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マイ箸と地球温暖化防止の奇妙な関係

いろいろな分野で地球温暖化防止についての取り組みがされているが、小生には今ひとつ、国民全体のパワーとなりきらない・・・すなわち積極的ではないような気がする。

勿論、積極的に取り組まれている方々がおられるのも、承知はしているのだが、小生にはかなりの部分が見せかけの・・・パフォーマンスに見えてしまうところがある。

例を挙げると、最近流行であり、また奏することで、何か省エネやひいては地球温暖化防止に、自分も参加しているという錯覚にさせてはばからないものの象徴として、「マイ箸」といういやらしいものがある。

自分の箸を持ち歩いて、外食の際でも何でも、自分専用の箸を使い、「割り箸」を使わないようにすれば、自分も地球温暖化防止に貢献していると・・・・いわば錯覚を起こさせる、きわめていやらしげな仕掛けである。

割り箸、それは日本人の文化の所産であり、そして「ハレとケ」の文化の所産でもある。

冠婚葬祭のとき等に、昔から割り箸は、割ってないから「貴方が始めて使う」という意味が込められて出される、神聖なものであるのだ。

御呼ばれしたときに、客からマイ箸を出されて、それで食べられたら、もてなす側の主人は、一体どのような気持ちになるのか。

理屈では分かるとしても、心情はキット(小生などは特に)内心穏やかな気持ちにはなれないかもしれない。

小生が「マイ箸」運動が、ある種のまやかしであるとするのは、その十石製が、どう見ても乏しいからである。

持って歩くのは、まだいいとしても、使った後の処置はどのようにするのだろう。

いちいちトイレを借りて、そこで洗うのだろうか。
店ではいいが他人の家ではどうするのか?
水洗いだけで済ます衛生的面の不安は?

ザット考えただけでも、以上のことがすぐに想定でき、小生には出来かねない運動だし、続けることは、禁煙やダイエットのように、かなり負担を強いるのでは無かろうか?

それに、ここが大切なことだが、こんなことで、地球温暖化防止に組していると錯覚し、満足させてしまう人間の浅はかさこそ、小生には我慢がならない。

誤解でも何でも恐れずにいうと、こんなことは「欺瞞」そのものである。

割り箸にもその形状や材質が、いろいろ・・・あることは、ご承知のことと思うが、国産の「杉」「桧」「エゾ松」材の割り箸は、殆ど全て、資材利用の板にする工程が断裁であるため、その端材を利用してできる箸である。

ようするに、あまった切れ端を、割り箸として利用しているのだ。

しかし最近は、林業が廃れてきたため、元の材木の供給が少なくなった事と、国産の割り箸が高騰したため、安い外国産・・・主にカナダや中国産の「白楊」を使ったものが多くなっている。

しかし一方国産の白樺は、樹液を除く手間がかかるため、一部の業者が利用するだけにとどまり、後は切り取られ、そのまま朽ち果てているとも言う。

外国では大量に輸出するために、丸ごと割りなしように輸出するし、一方国内では、工夫すれば、立派な割り箸になる木材を放置し、そのまま朽ちさせてているというわけだ。(最近白樺の樹液が、甘味として使えることから、シロップ採取が一部で進んだと聞く)

さすれば、われわれのすることはマイ箸運動もいいが、持続でき、効果的なことは、国産の割り箸を、チョイスして使うことであろう。

飲食店も、割り箸を従来のように置いていただきたい。
しかも品質の優れた国産のよいものを。

お願いだから、そして割り箸代金をとっていただいて結構だから、輸入材で作られた、割ると必ずまっすぐ割れ無いような箸で、食事をしたくないし、「マイ箸」など持ち歩きたくないし、急な外食の場合などは、どうしたって使えないし、かといって、毎日出かける度に、あんなものを持って歩けるものではないのだから、身のある地球温暖化防止に目覚めていただきたいものだ。

このように書いてきて、今ふと思ったのだけど、「地球温暖化」・・・この「温暖化」という言葉の響きが、よくないのではなかろうか。

「温暖化」から実感出来る、そして想像できることは、悪いイメージではなく、なんとなく、よい方向のイメージではないだろうか。

寒さで飢えて来た人類の歴史的DNAと比べ「温暖」であることを、よくないことであるとすることになったのは、ごくごく近年のこと。

「地球温暖化」→「地球消滅化」とか「地球破滅化」という言葉にしないと、まだピンと来る人は少ないのかもしれない・・・・そんなことを思ったりする。

学者が作る言葉は、その言葉の持つ意味性を無視した、ザッハリッヒな自称だけでのことが多いが、この「温暖化」もその一つではないか。

いくら危機感を煽っても、「温暖化」という、人類と限りないシナジーを持ってきた、この優しげな言葉を使う限り、魂の奥を揺さぶり、真のアクションを引き起こす原動力となることはないのではなかろうか。

by noanoa1970 | 2008-05-29 18:33 | トピックス | Comments(0)

ジョン・デンバー

ジャンルを問わず、彼の歌を好む人は多いと思う。
「オールモス ト ヘヴン ウエストヴァージニア ブルーリッジマウンテン シェナンドウリバー・・」でおなじみの「カントリー・ロード」は、一度や2度は聞いているはずだろう。

「ブルーリッジマウンテン」は「ブルーマウンテン」に有らず・・・偏(変)なこだわりで申し訳ないが、小生にはとても重要なことだ。

どちらも高い山を想像させるのだが、「リッジ」とは山の稜線のこと。
従って、それがブルーに見えるのは、雪解けの季節。

ブルーリッジマウンテンは、陽の当たらない多くの箇所には、雪がまだ残っていて、雪が解けて、青く輝いている稜線を髣髴させるから、青と白のコントラストが鮮明に出る言葉だ。

そのようなところは、ブルーグラス音楽の発祥の地、アパラチア山脈の山々であろう。

ブルーマウンテンには白のイメージが湧いてこない。
茶色のコーヒーのイメージしか・・・・

小生の住居のすぐ近くにある「OK牧場」というカントリー、フォーク、ブルーグラスの・・・毎週土曜日がライブハウスになる店では、必ずこの曲がリクエストされることでも、その人気度とポピュラリティが分かろうというものだ。

実を言うと小生、彼の録音したアルバムは、1枚も所有してないのだが、ある切っ掛けで、彼のある歌のことを思い出し、このエントリーをした。

ピーター、ポール&マリーの「悲しみのジェットプレイン」は、昔から彼らの曲の中でも、とりわけ好きなほうであったが、その作者がジョン・デンバーだと知ったのは、かなり後になってからのこと。

ベトナムに派兵されようとする男を、朝早くタクシーが向江に来て、クラクションを鳴らす。

男は恋人と、もう2度と会うことは出来ないかもしれない朝を迎え、別れを惜しみつつ行きたくはないが、仕方なく迎えのタクシーに乗り込み、招集の基地まで向かうジェット機に乗るために、空港へと向かう。

