「ほっ」と。キャンペーン

弾圧

先日「北京の55日」について触れたブログを書いたが、これは西欧列強の東アジア植民地政策の一環で、その先兵としてキリスト教宣教師を送り込み、思想、文化、を含む宗教的見地から、西欧化促進をしようとした、西欧の(キリスト教信者の国々の)歴史的な常套手段であるともいえる。

清朝は、義和団と手を結んで、体制を崩しかねない宗教的勢力増大を恐れて、キリスト教徒を弾圧したという歴史がある。

もっとも、当時のキリスト教徒たちの中に、利権を持つものが多く出現し、そのことと列強の清支配の動向とが重なってのことでもあるのだが・・・

さて、昨夜の夜のニュース番組で、興味深いことをやっていて、それは中国政府の中国内の宗教弾圧、特にキリスト教信者に対しての実態であった。

先にも述べた通り、歴史的には、中国のキリスト教は、清朝末期から始まる列強各国の中国支配に賛成したとして、毛沢東政権下の文化大革命時に聖職者の追放や逮捕、教会の破壊などの弾圧をしたという事実があるようだ。
義和団事件当時にも、中国のキリスト教信者たちは、列強・・連合国側の見方をしたという。

籠城した連合国大使館には、中国人クリスチャンも多く逃げ込んできており、彼らが籠城の上で多くの重要な役割を果たしたことは否定できない。彼らは戦闘は無論、見張りや防衛工事、消火活動、負傷者の救護、外(連合軍)との秘密の連絡をこなたという。

義和団事件で活躍した柴五郎は、のちに「耶蘇教民がいてわれわれを助けなかったならば、われわれ小数の兵にては、とうてい粛親王府は保てなかったかと思われます」、「無事にあの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお陰でした。そのことを明らかにすると、彼らは漢奸として、不幸な目にあうので、当時は報告しませんでした」と回顧している。

彼ら、中国のキリスト教信者たちが漢奸とされるのは、紅衛兵が活躍した文化大革命時、その時から今日まで、中国政府のキリスト教弾圧が続いているということになる。

また「漢奸」というところに、漢民族以外の民族や宗教を認めたくないという情念の1つが垣間見れるように思う。

ある説によると、中国におけるキリスト教信者は、地下組織も含め約7000万人で、これは中国共産党員の数に匹敵するという。

キリスト教と資本主義、自由主義の相関関係は、マックスウエーバーが指摘するところであることからみても、中国政府が1番恐れているのは、彼ら民衆の宗教的パワーなのだろう。

それに、虐げられた存在の少数民族と、系統は異なるが、カルト集団といわれる「法輪功」信者たちが、もし一斉蜂起でもしたら、共産党政府の存続の危機が一気に来るやもしれない。

邪教として宗教弾圧をしていくことは、中国にとってためにならないこと思うのだが、中国政府が最も恐れるのは恐らくは、民族的宗教的な民衆のパワーであろうことは、想像に難くない。

わが国でもこうした宗教弾圧は、歴史的な事実。
教義の中に、天皇制を批判・排除するようなものがあったとのことで、あの「大本教」は、国家権力から激しい弾圧を受け、団体は物理的に破壊的な崩壊をさせられたという歴史がある。

宗教に、新しい世界を作るという根本思想がある限り、現世界や国家政権を否定することになり、一部には革命思想であるようにも取られることがあった。

国家権力と宗教の対峙関係が激しくなればなるほど、宗教は「カルト」化することもあり、オウム真理教はその典型であろう。


民族は宗教によって支えられ、また宗教は民族を超えて・・・たとえば改宗をも強いうるほど、強い力を持つことがある。

南オセチアとグルジアの問題も、根っこは民族宗教…そして文化の問題である。

小生もそうだが、民族も宗教も日常生活とは全く関係のないところで暮らしている、日本人は、こういうことは歴史から学ばなくては、到底理解不可能なことなのだろう。
でも、理解したとはいえ、実感がわいてこないのが事実だということに、幸せと不幸の両輪が見えるような気がしてならない。

by noanoa1970 | 2008-08-29 09:03 | 歴史 | Comments(0)

魔の交差点

昨夜7時ごろ、シューベルトのピアノソナタ16番、イ短調Op・42D845・・・(のだめがマラドーナ・コンクールの1次で弾いた曲、実は、「のだめ・・・」リバイバル放映をされていたのを見たら、ちょうどそのシーンだったから、聞いてみたのだ)をフォルテピアノで聞いていた。

