早生まれは遅生まれではないのか?という疑問

小生は3月が誕生日である。

小さいときに、「うちの子は、早生まれだから・・・」などとよく母親が人にしゃべっているのを聞いてきた。

しかし小学生になると、周りの人は殆どが前年の4月以降の生まれだったから、何故次の年の3月に生まれた小生が「早生まれ」なのかと、ズーッと疑問であった。

それらの人に比べれば、翌年の3月に生まれたのだから「遅生まれ」といってもおかしくは無いのが理屈である。

昨日急にこの時の疑問が頭を過ぎり、おおよそは理解しているつもりだが、一応調べることにした。

小学校の1年生あたりでは、早生まれとそうでない遅生まれの成長経験の差は最大12ヶ月あるから、この差はこの時期物凄く大きい。

幼稚園児と小学生が同居しているといっても過言ではなく、生育の遅い傾向にある早生まれとそうでない子供の体の差も激しかった。

それがどうやら縮まるのは、小学生の半ばごろだったような記憶がある。

同じ学年でも、最大12ヶ月の開きがあるというのは、次の例で明らかだ。

例えば、2000年4月2日生まれと、2001年4月1日生まれのでは丸1年違うにもかかわらず、同学年なのである。

調べて整理すると

【 早生まれ 】
1月1日~4月1日に生まれた人のこと。
→ 数え年7歳で小学校に入学します。
→ 入学当年は満年齢6歳。(入学前に満年齢6歳になったばかりです)

【 遅生まれ 】
4月2日~12月31日に生まれた人のこと。
→ 数え年8歳で小学校に入学します。
→ (入学前年に満年齢6歳になっており)入学当年は満年齢7歳になります。

つまり、1月1日~4月1日に生まれた人は、小学校に入学する年齢が数え年で1歳早く、入学当年に迎える満年齢で言っても1歳早いため、早生まれと言うのです。

何故4月1日生まれが早生まれとなるのか

民法第143条によると、満年齢は起算日に応当する前日をもって満了する、とあります。誕生日の前日で満年齢になるわけですから、4月1日生まれの方は民法上、その前日の3月31日で満6歳とみなされます。学校教育法第22条によれば「満6歳に達した日の翌日以降における最初の学年の新学期(4月1日)をもって小学校の就学が始まる」とありますので、4月1日生まれの児童は早生まれ扱いとなって、小学1年生になります。4月2日生まれの児童は、4月1日で満6歳になるので、翌年の4月1日に入学となります。

4月1日生まれの子供は、かなりかわいそうですね。
この時期の1年の差は大きすぎるから、同じ学年で学校教育を受けることには問題がありそう。

ひょっとして、母親は小生の身体が小さかったのと、勉学が人より遅れていた?野を、「早生まれ」のせいにしていた・・・そんな気が今はしている。

文部省はこのことを問題にしていないのだろうか、少々気になることではある。

ちなみに小生の息子も2月だから早生まれだ。

小学校停学年次には、人知れぬ嫌なことがあったのかもしれない。

田舎で育った小生は、人一倍の腕白だったから、余りそれに関係するものは無かったが・・・

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by noanoa1970 | 2008-03-31 15:44 | トピックス | Comments(0)

上がった下がったまた上がった

・・・といっても、今話題の暫定税率廃止による、ガソリン価格の引き下げのことではない。

昨夜息子が出張のついでに帰郷した。

今日は、瑞穂競技場で行われる名古屋グランパスと、大分の試合を見るのだそうだ。

武蔵野リーグに加盟するサッカーチームで体を動かすばかりか、サッカー審判の3級の試験にもパスしたらしく、この前帰ったときに、レッド、イエローのカード類と、審判章を自慢げに見せてくれた。

息子は「ストイコヴィッチ」ファンで、グランパスの試合を、エキジヴィジョンからすべて見ている。

というのも、チケットの自由が利く人の息子さんと、大学生時代から一緒にサッカー観戦をしていた縁が続き、息子が東京に就職した今もなお、律儀にお誘いが来るという。

それにしても、グッドタイミングで、よく関西地方に出張があるものだ。

いつもは自由席だから試合開始2時間前には会場に行くのだが、今日の試合はロイヤルシートの幸運に恵まれたせいか、ギリギリの会場入りでよい。

それで、我が家から30分のところにある、アウトレットモールJAZZ・DREAM・NAGASIMAに行くと言い出した。

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お目当ては、サッカーウエアーで、ストイコが現役時代に着ていた「ル・コック」の店だ。

小生は、近年までアウトドア関連の・・・パタゴニア、モンベル、ノースフェース等を好んでいたが、最近では昔購入したものしか着る事は無くなった。

このアウトレットモール、人気が有るのか、最近店舗が増え、数えてはいないが、ザット50以上の履物を含むアパレル関係の店舗ガ有る。

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広い敷地内にパティオ風に設けられた店舗がひしめき合っていて、とても1日ではすべてを見ることが出来ないほどだ。

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さらに名古屋の有名飲食店・・・たとえば味噌カツの「矢場トン」、ラーメンの「江南」、他にも名前さえ知らない(が多分有名なのだろう)店舗が併設されているし、すぐ近くには、長島温泉湯浴みの島、なばなの里、ホテル花水木 等のアメニティ施設がある。