(彼女の家の中ではなく、家の前で別れを告げるところが、また悲しみを誘うところだ)

再びここに帰れることを信じて・・・・

そして、「Oh, babe, I hate to go.」という箇所のマリーの歌声が、やけに耳に残ったものだ。

時は1969年、ベトナム戦争の真っ最中であったから、一見普通のラブソングとも取れる歌詞が、時代を背景にした特別の意味を持って聞こえたのであった。

さらに、1998年映画「ハルマゲドン」で、この曲が効果的に・・・地球に巨大小惑星が衝突する事が判明し人類は滅びる危機に陥る。掘削のスペシャリストブルース・ウィリスと、その仲間達が立ち向かう映画であるが、彼らがロケットで出発する前、(恐らく生きて帰れないと思っていたであろう)酒を酌み交わしながら、全員で歌うのがこの「悲しみのジェットプレイン」。

大抵のことでは、涙を流すことはない小生だが、このときは涙腺がひどく緩んでしまった。

PP&Mの歌を、そしてその意味を、また決定的だったことは、その映画の1年前1997年に、作者のジョン・デンバーが、自ら操縦する自家用飛行機のトラブルで、事故を起こし帰らぬ人となったことを知っていたからであった。

ハルマゲドンのプロデューサーたちが、そのことを知っていて、映画に「悲しみのジェットプレイン」を挿入したのか否かは分からないが、多分彼への追悼もかねてのことであったと解釈したい。

今何故ジョン・デンバーかという、もう一つの理由は、小生が好んで聴くカントリー、ロック&ブルーグラスのNGDB・・ニッティ・グリッティ・ダートバンドの「永遠の絆VOL.2」のメイキングビデオに、丸めがの田舎の少年のような風体の・・・(かぐや姫の「南こうせつ 」が真似をしていた)イメージしかなかったジョン・デンバーが、とても落ち着きのある、上品そうな 中年となった映像があり、中で今でもリリーズし続けている「stonehaven sunrise album」から初めてシングルカットされたと自ら解説する「And So It Goes」(Paul Overstreet-Don Schltz)を、NGDBをバックにして歌うメイキングシーンを見たからであった。

このとき彼は50歳を超えていたと思うが、あのマイルドな、そしてソフトで温かみのある声はいささかも変わらなく、若いときよりも深みを増しているように聞こえて、歌詞の中の「Ashes to ashes, dust to dust」は、映画「ハルマゲドン」の、人類の破滅をも予感させる内容と共に、心の中突き刺さってきたのだった。

歌詞の中の
「Ashes to ashes, dust to dust」・・・・
「And so it goes with everything but love」を重ね合わせると、そこに有るのは、キリスト教的・・宗教的境地だろうか。

「Ashes to ashes, dust to dust」とは、クリスチャンの方ならご存知かも知れないが、「灰は灰に、塵は塵に」という意味の祈祷文の一文で、キリスト教の葬儀の時の「埋葬の儀式」の一節である。

そしてこの一節の原典は、旧約聖書の創世記第3章「蛇の誘惑(失楽園)」19節の以下の部分であるとされている。
「In the sweat of thy face shalt thou eat bread,till thou return unto the ground; for out of it wast thou taken:for dust thou art, and unto dust shalt thou return.」

アダムとエヴァが、悪魔=サタンとされる「蛇」の差し金によって、禁断の実を食べてしまい、(所謂「人間」となり)、神の逆鱗に触れ、エデンンの園から追放されるというあのシーンであるから、興味がわく。

そして祈祷文は以下のようである

「forasmuch as it hath pleased Almighty God of his great mercy to take unto himself the soul of our dear brother here departed, we therefore commit his body to the ground; earth to earth, ashes to ashes, dust to dust; in sure and certain hope of the Resurrection to eternal life, through our Lord Jesus Christ; who shall change our vile body, that it may be like unto his glorious body, according to the mighty working, whereby he is able to subdue all things to himself」

全能の神大いなる憐れみをもって我らが愛するこの兄弟の霊魂を召し給いしゆえ、今その屍を地に委ね、灰は灰に、塵は塵にかえし終りの日の甦りを後の世の命を主イエスキリストによりて堅く望む。主イエス世を裁判せんがため大いなる威光をもって再び来り給うとき、地と海の中より死人を喚び出し、万物をおのれに従がわせ得るちからをもって、主にありて眠れるもの卑しき身体を換え、その栄光の身体にかたどられしめ給うべし。

ジョン・デンバーは、自然志向派ミュジシャンとしても、わが国で受け入れられたところがあると思うが、やはり西洋人。
50を過ぎると、宗教的見地に再び目覚めるのであろうか。
それとも、日本人とは違い、やはり西欧人の宗教心は、今でも日常生活と切り離せないのだろうか。

ジョン・デンバーとNGDBの「And so it goes」 with everything but love・・・を聞くたびに、「PP&M」、「悲しみのジェットプレイン」、「飛行機事故」、「ハルマゲドン」、そしてよき中年となったジョンデンバーの優しい声と顔が、入り混じってきて、激しく心を揺り動かすのである。

YOUTUBEには、小生のメイキングビデオとは違うライブ映像があったので、それをリンクしておくので聞いていただきたい。
メンバーは「永遠の絆VOL.2」と全く同じ、録音は下記のとおりだが、ライブ映像の出所は不明である。

参加ミュージシャン】ギター/コーラス: Jeff Hanna マンドリン/コーラス: Jimmy Ibbotson アコーディオン/コーラス: Bob Carpenter ドラムス: Jimmie Fadden ギター: Randy Scruggs フィドル: Mark O'Connor ドブロ: Jerry Douglas アップライト・ベース: Roy Huskey, Jr.
1988年12月、Scruggs Sound Studio(テネシー州ナッシュビル)にて録音。エンジニア: Ron Reynolds。


「And so it goes」(Paul Overstreet-Don Schltz)

This song was first released on the stonehaven sunrise album. it is the only album it has been released on.