フォルテピアノとはピアノが発明された17世紀から19世紀初期のころまで使われたいわゆるピアノの古楽器。

演奏者のタッチによって、敏感に強弱が反映されるというのが定説だが、小生は音色も変化するのでは・・と思っている。

近代ピアノより、音の変化点が鋭く、しかも音色は丸みを帯びて優雅であるし、時々弦鳴りも聞こえてくるから、変化がすごく多く、変調の宝庫、明暗の宝庫ともいえるシューベルトには、よく合っているのではないかと思っている。

ちなみに演奏は「ヴァルト・バン・オルト」、ブリリアントのシューベルトピアノソナタ全集からである。

2楽章のアンダンテ、中間部に差し掛かった時、突然奥の部屋のほうから「バーン、ドカーン」という、まるで爆発音のようなものすごい音がし、家がほんの少しだが揺れたような気がした。

「またやったか」・・・
小生の家は三方道路に囲まれた一角にある。
このうち家の北側に面した東西道路は、車がやっと離合できるぐらいの道路幅しかないのだが、幹線道路の抜け道として、朝夕は割と車が多い。

家の西側に面した南北の道路は、道路幅がかなり広く、たいていの車はかなりのスピードを出して通り過ぎる。

事故は、我が家の北西の角の信号のない交差点で起こった。

ここは前から事故が多く、小生が引っ越してきてから20年たつが、そのあいだに大小合わせて10件近くの交通事故が起きている。

中には人身事故が2件あったと記憶している。
それほど事故が多いので、一方通行にして欲しいと、警察に頼んでみた、取り合ってもらえなかった。

そんな経験があったから、「またやったか・・」という、いわば慣れっこ口調が、頭に浮かばざるを得なかったのだ。

たぶん毎度のように、我が家の垣根に突っ込んだのだろうと、デジカメを持って、玄関を出て裏に回ると、そこには驚くべき光景があった。

家の北にある南北の道路の脇には歩道があり、そこには大きな樹木が間隔をおいて、植えられている。

見るとその車は、衝突した後、歩道に侵入し、街路樹を傷つけながら、我が家の垣根の下にあるコンクリートの壁に、ほとんど真っすぐ(少し左に角度は降られてはいたが)突っ込んでいたのだった。

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車の右前面は大破し、前輪のタイヤは、今にも外れそうにひしゃげていて、かなりのスピードで突っ込んだものと思えた。

持っていたデジカメで写真を撮っていると、向こうから「あんたは誰だ」という声がした。

事故の相手の老人だったが、その顔をよく見ると、同じ町内のTさんだった。

なんと、Tさんが事故の相手側の当事者だったのだ。

Tさんは、慣れていたのだろう、狭くて危険なのだが、家に帰る途中、近道のいつもの東西の道路を、南から北へと進んだところ、相手側がかなりのスピードをだして北から南へと直進。

信号のない交差点付近で、Tさんの車の左前部と接触、バンパーが全部はずれ落ち、ヘッドライト周りがへこんでいたが、車は動く状態。

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Tさんを避けようとしたのか、歩道に突っ込んだ車は、おそらく全損状態だと思われる。

しかし不幸中の幸い、怪我は全くない様子にまずは安心したのだった。

被害の当事者でもあったので、そのまま立ち会って、Tさんを落ち着かせながら、警察の事故検が到着するまで、ディーラー、保険会社への連絡などのアドバイスをし、長いあいだ待って、時計を見ると、もうすぐ10時になろうとしていた。

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小生の被害状況が、夜間でハッキリしなかったので、今朝シバのさんのおにいくm、会えに調べると、かなり広範囲にわたってクラックが入っていて、タイヤの跡らしきものもついていた。

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歩道にすっぽりはまる形で突っ込んだのが幸いして、怪我が全くなかったことが、幸いであったが、街路樹の根元が少し抉れていたのが痛々しい。

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今朝の事故現場。愛犬シバがいる付近に事故車の先頭があった。
右にある街路樹の下部はえぐれ、左側のコンクリートの壁にはクラックが多数入った。

それにしても、ちょうど車の幅と歩道の幅がギリギリマッチしていて、良かったことであるし、ダイレクトに樹木か、垣根の下のコンクリートにぶつかっていたなら、大きな怪我をしていたことだろうに。

車はダメになってしまったが、命が助かったのだから、まさに不幸中の幸いだということになる。

それで、昨夜途中までしか聞けなかった、シューベルトのピアノソナタを、今朝再び聞いているが、どうしても昨夜の事故のことが頭に浮かんでくる。

トラウマにならないように、気分転換が必要だ。

by noanoa1970 | 2008-08-28 10:48 | トピックス | Comments(3)