広大な駐車場は、10時にはほぼ満車状態で、遠い県外からの観光客も多い。

同行の人の買い物に付き合うのは、他人でも、身内でも結構疲れるものだが、幸い90分でお目当ての買い物が終わって出口に来ると、ゴーという列車の走るような音と一緒に、キャーツという、悲鳴とも歓声ともつかないような、叫び声が聞こえてきた。

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見るとそこには巨大な、そしてかなり急勾配のジェットコースターが、満員の乗客を乗せて物凄いスピードで、上昇下降を繰り返していた。

上昇するときには余り越えは出ないようだが、TOPまで行って、恐らく視線が空中しか見えないときから、下降に掛けて、大声で叫んでいるらしいことが分かったが、見ているだけで、背筋がゾーッとしてくるのに、実際に乗り込んだとしたら、どうなってしまうのか。

乗ってみたいかを聞くと、案の定イヤだという息子。

我が家の家系、高度恐怖症でもないと思うのだが、あんなものに平気で乗り込むことが出来る人種、尋常の神経の持ち主ではないように思ってしまう。

小生は、他人の作ったものを信用しない性質なので、飛行機、船には余り乗りたくない。

ましてジェットコースターなど、論外である。

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by noanoa1970 | 2008-03-30 18:26 | 季節の栞 | Comments(2)

痛い思い出

保育園児の頃、小生は知多半島の付け根の、「聚楽園」という町に住んでいた。
今では巨大製鉄業の工場が立ち並ぶところとなってしまったが、その頃は愛知製鋼という会社が出来たばかりで、海岸を少し埋め立てたところに工場があった。

それでも、まだ海は海水浴が出来るぐらいきれいだったし、牡蠣やボラやシャコを取ることが出来た。

農家の離れを借りて住んでいたその家は、名鉄電車の聚楽園駅のある海岸べりから、歩いて15分ほど坂を登ったところにあった。

保育園は、家から10分ほどの距離にあって、途中の家の生垣には、季節になると、とてもよい匂いがしていて、今思えばそれは、「梔子」の花の香りであったようだ。

小生は保育園に居るのがイヤで、良く保育園を脱走して家に帰って来たそうで、そのときかどうかは、定かではないのだが、あるとき保育園の帰り道の事それは起こったのだった。

腕白坊主で有名だった小生、前方に牛車が大八車を引いて進んでいくのを発見した。

一緒に帰ったもう一人に、「あの車の後ろに、ぶら下がって帰れば楽チンだから」などと、駆け足で牛車に追いつき、荷台の最後部に、ぶら下がることにした。

背伸びをするか、少しジャンプすれば、ギリギリ牛車の荷台の縁にぶら下がれるから、背の低かった小生は、ジャンプでぶら下がった。

楽チン楽チンと、得意になっている幼児二人が、ぶら下がったまま、牛車はしばらく進んだが、上り坂になったとき、突然牛が歩くのを止め、こともあろうか、少し後ずさりをした。

背の高かったもう一人は、すぐに荷台から手を離したが、背の低かった小生は、飛び降りるタイミングを逃したので、そのままなお、ぶら下がっていた。

大八車がバックをし始めたときに、さすがに危ないと思って、手を荷台から離したが、時すでに遅し、地面に転んでしまい、そのとき小生の左のふくらはぎ付近を、牛車の轍が通過したのだった。

記憶は無いが、多分大声で泣き喚いたのだろう。
牛車の親父がやってきて、「お前どこの児だ」といいながら、多分おんぶして家まで連れてきてくれた。

そして、出てきた母親に「お前のとこの子供は、どうにもならん。大八車にぶら下がって悪さして・・・それで足を怪我した」といったそうだ。

今なら・・・理由はともかく、加害者側には違いないから、違う対応をしなくてはならないだろうが、その頃の田舎のこと、怪我をした小生が一方的に悪いということになって、農家の親父に怒鳴られた母親は、平謝りに謝ったそうだ。

積んでいた物が刈り取った草だったので、幸い骨は折れてなく、かなり重症の捻挫。
おかげで、嫌な保育園に行かずに済んだ覚えがある。

55年ほど前のことだから、今ではそのときの痛みの記憶はすでに無いのであるが、何故か母親は、その事件を事あるごとに、他人に必ずといっていいほど言うのだった。

何故他人に、やんちゃが引き起こしたこととはいえ、子供の不幸や痛みを伴う事件の詳細を言うのか、分からない日が続くのであった。

小学校に上がる少し前に、借りて住んでいた海岸べりの農家の離れ家から、かなり離れた小高いところにある、父親の会社の社宅に引っ越すことになり、そこで新1年生となった。

小学校は平州小学校といって、江戸時代の学者「細井平州」の出身地に有った。
子供の足で、有に30分はかかったが、通学の道中は面白いものばかりで、飽きることが無かった。

「カゴメ」といえば、今では大きな食品会社となったが、その頃は「トマト会社」と呼んでいて、工場の傍を通ると、いつもウスターソースの匂いと、常滑で焼かれた大きな「甕」が一杯並んでいて、そこから残存ソースが地面人流れ、水溜りに流れ出して、水が一面ソース色になっていて、しかもそこには赤い腹をした「イモリ」が、数十匹群れていたのを見たときには驚いたものだった。