A mansion on a hill is a lovely sight to see
But like any other house its only temporary
Home is anywhere you choose to put your heart
If theres no love inside, it will soon fall apart


Buildings will crumble, bridges will rust
Mountains will disappear, rivers will dry up
And so it goes with everything but love

You can drive around in a long imousine
If you dont know where youre going, it dont mean a thing
He whod walk a mile just to hold an empty hand
Knows what it means to be a wealthy man

Ashes to ashes, dust to dust
Palaces will crumble, bridges will rust
Mountains will disappear, rivers will dry up
And so it goes with everything but love

Worldly treasures will all pass away
Theres just one thing that was put here to stay

Ashes to ashes, dust to dust
Kingdoms will crumble, bridges will rust
Mountains will disappear, rivers will dry up
And so it goes with everything but love

by noanoa1970 | 2008-05-29 10:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(5)

卯の花

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去年も同じ題材でエントリーしたと記憶するが、6月にはいってからだったので、そのときには、今の季節のように、美しい写真が撮れず、すでに朽ちてゆく様子のものしか撮影できなかったので、散歩の途中に撮影しておくことにした。

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初めて小生がこの潅木に咲く花を見たときは、2種類の・・・(赤い色を付けるものと、白い色の花を付けるもの)が入り混じっていっせいに咲いているものだと思った。

しかし幹を見ても、2本が地面から生えているようには見えないから、キット「接木」によるものと思っていたのだった。

しかし、その公園には、少し離れた場所に、同じ樹木がもう1本あり、その木にも白い花と、赤い花、両方が咲いていたから、接木ではないのでは・・・と思うようになった。

一体この花はなんという名前なんだろうと、ネットで特徴を基にして、検索すると、「ウツギ」という名前で、しかも別名を「卯の花」というということが分かった。

ネットにある写真で咲いている花は一色で、小生が見た赤白2色が同時に咲いているものではなかったので、さらに調べると、それはどうやら「ハコネウツギ」と呼ばれるものであることが分かったのだが、「ウツギ」には多くの種類が有り、植物学的には同一の種族ではないという。

またハコネは箱根とは関係が無く、箱根にはこの品種はないということも書いてあった。

ウツギ・ヒメウツギ・マルバウツギ:ユキノシタ科ウツギ属

ガクウツギ・ノリウツギ:ユキノシタ科アジサイ属

コゴメウツギ: バラ科コゴメウツギ属

ドクウツギ:ドクウツギ科ドクウツギ属

そして、ハコネウツギはタニウツギ・ツクバネウツギ同様 :スイカズラ科タニウツギ属だとされることが分かった。

スイカズラは「忍冬 」で、JAZZの名曲「ハニーサックルローズ」のことであろう。
映画の題名にもなったことがあった。

甘味料の乏しい古代から、人々は甘みを求め、ハチドリのように、この花々の蜜を吸ったから、このような名前となったことを考えると、人類の歴史にも話が及んでいき、面白い。

さて、ウツギは「空木」といい、何でもその幹が中空であるから、その名前がついたと物の本に書いてあるが、小生はそうは思わない。

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妄想であることは間違いないが、「ハコネウツギ」を見ていて、小生は・・・蕾の時には真っ白で、開花の初期段階も白無垢のように純情可憐な白い花の色。
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それが時を少し隔てると、周辺に(少女がほほを赤く染めるかのように)やや赤味が差し、さらに時を経ると、その身を赤く変身させる。

古代の人々は、その様子を見て「移り気」、あるいは「内気」である様と見取り、そこからウツギ、そして仏教の「空」の解釈や、源氏物語の「空蝉」のように、「儚い現世」を、そこに見出したのではないか・・・そんな風に思うのだった。

幹が中空だから「空木」とは、スイカズラを「忍冬」とし、やってきた春を愛しむように、その甘い蜜を吸った古代人の、生活史とは全く関係のないザッハリッヒな解釈で、全く面白みも、何も無い。


「卯の花」とは、しかし、どのウツギをさしたたのか、その謎はまだ推理できないで居る。


by noanoa1970 | 2008-05-27 17:16 | 季節の栞 | Comments(0)

東京からの荷物

東京の息子から宅急便が届いた。
そんなに大きな箱でもなかったので、家内が片手で受け取ろうとすると、配達の人に「重いですよ」といわれ、受け取ってみると、本当にずしりと重かったという。

一体何が入っているのか、箱を開けると、
前から小生が欲しかったゴアテックスのトレッキングシューズだ。
少し前、電話があって、三鷹だったか、吉祥寺だったか、「LLビーン」の店を物色していたら、格安のものがあったそうで、自分の足を入れてみると、ちょうどのサイズだったから、多分入ると思うから・・・

もしサイズが合わなければ、そのときは自分が履く、そのつもりで購入したと聞いた。
小生は通常25.5のサイズだが、LLビーンのそれは計算すると、25.0に相当するが、ユッタリ目に作ってあるらしいという。
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靴の裏は「ビブラムソール」。最近のものは昔のものとはデザインがかなり違うが、材質も、昨日もUPしていて、何よりも軽くなっているようだ。


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しかし、
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それだけでそんなに重くなるはずは無く、さらに、息子が愛用していて、なんでもここの羊羹は、早朝5時ごろから並んで買わないとすぐ売り切れるという、吉祥寺の「小ざさ」の・・・羊羹ではなくて、最中の箱が入っていた。

小さめの最中で、白と黒の餡両方ともに、なかなのもの。この最中のデザインは唐草模様らしいのだが、なぜなのか、とても気になるところだ。


恐らくトレッキングシューズは、来る父の日、「小ざさ」の最中は、先日の家内の誕生日祝いのつもりであろう。

今回は出張が重ならなくて、宅急便を使ったと思われる。

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しかし、この2つだけでは全く重くはないが、なんとさらに、重量超過の新犯人が居て、それは袋入りのスパゲティの乾麺が4袋と、おまけに「オリーブオイル」までが入っているのだった。これだけで3K有るから、さすがに重くなったのだ。
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スパゲティは、昔から小生が作って、息子に食べさせたことが何回もあるし、茹で方も、茹で加減も、ソースも、合わせ方も習得しているはずだから、きっと自分で作って食べようと思って、珍しげなメーカーの乾麺を買い求めたのだが、手に負えなくなったのか、あるいは今度帰って来たときに、美味しいスパゲッティが食べたいから、これで作ってくれということなのか。

メーカーも、種類も、太さもアレコレ違うものを取り揃えているようだから、恐らく、自分で試食し、美味しい麺を探すつもりだったのか。

それはともかく、新しい味を追求、発見するのは小生の楽しみでもあるから、ここは黙って、今度帰って来たときに作ってやろう。

どこで購入したか、分からないが、さすがに東京のマーケットは、バリエーションが豊富である。

いろいろ試した結果、1970年NOANOAで使った「ブイトーニ」が、やはり世界で一番美味しい乾麺だと、長く信じてきたが、どうやらその神話も崩れるときが来るのかもしれない。

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太麺は「カルボナーラ」、中太は「ペペロンチーノ」、細麺を「トマトソース」で、中にオーガニックパスタがあるから、歯ごたえや食感は勿論、麺の味そのものも、味わいたいものだ。

もろもろの感謝の一日であった。

by noanoa1970 | 2008-05-26 19:06 | トピックス | Comments(2)