VM-ware

現在使用しているのはDELL製のWIN-XPだが、一度もトラブルらしきものはなく、全く問題なく快適に使えていた。
SP-3が出たということは、XPの人気がマダマダ高いという証拠であろう。

唯一つ問題があるとすれば、最近パソコンを習いに来る人が、時々WIN-VISTAマシンを持ち込んでくること。

操作画面や機動、終了など、そしてワードやエクセルといったOfficeアプリケーションの操作画面も、今までのWINDOWSマシンとかなり違うから、教えにくいし、また覚えにくいと思い、幾度となく新しくPCを購入しようと考えたが、その前に、Office-XP→Office-2007にグレードアップできる、格安なソフトが発売されているのを知り、先日Office-Xpを残したまま、Office-2007をインストールした。

これで、Officeアプリケーションは、全方向だから問題ないのだが、どうもこれだけでは・・・たとえば、大切な「保存」1つ取っても、「終了」1つとっても、VISTAは今までとは大きく異なるから、XPマシンでOffice2007では、誤って覚えられてしまう危険性が強かった。

ただすでに現在4台あるPCに、もう1台追加となると、スペースも経済的にも窮屈だから、思案していて、ある時息子に相談すると、VM-wareというソフトが無料でDLできると聞いた。

VMとはVirtual Machine、つまり仮想機械ということで、1台のPC上にもう1台PCを使える環境にするという、ありがたいソフトウエアのことらしい。

幸い小生のPCは、4GBのRAMが搭載してあるAMD-Athlon64×2にしたから、問題なくインストールでき、しかも快適に動くだろうとのことだった。

それで、息子が帰ってきた折にDL、インストールしてもらい、簡単に使い方を教えてもらった。

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上の写真で、ウインドウとツールバーが2つあるのが確認できただろうか。
左がWin-XP、上のほうのツールバーが、がWIN-VISTAのもの。

1台のPCで同時にWIN-XPとWIN-VISTAが立ち上がるというすぐれたもの。

今はもう使用しなくなったWIN-MEのOffice-2000を入れてから、例のグレードアップソフトでOffice-2007にグレードアップして完璧なVISTAマシンが出来上がった。

懸念していた動作も落ちることなく、スムーズに動いている。

by noanoa1970 | 2008-08-27 19:18 | トピックス | Comments(0)

祭りの後

オリンピックが終わって、マスコミや知識人と呼ばれる人たちの関心事は、開会式での様々な虚構についてだ。

実は小生、今話題になっている美少女の「口パク」は、あの開会式の映像と音声を、真剣に見聞きして、いっぺんに見破っていたのである。’これはウソ偽りではありません)

しかし、いくら訓練したとはいえ、あの世界規模の大観衆の面前で、あどけない少女が、ミスなしで歌えるなどということは、到底考えられないから、「これはいたしかたなく、それでよいのだ」と思っていたのだった。

しかしながら、実際に歌ったのが別の少女であったと聞いて、その考え方を改めなくてはならないと思うようになったのである。

小生はあの美少女が別録音したものを、当日万が一のことを考えて「口パク」にしたと、てっきり思っていて、それなら日本のマスコミやTVでも、過去から現在まで、同じことをやってきたのだから、批判などする資格はない・・・そのように思っていたのだった。

でも、歌った少女と、口パクの少女が別物である事実を知った時、やっぱり中国なのだということを再認識させられたのだった。

全体主義国家からまだまだ抜け出すことができず…というか抜け出す気は毛頭ないような、そんな気さえしたのである。

1900年のちょうどオリンピック開催と重なる時期のこと。
中国(清国)では、義和団事変という歴史的事件が起こり、そして終結した。

「北京の55日」、原題 : 55 Day at PEKINGという映画が1964年に日本で封切となって、小生も映画館でそれを見ることになった。

youtubeに映画の一部があったのでリンクする。
冒頭のシーン各国列強がそれぞれの国のマーチの演奏で紹介されるといったもの。


チャールトン・ヘストンが出演し、日本人の軍人として映画の中で準主役的に活躍したのが、伊丹十三であった。

映画は、まさにアメリカハリウッド映画で、義和団・西太后側を「悪」、アメリカ、ドイツ、ロシア、フランス、日本など列強を「善」とするような、まるで「アラモ」のような様相のものであったが、今考えれば、西欧列強の東アジア植民地化という視点が全く欠如する、映画で、当時のアメリカの、中国を低く見る目の象徴的映画でもあった。