トマト会社の「蟹江」君(以前のカゴメのTOP)とは、保育園で一緒だった。

学校から家に帰る直前に、良く神社の境内を通り越し、そこから神社の池の周りのあぜ道を通って帰るのが常だった。

この畦道には「肥溜め」があって、新1年生になると、先輩から諸注意の一環として、その場所の存在を教えられていた。

しかしあるとき、東京から転勤してきたA君は、その言動が田舎の子供達に気に入られなかったためか、あるいは巨人ファンがよくなかったのか、(周りの子供は、全員中日ファンで、野球帽のつばに、それぞれ好きな選手の写真が印刷してあるものをかぶっていた)「肥溜め」の存在を教えなかったため、あるとき池の周りをカケッコしていたとき、前を行く地元の古手のみんなは、それを軽く跳び越すのだが、東京からきたA君は、見事それに嵌って肩まで漬かってしまった。

泣きながら帰るA君を、遠巻きにしながら、そして次の朝学校に行くときにも、可愛そうにA君は、集団の中に入れてもらえなかった。

見かねたA君の親が、登校の朝やってきて、「何度も風呂に入り、もうスッカリきれいになったから、のけ者にしないで」と、頼んでからは、虐めは無くなった。

今で言う「虐め」は、その昔から有ったが、昔の虐めの対処には、必ず親の存在があって、子供は親に虐めの実態を話し、親は良く子供の話を聞き、その上で自らが対応した。

もしこのことで、その親が学校に相談し、先生から注意を受けることになっていたら、ひょっとしたら虐めが続いたのかもしれない。

その頃は、子供といえども皆、地域社会(この場合は社宅という)で生きていたのである。

親や親の知り合いの様々な存在は、子供にとってはかなり大きなものであった。


話は痛い思い出に戻る

「猩猩メッタ」についての記事を発見したのでリンクしておく。
どうも隣町名和の祭りの風習のようだが、猿田彦と関係が有るやも知れない。

社宅から程近い池の傍には、神社があって、そこの境内は子供の遊び場でもあった。

野球や、鬼ごっこ、蝉取り、相撲、独楽回し、などはこの神社の境内で殆どやっていた。

季節は何時だったか・・・春か秋、多分秋だったと思うが、神社のお祭りには、わずかながら屋台が出て、この地方の特色なのか「猩猩メッタ」と呼んでいた、鬼のような仮面を付け、蓑をまとった・・・今考えると地元の青年団(小生たち社宅の住人は、この土地の土着の住人からは、異邦人であった)が、お酒をあおってから、竹刀のようにした竹を手に持って、子供達を追い掛け回し、その竹刀のようなもので叩くという風習があった。

先輩達から、怖いと聞いていたから、屋台の綿あめは欲しかったが、「猩猩メッタ」も怖く、子供心に何時やって来て、竹で叩かれるのか、不安でたまらなかった。

しかし、怖いもの見たさも有ったので、来る方向が2つしかないのを見定め、来たらすぐ知らせるように偵察を置いて待っていた。

その日はあいにく昨夜の雨で、まだ道路はぬかるんでいて、足元は良い状態ではなかったが、子供にとっては、余り関係の無いことで、しばらくすると思っていたとは逆の方向からやつらが数人でやってきた。

「猩猩メッタ、くそメッタ、土手から生まれた土手カボチャ」というのが、ヤツラを怒らせる常套句のようで、みんなはその言葉を口に出して神社の境内を逃げ回った。

神社の境内の入り口には、よくあるように、石の階段があって、そこから来ると思っていたが、それとは逆、池のある方角からヤツラがやってきたから、小生たちは泡を食って、あの言葉を発しながら、神社の入り口のほうに走って非難した。

それでも、しつこく「猩猩メッタ」の一匹が追いかけてきて、階段の上で追いつかれそうになった小生、足を滑らせて雨で濡れた石の階段を、腹ばいになったまま滑降し、階段下に有った石碑の角に頭を強打した。

覚えているのは、ドンという鈍い音、痛みはさほど感じなかったが、気がつくと周りには人が一杯いて、何か言っている。

額の上に鈍い痛みを感じたので手で触ると、手には真っ赤な血が、横を見ると、赤茶色の地面が目に入ってきて、やっと先ほど起こったことが何であったか理解することが出来た。

どのくらい経ったのか、しばらくすると父親が出張中なので、パニック気味であわてている母親と妹が一緒にやってきて、誰かに会社に妹の主人が居るから連絡を取ってくれと頼んでいる。

付近には電話もないし、家に帰ったところで、電話も無いが、ちょうど運の良いことに神社の神主の家には電話があって、そこから連絡が取れ、母親の妹のダンナ・・小生の叔父が駆けつけてくれた。

小生はなんだかお腹が空いて、妹が持っていた菓子パンをひったくって食べると、それを見ていた周りの人たちは、そのぐらい食欲があれば大丈夫だ・・などと勝手なことを言っていた。

その間30分以上あっただろう、出血もやや収まってきたが、そのときのことを母親は頭が割れて中の骨が見えていたというが、多分見えていたのは頭蓋骨ではなく、皮下脂肪かなんかだろう。

