい輸入枠を受け入れた。

国産の米を守るために、輸入米の関税化(≒自由化)を延期する代償として、政府が輸入米を税金で買い取ることにしたということ。(背景にはもう一つ、車や工業製品輸出の円滑化というものがありそうだが)

ウルグァイ・ラウンド農業協定そのものは、ミニマムアクセス枠全量の輸入を義務付けているわけではない。しかし、日本においては米の輸入について、政府統一見解に基づいて「輸入を行うべきもの」とみなし、全量を輸入してきた。この見解は、羽田内閣が1994年に、「ウルグァイ・ラウンド農業協定におけるコメのミニマム・アクセス機会の法的性格に関する政府統一見解」という題で衆議院予算委員会に提出したものである。この中で政府は「法的義務の内容は、(中略) 輸入機会を提供することである。」とした上で、「但し、コメは国家貿易品目として国が輸入を行う立場にあることから、(中略) 当該数量の輸入を行うべきものと考えている。」との見解を示している。政府は一貫して、全量輸入が義務であるかのような印象を与える説明を続けている。

よくわからない政府の説明だが、要するに、ミニマムアクセス米の輸入量が決められているわけではないのに、なぜか政府は76.7万玄米トンを輸入し続けて来たことは確か。

輸入先の1番手はアメリカであることは一体何を物語るのだろう。

工業製品輸出のバーター取引として、使い道のないコメを輸入してきたと思っても差支えないかもしれない。

今回の事件は、事故米にとどまらず、輸入備蓄米が相当ダブついてきて、このままではコストアップでどうしようもないとする苦慮から出た悪知恵なのかもしれない。

ミニマムアクセス米輸入は義務ではないし、取引量なども義務付けられてないことを知っておくことが必要だ。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-18 11:30 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

黄変米事件と寿司酢のお話

寿司の歴史に詳しい人なら、昔は寿司酢に「赤酢」を使っていたということをご存じだろう。

「赤酢」は酒粕から作るから、寿司で日本酒とはオツなもの。
ぜひ赤酢の酢飯で握った寿司を食べたいものだと思っていた。

今から5年ほど前の話、わが町桑名の町に酢飯が少し変わった寿司屋があると聞いて行ってみると、ご飯の色が少し黄色っぽい酢飯で握った寿司を出してきた。

この店の大将は、かなり年期の入ったと思しき江戸前の寿司職人で、なぜか蕎麦の話になって、小生が石臼を挽く真似をすると、「お客さん、あんたの話は本当だ、石薄の回す方向がキチンとあっている。知らない人や最近流行りの中途半端な蕎麦打ちと称する人は、たいてい時計回りに石臼を挽く真似をする」などと嬉しいことを言ってくれるのだった。

さらに、様子で「食」に関心があるか否かを判断しているようで、「美味しそうに食べる人」は「食」に強い関心がある人だと、小生の寿司の食べ方を褒めるから、実によい気分になったことがあった。

いつも食べる酢飯に比べ、酸味が非常に丸く、旨味も香りもたっぷりで、魚臭さを緩和するのにも都合がよかったのか、江戸時代には主流だったという。

酒造元から安く酒粕を仕入れて、それをお酢にすれば、コスト面でも助かるし、おまけに旨味があるとくれば、こんな良いことはなかったことだろう。

大将が言うには、今では「赤酢」を使っている寿司屋は、本当に少なくなってしまったと、残念そうに言うのであった。

昔から江戸前の寿司は「赤酢」で握るのが当たり前だったと。

現代人の感覚上、問題があるとすれば、ただ1つ、ご飯の色が黄色っぽく色づけられることだ。
マグロの赤身と少し黄色っぽい酢飯は、少々バランスは悪そうだ。

しかし味は素晴らしくよい。
小生は「味」を優先するし、出された寿司はすぐに食べてしまうほうだから、全く問題はない。

寿司にピッタリの「赤酢」が、今ではあまり使われなくなってしまったのは、見た目のせいなのか、それとも「赤酢」事態の供給量が少なくなったからか、あるいはコスト高が原因なのか、アレコレ考えてみたが、原料の酒粕は今でもたくさんあるだろうから、コストではない。

それで小生は、製造方法に困難なところがあるのだろう。
だから少量しか生産だれない。
したがっていつでも潤沢に使えるわけではないこと・・・

それに見た目の問題が加わって、今ではほとんど…よいものなのに使わなくなってしまった、そのように解釈していた。

それからしばらくして、「赤酢」のミニ知識にと、調べてみると、意外なことがわかって、今騒いでいる「汚染米事件」と妙に符合するのに驚いた。

江戸時代から戦前の江戸前寿司は、「赤酢」が使われてきたが、それ以降ほとんどが「白酢」という米から作った酢を、砂糖を加えて使用してきた。
赤酢は、砂糖など加えなくても、そのうま味が引き立つ酢だったから、江戸前寿司の職人は、赤酢をストレートでご飯に合わせた。