おそらくは今でもこの映画は、中国では上映されないであろうと推測される。

この事件、実はかなり複雑らしく、清朝の内紛に西欧列強の中国植民地支配権の争いが絡み、西欧文化侵略拒絶運動として、「扶清滅洋」をスローガンとして、民衆の間に広がった、反キリスト教、反欧米運動を、清朝が内紛を隠すために利用し、列強に宣戦布告したのが、真相のようである。

ウイキによる以下のような説明がある。
「清朝の宣戦布告は、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンの孤立を意味するも同然であった。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時紫禁城東南にある東交民巷というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名に過ぎなかったという。」

そこで籠城を強いられることになり、援軍が来るまで各国の総力を合わせて守った、それが映画「北京の55日」となったのである。

1900年
1月27日列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。
3月14日毓賢を更迭し、袁世凱を山東巡撫とする。
4月袁世凱に弾圧された義和団、直隷省になだれ込む。
5月義和団、北京へ到達。
6月9日各国公使、自国軍の北京への援軍を要請。
6月19日西太后、義和団を支持し西欧列強に宣戦布告することを決定。
6月20日義和団、紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲(~8月14日)
6月21日清国、欧米及び日本の八ヶ国に宣戦布告。
7月14日天津、八ヶ国連合軍に占領される。
8月14日八ヶ国連合軍、北京に到達し総攻撃を開始する。
8月15日西太后と光緒帝、北京から逃亡。珍妃、紫禁城内の井戸にて死亡。

つまり、以上の年表の、6月20日~8月14日までのことが、「北京の55日」ということになる。

北京陥落後の清朝は、多額の賠償金を支払うことになり、そのつけが民衆から摂取する多額な税金となった。
また一方、それまで親和的であった義和団を「団匪」と呼び、反乱軍と認定したから、義和団は清朝に見切りをつけ、「扶清滅洋」→「掃清滅洋」というスローガンに変えて、清に変わる政権を求めたが、列強の植民地化の導火線となって、やがて連合軍により壊滅させられた。

昨夜あるTVの番組で、1党独裁国家では、政府も人民も、絶対に謝ることはしない。
混ぜならば、過ちを認めた瞬間、その人はみな死ななければならないから・・・などと誰かが言っていて、餃子事件で、毒は中国で入ったものではないといった人だったか、食品会社の幹部だったかが自殺したと報じた。(殺されたという推測もあったようだ)

首謀者はすでに死んだから、この事件はもう幕が下りた。
これ以上追及しないでほしい・・・というのが中国の長い歴史の幕引きの仕方であると述べていたが、これはあの北朝鮮でも、同じことを見た経験があるから、強ちはずれてはいないだろう。

しかしわが国でも、ことの真相を隠ぺいしたまま自殺、あるいは他殺かもしれないが、死んでいった人は数多いから、政治、国際政治、あるいは国際経済のダイナミズムというものは、人の命などをはるかに超えたところにあるのだろう。

社会主義も資本主義も、新自由主義も、いずれも人類の総合的な幸福の価値を生み出さないとすれば、いったい何を信じ、求めるべきなのだろうか。

危険極まりないのだが、「超人」の出現を、今ほど期待されるときはないような気がしてくる。

祭りの後の中国は、この先どのようになるのか、世界が注目するところであるが、1党独裁国家である限り、多くは望めそうもないだろう。

ソ連からロシアになっても、結局南オセチア、グルジアでは、過去のチェコのようなことをまたやっているのだから、長い歴史において培われた体質は、そう簡単には変わらないのだろう。

話を「北京の55日」に戻すが、映画の主題曲は、ディミトリー・ティオムキンが作り、ブラザーズフォーが歌ってヒットした。
日本では「克美しげる」が歌った。
ブラザーズフォーのものと若干アレンジは似ているが・・・・やはり
youtubeの克美の「エイトマンと北京の55日」


映画の内容は、偏った見方のものだったが、音楽は今でも覚えているほど、印象的で素晴らしい。

by noanoa1970 | 2008-08-26 10:45 | 歴史 | Comments(3)

As Tears Go By

北京オリンピックも昨日終って、小生は昔見た映画「北京の55日」を思い出しつつ、その背景の「義和団事件」について、アレコレ調べていたのだが、どうもまだすっきろしない点が多いので、そのネタについては、別の機会にすることにした。