ANSWER

「トタニズム」というコミュの副管理人でマイミクの「Queiko」さんからのリクエストにお答えして、本日探し当てたレコードジャケットの写真を掲載します。

このレコードを購入してから、もう38年の歳月が流れたが、レコードと、ジャケットの記憶は、全くは失われはしてなくて、NGDBかCCRだという記憶を元に、天井近くのレコード棚からやっと今引っ張り出せた。

遠い記憶の欠片どおり、そのジャケットは、1970年リリース、クリーデンス・クリアウォータ・リバイバル(CCR)の『ペンデュラム』であった。

何故、このレコードジャケットが必用だったかというと、答えは「トタニズム」に有る。

「トタニズム」とは、「トタン」を使った建築物を愛好し、発掘するというMIXI上のコミュで、コミュの中にあった写真を拝見したところ、今流行の「ガルバニューム」をも「トタン」という概念の中にいれていたので、小生のトタンの概念とは、隔世の感がある・・・などとコメントし、ついでに小生が思い出したレコードジャケットのことを書いたのだった。

写真を張付けて、コメントしようと思って、棚を探したのだが、そのときは見つけられなくて、今に至るというのが、このあたりの事情だ。

アルバムの中の4曲目、「Have You Ever Seen The Rain」はベトナム戦争で使われた「ナパーム弾」を揶揄、あるいは批判したものなのだが、当時は単に「空から雨」だと思って、聞いていたものでした。

「Queiko」さん

小生が「トタン」という言葉から、すぐに思いついた写真はこれです。
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見開きジャケットではなく、ジャケットの裏がこのトタンの写真。
赤茶けた錆び色が美しいと思いませんか?

by noanoa1970 | 2008-05-25 11:43 | レコードジャケット | Comments(0)

往時の小物達

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小屋の中から、もうすでに10年ほど眠っている「フィッシングベスト」を取り出した。

6月に上高地トレッキングに向かうのに、ポケットが沢山有って、何かと便利だからと思いついたからだ。

最近では携帯電話、デジカメなどすぐ取り出さなくてはならないものも、山歩きの必需品で、その他に水筒(今はペットボトルキーパーに入れるが)、雨具などなど、とかく持ち物が多くなる。

リュックに入れておくと、すぐに取り出せないから、そういう意味では大小さまざまなポケットが沢山あり、しかも入れ物の落下防止の仕掛けがキチントしている、フィッシングベストが最適だ。

ブログには書いたことは無かったが、小生は25年前、フライフィッシングに夢中になった時期があって、15年ほどドップリとその世界に、漬かってしまったことがあった。

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小屋に吊り下げておいた、2つのフィッシングベストは、いずれもメッシュのもので、知る人ぞ知る、伝説の「イボン・シュイナード」が、実際に試してOKを出したという、フライフィッシング専用のベストである。

「シュイナード」は、アウトドアのブランドで、いまや一部ファッションにもなってしまった感のある「パタゴニア」の創始者で社長ある。

ファッション性と機能性両方を巧みなまでに取り入れ、自然愛好のコンセプトが気に入って、小生はかなり古くからの「パタゴニア」愛好者だった。

12年ほど前のこと、会社の若い女子社員に、キャンプの写真を見せたことがあった。
そのときに数人の女子謝意恩から「パタゴニア」凄いですね・・・などという驚嘆にも近い声を上げるのを聞いた。

何でも最近(多分ファッション誌の影響だろう)「パタゴニア」は、若い人の一部にもブームとなっているらしいのだが、価格が高いので買えないということがその理由だと分かった。

そのとき小生は、「フリース」を着ていたが、その当時「フリース」はどのメーカーでも・・といってもまだ門の数社しか発売してはいなかったが

ペットボトルを回収して、フリースを作るという、リサイクルコンセプトが気に入って、「パタゴニア」をチョイスしたのだった。

家族全員が「パタゴニア」のフリースを着ているという時代があった。


小生は根が無精者だから、当時使っていたフィッシングの小物・・・ベストの中身は殆どがそのままとなったままだったので、取り出してみると、懐かしい者が出てきたので、思わず写真に撮めた。

掲載するのはその中でもごく一部。
ベストにはかなりのものが・・・大量に入る。
一体このような小さな物の中にどうしたら、こんなにも多くの小物達が入ってしまうのか、これは永遠の謎である。

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弁当箱・・・のようなものには「フライ」が入っている。
大昔「フライ」というと小生はすぐ、カキフライや海老・魚のフライを連想したが、この世界に入ってから「フライ」の声や文字を見ると「フライフィッシング」を連想する用にまでなってしまった。

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中はこのようになっている。
フライマンにとっては、宝石箱のような、一番大切なもの。

この世界の面白さを説明すると、それだけでとてもジャないが書ききれないから、今回は省略するが、「フライ」=「FLY」で直訳すれば「蝿」となるが、彗星および陸生昆虫を総して「フライ」と呼ぶ。

幼虫、蛹そして亜成虫・成虫全部を含めるから、その種類は膨大で、そのような地球上のありとあらゆる昆虫類を、上流の冷たい水に生息する「トラウト」たちは好んで捕食するのだ。

従って、釣りをする河川で、今どのような昆虫が存在しているかを、知ることは、このつりの基本情報であるが、これがなかなか難しい。

従って釣り人は、想像力を働かせて、事前に・・・殆どのpフライフィッシャーマンは、自分でフライ=毛鉤を作ることになる。

弁当箱には、このような想像力の元に、冬の時期に夜なべをして、せっせと励んで作ったフライが入ることになるわけだ。

水の上に浮くもの、水の中を漂うもの、水深深く沈んでいるもの、そのようなことを想定してフライを作る(巻くという)。

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リーダーというテーパー状になっているもの。この先に「針素」に相当するチペットを結ぶ。
フライ用品には、全て企画がリ、ロッド(釣竿)も然り、それにあわせたラインを使う必要がある。
ゴルフと一緒で、番号が小さいと大きく太くなり、遠くにフライを飛ばすことが可能だ。

ちなみに、8Xは0.3に相当する太さ、かなり細い。
よってティペットも同等か、それ以下の太さを使う。

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小さな筒のようなものは、ドライフライが浮き易い様に、揮発性のオイルをフライに付けることがあるが、そのときの容器(蒸発しないよう、かなり精密に出来ている)と、濡れたフライを乾かすときに使うもの、・・・ドライシェークという。

爪切りと同じように見えるものは、「ラインカッター」。
糸類をカットするだけなので、シンプル、軽量に出来ている。

「鋏」に見えるもの、これは釣り針を魚からはずすときに使うもの。
外しやすいように、先がカーブしている。「フォーセップ」と呼び、外科手術の道具のようだ。

これらの小物達は、ベストのポケットに仕舞い込んだり、頻繁に使うものは、伸ばしても手を離すと自動的に元に戻る、「ピンオンリール」を介して、ベストに取り付けて置き、いつでもすぐ使えるようにしておく。