大きな病院があるのは、隣の名和という町。
歩いて1時間はかかるし、公共交通機関のあるところまでは30分あるから、会社に頼んで車を出してもらって、病院にいったことを覚えている。
小生は車に乗れるほうが嬉しくて、なぜかこのときの痛みは鈍いドンとしたものしか記憶が無い。

12針縫ったと聞かされ、この話も後年の語り草となって、高校生になったときまで、聞かれた。

後に神社の石碑の前に行って、塩でお浄めをした。

勿論母親のこと、だれかれと無くこのことを話しているから、小生が知らない人手さえ。このことを知っている人は多いはずである。

今でもこのときの「眉間の傷」は残っていて、少なくなった髪の毛を掻き揚げ、鏡を見るたびに、あのときの鈍い痛みが甦るのである。

父親は肝心なときになると、出張していたようで、あの「伊勢湾台風」のときも、家には居なかった。

母親がパニックになる寸前までなっていたのを今でも覚えている。

小生は・・・殆ど小生の年代はそうだと思うが、小さいとき魚で育ったおかげなのか、
骨を折ったことは一度も無い。

野球をしていたときボールが側溝の下に入ってしまったため、重いコンクリートの側溝の蓋を持ち上げて、友人に上部を持たせていたところ、手を離した蓋が足の甲に落ちたときでさえ、骨折しなかった。

棚のレコードを取ろうと登リ、肩からまっさか場差に落ち鈍い音がしたときには、十中八九骨折だと思ったが、レントゲンの結果は、皹が入っているかもしれないという診断で済んだ。

このときはさすがに、右手が3ヶ月肩から上には上がらなくなって困ったが・・・

幼児期の痛い思い出のことは、昨夜突然思い出したが、その原因となるものには、思い当たるものは無い。

そして今でも、その原因がなんだったか、心当たりを探している最中である。

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by noanoa1970 | 2008-03-28 11:40 | 歴史 | Comments(2)

宝石箱

机の引き出しを整理していると、昔使ったフォノカートリッジの残骸を発見。
懐かしくなってUPしておくこととした。

これらは、1970年代に主に使用したもの。

シュアーV-15TYPEⅡ以外は、すでに現役を退いてしまったが、この時代は贅沢にも、寿命の遥か前にして、使わなくなってしまったものばかりだから、多分今でも問題なく使えるはずだ。

そのうち試してみようと思う。

並べてみると、まるで宝石箱。昔カートリッジはみな、高級そうなケースに入っていた。
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シュアーV-15TYPEⅡの本体の箱と、交換針の入った箱。この頃は1ドル360円だったから、舶来物は、物凄く効果だった。
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こちらは、SATIN・M14Lの交換張り。サテンは、大学のすぐ傍の小さなラボラトリー、その音は文字通り絹のようで、大学のサークルでも、高級品のサテンを使用していた。
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マイクロのVF-3200。ヴァリレラタイプのMMカートリッジで、そこそこいい音がした。マイクロの中級以上のプレーヤーには、最初からこのカートリッジがついていた。
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オルトフォンのMC-20MKⅡとMC-20。
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高級カートリッジメーカー、オルトフォンの普及器MC-20。クラシック専用に使用した。JAZZには矢張りシュアーが適していた。
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グレードアップしたオルトフォンのMC-20MKⅡ。このクラスになると、情報量が極端に増加するのとともに、レコードの音が生き生きしてきた。
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by noanoa1970 | 2008-03-27 09:21 | オーディオ | Comments(2)

早春の長浜

早春の伊吹山。雪がなくなると少し不恰好だが、春の恵みの宝庫だ。
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曳山会館に併設された「伝承スタジオ」この100人収容の小さなホールで加川のコンサートが開催された。古い櫓のようなものがテッペンにある。
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いつも利用する商店街の中の蕎麦屋「そば八」。最近地元の・・伊吹山麓の地粉を使用するようになった。
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古民家をガラス工芸美術館にしたところ。表通りに面したショウウインドウには、かわるがわる工芸品が展示してある。
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獅子舞の訪問を見たのは、初めて。漫才なら、昔は正月に一軒づつ尋ねてきて、ご祝儀を渡したことがあったが・・・新春のお祝いで、この地方独特の風習なのだろうか。
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去年までは、ごく普通の民家だったが、今はオープンカフェになった。天気の良い土曜には利用する人も多い。
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黒壁スクエアから商店街を見る。良い季節の土曜日、さすがに人通りは多い。
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商店街の和菓子屋さんの横に湧いて出る清水。愛犬シバの水分補給では、もったいない。伊吹山麓の地下数百尺から沸いてでる、炭酸カルシウムを含んだアルカリ水と書いてある。飲んでみるとやや硬質に思われた。
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商店街を流れる川面。水生植物は今年も健在だ。
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商店街の裏通りから眺めると、モダンだが古い建物が目に入る。
商工館として使われているようだ。
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by noanoa1970 | 2008-03-25 09:57 | 季節の栞 | Comments(1)