それで、たまたま浮かんだ、小生の好きな曲から、ローリングストーンズの曲について。

映画「カサ・ブランカ」の主題歌、As Time Goes Byという名曲もあったが、それとよく似た題名の曲が1960年代、ローリングストーンズによって歌われた。

この曲はミックジャガーの恋人であった、そしてストーンズのマドンナ的存在でもあった、「マリアンヌ・フェイスフル」のために、捧げられた曲でもあった。

邦題は「涙流れて」だったと思うが、ストーンズにしては大変珍しい、イギリス民謡調の美しいバラードで、子供の遊ぶ姿を眺める・・・大人になった自分が、(昔のあどけない頃の自分を思い出し)涙が自然にあふれてきた・・・という内容の歌詞である。

いかに今の自分が純な感性を忘れてしまったかを、思い起こされる、そんな術科医の歌とも取れるし、何よりも美しいメロディには、なにかしら心打つところがある。

youtubeで検索すると、意外と多くのどうががあっ宝、リンクすることにする。

(下記の3つの、文字の色が変わっているところを、それぞれクリックすると、youtubeにリンクします)

まずはストーンズオリジナル
アコースティックギターのイントロが物悲しい。
ミックジャガーは、驚くほどしっとりと歌っているし、弦のバック演奏も、雰囲気を盛り上げる



次は歌を贈られた本人「マリアンヌ・フェイスフル」自身が歌ったもの。
歌手、女優としても活躍したが・・・・
ポールアンカが総合司会をする番組で、ブライアン・エプスタインが彼女を紹介する。まだこのころ彼女は20代の初めごろだろう。清楚でとてもかわいい。曲はまるでフィルスペクターのウォールサウンド、アメリカンポップスのよう。



次はマリアン・フェイスフルがそれから40年近くたってからのもの。
小生はこのころ出したアルバムを入手して、その中に「涙あふれて」も入っていたが、姿かたちの変化は仕方がないとしても、声の驚くべき変化に、しばし呆然としたことがあった。


一説によると、彼女の声のこれほどの変化を即した原因として、失恋、逃避、そして度重なる麻薬服用があるという。

彼女は貴族階級出身の家の娘だったというが、何が彼女をそんな目にあわせたのだろう。

ゴダールの映画で、アランドロンと共演したほどの彼女だったから、そのまま行けば、歌と芝居で活躍し、大女優となっていたであろうに。

やはり陰に男とそして麻薬があったのだろうか。
それでも2000年代には、見事回復し、ライブも、そしてレコーディングもこなし、チーフタンズとの共演では「3隻の船を見た」というアイルランドの古謡を歌っていたことが記憶に新しい。

しかし人間の声変りは、想像をはるかに超えるところに存在するものだと、改めて知ったのが、マリアンヌ・フェイスフルにおいてであった。

新旧の彼女の歌声を見聞きすると、文字通りAs Tears Go By 状態となるようだ。

by noanoa1970 | 2008-08-25 12:26 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

昔の味・・・本場のジンギスカン

少年時代のこと、夏に親戚一同が集まる場所の一つに、サッポロビールの名古屋工場が経営する、巨大ビアガーデン「浩養園」というところがあった。

名古屋駅から100m道路を東に行った、千種区の吹上というところにある、広大な敷地のビアガーデンで、予約なしではとても入りきれないほど。
交通の便があまり良くないにもかかわらず、当時はにぎわいを見せていた。

売りは、工場直送の生ビールと、ジンギスカンで、木立に囲まれた自然な雰囲気のあるところで、会社に入ってからも時々利用したことがある。

学生時代の京都、確か1968年だったと思うが、銀閣寺交差点の西に、「王将」という学生向けの中国料理の店が開店した。
客席数15人ほどの、小さな店だったが、それが「王将」1号店と聞いた。
しかし確かな情報ではない。

餃子が一皿60円。
10皿完食すると無料になるとの、看板が出ていたので、10皿ぐらい平気で食べられる・・そう高をくくって挑戦したことがあった。

しかし結果は無残にも6皿で終わってしまった。
その理由は、当時の京都では有名で、食べ慣れていた「珉珉」の焼き餃子の、軽く3倍近くあろうかという巨大なものが1皿に6個も乗っていたから。

「珉珉」なら軽く10皿ぐらいは食けたと思うのだが・・・・
3倍の量では、いかに食べざかりでも無理であった。

それでも店内の張り紙には、おそらく体育会系の学生だろう、10皿食べた人の名前が既に10人ほど書かれてあった。


「王将」には時々世話になったが、中に「ジンギスカン」という格安のメニューがあった。

しかしジンギスカンは、やはり「珉珉」のもののほうが数段上。
120円ほどのあの値段では致し方あるまい。

ちなみに餃子は1皿60円だった。

いずれにしても、当時のジンギスカンは、マトンを使っていたから、そして冷凍と解凍を繰り返していたのだろう、血と一緒にうま味成分が抜けたような、味のない硬い肉で、おまけに臭みがあるから、それを強力なソースでごまかしているものばかりで、その時ばかりは、「浩養園」のジンギスカンが懐かしく思われた。