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フライは状況に応じて交換するが、いちいち箱の中にしまうのは面倒なので、一次避難場所として、ベストに着けたフライ用のパット、フライパッチに付けておく。
写真では化学繊維のものだが、動物の毛皮を使う人も多い。
10年付けっぱなしになったままであった。
小生が、いかに不精かが分かろうというもの。


すぐに使うものと思っていたのだが、理由合って、それから一度も釣りには行っていないで、今日を迎えることになった。

by noanoa1970 | 2008-05-24 12:18 | 歴史 | Comments(2)

ほんの些細な誕生日祝い

今日は家内の誕生日。
だからというわけでもないのだが、久しぶりに、岐阜県上石津町まで。

江口夜詩 を記念して作られた「日本昭和音楽村 」、そして透明な水をたたえる「水嶺湖」がある、里山のイタリアンレストラン「アルペジオ」に行くことにした。

ここは最近まで、村が管理する施設としてのレストランであったが、大垣市に編入されたときに民営化された。

しかし、シェフも従業員も、昔のままだから、それまでの味をそのまま保っている。

小生は10年ほど前からここに通っていたが、本日は久しぶりのことだった。

全く気取ることのない・・・普段着のままでいけるレストランだから、肩が凝らないし、周りは今の季節、新緑に囲まれているから、雰囲気もいいし、ウイークデイは、来訪者の少ないのも静かで落ち着いている。

イタリア料理は、気取らないで、沢山、満足するまで食べるのがよい。

3種類のランチと、各種スパゲッティ、ワインにデザートがあるだけというシンプルなものだが、いつも一番安価なランチを食べることにしている。

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今日はもう夏を思わせる陽気だったからか、スープは冷製のカボチャのポタージュ。
安価なランチにもかかわらず、プレートを敷いた、スープ皿で運ばれる。
こういうところがこの店のよいところ、普通の店なら、恐らく手つきのカップで供されることだろう。

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続いて運ばれるのは、自家製の「パン」。
ローズマリーがタップリ入ったもので、後に出るスパゲティのトマトソースを拭い取って食べるのに都合がよい。
小生は必ず皿に残るソースを全部食べることにしているから、パンは必需品だ。

一番安価なランチのスパゲティは、小生が一番好きなトマトソーススパゲティ。
そのせいもあって、殆どの場合、このランチを選ぶ。

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スープが終わってしばらくすると、出てくるのがトマトソーススパゲティ。
深めのさらに盛られているから、量はタップリ有るし、トマトソースもタップリかかっている。

ローズマリー入りのパンで、ソースを救いとって、皿をきれいにしてあげたいほど、いつもながらこの店のトマトソースは合格。

スパゲティは、1.2ミリを使用し、アルデンテにいつも仕上げてくれる。
細麺のアルデンテは、ばらつき無く茹でるのは、かなり技術が居るものだ。

以前はイタリア産オーガニックスパゲティを使用していたが、最近の事情で、麺を変えたらしいことは分かったが、事情が分かるだけにしいて指摘はしなかった。

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最後にコーヒーか紅茶が出るが、本日は珍しくアイスコーヒーにして、ランチを終えた。

これでなんと@880円というから、驚きだ。

桑名からここまで1時間かけて、走っても、また着たくなるレストランである。

レストラン内からの外の景色はこんな具合に見える。
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家内も相当数ここに来ているにもかかわらず、ここの味にはいつも満足げ。
誕生日プレゼントとしては、いかがなものかと思うので、誕生日については暗黙知の食事とした。

by noanoa1970 | 2008-05-23 18:52 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

昔の味・・・神戸「ハイウェイ」

1971年のことだったか、結婚前の家内と神戸に遊びに行ったことがある。
一度目は、家内の大学の友人の結婚式の披露宴がオリエンタルホテルで開催されるというので、付き合うことにしたとき。

披露宴で出された、イセエビの「テルミドール」を、ナイフ・フォークを使って、なかなか外れず、苦労していたら、そばにいたボーイが来て手伝ってくれたので赤面したという話を聞いた。

その間小生は、どこで何をしていたのか記憶はないのだが、2度目に行った時は、三ノ宮から、トアロード散策をすることにした。

それにはある目的があって、少し前(谷崎潤一郎の書物そのものではなかったようだ)神戸に「ハイウェイ」というレストランがあって、そこのビーフステーキが極上で、凄いという、どこかからの情報を得ていたから、まだ学生の身でありながら、バイトのお金が入ったら、神戸に行ってぜひとも、一度食してみたいと思っていたからのことだった。

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そのとき、トアロードを歩いて、横文字だらけの看板の、恐らくは輸入陶磁器の店に立ち寄って見つけたのが、「ブルーダニューブ」の「カップ&ソーサー」。

テッキリ輸入物だと思って2客購入したそれは、後に国産であることがわかったが、恐らく外人向けに店頭に並べられていて、当時は殆ど輸出品であったと思われる。

マイセンの「ブルーオニオン」ソックリは、実は美濃で焼かれた染付け磁器であることが判明したが、しかし今現在で約50年の歴史というから、入手した頃は、京都でも見かけず、多分市場に殆ど出回っていなかったため、「ブルーダニューブ」を、ましてそれを国産と知る人は余りいなかったと思われる。

それに今、小生が所有するものは、初期のものということになり、たび重なる引越しにもかかわらず、40年近く割れないで耐えて来て今も現役である。

息子が小学生になったとき、愛知県「岡崎市」で、一客買い足したのは、1984年のことであった。

「ブルーダニューブ」を2客購入してから、その斜め向かいにある「ハイウェイ」を発見したのだが、何せまだ学生の身だから、しばらく躊躇しながら、深呼吸して中に入った。
店は入り口が狭い、京都の洋食屋「のらくろ」や「小宝」をほんの少しだけ、モダンにしただけという感じだった。

勿論見た目はとりわけ高級そうではなかったが、テーブルクロスが、やけに白かった印象がある。
肉が余り好きではない結婚前の家内が、躊躇するのを押し切って、注文したのが、「オニオングラタンスープ」と「テンダーロインステーキ」。
知ったかぶりで「レア」と焼き加減を指定した。

ステーキで牛肉の美味しさを味わうなら、「レア」がよいと、食通達が物の本に書いていたし、折角神戸牛を堪能するのだから、当然「レア」にするのが耳学問からは当然とばかり思った結果のことであった。

入店した12時少し前、店にはわれわれの他に客は無く、ひっそりした店内の白いテーブルクロスが掛けられたテーブルの前で、料理を待った。

15分ほど立ったか、やがて「オニオングラタンスープ」が運ばれてきたので、アツアツを口に含むと、どうしたことか、期待した味ではなく、かなりアッサリ目の、どちらかというと、「コク」が無いものに感じられ、オニオンも、ソテーの色が薄い色に仕上げられていて、長時間ソテーされて出てくるはずの、あのオニオンの甘みが余り感じられなく、コンソメの味にも深みがないように感じたが、名のあるレストランだから、この味が正解なのだろうと、素人学生の小生は、黙って飲み干した。