加川良in長浜

昨日加川良のコンサートに、滋賀県長浜に行ってきた。
彦根出身の加川にとって長浜は、異郷の地ではない。

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曳山会館に併設された、100人収容の小さなホールが、今日の会場だ。
曳山会館とは、5月に開催される、長浜伝統の曳山祭りに市内を引き回される、大きな山車が収納されている会館で、それに関する者がいろいろ展示されているところ。

小生はいつも、この曳山会館にあるトイレを利用することにしている。
ここは観光客には、余り知られてないトイレで、とても清潔だし、手洗い場所には、液体石鹸がおいてあるから、具合がいいのだ。

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今年から地元の伊吹山麓の地粉を使っている、「そば八」で遅いお昼を食べた後、本日の会場でもある、曳山会館にトイレとお茶を飲むために向かったのが、14時30分。

コンサート開始は17時、会場が16時半だから、その後同行した愛犬シバの散歩を兼ねて商店街にある公園に行くつもりをしていたのだった。

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曳山会館のカフェにいこうとすると、その向こうの会場ホールから、設備関係者がPA装置のテストをやっていて、ホールの扉からは照明がもれていたので、事前にホールを見ておこうと、許可を得てホールを覗いてカフェに戻ろうとすると、家内がカフェにいる誰かと話している様子が目に入った。

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近づいて驚いたのは、家内が話をしているその人は、本日の出演者「加川良」その人だったからだ。

小生が近くに行くと、彼はこんにちは・・・と例の声で挨拶をし、どこから来たのかとか出身地のことや、最近滋賀県が好きになったとか、挨拶代わりの軽いおしゃべりをした。

前々から家内は、「加川さんに会ったら、あのことを絶対言うんだ」と、じょうだんまじりに、よく言っていることがある。

それは、息子の結婚式のエンディング、新郎の父の挨拶という慣習行事の際に、小生は挨拶の後、加川の「流行歌」という曲を流すとに決め、息子にそう伝えると、長くなって時間が足りないからと、余り気が進まない様子だったので、「俺の言うことが聞けないのだったら」、・・・などといって半ば強行的に、実行したことがあった。

そのことを加川に伝えたいと、かねてから・・・いわば、小生批判的な要素を込めて言うのだった。

殆ど見込みのないたわごとを・・・と、子バカにしていたのだったが、偶然にもそれを実行できるときが、現実となったのだが、小生は、まさかそのことを加川に言うはずはまいと、信じていたが、その期待は見事裏切られることになったのだった。

息子のの結婚式の新郎の父の挨拶の後、「流行歌」を流したこと。
結婚式披露宴の事前打ち合わせの時、この曲を流すことに渋る息子に、小生が、言うことが聞けないのなら、結婚式をぶち壊す・・・などと息子に言ったこと。

少々大げさだったが、半分まじめな顔をして加川に話すのであった。

加川は、例の調子で、それは息子さん迷惑な話だったでしょうね。
私の歌でご迷惑をおかけしたとは、申し訳ないことでした・・などと、やんわりと受け流してくれて、とてもよい雰囲気に終わった。

コーヒーを飲み、タバコをすいながら、テーブルの上にスケジュール調整らしきノートを広げて、見ている最中にもかかわらず、加川の気さくな応対に感謝の念を覚えつつ、1枚写真を撮らせてもらった。

演奏中の写真は撮れないだろうから、貴重な写真となる旨お礼を言うと、意に反し加川は、いや、他の客に迷惑さえかからなければ、かまいません。
そこは大人ですから・・・と肖像権侵害はないだろうことを示唆するのであった。

それで小生は、今回はフラッシュは焚かないで写真撮影しようと決めたのだった。

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(最後の写真は「流行歌」を歌ったときの映像)


家内がついに話してしまった、我が家の「流行歌」騒動の顛末ハ、加川の演目に影響するのかは期待していなかったが、加川がこの問題作を、一応のエンディング(アンコールは2曲あったが、その前の)の曲として、歌ってくれたことが何より嬉しかった。

加川も60歳となって、心境の変化があったのだろうか、昔は、「冗談やで」といって歌っていたのが、「たわごと、60のたわごと」と随所で言う彼がそこにはあった。

知らない人が見たら、民謡か、古典芸能のコンサートかと見まがうような、平均年齢50の後半バカリが座っている、異様な会場の雰囲気だから、加川もそれを十分意識した演目を考えたようだ。

しかし、昔の歌を演るそのアレンジは、かってのものとは相当異なっていて、しかもそれが決して違和感無く、古いけど新鮮に感じられるところに、加川の真骨頂がある。

影響を受けたと自ら語る「高田渡」亡き後、彼の系統を引き継ぐ数少ない一人となった彼では有るが、高田との決定的違いは、使われる詩そのものが借り物か、オリジナルかである。

高田が借り物の曲と詩を、高田オリジナルという域まで昇華させて歌ってきたのとは異なり、加川は借り物の曲に殆ど自分オリジナルの詩を付け、それを加川独自の歌としてきた。

いつまでも眠ろう
何度でも生きよう

本日最初に歌った曲、恐らくコアな加川ファンでも、余り聞いたことが無い曲だと思うのだが、この曲は、アイルランドのトラッドフォーク : Mo Ghile Mear 「素早き戦士」に詩を付けて、加川流にアレンジしたものだ。加川の作品かどうかは分からないが・・・