ところがある事件から、「赤酢」の寿司飯使用が難しくなってしまったというのだ。

その切っ掛けとなったといわれているのが、「黄変米事件」である。
ウイキによると

「戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた。1951年12月にビルマ(現 ミャンマー)より輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ、1952年1月13日に約1/3が黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた。(黄変米とは、カビがはえて黄色く変色した米のこと)

すぐに厚生省(現 厚生労働省)の食品衛生調査会で審議され、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給には回さない事が決められた。基準を超えた米はやむを得ず倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から続々と黄変米が見つかり在庫が増え続けた。配給米の管理を行っていた農林省(現 農林水産省)は処分に困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないという詭弁を用いて、当初の1%未満という基準を3%未満に緩和し配給に回す計画を立てた。

朝日新聞が1954年7月にスクープしたことで世論の批判がおき黄変米の配給停止を求める市民運動などが活発化することになる。在野の研究者も黄変米の危険性を指摘したが政府は配給を強行し、配給に回されなかった米についても味噌、醤油、酒、煎餅などの加工材料として倉庫から出荷しようとした。

世論の強い反発のため黄変米の配給は継続できなくなり、同年の10月には黄変米の配給が断念された。このため、黄変米の在庫は増え続ける一方となり、窮地に陥った政府は1956年2月に明確な安全性の根拠が無いまま、黄変米を再精米し表面のカビを研り落として配給を行う政策を再度発表する。

政府は少ない外貨を効率的に利用し、食料と復興のための必要物資を調達しなければならなかった。このため、外国で米を調達する際には価格優先で低品質のものを選択する以外なく、輸送の船も荷物を安く運べさえすれば良いという選択肢を取らざるを得なかった。結果的に、輸送中に米にカビが生え黄変米となってしまった。貴重な外貨で手に入れた物資だっただけに捨てる事もできず、新たに輸入するにはまた外貨が必要となるので、何とかして当初の目的どおりに利用しようと考えた為に発生した事件である。」


戦後の食糧難の時代という時代背景があったが、その時の政府のやろうとしたこと、今の農水省の役人がやったことと全く同じである。(農水省の役人は、このときのやり口を学習していて、密かにやってしまえば、わからないなどと思っていた節さえある)

当時国民の間で有名となったこの悪行黄変米事件は、思わぬ展開を見せることとなる。

その頃ある寿司屋に入った客が、「赤酢」の酢飯で握った寿司を見て、「お前のところの寿司は黄色っぽい色をしている、ひょっとして黄変米を使ってるんじゃないか」といったことが騒ぎとなり、風評被害にまで発展しかねない様相を呈したという。

そのことがあって、ほとんどの寿司屋は、従来の「赤酢」から「白酢」に切り替えることになったといわれているのだ。

もちろん戦後だから、酒の生産量は少なく、したがって酒粕の供給量が少なくなって、「赤酢」自体の供給量が減ったということもそれに拍車をかけたのだろうが。

しかしそれにしても、現在の農水省の役人の手口は、実に巧妙かつ狡賢い。
汚染米の流通がどうなるかの予想ぐらいは、素人でも少し考えれば推測可能なのに、どのようなものがエンドユーザーになりえるのかということが予想できないはずはない。「知っていてわざと見過ごした、見逃した」

もしこのことがバレなければ、汚染米の有効処分功労者として、省内で評価が高いのだと思うと、このような確信犯的「売国奴」は、絶対に放置できない。

国会議員諸氏は、すぐに公務員法を改正し、懲戒処分のハードルをもっともっと低く設定する必要があるだろう。

国民の生命や安全を売るような輩は、もはや「公僕」ではない。

行政改革などという獣道に入って、何年もがいてきたのか。
公務員法の処罰規定を強くするほうが先で、法律を作ることが君たちの仕事なんだから、いつまでも茶番劇をやり続けて、国民の目をそらすようなマネをして欲しくはない。

まず法律を策定して、それから組織にメスを入れなければ、政権が変わろうが、誰がTOPになろうが、事態は変わらない。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-17 18:09 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

近所で見つけた「アールデコ」風

我が家のすぐ近所にある、小さなショッピングモール。
このところ入れ替えが激しく、当初からあった店は2件だけとなった。

前から気になっていたその店の店舗デザインは、アールデコのような感じ。
エントランスを斜め方向から見ると、20世紀初めのモダン建築の様相を呈しているのに気が付いた。

チョットばかし「アールデコ」。

d0063263_9232511.jpg
d0063263_9234787.jpg
d0063263_924356.jpg


何をやっている店かというと、それがビックリ。
なんと焼き肉屋なのである。

小生は1度行って、ビールと「ハラミ」を食べたにすぎないが、いつも購入する肉屋のものに比べても、肉質は大したことはない印象を持ったのだが、それでもそこそこの人気があるようだ。

焼き肉屋とアールデコ・・・どう考えてもつり合いはよくないが、斬新だ。

[PR]

by noanoa1970 | 2008-09-17 09:31 | 骨董で遊ぶ | Comments(0)