スープが終わってさらに15分、これは待つ側にとっては相当長い時間で、少しイラついたが、これも有名レストラン、致し方ないかとじっと我慢した。

コック服の給仕が運んできたのは、陶器の皿に盛られた「テンダーロインステーキ」だったが、一目見たとき何かが違う感じがして、なんとなく悪い予感がした。

それでも長いこと待たされて、お腹の減り具合がピークを迎えたときだったので、ステーキにナイフを入れて、一口、そして二口。

一目見たとき、何かおかしいと思ったのは、ステーキの焼き色。
焼き色が薄くついていただけだったが、しかしこれもこのレストランのステーキの焼きの流儀なのかと思うことにして、ナイフを入れたのだった。

しかし、口に含んだ瞬間、小生は唖然としてしまった。
なぜならば、ステーキの中心が冷たかったからだ。
それもただ冷たいのではなく、冷蔵庫から取り出したままの状態のような、冷たさであることを、限りなく想像させる冷たさであったのだ。

それでも我慢しながら(ここが素人学生の身のつらさ)半分ほど口に入れたが、本来ならば美味しさの原点の脂肪が、真ん中部分で固まったままでいるような感触があり、肉の味も香りもしない状態だったから、こんなことは今まで絶対無かったことなのだが、大事なステーキを半分残さざるを得なかった。

結婚前の家内の皿はと見ると、3分の2以上も残している。

いくら焼きを「レア」で注文したとしても、ステーキの真ん中部分が冷たいものは、文字通りの「レア」。

これでは生肉を食べるのと同じ事となってしまう。
生肉を食べるなら、タルタルステーキでよいのだから・・・・


これはいったいどうしたことだろう・
普段、われわれのような学生風の客など来ないから、客を見くびって修行中のコックにステーキを焼かせたのだろうか。

「オニオングラタンスープ」を注文したから、普通に冷蔵庫から肉を取り出して、カットして、しばらく置いておけば、中が冷たいステーキなどになるはずは無く、表面はキチント美味しそうな焦げ目がつき、しかも「レア」に仕上がるはずである。

しかも肉の部位は、少ないグラム数では、厚みが取りにくい「ロース」の頭の部位ではなく「ヒレ」だから厚みが取れるのはずなのに・・・・

冷凍した肉をカットして、解凍するのに30分近く時間を要し、待たせた挙句に、料理の技術がないコックが焼いたために、表面が白茶けた焼き色で、内部が冷たいステーキを提供したのだろうか。

京都から食べたい余りやってきた、かの谷崎潤一郎が絶賛し、名付け親ともなったといわれる「ハイウェイ」のステーキとは、このようなものだったのか。

これは失敗であった。
「レア」でも「ミディアムレア」でもなく、「ミディアム」にするべきであった。

神戸の、しかも名前が通り過ぎてしまった(谷崎潤一郎のせいでもあるのだが)レストランは、きっと裕福な中年の客筋が多いのであろう。

従ってコンソメも、「お上品」に仕上げられていて、小生のような血の気の多い若者には合わないのだろうが、しかし、売り物の「肉」は、どう考えても料理として成立していない。

「レア」でステ-キを注文する客など、今までに存在しなかったのか。
勿論、今考えれば、店によって「レア」という概念が違うことを認めないわけでもないが、およそ一流の、(一流でなくても)ステーキを売り物にしている店であれば、内部が冷たい(常温ではなく、それ以下の冷たさの)物を堂々と客に出すようなことは、絶対にしないであろう。

表面がキチント美味しそうな焼色がつくぐらい焼けているにもかかわらず、内部の70%~80%がピンクから赤いグラデーションを保っている焼き加減が、「レア」であろう。
しかも肉の内部は常温かほんのり暖かくなければよい仕上げとはいえないのである。

今でこそこのようなことが言えるのだが、当時の小生では、いかんせんステーキの知識など到底持ち合わせていなかったし、ましてステーキを食べた経験は、大学受験の前日、なぜか父親が肉屋で「モモ」の部位を買ってきて、ガチガチのウエルダンで焼いた硬いものを、(トンカツのほうがいいのにと思いながら)我慢しながら食べた時と、親が京都に出てきたとき「のらくろ」で(焼き加減の注文など出来ないような)薄いロースのステーキを食べた時のことぐらいの稀事であった。

これがあの、名前が轟渡っていた「ハイウェイ」のステーキなのか・・・そう思いながら、ガッカリし、ひどく落ち込んだことを思い出した。


今思うに、多分冷凍の肉をカットし、解凍する時間が無かったため、そのまま低温でフライパンに肉を載せて、解凍しながら焼いていった結果が、表面が白xは毛、しかも技術が内製で、中の部位がまだ冷たい・・・決して「ステーキ」と呼んではいけない「ステーキ」となってしまったものと思われるのである。

ステーキのベストな、焼き加減を図るのは、経験と臨機応変の勘所、この両方が合わさって初めて、一人前にステーキが焼ける。


「ステーキは、誰にでも焼けるが、ステーキはまた、誰もが焼けるものではない。」


ホテルの厨房経験のある小生、今であればこのような料理に対しては、平気でクレームを付ける事もできようが、その頃はまだ素人学生、何も言えずに、泣く泣く食べ残して店を去ったのだった。

しかしお腹だけは無常にも空くので、南京町の「老祥記」の豚萬を10個購入し、殆どを一人でやけ食いのようにして食べたのだった。

「ハイウェイ」で出されたステーキは、今思い出すと、どうもテンダーロインはテンダーロインでも、尻尾の部位の「トルネード」か、「メダリヨン」あるいは「ミニヨン」だったようで、
真中の「シャトーブリヤン」ではなかったようだ。

こんなことからも、足元を見られたようで、後味の悪さが今も残っているが、この「ハイウェイ」今でもあるのだろうか。


「渡辺たをり」の「祖父・谷崎潤一郎の美味追求」によると、「谷崎が下鴨の家にいた頃、一時体の具合が良くなくて、食事が思うように食べられなかった事があったのだが、『ハイウエイ』のコンソメスープなら飲めるというので、この店にも良く使いをやってコンソメスープを取って来させたのだそうだ」

・・・という記述があるが、ハイウェイのコンソメの味は、いかにも老人好みの、あるいは一見京風の、薄味(塩気が薄いのでなく)コンソメ本来の「コク」(牛脛肉から取った出し汁という意味の)は余り感じられないものであったような記憶がある。