ただ「浩養園」のジンギスカンは、肉の質はいいのだが、つけだれが非常にプアなため、満足度があまり高くなかったのは残念であった。
タレ持参なら素晴らしいジンギスカンになると思ったが、一度も実現しなかった。

北海道の本場のジンギスカンは、実においしい・・・・そう聞いていたから、北海道に行って本場のジンギスカンとやらを食べてみたいという欲求は、だんだん膨らんできたのである。

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それで北海道旅行の最中に、釧路の郊外の大きな牧場の中にあった、ジンギスカン専門の店に入って、念願の「本場のジンギスカン」の味を堪能することにした。

北海道がなぜジンギスカンの本場なのか、当時はそんなことを詮索することもなく、ただそういうものとしか思わなかったが、ラムとマトン両方をうまく使い分けた羊料理に伝統的にたけていて、しかも当時の北海道では、北海道産の羊を使ったものしかなかったから、これが美味しさの第1のポイント。
つまり肉が新鮮・・・それに尽きるのだろう。

おまけに大自然の真っただ中で食べることができるのだから、これはもうたまらない。
ビールはサッポロであったが、この牧場とサッポロビールは無関係。
でも、地元発祥のビールをあえて出すところに北海道の誇りなるものを感じた次第。

40年近い昔の味の残像は、今でもあるようだ。

最近ジンギスカンが見直されているようで、いろいろな肉屋を当たっているが、マトンやラムを置いている肉屋は、小生の住む地では、未だに見つからない。

by noanoa1970 | 2008-08-24 16:24 | 歴史 | Comments(4)

昔の軽自動車・・・スズキフロンテSSS

1970年代の初めに、軽自動車は一気にその性能をアップした。
ホンダ、ダイハツそしてスズキが軽自動車の3大巨塔で、各社が軽のスポーツタイプを盛んに出したのもこのころである。

それまではほとんどの軽自動車が30馬力以下のパワーでしかなかったが、360CCで36馬力、すなわちℓあたり100馬力というキャッチフレーズとともに、スズキがフロンテシリーズに「SSS」:スーパースポーツセダンというグレードを追加した。

エンジンは、バイクのエンジンをモディファイしたもので、3気筒。
ものすごくピーキーなものだった。

トルクがないから、回転を上げないとパワーが出てこない。
それでアクセルを常に煽って、回転を上げて運転する必要があったが、ダッシュ力や高速のスピードは、すごいものがあった。

タコメーターなど3連メーターがついていて、9000回転以上がレッドゾーンとなっている今では到底考えられないエンジンを積んでいた。

もちろんエアコンなどはないし、リアーエンジンだから荷室はフロントにほんの少し・・・旅行カバンがやっと1つ入るぐらいしかなかった。

それでも一人前に、ギヤーは5速あって、エンジンはうるさいバイクのエンジン音がしたが、運転は楽しかった。

この車、燃料が混合だったから、ガソリンのほかにオイルを供給する必要があった。
満タン5回で1ℓのオイル1缶を消費するから、結構オイル代がかさんだ。

当時ガソリンの価格は、ℓ38円~45円ほどだったと記憶する。

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この小さな車フロンテに、3人とテントと身の回りの物、クーラーボックスを詰め込んで、日本海側から本州の最南端を経て、太平洋側に出る、本州西日本一周の旅の出発時の写真を見つけたのでアップすることにした。

汗と埃にまみれながらの800kだった。

よく見ると、ナンバープレートに、古さを感じることができる。

by noanoa1970 | 2008-08-24 09:21 | 歴史 | Comments(3)

晩夏の思い出・・・礼文島 桃岩、オホーツクの夕陽

稚内から船で2時間、礼文島に到着した小生たちは、噂に聞いていたYH「桃岩荘」に向かった。

ここは北海道のYHの中では、当時もっともハードなYHとして有名なところで、魔の8時間トレッキングコースというものがあったし、夜のミーティングでは必ず隠し芸をやらされると聞いていた。