加川も、高田も、アメリカントラッドフォーク、モダンフォークの洗礼を受けて育ってきたと思われるが、どうやら(何時からかは分からないが)そのルーツのアイリッシュ、スコティッシュのトラッドフオークに行き着いた(取り上げた)ことを、小生としては、自分がフォークソングに関して音楽的に歩いてきた道と同じものを感じるところがあって、大いに共感を覚えたのだった。

というわけで、

本日は最初の・・・題名さえも分からないが、アイリッシュトラッドフォーク
Mo Ghile Mear :「素早き戦士」に詩を付けた曲、そして最後の「流行歌」。
それだけでも十分満足のコンサート、そして偶然にも加川と話すことが出来たことで、息子の結婚式で流した加川の歌の意味が、ますます増した様に思えるのだった。


追伸
最初に歌った曲、「いつまでも眠ろう・・・」は、ハンバート・ハンバートの「喪に服す時」という曲だと判明したが、原曲はアイリッシュトラッドフォークの「素早き戦士」であることは、間違いないと思う。

この曲は、以前にもブログで取り上げたことのある、小生が好きなチーフタンズのロングブラックベールの中で、スティングがアイルランド語でうったった曲でもある。

youtubeに動画があるのを発見したのでリンクしておく。
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by noanoa1970 | 2008-03-23 11:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)

加川良in長浜

昨夜は・・・17時から始まったので、正確には昨夕はというべきかも知れないのだが、珍しい時間帯に開催される加川のソロライブが、滋賀県長浜市で開催された。

前回の岐阜県北方町では、他のゲストとともに行われたから、今回はタップリ彼の歌が聞けると、かって知ったる長浜の町に繰り出した。

土曜日の長浜行きは、ほぼ10年ぶりのこと。

観光客で駐車場が満杯になるのを予想して、また少し遅いお昼を長浜の
「そば八」という蕎麦屋で取ると決めた。

去年までは福井産のそば粉を使っており、「越前蕎麦」にしては、細義理内だったので、小生の好みだったが、今年は地元伊吹山麓の地粉を使って打っている。

しかしなぜか、きり方はあの福井でよくある、やや太目の「おろし蕎麦」の切り方にして有った。

この太さは、この微妙な風味の伊吹玄蕎麦には合わないと思いつつ、それでも福井で食べる「おろし蕎麦」よりは、相当良かったので、一気に平らげた。

もう少し細切りにすると、この蕎麦にはピッタリだと思うのだがいかがなものか・・・・少々もったいない気がしてならない。

会場は、曳山会館のすぐ横に併設された、100人収容の小さなホール。
ライブハウスとは全く異なる・・・所謂コンサートの雰囲気がある。

その昔金沢に単身赴任しておいたとき、偶然入った喫茶店のm、アスターが、大学の1年先輩で、しかもJAZZやフオークコンサートのプロモートをやりつつ、自らの喫茶店で、ミニライブをやっていたので、彼の経営する金沢の石引にある「ジョーハウス」が都合で閉店となるのを記念して、開いたものの一つが加川のライブだった。

このときは40人ほどのこじんまりしたライブで、小生の目の前数メートルで歌う加川の汗が飛び散ってくるほどで、お酒少し入った観客と、その雰囲気に乗った加川の学熱のライブとなったことがあった。

しかし前回の北方では、300人のホールだったから、ライブハウスとは雰囲気が異なり、加川もそのことがいいのか悪いのか、ジックリと歌い聞かせるというものだった。

100人という数の観客は、恐らくはそんなに経験の無いものだろうから、どのような雰囲気になるのだろうと興味もあった。

曳山会館は、小生が長浜に行ったときに、必ずトイレを借りるところにしているところでもある。
ここのトイレはとても清潔で、殆どの人は、ここにトイレがあることを知らないから、何時行っても、利用者はまばらだ。

遅いお昼を食べてから、曳山会館で用足し後、中にあるカフェでコーヒーを飲もうとして、フと見ると、隣にある本日のコンサート会場の扉が開いていて、中から明かりが見え、どうやらPA機材のセッティングの最中のようだった。

せめて会場だけでも写真を取っておきたいし、どのような内部か知りたくて、作業中の人に断って、扉口から中の写真を撮った。

どうもこのホールは、主に伝統芸能などの開催を目的としているようで、床が全面板張りでPA装置を使わないで音が通る世プに設計されているように思えた。
そのため、観客はすべて土足現金だから、入場前に、スリッパに履き替える必用がある。

靴箱はというと、入り口横の隅の狭い場所にあるから、100人がいっせいに入場すると、かなり混乱するのでは、と思い、少々心配に思われた。
(実際、スリッパに履き替え、靴箱にしまうときに、靴箱のある狭い通路に入るものと出るものが入り乱れ、・・・よい席を取ろうとみな必死だから、余計混乱するのだった)

小生が主催者側であれば、履物を入れるビニール袋を用意し、その中に入れて会場にもって入るようにするのだが・・・あまり慣れてない主催者のようだった。

16時30分開場17時開始が今日のコンサート、ユックリお茶でも飲んで、16時になったら受け付け前に行こうと決めていたのだが、曳山会館併設のカフェに、なんだか怪しげな中年の集団が居ることに気がついた。
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by noanoa1970 | 2008-03-23 10:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