さすれば、神戸の上流階級か、中高年向きの味に整えてあったのかもしれない。
病気の谷崎が、唯一飲む事がとができるぐらい、(美味しいからではなく、実は京の吸い物のように、インパクトがないからだと、小生は思うのだが)これを美味しいからと、誤解させるようなところが、書物にはあるから、文筆リテラシーが必用なのだ。

「ハイウェイ」の苦い経験から、小生は「レア」でステーキの焼き加減を注文することは、金輪際しないことにしている。

by noanoa1970 | 2008-05-21 10:12 | 「食」についてのエッセイ | Comments(0)

谷崎潤一郎と白沙村荘

d0063263_11274824.jpg以前少し触れたことがあるが、谷崎潤一郎と往復書簡を取り交わし、小説「瘋癲老人日記 」の颯子のモデルになったとされる嫁「渡辺千萬子」は、橋本関雪の孫娘である。






d0063263_117710.jpg白沙村荘の庭でくつろぐ橋本関雪と千萬子と愛犬


「千萬子」という名前は関雪によって付けられたという。

千萬子は関雪の長女が、医者の高折家に嫁ついで出来た娘で、関雪は事あるごとに可愛がったという。

千萬子が渡辺に嫁いだ経緯は、資料が何も残ってないようだから、ハッキリとは分からないが、「江戸川乱歩」の日記に以下のような記述があることから、「乱歩」と関雪の長男「節哉」氏とは旧知の仲で、乱歩は「節哉」に頼んで谷崎の多分下鴨の「潺湲亭」を訪問したと書いている。

千萬子は昭和5年生まれであるから、下の記述の、乱歩が谷崎亭を訪問したのが、「千萬子」がこのとき17歳、同志社大学英文科を卒業したのが昭和27年だから、どう考えても結婚前のことと思われる。

乱歩の記述の「節哉」と「谷崎」の交際が、関雪を介在して行われたのだろうか、そして「節哉」の妹であり、「関雪」の娘でもある「高折」さんの娘=関雪の孫を、谷崎の家の「渡辺」に嫁がせたのも、なんとなく分かろうというものだ。


昭和22・1947年「江戸川乱歩日記」より

午前、橋本関雪邸の庭園と美術品を見る。谷崎潤一郎と交際のある節哉に仲介を依頼し、二人で谷崎の新居潺湲亭を訪ねる。《谷崎さんとは十年も前に一度文通したことがあるだけで、お会いするのは今度がはじめて、奥さんも同席され丁重な食事のおもてなしに預かり、お酒も出ていろいろ話をしたが、谷崎さんは文学談など好まれぬ様子なので、こちらも差し控え、結局文学以外の話の方が多かった》。二時間あまりで辞去、節哉と嵐山をドライブし、苔寺の庭を見る。夜は京大の小南又一郎の来訪を乞い、法医学の話を聞く。橋本亭に宿泊。・関西旅行日誌(昭和22・1947年)/探偵小説四十年(昭和32・1957年)


さて、「千萬子」が嫁いだ、「渡辺家」とはどういう家系なのであろうか。

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昭和38年頃,7月の谷崎の誕生祝いの集まりで,熱海梅園ホテルにて 左より惠美子,松子,潤一郎,重子,たをり,清治,千萬子,桂男(熱海 今井写真館所蔵)


かなり複雑で、調べるのに相当時間を要したが、やっと分かった。

谷崎の妻、(一度離婚したが、復縁することになった)谷崎松子と根津清太郎(大阪の豪商、松子は根津清太郎の前夫人)の子供の清治(従って松子の連れ子とということになる)を、松子の妹(渡辺重子)の養子にした(谷崎が自分と養子縁組をしなかったのは解せないが)後、「高折千萬子」と結婚、

「千萬子」と「清治」の子供が「たをり」というわけである。
「たをり」は、従って法律上は義理の妹になるが、実際は孫と同じであることになる。

d0063263_11225638.jpg「千萬子」は後に、銀閣寺疎水べりの一角で「アトリエ・ド・カフェ」という喫茶店を開くことになるが、小生は残念なことに一度も訪問した事がないうちに、閉じられててしまった。

また「千萬子」が、小生が白沙村荘にいた時代に、橋本家にやって来たという話は聞いたことは無かったが、節哉氏が無くなって久しかったし、いまや関雪の長男の子供「帰一」氏が、白沙村荘を一般公開に踏み切って、守る時代になったから、最早自分の実家という気持ちこそあれ、足を遠ざけていたのだろう。

関雪の娘、高折さん(旧名橋本妙子)のことは、名前は耳にしたが、顔の認識がないほど、白沙村荘とは疎遠となっていたようだった。


1946(昭和21)年の谷崎潤一郎詳細年譜(昭和22年まで)に以下の記述がある。
これによると、谷崎と「関雪」の息子橋本「節哉」の関係、そして渡辺「千萬子」の母親高折妙子:旧姓橋本妙子の関係が少し垣間見れる。

江戸川乱歩も小津安次郎も潺湲亭を訪問していた事。
「千萬子」の母親、高折妙子を三条木屋町にあった広東料理の「飛雲」に招待していたことも明らかになって、小生が好きであった店とオーバーラップするのが、何かの縁を感じることとなった。

11月2日、故橋本関雪白沙邨荘で銭に会い揮毫をしてもらう。これ以前か、朝日新聞支局の紹介で関雪の息節哉に紹介され、ついでその妹妙子、その夫高折隆一を知る。

5月12日、春日豊(とよ、小唄演奏家、67)来訪、春琴抄の小唄聴く、磯田又一郎来るので豊に紹介、橋本節哉、宇佐美佐藤を紹介、銭の使いなり、西田秀生来訪、来客多く静養どころでない。

7月4日、井上金太郎、小津安二郎(45)来訪

10月17日、江戸川乱歩(55)が訪ねてくる。

1947年3月21日、国井夫人(市田やえ、38)、高折妙子を飛雲へ招待、四条木屋町の萩原正吟宅で繁太夫の鳥辺山など聴く。


谷崎潤一郎を巡っていくと、思わぬところで「縁」を感じるところがある。

2月26日は、橋本関雪の記念日で、恐らく現在も、月心寺で記念行事が開催されていると思われるが、月心寺の村瀬尼により、その昔、2月26日の関雪記に、谷崎潤一郎が、渡辺「千萬子」を伴って、月心寺を来訪したことが書かれている。

by noanoa1970 | 2008-05-20 11:10 | 白沙村荘随想 | Comments(0)

京都岩倉のアパート下宿・・「谷崎」と「はつ子」を巡って

1969年のこと、小生は上賀茂の下宿から、岩倉のアパート下宿に移ることにした。
白沙村荘のバイト仲間、S倉の誘いもあり、銀閣寺までバイトに通うのが何かと便利だったからである。