島には2つYHがあったが、ここは1つ、有名な桃岩YHを体験しようということになったのだった。

前日と前々日は、YHがどこも満杯で宿泊できなかったから、仕方なく持って行ったテントを湖畔に張って過ごすことになったから、若かったとはいえ、さすがに疲れていたので、ペアレンツ・・・ほとんどが学生のバイトであったが、彼らからバカにされるのを覚悟で、8時間地獄の耐久トレッキングコースには参加しないで、桃岩トレッキングを自由行動選択することにした。

桃岩はその昔、アイヌ民族同士がこの地で戦った古戦場だと聞かされたが、アイヌ民族同士の戦いではなく、アイヌと北方民族との戦いではなかったかと、今では思うようなところもある。

海岸から約250m、急峻な崖を登り切ると、そこには本当に桃の実の形をしたような巨大な岩のような山があって、眼下には美しい海が見える素晴らしいところだった。

途中にお花畑もあったが、急な崖を登るのに必死で、どんな花が咲いていたか、あまり記憶がない。

写真は一気に登った桃岩の前で、少々へばり気味の時のもの。
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夜のミーティングでの話題は、8時間トレッキングのことばかりで、小生と他の数人は部外者扱いだったが、やがて隠し芸大会となり、O君の弾くギターで小生が「五つの赤い風前」の「母の生まれた町」を歌ったところこれが多くのホステラーに好評。

止せばいいのに、リクエストにこたえて、同じ風船のアルバムから、「血まみれの鳩」を歌うと、やがてみんなで一緒に「遠い世界に」を歌おうということになり、大合唱となった思い出がある。

「五つの赤い風船」・・・このころかなり流行ったグループだった。

また、この桃岩荘でも、「旅の終わり」が流行っていて、小生とO君はギターコードを適当に見つけて、よく歌ったものだった。

ベンチに腰かけて歌っていると、女性が3人やってきて、いきなり隣に座って一緒に歌いだしたのには、さすがに驚いたし、いつの間にか人がたくさん集まってきて、じいと聞いている人、そして一緒に歌う人・・・誰でも「旅の終わり」を知っている様子だった。

今のストリートミュジシャンのような感覚に襲われ、チョットいい気分になったものだった。

(自慢になりそうで恥ずかしいのだが、自己エピソードを2つ。

小生はDRACというクラシック音楽研究サークルに所属していたが、そのサークルの先輩と同じ下宿に、アメリカ民謡研究会・・・フォークソングを演奏するサークルの部長という人がいて、先輩の下宿を訪れた小生、ある時、そのアメ民の人がPPMの「500マイル」を歌っているのを聞いて、ハーモニーをつけて歌ったことがあった。
するとその部長、ぜひ自分のサークルに来てほしいと、先輩を通じて懇願されたことがあった。そのサークルからは多くのフォークシンガーを輩出したから、間違ってそこに入っていたとすれば、ヒョットしたら、フォークグループの一員となって、今頃全国を回っていたかもしれない。


中学生時代の音楽の実技では、女性教師が目を丸くするほどだったが、筆記試験で60点しか取れないのを見て、その教師から「ガッカリ」したと言われたことがあった。)


YHで必ずと言っていいぐらい出るのが、怖い熊の話と、オホーツクに沈む夕日の話。
死んだふりは、絶対に通用しないことをはじめて教えられたのも、北海道のYHだった。

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オホーツクでは、「ジューッ」と音をたてて夕陽が沈む・・・そうどこでも聞いたから、体験しようということになって、夕陽の沈むのを待って撮った写真だが、撮れたのは、沈む少し前だったし、音も立てなかったので、わかっていたこととはいえ、がっかりした。

このころは、まだまだ純情だった・・・そんな時代である。

by noanoa1970 | 2008-08-23 12:41 | 歴史 | Comments(0)

倉敷38年前「エル・グレコ」

倉敷で有名なカフェ、エルグレコ。
学生時代の憧れの店だった。
そしてついにその願望が現実となったのは、今から40年前のこと。

五山の火送りも終わって数日たった夏のこと、白沙村荘のバイト仲間と連れだって、日本海側から山口県を経て太平洋側に3泊で回るという計画がもちあがった。

萩と倉敷はかねてから行きたかったところだからと、小生はすぐに合意し、バイト先に4日の夏休みをもらって出発することになった。

小生がその頃乗っていたスズキのフロンテSSSという軽自動車に3人が乗って、ほとんど荷物が積めないから後部座席に必需品を少し、そしてテントと水分補給にと、氷をたくさん入れたクーラーボックスにコーラを入るだけ入れてのことだった。