感動的Sinéad O'Connor のWAR

Sinéad O'Connor ディランコンサートで、ボブマーリーのWARを歌う

以前書いたボブディラン30周年記念コンサートで、シニードオーコンナーが塔誦するとき、観客からの野次とブーイングが起こった話と、彼女の反ローマカトリックの理由に触れたが、本日youtubeに、そのときの映像があるのを発見した。
これは是非見ていただきたい、コンサート史上稀なシーンである。

観客の前に、呆然と立ち尽くす、オーコンナーに、クリスクリスファーソンが「気にするな」と声をかける。

しばらくしてオーコンナーは、ボブマーリーの「WAR」を歌いだすが、この歌はその前のコンサートで、ローマ法王ヨハネパウロ2世の写真を破り捨てたときにうたった曲だ。

それが原因で、観客はブーイングを彼女に浴びせたが、本来うたうべきディランの歌をやめ、あの「WAR」をそれにもめげずに歌うとは、勝気な彼女の意志の強さが見える。
しかしこの後客席に下がるとき、彼女は耐え切れずに泣き崩れ、クリスファーソンに支えられて退場するのであった。

よく聞いてみるとと、観客からは野次と怒号、ブーイングばかりではなく、賞賛の声も有るように聞こえるのが救いだ。

涙腺が緩むほど、とても感動的なシーンだ。
よくもUPしてくれたものである。

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by noanoa1970 | 2008-03-20 19:40 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)

Ghost Light or Ghost Write

GYAOでデミ・ムーアの「ゴーストライト」を見た。
以前・・・ライチャスブラザーズのアンチェインドメロディがリバイバルヒットしたきっケを作った「ゴースト」という映画にも彼女は出演していた。

だから、邦題「ゴーストライト」はなんとなく納得するものはある。

しかも物語に、女性作家が登場するし、子供の幽霊も登場するから「ゴーストライト」と「ゴースト・ライター」を掛けているようにも取れるが、原題は「HALF LIGHT」である。

LIGHTであるのを、WRITEとしてしまうところに大いなるヒッカカリを覚えるが、原題を知らずに居れば、「GhostWrite」「幽霊の記述」としてしまうことになる。

やはり「原題」は重要であると小生は常に思うのだが、それはさておき、この三流サスペンス映画を最後まで見てしまった理由は、映画のストーリーにあるわけではない。

詳しいあらすじは、DVD販売サイトにも出ているから、興味をもたれた方は、そちらを参照していただきたい。

しかし若干ストーリーに触れないと、話が通じないので極簡単に。

イギリス本土に住む女流作家レイチェル(デミ・ムーア)は、幼い息子と夫の3人で、川のほとりの静かな家で暮らしていた。

ある日のこと、子供と遊ぶ約束をした彼女だったが、仕事がはかどらなくイライラしていたので、つい子供との約束を破る。

つまらなくなった子供は、普段は安全のため、閉めてあるはずのドアから、川の桟橋に行って遊んでいると、手に持っていた玩具を水に落とし、拾おうと誤って川に落ち水死してしまう。

レイチェルは、それが理由でPSTDとなり、夫との間も悪くなって行き、文章も書けなくなった。

親切を装った編集者で友人、そして夫の愛人が、レイチェルをスコットランドかアイルランドの辺鄙な田舎に別荘を用意し、しばらく静養するように勧める。

それはレイチェルを無きものにしようとする計画の一環で、夫とその愛人が共謀してたくらんだものだった。

別荘で次々と起こる怪奇現象、離れ小島の灯台守が実は、依頼された幽霊役だったり、で恐怖におののく主人公だったが、死んだ子供の霊によって九死に一生を得て、助かるという話。

たわいもないTV2時間サスペンスドラマと変わらないものであるが、小生が注目したのはこの物語の背景にある「ケルトの昔話」だった。

というより、原作者は、恐らくケルトのオールドバラッドからヒントを獲たに違いないと思うようなエピソードをたくみに挿入しているように思われたのだ。

灯台守の殺人事件は、多分スコットランドか、アイルランドの伝承物語であろう。

妻の浮気を知った夫が妻とその愛人もろとも斧で切り殺し、自分は灯台から海に身を投げて死んでしまう。
このような愛憎事件は、ブロードサイドたちのネタとなり、たちまちヨーロッパ本土にも伝わったという、オールドバラッドによくある話の一つ。

二人で貝殻を地面に埋めておき、(映画では真珠貝)何年か後、どちらか片方でも、それを掘り起こし発見することが出来たら、二人の愛は成就する。

類似したものは、ケルトの伝説にも数多い。

話中に神父が登場し、教会で祈るように言うが、教会の屋根の十字架が曲がったままになっているのに、不吉な予感がした主人公が、十字架を直したら・・・と教会に行くのを拒否するシーンがあるが、このあたりは辺鄙なケルトの地にやって来た、イギリス人の・・・つまり彼らからは異邦人とされるであろう存在を思わせるもの。