初めての鍵付の部屋だったことも、引越しの充分な理由であったし、何しろ出来立ての新築であったから魅力だった。

上賀茂では、当初便利な賄い付だったが、バイト先で晩御飯を食べることが多くなってから、かなり無駄にしていたから、経済的でもあったのだ。

S倉は半年ほど前に、銀閣寺に近い下宿先から、岩倉に引っ越していて、静かで快適な環境がよいとも言っていた。

その頃の岩倉は、京都市内ではあったが、「ど」という言葉がつくほど田舎で、叡電が修学院を過ぎると、あたりは急に京都らしくなくなり、周囲は畑ばかりの、長閑な風景が広がるところであった。

S倉が岩倉のアパート下宿に引っ越すことにしたのは、他にも理由があって、それは「奥山はつ子」という、その昔は、祇園の名妓と評判の高かった人が、白沙村荘の橋本「関雪」か息子「節哉」あたりと旧知の中だったのだろう、時々白沙村荘を訪れていて、小生のバイト中にも、幾度と無く顔を見せていた。

その「奥山はつ子」さんから、お菜ところの田鶴子おばさんが、「今度岩倉に自分の家を新築し、同時に学生向けのアパートを隣接する」、という話を聞き、恐らく学生さんを紹介して欲しいなどといわれ、小生より半年ほど前に、白沙村荘のバイトに入ったS蔵に、白羽の矢が立ったというわけだった。

それからしばらくして、S倉の誘いで、まだ空きの有る部屋に小生が入ることになったというわけで、最終的には、DRACのメンバーが都合3人入ることとなった。

「はつ子」さんは当時いくつだったのか、実際の年より随分若く見える感じがあったから、それでも65歳ぐらい(お菜ところの田鶴子おばさんと同じぐらいの)だろうか。

いつも元気で、着物の上に上っ張りを着て、玄関周りを掃除している光景を思い出す。

ただ、同じアパートの住人の中で、アパートの持ち主、「はつ子」さんの、かつての素性を知るものは、われわれを除いて殆ど居なかったであろう。

谷崎潤一郎と往復書簡を交わした、「渡辺 千萬子」は、白沙村荘「橋本関雪」の娘の子供つまり孫で、谷崎の妻「松子」の連れ子と結婚し、谷崎が愛したといわれる女性だが、奥山はつ子も芸子時代、谷崎とその妻両方から好かれたといわれる、祇園の名妓であった。

谷崎の「京羽二重」の中に「奥山はつ子」のことについて、書かれている件があるので掲載する。

抜粋だが、谷崎は随所に、「はつ子」の踊りのこと、そして顔立ちと黒髪の美しさ、等を絶賛している。

音楽評論家の「野村光一」が、「はつ子」を見に、ワザワザ訪れたというエピソードも添えられていて、少なからず驚いた。


(ある人との会合先について谷崎は・・・・)
『私は又躊躇するところなく「奥山」を希望した。
 会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売つた奥山はつ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、諄(くど)くは書くまい。嘗(かつ)て彼女が祇園を去つて料理屋兼旅館の女将となつたと聞いた時、私はこの上もなくそのことを惜しんだ一人であるが、今日の会場を私がこゝに択(えら)んだのは、ひよつとしたら毎日新聞や山口君の顔で、こゝの座敷でなら彼女が得意の地唄舞を舞ふのを見ることが出来ようかと思つたからである。』

『他にどんな名人がゐるにしても、はつ子の「黒髪」ばかりは絶品であると私の妻は云ふのであるが、私もそれに異議は称(とな)へない。、祇園花柳界のあの正式の服装、––はつ子が「黒髪」を舞ふ時はいつもこの服装である。そして誰よりもこの服装が似合ふのもはつ子である。舞は舞そのものゝ技巧ばかりが凡(す)べてゞはない。何と云つても美貌がそれに加はることが条件である。はつ子の場合は正にそれである。あゝ云ふ顔は単に祇園の花柳界のみを代表する顔ではなく、京都全体の美を象徴するものと云へる。あの顔を見てゐると、京都の持つ幽艶、気品、哀切、風雅、怨情、春夏秋冬のさまざまの変化、さう云ふものゝすべてがそこにあるやうな気がする。』


『はつ子はと見ると、頭を普通の引つかづけにして、飾り気のない質素な女将の身なりをしてゐる。あ、この頭ではあの「黒髪」は見るよしもない、今日は舞はない気なのか知らんと、少しがつかりする。』



『今日は先笄の頭と白襟黒紋附の姿は遂に見ることが出来ないけれども、兎も角も舞つてくれると云ふのは特別のサービスである。訪問着は濃い納戸色(なんどいろ)で、それにアイボリー色の紙衣(かみこ)の帯を締めてゐる。帯には濃い茶の花兎の模様がある。髪は地髪を自分で器用に髷(まげ)に作つて載せてゐる。』



『さう云ふ藝者臭くないところ、銀座臭い感じのところが、徳七翁のお眼がねに叶ふ所以(ゆゑん)であつたかも知れない。
 はつ子は云ふ、自分は美容院などへも行つたことがない、自分もパーマネントをかけたいと思ふけれども、ドライヤーに頭を入れるとムカムカして気分が悪くなり、吐き気を催して来るので、あの中へ這人ることが出来ない、髪を結ふにも、髢(かもじ)は使ふことがあるけれども、鬘は殆ど使つたことがない、
「あたしの髪はいつも地髪で結ふのどつせ」』



また、歌人である田中保子さんの「京のうんちく」の京女編の中にも、奥山はつ子のことが書かれている。
奥山はつ子、本名奥山初は明治、大正、昭和の三代にわたって
磨きぬかれた京女として生きた。
はつ子は数え年十三歳で舞子になった。
(註、はつ子曰く、祇園町では舞妓やのうて舞子、芸妓も芸子いわんといかんのどっせ)
普通は十歳、 身体が弱かったはつ子は遅れたことに持ち前の負けん気の拍車をかけた。
京大内科の松尾部長(俳人いはほ)は
~初髪やはつ子はつ子とうたはれて~と詠む。
妓籍の女だけではない、京の女はよう気張る。


かつて、祇園の芸子集の中でも、ひときわ異彩を放って、各界の著名人から、贔屓にされたという「はつ子」さんが、後に岩倉に引越し、学生アパートを経営するというなんていうことは、谷崎は、よもや思いもしなかったことだろうが、これも時代の流れというものなのか。

その当時「はつ子」おばさんは、どのような気持ちで、毎日暮らしていたのだろうか。

知っている彼女の自慢は、息子が京都大学卒の優秀な人であるということだ。
そういえば、アパートには、京大生が数人居て、夜な夜な騒ぐ小生たちを、白い眼で見ていたことがあった。

by noanoa1970 | 2008-05-19 16:08 | 白沙村荘随想 | Comments(0)