氷とコーラはバイト先から頂いたもので、3人が抜ける4日間を、残りのバイトが埋める惨憺をしてのことであった。

木の先に通じる坂道で突然エンジントラブルに見舞われ、どうしようもなく、最寄りのスズキのディーラーに駆け込むと、オイルフィルターのオイルシールが逆むけに取り付けてあって、オイルが逆流したためと分かった。

点検に出した京都のディーラーのミスとわかって、修理費は無料となったが、半日のロスとなってしまった。
損害賠償など考えもしなかったのが、いかにも世間知らずの、おとなしい学生であったと、思い出して苦笑することがある。

紆余曲折の上、たどり着いた倉敷で満を持して入ったのが、名店エル・グレコ。

よい雰囲気の店ではあったが、でも期待を大いに持って想像していた店とは少し違って、少しがっかりしたことは否めなかった。

その理由は、NOANOAがそして白沙村荘がもつ、年輪の風格が醸し出す雰囲気とどうしても比べてしまったからであるのだが、しかし調度品の配置の仕方や絵画の展示法などは、学ぶところが多かったように思った。

蔦の絡まる洋館・・・エル・グレコもNOANOAも、どちらも小生の好みである。

コーヒーの味は、残念ながら全く覚えていない。

今あのエル・グレコ、どうなっているのか、少し気になるこの頃だ。

40年以上前のエル・グレコのモノクロ写真をお目にかけるとにしよう。

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by noanoa1970 | 2008-08-22 16:28 | 季節の栞 | Comments(0)

晩夏の思い出・・・36年前北へ

京都時代最後の夏、それももう終わりのころ、ちょうど今頃の8月から9月中旬にかけた1か月に渡って、北海道を旅したことがあった。

同行したのは、いかにも京都の老舗らしい名前の洋菓子屋の息子で、彼は卒業後すぐに、洋菓子屋を継がなくてはいけないから、近い将来のために、NOANOAに接客と料理の基本の修行に来ていた。

たぶん伝統的洋菓子やから脱却し、何か系統の違う、斬新な洋菓子屋を、と考えてのことであろう。

O君と言って、今でも洋菓子屋は、京都市左京区の浄土寺にあって、名前はおしゃれなフランス風になってはいるが、しっかりした作りのケーキは、地元の愛好者が多い。

小生は京都を去る前の年のクリスマス前から、忙しくなる洋菓子屋を手伝いに行ったことがあり、クリスマスケーキをたくさん仕込んだ割には売れ行きが乏しかったのを、彼が嘆くので、店の外にテーブルを出してそこに見本を並べようと提案したところ、たちどころに注文が殺到し、それから、彼の小生を見る目が、尊敬に変わるのを、目の当たりに見ることになったこともあった。

新しいケーキを開発し、たくさん売れるように、洒落た名前を考えたいというので、その形状とハイライトされているイチゴから、「ストロベリー・クッペ」にしようといったところ、やがて人気が出て、この店の看板メニューとなったと後に聞いた。

北海道旅行は、そんなO君が4回生の遅い夏のこと。
もうこれで自由な生活ともサヨナラして、店の跡継ぎになるべく、身を処さなくてはならないから、どこかへ旅行しよう・・・そういうことになったのだった。

小生は翌年名古屋に帰ることになっていて、その年は自由人的生活を送っていたから、2つ返事でOKした。

そこで、O君のカローラクーペで、京都から敦賀までいき、そこからフェリーに乗って北海道は小樽に上陸し、そして約一月かけて北海道を回ろうという計画となった。

さすがに広い北海道、でも襟裳岬のある道東以外は、ほぼ全域・・・利尻礼文も含めまわることができた。

宿泊は行き当たりばったりのYHを中心に、もしダメな場合にと簡易テントとシュラフを積んで、出発となった。

道中さまざまな面白話があるが、それは又別の機会に・・・

写真は、網走刑務所から出所したてのある男。
そして礼文島の草原で、シンガーソングライター気分を味わっているところ。
(このころ北海道のYHのいたるところで、「旅の終わり」という歌が聞こえてきた。YHに宿泊した人なら、誰でも覚えたはずのこの歌、とてもいい感じの歌だ)

夢のような旅立った
遠い北の国の
僕は旅の楽しさと旅の辛さを知った
こんなつらい旅なんか
もういやだ、旅を終わろう
汽車に乗ろう

以上のような歌詞で、今でもはっきり覚えている。

40年近くたっているので、写真が色褪せてきてしまった。

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by noanoa1970 | 2008-08-22 15:47 | 季節の栞 | Comments(2)