曲がった十字架は、キリスト教徒を拒否するかのようだ。

いまだに英国国教会、イギリスに対し、この田舎のケルトの末裔の民は、よい感情を持ってないことを象徴するかのようで、面白い発見であった。

ケルトの民の宗教、ドルイドの巫女を髣髴させる、霊能力を持つ女性も登場し、彼女によっても救われるところなどは、ケルトの民をレスペクトする原作者の気持ちが出ているようだ。

多分殆どの人は気がつかないと思うが、村人の古老の誕生日パーティで演奏されるのは「スター オブ ザ カウンティダウン」・・・アイルランドのトラッドフォークである。

殆どの記述が、舞台をスコットランドの島などとしているが、小生はこの音楽から、アイルランドの・・・アラン島を想起し、海に身を投げて死んだ灯台守はアランセーターを着ていたおかげで、あの灯台守であると判別されたのだろうなどと、推理をめぐらせた。

アランセーターに代表されるフィッシャーマンセーターの網目模様は、代々受け継がれたその家独特の模様だ。
海の猟師が遭難して死体が浮かんだとき、ソノセーターで、それが誰であるかを判別できる・・・そういう悲しい模様でもあった。

孤島にも等しいアイルランド島、スコットランド北部の海岸地方は、漁業で成り立つところでもあり、険しい海だから幾人もの猟師が命を落としたのだろう。

The star of the country downといえば、小生はヴァンモリソンとチーフタンズの者がお気に入りだがどうやらyoutubeにはUPされてないようだ。

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by noanoa1970 | 2008-03-20 12:43 | 動画・ムーヴィー・映画 | Comments(0)

四つの最後の歌

昨夜のN響アワーは、ソリストを共にする昨年の定期公演から、視聴者が選ぶベスト特集だった。

なかで印象的だったのが、アンナ・トモア=シントウのリヒャルトストラウスの名作「四つの最後の歌」から「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen と「夕映えの中で」 Im Abendrot を歌ったもの。

さすがにお年を召したのか、ところどころ地声が出てはいたが、往年の声はいささかも衰えてはいなかった。

NHKを信用しての話だが、この歌曲がベスト5以内に入るとは、この歌曲集が好きな方は矢張り大勢おられるのだろうと、わが国のクラシック音楽事情も、だいぶ変わってきたことに驚いたが、これは喜ばしいことでも有った。

N響のバックも、「眠りにつくとき」でのバイオリンソロがビブラートを掛けすぎなのを除けば、曲想が持つバックのスタイルをよく表現していたと思う。

ソプラノの声も、ややお年を召されたシントウの、落ち着きのあるトーンが大変良くマッチングしていて、相乗効果が出ていたように見受けられ、真剣に聞き入ってしまった。

アンナ・トモア=シントウは、カラヤンお気に入りの歌手の一人だが、カアラヤンお気に入りの美人ソプラノ歌手に「グンドラ・ヤノヴィッツ」がいて、小生は彼女のこの作品を最も好んでいる。

晩年、黄昏、諦観などという言葉の表現には、ヤノヴィッツは若すぎるし、声も色気と艶が有りすぎるし、広域の音にも、何の屈託の無い表現を見せる彼女の歌い方と声を評価しない人もいるとは思うが、「死と変容」「メタモルフォーゼン」に続いて収録されたれた音盤を聞くと、カラヤンの凄さの一面が良く表出されているように感じられる。

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60年代、ベルリンフィルと演奏したモーツァルトのレクイエムの、そしてベートーヴェンの第9でも特徴的なのだが、どうもカラヤンは、人間の「声」を、楽器の一種として扱うようなところを、多分に見せるのはないかと、常々感じるところが多かったのだ。

合唱にその特徴はより多く見受けられ、例えば、両曲のフェルマータを、息が切れるかと思うようなところまで極端に引っ張るところがある。

独唱者では、その傾向は薄まるものの、ヤノヴィッツのシュトラウスは、詩と音楽が持っていると一般的に思われている人生の終焉、死を前にした諦観、今までの人生の喜びと感謝などの感情移入を極端に抑えた・・・・昔から言い古された芸術上の言葉を敢えて使うなら、「ザッハリッヒ」な演奏であり、ヤノヴィッツの歌い方は、彼女の本質とも思える、よい意味での女性らしさを、極端に抑えようとして歌ったものであるように思う。

でもしかし、そんな努力の後も見受けられるのだが、矢張り彼女の本性は到底隠せない。

随所に、隠そうとしても隠し切れない溌剌とした美声が出てくる。

四つの歌それぞれに微妙に変化する歌唱法は、その努力の跡が良く現れていて、カラヤンの伴奏と大きな矛盾をはらむのだが、しかしそれこそがリヒャルト・シュトラウスの晩年に至るまでの・・・人生そのものを、そしてヘッセ、アイヒェンドルフの詩にもこめられた「後期ロマン派の矛盾」そのものであるように思うことが多くなってきたこのごろである。

そういった意味でも、小生はこのカラヤンとヤノヴィッツの「四つの最後の歌」をお気に入りとしている。

黄昏に空高く舞い上がって鳴いているヒバリは、何を見たのだろうか

追伸
今気がついたこと
「四つの最後の歌」から、ブルックナー7番、偲ワーグナーのメロディとドヴォルザークの2楽章の一部が聞こえてきた。

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by noanoa1970 | 2008-03-17 11:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)